レイ・アライス 逃亡
――数時間後
魔法学園内、広大な敷地にある森の一つ。緑の葉を枝につけ、木々が生い茂る森の中をレイは走っている。
学園が完全に管理している森の中は森の中でも、整備された道を運動のために走っているのではなかった。整備された道も、ジョギングもどちらもそうでないという意味だ。
道は、道とは言えない自然と生えた木々の間。生い茂る低い草が音を立て、季節柄落ちた葉っぱが踏むと細かな音を出す。そして何のために走っているのかというと――
「止まりなさい!」
ただいま逃亡中……といった状況と言える。
後ろから聞こえていた音をかき消したのは男性の大きな声。通常は講義で生徒に語りかけるような大きさの声は、今、全力で前を行くレイに向けられている。
もちろんレイには聞こえているが、足は止めない。ここで大人しく足を止めるくらいなら、最初から逃げていないというのだ。
「先生が追いかけて来なくなったら、止まりますけど」
後ろに向かって叫ぶ手間はかけず、前に向かって言ったので届いたかどうかは不明だ。独り言になったかもしれない。
レイが追いかけられている――レイの後ろ何メートルも離れた後ろからゆったりとした衣をはためかせながら追いかけているのは教師である。そう、教師である。
午前中、休憩時間ではなく、健全なる生徒であれば勉学に励んでいる時間。生徒であるレイが勉学に励まず、教師である男性も教鞭を取っていないことが示す一つの事実は。
レイがその男性の授業に出てこなかった、だ。
「そこまで、逃げなくとも……!」
「突然現れられたら、誰だって、びっくりして、逃げますよ」
後ろからの声が苦しそうだ。レイの方も走りながら喋るのはさすがに呼吸の邪魔になる。呼吸の合間の途切れ途切れになった。
しかし、かれこれ何分になるか。授業の鐘が鳴ってもふらふらとその辺りを歩いていたところを見つかったのは、どこでだったか覚えていない。
それくらいふらふらと意識せず歩いていた。でも確か、森の中ではなかったはずだ。さしものレイとて森の中で時間を潰すようなことはしない。
それでも現在森の中にいるということは、見つけられて驚いて、逃げ始めた先が森だったということで、森の近くを歩いていたのだろう。
まあ事の成り行きはいいが、つまりはそこそこの時間この状況にあるので、後ろから伝わってくる息切れの状態も考えるとそろそろ撒ける先が見えてきてもいい頃だ、と。
「今日こそは来てもらいますよ!」
そうやって考えていたのだが、気合いの入った声を正確に聞き拾い、今撒かなければまずい気がして走る速さをあげる。
自然がゆえに不規則に生えた木々は進むたびに目の前にあらわれ、避けなければならない。
スピードを増しながらもひょい、ひょいと避けて、木の根っこにも引っ掛からないように集中する。
「今日は、逃がしま、せん!」
距離が開いた証拠に遠くなった声は、相変わらず息を切らせながらの声だった。しかしながら確固たる意志がその言葉に込められる。
「……うわ」
まさかと思うと同時に気配を感じ、見た方向。木々に巻き付いていた蔓が教師の代わりのようにレイを追いかけはじめた。一本や二本ではなく、周りの木々の蔓が手を伸ばす。
蔓が迫ってくる光景に、レイは前に顔を戻してさらに走るスピードを上げたものの、それだけでは逃げ切れないことを知っている。
頬に避けきれなかった木々の葉が当たり音を立て、反射的に目を閉じて、開いたときに木に当たりそうになった。おまけに根っこにも足を取られそうになって。
体勢は立て直し、素早く後ろを確認する。
まだ捕まってはいないが、やはり背後からは確実に迫ってくる蔓がある。木や葉をつけた枝の中に普通ではない動きをするものを捉え、そのスピードが全く緩んでいないことも分かった。
当たり前だ。自分の体とは違って、魔法は使う人によっては自由自在。体の限界をゆうに越えて、疲れだって別の話になる。
大体、ここまでして逃げることだろうか。教師は今日はかなりの本気らしい。
ここまでして拒否する理由は。逃げる理由は。
――こうして逃げることにも、意味は見出だせない。
足の動きを、緩める。
すぐにそこにまでくる蔓を前にして、本当に何をしているんだろうと思う。
授業に出ることも、追いかけてきた教師から逃げていることも。どちらも何の意味があり、そう思って自分は何をしているのかと、時折そうなるように目に映る全ての風景が空虚に感じる。
色、温度、空気、何も、かも――足を完全に止め、蔓が腕を絡め取る直前――蔓が動きを止めた。
まさに眼前。
一番近くにある蔓、その後ろから来る蔓。魔法で動かされていた全ての蔓が制止した。
すぐに探した、黒い色。
すると一本の木の上に、目が向くことを図ってかゆらりと揺れたしっぽのようなものが、消えていくところだった。
腹が立つ。
消しようのない苛立ちに襲われ、レイは一度止めた足を動かし、ものすごいスピードでその場を駆け抜け、とうとう今日も逃げ切った。
