16 接触
ジンベル川を遡るにつれ、謎の騒音は徐々に大きくなっていった。もう夏希の耳でも、個々の音が聞き分けられるほどだ。
ぱきぱきという、生木が折れるような音。ざくざくという、土を掻き分けているような音。ごろごろという、重い物を引きずっているような音。
土木工事だ。間違いない。
生馬が、前進中止の合図を送った。集合命令を受け、五艘が川の左岸に固まる。
一行は二十三名に減っていた。槍兵一名と船頭一名は、中間報告と捕虜移送の任務を与えられて、奪った川船で一足先に砦へと向かっている。
「これ以上は危険だ。一艘だけで前進する。残りの者は待機」
そう命じた生馬が、一艘から槍兵を降ろして、そちらに乗り移る。
「夏希様」
アンヌッカが、鋭いまなざしを夏希に向ける。
「わたしも生馬様にお供したいと思います。許可をいただけますか?」
「……アンヌッカは夏希の護衛でもあるのだろう?」
抑えた声で、生馬が言う。
「コーカラット殿がいれば、夏希様は安全でしょう。夏希様のお許しが出るならば、ぜひお供させてください」
「いいわ、アンヌッカ。でも、気をつけてね」
夏希はすぐに許可を出した。副官などやってはいるが、もともとアンヌッカはジンベル防衛隊の士官である。おそらくは、部下たちの前でいいところを見せたいのであろう。彼女の意を汲んでやるべきだ。
「ありがとうございます、夏希様」
「いいだろう。乗ってくれ」
生馬も納得し、弓兵の一人に船を代わるように促す。
生馬らを乗せた川船は、人が歩くほどの速度で静かに川を遡って行った。
五人全員、呼吸すら抑えて静粛を保っている。生じる音は、船頭の竿が立てる水音くらいだが、その程度なら川の流れで生じるざわめきが覆い隠してくれる。
生馬は舳先に這いつくばるようにして、望遠鏡を覗いていた。倍率はせいぜい八倍くらいで、集光率が悪いせいかかなり視野が暗いが、裸眼で見るよりは遠方まで見通せる。
いた。
生馬はすっと左手を上げた。即座に船頭が反応し、川船を流れに逆らって留める。
レンズの中に、蛮族の姿が見えていた。茂み越しだが、何人もの人々が動き回っているのがわかる。
生馬はゆっくりと鏡筒を動かしていった。茂みが切れている箇所を見つけ、眼を凝らす。
やはり、土木工事だった。上半身裸の蛮族たちが、二人一組で『もっこ』のようなものを担ぎ、枝葉などを上流方向へ運んでゆく。土砂らしい重いものが入った『もっこ』を担いで戻ってくる二人組みが、その脇をすれ違ってゆく。その様子からすると、そこにはすでに道ができているようだ。少なくとも、人が楽にすれ違えるだけの幅のある道が。
蛮族が、理由もなしに密林の中に道を造ったりするわけがない。この道は、ジンベル侵攻を目的とした軍用路だろう。となれば、高原地帯からここまで営々と工事を行っていた、ということになる。おそらくは、何十日もかけて。
生馬は慄然とした。彼と駿、それにジンベル防衛隊が立てた蛮族対策は、その侵攻が河川および川船の使用に限定されていることを踏まえたうえでのものだ。それゆえ、敵兵力の見積もりはせいぜい一千、多くても一千二百程度と想定していた。
だが、陸路を使えるとなると、蛮族側はその数倍の兵力を容易に送り込めることになる。イファラ族の人口は八万とも十万とも言われている。その動員能力から考えれば、少なくとも数千名規模の軍勢を楽々送り込めるだろう。兵站能力如何で、万単位の侵攻さえ可能だ。
……勝てない。どう足掻いても、ジンベルに勝ち目はない。
蛮族が一千名の兵力をすり潰すつもりで砦に攻撃を掛けてきたら、おそらくは一時間と持たずに突破されてしまうだろう。ジンベル南の城壁は立派だが、そこを充分に守備できるだけの兵力はない。こちらも、数時間で突破されるに違いない。いったん市街地に蛮族がなだれ込んでしまえば、対処は不可能だ。ジンベルは蹂躙される。
……俺では、蛮族に勝てない。
生馬は歯軋りした。
「大丈夫かな、生馬」
夏希はつぶやいた。単船で先行してから、すでに二十分くらい経過している。
最初に異変に気付いたのは、船頭の一人だった。あっと一声叫んで、竿を取り落とす。
「伏せろっ!」
弓兵の一人が怒鳴り、身を沈める。
夏希は思わず身をすくませた。
右岸の茂みの中から、何本もの鏃が突き出していた。……いつの間にか、至近に蛮族の弓兵が迫っていたのだ。
