103 バラ自治州
バラ自治州は、いわゆる海岸平野に位置する地域である。
海岸沿いを除けば降水量は少なく、河川にも恵まれていないので、耕作は盛んではなく、その生産量は微々たるものである。海岸沿いでは小麦、トウモロコシ、大豆、それに野菜類が栽培されているものの、中部から北部にかけての草原化した平野部では、大麦、キビなどの乾燥に強い作物が細々と作られている程度だ。穀類の大半は、隣接するペクトールやアノルチャから移入されている。
このような環境……広く平らな乾燥した平野が多く、農作物に恵まれない……ゆえ、バラが牧畜を主産業とする地域となったのは必然と言えよう。飼育されている牛と羊の数は、北の陸塊随一と言われており、産出される加工肉や乳製品、羊毛などは品質も良く、遠く王都リスオンや西部地域にまで移出されている。
また、バラは造船や海運業においても有名である。大河が存在しないゆえに河川交通が発達しなかったため、バラでは古くから沿岸航行による海運が盛んであったのだ。海岸沿いの森林には、オークに似た優れた船材となる樹木が多く生えており、今でも民間籍タナシス外洋船舶の半数は、バラ自治州の港町サマトスとその周辺で造られている。
そのようなわけで、領域自体が豊かな穀倉地帯であり、主食たる穀類を自給できるスルメ、メリクラ、ペクトールとは異なり、バラ自治州は消費する食料の過半を他の地域からの供給に頼っている。さらに経済面でも他の地域との関係が深く、特に西隣のアノルチャ州とは経済的相互依存体制にあると言っても過言ではないだろう。それゆえ、元スルメ王国の一地域でありながら、独立運動は他の地域よりも不活発であったし、今回のレムコ同盟成立に対しても、積極的に参加を表明した領内貴族は全体の三分の一程度に過ぎなかった。同様に、自治州軍も多くの部隊がレムコ同盟の指揮下に入ることを渋り、結果的に指揮系統から離脱してレムコ同盟側へと走った兵力は千名前後に留まった。反タナシス派によって勝手に行われた独立宣言に対する反発も、自治州内で当然のように巻き起こってくる。一般市民も、タナシスの支配に反感を感じているものの、命がけで戦ってまで独立を成し遂げたいとは思っていない者がほとんどである。
これに目を付けたのが、アノルチャ市に司令部を置き、約二万五千の軍勢でアノルチャ、ディディリア、ディディサクの正規三州を防衛しているタナシス正規軍の重鎮、レジエ将軍であった。レムコ同盟軍の総数は推定で四万を数えるが、いまだ戦力の集中を行なっていない。この段階で速やかにバラ自治州に侵入し、反タナシス勢力を一掃してしまえば、レムコ同盟には手痛い打撃となるであろう。
レジエ将軍は、守備する三州でそれぞれ十個団五千名規模の市民軍を組織させ、防衛任務を命ずると、ディディサクおよびディディリアから主として正規軍部隊を引き抜き、アノルチャに戦力を集中させた。その数、正規軍十八個団九千名、奴隷軍五個二千五百名の、合計一万一千五百名。
市民軍若干と、海軍船舶、および徴用した民間船舶による兵站支援を受けつつ、レジエ将軍が直率する『西部方面総軍第一軍』は海岸沿いの街道を東進し、バラ自治州内に侵入した。目指すは、バラ自治州最大の港町、サマトスである。当市と、その北に位置する食肉の集散地である州都カンラを制圧すれば、反タナシス派を州外へと叩き出せるはずであった。
バラ自治州をしっかりと固めてしまえば、それを拠点にして北部の草原地帯を北へと突っ切り、スルメ公国を南方から攻めることも可能だろう。もちろん、東進してペクトール公国を脅かすこともできる。それを防ぐには、レムコ同盟側は戦力を分散させねばならぬ。
早い段階での軍事的敗北と、同盟からのバラの脱落。レムコ同盟にとっては、大きな打撃である。遠からず、瓦解の危機に見舞われるに違いない。
もちろん、これらレジエ将軍の動きは、レムコ同盟側もつかんでいた。ディディサク、ディディリア両州からタナシス正規軍が多数引き抜かれ、南下を開始した時点で、レジエ将軍の狙いがバラ『王国』侵攻にあると判断したレムコ同盟暫定代表カートゥールは、バラに展開する部隊に警報を発すると共に、スルメ『王国』南部に兵力の集中を開始する。レジエ将軍率いるタナシス第一軍が、サマトス市近郊に到達したとの報告がもたらされた時点で、カートゥール代表の手元に集まった兵力は、元スルメ公国軍を主力とする精兵五千と、市民軍八千程度であった。この他に、バラ王国内には元バラ自治州軍一千、市民軍二千程度が展開している。合計兵力は一万六千に達するが、半数が市民軍なので、その総合戦力はタナシス第一軍に劣ると見ていいだろう。
