アリシア・キャンベル 進級危機
結局、レヴィに励まされ勇気をかき集めて教師の元へ行くと、当然怒られた。
調合室の後始末をして掃除の合格だけをもらい、課題は未完成なので明日も居残りすることが決まった。
やっと調合室を出られたときには、夕日は大いに傾き沈みかけ。もう冬が来る外は日が沈みかけのせいでより寒く、生徒の姿も心なしかまばらだ。
もう一人、待ってくれていた友人と共にアリシアは三人で寮への帰路についた。
「明日の魔法陣理論、小テストあるらしい」
「えーうそ! あたしこの前の歴史のレポート今日やろうと思ってたのに、そっちの勉強しなきゃ駄目じゃない!」
「高等部は忙しいねぇ」
友人によるどこからか引っ張ってきた情報に、自分のことはさておき、しみじみと一人ずれたことを呟いたアリシアは、
「いたいっ」
「アリシア、あんたこそレポートやってるんでしょうねぇ?」
パコッと軽い音をたてて、並んで歩いていた女子生徒、ニコラに叩かれた。オレンジに近い髪を高い位置で束ねた毛先が揺れている。
アリシアよりも背の高い彼女が手に持っているのは丸めた紙だった。今日返されたレポートかもしくは授業で配布された資料の類いだろうか。
「や、やってる!」
叩かれた頭を反射的に押さえながら答えつつ、アリシアは目を泳がせてしまう。答えた言葉は大いに噛んで、加えて浮いた声が出た。
歴史のレポート。三日か、四日くらい前に出された課題だろう。いや、もっと前だったろうか。レポートのテーマは果たして何だっただろう……。
「どうだか」
と上を見ながら容赦ない感想を呟いたのは、レヴィだった。全く信じていなさそうな呟きを耳にして、アリシアは躍起になって主張する。
「やってるよ! 本当に!」
「ならいいけど。明日実習もあるわよ? その準備は出来てるの?」
「じゅ、準備?」
「使用する魔法陣の暗記……はしなくてもいいけど確認。打ち合わせた手順もよ」
しかしニコラの言葉に、本当はレポートの題しか書けていないという進捗をようやっと思い出したアリシアはさっと青ざめた。
衝撃で歩みを止めそうになる。
そうだ。明日は実習。この二人に迷惑をかけないように手順の確認と、魔法陣の確認と、でも歴史のレポートもしなくてはいけなくて。それから何だったか。……魔法陣理論の小テスト!
「しょ、小テストって難しい?」
「おれが作るわけじゃないから分かるわけない」
確かに。
「そう、そういえば小テストよ。範囲は?」
「さあ? 前の小テストからやった範囲ってとこかな」
「何よ、そこははっきりしないの?」
レヴィは肩をすくめた。
「まあ抜き打ちがあることだけは分かってありがたいわ。ありがと」
「どういたしまして。……まぁアリシアは最悪実習の予習は置いておいてもどうにかなるとして、歴史のレポートも提出期限までに日はあるから、まずは明日ある小テストに備えて勉強すればいいんじゃないかな」
実習、レポート、小テスト。実習、レポート、小テスト……と頭の中でどれから手をつければいいのかと要領悪く考えていたアリシアは、降ってきた提案に顔を上げる。
「勉強してなかったら小テストも難しくなるだろうけど、勉強してたらましになるでしょ……たぶん」
「そっか、そうだよね!」
まずは明日の小テスト。優先順位の問題が解決し、アリシアはぎゅっと拳を握る。
小テスト、頑張らなければ。
「こう見ると、アリシアの言う通り高等部入って半ばくらいから忙しくなったよな」
課題の頻度と量も増え、小テストも増え、もちろん内容はどんどん難しく、実践的にもなってくる。
「これから三年もこんな日が続いて、それからまた大学でしょ? 嫌になるわよ」
「しょうがないよ、ニコラ」
「あんたは進級のことだけ考えてなさい!」
魔法使いになるには仕方がない道。アリシアが言うと、またもや丸めた紙でニコラに叩かれた。
学年一進級さえも危ぶまれるかもしれないアリシアが、それを棚にあげたのんきな発言をしたからだ。
「痛いー、いや痛くなかった」
反射的に痛いと言ってから、頭を撫でるアリシアだったがそこまで痛くなかった。
手加減をしてくれているのか、丸めた紙だから痛くないのだろうか。
「……進級以前に思えば、アリシアよくこの学園に入学出来たなぁ」
「え!? 酷い! 進級も出来て高等部にも入れてるのに!」
「ギリギリね。常にギリギリ」
二人の友人はどこまでもつれなかった。