警告の叫びに応じて、すべてのジンベル人がすでに船底に身を横たえ、あるいは盾の陰に身を置いていた。
とっさに動けなかったのは、夏希だけであった。顔だけは脅威が迫っている方向である川岸に向けたが、その状態で硬直している。
当然のごとく、多くの矢が夏希を狙った。
十本近くの矢が、相次いで放たれる。びゅんびゅんという弦の鳴る音が、夏希の耳にも届く。
夏希は大きく眼を見開いたまま、飛んでくる矢を見つめていた。脳の一部はすでに危険を察知し、身体に避けるように指令を出していたが、肝心の意識の方が不意を衝かれて反応停止状態に陥っていた。
「あぶないですぅ~」
緊張感の欠片も感じさせない声をあげながら、コーカラットが夏希の前に滑り込んだ。
ぷすぷすぷすぷすぷす。
五本の矢が、コーカラットのボディに深々と突き刺さった。
くるくるぽてり。
矢を受けたコーカラットが、夏希の膝に落ちる。
「コーちゃん!」
遅ればせながら反応停止状態から回復し、身を低くした夏希は、落ちてきたコーカラットのボディを抱きしめた。
「コーちゃん! しっかりして、コーちゃん!」
必死になって、呼びかける。
コーカラットが、二度ほど瞬きした。
「ちょっと、痛かったですぅ~」
そう言って夏希の腕から抜け出し、浮き上がる。
「エイラ様のお友達である夏希様に矢を射るとは、許せないのですぅ~」
コーカラットが触手を広げ、水平に突き出した。その形状でくるくると高速回転しながら、普段の彼女の飛び方からは想像もできないようなスピードで川岸に向け突っ込んでゆく。
「ぱっぽーっ!」
奇声を上げながら川面を渡ったコーカラットが、茂みの中へと突入した。触手を刃物モードにしてあるのだろう、枝葉が刈払機で刈られた芝草のように周囲に飛び散る。魂消る悲鳴と共に、血しぶきも飛んだ。人体の破片らしい赤黒い固まりも飛び、川面に小さな水柱を立てて落ちる。
伏せていたジンベル弓兵も反撃を開始していた。盾のあいだから、弓を放つ。
夏希は大人しく身を低くしていた。この状態で彼女にできることは、何もありそうにない。
ほんの一分ほどで、コーカラットが戻ってきた。通常の、触手を下に垂らしているモードに戻っている。だが、刺さっている五本の矢はそのままだ。
蛮族の兵は逃げ去ったのだろう、ジンベル兵も射るのをやめ、矢を番えたまま川岸に警戒の目を注いでいる。
「コーちゃん、大丈夫?」
「大丈夫ですぅ~。魔物は死なないのですぅ~」
コーカラットが、刺さっている矢の一本に触手を巻きつけた。逡巡の色も見せずに、それを抜き取る。開いていた穴は、まるで消しゴムに刺した鉛筆を抜いた時のようにすぐに塞がれた。
抜いた矢を川に投げ捨てたコーカラットが、残る四本の矢も同様に無造作に抜いてゆく。夏希はしげしげとコーカラットの顔というかボディを観察したが、傷跡ひとつ残っていない。
「ともかく、ありがとう。おかげで助かったわ」
夏希は丁寧に礼を述べた。ジンベル兵の様子もチェックしたが、幸いなことに負傷した者はいないようだ。その主たる原因は、隠れ損ねたドジな一人に多くの矢が集中した為だという事に気付いた夏希は、自嘲の笑みを浮かべた。
背後で巻き起こった騒動は、生馬らの耳にも届いていた。
小さく舌打ちした生馬は、身振りで撤退を命じた。騒動の原因は、まず間違いなく待機していた偵察隊と蛮族の接触だろう。下流に敵が現れたとするならば、急いで後退しないと退路を断たれるおそれがある。
船頭が、素早く船を反転させる。
「生馬様、あれを!」
アンヌッカが、息を弾ませて背後を指差す。
いつの間にか、蛮族側が複数の川船を繰り出していた。舳先に数名の弓兵が陣取り、矢を番えようとしている。こちらに気づいて追ってくるのか、それとも下流方向の騒動を聞きつけて駆けつけるのか。
いずれにせよ、追いつかれるわけにはいかない。
「アンヌッカ、盾だ!」
生馬は命じながら予備の竿を取り上げた。
「はい、生馬様」
生馬の意図を理解したアンヌッカは、弓兵の盾を取り上げると横向きに持って、艫に陣取った。彼女の両脇に弓兵が隠れ、矢を引き絞り始める。
生馬は身を低くし、船頭の反対側で竿を操り始めた。首を伸ばしつつ振り返り、蛮族の川船の様子を窺う。数は三艘。一艘に弓兵二人、船頭兼任の兵士二人くらいの構成らしい。
