吾輩は猫
吾輩は猫である。名前はまだない。
そんな吾輩は今、日当たりのよい窓辺で昼寝をしていたところだ。
うとうとしながら日向ぼっこをしていると、どこからか足音が聞こえてきた。
コツ……コツ……。
「おや?」
その音に目を覚ますと、部屋の入り口に人影があった。
どうやらこの家の主が帰ってきたらしい。
しかし、いつもと違って様子がおかしい。
いつもならドアを開けるなり「ただいま」と言ってくるのだが、今日は無言のまま部屋の中へ入ってきた。
何やら思いつめた表情をしているな。
何かあったのか?
「…………」
「…………」
ん? なぜ黙ったままなのだ? しかも、こちらを見ようともしない。
なんだか気まずい雰囲気だぞ。
すると突然、彼はおもむろに床の上に正座した。
そして深々と頭を下げながらこう言ったのだ。「今まで本当に申し訳ありませんでした!」……えっ!? 一体どういうことだ? なぜ謝っているんだ? 吾輩にはさっぱりわからない。
とりあえず話を聞いてみることにしよう。
ニャーン!(いったいどうしたというのだ?)
「あっ! ミケちゃん!」
やっと反応してくれたか。
よかった、無視されたらどうしようと思ったよ。
それにしてもずいぶん疲れているようだな。
目の下のクマがひどいことになってるぞ。
ニャア~オ?(仕事帰りなのか?)
「ああ、そうだよ」
そう言う彼の声は弱々しく、どこか元気がない様子だった。
吾輩は思わず心配になり、そばへと寄っていく。
すると彼はふっと笑みを浮かべて頭を撫でてくれた。
「ごめんね、大丈夫だよ。ちょっといろいろあってね……」……ムウゥ?(いろいろ?)「うん……。実は会社の上司と大喧嘩しちゃってさ……」……ほう? なるほど、そういうことだったのか。
それで落ち込んでいるというわけだな。
だが、そこまで気にすることはないと思うぞ。
まあ確かに怒られるようなことをしたのは事実だろうが、そもそも上司が悪いのではないか。
それを自分のせいだと思い込む必要はないはずだ。
だからあまり自分を責めてはいけないぞ。
ニャッ!(そうだ!)
「ありがとう、ミケちゃん」
吾輩の言葉に少しだけ笑顔を取り戻した彼だったが、すぐに暗い顔になってしまった。……まだ納得していないようだな。
ならば仕方あるまい。ここはひとつ、吾輩が一肌脱ぐとするか。
ニャー!(さあさあ、早く風呂に入ってこい!)
「えっ? 急にどうしたの?」
いいから早く行くのだ! 吾輩が背中を押して促すと、彼は不思議そうな顔をしながらも浴室へと向かった。
よしよし、これで準備完了だ。後は彼が出てくるまで待つだけだ。
しばらくして、シャワーの流れる音が止んだ。どうやら入浴を終えたらしい。
さて、次はドライヤーをかける時間だ。
ここでタイミングよく出てきたところを優しく抱き上げて――――
「こーらっ!」……むぅ、バレたか。
せっかく驚かせてやろうと思ったのに残念だ。
それなら今度はこちらから仕掛けるとしよう。
フシャァアアッ!!(覚悟しろっ!)
「ちょっ!? 待ってください!」
逃げる彼を追いかけまわしながら遊んでいるうちに、いつの間にか夜になっていた。
さすがに遊び過ぎたかな。
でも、おかげでだいぶリフレッシュできたみたいだし、これはこれでよかったかもしれないな。
それにしても……
「ニャアー……(眠い)」
もう限界だ。これ以上起きているのは難しい。
というわけで吾輩は寝ることとする。
ではお休み。また明日会おう。…………。………………。……………………。
ふぁ~あ、よく寝た。
ん? 今何時だろうか? あれ? なんで彼がここにいるんだ?……ああ、そうか。昨日泊まったんだったな。すっかり忘れていたよ。
おっと、それよりも今は朝の挨拶をしなければ。
おはよう! 吾輩が起きたことに気付いた彼は、「おはようございます」と言いながら頭を撫でてきた。そしてこう続けたのだ。「ミケちゃんのおかげで気分が楽になったよ。本当にありがとう」と。
ふふんっ。礼には及ばんさ。
さて、そろそろご飯の時間だ。
今日の朝ごはんは何かな? 楽しみだな~♪ 吾輩は猫である。名前はミケ。どこにでもいる普通の三毛猫だ。
そんな吾輩には悩みがある。それは……
「ん? どうしたんですか?」……そうなのだ。なぜか最近、彼の様子がおかしいのだ。
いつも通り話しかけてくるし、一緒に散歩にも行ってくれている。
ただ、吾輩を見る目がどこか寂しげなのだ。
以前はあんな目ではなかったはずなのに……。
一体何があったんだろうか? もしかして吾輩が何かしてしまったのか? いや、でも最近は特に何もしていないぞ。……うーむ、困った。まさかこんなことになるとは思わなかった。とはいえ原因がわからなければ対処のしようがない。
どうしたものか……。
「ミケちゃん、おいで」……ん? どうした?
