無自覚ならば許されますか?
――つがい。ぼくの番。
先程から頭の中にその声がずっと響き渡っている。つがい。という言葉が呪いの言葉に聞こえる。
二足歩行のフィアに対して相手は四足歩行。しかもここは砂漠だ。うまく走れない。
身長一メートル五十センチのフィアに対して、相手は三メートル以上ある地竜。どう考えても無理がある。でも、番欲しさに頭がおかしくなっているあの地竜は、竜人のフィアを一方的に番認定して追いかけて来るのだ。三十キロ以上先からフィアのにおいを察知して。
「おかあさーん。おかあさーん」
フィアは必死に走りながら叫んだ。背後で上がっている砂煙がものすごい勢いで近付いてくる。
『女神の使い』と呼ばれる地竜は、この世界で最も巨大な生物なのだそうだ。背中は固い甲羅状のもので覆われているため一見巨大な岩のようにも見える。人間よりも知能が高く、慈悲深く温厚で、道端に落ちている死にそうな生き物を見つけると、保護して守る習性がある。それが子供だった場合はメスが親代わりになってお腹の袋の中で大切に大切に育てるのだ。
フィアはかつて人間だったが、地竜の母乳で育てられたお陰で、人間とはちょっと違う竜人という生き物になってしまった。
フィアの性は人間では女性だが地竜的には三番性だ。六番性が番となる。
この三番と六番は数が極端に少ない。つまり出会いがない。
故に、三番ならもう何でもいいという頭のおかしい六番の地竜にフィアは追いかけ回されることになったのだ。しかし、フィアはまだ竜人としては未熟な幼体だ。そういう意味でも絶対に番にはなれないのだ。
「カーティス、おねえちゃーん」
カーティスはフィアの竜人としての姉だ。フィアの母親は飛空艇の墜落事故で重傷を負った子供二人をお腹の袋に保護して立派な竜人に育て上げた。
カーティスは二番だ。人間的には男性だが地竜としてはメスという不思議な状態に陥っているが、これは竜人にはよくある話だ。性別はバランスをみて女神さまが決定するので自分の意思では選べない。
どうせなら一番か二番なら良かったのにといつもフィアは思う。それぞれ四番と五番が番になるのだが、竜人としても地竜としても数が多いため、竜人が地竜に番認定されて追い回されるということはない。
――ぼくのつがいぼくのつがいぼくのつがい……
頭に響く呪いの言葉がどんどん近付いてくる。
「いやぁ、無理。おかーさーん。おねーちゃんー」
「フィア! もう少しがんばれ。今準備してる」
上空から声がする。小型の飛竜に乗っているのは灰色の軍服を着た姉のカーティスだ。
――つがいつがいつがいつがい……
息が切れる。頭の中につがいという言葉が渦巻いて気持ち悪い。
背後から巨大なものが迫って来る気配がする。どうして砂の中をあんなスピードで進めるのか謎だ。
――ぼくのつがいー!
呼びかけられた瞬間に、前方から別の飛竜が飛び立つのが見えた。足で掴んだ大きな布をはためかせている。あれはフィアがここにくるまでくるまっていたブランケットだ。
――あ、あっちがぼくのつがい。つがいつがいつがいつがいー
地竜は立ち止まり急旋回すると、飛び去ってゆく飛竜を追いかけ始める。ブランケットにはフィアの『におい』がついている。六番の地竜はころりと騙された。基本的に体の大きなメス個体の方がモテる。においが揮発して失われるまでは追いかけ続けるだろう。その過程で、是非とも三番の地竜と運命的な出会いを果たして欲しい。
へなへなとその場に座り込んだフィアは、地竜が急旋回した時に巻き上げた砂を頭から大量に被りそうになる。
埋まる! と思った瞬間に誰かがフィアに覆いかぶさって砂の雨から守ってくれた。ふわっととてもいいにおいがして呼吸が楽になる。
砂埃がおさまるのを待って目を開けると、フィアは砂まみれの男性に抱きしめられていた。
また迷惑をかけてしまったとフィアは心の中でため息をついた。
「すみません……団長」
「君が謝ることではないよ。……すごいな、あの距離からにおいを察知するのか」
フィアの肩に積もった砂を払ってくれているのは、金の髪に竜人特有の青色の瞳をした優しそうな男性だ。フィアと同じ灰色の軍服だが団長という立場上装飾が多い。団長は軍人というよりは貴公子という雰囲気だ。竜人になる前は団長は侯爵家の跡取り息子だったそうだ。
「執念ですね」という声がして、すぐ近くに飛竜が舞い降りる。降りて来たカーティスにフィアは駆け寄ってしがみついた。
「おねーちゃんー」
よしよしと頭を撫ぜてもらう。竜人たちは人間の性よりも地竜の性が優位に立つ。子供の頃からずっと母親のお腹の袋で一緒に育ったカーティスは、フィアにとっては優しい姉だ。外見は精悍な顔つきの青年である。
――フィア、カーティス。大切な私の子供達。無事ね!
その時前方の砂が大きく沈んで、巨大な地竜が現れた。その姿を見た途端にフィアは泣き出した。
「おかーさんー。あいつまたきた。もうやだー」
フィアが駆け寄ろうとすると、地竜は一本足を前に出してくれる。石でできた柱のようなごつごつした足にフィアはしがみついて泣いた。砂を潜ってきたはずなのにひんやりしている。
三か月振りに母親に会える! そう思って今回の巡回警備を楽しみにしていたのに、どうしてこんな事になってしまったのだろうか。
――あれだけ言ってもまだうちの娘に手を出そうとするのなら、もう埋めるしかないわね……
頭に響く母の声は怒りで震えていた。口元からぐぅぎぎぎぎ……と歯ぎしりする音が聞こえて来た。相当頭に血が上っているようで、青い目がぎらぎら輝いている。
「母さん……同族殺しは大罪だ」
カーティスが冷静にそう言った。
――今からちょっと行って、しばらく動けないように痛めつけて来るわ。そうすればフィアは安全だもの! ええ、大切な私の娘に手を出したらどうなるか思い知らせてやるわ!
「全治半年程度を目途で」
――まかせておきなさい! だからもう心配しなくて大丈夫よ。フィアはお仕事しっかりね。今日は巡回で来たのでしょう?
「うん……お願いだからお母さんは怪我しないでね……」
――ちょっと蹴り飛ばしてくるだけだから大丈夫よ。お母さんこの辺りで一番強いんだから!
