レイ・アライス 希望
いつからそこに。
足元に現れていた黒猫は、歩いて、軽やかにソファーに飛び乗った。
「おや、もしかしてそれがレイ君が喚んだ悪魔ですか?」
黒猫に向かって何か言う前に、学園長が目をつけた。「えっ」とアルフレッドとテオルドが振り向く。
「猫?」
そして拍子抜けしたような表情をしたが、一瞬後のことだ。息を飲んだ。
赤と金の目をした猫が、笑ったのだ。
「……ちょっと」
レイが咎める声を出すと、猫はいつものように目が嗤ったまま、消えていこうとする。
「待って下さい」
「学園長?」
「聞きたいことがあるんですよ」
とん、と学園長が指で机を叩くと、黒猫が消えないうちに炎が生じ、檻を作った。すると、猫はまた嗤う。
『愚かな』
深く耳に響く声がした直後、炎は音を立てて凍り、砕け、その場に空間を歪める大きな闇が生まれた。
「う、わ」
アルフレッドがビクリと震え、テオルドも固まった。
レイの横に現れたの闇が取った形は人の形。髪は闇の黒、右目は深い赤、左目は金。人型の男性の姿の、妖しくも美しい、闇を纏う悪魔が、視界に入る世界全てが凍りつくような笑みを浮かべていた。
『人間が我を捕らえようとするなど、愚か極まりないことよ』
「これは失礼を致しました。ですが、レイ君が貴方と契約させられてから、僕は貴方の姿を一度として拝見したことがなかったものですから焦ってしまいました」
にこりと学園長は全く動じずに応じ、悪魔はまた嗤う。
「貴方に聞きたいことがあります」
『ほう、聞いてやっても良いが、これが嫌がると思うが』
これ、と示されたのはレイだった。
一年ぶりに見るその姿に、驚きは一瞬だった。後には嫌悪しかなかった。目の前から消えてほしい。見たくない。思い出してしまうから。
「レイ君、少し我慢してもらえませんか。ルーク君について聞きたいんですよ」
「……ルークのこと、ですか」
「ええ。その前に二人は先に帰しましょうか」
アルフレッドとテオルドは、悪魔の雰囲気に、闇に、もはや声も出せない状態で固まっていた。
「もうこんな時間ですし、寮にお帰りなさい。僕も学園にいますし。僕の『目』があるので安心して帰って下さいね」
「れ、レイは」
「レイ君はちょっと、関係のある話なので残ってもらいたいんですよ」
視線が向けられたので、考え、浅く頷いてから、レイはアルフレッドとテオルドを見る。
「アル、テオルド、先に帰ってて」
「でも、レイ」
「私は大丈夫だから」
二人にはこの場を去ってもらった方がいいだろう。そんな様子にさせてしまって、気がかりだった。
アルフレッドとテオルドはぎこちなく頷いて、部屋を出ていった。
「実は、出てくるのを待っていました」
「待っていた?」
「レイ君、ルーク君は一年前から眠っています」
「……はい」
「眠り続けているんですよ、一年間」
「……知ってます」
そんなに言わなくても、知っている。悪魔をこの場に留めるように言い、話す学園長の真意が分からない。
すると、学園長は次に悪魔に話しかける。
「名前は存じませんが、貴方がレイ君から奪った人間について聞きたいことがあります」
『何のことだ』
自分の部屋で寛ぐように、ゆったりとソファーに腰かけている悪魔はそう言って首を傾げたから、レイは怒りを覚えた。何のことだ?
