3.
そんな彼女と初めてコミュニケーションをとったのは、一ヶ月ほどが経った頃だった。
十一月に入って寒さは一段と強まり、雪が降るか降るかと思っていたところに、その日はなんと朝から雨が降っていたのだ。
これでもまだ寒さが足りなかったのか。
目覚めた時、半分開けたままだったブラインドから窓を見つめると、私はその張り付いた滴に言ってやった。
でも、雨は嫌いじゃなかった。
返却期日の迫った、ブラックホールが表紙の本を手に私が中へ踏み入れると、彼女はまた今日も帽子作りに励んでいた。一ヶ月が経ってもまだそこの段階なのだ。いい加減小野寺も彼女に星座の穴を開けさせてあげればいいと思う。
しかしいつも隣で、大きさと角度を気にしながら慎重に穴を開けている小野寺の姿は、今日見当たらない。
「先輩休み?」
こちらを向いた彼女はこくりと頷く。それだけ訊くと私はまたいつもの席に着いて見飽きたその本をめくり始めた。
寒いかときかれれば、寒い。けれどももはや自分もその一部になっているかのように、何も感じない。
雨は降り続けているのに、それは響かない。人は存在するのに、それは零れない。
時間が流れているのに、それは鳴らない。いつもにも増して、静かで冷え切った場所だ。
だから雨は、嫌いじゃない。
「天文同好会に入ったんだよね。」
この感覚が心地良く、その空気に漂うようにして私は話し掛けた。
彼女はすぐにこちらを向いて瞬きを二回すると、こくりと頷く。今更ながらの質問だとは自分でも思ったけれど、話す機会も意思もなかったのだ、仕方がない。
「一年生だよね。名前は?」
続けてそう訊くと、初めて会った日のように申し訳なさそうな顔をして首を傾げる。
何か困るような質問だったのだろうか。
遠くまで耳を澄ませそれでも彼女の返事がないとわかると、私は潔く諦めた。
「なんか、ごめん。」
顔を本の上へと戻し、ページをめくる。
ショックではなかった。
誰にでも人それぞれ事情がある。それに勝手に突っ込んでおいて勝手にその反応にいちゃもんつけて勝手に被害妄想に走るような、そんなことを私はしたくないだけだ。
振りではなく本当に何も気にせず何も無かったかのように私はページめくりに没頭した。
でも、それは元通りにはならなかった。
左の方から気配を感じると、私の目の前の机の端にそっとその手は置かれた。
見上げると、泣きたそうな何か言いたそうな表情でその子は立っている。
でもやはり何も言い出さない彼女に、私が再び視線を本へと落とそうとすると、その手は私の左手首をそっと掴み、そのまま自分の方へきゅっきゅっと引っ張った。
私がもう一度顔を上げたのを確認すると、彼女は手を離し一直線に黒板へと向かっ
た。
今度はその足音が私にも届いた。
「小野寺 愛実」
彼女は白のチョークでそう書いた。思ったものとは違う、丸みのない角張った字だった。
「やっぱり、妹だったんだ。」
ようやく理解して愛実の顔を見つめると、口元をぎゅっと引き締め私の表情一つ見落とさまいと真っ直ぐ視線を返している。
「わざわざありがとう。」
お礼を言うと、またぺこりと頭を下げる。
「私は二年の木下だから。」
そしてまたすぐにつまらない紙面に視線を移した。
ペラッと陳腐な音が立ち、それを確認したように目の端で彼女もまた自分の世界に戻るのがわかる。
湖面を歩くようなその音は、波動となって私のところまで伝わってくるようだった。