50 提督王子
ルルト側の対応は、きわめて友好的であった。
エイラとサーイェナの読み通り、ルルト国王は人間界縮退問題に関し、委員会および対策群に対し全面的協力を確約してくれた。ワイコウへの働きかけも、前向きに検討することを約束してくれる。タナシスへ親書を送る件については、オープァ王国の意向を確認次第、王室出入りの信頼できるルルト商人に託して、タナシスの属国であるラドーム王国外交当局に責任を持って届ける、という言質を得た。
経済面でも、平原の商人が高原や平原の産物をルルト国内へ持ち込むこと、およびルルトの産物を買い付けることが許可された。だだし、ルルト国内での小売と、ルルト商人を介さずに直接ワイコウを除く他の海岸国家と貿易することは原則禁止とされた。前者は明らかにルルト商人の縄張りを荒らすことになるし、後者を許せばルルトに金が落ちない。平原側としても、ノノア川河口にある都市ルルトを経由しなければ、オープァや東部海岸諸国……ラクトアス、チュイ、ニガタキの三カ国……と通商するのは事実上不可能だったから、納得できる譲歩と言えた。
いずれにせよ、平原の商人の資本力はルルト商人のそれには遠く及ばないから、自由競争となればいずれルルト商人に平原の市場を喰い荒らされてしまうのは目に見えている。平原側はこの取り決めによって、ノノア川を利用した平原-ルルト間の物流を握ることができたし、ルルト資本が平原地帯に無軌道に流入し、各国の商業界を圧迫することを防ぐこともできる。一方のルルト商業界も、なんら新規投資を行わずに平原や高原の産物を安価に買いつけ、そしてそれを他の海岸諸国へ転売するというおいしい商売にありつけるし、平原と高原という新たな市場へ独占的に商品を供給できるルートを開拓したことになる。ルルト王国としても、自国の商人が潤えばそれだけ税収も増える。両者にとって、旨みの多い協定と言えた。
「ねえ、エイラ。どうしてルルトはもっと前から平原と交易しようとしなかったの?」
経済協力協定が締結された晩に、食事を摂りながら夏希はそう質問してみた。こんなにもおいしい商売を放置していたからには、何らかの理由があるはずだ。
「縄張りがあるのです」
箸を手にしたまま、エイラが肩をすくめる。
「縄張り?」
「海岸諸国は、過度の経済競争でお互いが疲弊しないように、それぞれ縄張りを定めているそうです。オープァは西群島、東部三カ国は東群島を縄張りとして、独占的な商売の権利を有しています。ワイコウは、同地以南が縄張りですね」
「ルルトは?」
「交易の中継を独占しているそうです。例えば、西群島の染料をラクトアス商人が買おうとすると、オープァ商人が西群島で買い付け、オープァまで運んだものをルルト商人が買い取る。それがルルト商人の手によってラクトアスまで運ばれ、そこでラクトアス商人が買い取る、という段取りになるのでしょう」
「なるほど」
「ワイコウは、平原と大規模な交易をする意図はなかったようです。特産物の多くが平原産のものと重複しますからね。平原側も、海岸諸国と大規模な交易を行う態勢になかったのです」
「そうすると、今回の協定で平原とルルトは、ワイコウの頭ごなしに交易するわけね。色々と、まずいんじゃないの?」
夏希はそう訊いた。
「まずいですね。だからこそ、ルルトは自国の商人を平原へ送って商売させるのではなく、平原の商人がルルトへ産物を持ち込む形にしたのでしょうね。平原の商人が勝手にやって来て、ルルト商人と商品を売買している、という状況ならば、ルルトはワイコウの縄張りを荒らしていないと強弁できますから」
いわくありげに、エイラが微笑む。
「うーん。さすがに商業国家ね。そこまで考えてるんだ。じゃ、そうすると交易が始まったら、平原はワイコウに恨まれるわね」
「そうなりますね。まあ、人間界縮退対策に快く協力してくれなかった報いですわ」
そう楽しそうに言ったエイラが、箸でつまんだから揚げの小海老を口に放り込んだ。
