5 水浴び
「夜に水浴びをご所望とは、酔狂なお方ですぅ~」
コーカラットが案内してくれたのは、庭の一隅にある小さな小屋だった。ちなみに、彼女の触手の一本の先に光る球体がくっついているので、足元は明るい。
「ど~ぞぉ~」
小屋のすだれのような目隠しを触手で巻き上げたコーカラットが、ふわふわと中に入ってゆく。夏希もあとに続いた。
湿気を篭らせないためだろうか、なんとも開放的な小屋だった。太い四本の柱に支えられた屋根。壁は一面にしかなく、軒から下がるすだれが三方に掛かっている。床は玉石が敷き詰めてあり、隅には排水用だろう、切石を組み合わせた溝が設けられている。中央には、直径一メートルはありそうな巨大な桶。
柱の一本からは、細めの金属パイプが二本延びていた。どちらの先端にも、木栓が刺さっている。木栓には紐がついており、パイプに結び付けてあった。
「こちらが温かいお水ですぅ~」
コーカラットが、触手で右側の木栓を抜いた。パイプの先端から、水がほとばしる。おおよそ、薬缶から注ぐときくらいの勢いと水量か。
「邸内を巡って温くなったお水が出ますですぅ~。もうひとつの方は冷たいままのお水が出ますですぅ~」
流れ出す水が、徐々に桶に溜まってゆく。夏希は侍女が準備してくれた着替えやタオルの類を、壁に作り付けになっている棚の上に置いた。生成りのワンピースは手触りからして薄手の麻で、タオルも同じく麻だった。
「……ってこれ、タオルとは呼べないよね」
夏希は大判の布を広げてみた。単なる平織りの麻で、ループにもなっていないし起毛もしていない。大きな手拭い、と呼ぶ方がふさわしいだろう。
十センチほど水が溜まった桶に指を浸してみる。……温水プールくらいの温かさだ。
「ねえ、コーちゃん。石鹸とか、ないの?」
「石鹸とは、なんでしょうかぁ~」
コーカラットが、戸惑ったかのようにふらふらとそのボディを揺らす。
夏希は小さくため息をついた。石鹸すら無いとは。まあ、手拭いでごしごしと擦れば、それなりに身体はきれいになるだろうが。
充分に桶に水が溜まったところで、夏希は服を脱ぎだした。水色のドレスシャツのボタンを全部外し終えたところで、コーカラットの存在に気付く。
「あの~、コーちゃん。今から水浴びするから、外、出ててくれない?」
「エイラ様からお手伝いするように言われてますですぅ~」
小さな手拭いを触手に巻きつけ、背中を流す気満々で、コーカラットが言う。
「いや、あの、恥ずかしいから」
「わたくしは魔物ですぅ~。恥ずかしくないですぅ~」
「わたしが恥ずかしいの。裸を見られたくないのよ」
淡いピンク色のブラを左手で隠すようにしながら、夏希は力説した。
「魔物と人間は違う生き物ですぅ~。それでも、恥ずかしいのですかぁ~?」
そう問い返され、夏希はふと首をかしげた。たしかに、人間以外の生き物に裸を見られても、別段恥ずかしくはない。夏希自身、愛猫の『ミオ』の前で全裸になって着替えることなど、珍しくもない。犬や馬やペンギンの前でだって、恥ずかしくはないだろう。
裸を見られて恥ずかしいと恥ずかしくないの線引きはどこなのだろうか。
そういえば、この世に……むろん夏希のいた世界だが……奴隷制度があったころは、主人が奴隷に裸を見せることは羞恥心を覚える行為ではなかったと聞いたことがある。要するに、奴隷を人間扱いせず、動物と同格としかみていなかったのである。
夏希は相変わらずふわふわと浮いているコーカラットをまじまじと見た。肉まんボディに青紫の髪。垂れ下がっている半透明の触手。まん丸の、大きな黒い眼。
彼女の人格を、自分と同程度に見ているから、恥ずかしいと感じるのだろう。
……彼女?
