レイ・アライス 絶望の始まり
始終意味の分からない状況で、最後は呆然としていたアルフレッドと、テオルドも含め学園内に場所は移された。
学園長室、窓際に机があり、備え付けてある黒の革張りの椅子に部屋の持ち主である男性が腰かける。
窓はカーテンが閉めきられていて、開いていたとしてもそこに見えるのは夜の黒だろう。
机から少し離れたローテーブルの長椅子にアルフレッド、テオルド、最後に着席したレイは二人の向かい側に座った。
「さて、そちらの二人は何が何だか分かっていないことでしょう。大丈夫ですか?」
「いえ、あの、大丈夫は大丈夫なんですけど……あの子は結局何をして、あの場で見た、黒い、何かは何なのか」
アルフレッドの混乱が表れた言葉に、学園長はにこやかに頷く。
「そうでしょう。目撃者が出た以上、順を追って説明しましょうか。一年前の話から」
「学園長」
すぐさまレイは異論の声を上げる。
何が何やら分からない状態で二人が帰されるのは反対だが、何がされていたかを話すだけで、何も一年前のことから話さなくてもいいはずだ。
「本当のことを話さなければ進まないこともありますよ?」
有無を言わせない声音で異論を封じられ、レイは口を閉じることとなる。
紺の目は、何を考えているのか分からない。そもそもこの学園長のことをそれほど知っているわけではない。
しばらく見て、レイは浮かせた背を沈める。……どうにでもなれ。
「レイは、何か知ってるの?」
レイがやけに落ち着いていたことを今になり思い出したのかもしれない。その言葉に視線を向けられず、レイは口を開きかねた。
今まで、知られたくなくて、知られるわけにもいかなくて黙ってきたのだ。
「彼女が知っているのは、不可抗力の結果ですから。僕が話しましょう」
話にそぐわず柔らかく流れを戻したのはやはり学園長で、始まってしまった話に、レイは目を閉じた。
***
約一年前。
レイは目を覚ました。まず見たのは白い天井、横たわっているのは自分のものではないベッドで、いる部屋は自分に割り当てられた寮の部屋ではなかった。
目を覚ましたときのまま、ただ目を開けて、閉じる。ここはどこで、ここに来た記憶がなかった。
「おや、そろそろ目が覚める頃だと思っていましたよ」
音もなく扉が開いており、目だけをそちらに向けると、入って来たのは近くで見たことなど数回しかないこの学園の長だった。
「……学園長」
挨拶をするかどうか迷いながら身を起こすと、自分の服装は制服、白いシャツ姿だった。上着と、セーターはどこに。
それより、ここは、制服ということは学園の医務室だろうか。しかし、来たことはあるが利用したことはない医務室はこんな内装ではなかった気がする。
ひとまず視線を上げると、学園長の目と合った。にこやかな笑顔をその顔に浮かべた学園長はベッドの側の椅子に腰をかける。見舞いに来た人のようだ。
「気分はどうですか?」
「気分……? 良くも悪くもないです……いえ、ちょっとぼんやりしますけど。そもそもどうして、ここはどこですか」
言うと、学園長は顎に手をあて考える仕草をして、首を傾げた。銀の髪が流れる。
「レイ君、君は目覚める前に何が起こったか覚えていませんか?」
北の森で、という言葉に。
なぜ一生徒でしかない自分の名前を知っているのだとか、気にならなくなった。
――北の森。
木々に囲まれた道、地面を覆う白い雪には何かの跡がついていた。
ずっとずっと進んだ先には木々のない場所があって、雪は赤に染まっていた。その血の近く倒れて動かないクラスメイトが。
開けた場所の中央には奇妙な魔法陣があり、中心には狂ったクラスメイトが立つ。
会話の断片にある、おまじない。
迫る風の刃に切り裂かれ、痛む体と、止まらない自分の血が落ちる血には、倒れたクラスメイトの血も混ざっていた。
赤い。
空には不気味な赤い月。
声。闇。
深い闇。
一対の目。
問い。
「…………悪魔」
頭の中で、瞬時に色々なことが甦った。
「思い出したようですねえ」
いつの間にか下げていた視線をまた上げると、頷き、満足そうな学園長がいた。
のんびりとした、絶やされない笑顔に、思い出したこととの差異を感じる。あれは、夢かとでも思ってしまいそうな。