母は姉(人間的には男性)に頼られて俄然やる気になっていた。目をぎらつかせたまま地面の中に潜ってゆく。
不安そうに見送るフィアの頭をカーティスが撫ぜた。というより髪についている砂を払った。
「怪我する要素がどこにもないから大丈夫だ。そもそも体格が違いすぎる」
確かにフィアを追いかけ回しているあの地竜は小柄な個体だ。それに対してフィアとカーティスの母親は五メートルを超す巨体の地竜。
フィアは納得してちいさく頷いた。そして後ろを振り返る。
「団長が砂だらけになってしまいました……」
団長は二人から少し離れた場所で砂を払っていた。
砂まみれになっても団長はやっぱり素敵な人だった。きっと人間社会にいたら、女性に追いかけ回されていただろう。容姿が整っているというのもあるが、とにかく、気品に溢れた人なのだ。いつも穏やかで優しい。
勿論、騎士団長として、団員に厳しい面を見せる時もある。しかし、そういう時でも決して口調を荒らげることはない。常に冷静で……フィアは団長が怒鳴り散らす姿など一度も見たことがない。フィアはそんな団長のことをとても尊敬している。
視線に気付いた団長が、フィアをまっすぐに見て品よく微笑んだ。
「フィアもなかなかすごいことになってる。……危ないからあまり私やカーティスから離れないようにね」
「ごめんなさい……」
フィアはしょんぼりと項垂れた。久しぶりに母親に会えるのが嬉しくて、呼びかけながら探し回っている内に、二人から少し離れた場所まで行ってしまっていたのだ。遮るものがない砂漠だから、距離感を見誤ってしまった。
「さて、ギルが戻って来るのを待って巡回を再開しようか。日が暮れるまでに本部に戻ろう」
団長は飛竜が飛び去った空を見つめながら、穏やかな声でそう言った。
竜人で構成されている竜人騎士団は、魔物の討伐が主な仕事だ。人間からの依頼があれば出張討伐も行う。
竜人とは、竜の血を受け継いでいる人間のことだ。地竜に拾われて母乳や給餌という形で竜の血を体内に取り込んだ者や、竜人の親から生まれた子供などがそれに該当する。
六つの性を持ち、人間より長寿で丈夫。力も強い。外見的には人間とあまり変わらないが、その生態は人間と大きく異なっている部分も多い。普段は目が青く、条件によって金に変わる。
幼体の竜人たちは大抵十五歳前後で母親の地竜のお腹の袋から出て、竜人社会で暮らすことになる。地竜共に砂漠でずっと暮らすのは無理があるし、人間社会の中で生きてゆくのもまた難しいからだ。人間の生活圏から少し離れた砂漠に近い地域に、竜人たちが暮らす街が点在している。その中でも一番大きな街に竜人騎士団本部はあった。
フィアはまだ幼体だ。
一年前に母親のお腹の袋から出たのだが、出た瞬間にあの六番の地竜に気付かれ追いかけられた。
本当に三番と六番の数は少ないのだ。母が言うには女神さまが数のバランスを取ってくれている筈なので、あの六番の地竜の番になる三番の地竜と、フィアの番となる六番の竜人がこの世のどこかにいる筈なのだそうだ。
この世界のどこかに……壮大な話だ。
もし女神さまの手違いであの地竜が番だったらどうしよう。
竜舎の掃除をしながらフィアはどんよりした気分になった。
フィアは竜人にしてはかなり弱い。腕力で人間の男性にギリギリ勝てるかなという程度だ。それなのに何故フィアが騎士団に入ったといえば、理由は単純明快だ。三年先に母親のお腹の袋から出た姉のカーティスが騎士団にいたからだ。
竜人騎士団の一員として常にフィアは軍服を着用しているが、仕事は団長の身の回りのお世話である。
あとは飛竜が好きなので、竜舎の掃除係でもある。実は竜舎掃除は飛竜のにおいが付くからという理由で敬遠されがちな仕事なのだそうだ。
竜人にとってにおいというのはとても重要らしい。
でも、幼体のフィアにはまだわからないのだ。
飛竜のにおいを気にせず毎日丁寧に竜舎の掃除をしているフィアは、実はしっかり騎士団の役には立っているのだった。
フィアは灰色の軍服からベージュの作業着に着替えている。背中まであるふわふわとした茶色い髪は作業の邪魔になるので頭の後ろでお団子にまとめた。
きらきらとした大き目の瞳の色は竜人なので青。今年で二十歳になるのに、外見年齢はもう少し幼く見える。おっとりした性格が関係しているのか、どうも成長がゆっくり目らしい。
十七歳くらいから成体の証としてウロコが首元に生える筈なのに、フィアは二十歳過ぎても一向に生えて来る気配がない。ウロコが生えなければ成体とは認められないし、番も探せない。
フィアは丁寧に汚れた干し草を箒で掃き集めている。飛竜たちは大人しく餌を食べたり、まどろんだり、掃除をしているフィアの様子を興味深く眺めたりしていた。地竜は飛竜より竜社会において階級が上なので、竜人たちに対しても飛竜たちはとても従順だ。フィアの掃除の邪魔にならない位置で思い思いに過ごしている。地竜のように心話まではできないが飛竜たちも知能が高い。
「わわっ」
頭の上から何かが降って来る。飛竜のレグがフィアの頭の上に、花壇から毟った花を降らせたのだ。花壇は無残なことになってしまっているが、フィアが落ち込んでいるのに気付いて慰めようとしてくれたらしい。レグは優しい女の子なのだ。
「レグ、ありがとうっ」
フィアは箒を床に置くとぎゅっとレグの首にしがみ付く。嬉しそうにレグが喉を鳴らす。地竜と違って飛竜の鱗はガラスのようにすべすべしている。そこに頬を摺り寄せていると、レグの番のギルに、「そろそろ離れましょう」とばかりにくいくいと軽く作業服の背中部分を引っ張られてしまった。
竜族は基本的に嫉妬深い。一生同じ相手と添い遂げるし、番に先立たれると後を追うように衰弱死してしまう。番のにおいがしなくなると、生きる気力失うのだ。
フィアはギルの首にも一度だけ軽くしがみついてから離れる。あんまりひっつくと今度はレグにヤキモチをやかれてしまう。幼体のフィアにははっきりとはわからないが、番であるレグとギルは同じにおいがする……気がする。
二体の飛竜はとても仲の良い夫婦だ。見ていてとても微笑ましい。ギルがレグの首元に軽く噛みつき離れると今度はレグがギルの首に噛みつく。それが竜族の愛情表現だ。
それは竜人も同じ。だから基本竜人の着る服は立襟だ。そうでなければ首を布で巻いたりして隠す。
フィアが今着ている作業服もきっちりと首元を隠すデザインだ。竜人に取って首を見られるのは裸を見られるに近い感覚……らしい。これも幼体のフィアにはよくわからない。
「ギルとレグはいいねぇ……種族が同じで」
……本当に番があの地竜だったらどうしよう。
そんなことないですよね女神様。フィアは天に祈った。
「フィア、昨日は災難だったな」