そういえば、その声質や口調から勝手にコーカラットのことを女性扱いしていたが、実際はどうなのだろうか? 顔の造作も異形ながら慣れれば可愛いと言えないこともないし、全体の雰囲気はまさしく女性なのだが。
「ねえ、コーちゃん。あなた、女性? それとも、男性?」
「魔物に性別はありませんですぅ~」
何の意味があるのか、コーカラットが触手の一本をひらひらと振りながら答える。
「より正確に言うならば、魔物には人間の男性に相当する存在がいないのですぅ~。そういう意味では、わたくしは女性なのかもしれませんですぅ~」
とりあえずコーカラットを小屋の外に追い出すことに成功した夏希は……光る球体は置いていってもらった……、手早く水を浴びた。小さめの手拭いに水を含ませ、身体を擦る。高い気温とかなりの運動量でそれなりに汗をかいたから、念入りに各所を拭う。髪はぬるま湯のパイプの水を直接浴びながら、指で丹念に頭皮を擦るようにして洗い上げた。最後に冷たい水を全身に浴び、ようやく満足する。
大きな麻の手拭いで身体を拭き上げ、着替えを手にする。侍女が用意してくれた下着は、薄手のショートパンツのようなもの一枚だけであった。腰の部分に麻で織った細紐が通してあり、縛って締めることができるようだ。生成りのワンピースを頭から被ると、着替えはあっさりと完了した。思ったよりも着心地は悪くなく、戸外でも暑苦しくない。
脱いだものや使ったタオルなどを抱え、光る球体を指にくっつけて……これは一回で成功した……外に出る。
「終わりましたかぁ~。では、失礼しますぅ~」
待っていたコーカラットがふわふわと小屋に近づき、すだれを三枚とも巻き上げた。次いで、桶の栓を抜く。夏希が使った水が、排水溝に流れ込んでゆく。
「汚れ物はお預かりしますですぅ~」
夏希は抱えていた物を、コーカラットの触手に委ねた。
「で、ついでに訊くけど、歯磨きとかできるかしら?」
「できますよぉ~」
コーカラットの答えに、夏希は少しばかり驚いた。石鹸がないくらいだから、歯磨きもないのだと諦めかけていたのだ。もっとも、練り歯磨きなどないだろうし、歯ブラシのような気の利いたものも存在しないと思うが。
「待っていて下さい~っ」
台所へ夏希を案内したコーカラットが消え、すぐに戻ってきた。
「ど~ぞぉ~」
触手につかんだ品を、手渡してくれる。
小さな壷と木の棒だった。夏希は壷の蓋を取ってみた。……なにやらこげ茶色の粉末が入っている。よく見ると、白っぽい小さな粒も混じっているようだ。木の棒は、先端を石か何かで潰し、内部の繊維質をむき出しにした物のようだ。いわゆる房楊枝というやつだろう。
「この粉をつけて、歯を擦るのですぅ~」
コーカラットが、身振りを交えて使い方を説明してくれる。
夏希は房楊枝を壷に突っ込み、粉をまぶしてから口に入れてみた。途端に、口中に清涼感が広がった。ミント味を、さらに辛くしたような感じだ。同時に、舌にきつい塩気を覚える。白い粒は、どうやら塩の結晶だったらしい。粉末は、何らかの植物を乾燥させて砕いたものであろう。
夏希は房楊枝で歯を擦った。女子高生らしく、口内衛生には常日頃から気を使っている。素朴な道具立てながら、歯磨きができるのは嬉しかった。
「くっさー」
鼻の頭に皺を寄せつつ、夏希は寝台に寝そべっていた。
侍女が焚いてくれた蚊遣りの煙が、異臭を放っているのだ。メントールに似た臭いだが、あれほど爽やかではなく、油臭さを含んだ不快な刺激臭に思える。部屋の空気も、若干油染みているように感じた。
冷水管を使った冷房が効いているので、窓……と言うよりも、開口部……は板で塞いであるから蚊やその他の害虫は入ってこれないが、昼間のうちに侵入した虫を排除するために蚊遣りは必要なのだそうだ。気候的にみても、蚊などが怪しい伝染病や風土病を媒介している可能性は高いだろう。ここは我慢するしかなかった。
「網戸もほしいわね……」
夏希はペンを取り上げると、インク壷に浸し、メモ用の紙に『アミド』と書き付けた。漢字を使わなかったのは、このペンでは細かい文字が書けないからだ。『網』という字をはっきりと書こうとすれば、必然的に字は大きくなってしまい、紙を無駄遣いすることになる。アンヌッカの説明によれば、紙はハンジャーカイという国からの輸入品であり、安価なものではないらしい。
紙が貴重であり、あまり流通していないということは、読み書きが普及していないことの証左でもある。アンヌッカに聞いたところでは、一般の市民のほとんどが、文盲だという。まともに読み書きできるのは、王宮の役人と防衛軍の士官、それに一部の商人くらいだそうだ。
「欲しい物がありすぎるわね」
夏希はメモを読み返しながら、ため息をついた。
