【キルジニ・ヴァンガン】
「では、先にメイベルさん。六×七で」
「え?」
「掛け算。六が七個あるといくつって質問」
その男は、うなじを通して左右の耳を繋ぐ鎖のようなピアスに、バリっとした真っ赤な背広。左半分を刈り上げて右だけ伸ばしたヘアスタイル。
そんな特徴的なルックスながら、中肉中背と滲み出るような笑顔が打ち消し、親しみやすすぎる男だった。
「三六?」
「お見事。で、イアンさんは三〇÷五で」
「六」
「正解。ふたりとも基本的な数学知識はあるんですね。じゃあ次の問題で……」
先ほどまで戦っていたことが信じられないような、和やかでなんでもない空気感だった。
真っ白な部屋の壁面に取り付けられたモニターには、外の作業風景や報告が表示されていく。
ここは空飛ぶ海賊船の中。モニターには、外で海賊たちが“略奪行為”に勤しんでいる様子が映っていた。
それは数十分前。外法神を撃破した直後。
リョウと戦虎拳牙の連撃が炸裂してもこの世界に満ちる淀んだような空気が晴れることはなかった。
数分間。分離もせずに立ち尽くす一行は、戦虎拳牙の高性能すぎるカメラから世界を見渡していた。
死屍累々。昆虫人間たちの死骸が連なり、そこにあったのは純粋で漠然とした滅びが果てしなく広がっている。
静寂。無線機越しにカタカタと何かの音がする以外、戦虎拳牙のコクピットの中に満ちた沈黙に、メイベルは耐えられなかった。
「アニさん、これ……どうにもならないの?」
「ならない。俺たちは間に合わなかった。この世界の命は尽きた。それは結論だ」
「でも……世界って無限にあるんでしょ? その中に、何か、何か、ないの?」
〔技術的には、心臓が止まったり脳が半壊したりしたくらいなら蘇生できるさ。でもなァ……外法神に殺されたヤツと壊された世界は、戻し方はねェんだよ〕
三号機、拳魂からの機械音声が残酷なまでに機械的に事実を伝えた。
「でも……そうだ! 無限大に世界があるなら、似た世界とか……!」
「似た世界は似た世界、似た他人はいくらでもいるだろうが、それは他人だ」
「でも……!」
「瓜二つの他人は確かに居る。世界が違う以外は同一人物としか思えないような、な。
そういう連中を同位体と呼んでいるが……同一人物としか思えなくても他人、だ」
鏡海には無限大の世界。
無限大の時間と空間、無限大のバリエーション。
だが、命はひとつしかない。魂はひとつしかない。死んだ命は世界だろうと個人であろうと、過ぎ去ったものは、もう戻ることはない。
メイベルは、無限であろうとも絶対の真理を突き付けられ……イアンも同じだった。
うつむいて言葉を失い、数時間前まで自分がしていた魔王としての功罪が現実感を帯びていた。
そんなことは露知らず、拳魂からの通信が、再び響いた。
〔紹介するぜぇ、あれが俺たちの母船、海賊船セカンドジョーカーだ〕
淀んだ大気と暗んだ世界で下ばかりみていて気付かなかったが、大きな影が差していた。
はためく海賊旗。光沢ある材質は明らかに金属でできている。
戦虎拳牙を丸ごと飲み込むような大きな影、その主は形こそ帆船そのもの。
しかしながら、縮尺は戦虎拳牙を甲板に乗せられるようにしたような規格外。もちろんそれは幼い日にメイベルが鏡の中に見たあの船。
最悪な気分でふたりは、海賊船の甲板に登り、ピアスに赤い背広の男はいた。
「どうも。俺はキルジニ・ヴァンガン。キジって呼ばれてます。おふたりの相手は俺がさせてもらうんで、よろしく頼みます」
「……イアン・ドードーです。よろしくお願いします」
「あたしは苗字なしのメイベルよ。ねえ、この世界、どうなるの?」
「どうにもできない。俺たちは外法神を倒すことはできても、壊された世界は戻らない。
……だからこそ、他の世界を守りたいんだ。まだ壊れていない、当たり前の平和を、俺たちは守れるかもしれない」
「外法神って、他にも何体もいるの?」
「俺たちは無限を食い荒らせる程度の数がいるんじゃないかと考えてる。それを倒せるのは、俺たちしかいない」
「どうして?」
「ジャバウォックは……さっきの戦虎拳牙は、無限の鏡海にあれ一機しかないからね」
「どうして?」
「それは……質問ばかりだね。長くなりすぎるし……まずは、テストをしようか。順序を立てて説明しないといけないからさ」
甲板から降りていく通路は、奇怪で様々な道があった。
マンホールのような狭い道、三角形でどの面を下にしても歩ける三倍の道、重力がめちゃくちゃでどちらからでも滑り降りれるポール、様々な世界の様々な文明の技術を用いて移動できるようになっていた。
だが、通された部屋はシンプルに真っ白な部屋。
会議室といった風でトイレのドアとテーブルがあるフローリング。面白みがないくらい普通の部屋で誰でも馴染めるようにと意識されているのかもしれない。
キジははメイベルとイアンを机に座らせ、“アレルギーとかあるといけないからただの水だけど”とミネラルウォーターを出してからの質問を始めた。
すなわち、“六×七は?” と。
その後もキジからの質問は続いた。
内容は、“森と海木が多いのはどちらか”“鉄と石では重いのはどちらか”“食事の前に手を洗う理由”
“魔術における四大元素とは”“核融合と核分裂の違い”“三つ首の魔犬の名称”“炒め物の際、肉と葉物野菜、どちらから先に炒めるか”
などなど。様々な質問を正方形の板に打ち込んでいき、その板をひらひらとしている。
「ちなみに……これが何か、おふたりさん、知ってる?」
