128 停止
その報せがもたらされたのは、夏希がそろそろ寝ようかと同室のアンヌッカに声を掛けた頃であった。
報せを聞いて驚いた夏希は、夜着の上に上着を引っ掛けると急いで食堂に向かった。部屋数に余裕がないので、そこが食堂兼居間兼会議室になっているのだ。
食堂には、すでに拓海と生馬の姿があった。一杯やっていたのだろう、二人とも顔が赤い。
「人間界縮退が停止したって、ほんと?」
「タナシス王宮から来た役人は、確かにそう言ったぞ」
このニュースを聞いて嬉しいのか、それとも単に酒が入って陽気になっただけなのか、明るい声で拓海が答える。
「可能性はみっつだな。第八の魔力の源を扱っていた連中が、無駄遣いをやめた。魔力そのものを使い果たした。あるいは、魔力を引き出せる力を持った者が死んだか居なくなったか」
考え深げに、生馬が言う。ちなみに、酒は生馬のほうが強い。大きな声では言えないが、結構幼い頃から曾爺様に鍛えられたから、とのことである。
「いずれにしても、喜ばしいニュースだ。もっと早ければ、良かったんだがな」
うなずきつつ、拓海が言う。夏希も同意してうなずいた。
七ヒネで一キッホという猛烈なペース……一日に約六十六メートル……で縮退を続けていた人間界。その原因と推定される第八の魔力の源が発見されず、縮退を止められなかったことが、今回の北の陸塊の紛争……実質上、旧タナシス王国の内紛……にノノア川憲章条約が軍事介入し、大戦争になってしまった主因である。憲章条約が本格介入を決定する前に、縮退が止まっていたら、多くの人命は失われずに済んだはずだ。
「で、今後の影響だが……俺たち停戦監視団の仕事には、関わってこないだろう。タナシス王国の姿勢にも、変化はないはずだ。もっとも影響があるのが、高原の民だろうな」
そう言った拓海が、顔をしかめる。
「高原の民にとっては、朗報じゃない」
「彼らにしてみればな。だが、今まで高原の民が積極的に動いてきたのは、このままでは高原が魔界に呑み込まれかねないとの危機感を抱いていたからだ。その危険性が薄れた以上、北の陸塊への関与を渋ることに繋がりかねない」
「救援軍最大の兵員供出地域だからなあ」
生馬が、うめくように言う。救援軍の撤退も続いているが、いまだ多くの兵がアノルチャ州内には残っている。その過半数が、高原の民である。
「ま、大勢に影響はないだろう。高原の戦士たちも、ゴドウミ氏族長の面子を潰すようなまねはしないだろうからな。俺は明日エミスト女王とお会いする約束をしてあるから、念のためその場でこの話題を出してタナシス側の反応を窺ってみるよ」
拓海がそう言って、同意を求めるかのように夏希と生馬を見比べた。
「そうね。そうしたほうがいいかも」
「うむ。それがいい」
夏希同様、生馬もうなずきつつ賛成する。
「タナシス王国の分裂を、ノノア川憲章条約が許さないことは、もちろん承知しておりますよ」
ルークドルク卿が、物柔らかな口調で言う。
「とりあえずの目標は、将来的に新国家の独立を認めることを、陛下に公式に表明していただくことと、それを憲章条約側にも認めさせることです。前者を速やかに達成しなければ、わたしはわたしの目的を支持してくれている貴族たちの信頼を損なってしまいますし、後者が為されなければ前者も無意味です。今日は憲章条約の重要人物との会見があるのでしょう? そこで新国家に関する話し合いを行っていただきたい」
「停戦監視団の団長と会うだけです。彼は確かに重要人物ですが、その政治的権限はきわめて制限されています」
エミスト王女は、言葉を選びつつそう言い返した。ルークドルクが、首を振る。
「彼から政治的な言質を取れ、などとは申しませんよ。新国家に関しての、反応をみるとともに、その情報が憲章条約側にしっかりと伝わればそれでよろしいのです。長期的にみれば、彼らにとっても新国家の設立は利益になる、ということが理解されれば、停戦条件の見直しや、平和条約に新国家設立容認を盛り込むなどしていただけるでしょう。その、下準備をお願いしたいのです」
「……よろしいでしょう」
不満顔で、エミストは承諾した。
エミスト女王は、相変わらず奇妙な『軟禁』状態にあった。通常の政務は、制限なくこなすことができるが、常にルークドルク卿の側近がそばに『助言役』として付いており、言動に眼を光らせている。直属の護衛もすべてルークドルクの手の者だ。下手に逆らえば当然命はないだろうし、人質となっているリュスメースにも危害が及ぶであろう。
幸いなことに、ルークドルク卿の部下はシェラエズ王女を捕らえることには失敗したようだ。ルークドルク卿の指示で、エミストはシェラエズに対し王宮へ出頭するように触れを出したが、賢明なシェラエズはそれを無視し続け、行方をくらましている。
