嫌なら信じるな
嫌なら信じるな。俺はそれを進路にしてずっと生きてきた。どれだけ馬鹿にされようがどれだけ絶望しようが、
「これは嘘なんだ。嘘だと思えば楽になれるんだ」
そう言い聞かせて今日まで生きてきた。
aが現実ならば俺は辛い。俺は苦しみたくない。
それゆえにaは虚偽なのだ――どうだ、簡単な定理だろう?
俺は布団を畳むと部屋に出た。すでに蠅が天井の明かりにたかっていた。ペットボトルやカップ麵などのごみが散らかっているが俺はそんなもの信じない。俺は清潔な部屋に住んでいる。
俺はたばこを吸いながら外を眺めていた。庭はほとんど手入れもせず草ぼうぼうになっていたが、俺にとっては実にいい眺めだ。
ひげはきちんと剃っている。いや、これでも俺はきちんと身なりを整えているつもりだ。
俺は豪勢な家に住んでいる。誰もが俺を慕っている。俺は、みんなに愛されて生まれてきたのだ。
俺は何不自由のない暮らしをしてきたのだ。むしろ成長するために苦労したいくらいだ。俺は遠大な故を持っている、高邁な理想を持っている、それを理解してくれる人がいる、
それなのに、俺の奥深くに存在する狂気は俺の現実を否定しようとかかる。
この狂気に一時的にでも感染すると俺は簡単に癇癪を起こし、悲しみと憎悪の人形になってしまう。そこから立ち直るために必要な時間は決して短くない。
俺は姿見の中の自分を見て、恍惚とした。
無精ひげ。実年齢以上にふけた顔。
「ふふふ……ふひひひ」
これが嘘なのだ! 嘘なのに、俺の前にその嘘はまっとうであると言わんばかりに鎮座している。
これは嘘なんだ。それが嫌で嫌で仕方ない以上、俺はもっと大きな嘘で小さな嘘を塗り固めるまでだ。
人は俺を惨めな人生だと笑うだろうが、俺はまっとうな人生を生きてきたと信じている。
人は俺に何もないと思うだろうが、俺はこの世の全てを手に入れたと信じている。信じるだけならば自由だ。その自由の中で俺は無限の栄光で過去の何が俺に影響するのだ。あんなに惨めったらしい過去の何が?
「いや、そんなものは存在しない」 鏡の中の自分にそう言った。
俺は全て忘れ去ることにした。勘違いしないでほしいが別に嫌悪感があったわけじゃない。特にこうった辛さや悲しさを忍びたくてそんなことに執着するんじゃない。もし俺にそんな執念があったら今更地獄の底まで追いかけまわしている所だが、さすがに俺には長い間誰かを憎み続けるだけの気概も体力もない。ただひたすら、自分に対する失望で俺の心は満たされていた。
何となく、飽きたのだ。昨日までの自分を背負って生きることに。
嫌なら信じなければいい。これまで経験してきて味わったこと全部だ。
日記もメモも残さない。そんなものがあったら焼いて捨ててしまえばいい。
俺と言う存在そのものも嘘にしてしまえばいい。そうすれば、俺よりももっと素晴らしい人間がここにいるだけのことなんだから。
そのもっと素晴らしい人間、精神を存在俺させるためにはここに生きている。何もない空っぽな器として。その空っぽな器の中に嘘を満たして、今日も生きるための活力を何とか手にしている。
そんな何もない、かすやおりのような人間なのに、誰かに尽くせるだけの良心がかすかに残っているなんて嘘だろう。どれだけ堕ちようと思っても、俺の無意識がそれを許さないかのようだ。
気づけば、耳元で騒音が鳴り響いている。灰色の色彩の中、多くの従業員がひしめき合い、大小様々な道具を運んでいる。ここが俺の戦場だ。
目の前に、いつもの同僚がいる。
「今日も早いな、お前」
蘭次だ。俺と同期だが、弁も立つしそのたたずまいときたら俺よりもずっと貫禄がある。
「なんせ長い間頑張って来たからな。今まででいた奴らよりずっとがんばっている」
そいつの様子に負けまいと俺は胸を張った。
この時、俺は自分で不思議なくらいやけにはりきっていた。何かの節で気分が上がった時、少しでも正気に戻ろうとしないとすっかり俺は上機嫌になってしまう。だがそれが、一番危ういのだ。
「まだ自動車にぶつかりかけて数か月も経ってないんだぞ?」
あの時は幸いにも体が倒れただけで済んだのだ。悪いのは相手のせいだ。
俺はさも元気そうに、体をよじらせる。
「俺は事故に遭ってなんかない。あんなのはただのかすり傷さ」