上質な紙とペン。ボディソープ。シャンプー。洗顔フォーム。ティッシュペーパー。トイレットペーパー。リップグロス。洗口液。綿棒。セロハンテープ。汗止め。防臭スプレー。殺虫剤。蚊取り器または蚊取り線香。そして、網戸。
いずれもコンビニやドラッグストア、あるいは100円ショップで簡単に手に入る物ばかりである。
「はあ」
夏希はため息を……今日は何度目だろうか……ついた。今まで、自分がどれほど複雑な社会の一員だったかをいやというほど認識させられたのだ。どこにでもあるコンビニに陳列されている商品をすべて揃えるだけでも、おそらくは数十万人の人口を有する先進国レベルの工業都市が丸ごと一個必要だろう。一本五十円の安物ボールペンですら、高度な石油化学産業と金属産業の産物なのだ。
「ともかく……できることからコツコツやっていくしかないわね」
なおもメモに書き足しながら、夏希はつぶやいた。とりあえず、自分がなるべく快適な生活を送れるような事柄から始めよう。自分が好ましい環境を作り上げ、それをまわりの人々に広めれば、きっと喜んでもらえるに違いない。そうすれば、いずれジンベルの人々に感謝されるようになるだろう……たぶん。
がんがんがん。
「なに……」
けたたましい騒音に、夏希の眠りは破られた。
半ば本能的に、サイドテーブルの時計に眼をやる。だが、見慣れた緑色の夜光デジタル表示は目に入らない。
そうだ。異世界に来たんだっけ。
夏希の脳が、いっぺんに覚醒した。
がんがんという、ブリキのバケツをハンマーか何かで叩いているような騒音は、なおも続いている。どうやら、窓の外から聞こえているようだ。
「なんなのよ、もう~」
ぶつくさ言いながら、夏希は上掛け……がさがさという音からすると藁布団らしい……を跳ね除けて、身を起こした。光る球体を収めた箱の蓋は五分の一ほど開いているので、部屋の中は薄暗い程度だ。
とりあえず音の正体を探ろうと、夏希は寝台を降りた。扉を開き、廊下に顔を突き出す。
誰もいなかった。
しばし思案した夏希は、隅の箱から光る球体を取り出した。それで周囲を照らしながら、廊下を適当に歩む。一分ほどさまよったところで、同じように光る球体を指に付けた家令に出くわす。
「なんなの、あの音?」
「これは夏希様。どうぞお部屋にお戻り下さい。この屋敷は、安全です」
落ち着いた声音で、家令が告げる。
「戻れと言われれば戻るけど、あの音はなに?」
「ジンベル防衛隊の非常呼集です」
「防衛隊の非常呼集? なに、戦争でも始まったの?」
「そのようなことはないと思いますが……」
否定した家令の語尾が、先細って消える。彼にも状況がよくわかっていないのだろう。心配になった夏希はややうろたえたようにあたりを見回した。ジンベルへ来てからまだ丸一日……二十四時間はもちろん、ジンベル時間の一日ですら経っていないのだ。右も左もわからぬ状態で戦争などに巻き込まれたら、悲惨な目にあうことは確実である。
「起こしてしまったようですね、夏希殿」
廊下の陰から、エイラがひょっこりと顔を出した。おそらく夜着なのだろう、裾が太腿の半ばまでしかない薄手の白いワンピースを着ている。
「どうなってるの、エイラ?」
彼女の登場にちょっと安堵感を覚えながら、夏希はそう訊いた。
歩んできたエイラが、軽くうなずく。すぐさま、家令が一礼して歩み去った。
「案ずることはありません。あれは、ジンベル防衛隊の非常呼集の合図です。もうそろそろ、止むはずですわ」
エイラがそう言い終わったとほぼ同時に、がんがんという音がぴたりと止んだ。まるで、彼女の言葉を聞いていたかのようだ。
「ジンベル防衛隊って、ここの軍隊でしょ? 非常呼集って、なにがあったの? 敵が攻めてきたの?」
「攻められたのならば、違う合図があるはずですわ。非常呼集だから、予備的な行動でしょう。それほど気にすることはありません。防衛隊に任せましょう」
相変わらず無表情のまま、エイラが言う。
「こんなこと、よくあるの?」
夏希は眉根を寄せつつそう訊いた。身の危険があるのならば、契約解除……はやり過ぎにしても、危険手当くらい貰わねば割が合わない。
「いいえ。おそらく数年ぶりですわ」
そう言ったエイラが、夏希の腕をそっと取った。
「わたくしたちが案じても意味はありませんわ。あとは防衛隊に任せて、眠りましょう」
「……まあ、エイラがそう言うのなら」
釈然としないまま、夏希はそう応じた。
第五話をお届けします。おかげさまで初評価が入りました。評価してくださったお方、ありがとうございます。お礼は活動報告でさせていただきます。えー、話がなかなか前に進んでおりませんが、今はまだ状況説明と初期キャラ配置を行っているところですので、もうしばらく御辛抱下さい。