ルークドルク卿も、シェラエズ王女対策には頭を悩ましている様子であった。公安部隊を動員すれば、シェラエズの居場所を突き止めて捕縛することも可能だったが、シェラエズがその気になれば、半日もあれば数千名の正規軍を動員して王宮を包囲してしまえるだろう。もちろん、姉と妹が人質状態にあるのだからシェラエズも無茶はできないが、追い詰められたら反撃に出るのは眼に見えている。だから、いまのところルークドルク卿とシェラエズ王女は、お互いが切り札を懐に忍ばせつつ睨み合っているという、一種奇妙な『休戦』状態にあると言えた。
「新国家、ですって?」
拓海の説明を受けた夏希は、頓狂な声をあげた。
「ディディサク、ディディリア両州は、タナシス最大の貴族ルークドルク卿の本拠地で、広大な領土がある。まず間違いなく、こいつが関わってるな」
エミスト王女との会見の模様を夏希と駿に語り終えた拓海が、そう分析した。
「そう言えば、以前キュイランスからの報告に、ルークドルクの部下とカートゥール代表が会っていた、なんて話があったな。ひょっとして、レムコ同盟も関わっているのか?」
生馬が、眉根を寄せる。
「あり得るな。両州とも、スルメ王国と国境を接している。何らかの協力体制ができていても、不思議はない」
「で、どう返答したの?」
夏希は訊いた。
「教科書どおりの優等生的回答さ。停戦監視団団長としては、権限外のお話につき、明確な返答はいたしかねます、ってね。ただし、個人的感想として、憲章条約総会はこのような動きを歓迎しないだろう、とだけは伝えておいた」
「……長い眼で見れば、憲章条約にとって悪い話じゃないような気もするけど」
「新国家の性格によるとも思うが……。いや、やっぱり危険だ。終戦直後の日本で、北海道と東北地方がソ連の支援で独立しちまうようなもんだろう。まるでどこかの架空戦記みたいな設定になっちまう。これは、阻止した方がいいよ」
何か妙なことを思い出したのか、顔をしかめつつくすくすと笑うという器用なことをやりながら、拓海が言う。
「あー、それと、ひとつ妙なことに気付いた。というか、気付いたのはリダなんだが……」
「なによ」
「王宮の護衛隊の一部が、そっくり入れ替わってたんだ。皆、知らぬ顔になっていた」
「まさか、粛清とかあったんじゃないだろうな」
生馬が深刻そうな表情になる。
「そりゃないだろう。たぶん、オストノフ子飼いの連中が一掃されて、エミストが王女時代からの護衛を入れたんじゃないかな」
拓海が、あり得そうな推測を口にする。
「ふうん。それなら、あるかもね」
タナシス王宮の近衛隊士は、みな故オストノフの若い頃を思わせるようなガタイのいい汗臭いような連中だった。美人女王エミストの護りには相応しくなかったのかもしれない。
「おっと、もうひとつ、これは王宮内の噂なんだが……シェラエズ王女が行方をくらましているそうだ」
「……シェラエズが?」
夏希は眉根を寄せた。
「あくまで噂だがな。エミスト女王の出頭要請にもかかわらず、姿を隠しているとの話だ。男と駆け落ちでもしたかな?」
最後は冗談めかして、拓海が言う。
「まさか」
「じゃ、女とか」
生馬が、混ぜっ返す。
「それならあり得……いやいや、ないわよ」
一見自由奔放そうに思えるシェラエズ王女だが、言動がやや派手なだけで、行動そのものはたいへんに真面目かつまともな人物である。タナシス王国が試練を迎えているこの時に、よりによって駆け落ちなどするはずがない。
「そう言えば……リュスメースの方も最近消息を聞かないな」
ふと思いついたのが、生馬がそう口にした。
「王都に戻ってくる、とは聞いたけど、まだ到着したという話は聞かないわね」
夏希はそう言った。辺境州で第八の魔力の源の捜索を指揮していると公式発表されていたリュスメース王女。彼女が任を解かれて近々王都に帰還する予定、と公式にアナウンスがあったのが、四日ほど前。とっくに王都に到着していてもいいはずである。
「姉妹そろって行方不明か。困ったもんだな」
拓海が、笑った。
マーラヴィは、大きな荷物を背負って王都リスオンの街路を歩んでいた。
生馬らに命じられた買出しの帰途である。人種的には生粋のタナシス人だから、いったん停戦監視団宿舎の外に出てしまえば、他のリスオン市民の中に埋没してしまえる。それゆえ護衛無しでも気軽に出歩けるので、買出しやちょっとした使い走りは彼が一手に引き受けていた。
「そこの少年。ちょっと待ってくれぬか」
いきなり、人ごみの中から声が掛かった。
「はい?」
