26 外交と情報と
いまだに正式に名称を与えられていない砦と、ジンベル南平原およびジンベル市街地の一部を戦場として行われた一連の戦い……後に第一次ジンベル南平原の戦いと呼称されることになる……におけるジンベル側の人的損害は、死者六十四名、負傷者百七十余名と判定された。遺棄された蛮族戦士の死体は千五百を超え、無傷か負傷して投降した者の数は百八十六名との報告がなされた。死体はまとめて埋葬されることになり、ジンベル南平原西岸の一角に大きな穴を掘る作業が始められた。主に作業に従事したのは投降した蛮族戦士であり、余った土砂は拓海が構想した馬出しを造る資材として活用されることとなった。
ラッシ隊長が数度に分けて送り出した偵察隊によって、敵主力は撤退したものの、蛮族側が依然砦に居座っていることは判明していた。その部隊規模は千数百名と見積もられ、単独でジンベルを侵す能力はなく、当面の危機は去った、との評価で拓海と生馬の見解は一致した。しかしながら、砦に残ったイファラ族部隊はそこを固守するに足る充分な兵力を有しており、ジンベル侵攻を行う際の戦略拠点といえる砦を放棄しなかったということは、蛮族側はイファラ族の……あるいはその他の蛮族氏族を加えた……再侵攻を近日中に行うつもりであることの証左と言えた。
駿が外務大臣と共に川船で帰着したのは、ジンベル南平原の戦いの三日後だった。
「うわ。焼けたわねぇ」
下流側の船着場で凛と共に出迎えた夏希は、すっかり黒くなった駿の姿を見て驚いた。
「炎天下で旅してたからね」
駿が笑う。
「あ、眼鏡代えたんだ」
凛が、目敏く気付く。
「ああ。ハンジャーカイでレンズを作ってもらって、それをハナドーンに持っていって、フレームに入れてもらった」
「じゃあ、木製眼鏡なの?」
夏希は目を見張った。ハナドーンと言えば、製材や木製品で有名な都市国家である。
「そう。曲げ木を組み合わせて、漆に似た液を塗って仕上げてある。フレームは太いけど、見た目より軽いよ」
「で、首尾は?」
凛が、期待を込めたまなざしを駿に浴びせる。
「とりあえず大臣閣下と一緒に陛下に御報告だ。そのあとで詳しく話してあげるよ」
「一応紹介しておこう。外務大臣補佐、駿だ。こっちが、ジンベル防衛隊作戦隊長、拓海」
改めて、生馬がジンベルにおいては初対面となる駿と拓海を引き合わせる。
「で、さっそくだがどういう状況なんだ?」
夏希と凛の仕事部屋……最近はすっかり異世界人の溜まり場……もとい、会議室兼控え室になってしまっている……のテーブルに五人全員が座ったところで、生馬が駿に尋ねる。
「うまく行った、と言い切っていいと思う。十二ヶ国すべての平原諸国から、派兵と資金援助の約束は取り付けた。多少、高原戦士の脅威を誇張したけどね」
「高原戦士?」
聞きなれない単語に、夏希は首をひねった。
「それって、蛮族のことか?」
拓海が、やや怪訝そうな表情で駿に尋ねる。
「あー、外交用語では『蛮族』というのは政治的に不適切な用語なんだ。他の平原諸国の中には、高原の民と交易している商人もいるし、個人的に知己を得ている者もいる。下手に高原の民や戦士を蛮族呼ばわりすると、戦争目的がジンベルの自衛ではなく、異種族への憎悪に基づくものであると誤解されかねないしね」
「ふーん。まあ確かに、蛮族と呼びたくなるような人々じゃなかったわね」
拓海が命を救ってやった少女の姿を思い出しながら、夏希は言った。
「それはともかく、先に先日の戦いの模様を聞かせてほしいね」
微笑を湛えながら、駿が話を請う。
生馬と拓海が、互いに話を補いながらジンベル南平原の戦いを活写し始める。凛が席を立ち、お茶を入れ始めた。夏希は生馬らの話をぼんやりと聞いていた。凛が各人の前に置いた湯飲みにお茶を注ぎ、自らも湯気の立つ湯飲みを手にして座る。
「……とまあ、おおよそこんな感じで蛮族、いや高原戦士を撃退したわけだ」
