【少女は鏡に竜の影を見た。】
聞いたことがあるだろうか。地球が疲れたというのを。
重力を発し続けて疲れたので、休んで無重力になりたいと思っているだろうか。
当たり前のようだが、重力は、“使い減る”ことがない。
時間に影響を受けず、存在することで力を発し続けるエネルギー、それが重力。
果てしない彼方の、光ですら途方もない時間の掛かる距離でさえも、重力は干渉をし続けている。
距離が離れれば弱くはなっても、それが尽きることはない。
宇宙にはそれぞれの重力が絡み合っている。
ブラックホールも、コバエも、そして人間も、大小はあっても重力を発して互いに呼び合い続けている。
万有引力。
そして、それは異なる世界にまで達するのだ。
少女・メイベルは、“それ”をとても楽しみにしていた。
弟や妹が産まれるときほどではないのだが、それは次ぐほどに人生で特別なことだった。
ここは、モンスターとドラゴンと魔術が科学よりも重んじられる世界の、小さな村。
季節と風だけが通り抜ける、百年前から変わらず、百年後も変わらなそうな田舎。
山奥すぎて盗賊すら出ず、熊より大きなモンスターも出たこともないし、魔術師や冒険者どころか観光客すら来ない。
そんな村に、遠くのドワーフ高山で採れた銀を錬金術師が加工して作った本物が届いた。この村でただ一枚だけ、村の大広場に運び込まれ、後ほど村長の家にしまいこまれるという。
鏡。
やや大きな姿見といったもので、都会であれば珍しくない。
鏡のない村だといえばいかにも田舎らしいと、村民の総意として豊作だった麦を売った金で購入した。
鏡一枚でお祭り騒ぎといえば、それはそれで田舎の象徴ということでもあるが、それでも大人たちにとってもそうであるように、メイベルは人生で初めて見る自分の顔から目を逸らせなかった。
そこには、見慣れない年相応に可愛らしいが、相応以上に生意気そうな子供がいた。
両親や弟妹に似ているが、それとは確かに異なる顔立ち。
栗色の髪の毛は思った以上に跳ね、瞳は家族以上に緑が強かった。
なるほど。
それはそっくりに左右だけが反転されて写っている。
事前に聞かされていたように、鏡というのは光の中で姿形を正確に写し取る道具である、そう思ったが、違う。
「……ねえ……父さん、母さん……あの、あれは、なに?」
「さっき教えた鏡よ。メイベル、あなたははじめて見るのよね。あれが鏡よ」
「違うの。あれ、あれは……私だけど、私じゃないの」
お姉ちゃんになったとはいえ、まだまだメイベルも子供、空想だろうと両親は深くは考えなかった。
しかしながら、それは鏡像では有るが空想ではなく、こことは違う“国”ではあるが現実であった。
この“国”では鏡とは光の反射による現象だということは知られていない。
光の特性自体が解明されているとは言えないのだ。
鏡は、可視光線の反射によって像を写す。
原理を知らなくとも、両親や多くの大人にとっての真実だったが、それは正しくはない。
鏡はどれだけ精工に作ろうとも、光の反射率は百パーセントにはならないのだ。
光は大気によって散乱するし、仮に真空中であったとしても、“重力”によって僅かながら影響を受ける。
重さがないはずの光ですら、重力にとっての例外ではない。
重力によって曲げられた光によって起こる、ごく僅かな変化。
それをメイベルの緑の瞳は捉えていた。
「鏡の中の……私は、私じゃないの。ねえ! ねえ!」
混乱する我が子を微笑ましいとすら両親は考えていた。
鏡像の中の姿に重力を感じることができる直観。
それは確固たる才能であると、同じ才能を持たない家族たちには理解できなかったのだ。
「ねえ……あれ……なに!?」
虚像であるはずの鏡像、あまりにも現実とは掛け離れた映像で有り、それを言葉にすることすらできなかった。
見たこともないほどに巨大な建造物、ビルディングの中にそびえる魔人めいた巨体。
対峙する三体の機械の獣。
赤い竜、白い虎、黒い亀。
その三体は自在に組みあがり、次々に変形していく。
その光景にどんな意味があるのかすらわからない、これが想像の産物であるはずがない。
想像することすらできない戦いが、そこにはあった。
メイベルが鏡の中にその姿を見たのは、それ一度だけだった。
次は、メイベルがこの村を出てから。鏡越しではなく、メイベルが鏡の中で見ることとなるのだ。