……逃げ切れるか。
生馬は歯を食いしばりながら竿を操り続けた。
「夏希様!」
上流方向を見張っていた弓兵が、叫ぶ。
二百メートルほど上流から、一艘の川船が下ってきつつあった。船上には、生馬の姿がある。
その後ろ、十五メートルほどの距離を置いて三艘の船が追ってきている。
追っ手の船から、間歇的に矢が放たれている。一本の矢が、竿を操っている生馬のすぐそばを掠めた。もう一本の矢が、弓兵の一人に当たる。兵士が手の弓を取り落とし、蹲った。
……まずい。
夏希は、追っ手の方が優速であることを見て取った。蛮族側の船頭は立ったまま竿を使っているのに対し、ジンベル側は矢を避けるために身を低くした不自由な姿勢である。これでは速く進めない。
両者の距離が縮まる。もう、十メートルほどだろう。並ばれたら、盾で矢を防ぐことはできない。
「夏希様、いかがいたしましょう?」
同じ船に乗る弓兵が、急いた口調で訊いてくる。すでに矢を番え、いつでも放てる態勢だ。
……このままでは、生馬もアンヌッカも危ない。
夏希はそう判断した。こちらから矢を放てば、幾許かの牽制にはなるだろう。だが、まだ距離がありすぎて、船上の蛮族を仕留めるのは難しい。その前に生馬らが追っ手に追いつかれるのは確実だ。
……これしかない。数はこっちの方が上だ。
「船頭さん! 上流に向けて! 生馬を助けるわよ!」
そう決断した夏希はできうる限りの大声で言い放った。
すぐさま、船頭が舳先を川上に向けた。弓兵たちも、それに応じて戦闘態勢を整えた。船首に陣取り、盾の陰に隠れ、弓を引き絞る。
夏希は自分が非武装であることに気付き、得物を探した。コーカラットが守ってくれるとはいえ、なにか持っていたほうが身を守り易いだろう。予備の竹竿を見つけ、それを拾い上げる。これなら、振り回しても相手を殺してしまうようなこともあるまい。
夏希は状況を見極めようと立ち上がった。川船はすでに上流方向へ向け動き出している。揺れにバランスを崩しそうになった夏希は、足を踏ん張った。
「生馬様! 夏希様ですっ! 夏希様が来てくれました!」
必死に竿を操っていた船頭が、苦しい息のあいだから歓喜の声を絞り出す。
「……無茶しやがって」
生馬は呻いた。竹竿を片手に、黒髪をなびかせながら船上で仁王立ちになっている夏希は、女性としては高い身長もあって実によく目立っている。
かつん、と音がして矢が船縁に突き刺さった。蛮族の船が、脇に並びかけているのだ。
生馬は遡ってくる味方の四艘との間合いを目で計った。……おおよそ百メートルか。
「よく狙って!」
夏希は弓兵を叱咤した。
ジンベル弓兵が、矢を放ち始める。蛮族が、これに応戦した。そのおかげで、生馬らの船に矢が降り注がなくなった。
舳先や弓兵の盾に、何本もの矢が突き刺さる。夏希は身を低くした。矢が刺さると、さしもの魔物も多少は痛みを感じるようだ。何度もコーカラットの世話になるのは忍びない。
「船を止めて!」
夏希は竿を振り回し、船頭たちに停船を命じた。目的は生馬らの船の収容である。無理に危険な上流まで遡る必要はない。
生馬らの船が、かなりの速度で近づく。蛮族の船も、速度を落さずそれに追随している。
……まずい。このままだと、ぶつかる。
夏希はそう感じたが、いまさら衝突回避はできない。生馬らを助けるには、こちらも蛮族の船と近接しなければならない。
蛮族船との間隔が急速に縮まる。至近距離になり、双方が得物を矢から他のものに持ち替えた。蛮族は投げ槍と鉈、ジンベル兵は片手剣と長槍だ。
夏希も竹竿をしっかりと握り直し、腰の辺りで構えた。足を開き、腰をやや落とす。
突っ込んできた蛮族船が、夏希の乗る船の至近をすり抜けようとする。一本の投げ槍が、ジンベル兵の手にした盾を貫き、革の胴鎧に浅く刺さった。ジンベル兵も剣を振るって、すれ違いざまに蛮族の一人に手傷を負わせる。
夏希はタイミングを見計らって竹竿を突き出した。怖がっているゆとりも、ためらっている暇もなかった。ここで蛮族を撃退しなければ、ジンベル側に大きな損害が出てしまう。
竹竿の先端は、見事に狙った蛮族の胸を突いた。鉈を手にした男が、バランスを崩して川に落ちる。
状況は乱戦となった。
