119 罠か、否か
セーランの期待したとおりに、憲章条約中央軍団本隊二万は順調に北上を続け、翌日の昼前に丘の南側に到着した。夏希と拓海は、前衛部隊が派出した警戒部隊が布陣する丘上に上り、タナシス軍に対する偵察活動を開始した。
「……思ったよりも、しょぼい築城ね」
望遠鏡を覗きながら、夏希は言った。
レンズの中には、一キロほど離れた丘下のタナシス軍陣営が映っていた。さほど太くない丸太と、まだ緑色の葉がついたままの木の枝を組み合わせた、それほど頑丈そうに見えない柵がいくつも並んでいる。空堀のようなものが掘られた形跡はないし、土盛りなども見当たらない。
「川はしっかりと封鎖してあるな。こっちに杭を使いすぎたんで、頑丈な柵を作れなかったのかもな」
リスオン川方面を覗いていた拓海が言って、自分の望遠鏡を下ろす。
「で、どう思う?」
望遠鏡を後ろで控えていたアンヌッカに渡しながら、夏希は訊いた。
「とりあえず罠とは思えんな」
腕組みして、拓海が言う。
一同は、丘の頂上付近に立っていた。拓海の後ろには、影のようにリダが付き添っており、さらに後方には五十名ほどの護衛兵が付き従っている。
「火計の可能性はあると思ってたが、この様子じゃ無理っぽいし」
拓海が言って、足元の草を蹴る。膝丈くらいの萱のような草がびっしりと生えており、丘下から吹き上がってくる弱い風になびいているが、葉が硬いうえに瑞々しいので、火を掛けても容易には燃えないだろう。
「落とし穴とかも、なさそうだしねえ」
「敵が大兵力ならば、こちらに丘上に登らせてから包囲し、水断ちを狙うってのもありだろうが、それもありえないしな」
「とりあえず、戦闘開始は明日でしょ?」
天頂付近にある太陽をちらりと見上げて、夏希は言った。相変わらずの好天だが、昨日よりも雲量が多く、時折低層の灰色がかった綿雲によって日差しが翳ることがある。
「そうだな。生馬の部隊が到着するまで、あと四時間くらいは掛かるだろう。それから開戦しても、いくらもしないうちに日没だ。こちらの錬度を考えると、夜戦はやりたくない。今日のうちに戦術的に有利な丘上を確保してから、野営すべきだな」
「敵が夜戦を狙ってる可能性は?」
「大いにありだな。十分に警戒しないとまずい」
うなずきつつ、拓海が難しい顔をする。
「で、明日の作戦は決まった?」
「部隊を二手に分けよう。あんたが左翼を率いてくれ。任務は、敵右翼部隊の拘束だ。俺が右翼を率いて、敵左翼部隊を拘束しつつ東へ延翼運動を行って敵陣を薄くする。頃合を見て、生馬の予備軍を投入、敵左翼部隊に穴を開けて中央突破を図る。目的は、敵右翼部隊の片翼包囲殲滅だ。敵が西側の守りに使っているリスオン川を、逆に利用して敵部隊の移動を制限させ、川に押し付けるようにして殲滅する。上手く行けば、二万名近くを包囲できるだろう」
「……味方の損害も大きそうね」
「仕方がない。この戦略状況では、タナシス側の強制する戦場で戦わざるを得ないんだから。素人目には、攻める方が常に主導を握っているように見えるだろうが、攻撃者の侵攻方向は防御者にも丸判りなのが普通だ。戦術目標と違い、戦略目標を秘匿するのは困難だからな。防御側が有利な点のひとつだな」
拓海が、おどけたように肩をすくめてみせる。
「勝ち目は?」
「大きいね。まず間違いなく、タナシス側は生馬の予備部隊の存在をつかんでいないはずだ。戦線が膠着し、敵が予備軍を使い切り、戦術の柔軟性を失った時点で生馬の一万名が投入されれば、確実に中央突破に成功するだろう。……とりあえず、明日に備えて部隊の編成替えをしておこう。それから、丘上を占拠する。そのあとで……昼飯だな」
「なぜ仕掛けて来ぬのだ!」
幕僚の一人が、苛立った声を上げる。
憲章条約軍の大部隊は、こちらの予想通り丘上を占拠した。だが、通り一遍の警戒態勢を取っただけで、一向に攻撃の姿勢を見せない。
「煙数筋を確認! ……炊事の煙のようです!」
見張りが、大声を張り上げる。
セーランは望遠鏡を覗いた。薄く白い煙が、北からの風にたなびいている。たしかに、炊事の煙のようだ。
「いかがいたしましょう?」
副指揮官格の幕僚が、訊いてくる。
