110 海岸堡
固体、液体、気体。いわゆる『物質の三態』である。
陸軍は、航空機や小型船舶を運用することもあるが、基本的には固体の上……すなわち大地で活動する軍種である。海軍は、主に海洋で、場合によっては湖沼、河川などの液状の水の上、ないしはその中で活動する軍隊である。空軍は、気体である大気中をその縄張りとする。
物質の三態のうち、もっとも不安定なのが気体である。しかし、その密度の薄さゆえ他者に与える影響は少ない。液体は密度が濃いが、固体に比べはるかに不安定であり、それゆえその内部または上に存在する他の物体に対し大きな影響を与える。特に莫大な液体の集合体である海洋において、気象状況の変化に応じて大気との境目である海面が動揺した場合、その上で活動している海軍艦艇が受ける影響は大となる。これは、今も昔も変わりはない。
「う~」
夏希はうめいた。すでに、胃の中は空っぽである。
アノルチャ港奇襲上陸を目論む救援軍海軍輸送船団は、ランクトゥアン王子直率の戦隊に護衛され、ラドーム島を出航し、大海を北上しつつあった。天候は、雨。雨脚は強くないがかなりの風を伴っており、灰青色の海はうねりが強く、帆走する船を不規則に揺らし続けている。
「……どうしてこんな日に作戦決行するのよ……」
夏希は、恨みがましく拓海に問いかけた。
「戦略的、戦術的タイミングだな。シェラエズがディディリアにいるし、そこに一万五千程度と見積もられる野戦軍が集結したとの情報が入った。西部軍団の方も、呼応して進撃する態勢が整ったと生馬から連絡が入った。今日はこんな天気だが、地元の漁師や船乗りの意見では夜半からは晴れて波も穏やかになると思われる。などなど、だな。ま、今日のところは船室でおとなしく寝ていろ。どうせ、やることはないんだろ」
「まあね」
夏希は拓海の勧めに従って、素直に自分の船室に向かった。船室と言っても、実際には船倉の一角に垂れ幕を巡らして設けられた寝床に過ぎず、リダとの『相部屋』だが、少なくともプライバシーは保てるし、手足を伸ばして眠ることもできる。
「……ユニちゃんがいてくれればなぁ」
愚痴りながら、夏希は海水や汚れが染み込んで黒光りしている下甲板を歩んだ。と、反対側から歩んできたキュイランスと行き会う。
「おや、夏希様。だいぶお加減が悪そうですね。船酔いですか?」
「……そう。あなたは、船には強そうね」
いつも通りの調子らしいグリンゲの甥を見て、夏希は力なくそう言った。
「薬を服用しましたから平気です。……よろしければ、一服さし上げましょうか?」
「え、船酔いの薬なんてどこで売ってるの?」
「購入したものではありません。自作の薬です」
ちょっと照れたような笑みを浮かべながら、キュイランスが説明する。
「拓海様からタナシス奴隷兵の麻薬の成分分析を依頼されてから、薬品に興味が沸きまして、色々と勉強したのですよ。各地から薬用植物などを取り寄せて、実験などしてみた結果、でき上がったのがこれです」
キュイランスが、ポケットから小さな皮袋を取り出し、中身の一部を手のひらに振り出した。パチンコ玉くらいの大きさの、赤茶色の丸薬だ。
「胃痛、下痢、食あたり、二日酔い、吐き気止め、そしてもちろん船酔いにも効く万能薬です。服用は一日二回、朝晩に一錠ずつ。水かお茶で噛まずに飲み下してください」
「厚生労働省の認可は受けてないだろうけど……」
「はあ?」
「ま、いいか。一粒もらっとくわ。ありがとう」
夏希は怪しげな丸薬をつまみ上げた。折よく通りかかった若い防衛隊兵士に、水を持ってきてくれるように頼むと、その場で服用する。
「しかし……自作の薬とは。外見だけでなく、性格も拓海と似てるのね。つまりは、オタク気質なんだわ」
「オタク気質ですか」
キュイランスが、首を傾げる。
「あー、探究心が旺盛で物事に熱中し易く、知識欲に溢れている、といった意味よ。褒め言葉だから」
夏希はそう説明してその場をごまかした。
揚陸作戦の要諦は、ビーチヘッド……海岸堡……の確保と拡大にある。