「いい加減にしろよ、強がるのもいつまで続くか分からないぜ」
蘭次は誠実な人間だ。決して俺みたいに嘘をついたりしない。いつも現実の中に生きている。
「そういう虚言癖がいつかいつか身を亡ぼすんだからな。気をつけていろよ」
こう語るとまるで俺は労働以外に何の趣味もない機械のように思えるだろうが、そんなことはない。俺は他にも適切な楽しみなどいくらでも持っている。
俺はいつだって苦労らしい苦労をしてこなかった。苦労なんてするべきじゃない。苦労すると
誰かに見捨てられたり、両親の関係が悪かったり、勝手に殴られたりといったことは断じてない。そんな理不尽な目の数々で心に傷を残し、今に至っている……なんてことは断じてない。
気を付けてほしいが、俺は自分自身に嘘をつくのだ。他人に嘘をつくことなんてしない。さすがに他人を陥れる所まで落ちぶれていないからな。
いや、お前らだって嫌なことがあったら信じたくないはずだ。だから、もし俺がどうしても嫌なことにあった時は、それを嘘として受け止め、自分の好きなようにあしらうことにしている。
「おい、この品! 空いてるぞ!!」
客の一人がそんな喧嘩をふっかけてくる時、俺は一切悪びれたりしない。
「一体それはどんな言いがかりなのでしょう?」
この店には机とか支柱といった用品がごまんとある。その全てが丈夫にできていると誰が確信できるのだ?
「恐らくあなたが勝手にしたのではありませんか?」
「てめえ、ふざけるのか!」
「いいえ、ふざけていませんとも」
俺は笑顔で応対する。全く傷ついていないし、むしろ彼らを冷やかすくらいに嫌らしい目つきを向ける。でもそれは嘘だ。ああ、人の悪意や恨みも浴びるのは耐えられない。俺は心が正直なんだぞ。
俺は泣いている。俺はこんなにも繊細な人間なのだ。
ようやく仕事が終わりに近づいていた頃、一人の少女がそそくさと荷物をまとめて帰りにつこうとする。その中に、忘れて行ったものがある。俺はそれに気づくと反射的に手に取った。
「おい、これ置いて行くなよ」
新人に声をかける。香取さやかという名前だ。
俺はわざわざそいつのために待ってあげたのだ。
「ほれ……忘れ物」
相手に水筒をさしだす。
「ありがとうございます~」
こいつはできる人間だ。少なくとも俺よりはよほどまともな人生を生きるだろう。
「そういえば松田さん、私の悩みを本当に聞いてくださるんですね?」
「ああ、勿論だよ」
なぜか俺はこいつによく慕われているのだった。俺はただひたすら相手が望むような指導や相談をしてあげただけだが、香取は俺にやけにでかい期待をしているようだ。まるで俺が人生の真理でも悟っていやがるような、そんな目つきなのだ。
別に後輩の指導に当たっているわけではなかったが――そういう仕事に向いていないのは同僚からも知られていた――が俺とこいつは顔を合わせる機会が多かった。その内にそれなりに声をかけあう関係にはなっていた。
ほとんどの従業員がいなくなっても、俺はあまり帰りたくなかった。帰った所でさしてやることは限られているし、帰ったなら帰ったでまた別の現実に苦しめられる。
俺は夜遅くまで倉庫の備品の手入れをしていた。
隣りで、眼鏡をかけた同年代の女が声をかける。
「松田くん、もう帰りなよ。もう体にだいぶ疲れが回ってるよ」
久音は目が鋭い。いつも誰かの様子を察知している。
「俺は苦労なんかしてない」
俺がやせ我慢をすると、そいつはますます俺の心配をしてきやがる。
「やめてください。どう考えても、あなたは無理してる」
「無理なんかしてないさ」 心配させないように、ますます強がってしまう。
「そうやって言い続けることに何の意味があるんですか?」
「意味なんかない。俺は自分の欲望に忠実に生きているだけだからな」
無論、俺の信じない嘘は、奴らにとってはただの現実。現実が現実であるというただそれだけの理由で、俺を抑圧し追い詰めて来やがる。
久音は懲りたのか、話題を変えた。
「昨日もタイムカード切れてなかったんだけど」
「すまねえな」
さらにもう一つ指摘。
「あと、備品を購入した時のお金、持ってきてる?」
さすがに笑いが止まった。その費用を忘れて、もう二日目だ。