体を意識しても、痛みはない。掌、手首、袖を捲り上げて腕を見ても傷はなかった。
「……夢……?」
「いいえ、全く。傷は治しておきました」
間髪入れず、否定された。
夢ではない。今一度、学園長に目を戻す。
「早速なのですが、君は五日間眠っていました」
「五日……」
言われても、実感が湧かない。
状況を理解しようと、眉を寄せる。
「そう、五日です。そして、目を裂かれて倒れていた生徒ですが」
動かなかったクラスメイトたち。その顔は血にまみれ、裂かれた傷を見た。あれが、あの光景が夢ではないのであれば、彼らは。
「大半の生徒は助かりませんでした。原因は元々流行り病にかかっていたことであり、外に晒されていたことでの悪化等です。助かったのは、四人」
聞こえたその言葉に目の前が暗くなった。吐きそうになったわけではないのに、手で口を押さえた。助からなかった。その意味は、当然――。
「その生徒達の証言と、わずかに起きていた『植物の声』の証言により判明した、計画的に今回の悪魔召喚を実行に移したウィリアム・ラトス君ですが」
もはや頭の中が整理できていないところに、まだ情報が与えられる。
「亡くなりました」
その言葉には、とっさには何も感じなかった。
ただ、彼が倒れる前に叫んだ言葉。「お前が、お前がいなければ! 俺が主席で! 親に何か言われることも無視されることも、失望されることも、無、のう……」その言葉が頭を回る。
「彼のあれは逆恨みですよ」
まるで見ていたかのよう、聞いていたかのような言い様だった。
「……見ていたんですか?」
「元々、この学園には僕の『目』が散らばっています。見ていましたよ、『月』が出るまでは」
目尻を下げて、「駆けつけるのが遅くなってすみません。これは弁解のしようもないのですが」と学園長は言った。
それにも別に、今は何も思わなかった。思い出したことと、聞いたことでもう手一杯だった。
「生徒は、どうなるんですか」
亡くなった、助かった、巻き込まれた生徒は。
「彼らは『帰します』」
家にと学園長が当然のように言った。
「ただし流行り病で亡くなったことに、後遺症が残ってしまったことになります。どうやらウィリアム・ラトスの顔さえ見ていなかった生徒がほとんどでして、事件の最中に意識があったと思われる生徒は一人もいません。ただ、切り裂かれた目は治療しましたが視力は戻りません。今年は重度の病が流行り、既に生徒が亡くなっています。その出来事に隠します」
事件を明るみにすることはあり得ないと、淀みない答えだった。
「納得するんですか」
「既に納得して頂きました」
そんなこと可能なのかと思われた発言は、もう話はつけられているようだった。この人が言うならそうなのだろう。
「……学園長」
「何ですか?」
「悪魔召喚って、何ですか」
今回の根幹だろう。ウィリアムが悪魔召喚だと言い、あんな舞台を作った。
「以前、噂が流れていました。変な、おまじないという。ウィリアムは、それを信じて、していたようでした……あれは」
「以前流れていたという噂は、悪魔信仰者により故意に流された噂でした。釣りですよ。流されていた噂はすぐに消しました。とはいっても、生徒は全く信じていなかったようで、生徒から悪魔信仰者が出ることはなさそうだと私たちは安心しましたね。そのはずだったのですが……どうやら一名、引っかかっていたようですね。彼は学園の外で悪魔信仰者と会い、悪魔召喚のことを聞いたのでしょう」
「いえ、そもそも悪魔なんて聞いたことが」
「悪魔は危険なものですから、禁止され、秘匿されているのですよ。そこで、問題は君なのですが」
「私?」
ああ、もしかして自分も疑われているのかと思った。あんな状況を作り上げたと。
「君が企てたとは思っていないので安心して下さい。言ったでしょう?『目』があると。そして『木』は嘘をつきません。しかし、問題は君が思っているよりも深刻といえば深刻です」
「どういう、ことですか」
「まず、君は悪魔と契約しました」
「…………は?」
人差し指を立てられ、言われたことにレイは呆気にとられた。何だって?
