渋谷スクランブル交差点
テストです。
目を凝らせば痛くなりそうな暗闇。
ごつごつとした冷たい地面のせいか、身体は凍えきっていた。
そして最初に感じたのは息苦しさだ。呼吸をするたびに呼吸器官を侵されていくかのような喉にへばりつく何か。目と鼻も酷く痛痒い。
そもそもここはどこなんだ、俺はいったいどうなったのだろう。まったく見当がつかない……。
————そうだ、確か奴等から逃げていて……、逃げないと!
勢いに任せて身体を起こした。
瞬間、ずきんっと痛む頭を右手で抑え眉をひそめる。頭でも強く打ったのだろうか。
おまけに身体が酷く怠い。だが先ほどまでにあったことを考えれば、身体がこの調子なのも納得できてしまう。
冷静になってあたりを見回すが暗闇が続いているだけで何も見えない。
ここはいったいどこなんだ。東京なのか。奴等はどこに行ったのか。もしかしたら今でもすぐ近くで俺のことを狙っているのか。
思考の奔流が身体を駆け巡る。考えれば考えるほど動悸が強くなる。跳ね上がってくる。
胸が苦しい————
お、落ち着け、冷静になろう……。
少なくとも今ここに奴らがいるわけないじゃなさそうだ。あの不気味な鳴き声も聞こえないし、あたり一帯を揺らすような地響きもしないじゃない。
「マジでなんなんだよ、本当に……」
これで視界も良好ならもっと良かったのに。
「わけがわからないよ」そう無意識に独り言を溢してしまう。
どうしてこんなことになったのか考えても、現状に思考が追い付かない。
そうだ、落ち着くまで大人しくしていればいいじゃないか。
すぐに諦め気味になり、諦観してしまうのは悪い癖だが、どちらにしろ、今の俺にできることなんて何があるのか。少なくともこの暗闇に目が慣れるまでは、じっと息意を潜めているべきなんだろう。
こんなことになってしまった理由を、祈るように、縋るようにして、混乱する記憶のうちから一つ一つ辿っていこう。
*
嫌がらせのように降り注ぐ陽光のせいで、大都会のビル群が陽炎でゆらゆらと歪んで見える。まるで湯の中に飛び込んだかと錯覚するほど暑い。
「暑すぎて死にそうなんだけど……」
夏の日差しが肌を焼き、身体中の水分が滝のように流れ、服に吸収されていく。もしかしたら熱中症かなんかで死ぬんじゃないかと半ば口癖の様に悪態をついていた。全部雲一つない夏空のせいだ。
俺が今死にそうになっている場所は渋谷のスクランブル交差点。そういえばいつか聞いた話だと、ここは“世界で一番人が行き交う交差点”らしい。
ただでさえ暑いってのにこの人混み。三百六十度全方位が人で溢れていて、ちょっとやばいくらいの熱気だ。暑くていいことなんて一つもない。
「まあ確かに暑いけどよ、ほら見ろって。暑さのせいで薄着の女の子がうじゃうじゃいるぞ」
斜め前にいる女の子を見ながら、犯罪者めいたことを小声で言ってきたのは、友人の「吉川錬」だ。こいつとは大学に時代から仲が良く、今日も一緒に買い物に来ている仲である。
「暑くていいこと一つあったな!」
俺も女の子を視姦しながら、少し力の籠った声で応答した。こんな気持ち悪い二人組に視姦されていると斜め前の女の子が知ったらさぞ気持ち悪がっただろう。だがここは世界一混雑している場所だ。こんな会話はすぐに周りの雑踏でかき消えてしまう。
それに気を付けてか、少し大きな声で錬が言う。
「まあ最も、今隣にいるのがキモオタニートじゃなくて、あの女の子だったら、潤いのない俺の人生もきっと輝くのに!」
「うるせえ! ニートじゃなくてフリーターだ、クソオタク!」
確かにあの時から仕事を辞め引きこもってはいたが、少なくとも今はニートではない。
「だからこうやってクソオタから抜け出すために買い物に来てるんだろ?」
そんなことを言っている隣の友人は、多分ピンク色の想像でもしているのだろう。ニヤニヤしながらそんなことを言う錬の顔はそれなりに気持ち悪かった。元がそれなりに整った顔立ちのせいで、ニヤニヤが余計に目立つのだ。
「お前も無口であまり笑わなかったらモテたんだろうになあ」
「無口だったらってなんだよ! お前は無口でもおしゃべりでもモテないだろ!」