開け放たれた窓から、副団長のルイがひょいっと顔を覗かせた。竜人特有の青い目をした青年だ。竜人は青年期が長いため見た目で年齢は判断できない。年齢もにおいでわかるらしいのだが、これも幼体のフィアにはまだわからない。ルイはかなり長く生きている竜人なのだそうだ。
「副団長、また私、団長にご迷惑をかけてしまいました……」
「団員守るのがあいつの仕事だからさ、まぁ気にするな。掃除終わってからでいいんで、ちょっと頼みたいことが……っと、すまん、呼び出しだ。また後で声かける」
腕輪の宝石が赤く点滅している。ルイが宝石の上に指を滑らせて何かの図形を描くと、宝石の中から女性の声がし始めた。
「ああ、なんだあんたか、どうした?」
腕輪の宝石に話しかけながらルイは去って行く。相手の声までは聞こえない。
「ああ。ああ? また送り込んでくるのか。何回やっても同じだろうに面倒だな。わかったわーかったよ。伝えとく。こっちも気をつけとくよ。はいはい」
そんな会話をしながらルイは遠ざかって行った。何やらルイの声が非常にイヤそうだったが、何が送り込まれて来るのだろうか。
そう思った瞬間に髪から落ちた花がするりと作業着の襟の隙間に入り込んでしまった。あっと思って胸元までボタンを外して、肩に張り付いていた花を指でつまむ。
「フィア、討伐依頼が来たから出掛ける。ギルはどこに……」
呼ばれて振り返った瞬間に、駆け寄って来た団長に首を絞められた。のではなく、襟で首元を隠された。団長は完全無表情無言でフィアの襟のボタンはめてゆく。
「あ、ありがとうございます?」
何が起きたかよくわからないが、とりあえずお礼を言うべきなのだろうか。首を傾げると、両肩に手を置かれた。団長はものすごく真剣な目をしていた。
今日も団長は素敵だなーかっこいいなーなどとフィアはぼんやりと眺める。
「誰が見てるかわからないから、外で首元を出すのはやめようね」
「すみません。襟の中にお花が入ってしまって……」
「それでも、外ではやらないようにね。……これはレグが?」
そう言いながら、フィアの髪に乗っている花をつまんで手のひらに集めてゆく。
「はい。私を元気づけようとしてくれたみたいです」
「手を出して。はい、これで全部。……ギル、行くよ」
集めた花をフィアの手に乗せると、団長はそのままギルを連れて慌しく去って行った。とても急いでいるのに申し訳ない事をしたなとフィアは思った。
「ギル行っちゃったねぇ。団長も忙しそうだったね。これは押し花にするね」
レグに声をかけると、何故か呆れたように目を逸らし、まるでため息をつくかのように首を上下させた。番のギルが連れて行かれてしまって寂しいのかもしれない。
「……と、いうことがありました。団長忙しいんだね」
食堂で夕食を食べながらカーティスに報告すると、黙って話を聞いていたカーティスの顔から一切の表情が消えた。彼が手に持っていたスプーンが皿に落ちて甲高い音を立てた。フィアの周囲だけがしんっと静まり返った。何故か視線が自分に集まっている気がしてフィアは周囲を見渡す。目が合う竜人たちが皆気まずそうに目を逸らすのは何故だろう。
副団長に同じ話をした時は爆笑していたのだが。
「うん。外で襟のボタン外すの禁止な。フィアにはわからないと思うけど、いきなりズボン履いてない人と遭遇したレベル」
「変質者だね」
「フィアがな」
「……私かぁ。それは、謝った方がいいのかなぁ」
「団長は絶対思い出したくないだろうから忘れろ」
カーティスは真面目な声でそう言った。手が震えていた。周囲の竜人たちは悲し気な目をして黙々と食事を口に運んでいる。先程まであんなに楽しそうだったのに。
そうか、確かに変質者のことなど思い出したくないだろうなと思ってフィアは頷いた。食事中に変質者の話などしたから周囲の人たちもご飯が美味しくなくなってしまったのかもしれない。それも申し訳ない。フィアはしょぼんと項垂れた。
「忘れろ。そして、よく食べよく寝ろ。寝る子は育つ筈だ。頼むから……頼むから早く育ってくれ!」
カーティスは必死の形相でそう言い募った。周囲もみんなうんうんと大きく頷いている。
「何でだ。何で育たないんだ……」
カーティスは皿の上に落ちていたスプーンを拾い上げると、チキンソテーに向かってぶつぶつ呟いている。
「ちゃんと消灯時間には寝てるよ」
「……昔からよく寝る子だった。なのに何故育たない……何が、何が原因なんだ……」
カーティスはそのまま虚ろな目で呟き続けている。きっと訓練が大変だったのだろう。そこに変質者話で余計に疲れさせてしまったのかもしれない。
カーティスにも悪い事をしたなとフィアは思った。
翌日、カーティスによってフィアは医務室に連れて行かれた。
首元をしっかり覆い隠す白衣を着た四番のサリエがフィアの首筋に触れている。サリエは非常に色っぽいお姉さまだ。でも竜人としてはオスである。
サリエは何かを確認するようにフィアの首筋を強く押して、首を傾げまた押して首を傾げる。
「うん……残念ながらまだ予兆すらないわね。栄養素が足りないという訳ではないと思うから、個体差なんでしょうねぇ。しょうがないわよこればっかりは。私にはどうすることもできない」
そう言って、フィアの軍服の襟のボタンをすべて留めると、優しく頭を撫ぜてくれる。フィアは気持ちよさそうに目を閉じた。一方のカーティスが背後で絶望的な顔になっていたが当然フィアには見えなかった。
「フィアは本当にかわいいわねー。いいんじゃない、もうしばらくこのままでも。かわいいし」
竜族は子供をとても大切にする。故に幼体のフィアに対しては全員が過保護だ。
「普通ズレがあっても一年くらいだよな。もう三年近いよな?」
確かに早い竜人だと十七歳くらいでウロコが生えて成体となるらしい。そう考えるとフィアは三年くらいズレているのかもしれない。
「……まぁここまでズレるのはあんまり聞いたことないわね。でもこればっかりは、女神さまのお心次第って感じよね」
サリエがため息と共に呟いた。どうやらまだフィアは成体にはなれないようだった。
フィアは団長室の掃除をしていた。
執務用の大きな机の前に、応接セットがある。掃除といっても、元々整理整頓の行き届いた部屋なので、床を掃いてモップをかけて窓を拭く程度だ。
見上げた空は厚い雲で覆われている。今にも雨が降り出しそうだ。そろそろ雨季が近い。
部屋の主を含めた騎士たちは屋外訓練場で実戦練習中だ。
虫も殺さないような優し気な外見をしていても団長は強い。一番強いから団長をやっているのだ。カーティス曰く努力の人らしい。確かに暇さえあれば自己鍛錬をしている。
埃っぽいにおいがしてきたなと思った瞬間、突然ざっと大粒の雨が降り出した。
