107 焦る人々
突然の人間界縮退速度の急加速……。
南の陸塊で一番慌てたのは、当然のことながら高原の民であった。すぐさま族長会議が開かれ、いかなる方法を以てしても『第八の魔力の源』を探し出し、その浪費を停止させる、との決議が全会一致で採択される。
ノノア川憲章条約総会も、第八の魔力の源の探索と、その魔力使用を止めさせるためにあらゆる手を尽くすことを、全会一致で決議した。またその場で、高原諸族の各代表が連名で、同決議を遂行するにあたって軍事力の行使が必要であれば、高原が兵力の提供を行う用意があるとの声明を発表する。各国代表は、こぞってこれを歓迎した。
北の陸塊への軍事介入已む無しの空気が、徐々に醸成されつつあった。
「よくない情勢ですね」
リュスメース王女は、ひとり呟いた。
ディディリベート州南部にある小さな平原に立つ、天幕の中である。
彼女が加わっているタナシス西部方面総軍は兵力一万六千。対する西部同盟は、兵力二万六千。タナシス側は、兵力不足から積極的に動くことが出来ず、一方の西部同盟側も質的劣勢から攻勢に出ることは能わず、両者とも軍事的には睨み合いの状態が続いていた。もっとも、西部方面総軍の戦略目的は、東部方面総軍がレムコ同盟との戦いに勝利するまで、西部同盟を抑えつけておくことが目的であったので、睨み合いという現状はその目的を達成し続けている、という見方もできたが。
タナシス国内では、人間界縮退加速問題は、ノノア川憲章条約によるタナシス王国潰しの陰謀である、という説が流布していた。憲章条約はタナシス王国を見限り、戦争を反タナシス派の勝利に終わらせるために、わざと保有する魔力の源の魔力を浪費させて、人間界を縮退させ、タナシス王国の国力を削いでいるのだという噂である。すでに、高原の民の一部は、平原への移住の準備を進めているともいう。
そんなことはありえない、とリュスメースは確信していた。誇り高き人々である高原の民が、あっさりと住み慣れた高原を捨て、平原に移住するなど考え難かったし、もし本当にタナシス王国を見限ったのならばこのような迂遠な手段を使わずとも、軍事介入なり反タナシス派への援助なりを行ったほうが手っ取り早く、かつ効果的であるはずだ。
おそらくこの噂は、レムコ同盟か西部同盟がタナシス王国と憲章条約の関係を悪化させようと、意図的に流した情報工作だ……実際にそうであったのだが……と、リュスメースは確信していた。すでに、王都リスオンの実姉エミストに向けて、その旨を指摘した手紙は書き送ったし、そこには対抗策として『人間界縮退加速はレムコ同盟による陰謀』という逆宣伝を行うべき、という提案も書き添えてあった。
「そろそろ、退路を確保しておく頃合いかもしれませんね」
イサマス村での『大勝利』……とタナシス王国側は自称していた……の結果、純軍事的にレムコ同盟と西部同盟を叩き潰せる可能性は、ほぼ潰えたと見ていい。となれば、なんとかして政治的勝利を掴み取るしかないが、それにはノノア川憲章条約の力を借りるのが唯一の手段と言える。そしてそのためには、反タナシス派『各国』に大幅な自治権を付与するなどの多大なる譲歩を行う必要があるだろう。大国意識を捨て、面子を失ってでも実利を取らねばならぬ情勢に至りつつある。リュスメースは、そう分析していた。
……お父様の退位の可能性も、検討しなければなりませんね。
大幅譲歩を国民に納得させるには、誰かが責任を取らねばならない。それには、現国王オストノフが退位する、という形がもっとも適切だろう。幸い、エミスト王女は国民にたいへん人気がある。彼女が王位を引き継げば、国民……タナシス人は支持してくれるはずだ。
マリ・ハにひょっこりとやってきたレムコ同盟と西部同盟の合同外交団に、総会で意見表明を行いたいとの要請を受けて、急遽憲章条約臨時総会が開かれる。外交委員として、夏希はオブザーバーの席に座った。事務局顧問の駿、暇だったらしい凛も、顔を見せる。
居並ぶ各国代表を前に、仰々しい前置きの挨拶を終えた外交団長が、恭しい態度で外交団の一人を演説台の前へと招く。