ルルトでの滞在は五日に及んだが、その間夏希は暇を持て余していた。委員会が目指していた目的は、一日目の協議であっさりと達成してしまったので、あとは夜の外交レセプションに出席するくらいしか公的な行事の予定がなかったからだ。幸い、ワイコウと違ってルルトはきわめて開放的だったので、夏希は連日エイラとサーイェナ、それに二匹の魔物と連れ立って、ルルト市街の見物に出かけた。気候的には今の海岸地帯は春で、海沿いゆえやや湿気は多かったものの気温は日中でも二十五度前後であり、平原の気候に慣れた夏希にははなはだ快適なものに感じられた。
対照的に忙しかったのが、凛であった。ルルト商人に対する持参した商品見本の配布とプレゼンテーション。市場調査。商業関係の法律のチェックと、役人との折衝。河港や海港、街道に関するデータの収集。船主組合や小売業界への根回し。持ち帰る商品見本の買い付け。などなど。
「はあ。いささか疲れたわ」
五日目の晩餐会の席で、凛が愚痴った。
「オープァに行けば、休めるよ。頑張って。ほら、このお魚、おいしいよ」
夏希は励ましつつ、酢締めしてある魚の切り身を取り分けてやった。
「ちょっと臭みがあるわね」
箸に挟んだ切り身を鼻に近づけて、凛が眉をひそめる。
「ちょっと魚醤をつけると臭みが気にならないよ。締め鯖みたいで、おいしいよ」
海岸沿いだけあって、料理には魚介類がふんだんに使われていた。さすがに刺身はなかったが、各種の焼き魚の切り身、丸ごと揚げた魚に、蒸した野菜の細切りを添えたもの、魚醤で煮付けた魚、殻のまま焼いた貝類、野菜と揚げた小魚の炒め物、膾にした海老、蒸した蟹、蛤に似た貝のスープなどが並んでいる。魚好きの夏希は、ここ数日の食事を大いに楽しんでいた。
「臭い消しに、昆布締めとかすればいいのに……そういえば、海草食べてないわね」
切り身を飲み下した凛が、不思議そうに言った。
「そう言えば、そうね」
夏希も首を傾げた。ルルトへ来てから、海草の類は……昆布も若布も海苔も一切目にしていない。
「海草を食べる習慣がないのか。これは、商売のタネになりそうね」
「この気候じゃ、昆布は取れないと思うけど」
夏希はそう指摘した。凛が、頭を掻く。
「そうだったわね。あれは寒い海でないと育たないんだっけ。……ところで、忙しくてチェックしている暇がなかったんだけど、次のオープァまでどうやって行くの? また船?」
「船だけど、川船じゃないよ。ここまで乗ってきた川船じゃ、沿岸とは言え海には出られないから。オープァが、海軍の船を迎えに寄越してくれたの」
「海軍? ってことは、軍艦?」
「うん。オープァの国家規模はルルトより一回り小さいけど、海軍は海岸諸国随一の規模なんだって。もともと、海賊対策で整備されたものらしいけど」
「海賊?」
凛が、首を傾げる。
「えーと、根本的に説明した方がよさそうね。海岸地帯の地勢は、ノノア川河口を中心にしてほぼ左右対称なの。河口の西側にあるのが、ルルトの首都ね。その西方にあるのが、ルルトの盟邦であるオープァ王国。ルルトの東側にあるのが、ラクトアス、チュイ、ニガタキのいわゆる東部三カ国。で、その更に東にあるのが、東群島。ここには統一国家がなく、島ごとに小国や貴族領がいくつもある。その東群島の対称位置にあるのが、西群島。島の数は東群島よりも少ないけど、状況は同じで小国ばっかり。どちらの群島も、オープァや東部三カ国にとっておいしい市場だったけど、海賊が出るのが悩みのタネだった。そこで、オープァと東部三カ国は強力な海軍を建設して、海賊の制圧を行ったわけ。二百年くらい前の話だそうよ。いまでも食い詰めた漁民なんかが海賊行為に走ることもあるし、オープァや東部三カ国がいわば地域大国として群島の小国同士の争いに介入したりすることがあるから、海軍は維持されているの」
夏希は、暇つぶしにルルト人とおしゃべりして仕入れた知識を披露した。
「じゃあ、前に言ってた関東地方に例えると、オープァはどのあたり?」
「銚子あたりかな。西群島が、犬吠埼のずーっと沖合いね。東部三カ国は……ちょっと方角がずれるけど、小田原から熱海のあいだ、ってとこかな。でもって、東部群島が駿河湾あたり」
以前に見せてもらった地図を思い起こしながら、夏希はこの地の地名を頭の中の日本地図に当てはめていった。
「何となく、理解したわ」