「それを言ったら戦争だろーが! 買うもん買ったら俺だけ帰るぞ!」
「いやいや冗談だって。謝るからさ、今日は頼むよー」
どうせ錬のことだ。オタクの反対イコールパリピみたいなイメージでこの渋谷を選んだんだろう。俺としても、最近はバイト以外ではめっきり家から出てなかったのもあって、久しぶりに友達と出かけるのは良い気分転換になっていた。
それにしても、陽炎が凄い。
凄い違和感だった。渋谷の摩天楼が酷く揺らめいて見える。それになんだか地面が揺れている気がする。揺れているというか、平衡感覚が乱れているのかもしれない。
「おーい、信号青になったぞ。ぼーっとしてたけど大丈夫か?あと目が死んでたぞ」
「あ、あぁ」
いつもこいつは一言多い。
普段なら何か言い返すところだが、自分が上の空で予想以上に考え込んでいたことに驚き、何も言い返せなかった。地面が揺れているように感じたのは大勢の人が一斉に歩き出したからか、地下鉄が通ったせいだろう。
周りに合わせて俺たちも歩き出した。しかし酷く波打つ摩天楼は変わらない。
「おい大丈夫か?もしかしたら熱中症だったりして」
錬が珍しく気を利かせて軽口ではなく、心配して声をかけてきた。
もしかしたら本当に熱中症なのかもしれない。最近伸ばしっぱなしだった髪の毛のせいで頭にはだいぶ熱が籠っていた。
「もしかしたらそうかも。ここ渡り切ったら少しコンビニか自販機寄らせて」
「おいおい、大丈夫かよ……」
真夏の太陽が交差点を歩く俺を容赦なく照り付け、体温はどんどん上がっていく。そのせいだろうか、摩天楼の揺らめきも、平衡感覚の乱れも酷くなってきた。
気持ち悪い——。
そこで俺は歩くのを止めてしまい、つられて錬も歩みを止める。後ろを歩いていた人達が鬱陶しそうに俺たちの横を通り過ぎていった。場所はまだ交差点を渡りきった直後。
雲一つない青空が歪みきっていた。きっと暑すぎて脳がやられたんだ。
そして錬が何かを言おうとした瞬間。
「っ——!」
街中に響く轟音とともに地面が激しく揺れた。同時に強い恐怖と不快感に襲われる。すぐにあたりを見回したが、酷い陽炎以外何も変わったところはない。
おかしい。
何かが爆発したのかもしれない。もしかしたらすぐ下の地下鉄で何かとんでもないことが起きているのか。全く見当がつかない。
直後、轟音と共にスクランブル交差点中央にあるマンホールが吹き飛んだ。
そこから毛虫の様に人の手足を大量に生やしたものが噴水の如く噴き出してきた。空高く噴き出したそれらは空中で蠢きながらも、重力に従い鈍い音を立て、次々と地面に戻ってきた。
そして、近くにいた人たちを容赦なく貪りだした。
「——っ!!」
言葉が出ない。
一瞬の間に目の前で起こった光景が理解できない。思考が停止しそうになる。
溢れるように吐き出されてくるソレはあっという間に交差点を埋めつくしていた。逃げないといけないのはわかっているが足が動かない。今にも腰が抜けてしまいそうだ。
「逃げるぞ!」
「——あっ」
俺より早く正気になった錬が叫んだおかげで、ハッと意識を戻す。
そして前方にあった『109』方向に向かって走り出した。
周りの状況を確かめている余裕なんてない。今も後ろから人々の悲鳴と絶叫が聞こえてくるのだ。
前のビルの揺らめきがさっきより酷くなっていた。そして今も急速に歪んでいく。さっきのと同じだ——。
気持ち悪い。こっちには行きたくない。行くべきじゃない。
そう思った瞬間、ビルに真っ暗な穴が開いた。
次はなんなんだ。
その穴は正確にはビルそのものに空いているわけではなく、ビルの前方に球体状に穴が開いているように見えた。後ろにあるであろうビルが穴の縁に巻き込まれているみたいに激しく屈折している。
そして、二メートル以上はありそうな人型の何かが穴からゴロゴロと大量に溢れ出てくる。それらは立ち上がったかと思うと、長い手足を振り乱しながら全速力で駆け、近くの人間に襲い掛かっていた。
逃げ損ねた人を大勢で囲んで形が崩れるほど激しく殴りつける。手足を引きちぎり、内臓を引き摺り出し、貪る。人としての原型なんて直ぐわからなくなった。
そんな地獄のような光景をハッキリと見てしまった。さっきより近いせいだ!