通常、揚陸第一波は軽装備であり、さらに揚陸用機材数の制限から全揚陸戦力の数分の一の規模しかないのが普通である。揚陸作戦を成功に導くためには、第一波が幅数キロ、奥行き数百メートルから数キロの海岸堡を確保し、第二波以降の揚陸部隊に安全なる揚陸を行わせる必要がある。
いったん海岸堡を確保し、追加の戦力が整ったならば、次に行うべき作戦行動は海岸堡の拡大である。曲射火器……迫撃砲、各種野砲、榴弾砲などによる揚陸阻止攻撃を防ぐために、揚陸地点から十数キロの範囲に部隊を送り、海岸堡を広げるのだ。その範囲内に、使用可能な飛行場や重装備を陸揚げできる港湾があることが望ましい。そしてもちろん、海岸堡は単に面積を広げただけでは意味がない。機甲戦力を含むであろう敵の機動打撃戦力を撃退できるだけの強靭な陣地と為すことが重要である。防衛ラインに縦深をもたせ、敵の攻撃を空間的余裕を持って吸収しつつ火力を集中して頓挫させるのは、防御の基本である。
このようにして海岸堡を拡大、保持し、通常の方法では揚陸の難しい戦車、長射程砲兵部隊、燃料などを効率よく陸揚げできる港湾を占領し、運用する能力を得て初めて、揚陸作戦が成功したと言えるのである……。
「とりあえず、ワレ奇襲ニ成功セリ、ってとこだな」
船端から望遠鏡で海岸を見渡しながら、拓海が言う。
夏希も眼を眇めて、二百メートルほど前方の鄙びた漁村を眺めた。戸数は三十数戸、というところか。本格的な港ではなく、浅く小さな湾沿いにある幅の狭い砂浜に、これまた小さな漁船が十数隻引き揚げてある程度の漁港である。浜に干されている魚網などの漁具の類、積み重ねられている樽や木箱なども、見て取れる。村人たちは、突如現れた大艦隊に度肝を抜かれたらしく、家々の戸口や砂浜に突っ立って、こちらを呆然と見つめているだけだ。
夏希らの頭上には、昨日の悪天候が嘘のように、青空が広がっていた。風も穏やかで、潮の匂いをたっぷりと含んだやや冷たい空気は、ほとんど動きがない。うねりだけは昨日の余波かわずかに高めだったが、揚陸作戦に支障が出るほどではない。
「しかし……原始的な上陸作戦ねえ」
夏希は視線を下方に転じた。船縁に下ろされた小船に、網梯子を伝って何名もの防衛隊兵士が乗り込んでゆく。
「あんたの頭の中じゃ、ノルマンディ上陸作戦を描いた映画や、沖縄戦あたりの記録映像が再生されているんだろうが、あんなまともな近代的揚陸戦が行われたのは第二次世界大戦末期以降だけだぞ。帝国陸軍のマレー上陸作戦あたりは、これと大して変わらない光景だったんだ」
「そうなの?」
「もちろん、はるかに機械化されていたがな。でも、小船で砂浜などに乗りつける、といった手法は大差ない。第一波が歩兵戦力に頼らざるを得ない状況を考えれば、当然だがな」
拓海が説明しつつ、肩をすくめる。
各輸送船から発した小船が、漁村に漕ぎ寄せてゆく。村人たちは、相変わらずぼーっと突っ立ったままだ。これは、いい兆候であった。憲章条約救援軍は、抵抗しない限り一般市民には一切危害を加えないし、財産を毀損することもない、という宣伝が浸透していることの証左であったからだ。
砂浜に到達した小船から、防衛軍兵士たちが続々と降り立つ。一部の兵は整然とした隊列を組んで、すぐに東へと向かった。アノルチャ市に通じる道を偵察するためだ。残りの者は、漁村の外郭を目指す。この漁村自体を、当面の海岸堡とする計画だからだ。兵士を下ろした小船は、第二波を乗せるために急いで輸送船へと取って返す。
夏希はアンヌッカを伴って、第二波に加わった。もちろん、竹竿持参である。
砂浜に降り立った夏希を目にし、見守っていた村人のあいだからどよめきが起こった。竹竿の君の悪名……もとい、名声はこんな鄙びた漁村にまで轟いているのだ。夏希は竹竿を手に、彼らに余裕の微笑を送った。本作戦を成功させるためには、シェラエズに明白なメッセージ……いわば挑戦状に等しい……を送らねばならないのだ。
揚陸予定戦力四千のうち、半数の二千が上陸し、隊伍を整えた時点で、夏希は東……アノルチャ市の方向……への進撃を命じた。すでに、ランクトゥアン王子率いる艦隊がアノルチャ港に突入し、牽制攻撃を行っているはずだ。敵が奇襲によって混乱している状態を衝くには、攻撃開始は早いほどよい。