「ひっ……」
いっきに険しい表情。
「何と言うか松田くんって……そういう所あるよね」
「物覚えが悪いもんでね」 懲りてないような表情を浮かべるが、実際には深く困っている。
やれやれ、俺はまたもや胸糞悪い気分で帰らなきゃいけないのか。
玄関に立った時、突如として電話が鳴った。また、あいつか。いや、これも幻覚なんだ。あまりに俺が心に傷を負い過ぎたせいで、きっと幻覚を見せられているのだ。それならば応じてみようじゃないか。こんな嘘くらい、簡単に乗り越えられる。
「おう、俺だよ」
沢木だ。かつては肝胆相照らす仲だった気がするが、今となって嫌悪感をぶつけ合う間柄でしかない。
「借金を返せ!」
大声で相手はわめき始めた。あいつにとっては大したことのない出費だったはずだ。
「あんなものはすでに返済したよ。お前は忘れたのか?」
「手元に請求書の写しがある。ここにあるんだ!」
「んなもん、でっち上げだろうが」
いっそ煽るようにして、
「いや……そもそも借金した事実なんてそもそもないかもなあ~!」
「ふざけるな! 返済期限をもう四か月も過ぎてんだよ!」
「ああ、そうか。大した数値だな」
俺はそんな借金をした覚えはない。そうするほどどうしようもなかった訳でもない。
あの時はそれほどの金額をたからなければ飢えそうな身の上でもなかったし、そのことに俺がさして罪悪感を感じているわけでもない。
こっちがにやついている間にも、怒りのボルテージがぐんぐん上がっていく。
そしてしまいに、
「覚えてろよ。次は直接お前の住居に殴りこんでやるからな」 この言葉で通話を切る。
俺は畳にねそべった。
やれやれ、金がからむと友達も友達でなくなっちまう。
なぜこんな風になっちまったのか。思えば、俺はずっと誰かの期待を裏切って来たわけじゃない。
俺は別に金稼ぎに粗くなんかない。時たま大金をせしめたからといってその全てパチンコに消えたりするわけじゃないし、風俗に行って束の間の快楽を満たすわけでもない。それで「何で俺はあんなことに金をすっちまったんだ!」と悔いるわけじゃないし、別にそのことに罪悪感を覚えたりしない。
四六時中客と接していて、嫌なことはないし、俺はこれは嘘なんだ。嘘なんだ。嘘、嘘、嘘!
この俺はそもそも存在していない! 今感じているこれは嘘だ! 否定してほしい!!
「あああ~っ!」
突然俺の目の前がくらくらした。これまでの時間、嘘で塗り固めた現実がどっと息せき切って押し寄せてきた。朝に感じていた高揚感はどこへやら、もう俺は絶望で燃え尽きてしまった。
俺は呼吸を荒くした。こうなると自分ではもう収集がつかない。
今日も頑張った。
俺は活躍したのだ。世界を掬うような偉業をなしとげたのだ。
しかしその高揚感はそのまま絶望に変化して俺を崖から突き落とした。俺はのたうち回っていた。
頭を抑えながら、何とかして上体を起こし、側にあった手すりの上にかろうじて頭を載せる。
なぜ、俺はここにいるんだ。なぜ、ここから抜け出せないんだ。いや、別に逃げたいとかそういうわけじゃないんだ。ただ、視界に一つのテロップが、
『この作品はフィクションであり、実在の事件とは関係ありません』
それが目の前に表示されればいいのだけなのに。
必死の努力で居間にまでいき、がっくり腰を下ろすと、俺はかばんから飲み薬を取り出し、台所に行った。
それから冷蔵庫から一本取り出して酒をあおった。嘘を現実として享受する瞬間以外に、俺には幸福なひと時なんてものはない。
今酒を挙げたが、酔いたいからでもない。酔ってる間は本当に嘘が本当になってくれるからだ。目の前が輝いて見えるし、自分が聖者にでもなった気分でいられる。
こればっかりはあまり知られたくはないが、薬物に手を出したこともある。
あの時に観た幻覚と来たら、この世界の現実を全て否定しうるほどの威力を持っていた。だが、金はいつも手に入るわけじゃない。
冗談じゃないぜ。この世界になぜ俺の嘘の通用しない空間がなければならない。
危ない危ない! たちまち現実に引き戻される所だった。現実を目にし続けなければ、狂うのが人間ではないのか。狂わないためには嘘をつき続けるべきだ。
俺は、こんなことに悩みを覚えたことなど片時もない。ただ、普通に生きているだけなんだ。