セーランは悩んだ。昼食後に憲章条約軍が仕掛けてくる可能性は高い。だが、開戦を明日に想定していることもあり得る。そしてもちろん、こちらとしてはなんとしても今日中に戦端を開かねばならない。明日になれば、まず間違いなく風向きが変わってしまう。
丘上に居座られたままでは、毒枝攻撃の効果は薄い。なんとしても、自陣直前にまで敵を引きつけ、たっぷりと煙を浴びせてやらねばならない。
……囮の準備が必要だな。
セーランは、必要な命令を下し始めた。
「兵站ってのは、やっぱ大事よねぇ」
ぼやきつつ、夏希は昼食を口にした。
食べているのは、いわゆるハードビスケットである。丸い煎餅サイズの、乾パンを想像してもらえばわかり易いだろうか。濡らさない限り何年でも常温保存できる優れものだが、恐ろしく硬い。そのまま歯で噛み砕くのは不可能なので、普通はお茶やスープに浸してからかじったり、水を加えて軽く煮てお粥のようにして食べるのが普通である。焼いた小麦の香ばしさと適度な塩気があり、決して不味い食べ物ではないのだが、副食物が乏しいうえにこのところ連食中なので夏希はすでにこの味には飽き飽きしていた。
「生馬の予備軍運ぶために輸送力の大半を取られているからな。ま、もう少しの辛抱だ。いずれ、また米が喰えるようになるよ」
丘の中腹に胡坐をかいて座った拓海が、ハードビスケットを温いお茶に浸しながら言う。
「生馬が何か持ってきてくれれば、夕食にはまともなものが食べられるよね」
「期待薄だな。そういうことに気が回る男じゃないから。ま、持ってきたとしても陣中見舞いの酒がいいとこだな」
拓海が、薄く笑う。
「拓海様、夏希様。敵陣に動きが見られます!」
そんな侘しいがのんびりとした昼食が終わったころ、拓海の幕僚の一人が駆けてきてそう告げた。二人は慌てて立ち上がると、足早に丘の頂へと向かった。すぐそばで控えていたアンヌッカとリダも、続く。
「あれは……攻勢準備だな」
眼鏡越しに敵陣を一瞥した拓海が、即座にそう判断する。
「やる気ね」
アンヌッカが差し出した望遠鏡を身振りで断りながら、夏希も言った。細部を観察するまでもなかった。柵のあいだから湧き出した数多くの兵員が、方陣を形作りつつある。
「中央軍団長殿に報告。タナシス軍は攻勢準備を整えつつあり。十ヒネ以後に前進攻勢の可能性高し。迎撃準備の必要あり」
拓海が、付いてきた幕僚に命じた。すぐさま、幕僚が走り去る。
丘の頂付近で警戒に当たっていた部隊は、すでに自主的に迎撃準備を整えていた。方陣を組み直し、武具の点検に掛かっている。
「おっと、待った」
自分の部隊……約一万五千名からなる左翼部隊……の指揮を取ろうとこの場を去りかけた夏希の左手首を、拓海が握って引き止める。
「なによ」
「どうもおかしい。ここであえてタナシス側が不利な丘下から仕掛けてくる理由を思いつかん」
「……生馬の予備軍接近を悟られたんじゃないの? だから、到着前に一戦交えようとしているとか」
夏希はとっさに思い付いた推測を述べた。
「それはあり得るが……いや、どうも罠の臭いがするんだが、確信が持てない。悪いが、左翼部隊の指揮はとりあえずグリンゲの爺様に任せて、あんたはここにいて知恵を貸してくれ」
「そういうことなら」
納得した夏希は、自分の武具を検め始めた。いつもの革鎧、愛剣。水袋はいっぱいに入っている。アンヌッカが渡してくれた革製の被り物……冑というよりは、ヘルメットに近い形状だ……を着け、竹竿を握れば、戦闘準備は完了である。
「柵の前に出た第一陣が一万近く。柵の後ろに控える第二陣がたぶん一万五千。さらに後方の残り一万五千が予備か、第三陣だな。波状攻撃も意図しているようだ」
望遠鏡で敵陣の細部を観察しながら、拓海が言う。
「迂回戦力は?」
「今のところ、その動きはないな。正面切って、やりあうつもりらしい」
「やっぱり、罠じゃないのかな?」
「わからん」
憲章条約側も、準備を整えつつあった。左翼部隊一万五千、右翼部隊一万八千が、丘を東西に横切るように重層的に布陣する。当面の予備部隊五千も、その後方、丘の反斜面に陣取った。
「来たぞ」
望遠鏡を覗いたまま、拓海がぼそりと言う。