海岸沿いの小道は、狭くて歩きにくかった。アノルチャ市との行き来は、主に船で行われているのだろう。潮に強い葉の分厚い低木や、長年海風に晒されて奇妙に捻くれた松のような木々のあいだを縫うように伸びる道を、兵士たちが一列縦隊で足早に進んでゆく。今のところ、敵の抵抗どころか、接触すら一切なかった。
やがて、前方から煙の柱が数本立ち昇った。ランクトゥアン艦隊が、タナシス船を炎上させたのだろう。あるいは、港の建物に火を放ったのか。いずれにしろ、敵の混乱に拍車を掛ける行為である。
樹林が切れて視界が開ける。前方に横たわるアノルチャの市街地では、動きが見られた。さすがに、ここまで来るとこちらの動静は察知されていたようだ。市民軍らしいタナシス軍兵士たちが、市街地の外郭に必死になってバリケードを築いているのが見える。
夏希は部隊をまとめると、北西の隅を狙って攻撃を開始させた。一番先に確保すべきは、河港である。ここを占領すれば、アノルチャ川を使った増援を効果的に阻止できる。
こちらが狙ったとおり、タナシス軍市民軍の士気は低かった。良質な部隊は、最前線たるディディリア、ディディサク両州に派遣されているのだ。ここに残っているのは、訓練不足か体力不足、あるいは中年以降の市民軍ばかりである。ほんの数分の戦闘で、外郭を守っていたタナシス市民軍の防衛線は瓦解する。追撃に転じた夏希らは、ごくあっさりと河港全体を奪取した。東部の砂浜に上陸した部隊とも、ここで連携を果たす。
夏希は部隊に休息を命ずると、交渉のために使者を市街中心部に送り込んだ。アノルチャは大都市である。掃討戦を行えば時間がかかるし、一般市民に大きな損害が出てしまい、占領行政に支障を来たす。一刻も早く降伏させたほうが得策である。
返答を待っているあいだに、後続の部隊が続々と到着する。ほどなく、使者がもどってきた。アノルチャ市防衛を司る市民軍指揮官は、降伏を拒絶したという。
「仕方ないわね。ちょっと手荒に行きましょう」
夏希は部隊に前進を命じた。市街制圧ではなく、使者から報告のあった市民軍指揮所の位置をまっしぐらに目指す。士気の低い市民軍の抵抗は長続きしなかった。わずか三十分ほどで、タナシス側から降伏の申し出がなされる。
ランクトゥアン艦隊の各艦が、アノルチャ港内に入って縮帆する。
「案外あっけなかったわね」
夕日を浴びて淡いオレンジ色に染まりつつある港を眺めながら、夏希はそう感想を述べた。
「まあ、完全な奇襲に成功したからな。本格的揚陸作戦なんて、北の陸塊では史上初なんじゃないか? ラドーム島への侵攻も為されなかったんだし。タナシス側にしてみれば、海からくるなんて反則だ~、とか思ってるかもしれん」
くすくすと、拓海が笑う。
結局、救援軍側の損害は死傷八十名程度で済んだ。タナシス側の損害は、死傷二百名ほど。若干の市民に巻き添えの死傷者が出たが、これはいたし方あるまい。
「シェラエズが奪回作戦を行ってくれるなら、それは早くとも五日後くらいになるだろう。二回は、全力で補給ができる。とりあえず、市民軍五千は増強するよ。あとは、金と小麦粉を運ばせる」
「うまく行くのかしらね。その『秀吉作戦』って」
「行くはずだがな。ここしばらく、タナシス国内の経済と物流は滞り気味だし」
アノルチャ市はいわゆる罠である。シェラエズが奪回を諦めてしまっては、意味がないのだ。救援軍北部軍団の総兵力は一万九千。一方、シェラエズの手元にある兵力は、一万五千程度と見積もられている。周辺から部隊を引き抜いたとしても、タナシス側がアノルチャ市奪回に割ける兵力は二万前後だろう。北部軍団すべてがアノルチャに立てこもったとすれば、シェラエズがあっさりと奪還を断念する可能性が高い。夏希と拓海は、当面アノルチャの守備に就ける兵力は、一万を少し上回る程度に留めておくべき、と考えていた。そのくらいならば、シェラエズは早期の奪還作戦開始に踏み切るだろうと判断したのだ。
