138 ラドームの宴
盛り上がった泡のようにも見える白い雲の群れが、群青色の水平線の上にぽっかりと浮かんでいた。強めの日差しが穏やかな海に降り注ぎ、銀色の筋となった波が眠気を誘うようなゆっくりとした速度と単調さで、やや黄色がかった弓形の砂浜に打ち寄せてくる。風は凪いでおり、時折生暖かい空気に潮の香りを混ぜて運んできてくれるだけだ。
ラドーム島東岸の浜辺は、実に平和な景観を見せていた。
「天候にも恵まれたし、出だしは大成功ね」
憲章条約軍の兵士が巡回している砂浜から視線を引き剥がした夏希は、隣に立つ凛を見下ろしつつそう言った。
「ちょっと暑すぎるけどね」
日陰に入るように夏希に合図しながら、凛が答えた。
「南の陸塊の連中は慣れてるけど、北の陸塊の連中の中には倒れる人が出てくるかもしれない」
「充分に水分補給してもらうしかないわね」
天幕の中でフルーツポンチを配っている女性から一杯もらいながら、夏希はそう言った。凛がこの地に導入したこの飲み物も、北の陸塊以外ではすっかりパーティに欠かせない飲み物として定着した。もともとフルーツの類は種類も多く味もいいし、あまり強い酒を飲む習慣がない地域なので広く受け入れられたようだ。
記念すべき日であった。憲章条約総会および事務局移転記念。タナシス王国の憲章条約正式加盟記念。旧レムコ同盟、西部同盟諸国およびラドーム王国の憲章条約における保留条件撤廃記念。憲章条約改定施行記念。そして、三つの下位条約……大海を隔てた貿易振興と、北の陸塊主要港湾および主要河川の利用規定を定めた『新通商交通条約』、海軍部隊を含む憲章条約軍部隊の北の陸塊駐屯を規定した『アノルチャ条約』、北の陸塊諸国の軍事力の保有と運用に制限を持たせた『北部安全保障条約』……の調印記念。
これらを記念し、また平和回復を祝うために、憲章条約総会の名で各国に呼びかけたのが、今夏希と凛が参加しているパーティであった。参加者は、実に五千名超。もちろん、これほどの人数はラドーム王宮を庭園ごと借り切っても収まりきらない。そこで、海沿いの広々とした放牧地が王命で借り上げられ、会場に充てられていた。多数の仮小屋や天幕が張られ、その中を大勢の人々がうごめいている様子は、さながら何かのイベント会場のようにも見える。肉や魚を焼くいい匂いが漂っているので、さしずめB級グルメの屋台が多く出ている物産展、といったところか。
パーティの参加者は、皆貴族か准貴族に限られていた。凄いのは、国家元首のほとんどが参加しているという事実である。不参加だったのは、二人のみ。高齢ゆえ長旅を避けたケートカイの国王と、急病で寝込んでしまったチュイの国王だけ。これだけ交通が未発達の地で、事実上すべての国家の元首が一同に会するなど、空前絶後と言えるだろう。
リュスメース王女の救出劇から、すでに六十日が経過していた。
幸いなことに、大きなトラブルもなく、一連の戦いの戦後処理は終了していた。停戦監視団は、無事にその任務を終え、解隊した。憲章条約軍および総会とタナシス王国の間に和平条約が結ばれ、正式に戦争状態が集結し、平和が回復される。これを受けて、レムコ同盟と西部同盟は予定通り……例によってカートゥール代表は色々とゴネたが……解散した。
平原の一国、マリ・ハに置かれていた憲章条約総会と事務局は、北の陸塊諸国が大量に憲章条約に加わったことによる地理重心的な変化を考慮し、大海の中心近くにあるラドーム王国に移されることに決まった。ただし、事務局に関しては形式的な本部が置かれるだけに留まり、実質的な機能はマリ・ハに残される南部事務局と、リスオンに新設される北部事務局が司ることになる。
今日までに起こった大きな出来事は、ふたつ。ひとつは、予定通りタナシス王国女王エミストが退位を表明し、妹リュスメースにその玉座を明け渡したこと。周辺諸国はこれを歓迎したし、タナシス貴族もほとんどが新女王に対し支持を表明。国民の多くもリュスメース女王を歓迎し、禅譲はつつがなく終了した。
もうひとつの出来事は、第八の魔力の源の発見であった。それも、大方の予想通り魔力を使い果たした形で。
