【足跡はふたつ、道はひとつ。】
「仕事? そんなの有ったら俺がやるよ」
「文字は書けない? 読めもしない? なら……使うところがないなァ」
「街の外からきたぁ? なんで? 余所者にさせる仕事も食わせる飯もないよ」
甘かった。
メイベルは漠然と村の外に出れば何とかなると考えていたが、仕事なんてなかった。
村の中ではみんなが身内で、そもそも自分ちの畑で働いてのだから、いくらでも仕事があったのだが、見ず知らずの他人が他人を雇うというのはそう簡単ではないのだ。
「はあ……もー……お腹空いたぁ……」
村のみんなから餞別ともらったカネはあるが、生活が苦しい中で出してくれたカネだ。
それぞれは大きい金額ではないが、だからこそ安易に使ってしまうことは空腹より辛いことに思えた。
大事だからこそ、重いのだ。
ここは村より大きな街。
はじめて訪れたが、馬車の馬に翼が生えていたり、家には煙突が複数付いていたり、魔術を使って遠距離通信を行う発信所などがあった。
この目新しい景色を家族と一緒に見たかった。
そうすれば弟や妹たちも喜んでいただろう。そんな思考を追いながら、メイベルは孤独を嫌でも痛感していた。
「……行くしかないのかな、もっと、遠く」
遠くに行っても仕事が見つかる根拠なんてないが、戻るわけにはいかないなら進むしかない。
食い扶持を稼ぐことが難しい。果てしない世界のどこまでも行って求職活動をしなければいけないかと思うとゲンナリする。
……するのだが、同時に、“果てしない世界”とやらを考えたとき、湧き上がるものもあった。
「世界……見にいくかぁー……!」
弱く後ろ向きな気持ちも、メイベルの中に確かにあった。
だがしかし、それ以上に、弱気な中にある旅が終わってしまうことを考えたときの空寒さが、旅に出た高揚感を肯定する。
今晩、雨風をしのぐ屋根すら担保されず、寝そべるための床すらないが、それでも、まだ踏んだことのない道が、見たことのない空が広がっているという事実が、ただただ重くなる心を浮かび上がらせる。
仕事がないならないで、死ぬまで旅を続けてみる。それだけだ。
「ならまずは! 武器でも買うかぁ! ゴブリンやオーガ相手にも引かなかったあたしだもの! まずは武器! それで――」
ぎゅおん。
何かが頭上を通り過ぎたのを、その影がメイベルに教えた。
黒いスポットライトのように辺りが一瞬だけ暗くなった。
「……はえ?」
「擬翼竜の群れだ! 逃げろ!」
空を舞う四つの影に、一瞬だけ、メイベルは幼いころに鏡中に見た鉄の巨人を連想した。大きな翼、竜を思わせるフォルム。一瞬だけだが。
大きさは、かつて鏡の中に見た鋼鉄の巨人に比べるべくもないが、人間に比べれば巨大だ。
羽ばたきだけで人間が吹き飛び、一口で人間の頭を飲み込めるだけの頭部とアゴ。
厳密にはドラゴンではなく、ただの大型の爬虫類ではある。あるが。そんな分類は今は関係ない。頭をかじられれば即死、そんな猛獣が四匹。
街の空に襲来し、木造の屋根を弾き飛ばす。
人々は近所の家に飛び込んだり、それでも安心できないと走り回ったりし、混乱が乗算で増していく。
「に、た、にげたすあぁ!」
「なんでこんなところに! もっと北に生息してるんじゃないのか!」
「誰か! 小さな女の子を見ませんでしたか! はぐれてしまって! レイナ! どこなの!」
「弓矢を持ってこい! 投石器を起こすまで時間を稼げ!」
「待てよ! 食い逃げだ!」
「魔術師! 攻撃魔術を使える魔術師はいないか! ワイバーンは爆炎魔術に弱いぞ!」
「誰かあああああ!」
口々に叫ぶ人々は、互いの声が打ち消されないように競うように声を大きくする。自分の発言が一番大事。その主張が怒号として連鎖する。
自警団くらいはるだろうが、その動きが始まる前に何人かは確実にワイバーンに襲われることは明白であり、そのひとりになるわけにはいかない。
メイベルの生存本能は、周囲を見渡し、もっとも安全な場所を探し……そして見付けてしまった。逃げ惑う人々の合間、転んで泣きじゃくっている女の子を。
ワイバーンに襲われる前に、パニックになっている人々に踏み殺されそうですらあるが、それは別にメイベルには関係ない。関係ないのだが、メイベルの疲れ切った身体は女の子に向かって走り出していた。
――あれ、あたし、なにやってんの?――
「大丈夫!? ケガはないっ?」
思考とは裏腹に、力強い言葉が出ていることに一番驚いたのはメイベル自身だ。
群衆の足元を縫うように駆け抜け、メイベルはズボンの裾をほつれさせながらスライディングして女の子を抱きしめている。
――違うじゃん。あたし、見ず知らずの他人を助ける余裕なんてないでしょ。仕事もカネも武器もない。なんで? なにしてるの?――