フィアは慌てて部屋の窓をすべて閉める。すぐに外は土砂降りになった。慌てて廊下の窓を閉めて回る。
「ん? フィアだけか。あいつまだ戻ってきてないか? この時間にここに持って来いって言ってたんだけどな。まだ訓練場か……雨だから屋内の方か?」
開け放たれたドアから、副団長のルイが顔を覗かせる。手には書類の束を持っていた。ルイがフィアに何か話しかけようとした瞬間に腕輪が赤く点滅する。ルイが顔を顰めた。
「あー、はいはい。決まったか。明日? 明後日? 明日か。そうか本当に来るのか。無駄だと思うがなー。後継ぎの話をこっちに持ってくるのは本当にこれで最後にしてほしいよなぁ。ああ……ちょっと待ってくれ」
腕輪に向かって話しかけていたルイがちょいちょいとフィアを手招くと、書類の束を手渡し一番上の空欄を指差した。ここに団長のサインをもらってこいということらしい。フィアは書類を受け取ると、掃除道具を片付けて、ルイの横をすり抜けて歩き出した。通話中のルイの眉間にはものすごく深い皺が寄っていた。通話相手は今回も女性のようだ。会話の内容までは聞き取れない。でも、明日お客さんが来るらしいことはわかった。
屋内訓練場には誰もいなかった。ということは、屋外練習場で訓練中に団員たちは雨に降られてどこかで雨宿りしているのだろう。雨脚はかなり激しい。
一度団長室に戻って団長が戻ってきているか確認しようとフィアは今来た道を戻る。
団長室のドアは閉まっていた。明かりがついているから戻っているのだと安堵する。ノックをすると「入って待っててくれ」という声がかかった。
ドアを開けて室内に入るが誰もいない。奥にもう一部屋あるからそちらに行っているのだろうか。そちらから「座っていてくれすぐ行く」という声が聞こえて来たので、応接セットのソファーに座る。テーブルに書類を置いて、窓に近寄る。すごい雨だ。外の様子がまるで見えない。
「ルイ、待たせてすまなか……」
雨に濡れて着替えた団長は軍服ではなく白シャツとズボンというラフな姿だった。頭からタオルをかけて髪を乾かしているせいだろう。濡れないように襟元を開けている。首筋に宝石のように輝く青いウロコが見えた。つるんとして濡れたように輝いている。紫が微妙に混ざった色味がとても綺麗だ。
フィアはテーブルの上の書類を手に取ると、笑顔でたたっと団長に駆け寄った。
「団長ここにサイン下さい」
団長は青い目を限界まで大きく見開いて硬直している。部屋にいるのが副団長だと思っていたのにフィアだったから驚いているのだ。書類を差し出すとギギギッと音がしそうな感じで、書類を見下ろした。
その時ふわっととてもいいにおいがしたのだ。多分ウロコのある辺りから。フィアは無意識で背伸びをして団長の肩に顔を寄せる。
「団長なんかすごくいいにおいがしま……」
団長はフィアから書類をひったくるように奪い取ると、木製のデスクの上にあったペンを引っ掴みすごい勢いでサインをする。それをフィアに手渡すと、彼女の肩を持ってくるりっとひっくり返し、両肩を押してドアの前まで連れて行く。勢いよくドアを開けて、そっとフィアを部屋の外に押し出とすぐにドアを閉めた。鍵までかけた。
その間恐らく十秒もかかっていない。
「それ、急ぎだから。……ルイ探して渡してくれるかな」
ドアの向こうから、押し殺したような声がした。
「はーい」
フィアは素直に頷いて廊下を歩き出した。食堂近くで遭遇した副団長に事の次第を話すと、何故か大爆笑されて肩を叩かれた。
夕食時にカーティスに同じ話をしたところ、縋るような目で「頼むから早く育ってくれ」とまた懇願された。
そういえば団長って性別どれなんだろう……
フィアはふと疑問に思った。これもにおいでわかるらしいのだが……幼体のフィアにはまだわからない。
「いや、だから毎日来られても……私はフィアに会えるのは嬉しいけどね……」
翌日また医務室に連れて来られたフィアを見て、サリエはため息をついた。
「フィア、団長からいいにおいがしたの?」
そう尋ねられて、フィアは頷く。何か特別な香水でも使っているのだろうか。すごくいいにおいがした。ちょっと胸がドキドキするような香りだった。思い出してもふわふわ幸せな気持ちになる。にこにこしているフィアを見て、サリエもつられるように笑顔になった。
「そっかーよかったわねぇ。ちょっとずつは成長してるのよね」
サリエはそう言ってフィアの頭を撫ぜてくれた。それから背後に立つカーティスを見て言った。
「薬処方しとくから」
「薬の量がどんどん増えるのを見てると、色んな意味で怖いんだよ」
カーティスが頭痛を堪えるような顔をしてそんな事を言っている。フィアは心配になって思わず姉に尋ねた。
「カーティス頭痛薬飲んでるの? 頭痛いの? 大丈夫」
「いや、俺じゃなく……うん。頭は痛い……」
カーティスは何かを言いかけて諦めたように目を閉じた。本当に辛そうだった。
くいくいっと袖を引っ張ると、大丈夫だよというように姉は笑って頭を撫ぜてくれた。
フィアは今日も作業着を着て竜舎を掃除していた。
「いやだわすごいにおい。髪に染みついてしまいそう。よく平気ね」
窓の外からそんな声がして、フィアはのろのろと顔を上げる。こちらを見て嘲笑するように目を細めているのは若い女性だ。サリエ程ではないが艶っぽい綺麗な人だ。この辺りでは見かけない豪華な赤いドレスと外套を身に纏っている。背後の男性使用人が日傘を差しかけていた。王都からのお客人だろうか。
「わたくしだったらあんなにおいを染みつけてあの方の前に立つなんて、恥ずかしくてとてもできないわぁ」
敵意ある視線と共にぶつけられたのは、明らかにフィアを侮蔑する言葉だった。
フィアは貴族の令嬢といった雰囲気の女性から目を離して、再び床を掃き始める。別に返事をしなければならないようなものでもなさそうだったからだ。
だが、それが彼女にはバカにしているように見えたらしい。
「挨拶も出来ないなんて、礼儀もなっていないのねぇ。所詮田舎者は田舎者なのよ。身分的にもつり合わないわぁ。よく覚えておきなさい。グリフィスさまの番はあなたではないの。わたくしが番になるのよ」
そういえば団長は貴族だったなと思い出す。そして彼女はフィアに対して自分こそが団長の番だと認めさせたいようだ。どうして自分が関係あるのかさっぱりわからないが。
「聞いていらっしゃるのかしらぁ?」
「はい。恐らく竜人違いをされていらっしゃるのではないでしょうか。団長の番は私じゃないですよ」
フィアが掃除の手を止めないまま冷静にそう返すと、勘違いを指摘された女性の頬が真っ赤に染まった。
「そうね、あなたみたいなひどいにおいを染みつかせた女が番な訳がないわよね!」