もちろん、兵力差が大きいまま防衛戦を行えば、こちらの被害が甚大となる。これを防ぐのが、事前の陣地構築である。だが、こちらも結構微妙な問題を有していた。アノルチャ市を完全に要塞化してしまえば、シェラエズが奪還を断念しかねないのだ。そこで、外郭防衛線は簡便な陣地化に留め、市街地内に強固な防衛ラインを敷く、というプランが占領前からできあがっていた。
陣地構築に必要な労働力は、アノルチャ市民と得られた捕虜で賄われる。拓海の計画では、半強制的に作業動員された市民に対し、十分な量のパンと金を支給する、ということになっていた。羽柴秀吉が、付け城や軍用路、あるいは水攻めの際の堤建設に際し使役した農民たちに対し、気前よくふんだんな米の飯と十分すぎるほどの銭を与えたことに倣ったものである。
すでに、救援軍の手によって、アノルチャ市内のパン釜は接収状態にあった。市内から徴発された小麦粉が運び込まれ、『二十四時間態勢』でパンが焼かれる手筈になっている。市民への供給量を減らさないための工夫であった。
「食い物の恨みは恐ろしいからな。占領中は価格統制を行って、パンを始めとする基本的な食料の価格は据え置く。貧困層には、無料でパンを配ってやる。そうして、民心を買うわけだ。救援軍に協力して作業してくれる市民には、毎食しっかりと食わせてやるし金も与える。ここは、今後救援軍が占領行政を行う際のモデルケースとなるんだ。抵抗しなければタナシス人であってもお咎めはいっさいなし。それどころか、積極的に救援軍に協力すれば飯も喰えるし金ももらえる、となればタナシス側から自発的に離反する市民も出てくるだろう」
「合衆国ばりのお大尽アタックね。いつまで持つのかしら」
「小麦粉は当面レムコ同盟持ちだし、金の方もいずれ連中に請求することになるだろうな。当面は救援軍が立て替える形になるが」
「ねえ、レムコ同盟の方の財政は健全なんでしょうね? もし債務不履行なんてことになったら、南の陸塊諸国もただじゃすまないでしょう」
不意に不安感を覚えた夏希は、そう拓海に訊ねた。
「とりあえず資力はあるようだ。いざとなったら、鉱山でも水利権でも漁業権でも森林伐採権でも取り上げちまえばいい」
「それって、植民地支配と変わらないじゃない」
「仕方あるまい。南の陸塊諸国もボランティアやってるんじゃないんだ。今は利害が一致して手を組んでタナシス王国と戦っているし、ノノア川憲章条約にも加盟させたが、北の陸塊諸国は憲章条約旧加盟国にとっては、潜在的敵国だよ。長期的に平和を保とうとすれば、そのことを忘れてはいけない」
「そうね。で、具体的にはどうするの?」
「まずはタナシス王国の存続だ。共通の敵が存在し続ければ、手を組んでいられるからな。救援軍の一部が、北の陸塊に駐屯し続ける……もちろん費用は北の陸塊諸国持ちで……ことも可能だろう。次に、北の陸塊諸国の政治的、軍事的団結の解消。つまりは、レムコ同盟と西部同盟の解散だ。もともと個別の政治的、軍事的同盟関係の締結は、憲章条約違反だからな。総会での議決権を得られる正式加盟前に、これは解散させる。この二点さえ達成してしまえば、北の陸塊が南に歯向かうことは当面ないはずだ」
「夏希様、拓海様。お話中申し訳ありませんが、お食事の用意が整いました」
二人の背後から、アンヌッカが控えめに声を掛けてくる。
「戦勝祝いのごちそう、とはいかないわね」
案内されたテーブルの上を見て、夏希は頭を振った。スライスした醗酵パンとチーズ。干し魚とわずかな青物。干し肉入りのスープ。……戦場食と大して変わらないメニューだ。
「ま、次の補給がくるまでの辛抱だ。多少は米を積んでくるはずだからな。その便で、俺はいったんラドームへ帰るよ。そこで兵站関連の打ち合わせを終えてから、カートゥール代表のところへ戻る予定だ。ま、とりあえず喰おうや。」
箸を取り上げた拓海が言う。
「そうね」
夏希も箸を手にした。昼食は戦闘指揮の合間にパンとチーズをかじっただけだったから、結構空腹であった。
第百十話をお届けします。