歩み出た男性は、髪もたっぷりと蓄えられた髭も真っ白で、かなりの老人に見えた。しかしながらちょっと太めの体躯はいまだしっかりと筋肉がついているようで、歩み方などは年齢を感じさせない溌剌としたものだ。赤ら顔の中の小さな眼は生気に溢れ、なんとなく茶目っ気を感じさせる。
「ノノア川憲章条約加盟各国および各氏族代表の皆様、事務局の皆様、そして、この場にいらっしゃるそれ以外の皆様」
その老人が、張りのある声で喋り出す。
「まさか……」
夏希の隣に座っていた外交部長が、目を見張る。
「どうかされましたか、リーンバス殿?」
夏希は訝しげな視線を、ラクトアス人の貴族男性に向けた。
「あの容貌。間違いない」
「発言の機会を与えていただき、まことに感謝いたします」
演説台では、老人がわずかに頭を傾げ、謝意を示している。
……容貌。
夏希はあらためて老人を凝視した。サンタクロースみたいな、白い髭と髪。
え。
……レムコ同盟の外交団。そこに加わっている、サンタクロースによく似た老人。
「自己紹介させていただきます。現在はレムコ同盟代表を兼任しております、レムコ王国国王、カートゥールと申します」
老人が名乗った途端、総会議場が騒然となった。
総会でカートゥールが行った要請および提案は、要約すれば以下のようなものであった。
まずは、スルメ公国を始めとするレムコ同盟および西部同盟加盟『各国』に対する、憲章条約加盟諸国による国家承認要請。そして、速やかなノノア川憲章条約への加盟承認要請。
次に、ノノア川憲章条約に基づく合法的なレムコ同盟および西部同盟に対する軍事援助と、北の陸塊で行われている戦争への派兵要請。
派兵費用自体は、消費する食料も含め両同盟加盟各国が支払う旨を提案。戦争指導に関しても、憲章条約側に優越権を譲ることを承諾。戦争目的は、あくまで各国の独立であり、タナシス王国の打倒を求めないことを確約する。
「かなりおいしい条件だな。上手く立ち回れば死傷者は少なくて済むだろうし、北の陸塊に恒久的……は無理としても当面の平和をもたらすことができる」
夏希らから話を聞いた生馬が、無精髭の浮いた顎を撫でる。
「でも、これだと完全にタナシス王国を敵に回しちゃうわよ。事実上、反タナシス派と同盟を組んでタナシスと戦うことになるんだから」
夏希は憤然として言い放った。一回敵として戦ったものの、その後仲直りして友人となった相手である。ここで再び戦うのは、裏切り行為のようで釈然としない。
「中途半端な軍事介入なら、しないほうがましだよ」
拓海が、わずかに顔をしかめて言う。
「内戦ないしそれに近い戦いに介入するのは、慎重にやらにゃならんのだ。まず、好意的な住民が居住する安定した策源地を確保すること。旗幟を鮮明にし、どの勢力に味方するかを決めておくこと。はっきりとした戦略目標を定め、それを達成すれば確実に戦争を終わらせることができるという見通しを持つこと。十分な戦力を用い、かつ不利な縛りのない条件で戦うこと。以上四つのどれが欠けても、泥沼になりかねない。国民党政府を相手にせずとか言っていた連中がどうなったかを見てみりゃいい。ベトナム、アフガンもそうだな」
「いずれにせよ、総会が決めることだね。僕たちに、決定権はないんだから」
諦めが混じった笑みを浮かべた駿が、ゆっくりと首を振る。
レムコ同盟加盟各国……スルメ王国、メリクラ王国、ペクトール王国、バラ王国の四ヶ国と、西部同盟加盟各国……カレイトン王国、クーグルト王国の二ヶ国、さらにラドーム王国に対する国家承認は、数日のうちにすべての憲章条約諸国および諸族が行った。これを受けて開かれた憲章条約総会において、レムコ同盟加盟各国と、西部同盟加盟各国が提出したノノア川憲章条約加盟申請は、総会での議決権(各国一票)の行使は北の陸塊における戦争が終結し、平和と秩序が回復されたと総会が判断するまで留保される、という条件付きながら、これも全会一致で認められた。