柵の前で方陣を整えたタナシス軍第一陣部隊が、一斉に動き始めた。ゆっくりとした速度で、丘を登り始める。こちらの矢を警戒し、先頭は大盾を持った盾兵で固めているようだ。
夏希はどこかに罠の兆候がないかと眼を凝らした。念のために、丘の南方や東方、さらにはリスオン川を挟んだ対岸までも望遠鏡で探ってみる。だが、敵らしい姿はまったく確認できない。
「そうだ、生馬に伝令を出したほうがいいんじゃない? 急げって」
ふと思い付いた夏希は、そう提案した。
「うっかりしていた。そうだな」
すぐさま、拓海が伝令を呼んだ。川船に乗った生馬の予備部隊一万は、予定通りならばもう十キロほど下流まで遡って来ているはずだ。
その間にも、タナシス軍部隊は続々と丘を登りつつあった。拓海が手を上にかざし、風向きを確かめる。
「弱い向かい風だな。矢戦には、やや不利か。まあ、こちらが高所にいるから、風向きの不利は無視できるレベルだろうが」
言うまでもなく、最大射程を得るために曲射された矢は、高所から放たれた方が射程が延びる。
味方前衛と迫り来るタナシス軍の距離が四百メートルくらいになったところで、憲章条約軍自慢の高原弓兵による曲射攻撃が開始された。数千本の矢が、前進を続けるタナシス軍第一陣に降り注ぐ。これを予測していたタナシス側は、前進のペースを速めるとともに、盾を頭上にかざしてこれをやり過ごそうとした。
速いペースで、高原弓兵隊が矢を放ち続ける。矢が何本も突き刺さった盾を手に、しゃにむにタナシス軍方陣が憲章条約軍との距離を詰めようとする。自らの持つ石弓の射程距離内まで到達したタナシス軍弓兵が、応射を開始した。
なおも突き進むタナシス軍方陣に対し、一部の高原弓兵が直射に切り替えた。憲章条約側前衛方陣も、長槍を手に槍衾を作って待ち構える。第二列の矛槍兵を主力とする方陣も、前進準備を整えた。前衛同士が接触したと同時に、直射している高原弓兵隊を下がらせ、その前に出て長槍方陣の間を固めるのが、その任務である。
タナシス軍方陣の長槍兵が、立てていた長槍を倒し、水平に構えた。ほぼ同時に、駆け足となる。
憲章条約側槍衾の穂先と、タナシス側方陣の槍先が、接触した。次の瞬間、凄まじい叩き合いと突き合いが開始される。
幾千もの矢が、その頭上を飛び交う。戦場の喧騒……武具が打ち合わされる金属音、数万の足が地面を踏みつける重々しい音、叫び声などが交じり合った雑然たる音響が、さして大きくもない丘を包み込む。
夏希は流れ矢を避けるための大盾越しに、戦場の模様を観察した。タナシス側第二陣が、柵前に出て準備を整えている。拓海の読みどおり、波状攻撃を意図しているのだろう。
「これは……まさか」
同じようなスタイルで、戦場を観察していた拓海が、意外だ、という風に声を漏らす。
「どうしたの?」
「タナシス側の士気、予想よりも低いぞ」
「……言われてみれば、そんな感じもする」
夏希はうなずいた。タナシス軍兵士は、常に勇敢であった。正規軍はきわめて優秀で、命令に忠実。奴隷部隊は死すら恐れぬ。市民軍の規律も、高い。
だが、眼前で繰り広げられている戦いにおけるタナシス軍の動きは、若干ではあるが鈍く感じられた。ためらいがある、というか気後れしているというか、どうにも勇敢さに欠けるように思える。何度も戦場でタナシス軍と戦ってきた夏希だからこそ、気付く程度のわずかな違いではあったが。
と、タナシス軍方陣のひとつが唐突に崩れた。液状化した地面のようにいきなりぐずぐずと崩壊し、ばらばらとなった兵が後退し始める。
それをきっかけとしたように、タナシス側前線が乱れ始めた。いくつかの方陣が、後退を始める。
「崩れるのが早すぎるわね。罠?」
「あるいはな」
難しい表情のまま、拓海が答える。
タナシス側方陣が、続々と後退を始める。当然、憲章条約側が追撃に掛かった。長槍を水平に構え、あるいは矛槍を振りかざしながら、追いすがってゆく。
囮部隊が、後退を始めた。
「炭に火を」
静かに、セーランは命じた。
焚き火の側に設えてある炭に、火が点じられる。炭の利点のひとつが、煙をほとんど出さないことである。ここで焚き火に点火し、煙を上げてしまっては、憲章条約側に罠だと見破られるおそれがある。