「ほら、ここに座って下さい」
言われるままに床へ座る。すると彼は吾輩の前にしゃがみ込み、こちらを見つめてきた。そしてこう言ったのだ。「ミケちゃん、大好きですよ!」と。…………へ? いやいやいやいやいや、ちょっと待て! どうしていきなり告白してくるのだ!? しかも「大好き」だと!? まったく意味がわからないぞ! いったいどういうことだ!? 吾輩が混乱していると、彼は立ち上がって部屋から出ていこうとした。
「じゃあ、僕は仕事に行ってきますね」……え? それだけ? いやいやいや、待て待て。もっと詳しく説明してくれ! 吾輩は慌てて後を追い、玄関の前で彼を呼び止める。すると振り返り、こちらを見た。
「ああ、そうだ。今日は帰りが遅くなると思います」
そう言い残して、そのまま出かけていってしまった。……って、違う! 聞きたいことはそういうことじゃないんだよ! 吾輩は彼の後ろ姿に向かって、心の中で叫んだ。…………。
ふうっ……仕方ない。とりあえず一旦落ち着くとするか。
まずは深呼吸をして気持ちを切り替えよう。
スー、ハー、ス―、ハ――
「ニャーオ」(よしっ)
よし、落ち着いた。それでは状況を整理することにする。
えっと、確か吾輩が彼を見送っているときに急に好きだと言われたんだ。それで驚いていたら、「じゃあ、行ってきます」と言って出て行った。……うん、これだけ聞けば充分だ。これ以上考える必要はないだろう。
きっと疲れていて、変なことを言い出しただけに違いない。
そうとわかれば、もう気にする必要もないな。よし、これで一件落着だ! さて、それでは吾輩も自分のやるべきことをやるとしよう。……といっても何をすればいいのかわからんな。
こういうときは、あの人に聞くのが一番だ。
「ニャーン」……おーい、婆さん。いるかー? 吾輩は家の中へと入り、老婆を探した。
「はい、何でしょうか?」……おお、そこにいたか。
ちょうどよかった。少し相談したいことがあるのだが、時間はあるだろうか?
「大丈夫ですよ。お茶を用意してからお話を伺いますね」……すまないな。助かるよ。
それからしばらく待つと、彼女がお盆に湯飲みを乗せてやってきた。そして目の前に置かれたそれを手に取り、一口飲む。
うん、うまい。
さて、本題に入るとしよう。実は最近、彼の様子がおかしいのだ。いつも通りに話しかけてくるし、一緒に散歩にも行ってくれている。ただ、吾輩を見る目がどこか寂しげなのだ。
もしかしたら吾輩が何かしてしまったのかと思ってな。もしそうなら謝りたいと思っているのだ。
そこで彼には内緒で、吾輩のことをよく知るこの人に相談に来たというわけだ。
さて、どう思う?
「そうですね……」
彼女は何か考え込んでいる様子だった。
そしてこう続けたのだ。「もしかすると、それはあなたへの恋煩いなのかもしれません」と。……ん? こいわずらい? なんだそれは?……ああ、そうか。確か「好きな相手がいるために苦しんでいる状態」のことか。なるほど、言われてみると確かにその通りかもしれない。だが……
「ニャア?(でも、吾輩には人間の恋人はいないぞ?)」
「あら、そうなんですか?」
……ああ、そうだ。
「でもミケちゃん、すごく可愛いですし、もしかしたら気付いていないだけで恋人がいたのかしら? それともこの家に誰かを連れ込んでるのかも……。ふむ、これは調べる必要があるわね」……ん? 何か言ったか?