一方、辛うじて捉えていた背中も消えてしまい、今日も逃げ切られた教師は動きの止まった蔓の元までたどり着き、足を止める。
先ほど自分の力で動かなくなってしまった蔓を一瞥してから深々とため息をついた。
「今日こそは実習に参加してもらおうと……」
とうに背中の見えなくなった前方を見てから、正反対、来た道に体の向きを変えてとぼとぼと戻ることになった。
*
ああ嫌だ。どうしてこうも――レイは左手を握り、走るのを止める。後ろを確認せずとも、もう撒けたことは分かった。走って走って、それまで走っていたよりもっと早く走っていたのだ。
立ち止まって息を吐いた瞬間、少し気が抜けた瞬間を狙ってか、またも蔓が左右からのびてきた。
「……は?」
自分に迫ってくる蔓を認識したが、追ってくる者を振り切ったはずのレイ。思わず呆けた声をもらしたものの、一つ深く息を吐き、右手右から左へ半円を描くように指先を向けた。
すると元々太いとは言えなかった蔓に赤々とした小さな火がつき、燃えた。
火がついたのは一瞬のみ。しかし蔓は音を立て、火がついた途端に動きを放棄されたかのように地面に落ちていった。
「気づかれたかー」
燃え尽きた蔓を見下ろしていると、どこからか聞こえてきたのは明るい声。それと共に、近くの木の影からひょいっと出てくる者がいた。
「アル」
「授業出なきゃ駄目だって言ったじゃん」
アルフレッドが木の間を低い場所の枝を避けながら歩いてくる。
笑いながらのんびりとした彼が軽く出したのは、今朝の寮の食堂での話だ。今日は授業出なければ駄目だと言ったその言葉。
「……よくここで、待ち伏せできたね」
「たまたまだよ。クィンシー先生が探しに行った方に行こうと思ったら、森の木が騒いでたから、詳しい方を探って急いで走って来たんだよ。まあほとんど勘で、レイが見えたから見つけられたんだけど」
騒いでいる、とされたのは単なる物音ではないだろう。木々の様子を感じ取ったのだ。
「さすが」
「騒いでるな、くらいの漠然としたことなら『木』の属性なら誰でも出来ることだよ」
「そうだっけ」
自身は『木』属性は欠片も持ち合わせていないレイは首をかたむける。それも才能によるのではないだろうか。『木』属性の生徒の中でもアルフレッドは優秀な生徒だ。
とか言いながら、自然な流れで森の奥へ歩みを進めようとしていた。
「う」
歩き出して数歩で何かにぶつかった。
「鼻が……」
大して高くはないが、もろにぶつかったために一番にぶつかったのは鼻で呟くと「……ごめん」と静かな調子の声が落ちてきた。
「テオルドもいたの?」
同級生かつ友人その二。
焦げ茶の髪をし、同じ色だが今にも落ちそうな瞼に半ば隠れてしまっている目がレイを見下ろしていた。アルフレッドが若干目線が違うだけなのに対し、彼はとても背が高いのだ。
「……いた」
いつも一拍置かれる、独特の間の返しももう慣れた。大抵簡潔に、別の言い方をすれば言葉少ない友人なのだ。
アルフレッドのみならずテオルドもいるとは、故意にではないかもしれないが気配を消しすぎだ。
「二人共実習じゃないの?」
「その言葉、僕らがレイに言うことだと思うんだよね。――実習のために探しに来たんだよ。もちろんクィンシー先生の許可も取ってね」
「……そろそろ出ないと、危ない」
危ない、とは授業の出席回数のことだ。留年にも関わる、生徒には由々しき問題だろう。
「……いいよ」
だがレイはそう答えた。
また手を強く握っていることに気がついて、意識して緩めながら顔を上げる。
「とりあえず、今日は出ない」
「今日はじゃなくて、今日もだよ。レイ」
確かにそうだ。
「アルもテオルドも戻って。ごめん。探しに来てくれてありがとう、でもこれ以上探しに来てたら二人の出席回数も怪しくなるよ」
「僕らはそれほどだよ。そもそも先生が許してくれないことの方が圧倒的で、先生が出席日数考えてくれてるんだよ」
「……先生も危ないと思っているのに、来ないのが、レイ」
授業に連行しようと追いかけてきた教師を思い出した。あの教師に、あるいは別の教師に追いかけられるのはもう何度目だろう。
「……もう一年にもなるから放っておけばいいのに」
ぼそりと呟いた言葉は小さく、アルフレッドやテオルドには届かない。
「まあ今日は仕方ないなぁ」
「……仕方ない」
「え?」
顔を上げると、やれやれといった風な二人がいた。
「早めのお昼ご飯行こうよ」
「お昼? って、実習は?」
「ここから戻るの面倒だから」
「先生の許可、そこまでなはずないでしょ」
「うん。僕らも休むことにしたんだ。ね、テオルド」
「……そう」
いきなり休むとか言い出した二人は、レイの背を押して方向転換させる。方角は、学舎のある方だ。
「その代わり明日は絶対出てもらうからね。迎えに行くから!」
溌剌とした声を聞きながら、レイは浅く、曖昧に頷くことしかできなかった。
今日もう一度更新します。