真相は、あっけないものであった。ストラウド辺境州の北部にいたある小部族の中に、潜在能力は高いが魔術に関する知識の足りていない巫女がいたのである。人間界縮退……彼女には、魔界が自分たちの集落に迫ってくるとしか見えなかった……に直面した彼女は、部族長の命令を受けて魔術を使って魔界を押し止めようとした。もちろん、いくら魔力を消費しようとも、人間界縮退を止めることなど出来はしない。むしろ、加速させるだけである。魔力を使い果たした巫女は、すっかり小さくなった魔力の源を手に、家族とともに南へと逃げる。その後、この話を知った辺境州の役人が王都リスオンに報告書を提出し、事の顛末が判明したというわけだ。
すでに、魔力使用制限が徹底されているおかげで、人間界縮退は停止している。懸案だった、第八の魔力も回収された。平和も訪れた。
自分のこの世界における役目は、終わったかもしれない。そんな風に、夏希は最近思っていた。
「あのでかいのは、生馬ね」
凛が、人ごみの中から目敏く仲間を見出す。
いつもより華美な服を着込んだ生馬が、隣に立つ女性と談笑している。……ジンベル王女、イブリスだ。こちらもいささか派手なドレスに身を包んでいる。この二人を、眼を細めて眺めている中年男。ジンベル国王、ヴァオティも一緒である。
「……次期女王と王配、ってとこね。邪魔しないでおきましょうか」
凛が言う。だが、イブリス王女が、夏希と凛の姿を捉えたようだ。ぱっと表情を輝かせて、傍らの生馬を見上げて何か言う。ヴァオティ国王も気付き、こちらを向いた。……こうなっては、挨拶しないわけにはいかない。一応、夏希も凛もジンベル貴族である。臣下として、相応しい対応をせねばならない。
「ご無沙汰しております、国王陛下、王女殿下」
歩み寄った夏希は丁寧に挨拶した。凛も、それに倣う。
「素晴らしい宴だな、夏希殿、凛殿。わがジンベルに属するそなたらが、この地の国家すべてを平和裏に結びつけるという大事業を成し遂げてくれたこと、感謝に耐えないと同時に、誇らしく思う」
ヴァオティ国王が言って、上機嫌で手にした杯を空ける。
「わたしたちはお手伝いをしただけです。実際に事業を成し遂げたのは、陛下を始めとするこの地の人々です」
凛が、珍しく殊勝なことを言う。やはり彼女でも、ジンベル貴族という身分は弁えているらしい。
「謙遜なさるな、凛殿。ところで……」
ヴァオティ国王が、凛を相手に経済の話を始めた。イブリス王女がそれに気をとられた隙に、夏希は生馬ににじり寄った。
「で、結局どうするの? イブリスとゴールインしちゃうつもり?」
「なし崩し的にそうなりそうだな。陛下も、その気らしいし」
生馬が、生真面目な表情で言う。
「娘婿が憲章条約軍随一の猛将となれば、鼻高々だもんね」
これほど確実な安全保障策もあるまい。生馬は陣頭指揮を執るタイプだから一般の兵士にも人気があったし、手柄を独り占めしないから他の将軍たちにも受けがいい。彼の義父が治める国に喧嘩を吹っかけるほど愚かな国など、あるはずがない。
「ま、上手くやんなさいよ」
夏希はにやつきながら生馬の広い背中をぽんぽんと叩いた。もちろん、イブリス王女に見られないように気を付けながら。
「夏希殿! お久しぶりですな」
背後から呼びかけられた夏希は、ゆっくりと振り向いた。
声を掛けてきたのは、イファラ族氏族長、サイゼンであった。
「これはサイゼン氏族長。ご無沙汰しております」
夏希は顔をほころばせつつ禿げた中年男に挨拶した。この前会ったのは第二次タナシス外交派遣団の時だったから、かなりの日数が経過している。
サイゼンが、凛にも挨拶する。
「高原の様子は、どうですか?」
夏希はそうサイゼンに訊ねた。拓海は少し前に高原まで行ってきたようだが、夏希を含む他のメンバーは主に北の陸塊で活動していたので、高原に関する情報はほとんど耳に入ってこない。
「順調です。戦死者に対する喪の期間も明けましたし。海岸諸国からの投資も始まりましたぞ」
サイゼンが、嬉しそうに言う。
人数の上では憲章条約軍の主力となってくれた高原戦士たち。彼らを拠出してくれたことに対する返礼として、平原および海岸諸国は高原に対する無償または有償の経済投資と技術援助をすでに開始していた。高原諸族も、自分たちのライフスタイルを堅持した上でこれら投資を歓迎する意向をすでに示している。
「族長会議で、高原諸族が協力して企業体を作ることになりましてな」
サイゼンが、続けた。
「ほう。それは凄いですね」
「いつまでも、平原や海岸諸国の商人にばかり儲けさせるわけにはいきませんからな。独自に高原の商品をノノア川を使いルルトまで運び、入札を行って売却するという商売です」
