49 叔父と甥
「将軍、お食事の支度が整いました」
従卒のジェミが、窓辺で涼んでいたグリンゲ将軍を呼んだ。
「うむ。ご苦労」
うなずいたグリンゲは、のっそりと立ち上がった。眼光鋭い、痩身の人物である。年齢はすでに当地の暦で七十を超えている。成人男性の平均寿命が五十歳そこそこのこの世界では、かなりの高齢者だ。
将軍、というのはワイコウにおける官位のひとつである。ワイコウでは……他の海岸諸国も同様だが……経験を積んだ高位の軍人に将軍の位を授け、いったん軍の指揮系統から外し、ある種の廷臣として重用する、という慣習があった。むろん、戦時となれば彼らは王命により軍に復帰し、その知識と経験を活かして与えられた部隊の統合指揮を執ることになる。
部屋を出たグリンゲは、食堂へと向かった。狭い官舎だったが、すでに妻に先立たれ、二人の娘もとっくに嫁いだので、従卒とふたりで暮らすには充分なスペースがある。
食堂のテーブルの上には、簡素な夕食が並べられていた。わずかな塩で味付けしただけの野菜スープと、米の粥。湯で戻した干し魚……川魚ではなく、海の魚である……に、茹で野菜に少量の魚醤をかけたもの。飲み物は、水だけだった。経済的に困窮しているわけではない。軍人として節制した食生活を送ってきた結果、このような食事を好むようになったというだけのことだ。それが、この年齢でも健康を保ち、現役の宮仕えをしている要素のひとつであるのだが……もちろんそこまで医学や栄養学の素養のないグリンゲには、知る由もない。
食べ始めていくらもしないうちに、食堂にジェミが姿を見せた。
「閣下。お食事中申し訳ありません。お客様がお見えです」
「キュイランスか。通してやれ」
微笑みながら、グリンゲは命じた。食事時に訪問するような無作法な知り合いは、甥のキュイランスくらいしかいない。応諾して引っ込んだジェミが、すぐに中年男を連れて戻ってくる。
「たいへんですよ、叔父さん」
グリンゲの顔を見るなり、キュイランスがまくし立て始める。
「噂は本当でした。魔界が膨張し、人間界が縮んでいるのです」
「まあ座れ。ジェミ、お茶を淹れてやってくれ」
グリンゲは、キュイランスのために椅子を引いて待っている従卒にそう命じた。
「こうなれば、一刻も早くわが国も魔術の使用を抑制し、平原諸国と高原諸族に協力すべきです……」
「とにかく座れ。そばに立たれたままでは、落ち着いて飯も喰えぬ」
「それは、失礼しました」
ようやく、キュイランスが腰を落とした。
「で、使節団との会議はどうなりました?」
キュイランスが、急いた様子で訊く。
「陛下は人間界縮退について納得されたそうだ」
食事を続けながら、グリンゲは伝え聞いた会議の内容を甥に説明した。彼自身は会議に出席してはいないが、数名いる将軍のなかでも最古参なので、王宮内に友人は多く、自然と情報は耳に入ってくる。
「では、結局魔力の源はそのままなのですね。それでは、人間界縮退を止められませんよ」
聞き終えたキュイランスが、ジェミが淹れてくれたお茶のカップを手に、首を振る。
「わが国に被害が及ぶのは何百年も先の話だ。急ぐことはあるまい」
食事を終えたグリンゲは、目線で従卒に合図を送った。控えていたジェミが進み出て、空になった皿を片付ける。
「いや、叔父さん。高原地帯に被害が及ぶのは数十年後ですよ。そしてすでに高原の民と平原の民は手を結んでいる。このままわが国が何の対策も取らなかったら、両者の関係は決定的に悪化しますよ」
「それはそうだが、わが国としても様々な分野で魔術に頼っているからな。簡単には、使用の抑制はできぬよ。それに、平原諸国と関係が悪化しても、当面大きな問題にはならぬと思うが」
「高原の民の一氏族は、ジンベル王国に戦争を仕掛けたのですよ。魔力の源を確保するために。同じ事を、いまや手を組んだ高原と平原の民がやらないとは言い切れないでしょう」
半ば身を乗り出すようにしながら、キュイランスが主張する。
「そこまで愚かな連中ではないだろう」