捨て台詞を吐いて、彼女は足早に去って行く。そんなににおうかなとフィアは袖口に鼻を近付けるが自分ではよくわからない。まぁいい。自分には関係ないやとフィアは思った。
何となくイライラする。いつもより乱暴に掃除を続けていると、ルイが竜舎にやって来て言った。
「フィア、客が来てるんだよ。着替えてお茶を出してくれないか? 四つ」
「くさいらしいです。私」
ああ、お客はあの人かと思ってフィアはむっと眉を寄せた。いつもにこにこしているフィアが珍しく不機嫌なのに気付いて、ルイは興味深そうな目になった。
「風呂入って髪洗えば問題ないんじゃないか?」
「染みついてるらしいですよ」
「要するに出したくないんだな?」
拗ねたような顔になったフィアを見て、ルイはニヤニヤ笑っている。
「私は良いんですけど、向こうが嫌がります」
フィアはちいさくため息をついた。その時またルイの腕輪が点滅を始める。そういえば、こうして会話をする度にあの腕輪点滅しているなとフィアはぼんやり思う。ルイは面倒くさそうな顔になって通話に応じた。
「あーなんだ? ああ、着いてる着いてる。うん、うん。……は? 二番? 二番じゃ無理だろ。三番じゃないと。はあ? 三番は無理? いない? 知るかよ向こうの事情なんざ。……結果わかってんだから、最初から送り込んでくんなよなぁーめんどくさい……ああちょっと待ってくれ」
ルイがまたちょいちょいとフィアを手招く。そして、団長室がある方角を指差してから、指を四本立てる。どうしてもお茶を出してほしいということのようだ。仕方なくフィアは頷いた。まず風呂に入って髪を洗うことから始めなければならない
体と髪を石鹸でしっかり洗い、洗濯済の軍服に袖を通す。
それでもにおうという言葉がどうしても気になったので医務室に寄った。
「サリエ、竜舎掃除してたら、お客さまからにおいが染みついてるって言われました。今からそのお客さまにお茶を出しに行かなくちゃいけないんですけど、何とかなりませんか?」
「お客さんって、人間? 竜人?」
「……どうでしょう? よくわからないです」
「ふーん……他の竜のにおいが気になるって言うなら竜人かしらね」
「何がそんなに気になるんですかね?」
「竜族は嫉妬深いから、他の竜の個体のにおいが大量に番に染みついてると落ち着かないのよ。飛竜も竜だからね。じゃあ、はいこれ。自分のにおいをちょっと強めて他の個体のにおいを封じる効果があるから、耳の後ろにほんのちょっとだけ塗るの。まぁ身だしなみみたいなものね」
そう言って、サリアは薬棚から瓶入りの軟膏を持ってくると、ほんの少しだけフィアの耳の後ろに塗り込んでくれた。
「これで大丈夫。あと髪の毛も直してあげるわ。お客さんの前に出るなら綺麗にしなくちゃね。せっかくフィアはかわいいんだから」
フィアは上機嫌だった。サリエがとてもきれいに髪を編み込んでくれたのだ。ついでだからと眉も整えてくれた。自分では絶対にできない。
身だしなみはきちんとしたし、においの問題も解決したし、さっさとお茶を出して来よう。足取りも軽くフィアは給湯室に向かった。
来客用の最高級茶葉で淹れたお茶を四つ用意して、団長室に向かう。近付くにつれて何やら不快なにおいが漂ってくる。ん? とフィアは眉を顰めた。なんだかすごく甘ったるいくせに焦げたような嫌なにおいだ。
ノックをしてドアを開ける。むわっと廊下にそのにおいが溢れ出した。うわっとフィアは上半身をのけ反らせる。
応接セットに先程のドレス姿の女性と、その付き添い人らしき男性が座っている。
団長がその向かい側に死んだ魚のような目をして座っていた。副団長は平然としている。どういう訳だが室内は静まり返っていた。
「換気、します……」
茶を出すよりそちらが優先だ。団長がにおいで死にかけている。執務用のデスクに一旦お茶を置いて、一番端の窓をフィアは開けた。
ちらりと盗み見ると、女性は大きく胸元まで開いたドレスを着ている。首筋には赤いウロコのようなものがてらてら光っていた。そこからこの何ともいえないいやなにおいは漂ってきているようだ。
確か竜人にとっては、首元を晒すのはズボンを履かずにいるのと同等だった筈だ。幼体のフィアは何とも思わないが、あまり良くないのではないだろうか。変質者になってしまう。
フィアは女性とその隣の男性の前にお茶を置き、団長と副団長の前にも置く。テーブルのど真ん中には思わせぶりに書類が一枚置いてあった。
「ねえあなた、グリフィスさまの番ではないのよねぇ」
不意に女性からそんな声をかけられて、フィアは彼女を見た。先程同様蔑んだ目を向けられている。良く知りもしない相手にここまで見下される意味がわからないが、貴族のお嬢さまの考えることなど、どうせフィアには理解不能だ。
フィアはお盆を持って立ち上がると一礼して下がった。この場での発言権はフィアにはない。
「先程そうおっしゃったわよねぇ。自分はこの方の番ではないと。ちゃんと答えなさい」
何でそんな事を確認したいのかわからないが、面倒くさくなってフィアは頷いた。
「言葉に出しなさいな。それが嘘ではないのなら」
居丈高にそう命じながら、女性はとても意地の悪い笑顔をフィアに向けていた。
「私は団長の番ではないですね」
仕方なくフィアはそう言った。言わない限りは解放してもらえそうになかったからだ。
「ほら、こちらの方はそうおっしゃっていましてよ?」
それみたことかというような顔を、貴族の令嬢は団長に向ける。つられるように団長を見たフィアは息を飲んだ。いつも穏やかな青い瞳が……ギラギラと見たこともないくらい強い光を放っていた。
すっと団長がフィアの手首を掴む。何だろうと思ってその手を見た瞬間に、反対側の手がフィアからお盆を奪い取った。
ガシャン……というすさまじい音が響き渡った。
木製のお盆はものすごい勢いで窓に向かって投げつけられ、ガラスを割ってどこか遥か彼方に飛び去って行った。
え? とフィアは瞠目してお盆の行方を目で追った。ソファーに座る貴族令嬢とその付き人も驚愕に目を見開いている。
「本人に当たれないからと言って、物に当たるのはどうなのだろうか。やったことは最低だぞ。恐怖で縛ろうとするなんざクズだ。わかってるんだろうがな」
「もう少し換気が必要だろう? それに下は立ち入り禁止地区だ。誰もいないさ」
団長はフィアから目を逸らさないまま、副団長の苦言をさらりとやり過ごす。
「フィア、ちゃんとわかってるんだ。でも、今のはどうしても我慢ならない。今すぐに訂正してほしい」
何を? とフィアは首を傾げた。団長は微笑んでいるのに目が怖い。ギラギラしている目がすごく怖い。あの目は、六番の地竜を埋めると言った時の母親と同じ目だ。埋められる!