凛が深くうなずく。
翌朝早く、合同外交団は宿舎を引き払い、ルルトの海港に向かった。見送りは結構派手で、国王の姿こそなかったが、三人ほど王族の姿が見られた。外交団長のススロン外務大臣が、ありきたりなスピーチを行い、盛大な拍手を受ける。
「とりあえず、ルルト訪問は大成功だったわね」
凛が拍手しながら、隣に立つ夏希の耳元に口を寄せて、言う。
「主目的を忘れないでね。お金儲けも大事だけど、人間界縮退問題を何とかしなくちゃならないんだから」
このところすっかり『商人モード』に入っている凛に、夏希はそう釘を刺した。
「わかってますって。でも、先立つものは必要でしょ」
「まあね」
凛の言葉に、夏希はしぶしぶ同意した。
合同外交団は、見物に訪れた多くのルルト市民の見送りを受けながら、桟橋へと向かった。ルルトの海港は、差し渡し一キロはあろうかという半円状の湾の奥にあった。陸上には多数の倉庫が建ち並んでおり、市街地へと通じる街道の両側にも、商家や民家がびっしりと建っている。
海港に設けられている木製の桟橋は、数は多いがいずれも小さなもので、大型の船舶が横付けできる規模ではなく、夏希らがハンジャーカイから乗ってきた川船と大して変わらぬ小船が舫われているだけだった。浚渫の技術などないだろうし、海水の色合いからして湾の水深も浅いように見えたから、いずれにしても大型船舶は湾内に進入できないに違いない。
海港の沖には、全長二キロ半ほどはあろうかという大きな島が横たわっており、それが天然の防波堤を形作っていた。その手前は錨地のようで、数隻の大型船が停泊している。合同外交団が分乗した十隻ほどの小船は、その中でもひときわ大きな二隻の帆船を目指して進んでいった。夏希は日光を照り返す波に目を細めながら、帆船のサイズを目測した。二隻とも、全長は二十五メートルばかりあるだろうか。前方に傾いた二本のマストに、畳んだ白い帆がついている。船首には、低い船首楼があり、船尾の方にはそれよりも高い船尾楼がある。
「おそらく、ラティーン・セイルね。大型のダウ船、ってとこかな」
夏希の隣で同じように船を眺めながら、凛が言う。
「……専門用語の解説をお願い」
「ラティーン・セイルは大型の三角帆で、縦帆の一種。ダウってのは、南アジア、西アジア、東アフリカあたりで今でも使われている帆船の型式。ラティーン・セイルを一枚ないし二枚備えるのが特徴よ。次の質問を先読みして答えると、縦帆ってのは、船の長径に沿って張る帆のこと。長径にクロスするように張るのが、横帆ね。横帆は逆風だとまともに帆走できないけど、縦帆だと斜め前方からの風でも帆走できるから便利なの」
「へえ。さすが歴史通ね」
「……帆船マンガ読んで得た知識だけどね」
凛が、ぺろっと舌を出す。
合同外交団は、二隻の帆船に分かれて乗り込むことになっていた。手前の船には、各国代表やサーイェナ、エイラとその補佐など、比較的高位の人物が乗り込む。二隻ともそっくりに見えるが、こちらの船の方が、格上らしい。夏希と凛も、エイラらと同じ船を宛がわれた。……異世界人なので、一応VIP扱いらしい。
厚い板切れに、ふたつ割にした棒材を釘で打ちつけただけの、粗末な昇降板を登って、夏希は帆船へと乗り込んだ。船の様子は、夏希が想像していたものとはかなり異なっていた。いわゆる主甲板が、一部にしか敷かれていなかったのだ。前のマストと後ろのマストのあいだの部分は、ぱっくりと口を開けたようになっており、覗き込むと低い位置に下層甲板が張られているのが見えた。
「ようこそ皆様。乗船を歓迎いたします。わたくし、本船の船長、マローアと申します」
この船に割り当てられた合同外交団の全員が乗り込んだところで、壮年の男性が進み出て歓迎の辞を述べた。
「では、今回の戦隊司令を兼任されるわがオープァ海軍司令官をご紹介します。ランクトゥアン王子殿下です」
恭しい口調で船長が言う。すぐに、浅黒い肌の青年が船尾楼から現れた。
「ランクトゥアンです。国王陛下より皆様をオープァまでお連れするようにとの命を受けて参りました。狭くむさ苦しい船ですが、どうぞおくつろぎ下さい」