合同外交団はさっそく事前に準備しておいた各国国王の信任状を提示し、六ヶ国それぞれの総会代表を指名し、総会の承認を経て正式に憲章条約総会における代表出席権利を得る。すぐさま六ヶ国代表は連名で、ノノア川憲章条約第一章第一項および第四項に基づき、加盟各国に対しタナシス王国との紛争に関し軍事援助と平和回復のための派兵を求める議案を提出する。憲章条約旧加盟国は基本的にこれに賛意を示し、憲章条約防衛隊参謀部に派兵準備を命じる決議を行ったが、同時にタナシス王国に対する外交交渉の継続も行うことも決定し、市民軍の動員令は当面発しないことを公表した。
「で、動員計画がこれだ。こっちが、作戦計画書。ちゃんと情勢の変化に応じてアップデートしてあるから、そのまま使えるはずだ」
拓海が、北の陸塊の大きな地図が広げられているテーブルの上に、二束の書類を無造作に投げ出す。
「呆れた。最初から、タナシスと開戦するつもりだったのね」
分厚い作戦計画書を手元に引き寄せながら、夏希は目を剥いた。
「舐めてもらっちゃ困るね。ちゃんと、タナシスと同盟してレムコ同盟と西部同盟と戦う作戦計画も作ってたよ。有事に備えるのが、平時の軍隊の仕事だからね」
拓海が、薄笑いを浮かべつつ言う。
「で、どういう計画なんだい?」
駿が、訊く。
「憲章条約防衛隊一万二千のうち、八千名を派遣する。動員する市民軍は、当面五万。半分以上は、高原諸族が出してくれるだろうな。これを、三分する。憲章条約北の陸塊派遣軍……通称救援軍東部軍団は、防衛隊二千、市民軍二万。救援軍西部軍団が、防衛隊二千、市民軍一万五千。救援軍北部軍団が、防衛隊四千、市民軍一万五千」
「北部軍団?」
夏希は首を傾げた。南部や中央部ならわかるが、この名称は解せない。
「秘匿名称というか、欺瞞目的の名称だな。救援軍東部軍団の北を担当するように見せかけるんだ。実際には、遊撃的に使う揚陸部隊なんだが」
「救援軍、ってのが気にかかるわね。なんだか、どこかの胡散臭いNGOみたいで」
くすくすと、凛が笑う。釣られるように、拓海も微笑んだ。
「派遣軍や遠征軍より口当たりがいいからな。いずれにしろ、派遣部隊は現地ではよそ者となる。たとえ味方であっても、北の陸塊の連中から見れば侵入者なんだ。援助者的な立場を強調し、正義を名乗るくらいしないと、無駄に反感を生んでしまう」
「ネーム・コーリングという奴だね。反復して耳目に接することで、貼られたレッテルが真実であるかのように浸透してしまう」
駿が、意地悪そうに笑う。
「ま、そういうことだ。ついでに、本遠征のスローガンも披露しとこう。『民族自治こそ正義』『タナシス人は敵にあらず。真の敵はリスオン王宮にあり』『人間界縮退は世界の危機である』……と、こんなところだな」
「あんまりいい出来じゃないわね」
凛が、そう評した。
「どうせコピーライターの才能はないよ」
作った本人らしい生馬が、苦笑する。
「で、この他に救援軍統合海軍が組織される。司令官は、あのランクトゥアン王子に頼もうと思う。これら四軍を統一指揮するのが、解放合同司令部だ。まあ、お飾りだがね。ちなみに、副司令官にはカートゥール代表に就いてもらう予定だ。レムコ同盟全部隊は救援軍東部軍団司令部に隷属するし、西部同盟全部隊も同様に救援軍西部軍団司令部の指揮下に入る。で、肝心の俺たちの役割だが、俺は東部軍団に加わる。生馬は、西部軍団。夏希は、北部軍団に加わってくれ。今回は、あんたのネームバリューが必要になる」
「囮になれ、とか言うんじゃないでしょうね」
夏希は鼻にしわを寄せた。
「さすがに鋭いな。その通りだ。だからこそ、防衛隊を四千も付けたんだが。えー、タナシス軍はいまだ莫大な兵力を有している。具体的な数字を挙げれば、東部方面総軍が二万五千、西部方面総軍が一万六千、予備軍と辺境軍が五万近く、と見積もられている。さらに、市民軍の未動員が推定で十万以上だ。得られた情報では、抗戦意欲も旺盛らしい。一時期落ち込んだオストノフ国王への支持も、レムコ同盟および西部同盟が憲章条約に接近したことを受けて回復したようだ」
拓海が、夏希を見据えて言った。