カートゥール代表は、集まった兵を率いて南下を開始した。目指すは、バラ自治州の元州都にして、現バラ王国の首府カンラ市。
サマトス市をめぐる攻防戦は、きわめて短時間で終了した。わずか三千名では、一万を超える第一軍と戦えないと判断したレムコ同盟側が、早々に兵を引き、北のカンラ市方面へ退却したからだ。
レジエ将軍はあえて追撃を行わなかった。今後しばらくのあいだサマトス市は重要な兵站拠点となる。それゆえ時間を掛けて管理体制をしっかりと整えなければならず、同時に追撃を行おうとすれば兵力を分割せざるを得ない。情報の不足からレムコ同盟の主力がどこに存在するかわからぬ状況で追撃部隊……規模はおそらく五千から六千程度になろうか……を北へと送り出せば、敵の罠に嵌って各個撃破される可能性がある。
レジエ将軍は、野戦には絶大な自信を持っていた。予想戦場であるバラ自治州の中部と北部は、平らな草原が広がっており、戦場機動がはなはだやり易い環境にある。整然たる方陣を組んで、さながら集団でのダンスのような正確な戦場機動を行うのは、訓練不足の市民軍には無理である。おそらく、レムコ同盟の市民軍は野戦において、極めて補助的な役割しか果たせないだろう。レジエ将軍は、当面相対しなくてはならぬレムコ同盟の兵力を、一万五千程度と見積もっていた。そのうち、半数は市民軍と推定される。となれば、こちらがはるかに有利である。
丸一日を費やして兵站準備を調えるとともに兵を休ませ、正規団一個と船で運ばれてきた市民軍若干を守備に残したレジエ将軍は、味方するバラ人兵士七百名ほど……大半は、この騒動が収まったのちに褒美として権力や領地の拡大を望んでいるタナシス派の貴族がかき集めた者たちである……を加えた主力を率いてサマトス市を発ち、北上を開始した。目指すは、州都カンラ市。ここを占領し、あわよくば接近するレムコ同盟主力を野戦で屠る。これが、将軍の思い描いているプランであった。
レジエ将軍率いる第一軍がカンラ市近郊に達したとの報告をカートゥール代表が受け取ったのは、レムコ同盟主力がカンラ市まであと一日の位置に達した頃であった。
「ふむ、間に合わなかったようじゃな」
白い顎鬚をしごきながら、カートゥールは思案した。作戦構想としては、先にカンラ市に入り、そこに立てこもって抵抗するという肚だったのだが。
むろん、カートゥールは彼我の実力差を十分に承知していた。まともにぶつかれば、こちらの勝ち目は薄い。だからこそ、カンラ市にこもってタナシス軍を待ち受けるつもりだったのだ。機動戦ではなく、固定された拠点を守備する動きの少ない戦い方ならば、未熟な市民軍でも十分に役立てることができ、数の優位を活かせる。
「まっ平らな平原とは、厄介なものじゃな」
地形は、常に軍事行動の制約となる。険しい山岳や河川はその前進を阻むし、濃密な森林や荒地は行軍速度を鈍らせる。丘や疎林は見通しを悪くし、その背後に潜む敵を隠してしまう。
基本的に、地形は防御側の味方である。戦域が広大なものでない限り、攻撃側の前進方向は見定めることが可能だからだ。したがって防御側は攻撃側の進路上にある自分たちに有利な地形を見極め、そこを決戦場に選択することができる。むろん攻撃側は、前進方向をねじ曲げて防御側との決戦を回避するという策を採ることもできるが、多くの場合戦略的迂回は兵站線の脆弱化を招く。攻撃側の側面および背面は、防御側のそれよりもはるかに攻撃に晒されやすく、そして脆いからである。そしてもちろん、最良の進撃路および兵站線は、戦略目標までの最短経路となる良路であることは言うまでもない。
しかしながら、見通しがよく起伏に乏しい平原では、攻撃側は戦略目標までの進撃路を自在に定めることができるし、隘路や河川の渡河地点、山地の出口などのチョークポイントがそもそも存在しない。防御側の利点は、ないに等しい。
「閣下。夜襲はいかがでしょう」
側近の一人が、思い悩むカートゥールにそう進言した。
「夜襲を試みるには、部隊の規模が大きすぎるだろう」
即座にカートゥールは応じた。夜間の戦闘はただでさえ部隊の統制が難しくなる。そしてもちろん、指揮下の部隊の規模が大きくなればなるほど、その指揮統制は困難さを増す。万を超える兵力での夜襲、しかも兵力の過半数が練度未熟の市民軍となれば、ギャンブルと大差ない。
「閣下。火計はどうでしょうか。この時期、多くの草が枯れており、地面も乾燥しています。幸いなことに、雨はここ数日降っておりません。火計には、絶好の条件かと」
バラ人の側近が、提案する。
「火計など、めったに上手くいくものではないでしょうに」
別な側近が、顔をしかめる。
「お言葉ですが、地元の者ならば天候や時刻による風向きの変化など熟知しております。タナシス軍を焼き殺すのは無理ですが、煙で視程を妨げたり、火の勢いで進行方向を制限したりすることは十分に可能ですぞ」