グリンゲは、甥の意見を手を振って退けた。
ワイコウの人口は約八万。そのうち、王都であるワイコウに居住しているのは、約半数である。常備軍は約三千五百名。その歴史から、尚武の気風がある国なので、錬度は高い。
「手を組んでいるとは言え、平原は小国の集まりだ。それに、わが国はルルトおよびオープァと相互防衛条約を結んでいる。仮に平原と高原が手を組んで攻め寄せてきたとしても、この堅牢なる王都ワイコウは落とせないだろうし、わが国とルルト、オープァ三国の正規軍を合わせれば、一万を超える軍勢となる。これに喧嘩を仕掛けるような愚か者はいないよ」
「伝え聞くところによれば、ルルトもオープァも防衛条約を破棄したがっているようですが……」
やや遠慮がちに、キュイランスが指摘する。
「それは事実だな」
ぶすりとした声で、グリンゲは認めた。
「だが、一方的破棄はできない条項があるからな。わが国が破棄に同意することはないから、条約は安泰だよ」
「しかし、もし戦争になった場合、ルルトとオープァはわが国のために真面目に戦ってくれるのでしょうか?」
手にしたカップを振って、ジェミにお代わりを要求しながら、キュイランスが問うた。
「両国とも、条約を反故にするようなことはあるまい。少なくとも、陛下が国防上の危機が生じていると判断した時点で、ルルトとオープァに対し派兵を要請することができるし、平原の軍勢がわが領土に侵入すれば、自動的にルルトとオープァも参戦することになる。いったん戦端が開かれてしまえば、本国が危機に陥らない限り、派遣兵力は条約締結国に全面的に協力しなければならないという条項もある。安心しろ」
「いえ。戦争になったら、勝てないかも知れませんよ」
キュイランスが、生真面目な表情で言う。
「根拠は?」
「今日、使節団の一員と会ってきました。噂の異世界人の一人です」
「無茶をする。警護の兵に捕まったら、ただでは済まんぞ」
半ば呆れて、グリンゲは言った。
「わが国軍の兵を貶めるつもりはありませんが……出し抜くのは簡単でしたよ」
「まあよい。それで、誰に会ったのだ?」
「『竹竿の君』です。ナツキ、と呼ばれる女性ですよ。人間界縮退が事実であると直接聞きましたし、二匹の魔物にも確認しました。ほら、魔物は嘘をつかないでしょう?」
「そう聞くが……それで、どんな女性だったのだ、『竹竿の君』は?」
やや急いて、グリンゲは訊いた。軍人として、ジンベル対イファラ族の戦いは注視していたし、ワイコウ国軍もできうる限りの情報収集を行っていたから、ジンベル市民軍を率いて活躍した異世界の女性については、いくつか聞き及んでいる。
「まさに女傑、といった雰囲気でした」
少しばかり遠い目をしながら、キュイランスが語り出した。
「手入れの良い長い黒髪と、異国調ながら整った美しい顔立ち。立ち振る舞いにも、気品が感じられました。背は高く、立派な身体つき。二匹の魔物を従え、自信に満ち溢れた様は、ひと目でこの世界の住人ではないと知れました。……ただし、額に角は生えていませんでしたが」
「そりゃ、そうじゃろう」
グリンゲはくすくすと笑った。ここワイコウでは、なぜか『ジンベルの竹竿の君の額には角がある』という噂が流れていた。グリンゲ自身は、異世界人であろうとも魔物ではないのだから、角など生えているはずはない、と思っていたが。
「で、そのどこに戦争になればわが国が負けるという根拠が含まれているのだ?」
「異世界人は、みな膨大な知恵の持ち主だと聞きます。『竹竿の君』も、ひと目見ただけで知性にあふれた女性と知れました。軍師であるというタクミという男や、野戦指揮官であるイクマ、外交官らしいシュン、それに、外交使節団に参加しているリンという女性も、おそらく同様の知性の持ち主でしょう。彼らの知恵が結集したら、どんな手立てを考え付くか知れたものではありません」
「お前は確かに賢者だが、軍事には疎い」
苦笑しながら、グリンゲは言った。