普通に生きているだけなのに、俺は虐げられる。
俺は、他の人間より少しばかり頭が良かったために、こうもおかしくならなければならなかったのだ。そんな風に自分の境遇を嘆いている内に、俺はどんどんまどろんでいった、
夢を見ていたような気がする。嫌な夢だ。俺にとって大抵の夢は嫌な夢だ。昔の、好きでもないからしでかされた惨たらしい出来事の数々を否応なしに見せられるのだから。
俺はずっと何かから逃げていた。逃げている内にこれは嘘だと、いつかきれいさっぱりなくなるんだと信じていた。それが幻想だと分かっていても、これは嘘だと思うことは俺にとって癖になっていた。
翌日は休みの日だったので俺は遅くまで寝ていた。
与えられない場合、俺は完全に傀儡のようになってしまう。
いつもならば、俺はただ天井を眺めているか、下手するとスマホの画面を一日中にらみつけているだけでしかない。だがこの日の俺にはなさねばならないことがあった。
突然、香取の声が玄関に響いた。
「あの~……松田さんのお宅ですか?」
「おう、さやかちゃんか?」
くそう、ついにこの時間が来てしまったか。
この子が何を切り出すか、俺にはすでに検討がついていた。犬儒派のディオゲネスみたいな気分で俺は目の前のアレクサンドロスを迎え入れていた。
「飲むか?」
さすがに未成年の人間に酒を飲ませるわけにはいかないので、ソーダを出した。
俺はこの時の為だけに身なりに気をつけていたのだ。髭もそったし、放置していたごみも片付けた。こういう事態にでも付きまとわれないと、俺はなかなか身の回りを整頓しようとしないのだ。
「結構、ごちゃごちゃしてませんか?」
それでも、やはり気配りが注意散漫だったようだ。あちこちを眺めて香取は少し顔をしかめた。
「お世辞にも自分に気を遣わない方だからな、俺は」
この時点で相当なストレスだったが、俺はとにかく話を前に進めることに専念。
「それで、俺に何の用なんだ?」
香取は俺の顔をじっと見つめながら、真剣な面持ちになる。
「そうですね、私は松田さんの仕事ぶりから色んなことを学ばせていただけましたが、私は、それ以上のことを」
「あなたの生き方に……あこがれるんです!」
俺は、不意に笑いそうになった。別に照れ隠しなんかじゃなくて、ただただ笑うしかなかった。
「だって松田さんは、いつだって笑ってらっしゃるじゃないですか。どんな辛いことがあっても、笑っていれば生きていられるっておっしゃいましたし」
驚いてしまった。俺は確かにそんな言葉を香取に言った気がするが、あれは嘘だ。ちっとも心から本当だと思って言った言葉じゃない。
何をとち狂ってそんな風に共感するのだ。
「おいおい、あの言葉は本当にそう思って言ったわけじゃ……」
「でも、松田さんの目は輝いてましたよ」
何とか香取に俺の本当の姿をさらそうとする。
「大体俺は性格がいい方じゃないんだぜ。ほとんどの奴には嫌われるしさ」
「そこなんですよ。松田さんは決していい人ぶろうとしないし、いつだって正直に気持ちを表現なさるじゃないですか」
俺はあの笑いを浮かべた。多分香取を喜ばせようとしたのだ。
「冗談じゃないよ」
だがその笑いはすぐに消えた。
「あこがれるもんじゃないよ」
俺はそいつにもう顔も向けなかった。自分でも、どんな表情を今しているか分からなかった。
まずい。このままだと俺はこいつに悪意を向けるまでもなく自ら砕け散ってしまいそうだ。
娘は上目遣いを見せながらたどたどしく、
「ごめんなさい。本当は他の人には聞けないことがあって……でも松田さんなら話せるかと思って」
「話して聞かせろ」 聞きたくない。
こんな感情、嘘だ。
「実は……今親と進路を巡って衝突しているんです。私、大きな夢があって……俳優になりたくて。でも、その道を反対されているんです」
夢か。昔は俺にもう夢があったような気がする。
俺はそいつのためにどう言えばいいか悩んだ。そして、取り返しのつかない過ちをしてしまった時の、あのぞわぞわした気分がどんどん押し寄せてきた。
もしここで俺が自分に嘘をつけば、俺はこいつに嘘をつくことになっちまう。
「失敗したらどうしようと思うと……やっぱり私、親の進めた道を行くしかないんでしょうか……」