いたずらっぽい笑みを浮かべて、サイゼンが言う。
「儲かりそうな商売ですね」
「凛殿のアドバイスのおかげです。自由競争が、経済を発展させる原動力だ、と教えてもらいましたのでね」
「そのうち、南の陸塊の経済は高原に握られちゃうかもね」
凛が、微笑んで言う。
「いい意味で、フットワークの軽い人々だし。順応性も高く、基本的に真面目で粘り強い。商人向きじゃないかしら」
「えらい人気者ね」
凛が、指差す。
多くの人々に囲まれるようにして宙に浮いているのは、コーカラットだった。何本かの触手に飲み物のカップを持ち、それを交互に飲みながら周りの人々と何事か話している。
コーカラットは、リュスメース新女王の命により、タナシス王国から貴族の称号を賜わっていた。王女時代にリュスメース女王の命を救ったことが、叙勲の理由である。それゆえに、今回のパーティに参加できたわけだ。
相棒のユニヘックヒューマも、コーカラットと同時にタナシス貴族の称号を得ていた。こちらの功績は、リュスメース誘拐の際にその身を守り、そして奪回に際しても活躍したことによるものであるが、いまだに誘拐事件は公けにされていないので、世間的にはリュスメースのメジャレーニエ辺境州疎開時期に『陛下の御側にあって顕著な功績をあげた』という曖昧な説明がなされていた。
「これはこれは夏希様! 凛様!」
その人垣が割れ、あいだから小柄な姿が現れた。グレイ系のドレスのような衣装を纏った、デフォルメ魔法少女風の魔物。言うまでもなく、ユニヘックヒューマである。
「こんにちわ、ユニちゃん。……エイラとサーイェナは?」
夏希はきょろきょろと辺りを見回した。この二匹の魔物が居る以上、二人の巫女も近くにいるはずである。巫女は貴族ではないが、平原でも高原でも貴族同様の社会的地位があるから、このパーティに参加しているはずだ。
「ここですわ、夏希殿」
背後から聞きなれた声が掛かる。
エイラだった。白い衣装は相変わらずだが、いつもの巫女装束ではなく、薄手のロングドレス姿だ。隣で腕を組んでいるサーイェナも、今日は蒼いドレス姿である。
……ってもうカップルであることを隠す気もないんだ。
夏希はしっかりと組み合わされたふたりの腕を見て苦笑した。公的なパーティの席で、腕を組むというのは、恋人宣言も同様だろう。北の陸塊でも、未婚の女性同士のカップルは普通に認められているので、このパーティでも違和感はないが。
四人の女性は、ユニヘックヒューマを伴って天幕の下へ移動し、軽く炙った干し魚の切り身や香草のペーストを塗って焼いた薄切りパン、チーズを載せて焼いた肉などの軽食をつまみながらしばらくおしゃべりに興じた。やがてコーカラットも加わり、全員にコーちゃんジュースを振舞った。
「やっぱり、この六人だと落ち着くわねえ」
コーちゃんジュースを味わいながら、夏希はしみじみとそう言った。凛はもちろん親友だし、エイラとサーイェナも年齢が近いせいか気の置けない仲である。魔物二匹も……年齢は恐ろしく離れているだろうが、こうして喋っている限りでは、長い付き合いの友人のようにも感じる。
「で、最近ふたりはどうしてたの? ずっと北の陸塊にいたみたいだけど」
凛が、そう話をふたりの巫女に振った。
「ラクラシャと一緒にいたのです」
サーイェナが、答える。
「ラクラシャ? 誰、それ」
「例の第八の魔力の源を、使い果たしてしまった巫女ですわ。彼女の巫女としての能力は、わたし以上なのです。なにしろ、あれだけの魔力を、わずかな時間で使い尽くしてしまったのですからね」
エイラが言って、微笑む。
「彼女の能力を上手く活かせば、わたしとエイラが模索している魔力に頼らぬ異世界との行き来を実現できるかもしれません。とりあえず、タナシス側の許可は取りましたから、ジンベルに連れて帰って研究に協力してもらおうかと思っています」
サーイェナが、言った。
「そうなんだ。上手くいきそう?」
夏希は期待を込めて聞いた。いずれ、夏希も元の世界に帰らねばならない。その時には、使用禁止となっている魔力が多少なりとも消費されてしまうのだ。その量が少なければ少ないほど、気が咎めずに済む。
「魔力を減らさないために実験ができないのでなんとも言えませんが、たぶん何らかの方法が見つかると思います。どこか経由地を設ければ、上手くいきそうな感触はあるのですが……」
