彼の名はコボルタクス 一
吾輩は木漏れ日に打たれながら睡魔と激闘を繰り広げていた。世には、「朝、目覚めたのならば、すぐに行動を開始しなければならない。」などとほざく者も居るが、それは違うと吾輩は知者である者の義務として宣言しよう。この義務とは、他より優れた者は自己のみでなく、他者に対してもその能を使わなければない。などと言った愚者の甘えに阿るものではない。情けは人の為ならずと言われるように、愚かな者に対してただ施すと言うのは、何もしないよりも余程罪深い。では何故かというのならば、それは世の為己が為である。愚者が無知を晒す時に、ただ己のみが、無知ゆえの害をこうむるのならばよい。だが大概の場合、それはむしろ我々に降りかかるのである。
よくよく思い出していただきたい。太陽は西から昇り東に沈むといった事を大真面目に弁じ、さもそれが世の真理であるかのように論ずる者が一人もいなかったであろうか。いなかったならば、それは僥倖である。吾輩はその幸運が生涯続くことを、祈るばかりである。さて、彼らがその浮説を信ずるのみであるならば、吾輩もそう嫌いはしない。愚考権を行使するのは、万民に与えられた権利である。だが、不幸にも彼らと巡り合う星の下に生まれた者ならば、御同意頂けるであろうが、基本的に、彼らが行使するのは愚考権ではなく、愚行権である。ただ黙考するのみでなく、有難迷惑千万であるが、それをわざわざご教授してくださるのである。これに対していくら、事実を語りその誤を正そうとしても無駄である。むしろ、我らが誤っているのだと思い、我らの何物にも代えがたい時間を、何物にも代えられない芥にする行為に熱が入るであろう。故に、我らはその台風が何事もなく、我が身を通り過ぎるのを、ただ黙止し願うことしかできないのである。
さて、話を戻して朝の微睡の大切さについてである。と言っても至極当然のことである。睡眠というのは一部の例外を除き、皆が行う行為である。故に分かると思うが睡眠の時間とは至福の時間である。しかし、残念でこの上ない事だが、この睡眠というものをしている時は、如何な賢者であろうと、愚者であろうと等しく意識がない。故にこの至福である所の睡眠を、至福と感じることができないのである。重ね重ね言うが、とても残念である。しかしこの至福の一端を、垣間見れる瞬間がある。それが微睡の時間である。肉体は眠り精神のみ覚醒しているという、ある種の神秘すら感じられる一時である。この時よりも優先すべきことなど一体何処ににあろうか。であるから、微睡を切り捨てて何かをするというのは、オリハルコンを捨てて鉄を掘るが如き暴挙である。ある程度の審美眼が在ればこのようなことは、恐ろしくてとてもできない。しかし、悲しい事に、彼らの目には物の審美を図るような崇高な機能はない。偶に、本当に目の前を見ているかすら、怪しくも思えるが、ただ前を見る能が在るのみである。
なぜこんなにも力説するかというと、吾輩のオリハルコンよりもなお尊い至高の時間を、無粋にも阻害する者が現れたからである。それは吾輩が微睡んでいる時に、我が臥所を囲むようにして現れた。その気配で覚醒せざるを得なかった吾輩の悲しみといったら、言語に尽くしがたい。この報いを受けてもらおうと、吾輩は今生最高の怒りとともに、木のうろを飛び出した。
この世界でも情けは人の為ならずの意味は同じです