(2)
ブルノ大司教は、大聖堂に併設されている医療院の個室にいた。
ベッドの上で横になって寝ており、一見するとその寝顔は穏やかだった。
「ブルノ大司教はどんな状態だ?」
イラリオさんが、ブルノ大司教の主治医に問いかける。丸眼鏡をかけた、白髪交じりのおじいちゃんだ。
「本日の午前中、礼拝中に突然倒れられ、意識がないままです」
「持病か?」
「いえ。私はずっとブルノ様の主治医を務めてきましたが、このような症状が出る持病はありません」
主治医は左右に首を振り、否定する。そして、ベッドに横たわるブルノ大司教へと視線を移した。
「ただ──」
「ただ? 何か心当たりがあるのか?」
「ここ数カ月ほど、とても疲れていらっしゃる様子でした。瘴気からこの地を守る結界を維持するために、以前に増して礼拝の時間が増えていましたので」
「回復薬は?」
「試しましたが、効きません。全く効かないなんて私も初めてで、お手上げです」
沈痛な面持ちで語る主治医の横を、ザグリーンがするりと通り抜ける。ブルノ大司教の体に鼻を寄せると、イラリオさんのほうを振り返った。
「我の見立てでは、この者が倒れた原因は、神聖力の放出過多による疲労だ。神聖力は人によって、力の強さが違う。それを超える量を放出し続ければ、やがて限界を迎える」
「なんだって?」
イラリオさんは表情を険しくした。ザグリーンはイラリオさんを見上げる。
「恐らく、この地域の結界を維持するためにかなり無理をしたのだろう。このまま放っておくと、危ないな」
その場にいた全員が、ヒュッと息を呑む。
ザグリーンは高位の聖獣であり、神聖力のことには私達より詳しい。そのザグリーンが言っているのだから、この情報はとても確度が高いはずだ。
アリスベン王国の神聖力による結界は、主に聖女の祈りにより維持されている。しかし、聖女の体調などによっては時折綻びが生じることがあるので、そのようなときは各地域の大司教が結界維持の補助を行うのだ。
つまり、ブルノ大司教が崩れるほど祈りを捧げる必要があるというのは、結界そのものが弱くなっていることを意味した。これはブルノ大司教や親しい人だけの問題ではなく、セローナ地区全体に関わる問題でもあった。
「くそっ! チェキーナ大聖堂の新しい聖女は何をやっているんだ」
イラリオさんが忌ま忌ましげに呟く。
聖女光臨の儀が終わった今、結界の維持は新しい聖女の役目だ。ブルノ大司教がここまで疲弊するほど綻びが生じているとすれば、新しい聖女の祈りによる結界の維持がきちんと機能していないことになる。
「だが、今はまずはブルノ大司教を助けるのが先だな。回復薬は使っていると言っていたな?」
イラリオさんは気を取り直すように首を小さく振ると、主治医に尋ねる。
「もちろんです」と主治医は答えた。「先ほども申し上げた通り、回復の兆しが見られなかったので途方に暮れておりました。今さっき追加の回復薬も届いたのですが、これも効くかどうか……」
追加の回復薬というのは先ほどスティムさんに渡した回復薬だろう。
「通常の回復薬では、回復は無理だ」
「無理?」
リーンの言葉に、イラリオさんが険しい表情をする。
「先ほども言った通り、これは神聖力の過剰放出によるものだ。神聖力を補うことができる薬でないと、意味がない。その薬がないなら、本人の回復力を信じるしかない」
その瞬間、病室の中に重苦しい空気が流れた。
ブルノ大司教が昏睡状態なのに、何もすることができないなんて。
私は自分の無力さに、ぐっと拳を握りしめた。
◇ ◇ ◇
その日一日、私はブルノ大司教のことで頭がいっぱいだった。
帰り道、イラリオさんはいつものように私を前に乗せて馬に跨がる。黙り込む私の頭をイラリオさんがそっと撫でた。
「エリー、ブルノ大司教はきっとよくなる。大丈夫だ」
「うん」
それきり黙り込む私を見て、イラリオさんは私が喋ることもできないほど落ち込んでいると思ったようだ。けれど、私はずっと違うことを考えていた。
(神聖力を補うことができる薬……)
今日、病室で聞いたザグリーンの言葉を、頭の中で繰り返す。
これまでずっと薬師として生きてきたけれど、そんな薬、聞いたことがない。
(通常の回復薬では無理だ、とも言っていたわね)
通常の回復薬では、ということは、通常のものとは違う回復薬であれば効くと言っているようにも聞こえる。神聖力を補うことができる、特別な回復薬。そんな薬、ひとつしか知らない。あり得るとすれば──。
(エリクサーだわ)