パラ人側近が、反駁する。
「夜襲と火計か。……組み合わせれば、面白いかもしれんな」
カートゥールの脳内に、アイデアが芽生えた。
「カンラ市北方の詳しい地図を」
カートゥールの要求に応じて、手書きの地図が広げられる。
なんとも面白みのない地図であった。真っ平らなので、土地の高低を示すような記号や表現は皆無。草原の中に、疎林を表す描き込みが十数個散らばっている程度だ。あとは、いくつかの集落や水場が記号化されて記載されているだけ。それらを繋ぐ交易路や家畜の移動する道を表す黒線は、さながら破れかかった漁網を思わせた。
「カンラ市の北部近郊にいくつか疎林があるな。密度はどの程度なのだ? 兵を隠せるほどなのか?」
パラ人の側近に、カートゥールが訊く。
「部下の中にこの辺りの出身者がおります。連れてまいりましょう」
パラ人側近が呼び寄せた地元出身者数名に対し、カートゥールは様々な事柄を質問した。植生、地面の様子、井戸の数と位置、風の向きと強さ、近隣の集落の状態……。
「よろしい」
ペンを取り上げたカートゥールが、カンラ市街地北部から、ほぼ真北へ向けて伸びている道をなぞる。
「この道の両側にある疎林に、夜陰に乗じて伏兵を隠す。千名は、隠せるだろう」
「兵力一千の夜襲が成功すれば、相当の混乱を敵に与えることができますが……いかにしてその位置に、敵を誘導しますかな? しかも、夜間に?」
側近の一人が、疑義を呈した。カンラ市へ至る道は他にも何本もあるのだ。都合よく、タナシス軍がその道を選んでくれるとは限らない。
「火計を使う。炎を切り札ではなく、時間稼ぎに使うのだ。準備に時間が掛かるが、その余裕はある。まあ、見ていろ」
カンラ市も、サマトス市同様タナシス第一軍の前にあっさりと陥落した。元々常設の市場から発達した、きわめて開放的な市街地に過ぎない同市は、外周に柵すら設けていないのだ。レムコ同盟側はさしたる抵抗を見せずに、あっさりと市街地を放棄し、北方へと退いた。
「意気地のない敵ですな」
レジエ将軍の側近が、笑う。
「確かに意気地はないが、正しい選択だ。ここで抵抗しても、全滅必至のはず。敵の指揮官の能力は、どうやら低くはないようですな」
別の側近が、笑みを交えつつ言う。
「しかし、このだだっ広い平原では、市街地は貴重な戦略的地物でしょう」
「それには同意する」
「敵主力に関する情報はどうだ?」
側近同士の会話を遮るようにして、レジエ将軍は訊ねた。
「当市から北方へ三百五十シキッホほどの位置にいると思われます。推定兵力は、一万二千ないし三千。いずれここを逃れた敵部隊が合流する模様です」
情報担当の側近が、淀みなく答える。順調に進撃を続けているおかげで、日和見ていたバラ人がタナシス側につく例が多くなり、それに比例するようにレムコ同盟軍に関する情報も多く得られるようになっている。
「約一日行程か。なんとか捕捉したいものだな。兵站の状況は?」
レジエ将軍が、今度は補給担当の側近に尋ねる。
「食料に関しては、すでに市内から大量の穀物と加工肉を調達しました。市民たちが自前で保有する分には手をつけておりません。家畜も大量に確保できる見込みですから、ざっと見積もって三十日は持つかと」
「結構。水の状況は?」
「市内の井戸で十分に供給できます。市街での行軍となると、井戸の位置に行動を制約されるでしょう」
「そこが、厄介だな」
レジエ将軍が、唸った。
比較的……あくまで、湿潤な南の陸塊と比べて、の話であるが……乾燥している北の陸塊だが、北部や山岳地帯、それに海岸地帯では一定の降水量がある。雨の少ない海岸を除く南部や中部も、河川が多いので軍事行動に際し水の補給に困るようなケースは稀である。しかし、いくつかの地域……タラガン州中央部、クーグルト公国西部丘陵地帯などでは、大量の飲料水を得るにはしばしば困難を伴う。バラ自治州中部と北部も、同様である。
「まあ、兵士に大きめの水袋を持たせて、こまめに補給させるしかないな。準備はできているな?」
「もちろんです、閣下」
補給担当の側近が、自信ありげにうなずく。
夜半になって、レジエ将軍の元に新たな情報がもたらされた。午後遅くにレムコ同盟主力が南下を開始したという。
「カンラ市奪回を目指す、というわけでもあるまいに」
レジエ将軍は訝った。面識はないが、カートゥールは聡明な人物と聞き及んでいる。都市に篭る第一軍とまともに戦えば、レムコ同盟は必ず負けるはずだ。
「ともかく、情報を集めろ。朝までは、動きようがない」
そう命じたレジエは、寝酒を一杯引っ掛けると床に付いた。
第百三話をお届けします。