「戦争を終わらせるには、敵の継戦能力を破壊しなければならない。物理的あるいは精神的にね。タナシスの場合、物理的な継戦能力はいまだ十分な数を残している兵力と、それを支えることのできる経済力だ。精神的なそれは、オストノフ国王への支持と大タナシス主義となる。この四つに対し、一度にダメージを与える作戦を立案した」
拓海が机上の地図の一点に、指を置く。
「アノルチャ?」
書き添えられている文字はいまだに夏希には読めなかったが、北の陸塊随一の大河河口にある都市はアノルチャ市に間違いなかった。
「そうだ。まず統合海軍が大海からタナシス水上戦力を一掃する。そして、東部軍団と西部軍団が攻勢に出てタナシス軍を誘引している隙に、北部軍団主力がタナシス最大の港湾都市アノルチャに奇襲揚陸を行なって、これを占領する。本作戦の肝は、ディディリアおよびディディサクに駐留するタナシス東部総軍に対する兵站の大半は、アノルチャ川を経由して行われているという事実にある。より詳しく言えば、リスオン川を下って、アノルチャ川との合流点に達し、そこからアノルチャ川を遡る、というルートだ。そして、俺が以前タナシスを訪れた時の観察と今までに取集した情報によれば、比較的小型の外洋船ならば、この合流点までアノルチャ川を遡ることが十分に可能だ」
「アノルチャ市を占領し、そこを策源地として敵の兵站を妨害する作戦か。悪くないね」
駿が、そう評する。
「いや、本作戦の目的は敵野戦兵力の削減にある。アノルチャ市を抑えられ、河運を妨害されたタナシス側に採れる手はふたつしかない。ディディサク州とディディリア州の防衛を断念し、撤退する。あるいは、主力を以ってアノルチャ市の奪還を図る。前者であれば、オストノフ国王の権威はガタ落ちになるし、タナシスの経済にも大打撃となる。後者であれば、俺の思惑通りになる」
「揚陸って、つまりは船でアノルチャに乗り付けて、占領しようってこと? どの程度の兵力で?」
夏希はそう訊いた。
「船舶には余裕がある……前回のタナシスとの戦いで、多数の外洋輸送船を拿捕したからね。むしろ水夫が足りないんだ。だから、第一陣は六千名程度だね」
「六千……厳しいわね」
夏希は唇を噛んだ。都市へ立てこもる場合、事前準備に十分な時間的余裕があれば、六千程度の兵力でも二万超程度の敵ならばかなりの期間守り通す事が可能だろう。しかし、準備期間が不十分なうえ、敵対的な住民多数が居住している状態となると、大軍を相手にした場合まず持ちこたえられまい。
「あー、そこが本作戦の要なんだ」
夏希の思考を読んだかのように、拓海が続けた。
「タナシス側もそう考えて、アノルチャ市奪還を企てるだろう。しかし、制海権はこちらにある。戦史上、洋上から十分な補給や兵力増援の手立てがある包囲された港湾都市が包囲攻撃に屈した例は僅少なんだ。だから、タナシス側が攻勢に出てくれればアノルチャ市は死の罠となる。だから、北部軍団に高名なる名将、竹竿の君に加わって欲しいんだよ。タナシス側、もっと具体的に言えば東部総軍を率いるシェラエズ王女を誘引してもらいたいんだ」
「やりたくないわね、色々と」
夏希はぼりぼりと頭を掻いた。いつぞやのシェラエズの予言……『夏希殿と敵味方として戦場で相まみえる』が、このままでは的中してしまいそうだ。
「戦争が長引けば、一般市民への被害も増大する。偽善かもしれんが、タナシス兵が死ぬことによって終戦が早まるのはいいことなんだ。この作戦が成功し、タナシス東部総軍が戦力を減らせば、レムコ同盟軍がディディサク、ディディリア両州を制圧できるだろう。そうなれば、リスオンの後背地たるディディウニ州を窺うこともできるし、救援軍がリスオン川を遡ることも可能になってくる。一気に終戦に持ち込むこともできるだろう。我々が目指すのはあくまで短期決戦なんだ」
「やるしかないのね」
夏希は覚悟を決めた。異世界人とはいえ、ここでの身分は憲章条約総会に隷属する事務局外交部の外交委員兼参謀部参謀の下級貴族に過ぎない。上からの指示には、従うしかないのだ。
第百七話をお届けします。