ちょっと自慢げな口調で、拓海が話を締めくくる。
「さあ、今度はそっちの番だ。増援はどれだけ得られるんだ?」
生馬が、駿を急かす。
「提供兵力の具体的数字と、ジンベルへの到着予定は、これだ」
駿が懐から、折り畳まれた紙を出して広げる。
B5くらいの大きさの紙に、ジンベルの……いや、正確に言えばこのあたりで使われている文字が、びっしりと書き込まれていた。表音文字で、○を組み合わせたり一部を欠けさせたり、そばに点を配したり直線を書き加えたりする意匠が多く見られるもので、駿の見立てによれば『ビルマの文字っぽい』ものだ。エイラの掛けてくれた魔術は会話のみしか翻訳してくれないから、もちろん夏希には読めない。
「……まさかとは思うが……お前、これ読めるのか?」
いささか間の抜けた当惑顔で、生馬が訊く。
「国名と数字、日付くらいは読めるようになった。と言うか、それくらいできないと外務大臣の補佐は務まらんよ」
なぜか迷惑顔で、駿が答える。
「ともかく各国とも正規軍総兵力の半分程度の提供は確約してもらえた。総計で約五千。いくつかの国では市民軍の編成と提供の言質も得た。数はまだわからんが、二千から三千くらいは期待していい。もちろん、すぐには戦力にならないだろうけどね」
「正規兵が五千か。そいつは凄いな」
生馬が笑みを浮かべる。
「とりあえず近場のイナートカイとフルームからの部隊は、明後日には到着するはずだ。合計で、四百名近く。そのあと、エボダ、ケートカイ、ニアンと続く。ニアンは一千を超える兵力の提供を申し出てくれたよ」
「一千か。太っ腹だな」
拓海が、満足げにうなずく。
「まあ、大きな国だものね。たしか、平原地帯で最大の国でしょ?」
夏希はアンヌッカの『授業』を思い出しながら言った。駿が、うなずく。
「ああ。公称人口五万。街の規模も大きかったよ。ただし、いまひとつ活気がなかったけどね」
「活気がない?」
「不景気らしい。金属加工で栄えてきた都市国家だが、最近エボダやススロンが、かなりレベルの高い銅製品や鉄製品を自前で作るようになってきたんだ。工作精度の高い製品や、付加価値のついた製品はまだまだニアン製には及ばないが、鍋だのカップだのなら使い勝手は変わらないし、鉱石を産出するエボダやススロンの方がコスト的にも有利だ」
軽く肩をすくめつつ、駿。
「加工産業で喰ってる資源小国の悲哀だな」
拓海が薄く笑う。
「最近の日本みたい」
こう漏らすのは、凛。
「外務大臣も、陛下からお褒めの言葉をいただいたし、まずは外交的には成功を収めたといいんじゃないかな」
いつものにやにや笑いをしながら、駿が言う。
「僕としても、各国の上層部とわずかではあるが個人的なコネを築けたことは大きいと思っている」
「個人的なコネ?」
夏希は首を傾げた。
「外交ってやつは、意外と古臭いのさ。給与所得者であり、公僕であるはずの現代の民主主義国家における外務官僚でさえ、他国の外交官との個人的なつながりや信頼を大事にしている。近世以前にいたっては、国益よりも外交担当者の友情が外交政策を左右した、なんて例も多い。この手のコネは、築いておいて損はないんだよ」
駿が説明する。凛がうなずいているところを見ると、歴史の上でも往々にしてそんなことがあったのだろう。
「とりあえず、みんなはこれら各国軍の受け入れ準備をジンベル当局と協力して早急に進めてほしい。一応、自前で野営の準備をしてくれるように頼んでおいたが、出来ればすべての兵を宿舎に収容してやりたい。幸い、ハナドーンを含む各国から、建築用資材の提供は受けられる。食料援助も、いくらか得られる手筈を整えた。なるべく、いい環境を整えておきたい」
「飯と宿が悪いと、戦意に影響するからな」
生馬が、野戦指揮官らしい物言いをする。
「……ってことは、俺の家新築計画はまた延期か? いつまで生馬ん家に居候してなきゃいけないんだ」