フィアはガタガタと震え出した。
「な……なに……を?」
「番じゃない団長って、私のことではないよね?」
いえあなたのことです。竜人騎士団の団長はあなたです。そう喉元まで出かかったが、それを言ってはいけない気がした。フィアは反射的にこくこくと頷く。
「ちゃんと言葉にしてくれないと、どちらかわからないな」
声はとても優しい。微笑みかける顔もとても秀麗だ。でも青い目のぎらつきが怖い。
「ち……がい……ま……す」
息も絶え絶えにそう言い切ったフィアに満足げに頷いて、団長は立ち上がる。そしてフィアをまっすぐに見つめたまま、そっとフィアの手を自分の口元に引き寄せて、貴婦人にするように手の甲に恭しくキスを一つ落とす。
何が起きたのかわからないフィアはただ大きく体を震わせた。団長の放つ異様な威圧感に呑まれてうまく呼吸ができない。引きつったような浅い息を繰り返しながら、フィアは震えていることしかできない。
「じゃあ行こうか」
団長は優雅に微笑んだ。
「どこにだ」
冷静に副団長がそう言った。
「ちゃんと待っててあげるつもりなんだよ? 私の気持ちが一方通行だってことはよくわかってる。君は私のことなんてそこら辺に転がっている石と同程度くらいにしか思っていないからね。フィアが成体になったらきっと何か変わると信じて待っているんだけど、平気でああいうことを言うのであれば……さすがに色々考えなくちゃいけない。少し向こうでお話しようか」
団長の声がどんどん低く暗くなってゆく。背後に何か黒い闇が見える。
「……とうとう限界こえたかぁ。もうそろそろ三年だもんなぁ……フィア、そいつの名前知ってるか?」
「……だんちょう」
女性が呼んでいたグリフィスは家名の方だ。
「うん。まだその程度だもんなぁ。到底追いつかんな……一度に飲み切れない程の水を与えたらフィアが溺れるといつも言ってるんだがなぁ」
はぁっとルイが深いため息をついた。
ゆっくりと瞬きをして団長が目を開いた時、その瞳は金色に輝いていた。フィアの全身からどっと冷や汗がふき出す。あまりの恐怖に膝が笑っている。フィアは今はっきりと生命の危機を感じていた。喰われる。本気でそう思った。震える足で踵を返して逃げようとしたが手首を掴まれているため動けない。
フィアが逃げようとした……と気付いた瞬間に、団長の笑みは深く、暗くなる。がくっと足から力が抜けたフィアの背中に手を回して支えながら。団長は金色の瞳でフィアの青い瞳を覗き込んだ。そのまま軽々と横抱きに抱え上げられる。
「フィア、今日はすごくいいにおいがするね。どうして? さっきまで息をするのも嫌なくらい酷いにおいだったけど、今はすごく呼吸が楽だ」
団長は金色の瞳を輝かせて、フィアに尋ねた。恐怖でパニックに陥ったフィアは早口で一気に捲し立てた。
「お客さまがくさいって言ったからちゃんとお風呂入って髪も体も洗ってきました医務室言ったらサリエが身だしなみよって耳の後ろに軟膏を塗ってくれました」
「そっか……じゃあ問題ないね。すごくいいにおいだね」
嫣然と笑ってフィアの首元のにおいを嗅ぐ。フィアは体を縮めて硬直した。恥ずかしくていたたまれなくて怖くてもう気絶したい。今すぐ母親のお腹の袋の中に帰りたい。
「……とうとう頭のネジぶっ飛んだかぁ」
「ふ……副団長。団長止めて下さい」
なんかよくわからないけれど、身に危険が迫っていることだけははっきりとわかる。あまり団長を刺激しくないフィアは、金色の瞳を見つめたまま恐る恐るルイの方に手を伸ばして助けを求めた。
「そいつ一歩もこの場から動いてないだろ。まだかろうじて理性が勝ってるから大丈夫だ。ぶっ壊れる前に窓割ったし、すぐにカーティスが飛んでくるだろう。俺も最近年で膝が痛くてな。急には立ち上がれない。……心配するな、団長はちょっと悪い物食べただけだ」
嘘だ。絶対それは嘘だ。フィアは泣きながら首を横に振った。
「……フィア、無事か! え? なんでこんなすごいにおいが入り混じって……ってか団長、目が金色じゃないですかっ」
乱暴にドアが開いて、カーティスが駆け込んでくる。
「お姉ちゃんお姉ちゃん団長が壊れたー」
姉の声を聞いた途端、安堵のあまりフィアは子供のように大泣きしはじめた。
「絶対に壊れる原因作ったのはフィアだろっ」
カーティスは大声で言い返した。
「団長落ち着いて下さい。フィアはまだ幼体です。よ、う、た、い。今の団長、あの六番の地竜以下です。絶対にああはなりたくないって言ってましたよね! 竜人としての尊厳を手放さないで下さい。今すぐ薬飲みましょう薬っ」
「飲み薬じゃもう無理だろ。注射器よこせ。一番上の引き出し」
乱暴に引き出しを開けたカーティスが副団長に向かって何か投げつける。ルイがフィアを抱きかかえる団長の手の甲に注射針をぶっ刺した。何のためらいもなかった。
「……しばらく自己嫌悪で使い物にならんだろうなぁ」
ルイが口の中でぼぞっと呟いているのが聞こえた。
「うわっ、ここで吐くなっ。バケツ持ってくるまで耐えろっ」
カーティスが客人の令嬢の様子がおかしい事に気付いて叫ぶ。彼女は体を二つ折りにして口元を押えて吐き気を堪えていた。カーティスが掃除道具入れに向かって走り出す。
フィアは自分を抱え持つ団長の瞳が青に戻ったことに気付いてほっと安堵する。落ち着くと、団長からとてもいいにおいがしている事に気付いた。
「いいにおいー」
頭の中がふわふわする。ぐるぐるする。酩酊したようになったフィアはふにゃりとした笑顔になって、すりすりと団長の肩に頬を摺り寄せる。
「だんちょうすきー」
フィアの一言で団長はびくっと体を震わせる。おっ? とばかりにルイがフィアを見上げる。
「ほかのひとのつがいにならないで」
腕を伸ばしてぎゅーっと団長の首に抱き着いて、フィアはふわふわ幸せな気持ちに浸りながら、かぷっといいにおいのする襟に噛みついた。
「フィア、おまえは本当いい加減にしろっ」
貴族の令嬢のお付きの男性に向かってバケツを投げつけたカーティスが、茫然自失状態で立ち尽くしている団長からフィアを奪い取る。
大笑いしているルイを睨みつけると、カーティスは妹を肩に担いで廊下に向かって駆け出した。
フィアは母親のお腹の袋の中に戻された。きっと外に出るのが早すぎたのだと、しみじみとカーティスは言った。
袋の中は暗い闇だ。温かくて柔らかくてとても安心する。フィアは一日のほとんどを眠って過ごす。とても満ち足りた気分だ。でも時々ふと寂しくなる。そうするとフィアはしくしくと泣き出してしまう。寂しくて苦しい。おかしいなとフィアは思う。こんなに暖かくて幸せなのにどうしてこんな気持ちになるのだろう。
――あらあら。ふふふふ……フィアも少しずつは成長してるのよね。でも相手の気持ちが大きすぎてうまく受け取れないのよね。
