「結婚するんだ」はにかむ貴方がいった
「結婚するんだ」はにかむ貴方がいった
「あら。まだ残っていらしたのですね」
帰ろうとしたところで、司書に戸締りを頼まれて、仕方が無いなと図書室の窓の施錠を確認して回っていたクリスティアは、一番奥の窓辺にその麗しい人影を見つけて声を掛けた。
ジェリー・ベリーヌ侯爵令息。
白皙の面を、ゆるくカーブを帯びた銀色の長い髪が縁取る。
意志の強そうな口元と涼やかな目元にのみ、初めて出会った頃の面影を少しだけ残して、彼は凛々しい男性へと成長を遂げていた。
勿論、顔つきだけではない。このたった三年弱で、クリスティアとほとんど変わらなかった身長は見上げるほど伸びた。
令嬢より華奢だった身体つきは、細さはそのままにしか見えないのに、かなり筋肉質だという噂だ。
なにしろ学生である内に、騎士としての資格試験にも合格した強者である。
そうして成績優秀者として、クリスティアと最終学年である三学年までずっと試験での首位争いを繰り広げてきた好敵手でもある。
とはいっても、クリスティアには学問しかないので、比べるのも失礼であるが。
「あぁ。クリスティア嬢か。いや、そろそろ卒業なんだな、と思って」
「感傷に浸られていたのですね」
「そうだな。学生として甘えた時間を過ごせるのも、あと少しだから」
そうクリスティアと会話を交わしている間も、窓の外からその視線は外れることはなかった。
だからこそ、クリスティアはその横顔をまっすぐ見上げることができる。
ベリーヌ侯爵が先の戦争で負った傷が原因で寝込んだままになっているのは有名な事だった。
将軍職を務め、戦争を勝利に導いたその人は、けれども終戦協定を結んだその日に床についたという。
それからもう十年だ。
癒えることのない怪我に公務を退かれ、いまはベリーヌ侯爵家の領地に関する仕事のみを熟しているという事になってはいるが、実際には嫡男たるジェリーが学生でありながらもその大半を肩代わりしていることは公然の秘密となっている。
領地の仕事、騎士となる為の訓練、そして学生として学問を修めること。
そのすべてを完璧にこなせる天才に、学問に関してだけとはいえライバルとして認めて貰い、すぐ傍で言葉を交わすことを許されているのだ。
これほど近しく置かれて、心を奪われないでいることができる令嬢などいるものだろうか。
そう。クリスティアも想いを寄せていた。初めて声を掛けられた入学時から。もうずっとだ。
『君がクリスティア・モイ伯爵令嬢か』
『はい。そうですが、どちらさまですか?』
緊張しきった新入生代表挨拶を終えて、教室へと戻っていく途中。
突然、知らない声で名前を呼ばれて、つい不機嫌に振り向いた先にいたのは、令嬢よりもずっと愛らしい顔をした、今のジェリーよりずっと背の低い、クリスティアよりほんの少しだけ目線が高いだけの令息、いや天使がそこにいた。
『あぁ、ごめん。ジェリー・ベリーヌだ。入学試験で僕より上だったのが令嬢だと知って、話をしてみたくなったんだ。新入生代表挨拶、すばらしかった。今度一緒に勉強しよう』
差し出された手すら、すらりとした指が綺麗すぎて。
クリスティアはそれが握手を求められてのものだと思いつけなかった。
差し出された手と顔を、往復させるように視線を彷徨わせてしまった。
隣にいたクラスメイトから肘で突かれ、ようやくその令嬢たる自分の指よりずっと手入れが行き届いてみえる細くて長い白い指に、自分のぼてっとした小さな手を重ねた。
ぎゅっと、もう片方の手まで重ねて握られて、心臓が跳ねた。
『じゃあ、また後で』
嬉しそうに笑って去って行った、たぶんあの時。
細く華奢にみえた指の骨の太さや力強さ。そして温かさに。
クリスティアの心は捕らえられてしまったのだ。
──こうして、彼の顔をすぐ傍で見上げることができるのも、あと少しなのだと思うと、それだけで世界が色褪せて見える気がした。
「どうした? 寂しそうだな」
声に視線を上げると、すぐ傍にジェリーの白皙の顔があって、クリスティアはおもわず後ろへ下がった。
「危ない」
不用意に下がり過ぎてバランスを崩した所を、ぐっと腰を支えられた。
近い。胸元から、爽やかな香りがするほど、近くて。
おもわず頬が熱くなった。
「し、失礼しました」
「ふふっ。クリスティア嬢も、感傷に耽っていたのかい?」
「っ。そうですね。もう、卒業してしまうんですものね」
たぶん、これが想い人との最後の逢瀬となるのだろう。
お互いに進路も決まっていて、道は別れている。
卒業前の最終試験ももう終わって既に自由登校となっている今、こうして共用棟にある図書室で会えたことも、ふたりだけになれたことも、すべてが奇跡なのだから。
この記憶を最後とするならば、いっそ告白してしまおうか。
想いを告げたとて振られてしまうのは当然だとしても、想いに区切りをつけることができるならば、それは本望ではないだろうか。
どうせ、この後は卒業式で会えるだけだ。
それだって、どちらかが探さなければ、遠くから顔を見かける程度で終わりだろう。
ドキドキと煩く喚く胸に期待はない。
やっぱり、告白するのはやめてしまおうかと息を吐いて、閉じていた瞳を開いた。
「うれし、そうです、ね?」
死にそうなクリスティアとはまるで逆、どこか浮かれた様子のジェリーに、思わずそう声を掛けた。
「うん? あぁ、そうかも。卒業したら、結婚するんだって思ったら、つい」
はにかんだ様子で嬉しそうに笑うその顔が、クリスティアの記憶にある、あのまだ幼さを残していた頃の、あの特別な笑顔に、重なった。
