121 勝敗の分かれ目
「や、薮蛇だったか」
拓海は焦った表情でつぶやいた。
夏希の決死の反撃に刺激されたのか、タナシス軍部隊は前線のすべてで激しい攻勢に出ていた。左翼は夏希の部隊がいまだ暴れているおかげでそれほどでもないが、拓海の正面である右翼では凄まじい勢いで突撃が繰り返されている。
拓海は背後を確認した。丘下で陣形を整えた生馬の部隊は、やっと半分といったところだ。残りはまだ集結途中か、集まっただけで整列さえできていない状態である。拓海が指定した待機位置には、いまだ一兵もいない。
拓海は呼び寄せた伝令に、現状を生馬に伝えるように命じた。
……動きが取れない。
夏希率いる決死隊は、完全に敵中に孤立していた。
幸い、タナシス軍が全面的攻勢に出てくれたおかげで、夏希ら部隊は包囲されたものの激しい攻撃には晒されていなかった。敵の努力は、憲章条約軍前線を喰い破ることに集中されているのだ。特に、こちらの右翼部隊の西側に対し、激しい攻撃が行われている。敵はそこを、突破点に定めたのだろう。夏希がいる位置からも、攻勢を続けるタナシス軍前線部隊の背後に予備部隊が集結しているのが良く見えた。
「夏希様!」
アンヌッカの鋭い声が、響いた。
夏希は慌てて頭を巡らせつつ、手にしていた竹竿を構え直した。
タナシスの長剣兵だった。夏希を憲章条約軍の高位の士官と見切ったのか、あるいは竹竿の君と見て取ったのか、周囲の兵士には見向きもせずに真っ直ぐにこっちへ突っ込んでくる。
走り寄ったアンヌッカが、すれ違いざまに剣を振るう。狙い通り、剣先は長剣兵の装甲されていない右肘を切り裂いた。バランスを崩した長剣兵が、得物を取り落としそうになる。夏希は素早く踏み込んで竹竿の突きを見舞った。鎧の上から腹部を直撃された長剣兵が、よろめく。そこへすかさず走り寄ってきた味方の矛槍兵が、斧の部分で長剣兵の頭部を一撃した。冑越しでも、その打撃力は凄まじいものであった。目庇の下から、さながら汗のように鮮血が流れ出す。首が変形し、頭部がねじれた状態で、長剣兵が仰向けに倒れた。
……部隊としての戦術隊形を維持できていない……。
方陣とは、四辺のうち一片の方向にその防御力と打撃力を集中できる歩兵密集隊形のことである。したがって、その側面は比較的脆弱であるし、背面に至っては無防備極まりない。もちろん、全周防御態勢の方陣隊形も存在するが、それはつまるところ部隊の持てる能力を四つに分割しただけの無駄の多い戦術隊形でしかない。
その一方向に戦力を集中した隊形ゆえ、方陣同士はお互いの弱点をカバーし合う必要があり、それゆえ必然的に複数の方陣は一列に並んで戦線を形成したり、半円状、ないしは円環状に固まる戦術隊形を取ることとなる。夏希率いる部隊も、事実上全周からの攻撃に対処するために、各方陣は後背を中央部に向けた円環状に布陣し、防御戦闘を継続していた。だが、先ほどの長剣兵のように、タナシス軍は方陣の隙間を衝くようにして浸透してきている。これは、はなはだ危険な兆候であった。
……これ以上、持たん。
拓海はそう見て取った。
憲章条約軍右翼部隊は、前線の維持に失敗しつつあった。凄まじいまでのタナシス軍の勢いに押され、このままでは複数個所で突破口を開かれてしまうだろう。すでに予備部隊を使い切っている拓海には、これに抗する術はなかった。
唯一の解決策は、前線維持を諦めること。
幸い、右翼を構成する全部隊には、拓海の事前作戦計画に基づいて、合図ひとつで東方へ退避し、タナシス軍突破戦力を南側へ素通りさせるように準備させてある。
拓海は生馬の予備部隊の様子を確認した。二千名ほどが、予定した位置に布陣している。丘下で陣形を整えつつあるのが、五千くらいか。
……悪いな、生馬。計画変更だ。
「右翼全部隊、東方へ退避開始」
アレキサンダー大王。ハンニバル。フリードリッヒ大王。ナポレオン。
戦上手と謳われた名将は、いずれも戦場機動の名手であった。いや、より正確に言うならば、きわめて優れた戦場機動を行えるだけの上質な部隊を、手足のごとく自在に使いこなせることができた、であろうか。