「いえ、何でもありません。ところでミケちゃんのご主人様について、もう少し詳しく教えてもらえますか? 例えばどこに住んでいるとか、普段どんな仕事をしているかなど」……うーん、わかった。吾輩が知っている範囲で話そう。
彼の名前は佐藤健司だ。年齢は二十八歳で、独身である。そして現在はアパートの一室を借りて一人暮らしをしているはずだ。仕事については詳しくは知らないが、確かペットショップで働いていたと思うぞ。あと、休日はよく一人で出かけていたような気がする。
「ありがとうございます」……いや、これくらい大したことではない。それよりも吾輩の話を聞いてくれて感謝しているぞ。おかげで色々と合点がいった。
「いえ、お役に立てたようで何よりです」……本当に助かったよ。ではそろそろ失礼させてもらおう。茶も馳走になったな。
「はい、またいつでもいらして下さいね」……ああ、そうさせてもらうよ。
それじゃあ、またな。
「はい、お待ちしております」……うむ。
吾輩は家を出て、そのまま外へと出た。そして空を見上げながら考える。……さて、これからどうしたものかな。
とりあえず吾輩は今、散歩の途中だ。だからこのまま目的地へ向かうとしよう。
吾輩は公園へと向かった。そしてベンチへ座って休憩をする。……ふうっ、今日もいい天気だなぁ。
そういえば彼はどうして吾輩を好きになったのだろうか。吾輩は猫としてはかなり珍しい部類に入るらしい。そんな吾輩を見て、彼も最初は驚いたと言っていた。つまりそれまでは普通の黒猫だと思っていたということだろう。
だが今は違う。今の吾輩は三毛猫の姿をしているからだ。
なぜこのような姿になってしまったのか、自分でもよくわからない。ある日突然こんなことになってしまい、困っていたところを助けてくれたのが、彼の父親だったのだ。
彼は父親の知り合いで、その縁で吾輩を引き取ってくれたのである。
まあ正直なところを言えば、あの時は嬉しかった。だってずっと憧れてたからな。自分だけの家族を持つことに。しかもそれが人間の子供ではなく、優しい彼とは。……いやー、夢みたいだったよ。
それからは毎日楽しく過ごしたものだ。彼が学校に行ってる間は家で留守番をして、帰ってきたら一緒に散歩に行く。そして夜は一緒のベッドに入って眠るのだ。
ああ、なんて幸せな日々だったことか。あの時のことを思い出せば今でも涙が出そうになるよ。
ただ、最近は少し不安でもあるんだ。
彼の気持ちが変わってしまったのではないか、とな。
吾輩は彼のことが好きだし、愛している。だから彼に嫌われたくないのだ。
もしそうなった場合、一体どうすればいいのか。…………やはりもう一度告白した方がいいのかもしれないな。
よし、決めた! 吾輩はもう迷わない! たとえそれで振られたとしても後悔だけはしない! そうと決まれば早速行動に移そう。善は急げという奴だ! さて、そうと決まった以上、まずは彼を探さなければならないな。
えっと、確か仕事場はこの近くだと聞いた覚えがあるのだが……。
お、あれは――
「ニャーオ」(見つけた!)