「知恵を駆使した奇策など、実戦ではめったに通用しないものだ。戦術の原則は、異世界であろうと同じようなものだろう」
「いえ、僕はもっと大局的な面で彼らの知恵が使われることを危惧しているのですよ。カキ国王の治世になってから、他の海岸諸国との仲も悪化していますし」
「野心的なお方じゃからな」
グリンゲは嘆息した。賢王と呼ばれた先代を超えようというのか、強引な政策が多く、それが周辺諸国との軋轢を生んでいるのだ。
「ともかく、今平原諸国を怒らせるのはまずいです。まして、高原諸族まで彼らの味方についているのですからね。叔父さんの力で、早急に平原側との交渉をまとめるように働きかけてください」
「無茶を言うものではない」
グリンゲは笑った。将軍の中ではもっとも古株であり、カキ国王の信頼も厚いとは言え、グリンゲは重臣ではない。国王に直言などできる立場ではないし、重臣たちにそれほど顔が効くわけでもない。
「僕の読みが正しければ、平原との対立は絶対に避けるべきです」
キュイランスが、力説した。
「街に流れている噂では、使節団は明日ルルトに向けて発つそうではないですか。おそらくは、海岸諸国をまわって友好関係を築き、わが国に対して圧力を掛ける思惑があるのでしょう。下手をすれば、わが国が孤立しかねません」
「わかったわかった。できるだけ手を打ってみよう」
グリンゲは、気乗り薄にそう約束した。できることと言えば、何人かの気の置けない廷臣に意向を吹き込むくらいだが、何もしないよりはましであろう。
ノノア川を下り続ける合同使節団の前方に、青く連なる山々が見えてくる。
「あれが海岸山脈です」
細い腕を差し伸べ、前方を指し示しながら、エイラが解説してくれる。
「あそこを越えれば、本当の海岸地帯ですわ。もっとも、わたくしも行くのは初めてですが」
やがて船団は、幅五キロほどの細長い盆地に入っていった。川幅がやや狭まり、流れも速くなる。両側に山々が迫り、それが徐々に高くなってゆく。それに伴い、盆地の幅も狭まっていった。
「植生が変わったわね」
河岸を指差しながら、凛が指摘する。
今までの河岸は、湿地や植物の繁茂に適さない岩がむき出しになった荒地、人工的に開かれた平地などを除けば、亜熱帯ジャングルに覆われているのが常であった。だが、このあたりでは単に草が繁茂するだけの平地が目に付く。生えている木々も、やたらと背が高かったり、葉が大きかったりするものが減り、夏希らが見慣れている温帯のものに近い、小さくて緑色の濃い広葉樹が混じるようになってきた。
下ってゆくうちに、さらに盆地の幅が狭まってゆく。そしてついには河岸の平地が皆無となり、岩石質の崖がそのまま河岸を成す地形となった。川の流れが、長いあいだ直接谷間を穿ち続けて形成された箇所なのだろう。
その細い谷間を、船団は抜けていった。しばらくすると、谷間が広がり始めた。川幅も、広くなる。狭隘部を抜けたらしい。
「……そういえば、雨降ってこないわね」
夏希は空を見上げた。高層に筋雲が浮かんでいるが、豪雨をもたらす低層の雲は見当たらない。前回雨に降られてから、四時間以上は経ったはずだ。そろそろ、ひと雨来る頃合なのだが……。
「海岸山脈より北には、雨季がないのです」
夏希の疑問を受け、エイラが説明してくれる。
「ここから北は、平原やワイコウ付近とはかなり気候が違います。海に面しているせいでしょうか」
「むしろ、この山脈のせいじゃないの?」
最前に比べるとだいぶ低くなった山々の連なりを指差しながら、凛が言った。
「三国山脈みたいなものかもね。真冬の関東と新潟の天候が真逆なのと同じかも」
夏希はそう言った。おそらくは、平原地帯やその北の湿地帯に雨をもたらす水分をたっぷりと含んだ雲は、海岸山脈を越えられないのだろう。
さらに船団が進むと、いきなり谷間が広がって景観が開けた。それまでほぼ真っ直ぐに流れてきたノノア川が蛇行を始める。川幅も、極端に広くなった。