演習場ならば簡単な行動……行進隊列から横隊への変形など……も、戦場ではきわめて困難である。戦闘前の興奮や死傷に対する恐怖、飛び交う矢玉、さらには速やかに伝わらぬ命令などにより、兵士たちの動きは鈍り、妨害され、そしてミスが生じるのである。
実際の戦場で正確な戦場機動を行える部隊を作るには、鉄の規律と鋼のような強靭な精神力、長い訓練時間、そしてエリート部隊としての誇りが必要とされると言われている。
憲章条約軍は、かなり優秀な軍隊といえる。特に救援軍として選ばれ、はるばる北の陸塊へとやってきた彼らは、市民軍であっても正規軍兵士に匹敵するだけの質を持っているし、実戦経験もそれなりに積んできている。
だがしかし、その戦場機動能力はお粗末であった。
比較的東側にいた部隊は、個々の陣形を崩さずに速やかに移動して戦闘力を維持したが、その他の部隊は各方陣同士の連携が取れないまま、ばらばらに東へと退くこととなる。
タナシス軍はこれを見逃さなかった。すぐさま浸透し、憲章条約軍各方陣を個々に包囲しに掛かる。
右翼はたちまち乱戦となった。
グリンゲ将軍は、命令に従わなかった。
竹竿の君より、憲章条約軍左翼部隊の総指揮を任されたグリンゲ。その際に与えられた指示は、事前作戦計画通りに進めよ、というものであった。それによれば、右翼部隊が東方への撤退を開始したならば、左翼部隊も速やかに西方へと一時撤退し、タナシス軍の中央突破を許すべし、となっている。
だがしかし、グリンゲ将軍は指揮下の部隊に撤退を行わせなかった。生馬将軍の部隊が準備不足にあることと、右翼部隊の一部が事実上崩壊状態に陥ったことを見て取ったからだ。
グリンゲ将軍は、夏希からの説明で拓海の作戦計画の戦術的意味合いを十二分に理解していた。要となるのは、生馬将軍の部隊である。この部隊が、突入するタナシス軍決戦兵力の行き足を完全に止めることができなければ、作戦計画自体が根本から覆されてしまう。
現状で、計画通りの位置に布陣している生馬将軍の部隊は、いまだ二千名程度。予定の五分の一である。この状態で、作戦計画通りにタナシス軍にあっさりと中央突破を許してしまったのでは、生馬将軍の部隊に負担が掛かりすぎる。そう判断したのである。また、右翼部隊の一部が混乱したことにより、タナシス軍決戦兵力の先鋒が予想よりも大兵力となるであろうことも見越していた。
「高原弓兵は、東側側傍を通過するタナシス軍部隊に矢を浴びせよ」
グリンゲはそう命じた。正面の敵を支えることで手一杯の左翼部隊に可能な、生馬に対する支援は、それが限度であった。
「生馬殿、頼みましたぞ」
勝てる、とセーランは確信した。
タナシス軍の中央突破をわざと許し、決戦兵力を罠に掛けて殲滅するという拓海の作戦計画……。もしこれが計画通りに完璧に運んだのであれば、確かな戦術眼を持つセーランはひょっとすると罠であることを見抜いたかもしれない。だが、憲章条約軍左翼部隊は動かなかったし、右翼部隊の東方への後退は、その無様と言えるほどのもたもたとした動きから、ごく自然な圧力に耐えかねての撤退に……実際にそれに近かったから当然であるが……見えた。
すぐさま、セーランは囮部隊を再編成した予備隊七千に前進を命じた。前線部隊が開けた大きな穴に向け、精鋭部隊が駆け足で丘を駆け上ってゆく。
「まず西側の背後へ回り込め。敵左翼部隊を、殲滅するぞ」
突破戦力七千では、すべての憲章条約軍を包囲拘束するのは無理である。すでに乱戦状態に持ち込んだ右翼部隊は、当面脅威ではないとセーランは踏んでいた。まずは戦闘力を維持している左翼部隊の後背を衝き、これを混乱させたうえで殲滅する。しかる後に、東側に戦力を転じて残る憲章条約軍部隊も包囲殲滅を図ればよい。
セーランの命令を受け、決戦兵力七千が一本の太い棒となって戦線に開いた穴に突っ込んでゆく。主に左翼部隊から矢が射掛けられたが、彼らはそれを無視して突き進んだ。
「拓海の野郎……」
生馬は友人を罵った。
生馬に与えられた任務は、突破口から突っ込んできたタナシス軍決戦兵力を迎撃して足止めし、しかる後に左右から迫る主力と協力してその包囲殲滅を図る、というものであった。
しかしながら、いま丘を駆け上がってくるタナシス軍決戦兵力は、あまりにも正面幅が広い状態で接近しつつあった。突破口、というよりは、突破帯、といったところか。そうなってしまったのは、憲章条約軍右翼部隊が半ば崩壊状態にあるためである。