マーラヴィは足を止めた。念のために、生馬やソリスから教えられた通りに、さりげない動きで懐に忍ばせた短剣に手を当てる。
声を掛けてきたのは、まだ若そうな大柄な女性だった。足首まである厚手のロングスカート。生成りの綿の上衣に、毛織物の上着。その上に羽織った防寒用のケープといった、よくある地味な服装を身にまとっている。顔立ちは、ケープのフードを深く被っているので良くわからないが、肌がきれいなのは見て取れた。
「ちと話がある」
女性がそれだけ言って、身振りで路地の方へとマーラヴィを誘った。
……商売女か? いや、それにしては言葉が上品過ぎる。それに、こちらを目下にみている口ぶりだ。客を誘っているようには思えない。
……ひょっとして、これが噂に聞く痴女だろうか。
マーラヴィは内心で身震いした。自分が、男としては結構可愛らしい顔立ちをしていることは自覚している。田舎者ゆえにあまり詳しくは知らないが、都会にはこのように自ら男を誘って性的な行為に及ぶことを趣味とする女性がいると、聞いたことがある。
「なにか勘違いしているようだな。そなた、停戦監視団の護衛の一人であろう? 生馬殿の部下と聞いておるが」
声をひそめて、女性が問う。マーラヴィは驚きつつも、うなずきを返した。
「こちらへ」
女性が、マーラヴィの手首をつかむ。女性らしからぬ大きな手で、力も結構強い。マーラヴィはおとなしく、路地まで引かれていった。
「ここなら、まともに話ができる」
人気が少なくなったところで、女性が言った。言葉に、安堵の響きがある。
「この手紙を、夏希殿に渡していただきたい」
女性が、懐から折り畳んだ書状を取り出した。手で隠すようにしながら、マーラヴィに渡そうとする。
マーラヴィは、思慮深く受け取らなかった。
「怪しい物は受け取れません。まず、あなたの身分を明らかにしてください」
用心のため、周囲の気配を探りつつ、マーラヴィはそう要求した。フードの下から見えている女性の口元が、綻ぶ。
「よかろう」
女性が、フードの端をつまんでひょいと持ち上げた。眉から下の顔が、露となる。
典型的な、タナシス人女性の顔であった。しかも、かなりの美人だ。目鼻立ちがはっきりしており、見るからに意思が強そうな顔立ちをしている。
只者ではない、とマーラヴィは悟った。まず確実に、貴族女性だろう。体格や身のこなし、眼差しの強さから見て、武芸も嗜んでいるようだ。促成ではあるが、生馬とソリスに鍛えられたから、マーラヴィにもそれくらいは判る。
「シェラエズという。夏希殿とは懇意だし、生馬殿とも知り合いだ」
女性が、小声で名乗った。
マーラヴィは思わず出そうになった驚きの叫びを意志の力で押し止めた。シェラエズ王女が行方をくらましているという話は、上官たる生馬から聞いて知っている。まさか、こんな形で会いまみえるとは……。
「よせ。ここで身分を気取られるわけにはいかぬのだ。訳あって、身を隠しているのでな」
本能的に、へりくだった体勢を取ろうとしたマーラヴィの腕を、シェラエズが握ってやめさせる。
「迂闊でした、殿下。ではお手紙を、お預かりします」
マーラヴィは、少しばかり震え気味の手で手紙を受け取り、懐に収めた。
「要は、今日の日没直後に秘かに訪問したい。力を貸してほしい。タナシス側の人間には見つかりたくない、ということだな」
シェラエズと名乗った女性から、マーラヴィに託された手紙を読み返しながら、拓海が言う。
「偽物じゃないんだな?」
生馬が、夏希を見た。
「末尾のサインは、まず間違いなく本物だと思う。行方をくらましているという状況からしても、本物じゃないかな」
夏希はそう述べた。シェラエズから手紙の類は結構もらっているし、サインも見慣れているから、その真贋くらいなら見極められる。
「とりあえず、会って話を聞いてやるべきだな。生馬、タナシスの連中に見つからないようにできるかな?」
「警備の連中をごまかす方法はいくらでもあるよ。そっちの手配は、任せておけ。それよりも問題は……力を貸してくれって文言の方だろう」
生馬が、頭を掻く。
「そうだな。あの姐さんが力を借りに来る、となると深刻な事態なのかもしれない。なにしろ、行方をくらませている状態なんだから」
拓海が、腕組みをした。
「まさか、エミスト女王と仲違いしたから、亡命させてくれ、なんて話じゃないでしょうね」
完全に冗談のつもりで、夏希はそう口にした。聞いていた男二人が真に受けたらしく、深刻そうな表情で顔を見合わせる。
「ジンベルで受け入れるわけにはいかんぞ」
「駿に頼んで、ススロンで受け入れてもらえば……」
「あのー、冗談だったんだけど」
夏希は苦笑いしながら突っ込んだ。
第百二十八話をお届けします。