「失敗して何が悪いんだ?」
俺は誠実さの欠片を拾い集めながら説いた。
「失敗する権利があるんだよ。世の中成功する人間ばかりじゃないんだぜ」
「た、確かにそうですよね……」
「成功した奴の戯言なんて気にするな」
香取は少し当惑したような表情で俺を眺めた。当然だ、こいつには俺が失敗に失敗を重ねた人間だなんてことは知る由もない。
「自分が失敗したって別にいい。失敗したと思いさえしなければ、そんなに失望しなくて済むんだからよ……」
すっかり香取の目が輝いている。
俺はますます香取を騙すだろう。
俺にとって、それは逃げでしかない。現実に耐えるだけの重さなんかない。ただ逃げたいだけなんだ。
俺は香取を見送った。その後姿に、俺は自分があまりに罪深いことをしてしまった気がして、またもや頭がおかしくなりそうだった。
さすがに今回は急な動揺を伴うことはなかったが、鈍い落胆がのしかかってきた。そのせいで、何時間もの間起き上がることすらできなかった。誰かに迷惑をかけたと思うといつもこうなる。俺が大切だと思う人間に対してだと特に。
分かっているんだ。本当は、嘘だと思わない方がいいって。いつの間にか部屋の中は真っ暗になっていた。手探りで照明の紐をさがし、あかりをつける。
俺は冷蔵庫の蓋をあけた。キンキンに冷えたビールを飲んだ。
辛い喉と共に、酔いが回って来た。
自分がなくなるという瞬間は快楽であるはずだ。
自分と言う存在をこの世から消滅させるためには、俺がこの世から消え去らなくてはならないのだ。
すると、机に置いた携帯がなり始め、メールから返信が来た。
『今、いますか?』
『いるよ』と書いて返信すると、すぐに電話がかかってきた。
「よう、元気か?」
「ありがとうございます。松田さんはお変わりありませんか?」
「今の所はな」
電話越しに俺は寂しそうな声で、
「あの時はすまねえな……俺、あまり人に慕われなれてないもんだから……」
酔いのおかげか、そこまで緊張はしなかった。
「心配なさらなくていいんです! 私も急にああいう話を持ち出してしまいましたし……」
それから、
「実は腹を割って親にこのこと、話したんです。でも結局、どうせ失敗するって言われて納得してもらえなくて」
「……そうか」
そして急に、明るい声。
「でも嘘ですよね! 失敗しても失敗したと思わなきゃいい。本当はそういうこと、信じない方がいいんだし」
「お前が元気を取り戻したようで何よりさ」
俺は、こいつをいくらでもたらしこんでやろう。そうなると溢れ出る言葉は止まらなかった。
「わざわざ人を傷つけるわけじゃねえんだかんな。人間に悪意を持つんじゃなきゃ何したっていいんだよ」 心にもない、甘い言葉。
「楽になりました……松田さんのおかげで」 香取は何度も俺に感謝する言葉を重ねながら、電話を切った。
はあ。俺は一気に情けない気分になった。自分でも明確に分かるくらい、表情がげっそりとした。
俺の存在が嘘になってしまえばいいのに。
自分に嘘をついて、俺は自分がこの世の神にでもなったような気分で今日も終える。こんなこと、すべきじゃなかった。幸いにも、まだあのひどい落胆は訪れていない。だが今から数時間後、精神状態が急変してどうしようもなく心がくじけるとも限らない。
よし、これは嘘だ。俺は何もせずに数時間を無駄にしていたのだ。他に有意義なことはいくらでもできたろうに。
その時が来る前に、つまみでも買って夜を明かそう。
わずかな金だけ財布に残し、俺は小さなかばんを提げてとぼとぼと夜道を歩いていた。この頃は寝るのにも気力がいる。昔は寝るのは早かったような気がするが、こういう身の上になるとついつい夜更かしをしてしまうのだ。
ふと、夜の様子が気になって星空を見上げた。こんな趣味はないはずだったが。
すると、それは実に美しかった。月が見えた。北斗七星が見えた。プレアデスが見えた。他にも色々な星座が見えた。思えば物心もついてない頃、宇宙の図鑑に夢中になっていたものだ。
その輝きを眺めるうちに、俺の奥底に眠っていた感情が次第に戻って来た。とてもセンチメンタルで、しかし暖かい感情だ。最初はそれを感じるのがわずかにつらかったが、次第に自分が自由になった気がした。