「絶対に、支え切れん」
丘の頂から、反斜面に陣取った指揮下の部隊へと駆け戻りながら、生馬は思案した。布陣しているのは、いまだ二千五百名。その数は時間の経過とともに増えつつあるが、一万名全員が揃うにはまだまだ時間が掛かる。
……悪く思うな、拓海。
「布陣を変更する。わが隊は左翼部隊の側面および後背を守備する位置に付く。敵を左翼部隊の背後に廻らせるな」
右翼部隊を一時的に見捨てることになるが、他に方法はなかった。組織的戦闘ができる左翼部隊を優先的に防衛し、機を見て反撃に転ずるほうが理にかなっている。
「あいつが簡単にくたばるとは思え……いや、あり得るか」
戦争映画だと、頭が良くて理屈っぽくシニカル、そのうえ眼鏡キャラはたいてい中盤辺りで死ぬ役柄である。
……うまく逃げろよ、拓海。
丘の頂を越えたタナシス軍決戦兵力は、反斜面に陣取っていた予備隊と思われる憲章条約軍部隊から、激しい矢の直射を浴びせられた。
部隊を指揮していた将軍は、敵予備部隊出現の報告を受け、更なる突撃を命じた。この敵部隊を粉砕しなければ、憲章条約軍左翼部隊の後背を衝くという命令を達成できない。
この会戦が始まるまで、将軍はセーランのことをいまひとつ信用していなかった。名前と評判くらいは聞き及んでいたが、敬愛していたシェラエズ王女の代わりにいきなり上官として就任した年下の男を、無条件に信任できるほど、将軍は素直な人間ではなかった。
だが、戦闘開始直後から、セーランに対する評価は一変していた。打つ手がことごとく当たっていたからだ。将軍に囮部隊を指揮させ、敵主力を柵前におびき出す。そこで毒枝の煙を浴びせ、混乱させる。近接交戦に持ち込み、有利に戦いを進める。
そして今、思惑通り敵戦線に大穴を開け、勝敗を決定付けるであろう機動打撃戦力を敵の後背に送り込もうとしている。
……やはり噂どおりの切れ者だった、ということか。奴なら、憲章条約軍を北の陸塊から叩き出し、レムコ同盟と西部同盟を屈服させられるかもしれん。
「進め! 敵に戦術予備はもう残っていないはずだ!」
将軍は部下を煽った。眼前にいる敵は、おそらく最後の予備部隊か、兵站担当要員らをかき集めて武装させただけの弱兵であろう。いずれにしろ、数は少ないはず。まちがいなく、短時間で押し切れる。
その後は、主力を敵左翼部隊の背後に機動させ、攻撃に移行する。七千に後ろへ廻られれば、一万を越える敵左翼部隊の運命は決したも同然である。側近を引き連れ、丘を小走りに登りながら、将軍は勝利を確信していた。
「側面に廻らせるな! 長剣兵隊、前へ!」
生馬は忙しく戦場に眼を走らせ、細かい指示を出し続けた。
当面の目的は時間稼ぎである。時が経てば経つほど、味方の兵力は増えてゆく。
生馬の部隊は健闘していた。高原弓兵は矢継ぎ早に矢を射かけ、長槍兵と矛槍兵はタナシス兵をまったく寄せ付けていない。丘の頂を越えていきなりこちらの部隊と遭遇し、敵情を十分につかめぬまま戦闘に突入したらしい敵は、当初の混乱から立ち直って果敢に攻撃を仕掛けつつあるが、生馬の部隊は余裕を持ってそれに耐えている。怖いのは別働隊に側面や背後に廻られることだが、今のところその対処もできている。
乱戦の中に、拓海はいた。
拓海は必死になって剣を振るった。生馬が選んでくれたうえ、何回も稽古を付けてくれた剣であったが、その腕前はひどいものである。ぴったりと寄り添っていてくれるリダの鉈がなければ、とっくに草原に倒れ伏す戦死者の仲間入りをしていたことだろう。
右翼部隊の過半数、約七千は、完全に乱戦状態にあった。六千はいったん東方へと離脱、そこで短時間陣形を整えた後、反撃に転じていたが、その前進はタナシス軍部隊によって阻まれている。
……どうしてこうなった。
タナシス兵を寄せ付けないために剣を振るいながら、拓海は自分の見通しの甘さを呪った。勝ち戦が続いたせいで、タナシス側の力量を低めに見積もりすぎたのが、原因だろうか。
どす。
しつこく拓海を付け狙っていたタナシス長剣兵が、横合いから現れた憲章条約市民軍矛槍兵の突きを受けてようやく倒れる。拓海は荒い息をつきながら、その矛槍兵に笑顔を向けた。