母親が楽しそうに体を揺すって笑っているから、フィアの意識もゆらゆら揺れる。
声が聞きたいなと思う。すごくすごくいいにおいがした人。フィアって優しく名前を呼んでもらえるとすごく嬉しかったのにな……
名前……そうだ、名前。団長の名前。なんだっけ? 心に思い浮かべるとどきどきして苦しいし、言葉にしようとすると緊張で口の中がカラカラになってしまうから、ずっとずっと記憶の奥底に沈めてある。もうそろそろ思い出しても大丈夫だろうか……
そんな事を考えていると、最近首筋が少し疼く気がする。
――もうすぐ綺麗な青いウロコが生えて来るから大丈夫。ちゃんと名前を呼べるようになってから、今度はお外に出ましょうね。
母親に言われてちいさく頷く。優しく自分の名前を呼んでくれる声を思い出しながら、フィアは幸せな眠りについた。
医務室でカーティスは頭痛薬をもらっていた。ついでに胃薬も欲しいなとちょっと思っていた。
「最近王都の方で人工的に竜人を生み出す研究が進んでるとは聞いてたんだけどねぇ。伝手を辿って調べてみたらひどい話だったわよ」
サリエはテーブルに頬杖をついて、不快そうに顔を顰めた。
「人工的に合成した竜の血を体内に輸血するみたいなの。ほら、彼女首筋にウロコみたいなの出てたじゃない。でもあれはウロコじゃなくて人工血液が固まったカサブタみたいなものなのよね。酷いにおいがしてたでしょう。その人工血液は二番のものを元にしてるみたいで、においは二番に近いけど……やっぱり異質よね」
「気分悪くなった……」
思い出しただけで吐き気を覚える。カーティスは思わず口元を押えた。
彼女は自分のにおいを拡散させる薬品を首元に塗りたくっていた。だからものすごいにおいを周囲に放っていたのだ。
彼女は竜人の首のウロコから出るにおいが『異性を誘惑するためのもの』であると勘違いしていた。あれは、異性ではなく番を惹き付けるための香りだ。番以外にはどちらかといえば不快な香りに感じられる。
竜人は首筋を隠すのは、ウロコに光が当たることでにおいが発生してしまうからだ。これは竜人にとっては絶対に守るべきエチケットである。
よく団長は耐えたなと思う。副団長は……老化してるから色々鈍ってるんだよねと言っていたが、あの男の言動は全く信用ならない。
「あの偽ウロコね、実は三か月くらいで腐ってくるらしいの。多分彼女は何も知らされてないんだと思うけど、本当は早めに手術して取り除いた方がいいのよね。腐り落ちると酷い跡が残るの」
サリエが窓の外に視線を投げた。端折った話を聞いていているだけでこれだけ気分が滅入るのだから、色々調べたというサリエが感じた嫌悪感はカーティスの比ではないだろう。
「教えてやったのか?」
「一応話はしておいたわよ。でもショックで自失状態だったから、耳に届いていたかは疑問ね。……無理もないわよね、団長と番になりたくて人造の竜人になったのに、好きな人の『におい』をどうしても体が受け付けなかったんだから。多分もう怖くて近寄ることもできないわね。こんな恋の終わり方はイヤだわー」
結構残酷よね、とサリエは皮肉気に笑った。
番以外のにおいを体が拒絶するというのは、竜人にとっては当然の感覚だ。でも、何も知らなかったあの貴族のお嬢さまには衝撃的な体験だっただろう。瞳が青から金に変わった団長は、フィアを誘惑するために強烈なにおいを体にまとっていたから。
「あの場で吐きそうになってるから本当に焦ったな」
同じにおいで片方は耐え難い吐き気を覚え、片方は酩酊状態に陥った。
「まぁウロコ取れたら人間に戻れるみたいだから、そこはまだ救いよね。後遺症色々あるみたいだけど」
「跡残ってトラウマ残って、まだ色々あるのか……悲惨だな」
「最初にひどい話だって前置きしたわよね。そもそも私たちは女神さまの加護があるから番って運命的に決まってるじゃない。そこにまがい物が割り込むのは無理よ」
「……団長の薬の量ってまた増えてないか?」
「でもまぁ、結構幸せそうではあったわよ。道端の石からは昇格した訳だし」
「最初から道端の石ではなかったんだけどなー」
妹は妹なりに団長のことは特別な存在だと認識していたとは思うのだ、幼いなりに。
その幼い妹が、酔っ払い状態とはいえ、いきなり団長の軍服の襟に噛みついた時は心臓が止まるかと思った。
この先、あの二人はどうなっていくのだろうか。すんなり丸く収まってくれないような気がして、カーティスの胃はきりきりと痛んだ。
髪は伸びた。身長や外見年齢はあんまり変わらなかった。首元にはちょっとだけ。青いウロコが顔を出した。これでフィアも晴れて成体の仲間入りなのだ。だからちゃんと練習して団長の名前も呼べるようになった。
フィアは団長の番なのだ。成体になってやっと理解した。
団長とフィアはウロコが同じ色だし、団長のにおいはフィアにとって、とてもいいにおいだ。いいにおいに感じられるのは番だからだ。
でも、フィアは番というものが何なのかいまいちよくわかっていない。
一番近くにいて相手の首筋を噛んでも良い存在。と、いうので間違ってはいないだろうか……
今はまだそれでいいわよ、と母は笑っていた。竜人のことはよくわからないから、お姉ちゃんに聞いてね。と明るく付け加えられた。
フィアを追いかけ回していた六番の地竜は、どこかで運命の三番と出会ったらしく、いつの間にか姿を現さなくなっていた。……母親に蹴り飛ばされて瀕死状態という訳ではないとフィアは信じている。
三か月振りの騎士団本部だ。フィアを砂漠まで迎えに来てくれた姉とは玄関ホールで別れた。
一人で挨拶に行けるという妹に対して、
「うん……まぁちゃんと薬飲んでるだろうし、大丈夫か」
少し考え込むような様子を見せてから、カーティスはそう言った。
団長は病気なのだろうか。そう思って不安そうな顔付きになったフィアを見て、カーティスはにっこりと笑った。
「熱さまし。最近風邪が流行ってるんだよ。……団長待ってると思うから、さっさと挨拶済ませてこい。終わったら竜舎の掃除するんだろう? におい大丈夫だったのか?」
「うん。平気だった!」
ここに来る前に竜舎に立ち寄ったが、特に嗅覚に変化がないということがわかった。単純にフィアはにおいに鈍感な竜人だったのだ。だからこれからもちゃんと騎士団のお役に立てる。
「ほら、行ってこい」
そう言ってカーティスに背中を押されフィアは歩き出す。振り返ると姉は不思議な笑顔で妹を見送っていた。
廊下を歩きながら、フィアは数日前から練習していた台詞を頭の中で確認する。大丈夫だ。ちゃんと挨拶をして、長くお休みして申し訳ございませんでしたと謝罪して、これからもよろしくお願いしますと言う!