夏希は立ち上がると、日除けの外に出て周囲を眺めた。遠くの方に、村落が見える。その周辺にある茶色い土地は、畑だろうか。河岸の土地は、荒地か草地のまま放置されている。
「洪水が多いのかしら」
夏希はつぶやいた。地図を見る限り、平原地帯から海へと至る川は、ノノア川だけのようだ。高原と平原に降った膨大な量の雨水がたった一本の川に集中するのでは、たびたびの氾濫は必至だろう。川のそばに家や畑を作っても、意味がない。その予想を裏付けるかのように、河岸の荒地には角の取れた石が大量に堆積しているのが目に付いた。岩と言っていいサイズの大石が、草地の中にごろんと転がっている光景も、頻繁に目にする。おそらくは、以前の大洪水で上流から運ばれてきた岩なのだろう。
そうこうしているうちに、前方にかなり大きな街が見え出した。ちょっとした高台にあり、そのうえ周囲を石造りの頑丈そうな堤防で囲ってある。さながら、中世ヨーロッパの城塞都市のようだ。
「ここまでくれば、ルルトまであと一息ですわ」
近付く都市を眺めながら、エイラが嬉しそうに言った。
「この街はルルトに属しているの?」
「そうです。クートロアという街ですわ」
「大きい街ねえ。ジンベルに匹敵するんじゃないかしら」
堤防の長さを目で測りながら、夏希は言った。規模だけではなく、建物も立派なものが多く、堤防よりも高く聳えている石造建築物は何十となく見えたし、ミナレット(モスクに付随する細長い尖塔)を連想させる鉛筆のような塔もいくつか数えることができた。
「そうですね。同じくらいの人口があってもおかしくありません。なにしろ、ルルト王国全体で十五万の人々が住んでいると言われていますから。このあたりで最大の国家ですし」
「十五万……」
エイラの説明に、夏希は絶句しかけた。実にジンベルの十倍以上の人口である。一人当たりGDP……もちろんそんな概念はこの地にはないが……は海岸諸国の方が上だから、総合国力はおそらくはジンベルの十数倍程度に達するだろう。
ノノア川の流れに乗って、船団がさらに街に近付く。街の北側には川に通じる掘り込みがあり、そこにはかなり整った河港が整備されていた。河港の入口には水門があり、川が増水しても河港内に流れ込まないように工夫されている。船団はそこに船を着けた。事前にワイコウ駐在のルルトの役人……まだこの世界には大使や公使、領事といった役職は存在していない……を通じて訪問を連絡してあったので、街のお偉いさんらしい人々が出迎えてくれる。一行のほとんどはそこで上陸し、ルルト側が用意してくれた昼食をいただくことになった。
「豊かな国ねえ」
歩きながら周囲を眺めるだけでも、その豊かさは理解できた。港には倉庫が立ち並んでおり、着けている商船から木箱や麻袋、樽などが続々と運び込まれている。主要な街路は石畳で広く、幅十メートルくらいあり、中央には一方通行の荷車専用レーンが設けられていた。建ち並ぶ商家の店先に並ぶ商品も豊富だ。
「市民の身なりも上等。お金持ってるわね。おいしい商売ができそうだわ」
凛が、喜ぶ。
「舌なめずりはやめなさい。時代劇に出てくる悪徳商人の顔付きになってるわよ」
夏希は冗談交じりに忠告した。
「商売の基本は、悪だからね」
開き直ったのか、凛がいかにも底意地の悪そうな笑みを向けてくる。
「そうなの?」
「商売の基本は、必要でないものをいかに高く売りつけるか、だからね。ポテトを食べたくない客に、断れない雰囲気を作っておいてポテトを押し付ける。これが、商売の基本なのよ」
「……そんな話聞いたら、急にハンバーガー食べたくなったじゃないの」
夏希は胃の辺りを押さえた。ファーストフード好きではないが、もともとパンは好きである。そういうわけで、ときおり無性にコンビニのサンドイッチや調理パン、安っぽいハンバーガーなどが、恋しくなることがあった。
「小麦はタナシスまで行かないと作ってないからね。今度米粉パン焼いてあげるから、焼肉サンドあたりで我慢しなさい」
意地の悪い笑顔を消した凛が、励ますように夏希の肩を叩いた。
第四十九話をお届けします。