拓海が不満げに下唇を突き出す。
「俺の家じゃない。駿の家だ。俺もまだ居候の身だ」
生馬が、訂正する。
「三人じゃいささか狭いわね。生馬か拓海、あたしん家に来る?」
唐突に、凛が言った。
「いいのか?」
拓海が身を乗り出す。
「ちょっと、凛」
夏希は凛をたしなめた。いくらなんでも、凛と同じ屋根の下にこの性欲過多男子のどちらかを住まわせるなど、危険すぎる。
「大丈夫よ。あたしなんて眼中にないでしょうし」
目を細め、にやにやしながら、凛が生馬と拓海を見比べる。
「そのことなら、僕が家に戻らなければ問題ないだろう」
駿が、口を挟んだ。
「外務官僚のひとりと仲良くなったんだ。ジンベルでは名家の出身でね。郊外だが、かなり大きい屋敷に住んでいる。頼めば、部屋くらい貸してもらえるだろう」
「よかった」
夏希は胸をなでおろした。厄介ごとと心配事だらけだというのに、このうえ凛の貞操の危機にまで気使いする羽目にはなりたくない。
「そうだ。大事なことを聞いておかないと。指揮統制に関する問題は、どう処理するんだ? 各国の部隊はジンベルの統制下に入ってくれるのか?」
急に思いついたらしく、生馬がやや大きな声で駿に訊く。
「それは大丈夫だ。名目上、各国の援兵は、ヴァオティ国王に貸し与えられた、という形になる。そのことに関しては、各国の元首から国璽入りの正式な文書を出してもらった。ただし、ジンベル防衛隊の直接指揮下には入らない。僕の構想としては、ヴァオティ国王の下に統合司令部のようなものを作り、そこに各国派遣部隊の指揮官を集め、その中からジンベル代表を含む少人数……三人ないし四人の人物に指揮権を集中させ、協議しつつ運用する、という形にすべきだと思う」
「いや、合議制による指揮権の分散はまずいだろう」
拓海が顔をしかめる。
「もちろん、実戦ではジンベル代表が指揮を執るよ。しかし、その前段階で各国部隊の意向を無視するわけにはいかない。ジンベルが小国なのを、忘れちゃいけないよ。外務大臣がどれだけ低姿勢で各国元首と会談したか、見せてやりたかったよ。さながら、小遣いの増額を要求する稼ぎの悪い恐妻家、といった風情だったね」
その様子を思い出したのか、にやにやしながら、駿が言う。
最大の敗因は、情報不足にある。
イファラ族氏族長サイゼンは、ジンベル攻略戦失敗を自己分析し、そのような結論に達していた。
例えわずかでも、ジンベル市街地の情報を得られていれば、あのような罠には引っ掛からなかったはずだ。狩りに例えれば、狩るはずの獲物の数も生息域も、それどころか獲物の正体さえわからぬまま、闇雲に藪の中に踏み込んだようなものである。狩りにしくじった上に、ひと咬みされて慌てて逃げ出さざるを得なかったのは、当然と言える。
ジンベルの情報を得なければならない。
とはいえ、手の者をジンベル王国に潜り込ませる、などと言うことはできない相談である。高原の民と平原の民は、その顔立ちや髪の色に差がありすぎる。ジンベルに入り込んだ高原戦士は、さながら米粒に混じった籾のように目立つに違いない。
ここは、他の氏族の手を借りるしかない。
イファラ族と平原の民はほとんど没交渉だが、他の氏族の中には、平原地帯と交易を行っている支族が存在する。彼らに働きかければ、ジンベルに関する情報を伝えてもらえるだろう。かなり時間はかかるだろうが。
……ま、いずれにせよ再侵攻はかなり先の話になりそうだしな。
サイゼンは篭っていた小屋から出ると、新たに建てられている倉庫群を見渡した。前回の侵攻で、イファラ族が保有していた備蓄食料の半分以上が消費されていた。消費分の三分の二程度は、遠征に参加した戦士や支援要員が食べ尽くしたものだが、残る三分の一は集落に残った者たちの腹の中に消えた。多数の働き手を動員したので、狩りに出せる者がいなくなり、イファラ族が日々集める食糧は激減してしまったのだ。それを補うため、各集落は蓄えに手を付け、結果として非常時用の備蓄食料の量は減少した。