彼を奪い、失わせている存在であるのに――
「『愛する者か、大切な者か』。レイ君がどちらと答えたかは知りませんが、貴方がその答えを受けて奪った人間ですよ」
軽く首を傾げていた悪魔が『ああ』と呟いた。
『あれのことか。奪ったなどと言うから分からなかった。我は奪ってはおらぬぞ』
「どういう意味」
レイは眉を寄せ、悪魔を睨んだ。
対して悪魔はその反応が愉しくて堪らないというかの如く、どこか愉しそうに言う。
その笑い方が嫌いだ。猫でも、表情が出るその姿であればもっと嫌いだ。
「どういう意味って聞いてるんだけど」
『あれは眠ったのだ。我が触れる前に。自分から』
「――――――は?」
心底間抜けな声を出したように思えた。
その隙にも、「自分から眠った、とは」と学園長が聞き返す。
『我が取引にてこれの敬愛する者を奪いに行こうとしたが、その者は聡かった。我がその魂に触れようとする前に、自分から眠りおった。結果、魂が体から容易に引き剥がせない状態になった』
「なるほど」
「なるほどって……つまり、あなたはルークには手を出していないってこと?」
『そうだ』
「じゃあ、どうして私はあなたと契約してることになってるの。取引は成立しなかったってことじゃないの」
『お主、勘違いをしておらぬか』
何を。とんでもない勘違いを、一つ、していたことは分かった気がしたが、他に何を。
悪魔は薄く嗤う。
『毎度血まみれにすることといい、人間が我らを喚ぶ条件は些か趣味が悪い』
お前に言われたくはないと乱暴にも言いたくなった。
『誰が取引に他の人間を差し出すことが必須条件だと言った』
「それは、あなたが」
『必要だと言った覚えはない。本当の取引など気づいたときには終わっておるのだ。あの問いの取引は言わばおまけにすぎぬ』
「おまけ……?」
『おまけだ。ゆえに呼ばれたものによってその要求は異なる。我もあの問いに変えたのはここ最近ぞ。出向いた手数料のようなもの――』
悪魔の言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、悪魔の顔の側で炎が上がった。
レイが起こしたものだった。
「おまけ」に引き続き「手数料」、ようやく理解した言葉に生まれたのは、紛れもない怒りだ。
この悪魔は、つまり、喚ばれて出てきてやったことに対する手間として、「彼」を奪おうとしたのだ。
「……ふざけないでよ」
炎はわざと外したわけではなかったが、悪魔によって逸らされた。静かな怒りを目に宿し、レイは悪魔を睨む。ふざけるな。
『そんなに怒るものではない。通常、我等を求める者達は犠牲を厭わぬ者ばかり。お主が例外と言うものだ』
やはり悪魔は嗤い、レイの怒りが煽られる。空気が張り詰める。
「まあまあ、起きたこと起きたことです。それよりも眠ってしまったルーク君のことを考えなければ。そのお話が本当であれば、貴方によって彼は死ぬ心配はないと?」
険悪な雰囲気を裂いたのは、学園長だった。
『そうなるな。我は元々付属品に執着はしておらぬからな』
「その内話が進まなくなりそうなので、言葉は選んで下さい。――レイ君、良いことが分かりましたよ」
「はい?」
「怒りは一旦収めて話を聞いて下さい。ルーク君を目覚めさせられるかもしれません」
「…………え」
悪魔へ向けていた敵意が、消える威力を持った言葉だった。
「ルークを……?」
「ええ。常々思っていたのですが、彼のあの様子は悪魔の力を感じ、そうさせられたにしては衰弱していく様子もなく、安定しています。そして今の話を聞くに、脈が弱いのも体温が低いのも自己防衛のために魂が眠り、悪魔がそれ以上無理にどうこうしようとしていないためでしょう」
それで、つまり。目覚めさせられる、とは。
気が逸り、悪魔のことなど忘れて、問う。希望の言葉を探る。
「どうやって」
「そういった状態になった場合、普通は待ちます。自己防衛で眠っている本人が自然に目覚めることを。これが一番自然かつ安全です。ですが、一年間そうであるように、いつ目覚めるかは分かりません。しかし一つ、外から目覚めさせる方法はあります」
「何ですか」
「魔法使いが実体のない精神となり、起こしてあげるんですよ。ただ今回の場合、悪魔の力を感じる以上、それも眠り続けている原因の一部でしょう。その悪魔の協力が必要です」
その悪魔――横を見る。
「貴方の影響ではないとは分かって一応お聞きしますが、彼を目覚めさせることは出来ますか?」
悪魔は首を傾げ、なぜかちらりとレイを見た。