「なぜ分かったかというと、君の胸にその証があるからです。後で見てみて下さいね」
思わず自分の体に目線を落とすが、衣服の上から見ても『証』とやらは見えるはずもない。
「というわけで、良ければその取引内容を知りたいのです。実はそれと関係性があるのか気になることが起きまして」
話はどんどん進められるが、意味が分からなかった。
「ちょっと意味が、」
取引? 契約? そんなもの、いつ。
思い出せていないことが、まだあった。取引、という言葉に深い闇が過った。
まるで何年ものときが過ぎたかのように感じたあのとき、自分は何を言った。何を言われた。確か――「愛する者か、大切な者」無意識に呟いた。
嫌な予感がする。取引、とはつまり示されたものを差し出すことで成立するものだ。
自分は何かを、いや、誰かを差し出してしまったというのか。
「……いや、私にそんな人……」
「自覚がなくとも真相心理には存在するものですよ。自分の周りに人がいる限り。どちらも、恋人とかいう意味には縛られませんからね」
酷い混乱があった。その混乱の中、胸騒ぎがあり、何も分からないままに、声を発する。
「私は、誰を、」
自分の罪を確かめるために、レイは震える声を喉の奥から絞り出した。
「ルーク・クロイゼルが五日前から」
その名前に目を見開いた。
「眠っています」
明かされたその罪に、ベッドを飛び降りていた。
学園長には目もくれずに、よろめきながらも部屋を出た。
『眠っている』それはただの睡眠という意味ではない。瞬時に、分かった。
場所も聞かずに飛び出し、魔力を辿って行き着いた先は、寮ではなくて。レイが飛び込んだのは一つの部屋、魔方陣が細かく描いてある部屋の奥のベッドに横たわっていたのは。
一人の青年。
金色の長い睫毛に縁取られた目は閉じられていて、心なしか金色の髪は少しくすんでいるようにも見える。
ドアを開け放ち、その人物を認識したレイは、ゆっくりと一歩ずつその人に近づく。
決してその人から目を離せずに。ふらり、とベッドの側にたどり着いた。
側に行っても、彼は起きる素振りを見せなかった。それどころか指先一つぴくりとも動かなくて。
その手に、触れて、レイは震えた。
手は温かい、と言えるものではなく、彼の顔色は血色がいいとは言えなかった。
これは罪だ。
自分は罪を犯したのだ。
*
もう、十年も前になりそうな時が経ったか。
レイは家族と離ればなれになった。両親が死に、複数の親戚に兄と妹そしてレイはバラバラに引き取られていった……はずだったが、レイは一年と経たずして捨てられた。
雪の中だった。
どれくらいの間そうしていたか分からない時間、レイはただ膝を抱えて座っていた。
建物と建物の間で、雪が降るほど寒い中、意識は朦朧としており、死ぬかもしれない、とどこか悟ったように考えていた。
ばらばらになる前に、兄と妹と約束した。いつか大人になったそのときまた会って、一緒に暮らそうと。家族。大切な人との約束。
どうやら、それをそれほど時が経たずに破ってしまうことになりそうだと思った。
もうどうやって生きていけばいいかそれが分からなかったし、目には光なんて見えなかった。
「見つけた」
手足の感覚がなく、視界さえも閉じられた中だった。
その声が、いやに鮮やかに聞こえたことを覚えている。
そのときレイを拾って帰った少年の名を、ルークと言った。
輝くような金色の髪、そして翠色の眼をした彼は、なぜか、最初からレイがここにいることが当たり前かのように接してきた。
それが、とても不思議だった。
手を引いてくることが不思議だった。温かい場所を与えてくれたことが。……全てが、不思議だった。
それをある日とうとう少年が口に出したとき。
「もう家族じゃないか、レイは何を言っているんだい?」
彼は一瞬きょとんとして、輝くような笑みを浮かべて言ったのだ。
その日からレイはもうあまり不思議がらなかった。代わりに、当たり前のように与えられていた教育、教養を真面目に受け始めた。
そしてそのあと、養子になった。ルークの両親のではない。レイも何が何か分からない内にそうなった。
覚えているのは、庭で誰かに抱きつかれたこと。そのまま抱き上げられて、目を白黒させている内にどこかへ連れて行かれて、誰かが力説する声を聞いていたこと。たぶんその人物に丸め込まれたこと。
しかし変わらずルークが側にいたこと。
レイは、恩人で――本人には口が裂けても言えないが――感謝の絶えないその人を、失った。
どうやらその人は自分にとっていつの間にか、かけがえのないものになっていたらしい。失ってはじめて気がつくとはよく言ったものだ。
悪魔の声を思い出しながら、思った。
暗い部屋の中、動くことも出来ずに、ただ涙を流していた。
自分が失ったのではない。自分が失わせた。