次なる侵攻には、他の氏族からの増援も加わるので、その消費する食料も当然増大する。その量は、とてもイファラ族だけで賄えるものではない。サイゼンは八方手を尽くし、周辺氏族から備蓄食料供出の約束を取り付けていたが、その集積は捗っていなかった。基本的に氏族ごとの自給自足経済である高原の民は、氏族の境界を越えて大量の物資を恒常的にやり取りする手段とノウハウに欠けている。あまり使用されぬ細道を、人の背だけに頼って米を運ぶのでは、充分な量を短時日で集めることは不可能だ。追加の食料は侵攻作戦中に平行して集めるとしても、最低でも事前準備として数日間程度全部隊に行き渡るだけの食料を備蓄しなければならない。それには、早くても十数日は掛かるだろう。余裕を数日見込むとなると、再侵攻はおそらく、二十日以上先の話になる。
サイゼンはそれまでの日々を有効に活用するつもりだった。失敗は、二度と許されないのだ。
リダが意識を取り戻してから、丸一日が経過していた。
彼女が寝かされているのは、大きな天幕の下であった。張り合わせた目の詰まった麻布に、防水油……たぶん、海岸諸国から輸入された亜麻仁油……を塗って雨漏りしないように加工した黄褐色の布が、中央に立つ太くて高い主柱とその周りにある八本の支柱で支えられている。その下には、まだ木の香りがする真新しい寝台が十二、並べてある。そのうちのひとつに、リダは横たえられていた。マットレスは藁の量が少なくて寝心地が悪かったが、薄い掛け布は清潔で、乾いたよい香りを放っていた。
意識が戻った直後から、リダは自分がジンベルに囚われたことに気付いていた。まわりの風景……広がる田んぼと、その向こうに見える山並み、そして山裾に見える密林の様子は、どう考えても高原地帯の景観ではない。寝台に横たわる怪我人はみな肌の色と顔立ちからして平原の民だし、立ち働いている看護役の人々も、また同様であった。
不思議なことに、ジンベル人はリダに対しきわめて親切だった。痛みを和らげる薬……薬草を煎じたもの……もくれたし、頼めば水も持ってきてくれる。敵意を見せることなど、微塵もなかった。
リダは掛け布の下で手を伸ばし、腹の傷を覆っている布に触れた。詳しく見たわけではないが、治療の仕方も適切で、丁寧に思われた。野外で狩りを生業とする以上、彼女も簡単な外科治療のやり方くらいは心得ている。
おそらくは、あの戦いで双方合わせて一千を超える負傷者が出たはずだ。重傷者だけでも、数百名にのぼるだろう。ジンベル側の勝ち戦だったとはいえ、彼らにも多くの怪我人が生じたに違いない。そして、ジンベル程度の規模の小さな国家が対処できる負傷者の数は限られているはず。簡単な手当てで済む軽傷者ならともかく、重い傷を負った高原戦士を救う余裕があったとは思えない。
なぜ自分は助けられたのか。
その答えを得ようと、昨日リダは看護人に積極的に話しかけた。だが、リダに対しては何らかの緘口令が敷かれているらしく、得られたのはジンベル防衛隊のラッシ隊長命令で治療が為された、という事実だけであり、肝心の『なぜ助けられたか』は誰も教えてくれなかった。隣に寝ている負傷したジンベル人青年……ありがたいことに、彼も敵意は見せなかった……にも話しかけてみたが、彼も看護人同様、捕虜に無用な情報を与えないように言い含められているらしく、当たり障りのない会話には応じてくれたものの、リダが知りたい事柄に関しては言葉を濁した。
リダはため息をひとつつくと、目を閉じた。命を永らえたことは、むろん嬉しい。だが、ジンベル側の意図が見えぬのは、解せない上に恐ろしくもある。
……彼らはいったい何を企んでいるのだろうか?
第二十六話をお届けします。新たに評価を入れていただきました。評価していただいた方、ありがとうございます。