「わからないけど、なんかメモ帳みたいなの?」
「私もわかりません」
「これはね……あ、俺も正式名称わかんないや。端末とか呼んでるけど。コンピューターっていう概念で、ふたりが産まれた魔法系の世界にはあんまりないヤツだね。
セカンドジョーカーには違う世界から来た面子が多いから、“常識”が成立しないから、その確認。
中には石が鉄より重い世界とか、魔法のない世界とか色々あるから、そのすり合わせ。
他のメンバーは略奪に忙しいんで、俺がやるのが通例なんだよ。俺も一応アリスだからどことでも言葉が通じるから」
「どちらかというと、略奪って言葉の方が気になるんだけど?」
「悪く言えば略奪ってことでよく言えば補給だよ。この世界で使える物資や文化を貰っていく。
もっと悪く言えば火事場ドロボーだけど、本拠地に戻る回数は減らしたいんだ。時間節約で」
「それは仕方ないんじゃない? 時間が掛かれば、それだけ壊される世界に間に合わなくなる、ってことだもんね。まあ……」
『火事場ドロボーだけどね』
キジとメイベルの言葉が重なった。
互いに、外法神を倒すという意識を共有していることを感じ取っていた。
満足に自己紹介はしていないが、どちらもアリスとしての本能で外法神への敵意を抱いているのだ。
イアンは、そのふたりに、混じれないことに表情を歪めていた。
「……あの、すいません、僕……ここで海賊に、なっても良いんでしょうか?」
「あれ。そのつもりでテストしてるんだけど」
「……僕、元の世界で……なんていうか、色々とあって……何が何だか……わからなくなったことがあって……その……」
「ゆっくりで良いよ。俺、時間だけはあるからさ」
「ごめんなさい。僕は……頭がおかしくなってて……鏡の中の世界に入れてしまって……訳が分からなくなって……。
ひどいギルドだったんです。毎日仕事ばっかりで苦しくて、でも辞めるっても言えないくらい苦しくて、死にたくても死ぬ元気もなくて、その……」
キジはゆっくりとイアンのコップにミネラルウォーターを注いだ。
焦らなくて良いさ、そう視線が語っていた。
「気付いたら……鏡の中に入れて、そうしたら……メイベルさんの世界にいて、そこで……魔王として世界をめちゃくちゃにしたんです」
「ああ……その報告は受けてなかったな。そっか。リョウが倒しにいった外来者ってイアンさんだったのか」
「リョウさんに止めてもらわなかったら、さっきの世界みたいに……メイベルさんの世界も……僕が壊してしまっていた」
「止めてもらって、良かったね。あとでリョウに礼を言うといいよ」
「でもメイベルさんの世界はめちゃくちゃにしたんです! それにこの世界が滅ぼされたのも……僕なんかにリョウさんが構ったせいで間に合わなかった……!」
「それ違うよ。鏡海での中でのソナーは説明が長くなるけど、あの外法神は探知できてなかった。逆に近くにいたから早く気づけたくらいだよ」
とんとん、と隣のメイベルがイアン肩を叩いた。
被害者と加害者とは思えないくらいの気軽さで。
「あのさ。まずさ。あたしはあんたを恨んでないんだけど」
「え?」
「確かにあなたのせいであたしは村を出たわ。口減らしでね。でも、そのおかげで、村を出れたのよ」
「……でも、でも、メイベルさん……!」
「ハイ。“さん”付け禁止。要らないから。同期の海賊になるんだから。
それに恨んでないのを恨めっていう方が無理でしょ。あんたのやったことはさっきアニさんも言ったでしょ。
あんたが死んだり、なにをしても消えないでしょ。苦しむなら苦しむで、頑張って生きていくしかないじゃん」
うなずき、今度はキジが自分で水を飲んだ。
「決めるのは、もちろんイアンさんだけど、俺もそれしかないと思う。
前に……誰かが言ったんだ。目を潰されたなら目を潰し返す、歯を折られたならば歯を折り返すまでが適正な報復だってさ。
目には目を歯には歯をって話で、理に適ってると思う。ひとりの命を奪ったなら死んで詫びれば良いのかもしれない。けどさ」
「生きてくしか、ないんですよね。僕」
「この船には、他にも十字架を背負っている船員が何人もいる。俺も――似たようなものだしさ」
何人もの命を遠巻きに奪い、何人もの生活を奪い、何人もの幸福を奪った。では、その罪は一つの命で贖うことができるのだろうか?
いくつの世界を救えば許されるのだろうか。許される日が来るのだろうか。
それを背負えるには自分しかいない。同じように悩み贖う者として、キジはイアンに出会った。
「僕、海賊ははじめてだけど、頑張ります。なんでもやります……改めまして、イアン・ドードーです!」
「あたしはメイベル! 村人! 截拳道の見習い!」
「俺はキルジニ・ヴァンガン。海賊の先輩で、この船の船長やってる」
二度目の自己紹介に、三人は自然と仲間になった実感が伴い、言葉の続きを理解するのに時間を必要とした。
……。
…………。
…………せんちょー? と。
『ええええええええええええええええええっっ!?』
「あれ? 他の面子は略奪に忙しいから、船長が面接してる、っていう……言ってなかった?」
キジはふたりの重なった絶叫で自分の説明不足にやっと気付いたようだった。
言ってない。
絶対に言ってない。
とにもかくにも、こうしてメイベルの船旅は始まった。
誰も見たことのないものをこの船で見に行く。
そのためにその世界を救わなきゃいけないならば、できることをするのだと。