(11)
「イリス! イリス、どこ!」
とにかく、私をここに運んだイリスを探さなければ。そう思った私は、前へと歩き出す。
しかしすぐに、背筋がぞくっとするような嫌な気配を感じた。
(何だろう?)
前方を眺める。数十メートル向こうの草木が、急激に枯れてゆくのが見えた。
(これ、何……?)
今まで見たことがない風景に、底知れぬ恐怖を感じる。じっと息を潜めると、シーンとした静寂の中でそちらから音が聞こえてきた。
ズザザザザッと地面を何かが引きずるような音や、大きな獣の息遣いも。
(獣がいるの?)
アメイリの森にいる獣は全部で三種類だ。普通の動物、聖獣、そして──。
(魔獣だ!)
魔獣を見るのは初めてだけれど、見た瞬間にわかった。黒い体からは禍々しい程の瘴気が煙のように立ち上っている。
ここにいては危険だ。私の中の全本能がそう告げている。
後ずさるように足を後ろに出すと、運悪く小枝を踏んでパキンと音がした。
しまった!と思ったけれど、後の祭り。オオカミのような姿形をした魔獣は、体をこちらに向ける。その瞬間、大きな魔獣の体に隠れて今まで見えなかったものが見えて私は息を呑む。
「イラリオさん……?」
それは、間違いなくイラリオさんに見えた。黒い騎士服は土まみれで、上着の肩の部分は大きく引き裂かれて破れている。そこから見える白いシャツは、真っ赤な血の色に染まっていた。血塗れになっているのと反対側の腕に剣を握っており、その剣も血に濡れている。そして、イラリオさんはゼイゼイと肩で息をしており、立っているのも辛そうだ。
(なんでイラリオさんが魔獣に襲われているの?)
そう思ったけれど、すぐに理由なんてないのだと気付く。イラリオさんもザグリーンも言っていた。魔獣は理由もなく人を襲うのだと。
私に気付いたイラリオさんの目が見開く。
「エリー、なんでここに……。逃げろっ!」
イラリオさんが叫ぶ。魔獣が私のほうに走り出そうとした瞬間、「グワアアァ」と悲鳴のような嫌な泣き声が聞こえた。私を逃がすために、イラリオさんが剣を魔獣に突き立てたのだ。怒った魔獣が暴れ、剣を握りしめたままイラリオさんが地面に吹き飛ばされる。魔獣は倒れたイラリオさんに飛びかかると、それを避けようと剣を構えたイラリオさんの腕ごと噛みついた。
「イラリオさん!」
目の前の状況に、私は悲鳴を上げる。
(死んじゃう。このままだとイラリオさんが死んじゃう!)
そう思うのに、私には何もすることができない。神聖力が強くても、何の役にも立たない。
(なんでこんなことに?)
きっと私のせいだと思った。
私がいなければ、イラリオさんは魔獣が聖獣だとザグリーンに教えられることもなかったのだから、王都からあの人達が来ることもなかった。
ザグリーンは、私が強く望めば元の姿に戻れると言っていた。こんなことなら早く戻るべきだったのだ。そうすれば私は処刑されたかもしれないけれど、イラリオさんがこんな目に遭うことはなかったのに。
「いや、いやあああー!!!」
助けて。誰が助けて。
お父さん、母さん、神様。どうかイラリオさんを助けて!
私は膝を突き、目をぎゅっと閉じて両手を胸の前で握りしめる。強くそう願ったとき、頭に直接語りかけるように懐かしい声が響いた。
──おかえり、我が娘よ。祈りを。
目を開けると、目の前に息を呑むほど美しい男性がいた。長めの銀髪を靡かせ、目は金色。年齢は、イラリオさんとそう変わらないように見えた。そして、肩にはイリスを乗せていた。
男性が私を見つめる。
私は自分の姿を見る。その体は七色の光に包まれていた。そして、それは本来の大人のもので。
──神様、イラリオさんを助けて。そして結界を再生させ、この世界を救ってください。
私は両手を組み、祈りを捧げる。すると七色の光は天へと伸び、上空で放射状に広がってゆくのが見えた。鬱蒼としていた瘴気が急激に消え去るのを感じる。
──頑張ったね、アリシア。
優しい声に、ホッとする自分がいる。体から急激に力が抜け、私はパタリとそこに倒れる。頭を撫でるような優しい感触がした。
「お父さん……?」
男の人は目を細めて笑う。それは、遠い記憶にあるあの日と全く変わらぬ父の姿だった。