そうだ。俺は元からこんな人間じゃなかったはずだ。俺は、本来いい人間として生まれてきたはずなんだ。
人は、今変われるはずなんだ。それは嘘じゃない。俺が悪い人間に変わったのなら、いい人間にだって変われるはずなんだ。
だんだん、周囲が明るくなったように思えた。俺には、自分が素敵な人間になれるような気がして来た。無理をしてそう思い込んでるんじゃない。自然に、そういう風に思えるようになってきたんだ。あいつにはちゃんと謝らなきゃいけない。無意味な楽しみで金を浪費すべきじゃない。
まだ、このさき命は長い。その全てが無駄になるはずはない。きっと――
俺は突然、誰かに脇腹を突かれた。鋭い一撃だった。
俺は思わず声をあげ、その時にはもう冷たい地面に転がされていた。
誰かが、俺の鞄をつかみ、体から引きはがそうとする。
あふれる焦燥感。
――まだ香取に話していないことが沢山ある。俺は彼女のためにしてあげなくちゃいけないことが――
「やめろ!!」
俺は叫んだ。しかし、抵抗しようにも腕が上がらなかった。俺が反撃するよりも前に奴は脳天をお見舞いしてきたからだ。
泥棒はますます荒い動きで俺を揺り動かした。そして気づくと、鞄はもう俺の腰を離れていた。
奴は素早く駆け出し、闇夜の向こうに消えていた。冷酷な蛍光灯が、俺をにらみつけていた。
嘘だろ。こんなの。
俺は大声で誰かを呼ぼうとした。まだ遠くにまでは行っていないはずだ。
だが、誰がこんな小汚いくずを信じるだろうか。
嘘だ。本当じゃない。俺はこんな目に遭う人間じゃなかったはずだ。
あそこにあったのは大金じゃない。貯金はある。飢えるわけじゃない。
俺は意気消沈して自宅に帰った。
警察にでも通報しようとしたが、やめた。面倒くさいことに駆られたくないのだ。
不思議なことに、泥棒に対する憎しみは淡泊だった。信じられないくらい自分でも冷静だった。
何となく、こんな日が来るのを勘づいていたのだ。そもそも借金を踏み倒した罪を犯している人間が、ただで済んでいいはずがないのだから。
俺はまだましだ。
そうだ、俺はそもそも落ちぶれていないのだ。この世の苦しみを誰よりも知りぬき、俺こそがこの世界の王者なのだ。
月の光が窓からさしこみ、俺の瞳に入り込む。途端に、俺は人が変わったようになった。
……俺は何を悩んでいるんだ。何も悩むことはなかったじゃないか……。
最初からこの世界は嘘なんだ。俺がこれまで感じてきたこと全て、夢だったんだよ。嫌な夢に過ぎない。ははっ、何も心配することはなかったじゃないか。
たった今、俺は恐ろしい物に出くわした。
俺は意識が混濁していた。嘘を現実と信じ、現実を嘘だと信じていた。夢を見ている時、それを夢だとは思わないように、俺は現実を嘘だと『分かっていた』。
どうやら、自分に嘘をつき続けた罰が返って来たらしい。俺は自分でも、何が嘘で現実なのか分からなくなってきた。
嘘をつくのは苦しいはずなのに、それに対する痛みも辛さも俺は忘れようとしていた。違う。嘘が俺を忘れさせようとしている。
このままだと自我を得た『嘘』が俺を完全に侵食するかもしれない。その時、俺は完全に消え去るだろう。真っ赤な嘘として。その時に、俺となった『嘘』は一体何をしでかすんだ。
いや、違う。これも嘘なんだ。きっと何かの間違いなんだ……、俺はこのまま普通の人間として生きるしかない。
もう真夜中だというのに、照明もつけずパソコンを起動した。そして、契約しているサブスクの映像サービスを開き、トップページでおすすめされた中から適当にドラマを選んで見始めた。菓子をぼりぼり食いながら、眠くなるのをひたすら待つ。
一体いつまでこんなことを続けるつもりなんだ。この現実全てが嘘になってしまった時、心からの嘘で目の前を満たしてしまった時、俺は俺でなくなるんじゃないのか。
これほどまでに嫌悪感とか恐怖とかで懊悩している間にも、久音や蘭次や香取は俺をどういう風に思っているのだろうか。そして俺は、一体どんな人間として記憶に残るのか。誰かに不審な目で見られるだけでもあまりに辛い。しかしそれを気にする権利なんて俺にはないのだ。俺はただ、嘘で塗り固めた自分を演じるだけで精一杯なのだから。