吾輩は声をかけようと駆け寄ったが、すぐに思い留まった。なぜならそこにいたのは女性と一緒にいる彼の姿があったからである。
二人は楽しそうに談笑していた。
その姿を見て吾輩の心の中に、言いようのない感情が芽生えてくる。
これは……嫉妬か? まさか吾輩が人間相手にそのようなことを考えてしまうとは……。
しかし、これはかなりマズイ状況だな。なんせ相手は吾輩よりも遥かに若い女性だ。どう考えても勝てるわけがない。
しかし、ここで逃げるわけにはいかないのだ。
吾輩は覚悟を決め、二人の間に割って入った。
「ニャア、ニャン、ミャーウ?(おい、何をしている? 早く帰るぞ?)」
「おわっ!?なんだお前、いきなり現れて……」
「あら、可愛い子ね」
吾輩は彼に詰め寄り、威嚇するように鳴き続ける。
「ニャア、ニャア、ニャア、ニャア!(吾輩を置いて勝手にどこかへ行くな!)」
「ちょっと待てよ。何言ってるかわかんねえよ」
「あ、もしかしてこの子のご主人様ですか?」
「ん? ご主人様?」
「はい、実はさっきまでそのことで相談を受けてまして」
「ああ、なるほど」
「ふふふっ、この子はあなたのことが好きみたいなんですよ?」
「え、マジで?」
「ニャッ!?」
その言葉を聞いた瞬間、吾輩は恥ずかしさで顔を真っ赤にした。
い、いやいや、別にそういう意味で言ったわけではないだろう。きっと深い意味はないはずだ。
だが彼女はこう続けたのである。「良かったら飼ってあげてくれませんか?」と。……えっ、いや、吾輩はただ単にどこにも行かないで欲しいと言っただけなのだが。
「ニャ、ニャーオ……(そ、それは無理だよ……)」
「……まあ、俺としては構わないけどさ」
彼はそう言うと吾輩を抱き上げ、優しく頭を撫でてきた。
そして嬉しそうな表情を浮かべながら、吾輩に向かって語りかけてくる。
「よし、じゃあさっそく名前を考えないとな。うーん、何がいいかなぁ」
彼はしばらく悩んだ後、やがて何かを思いついたように顔を上げた。そして吾輩のことを見つめると、ニッコリと微笑んでくる。
「決めた! 名前は『クロ』だ!」…………へっ?
「ニャァァ……?(クロォ……?)」
「うん、お前の名前は今日からクロにするからな。よろしく頼むぜ、相棒」
彼は笑顔で吾輩に話しかけてきたが、その様子は明らかにおかしかった。まるで新しい玩具を手に入れた子供のような無邪気な瞳でこちらを見てきているのだ。……こ、これはもしかすると、とんでもない地雷を踏み抜いてしまったのではないだろうか。
こうして吾輩の名は、黒猫から三毛猫へと変わったのであった。
――そして時は流れて数年後。
とあるマンションの一室にて。
「おーい、クロ。ご飯できたぞ~。ほら、美味しいキャットフードだぞぉ」
「ニャー、ニャーン」
吾輩は元気よく返事を返すと、彼の膝の上に飛び乗った。そしてそのままゴロリと横になる。
「おっ、もうお腹空いたのか? しょうがないなぁ。それじゃあ食べさせてやるよ。はい、どうぞ」
「ニャーン」
吾輩は口を大きく開けて餌を待つ。
「…………」……おかしいな。いつもならすぐにでも口に運んでくれるはずなのに。いったいどうしたのだろうか。
吾輩は不思議に思い、チラリと彼の方を見た。
「あ、しまった。手が汚れてたんだ。ちょっと待ってろよ。今拭いてあげるからな」
そう言ってティッシュを手に取る彼。……あっ、なるほど。そういうことだったか。
吾輩はすぐに理解し、大人しく待つことにした。
「はい、もう大丈夫だぞ」
ようやく準備ができたようだ。吾輩は再び口を開けた。
「よし、いくぞ。あむっ……」
「ニャーオ」(いただきます)
その後、吾輩達は仲良く食事を楽しんだのだった。……ちなみに吾輩は最近になってわかったことがある。
それは彼がいかにして女性に振られ続けてきたのかということである。
理由は単純明快。彼は今までずっと独り身で過ごしてきたからだ。つまりは恋愛経験が全くなかったのである。
そんな彼に恋心を抱くなど、吾輩にとっては至難の業と言えるだろう。
しかし、それでも諦めるつもりはない。なぜならこの吾輩こそが彼を幸せにしてみせるという使命があるからである。……だから、これからも一緒に頑張っていこうね。大好きな人。
吾輩は彼に抱きつきながら、甘えるように鳴いた。
―完― 【あとがき】
お読み頂きありがとうございました。
これにて本作は完結となります。ここまで読んでくださり、本当に感謝しております。もし少しでも面白いと思っていただけたら、評価やフォローなどをしていただけると嬉しいです。
ではまた、別の作品で会えたら幸いです!