そもそも、自分が抱きかかえたところで、群衆に踏みつぶされることはなくても、ワイバーンに襲われたらふたりとも死ぬ。
「お姉ちゃん、だれ?」
「そんなことより! 逃げるわ――え!?」
少女を抱きかかえて立ち上がったメイベルへ、振り子のような速度と正確さでワイバーンの鱗に埋め尽くされたカギヅメが迫る。
逃げ場も逃げる技もない! メイベルは反射的に女の子を抱きしめ、自分の内側に入れるようにしてツメから庇う体勢をとった。
せめてこの子だけはとメイベルが祈ったとき、“そいつ”は来た。
「――それだとふたりとも抓まれて空中に引っ張られるな。女の子は思い切って遠くに投げ捨てるのが正解だ」
「……はあぁ!?」
腹が立つほど冷静なその声に腹が立てば、一秒前の恐怖が消えていた。
振り向けば、もちろん、あのジャージ男。その足首をワイバーンの頭頂部へめりこませながら。
「……え、ちょ、はああああ!?」
「あと三匹! この喧嘩! 俺が買った!」
言い終わるが早いか、街道の石畳を割って叩き落ちるほどの速度と勢いでワイバーンを地面に叩きつけ、その勢いをステップにしてジャージ男が上空へと跳ねる。
メイベルの視線がそれを追うが間に合わず、視線が追いついたときには既に二匹目のワイバーンがノックアウトされ、落下を開始していた。
「なんだよ、なんなんだよ、姉ちゃん、あの男、何者なんだよ!?」
「あたしが訊きたいわよッ!」
至極マトモな通行人の発言に、やはり至極マトモな返答をするメイベル。
この場に、マトモじゃないヤツはジャージ男しかいないのだ。素手でワイバーン四匹に戦いを挑むようなバカは、他にいないのだ。
――空中での打撃技は威力が落ちる。ならばあれか――
ジャージ男の思考が光の速さで駆け抜けるが、そもそも、空中の相手に格闘を仕掛けること自体がマトモじゃないが、男はそんなことを気にしない。
三匹目のワイバーンが状況を把握するより早く、ジャージ男の両腕がワイバーンの長い首に巻きつき、そしてジャージ男の鍛え抜かれた背筋力が振りほどく時間を与えず、首関節を極めることでワイバーンの全身を制する。
そして。ジャージ男の全身のバネが連動することで、三匹目のワイバーンの巨体を回転させ、四匹目の背中に叩き落とす。
「うおおおおッ!」
気合一発。きりもみ回転で三匹目と四匹目のワイバーンは絡み合い、ジャージ男は先に落下していたワイバーン二匹の上に着地させる。
もちろん言うまでもなく四匹とも完全にノックアウトされ、その四匹の背中の上から、ゆらりとひとりの男が立ち上がる。
不敵な笑顔を構え、ゴブリンたちにやられた傷が開いて擦り傷だれけの笑顔で、親指を立てた。
「ドラゴン相手に……掟破りのドラゴンスクリュー極めてやったぜ!」
ドラゴンスクリュー。
プロレスにおいて相手の足を取って回転力で相手の身体を制する技。
ジャージ男はそれを応用し、ワイバーンを撃墜してみせた。圧倒的技量。
だがしかし。町民たち、そしてメイベルはひとつのことを指摘せざるをえなかった。
『ワイバーンは、ドラゴンじゃねぇええええええ!』
「な、なにぃ!?」
そこじゃない。
そこじゃないが、ツッコミを入れずにはいられなかった。
その後、ワイバーンにトドメを刺そうとした町民たちを制し、ジャージ男とオーガはワイバーンたちを街の外に運んだ。
最初、ジャージ男が一匹目のワイバーンを撃墜したときの飛び蹴りは、遠くからオーガがカタパルトよろしく加速をつけ、ジャージ男を投げたらしい。
英雄的に颯爽と現れ、街の危機を救いはしたが、ジャージ男の奇妙ないでたちや、モンスターと共闘して救うような行動に町民たちや自警団は露骨に眉をひそめた。
もちろん、オーガも危険生物なわけだが、この奇妙な二人組と戦えば間違いなく犠牲者が出るし、英雄的であるのは確かなわけで、結局、ジャージ男のすることを咎めることができる人間はいなかった。
そして今、オーガは街の中は居心地が悪いとゴブリンたちのところに帰り、ジャージ男とメイベルは小さな民家でニンジンの葉が良いアクセントになっているシチューを食べていたりする。
普通の英雄なら村長の家に招かれたりパーティでもするのかもしれないが、まあ、ジャージ男は気にせずシチューを楽しんでいる。
そして言葉を選びながら、メイベルはシチューを食べる手を止めた。
「……ワイバーンがこの街を襲う、ってわかってたの?」
「ああ。殺意を垂れ流しながら飛んできていたからな。俺とオーガで走ってきたんだ。良い喧嘩に間に合って良かったぜ」
「オーガもだけど、どうしてワイバーンを殺さなかったの?」
「俺がしたいのは喧嘩で殺し合いじゃない。喧嘩相手が死んだら、それは喧嘩じゃないし、今頃こんなにウマいシチューは食えなかったさ」
「え?」
「殺しは好かない。飯がマズくなるからな」