『お主はそれを望むのか』
「……当たり前でしょ」
『ふむ、契約者に力を貸すのが本来の役回り。お主が望むのであれば、やっても良い』
返答に、レイは怪訝にすることになる。
望むのならとは、自分が奪おうとしていただろう相手に、何を考えているのか。
『何だ、望まぬか』
「そんなわけない。――何を企んでいるの」
『企む? ああ、疑っておるのか。中々に疑り深い人間よ。言っておくが、お主は我を大層嫌悪しているようだが、我はそうではない。喚ばれ、出てきたとしても選ぶ権利はある。契約を差し出したのは、お主のことが少なからず気に入ったからだ。お主がどこかに行けと言うから姿を消す、言わぬから今ここにおる。先程も助けてやっただろう?』
「あなたのせいで、ルークは眠った」
『まあ、そうであったな』
いなければ、出てこなければ、そうならなかった。
「あなたが、起こすって言うの?」
『そうだ』
「私は悪魔に、ルークに触れてもらいたくない。二度と、関わって欲しくない。信用もできない」
『ならば待つがいい』
自分が決めることではない、どちらでもいいと悪魔は言う。
『あれが目覚めるのを、十年でも二十年でも、もしくは死ぬまで待つがいい。それで良いのであれば良いだろう』
薄く嘲るような色を滲ませた笑みだった。それも面白い、というように。
学園長が言っていた。悪魔が契約し、人間に力を貸すのはただの戯れだ。言葉を交わすとしても用心しなければならない。彼らの甘言に誘導され、いいように遊ばれ、身を滅ぼす人間がいる。
息が詰まった。最悪の気分だった。
あの悪魔が眠らせた原因であるのに、起こしてやるとは、悪い冗談だ。あんな問いをしてきた悪魔を信用できるはずがない。もっと悪くなるのかもしれないのに。
希望が見えたと思っていた。一年間、望まなかったことはないことだ。
悪魔を嫌悪し、姿を見ることさえも、そして自分の中に表れた力さえも大嫌いだった。しかし目覚めさせるには、悪魔にやってもらうしかないという。眠らせた原因だからこそ。
このままいつ目覚めるか分からない彼を待つか。それとも無事に目覚めさせることができるのならば、この悪魔の力を借りて彼を目覚めさせるか。
そんなこと、どちらを選ぶべきか分かっていた。
眠る彼には待つ家族がいるのだから。自分を受け入れ、数多くのことを与えてくれた人たちだ。そして、自分をひとつも責めない。
何もすることが出来ない無力感をこの一年、噛み締めてきた。帰せるのなら、一刻も早く、彼を家族に返すべきなのだ。
どれだけ考えたか分からないことを頭の中でぐるぐると巡らせる。
『我が起こすことが不満ならば、主が間に入れば良い』
同じことを考え、最善は何かと考えている中、悪魔の声が言った。
「…………私が……?」
顔を上げると、赤と金の目がある。
「そんなことが出来るの」
『可能かどうかは主次第。眠る者の道標となるだけの繋がりがあれば可能であろうな』
「道標……」
「魂を起こせるほどの強い、精神的な繋がりがある間柄の者のことです。――しかし精神となり他人と繋がるには高度な水魔法ですが……まあ契約しているのですから心配ないですか。とりあえずやってみればいかがですか?」
学園長が人差し指をたてて、かなり軽く提案してきた。しかし、レイは提案の軽さには言及せず、首を横に振る。
「……その前に、道標となる人を呼ぶのが先でしょう」
いや、でも悪魔の力がなければ目覚めさせられないのであれば、彼の家族を関与させるわけにはいかない。では、どうすれば。
レイの脳内で、堂々巡りがまた始まった。
「君がやればいいでしょう」
「私は無理だと思います。彼の家族ではありません」
「誰が家族だと限定しましたか? 道標になることが出来る繋がりがある人物、です。レイ君、君はもう少し自信を持つべきです。だてに何年も一緒にいるわけではないでしょう? そもそも間に入るのであれば、契約者である君にしかできませんよ」
悪魔の力は、契約という繋がりがある人間にしか譲渡されない。そしてその契約者は、レイなのだ。
――眠る魂には悪魔の力が絡まっている。いつ起きるのかも分からない自然に任せる方法か、悪魔の力を使って目覚めさせるか。
「……危険なことには、ならないの」
『止めたいときに止めれば良い』
「あなたの影響は残らないの」
『気になるのであれば、目覚めさせるついでに取り除いてやれば良い』
出来なければ、止められる。
すべては、目覚めてこそ。
レイは、顔を上げた。
「やります」