エイラが、語尾を濁した。
「あら、キュイランスがいる」
夏希は天幕の外を指差した。
金属カップ片手に、タナシス人らしい男性と談笑しているのは、たしかにキュイランスだった。すぐそばには、叔父のグリンゲ将軍の姿もある。
「馬子にも衣装、ってやつかしらね」
凛が、ずけずけと言う。
海岸諸国人としてはやや小柄で、風采も冴えず、おまけに野暮ったい服装がトレードマークになっているかのようなキュイランスだったが、今日の装いはなかなか派手であった。海岸諸国では礼服扱いされているゆったりとしたパンツに華美な飾り帯を締め、軽い上着を羽織るという組み合わせに、貴族っぽいつば広の帽子を被っている。グリンゲ将軍の服装も、似たようなものだ。
「このパーティに出席できたってことは、貴族になったのかも。挨拶してきましょうか」
夏希はエイラとサーイェナに断りを言って天幕を出た。凛はもちろん、キュイランスに縁の深い二匹の魔物も、あとをついてくる。
「夏希殿。凛殿。それに、魔物殿」
二人と二匹が近づくのに気付いたグリンゲ将軍が、破願して出迎える。
「貴族になったの、キュイランスさん?」
馴れ馴れしい調子で、凛が訊く。
「はい。一代限りの爵位ですが。憲章条約軍での奉職が、陛下に評価されたのです」
誇らしげに、キュイランスが言った。
「これも、引き立ててくださった皆さんのおかげです。……魔物殿にも、お世話になりました」
キュイランスが、コーカラットとユニヘックヒューマにも丁寧に頭を下げる。
「あたいたちも貴族になったのです! お互い貴族同士、仲良くやりましょう!」
ユニヘックヒューマが、ステッキを振り回す。
「わたくしも貴族なのですぅ~。キュイランスさんと同じく、一代限りですがぁ~。もっとも、魔物は死なないし子供も設けませんから、一代限りでも永代世襲でも関係ないのですがぁ~」
コーカラットが言って、カップを持った触手を揺らす。
「さすがにこれだけの規模のパーティとなると、歩いてるだけで知り合いに続々と出会うわね」
飲み物の入ったカップを林立させた盆を手に歩んでいる女性に、飲み終わったカップを手渡しながら、凛が言う。
「まあ、結構長いあいだこっちにいるし、高原からタナシスまであちこち出没して人脈作りまくったからね」
「あ、またいた。しかもイケメン発見」
凛が、夏希の脇腹をつつく。
「ランクトゥアン王子じゃない」
オープァ王国第六王子にして憲章条約海軍司令官。夏希も散々世話になった人物だ。
「夏希殿。凛殿。よいパーティですな」
端正な顔を綻ばせて、ランクトゥアンが歩み寄ってくる。
夏希はやや膝を曲げて挨拶した。身長は、夏希のほうが十五センチ以上高いのだ。
「どうですか、条約海軍の方は?」
凛が、訊く。
「順調ですよ。予算がたっぷりありますからね」
ランクトゥアンが、笑う。
『北部安全保障条約』に基づき、北の陸塊諸国は海軍の保有を禁止された。『アノルチャ条約』の規定に従い、沿岸の防衛に当たるのは、憲章条約海軍であり、その指揮は引き続きランクトゥアン王子が執ることになる。もっとも、敵らしい敵は海賊くらいしかいないから、その規模はかなり縮小された。余剰となった艦艇は、民間に払い下げられたのだが、外洋船舶の需要は南北陸塊間の貿易量増加を見越して増大しており、当然ながら中古船市場も暴騰気味だったので、憲章条約海軍の金庫はかなり潤ったらしい。
「僭越ながら助言させていただきますが、いまのうちに、上手な遣り繰りを会得しておいたほうがよろしいですよ、殿下。平時の軍隊の最大の敵は、少ない予算ですからね」
凛が、言う。ランクトゥアン王子が、笑った。
「それならば、オープァ海軍司令官時代に充分に学びましたよ。兄上たちの役所や陸軍がたっぷりと予算を得ているのに、海軍は常に貧乏所帯でしたからね。水夫の食料すら足りず、自活を余儀なくされていた時代もありましたし。あの名物である貝飯も、その名残ですしね。……ま、第六王子の立ち位置なんて、そんなものです」
「夕食時のウチみたいね。末っ子だったから、おかずの取り合いはいつも負けてたわ」
凛が、ため息混じりに言う。
「そうなの?」
「だから、こんななのよ」
凛が、夏希を見上げて自分の低身長をアピールした。
第百三十八話をお届けします。いささかご都合主義な登場キャラ近況報告回その1です。