シンプルで明瞭な答え。
それが綺麗事で偽善だとか高潔な正義感だとか解釈は様々にできるだろうが、メイベルは解釈をしなかった。この男はこういう男なのだ。
鍛え抜いた肉体と技で、自分のやりたいことをする。行きたい場所へ行く。それがこの男なのだと、言葉のままに理解できたし、理解した。
「……ねえ。あんた、このあとどこに行くの? イセカイから来たのよね」
「情報が不足しているが、一番の喧嘩相手は魔王だろうな。どうやらそいつが元凶らしいしな」
「それはつまり、魔王が世界をメチャクチャにするためにワイバーンやオーガを暴れさせているの?」
「いや。故意ではないな。環境を破壊しているせいだ。さっき戦ったワイバーンたちは食料を求めて遠出をしにきていただけだ。以前の餌場が魔王が資源開発のために破壊したため、ここまで飛んで来たんだ」
「どうして、そんなこと……?」
「拳を合わせればそれくらいは分かる」
ワイバーンにはカギヅメはあるが拳はない、というのは野暮だろう。
それよりもメイベルは重大な気掛かりなことを確認した。
「でも、またワイバーンがこの街を襲ったら、どうするの?」
「拳を通してワイバーンたちにも俺の気持ちは通じたはずだ。もう人間は襲わないで欲しい。そう伝えた」
「なんの保証もないじゃない。そんなの、わからないじゃない。街のひとたちだって不安なはずよ」
「そうだろうな」
「だろうな、って……」
「俺は正義の味方でも勇者サマでもないからそんなことは知らん。喧嘩して分かり合えた……分かり合えたと感じられた相手を殺したくない。それだけだ」
「それはそうだろうけど……」
「キミは? 見ず知らずの他人のために何かをするのか?」
「はあ? するわけないじゃん」
「――なら、さっき、なんであの子を助けたんだ?」
ジャージ男はシチューを食べていたスプーンでメイベルの背後を指した。
そこには母親に抱かれて眠る少女……先ほど、メイベルが救おうとした女の子・レイナちゃんとそのお母さん。
街を救いはしたがワイバーンの命を奪わないという奇天烈な男でも、間違いなく娘の命を救ってくれた恩人であると、救おうとしてくれたメイベルとふたりで招いたのだった。
「助けてないでしょ。あんたが来なかったら、あの子と一緒にあたしも死んでただけ」
「だろうが……それでも、キミはあの子を守ろうとした事実は変わらない」
胸が、熱くなっていた。
自身ですらなじりたかった自分の無力さと無謀さを、目の前のジャージ男は否定せず、あるがままに受け入れた。
この男にとっては、相手がワイバーンだろうとオーガだろうと、何も持っていない世間知らずだろうと、そのまま見ているのだ。
何もできなかった自分、冒険に出たい自分、自分を変えたい自分。メイベルの中に何人ものメイベルの思いはひとつになっていた。
「あなた。あたしを弟子にしてくれない? あたしは行きたい場所に行けて、助けたい人を助けられる人になりたいんだ」
弟子。
さっきアリスは言語を世界を超えて理解できると説明するために地面に描いた【師弟】という言葉に繋がる概念。
今まで自信満々だったジャージ男は、初めて言葉に詰まった。
「武術を教えるのは構わないが、俺は弟子を取る気はないぞ。俺自身がまだ求道の半ばであるし、何も修めていないからな」
「なら、師匠じゃなくて……兄さん、ってどう? あたしより先に道を歩いている人、ってことで」
「……それなら、問題ないか。截拳道という道を歩む兄弟子と弟弟子。人に教えるというのは俺の勉強にもなるしな」
「うん。じゃあそれでお願いね。アニさん」
「ああ、頼むぞ。まずは截拳道修行の第一歩……この世界の魔王を倒すか」
第一歩でのハードルが死ぬほど高い。飛び越えられるより下をくぐった方が良いレベルの高さ。
だがしかし、それがメイベルとジャージ男に共通したいやりたいことであるのは間違いない。
ジャージ男は喧嘩を求め、メイベルは冒険をしつつ家族のいる世界を救いたい。この“世界”の命運はただの少女とジャージを着た截拳道使いに託された。
「……ていうか。アニさん。あたし、あんたの名前聞いてないんだけど」
「そうだったか? まあ……俺もキミの名前を聞いていないからな」
世界の命運を背負ったふたり、互いの名前すら知らなかった。
スプーンを置き、ジャージ男が古傷につつまれたような分厚い右手を指しだした。
「仲間からは量と呼ばれている。量子力学のリョウ、計量のリョウだ。苗字はない」
「あたしはメイベル。あたしも……貴族さまでもないからね。苗字とかないわ」
量とメイベル。
鏡写しの冒険心を持つふたりがこのとき出会った。その意味を誰も理解しないまま。
全く姿の異なるふたりが“そっくり”と呼ばれるのは、先のことである。