生馬は船を蛮族船に寄せると、アンヌッカを伴って飛び移った。投げ槍を手に向かってきた蛮族に対し、曽祖父仕込みの脇構え(右足を引いて半身になり、腰を落とし、剣を体側に沿わせるように後方に向け、剣先をやや下方に向けた構え)で待ち受ける。足場の悪い揺れる小船の上で、重心の高い構えを取るのは自殺行為である。突き出された投げ槍を踏み込みつつ長剣で払った生馬は、蛮族の左脚を蹴った。バランスを崩した相手に、返す刀で一太刀浴びせる。蛮族は概して勇敢ではあるが、他人を殺傷する訓練は受けていないらしく、剣道だけではなくより実践的な真剣を使うことを前提とした剣術を学んだことのある生馬から見れば、隙だらけであった。鉈を手に襲ってきた蛮族には、中段の構えから突きを喰らわせる。腕の長さも得物の長さも生馬のほうが上回っているので、蛮族戦士はなす術もなく喉元を突かれ、川に落ちた。アンヌッカの剣の腕もなかなかのもので、鉈で挑んでくる蛮族をいとも簡単に切り捨てている。
夏希は必死で竹竿を振り回した。
寄せてきた蛮族の船を突き返し、泳いで乗り込もうとした蛮族の顔面に竿の先を叩き込む。近づいて来た別の船から槍を投げようとした奴は、フルスイングで首筋のあたりを引っぱたいてやった。大抵の蛮族よりも、夏希の方が体格がいい。打撃力は半端ではなかった。
ぜいぜいと息を切らしながら、夏希は立てた竹竿にもたれた。いつの間にか、蛮族の攻撃は止んでいた。いくつかの死体が、川を流れてゆく。残りの者は、泳いで逃げ去ったのだろう。
夏希の半袖シャツは浴びた水しぶきと汗でぐっしょりと濡れていた。頭に巻いていたはずの手拭いも、失われている。
「わたくしの出番がありませんでしたぁ~」
コーカラットが、残念そうに言う。
「急いで引き上げるぞ」
生馬が、大声で命ずる。
ジンベル側は速やかに下流方向へと船を進めた。夏希はコーカラットの手を借りて、負傷した弓兵を介抱した。革鎧のおかげで傷は浅く、命に別状はない。
コーカラットが各船をまわり、損害状況を調べてくれる。二十三名中、二名が重傷を負っていた。軽度の負傷者は八名。幸いなことに、死者はいなかった。
追っ手が掛かることもなく、偵察隊は順調に川を下って行った。監視所も素通りし、臨時船着場に到着する。すぐさま、兵士たちが駆けつけて負傷者を運んでいった。砦の船着場で船に載せ、ジンベルへと搬送するのだ。
「ありがとうございました、夏希様。夏希様は、命の恩人です」
アンヌッカが、深々と頭を下げる。
「やめてよアンヌッカ。あの時はああするしか方法はなかったし、それに戦ってくれたのはこの人たちよ」
夏希は、疲れた様子でたたずんでいるジンベル兵や船頭を指し示した。
「いえ、お見事でありました、夏希様」
年配の弓兵が、感激の面持ちで言う。
「竹竿を振るって、次々と蛮族を倒してゆく夏希様。まるで、戦女神のようでありました」
ざわざわと、賛同の声が上がる。
「よくやってくれた、諸君。重傷者が出たのは残念だが、諸君らは合わせて三十名近い蛮族を撃退したのだ。見事な勝利だ。ラッシ隊長からもお褒めの言葉があるだろう。今日はご苦労だった。任を解く。ゆっくり休んでくれ」
生馬が、解散を命じた。疲労の色は見えるが、兵士たちは皆勝利に晴れ晴れとした顔で、砦への細い道をたどって帰ってゆく。
「……三十人もいたっけ?」
「戦果誇張は士気鼓舞の常道だ」
ぶすりとして、生馬。
「初陣を勝利で飾ったのに、浮かない顔ね」
「当たり前だ……って、詳しく話してなかったな」
生馬が、蛮族の土木工事の内容について手短に説明する。聞いていた夏希の顔色が、さっと変わった。
「じゃあ、万単位の敵が押し寄せても不思議はないってこと?」
「まあな。兵站の問題もあるから、そこまで大軍が来るかどうかは疑問だが。だが、俺の見積もりじゃ、三千以上の敵が来たら、まず勝ち目はない」
「逃げる?」
夏希は声を潜めて訊いた。もちろん、元の世界へ帰るか、という意味である。
「それも選択肢のひとつだな。だが、俺はジンベルの連中が気に入っちまった。なんとか助けてやりたい」
「じゃ、どうするの?」
「ひとつだけ、勝てる方法がある」
生馬がそう言って、砦の方へ顎をしゃくった。
「行こう。凛ちゃんとも相談する必要がある」
第十六話をお届けします。 追記/三件目の評価を入れていただきました。評価してくださった方、ありがとうございます。