「え、あの……そう、なんです、ね。おめでとう、ございます」
笑え。笑うのよ、クリスティア。
必死で自分に声を掛けた。
震える足に叱責を飛ばし、ぎくしゃくとしか動こうとしない手を動かして、腰を下げる。
「では、失礼します」
「え、クリスティア? どうしたの」
その声に、振り向く勇気はなかった。足を止める気もない。
挨拶を、声を出せた自分を褒めたかった。
想いがバレてしまっても構わなかった。
世界が色を失くしていく。
もう、一瞬たりとも傍にいることはできそうになかった。
最終試験の結果発表の日も、卒業式も、すべて休んでしまいましょう。
走って、走って。
けれども、騎士となるジェリーを、まったく背が伸びる事の無かったクリスティアが置いていける訳もなく。
階段まで辿り着くことすらできずに、追いつかれてしまった。
「どういうこと?」
それを、直接聞くなんて。
「ねぇ、この結婚に、反対なの? 嫌ならそうハッキリ言って」
法服貴族の令嬢ごときに、前将軍職を務めたる侯爵家の婚姻に物申したとして、どうなるというのだろうか。
「……だ、といったら? そう言ったら、どうなるというのですか、ベリーヌ侯爵令息」
吐き捨てるように、言葉を紡ぐ。自棄だった。切り口上で、まるで喧嘩でも売るようではないか。
つい先ほどまで、ずっと温めてきた心を差し出そうとしていた自分が惨めで、惨め過ぎて笑いが出そうだ。
出たら、いいのに。
笑いにして、笑い飛ばして、終わりにできたらどんなにいいだろう。
けれど、笑いになんかできなかった私は、代わりにボロボロと涙を溢れさせた。
「ごめん。ゴメン。だけど、やっぱり。受け入れて欲しい」
ぎゅっと抱き締められて、息が止まる。
「そんなに、俺との結婚は、イヤだったのか。両想いだと思っていたのは、勘違いだった?」
「えっ?」
「さきほど昼に家から連絡が来て、ずっと申し入れていたクリスティア嬢への婚姻の申し入れに、モイ伯爵から了承の手紙がきたとあって。それで浮かれて」
「えぇーーー?!」
知らない。そんなの、全然知らなかった。
「婚姻の、申し入れ? ずっとしてた? え、前から?」
「そうだよ。『伯爵家とは名ばかりで領地もない法服貴族でしかないモイ家では荷が重い』と何度も断られて。でも、諦められなくって。諦めないで良かったと思ってたんだけど、本当は、クリスティア嬢が嫌だったからなんだね。ゴメン、気が付かなくて」
抱き締められたまま、耳元で説明をされたけど、どうしても本当のことだとは信じられなくて。
「モイ家へ、何度も申し込みを?」
震える声で、確認を求めた。
「あぁ。正式な婚約者になる為には、家に申し込みをするのが正当だろう」
確かに、古式ゆかしい婚姻の申し込み方としてはそれが正しい。でも! けれど!
政略や見合いならばいざ知らず、最近増えてきた恋愛結婚であるならば、まずはお互いの想いを確かめ合って、お付き合いを重ねていき、相性を確認してから家同士の話となるのが普通なのではないだろうか。
恋人なんてできたことないから知らないけど! でも多分、そうのはず!
「そうですけど! でも、私、全然しらなかったんですけど!」
そうして、家に申し込んでいたことすら、全然知らされていなかった。
毎日家に帰っていたのに。全然、まったく、ちっともだ。
「申し入れを? それとも、俺の想いを?」
「申し入れも! 何時からかも知らないし。 あと、お……おもい、も」
つい声が小さくなってしまって尻すぼみになる。
そうだ。想いってナニ? どういうこと?
頭の中に音が渦巻くけれど、意味を為さない。
オモイって、どういうこと? どういう種類の。
突然、頭が悪くなってしまった私を抱き締める腕が、少しだけ離された。
──寂しい。
ジェリーの体温が遠ざかり、すぐ傍にその熱を感じられないことが切ない。
「好きです。クリスティア嬢を守れるようになりたいと剣も鍛え、相応しくあれるようにと学問にも勉めました。貴女の唯一として、僕を選んでくれませんか」
私の前に跪いたジェリーの瞳は、まっすぐ私だけを映していた。
綺麗な、瞳。
まさか、文武両道を目指した理由が自分だなんて。想像すらしたことはなかった。
可愛いとすら思っていたジェリーが剣を取っても強いのだと知った時の胸のときめきを大きく上回る、胸にこみ上げてくる大きなときめきに息をするのも苦しいほどだ。
「……ジェリー様が僕って言ってるの、久しぶりに聞きました」
だからこそ、つい、茶化した。嫌そうな顔をするジェリーに頬が弛む。
最初に出会った頃は、たしかに僕と言っていた。
いつからか俺と名乗っていることに気が付いた時、少しだけ距離を感じて寂しかったことを覚えている。
「いいの。子供っぽいかと思って、直したんだ。でも、クリスティア嬢の前だけだから」
開き直ったのか、ジェリーはすぐに立ち直ってしまった。
けれど、少しだけ耳の先が赤くなっているのを見つけて、クリスティアは笑顔になった。
「ふふっ。私の前でだけ、ですか」
「クリスティア嬢の前でだけだ」
ひとしきり笑った私に、表情を真面目なそれに戻したジェリーが、希った。
「結婚して、クリスティア」
「はい」
短く返事をした私に、長くて熱い腕が巻きつく。
「嬉しい。あいしてる、クリスティア」
抱き締められたその腕の中で、私は、何度も何度も頷きながら、世界が色付き、輝いていくことに気が付いた。
お付き合いありがとうございました。