同じことが彼方此方で起こり、こっちに全速力で駆けてきている奴もたくさんいる。
「どうしよう、あっちはもう無理だ」
「向こうならまだ何もない、走れ!」
錬の声で踵を返し、急いで走り出す。その時後ろが見えたが、また新たに、地下鉄の階段から毛虫の様なモノが大量に這い出してきていた。
そして、俺たちの目の前にもついに、ソレが降ってきた。
「あっ……」
死んだ、と思った瞬間、横から突っ込んできた大型のアメ車が鈍い音と共に毛虫を吹き飛ばしていき、交差点の向こうへと過ぎ去っていった。
先ほどあふれ出した毛虫たちのせいで交差点はパニック状態になっていて、律儀に赤信号で止まってくれる車なんてどこにもないのだ。こんな時アメ車は心強い。
そのお陰か、ほんの少しだけ冷静を取り戻し、未だ震える足を動かして再び走り始めた。
前方だけが唯一ヤツらがいない。後ろからやつらの足音が徐々に近づいてきてるのがわかる。
すぐに呼吸が乱れるが、隣を走る錬に置いて行かれないように、ひたすらに走る。
前を走っていた人が、空から降ってきたナニカに押しつぶされた。
追い越し様にみれば、それは人間大の蠅みたいな蟲から大量の管みたいなものが生えた化物だった。蠅は不快な鳴き声を出しながら、押し潰した人間を節足でがっしりと捕らえ、脈動する無数の管を全身に突き刺した。
目と鼻の先の光景で、顔まで見えてしまう。
「さっきの——っ!」
突き刺されていた人はさっき交差点で前にいた女の子だ。まだ意識がはっきりしているのがわかる。苦痛に顔をゆがめ泣き叫んでいた。
突き刺さった管からは吸入しているのか、それともナニカを注入しているのかわからないが、とにかく見ていられない。
蠅が降ってきた空を見た。
さっきまでの雲一つない青空には歪んだ穴が開き、そこから大量の化物が溢れ出していて、ビルの合間から見える限りの空を覆いつくそうとしていた。
————轟音
ビルの地上部を吹き飛ばして、大量の足を備えた戦車みたいな甲虫が暴れていた。
毒々しい紫色をした巨体は、道中にある人、物、化物お構いなしに磨り潰しながらこちらに突っ込んでくる。
————とっさ、横に飛び込む。
猛スビードで俺を掠めた化物は再び向かいのビルに突っ込んでどこかへ消えた。
もう、訳が分からない。
直ぐに後ろを確認するが、仲間が轢かれたことなどお構いなしの化物どもは今も迫ってきている。目の前の仲間が擦り潰されようが関係ないらしい。
急いで起き上がり、血の海となった道路を一人で走りだす。飛び込んで避けた際に人混みのせいで錬を見失ってしまった。もしかしたらさっきの奴に轢かれてしまったのかもしれない。
ちくしょうっ……!
ああわかってる、今はまず逃げないと。
立ち止まっちゃダメだ。
足が縺れそうになるが力いっぱいに力を籠め、地面を蹴って前へ進む。また隣を走っていた人が蠅に捕まった。直ぐ後ろでも毛虫たちの捕食音がした。追い付いてきてる。
このまま走っていても逃げられないっ——!!
考えもなく、とっさに路地に入った。
うまく逃げれたか——? と思ったが、それでもまだ何匹かが追いかけてきてる。
そして、狭い路地裏の前方ではまた景色が歪み、球体状の真っ暗な穴が開いた。
嘘だろ……、ポンポンポンポン空きすぎだろ!
このままじゃ死ぬ————。
止まっても死ぬし走っても死ぬ。正に袋小路だ。
次はいったいどんな化物が出てくるんだ。全く予想がつかない。最悪弱っちそうな奴なら勢いをつけてぶん殴ればどうにかなるかもしれない。
いや、そんな都合よく元引き籠り現フリーターのパンチが効くような雑魚が現れるわけがない。きっと殴ったって無駄だ。
近づいたところで、あの女の子のように苦しみながら貪り食われるだけだろう。
けど今はその“もしかしたら”に賭けるしかない。それに相手がどんな奴だろうとすり抜けるための一瞬の隙くらいは作れるんじゃないか。
一瞬が引き伸ばされ、酷く動きの鈍い視界の中、最悪の事態から都合の良いことまで、様々なことが頭をよぎった。
しかし、未だ穴からは何も出てこない。それどころか穴の形が徐々に不安定になってきている。
もしかしてあの穴からは何も出てこないのか……?
後ろは化物が迫り、前には今にも消えそうな穴。
あーっ! ちくしょう、くそっ! なんでだっ!!
このまま貪り喰われるか、穴に飛び込むか。二つに一つしかない。
走りながら前傾姿勢になり飛び込む準備をする。
「やってやるよっ!!」
自分に言い聞かせるように叫びながら、不定形で消える寸前の穴に飛び込んで、そして————
そこで、意識が暗転した。