他の水夫と同じような装束……白茶けた麻のハーフパンツと、胸元が大きく開いているシャツという姿……のランクトゥアン王子が言って、一同を船尾楼へと導く。
「すっごい美形じゃないの」
勧められるままに用意されていた腰掛け……真新しく見えるので、船の備品ではなく、今回のために特に用意されたものらしい……に座った途端に、凛が夏希の耳元でそうささやいた。
「同意するわ」
夏希はうなずいた。ランクトゥアンの背は低い……せいぜい百六十センチ前後だろう……が、丸顔で目が大きく、ちょっと女性的に見えるほど顔立ちは整っている。
「おまけに王子様だなんて。ファンタジー小説なら、絶対に恋愛フラグが立つところね」
凛が、続けた。
「勝手に立ててなさい」
夏希は苦笑した。欧米系の美形には、相変わらず興味が沸かないのだ。
「それでは、出航します。風の具合によりますが、日没までにはオープァに入港できる予定です。今日は天候に恵まれていますし、波も穏やかなので、航海を楽しんでいただけると思います。わたしは出航の指揮を執らねばならぬので、これで失礼します。なにか御用がお有りの場合は、控えている水夫にお申し付けください」
ランクトゥアン王子がにこやかに言って、船首楼を出て行った。
麻製の三角帆が風を孕み、青い海原を二隻の船が駆ける。
ランクトゥアン王子の勧めで、合同外交団一同は交代で船内を見学した。夏希は凛、エイラ、それにコーカラットとともに、士官のひとりの案内であちこちを巡り歩いた。帆船に乗るのは初めてのことである。見るものすべてが興味深かった。
凛が、細かい事柄を士官に尋ねる。乗員は、全部で四十名。本来ならば、これに戦闘要員が長期航海ならば三十名ほど、短期航海ならば五十名ほど加わるという。普段は、西群島海域の哨戒と、オープァへ至る航路での警戒任務を行っているらしい。
「この辺で、海賊が出たりしない?」
潮風になぶられている黒髪を手で押さえながら、夏希はそう尋ねた。仮に海賊船が出てきても、コーカラットとユニヘックヒューマの手に掛かれば……いや、触手とステッキに掛かれば数十秒で撃沈できるだろうから、どうでもいいと言えばどうでもいいのだが。
「ご心配にはおよびません。この海域で海賊が出たという最後の報告は、百数十年前のことですから」
生真面目そうな若い士官が、笑みを浮かべて答える。
「海岸諸国最強のオープァ海軍のお膝元で、海賊が活動できるはずないですわ」
エイラが、世辞めいたことを言う。士官の笑みが、深まった。
「これ、なに?」
夏希は、後部の舷側についている横棒を指差した。一端が太い縦棒につながっており、その縦棒は舷側の外側で下に伸びているようだ。
「舵であります」
士官が、堅苦しい口調で答える。
「え、舵って普通船尾にあるんじゃないの?」
「昔の船だと、舵が舷側に設けてあるのは珍しくないわ。古くは、大型の櫂が舵代わりだったんだから、その名残でしょうね。この船には、両舷に舵があるみたいだけど、小さい船だと右側に一本だけってのが普通」
凛が、解説してくれる。
「どうして右側なの?」
「右利きだと、その方が操り易いからよ。竹箒かなにかを握って動かしたところを、想像してみればわかるわ」
「なるほど」
「ちなみに、この舵を破損しないように、船は桟橋や港に対して常に左舷側を向けるようにしたの。その習慣が、今でも続いているのよ。現代船舶でも、接岸の基本は左舷接岸。あくまで基本だけで、右舷接岸することも多いけどね。飛行機でも、必ず機体の左側から乗るでしょ? 機首が左手にあったはずよ」
「……そういえば、そうだった」
夏希は以前に航空機に搭乗した時のことを思い起こした。機内に入ると、常に左向きに座席が並んでいた。つまりは、進行方向が左側であり、機首方向であるから、機体の左側の扉から乗り込んだことになる。
「飛行機の運用や用語なんかは、船舶のそれを踏襲しているからね。習慣も同様。航空会社だと旅客機のことをシップ、なんて呼んだりもしてるし。ま、雑学披露はこのくらいにしておきましょう」
会話内容についてゆけずにきょとんとしている士官に微笑みかけながら、凛が言った。
第五十話をお届けします。