それは二人共、アリシアと比べると進級の危機になんて悩まされない成績だろうが……。いや、彼らの力を散々借りて、ここまで来れたアリシアは随分運が良いのだ。
だって一人ぼっちだったら、たぶん、これまでのどこかの時点で進級出来なかったことがあり得た。それくらいの、実力だ。
補習を重ねたりしてギリギリで落第を免れ、今もギリギリでここにいる。もしかすると入学したときから崖っぷちに立っていたのかもしれない。
兄はとても優秀だったのに、自分はどうしてこうなのか。
いつの間にか、寮に着いていた。
全寮制の学園が生徒のために用意した住まいは、学舎には劣るが大きなものだ。
さらに、王都にある国で最も良い魔法学園であり、国によって作られたことから、必要最低限の造りのみを備えたものなんかではない。
どこかの貴族の屋敷のような外観と、内装。一人一室。個人の部屋の掃除は個人でだが、他の共用部分の掃除や洗濯、食事の用意に至るまで専用の使用人がいる。
食事はおいしい。とても美味しい。種類も毎日毎食何種類かから選べ、デザートまでついてくる。
「じゃあおれ部屋戻るから。アリシア頑張れよ」
寮の入り口は同じで、一階部分は女子男子区別せず共有スペースになっている。
個人の部屋となると、男子生徒と女子生徒で二階から上は右手と左手で入り口から別れている。渡り廊下も無し。
二階から上の男子寮に行くレヴィが軽く上げた手に、ニコラは片手に丸めた紙をあげ、アリシアはへらりと笑って手を振った。
「アリシア、あんた本当にそろそろ頑張らなくちゃまずいわよ」
「もう全力なんだけど……」
続いて、アリシアもニコラと二階への階段を行く。階段の手すりも、磨かれ艶が出ている。
二人になって改めて言われたことに、遠い目で呟いたアリシアはニコラにまた叩かれる。今回は音もしないくらいに軽く。
そんなに衝撃もなかったので、アリシアもゆらりと頭をちょっと揺らしただけで、痛いとは言わなかった。
「今が全力なら進級出来る可能性は限りなく低いわよ」
「えぇー」
友人から絶望的な宣告を受けて、アリシアは顔をさっきよりも青ざめさせる。
頭の中では「進級不可」という文字が回りに回る。進級、出来ない。まだ高等部一年生なのに。
「で、でも、これまでも低かったし……」
「高等部はもっと厳しいわよ。もうすぐ試験があるから、今からその勉強始めなきゃ間に合わないって思っておきなさいよ」
「まだ試験範囲も分かってないよ?」
「そんなの、前の試験から学んだもの全部よ」
「全部」
「実技の試験もあるし」
「実技」
「復習は?」
「……」
「アリシア、この前の試験で学年最下位だった自覚ある?」
「あり、ます……」
ある。それはある。
小さく答えると、ため息が聞こえた。
「とりあえず夕食のあとあたしとレポートね!」
「レポート?」
「提出するもの提出しないと話にならないし、明日小テストだって言っても、また提出期限に間に合わないでしょ。今からやっとかないと駄目よ」
「そっか。ニコラありがとう」
ため息をつきつつも、気にかけてくれる。危機感を募らせているアリシアに、助け船が出したニコラはじゃあ後からね、と自分の部屋に帰っていく。と思ったら、三歩も行かない内に振り向いた。
「そうだ、この前の数学のやり直しの課題は?」
「あ! 忘れてた!?」
ニコラがため息をつく。予定変更、とため息混じりの呟き。
「レポートじゃなくて、先にそれ持って来なさい」
「ありがとうニコラ!」
アリシアが大きくお礼を言うと、ニコラははいはい、と長い髪を揺らして今度こそ自分の部屋へと向うべく通路の先へ行く。
それを見送ったアリシアは、表情をほぼ無くして、反対の通路をとぼとぼと歩きはじめる。
「レポートかぁ……」
呟きながら開けたドアの先が、アリシアの部屋だ。必要最低限の家具の内の机の上には、教科書や資料でもある本やレポートの失敗作、文字が書き散らされた紙が広がる。
床には握り潰してぐしゃぐしゃの紙やまっさらな紙が散らばっていて……つまりはとても散らかった状態だ。
「一応、やってるよ……」
それらを目に映して、アリシアは憂鬱にため息をつく。肩にかけていたカバンを机に置いて、向かった先はベッド。
もう暗くなりかけている部屋の中、灯りもつけず、一直線にその上に倒れ込んだ。
実習、レポート、小テスト、やり直しと返された課題……崖っぷちだ。ずっと崖っぷちだ。それはアリシアがよく知っていた。本人だから。