タナシス側第一陣は、追撃を受けて敗走状態となった。秩序を失ったまま、丘を駆け下りてゆく。
前衛部隊が敗走を装って追撃を誘い、敵主力を任意の位置に誘い出すというのは、もっとも古典的な戦場における策略のひとつである。
……罠なのか、それともマジな敗走なのか。
拓海は迷った。すでに戦略的には追い詰められているタナシス軍。士気がどん底まで落ちている可能性は、十分に考えられる。ひょっとすると、シェラエズ王女はすでに更迭同様に解任され、後釜としてセーラン将軍が総指揮を執っていることも、あり得る。
信頼している美人王女様の代わりに、どこの馬の骨とも知れぬ無名の将軍がトップに立つ。その上、都市篭城という有利な抵抗策を放棄し、戦術的に正しいとは思えぬ野戦を選択、さらに無謀とも言える丘上の敵への突撃を命ずる……。
「俺なら、絶対に戦意を失うな」
拓海はぼそりとつぶやいた。
「え、なに?」
聞きとがめた夏希が、こちらを向く。
「いや、独り言だ」
「追撃、続けさせていいの?」
問われた拓海は、無言で戦場を眺め続けた。敗走するタナシス第一陣は、柵前で待ち受けていた第二陣の中になだれ込みつつあった。これにより、第二陣の整然たる方陣は崩れ始めている。
……演技とは思えん。
拓海はそう結論を下した。演技だとすれは、あまりにも過剰である。この状態では、タナシス軍でまともに戦えるのは予備部隊の一万五千程度だけだろう。このまま憲章条約軍が突入すれば、簡単にタナシス軍を屠れるはずだ。……敵が何らかの秘策を有していない限りは。
「三千丁の鉄砲でも隠し持ってない限り、ありえんな」
やはり、タナシス軍の士気が落ちているのだと、拓海は結論付けた。作戦を変更し、このまま全軍を丘下まで移動させ、タナシス軍陣地に対し全面で攻勢を掛ける。混乱した敵前線ならば、数箇所で突破点が見出せるだろう。そのうち有望な二点に戦力を集中し突破攻撃を掛け、予備軍を後方に送り込む。となれば、完全包囲も夢ではない。
壊乱状態の兵が、続々と戻ってくる。
……注文通り嵌ってくれたな、憲章条約軍。
セーランは内心でほくそ笑んだ。囮部隊には、完全に陣形を乱してもよいと指示してあったし、その後方に待ち受けていた第二陣に関しても同様の指示を与えてある。再編成の時間は、たっぷりとあるのだ。
「敵、十シキッホを切りました!」
見張りが叫ぶ。
「焚き火に点火」
セーランの命令が伝達され、用意されたすべての焚き火に焼けた炭が投じられた。燃え易い細い枯れ枝や薄く削いだ木片に、たちまちのうちに火が回る。三十本の白い煙が、立ち昇った。
「煙……やっぱり火計?」
夏希は眼を凝らして、敵陣から上がった数多くの煙の柱を見た。
「いや、火計のはずがない。煙幕だろう」
拓海が言う。煙の柱は、弱い北風によって、地面を這うようにしながら丘を登ってくる。撤退を続けるタナシス軍部隊が、その煙に次々と飲み込まれてゆく。
「……煙幕にしては、やけに薄くない?」
夏希はそう指摘した。白っぽい煙だが、ごく薄い靄のようで、タナシス軍の動きは丸見えである。
「ああ。あれじゃ、煙幕の役には立ってないな……」
なおも続々と、タナシス軍前衛が煙の中へと逃れてゆく。第一陣崩壊のあおりを受けて陣形を乱した第二陣も、煙の中で柵の中へと撤収している。こちらの部隊は、柵まであと二百メートルほどのところまで迫っていた。
……いまだ。
「枝を投じよ」
セーランが、命じた。
燃え盛る焚き火の中に、毒枝が一斉に投じられる。生乾きの枝から、すぐさま白く濃い煙が吹き出した。
煙幕の煙が、若干濃くなった。
拓海は眼を見張った。しかし、煙はいまだ薄く、煙幕の役には立っていない。
逃げ散ったタナシス軍兵士の大部分は、すでに柵内に逃げ込んでいた。それを追う憲章条約軍は、柵前一シキッホ半くらいの位置まで迫っている。
濃さを増した白い煙の壁が、憲章条約軍の目前に立ちはだかっていた。さながら、風に煽られた巨大な白いレースカーテンのごとく。
煙。自陣前への誘い込み。自陣から敵陣へと吹く風。斜面。
拓海の脳裏に、第一次世界大戦のいくつかの戦場が浮かんだ。
「まさか、ガス戦か!」
拓海は思わずそう口走った。
第百十九話をお届けします。