「お、フィア戻ったのか!」
明るい声がして、ふと目を上げると、向こうからルイがやってくるのが見えた。
「団長室行くんだよな。丁度いい、これ届けてくれ」
そう言って片手に乗る程度の大きさの小包を手渡される。小さい割にはずっしりと重い。
「壊れ物だから落とさないようにな……と、またか。何かフィアと話そうとすると通信が入るな」
ルイの腕輪の宝石がまた赤点滅し始める。ルイは小包を持つフィアから少し離れると、宝石の上に指先で図形を描いた。
「はいはい。ああ、またあんたか。はいはい。あーそう。うんうん。こっちももう片付きそうだから心配しなくていい」
そう言いながら、フィアに向かって笑顔でひらひらと手を振っている。もう行ってもいいぞということらしい。
一体通話の相手は誰なのだろう。いつも同じ人のようだ。最初に聞こえた声は女性だった……
「まぁ大丈夫だろ。そう心配すんな女神サマ……」
ふと耳に聞こえた単語に思わずフィアは足を止めて振り返ったが、ルイはもう随分遠ざかっていて、会話する声は不明瞭になっていた。
壊れ物だという小包を大切そうに抱えてフィアは団長室に向かう。すれ違う団員たちが笑顔で「おかえり」と声をかけてくれので、フィアも笑顔で「ただ今戻りました」と返す。
笑顔で挨拶をしつつも実は緊張で気持ち悪くなってきている。
とうとうフィアは団長室の扉の前に到着してしまった、心臓が口から飛び出しそうだ。こういう場合はもう勢いでいってしまった方が良いのかもしれない。いざ! とノックしようとした突端。
「あ……」
突然内側に扉が開いて、フィアの体は前のめりに倒れた。小包、壊れ物、割れる! という単語が順に脳裏に浮かんだ。フィアは小包をぎゅっと抱え込んだ。ふわっといいにおいに包まれる。両肩を持ってフィアの体を支えてくれた人は、今日もやはりとてもいいにおいがした。
「ごめんフィア、急に開けたから驚かせたね。大丈夫かな? ……フィア?」
フィアは小包を抱えたまま、真っ赤な顔で硬直していた。恥ずかしくて顔を上げられない。
優しく名前を呼ばれるとどきどきしてふわふわする。
それは……フィアが団長の事を好きだからだ。
そう思ったら、もう耐えられないくらい恥ずかしくなってしまった。
……無理だ。絶対にむり。
「……はずかしくてむり」
ちいさな声でやっとそれだけ言うと、フィアは俯いたまま涙目で小包を目の前の人に押し付ける。受け取ってもらえたのを確認すると、目も上げられないまま踵を返してその場から逃走した。
初恋を自覚したフィアは、団長の顔がまともに見られず……一週間逃げ回った。
「ねえ、フィア、団長ではなく名前を呼んで?」
甘く甘くねだる声に、顔を真っ赤にしてフィアは首を横に振る。膝の上に乗せられて抱きかかえられている。最早どこにも逃げ場がない。固い指先がボタンを外された襟元からちらりと覗く青いウロコをなぞる。その存在を確認するように。
フィアがあまりに逃げるせいで、団長は完全に開き直った。それはもう見事に方針を転換した。
「だいすきだからむりです」
涙目でそう答えるのが精一杯のフィアは、慣れない感覚が怖くて首を竦める。手の大きさがこんなにも違うのだとか、体温も全然違うのだとか、そんな小さなことにいちいち驚いてびくびくしてしまう。
「うん。私もフィアがとても好きだよ」
好きと言われて嬉しいのに困る。恥ずかしくて逃げ出したいのに逃がしてもらえない。
本日昼休みに食堂付近で捕獲されたフィアはそのまま団長室に連れて来られた。所謂お姫様抱っこというやつだ。すれ違う団員たちの生暖かい視線がいたたまれなかった。
「……そろそろ慣れようね。顔を合わせる度に泣きながら逃げられるのはさすがに私も少し傷付く。嫌われている訳ではないとわかっていてもね」
左手を持ち上げられて、薬指の付け根にそっとキスを落とされる。
団長の言いたいことはフィアにも理解ができる。自分が同じことをされたらもう立ち直れない。……でも恥ずかしいのだ。だから足が勝手に逃げる。
その度に容赦なくフィアを追い詰めて捕まえる男は、青い目を窓の外の遠い空に向ける。全開になっている窓から心地良い風が入って来る。団長が割ったガラスはきちんと取り換えられていた。出入口のドアも全開だ。団長室には風が良く通っている。
「少しずつでいいから、慣れて。……頼むから」
とても辛そうな声でそう告げられると、フィアも申し訳なくて悲しくなった。
「わたしはロディオンさまのことがだいすきです」
いつも逃げ回っている謝罪の気持ちを込めて呟くと、フィアは少し体を捻って、大好きな人の肩口にそっと頬を寄せて目を閉じた。やっと言えたと安堵した途端に、抗いがたい猛烈な眠気におそわれ……というか目の前が真っ暗になった。
「今度はそうなるか……」
頭の上で呻くような声がした。
フィアは母親のお腹の袋から出て一年しか経っていない。
まだまだ幼いフィアは、簡単に恋に溺れてしまうのだった。