「きゃ」
リダの悲鳴。
拓海は声がした方向に向き直った。
タナシス槍兵と、リダが対峙していた。リダの右頬……古傷のある方……から、鮮血が滴っている。突きを避け損ねたのか。
「俺の嫁に、何しやがる!」
拓海は剣をかざしながら踏み込んだ。気付いたタナシス槍兵が、拓海目掛け槍の穂先を突き出す。身をひねってこれを躱した拓海は、必殺の気合を込めて剣を振り下ろした。
すかっ。
見当悪く、刀身が何もない空間を切り裂いてしまう。
「ふんっ」
気合とともに、リダが踏み込んだ。槍で防ごうとしたタナシス兵の懐に、小柄な身体を活かして飛び込み、鉈を振るう。ぱっと散った鮮血が、リダの顔と頭に掛かった。赤い飛沫が、リダの頬の新旧の傷を覆い隠す。首が半ば取れかかったタナシス兵が、くるりと身体を半回転させつつ倒れた。
「リダ!」
「問題ありません」
厳しい表情で言い放ったリダが、鉈を構え直した。
一個団五百名があっさりと壊滅したところで、将軍はようやく自分が相対しているのが、単なる寄せ集めの弱兵でないことに気付いた。質はこちらと同等に違いない。報告によれば、数も少なくとも三千はいるという。
将軍は丘を登るペースを速めた。自らの眼で敵を確かめ、指揮を執らねばならない。
丘の頂を越えた将軍は、足を止めた。荒い息をつきながら、戦況を観察する。
……弱兵どころか、正規兵ではないのか。
整然たる方陣と、これを援護する弓兵の隊列。相対しているのは、正規兵かそれに準ずる高度な訓練を受けた市民軍としか思えない。しかも、数はどう見ても三千以上だ。
「閣下、丘下をご覧下さい!」
駆け寄ってきた士官が、焦った口調で進言する。
将軍は、指差された方向を見やった。
「馬鹿な」
思わず口走る。
丘の南側、麓付近に、多数の人影が認められた。その数、四千ほどか。そこから隊列を組んだ兵士たちが、続々と丘を登りつつある。川沿いの街道にも、多数の人が見えた。
……嵌められた。
将軍は悟った。先ほどの憲章条約左翼部隊からの突出攻撃。これは、撤退の援護ではなく、時間稼ぎの手段だったのだ。予備部隊が戦場に到着するまでの、時間稼ぎ。
「閣下、川にも敵が!」
護衛兵の一人が、遠方を指差す。
南側のリスオン川にも、遡上してくる十数隻の川船の姿があった。……これは生馬が後から追ってくるようにと命じた兵站部隊の船であり、戦闘要員は事実上一人も乗っていなかったが、そんなことを将軍が知る由もない。
……さらに敵が集まりつつあるのか。
「セーラン将軍に、この状況をお伝えしろ!」
勝てぬか。
セーランは、冷静にそう判断を下した。
東側では、優位に戦闘を進めているものの、兵力不足ゆえ決定的な勝利は得られていない。西側も同様、降着状態。さらに、決戦兵力は完全に行き足が止まった。おそらく、敵左翼部隊後方に廻り込むのは無理であろう。
こちらの予備部隊は、一兵残らず使い果たした。新たに積極的な手を打つことは、もうままならない。それに対し、敵は予備部隊が続々と集結しつつあるという。
憲章条約予備部隊が本格的に戦闘に参加すれば、こちらは戦線を維持できないであろう。戦線が崩壊すれば、後背に部隊を送り込まれる。その段階で退却を開始すれば、まず確実に激しい追撃に晒されるであろう。この地の北方は開けた地形であり、効果的な防衛戦闘に利用できるような地物は皆無だ。ここで追撃戦が行われればキュスナル市まで逃げ帰ることになる。……損害は甚大なものになるだろう。
戦闘を継続しても益はない。ここは敗北を認め、損害が少ないうちに撤退すべきだ。キュスナル市に十分な兵力を持って立てこもれば、まだまだ戦える。
セーランは撤退命令を出した。まずは敵陣奥深くまで突出した決戦兵力を退かせる。同時に、東側で乱戦に巻き込まれている部隊を下がらせ、戦線を整理する。西側で敵左翼部隊と交戦中の部隊は、そのまま戦闘を継続させる。退いた決戦兵力は再編成を行って、丘下で後衛として布陣。準備が整ったところで本隊も離脱、退却させる。憲章条約軍が行うであろう追撃は、後衛に任せる。
三万は安全に退却できる、とセーランは踏んだ。
第百二十一話をお届けします。