レイ・アライス 再び
この手に目が映し出すのは、いつだってあの日両手を濡らした真っ赤な血だ。
空を見上げれば、この目に思い出されるのは真っ赤な月で、雪を見れば、その純白を赤に変えた血が幻となって現れる。
*
――悪魔召喚、と女子生徒は言った
レイの目には、もう忘れることのないであろう魔法陣が見えていた。
その中心に立つ姿が、一年前のあの狂った元クラスメイトに妙に重なった。言葉と、笑み、全てが重なるからだろうか。
「悪魔召喚って何……?」
「……分からない」
悪魔召喚という、聞きなれない言葉をあまり理解出来ていない友人二人の声が側から聞こえた。
「でも何か様子がまずいよね。えぇと……とりあえず落ち着かせる?」
レイは、ここまであった引きずる跡の要因を探す。あの跡は。しかし予想に反して、倒れる生徒はどこにもいない。
積もる雪は真っ白で、女子生徒が立っている位置を中心として避けられている。
「あの、ちょっと落ち着いて話しない?」
「わたしは落ち着いていますよ?」
からからと、無邪気な幼い少女のような笑い声がした。
空に月は出ていないことを確認したレイは視線を下ろす。安心はできない。
「先生呼んできて」
「……分かった、呼んでくる」
頼むと、テオルドが頷き、走り出した。
「レイ、どうするの。あの子、やばいよ。下に魔法陣みたいなの見えるし……」
「うん」
ここからでは魔法陣の細かいところまでは見えないが、間違いないと思ってもいいだろう。
それにしても、その女子生徒の顔はクラスメイトの類いではないのに、見たことがある気がする。誰だ。
目を凝らし、記憶を辿る。
彼女が身に付けているのはレイと同じ学園の女子の制服だ。髪はクリーム色、小柄で、一見すると無邪気な笑顔と合わさると無害な生徒。
そういえば、先ほど名前を呼ばれた。
「一年生……」
同じ学年ではない。いつだったか、授業監督の際に何度もミスし、後日放課後の調合の居残りでも会った女子生徒――確か、アリシア・キャンベルと言ったか。
ある意味強い印象を受けた生徒に気がつかなかったのは、また記憶が薄まりかけていたのか、この状況だからか。
こんなことをするような危ない生徒には見えなかった――それは、前のときだってそうだったか。
「それより先輩は、どうしてここにいるんですか?」
「灯りが、見えたから」
「灯り……あ、さっきですか。忘れものしちゃって、取りに帰っちゃったからかぁ」
アリシアはポケットの中の何かに触れた。何を隠しているのか。
「……雪の上を引きずっていた跡は、何の跡?」
「引きずっていた跡……あ、スコップです。雪の上に描くのもどうなのかなって、でも大きくて、重くて」
レイの慎重な問いに、授業で使う教材を運んで重かったと言うように、照れたように答える精神は如何様なものなのだろう。前回も今回も理解できない。
だが、嗅覚が捉えていた臭いは、錯覚だったのだ。血を流す生徒はいない。安堵が生まれた。
後は、いかに時間を稼ぐか。あるいはあの魔法陣から彼女を離すか。
運が良かったのか、悪かったのか。忘れものが何かは知らないが、灯りを見つけてから追ってきてここについた時間の差は五分もないはずだ。
その間にあの魔法陣を描けたとは思えない。魔法陣を描いてから、何かを取りに戻った。そうでなければ、灯りを目撃することもなく、自分がここに来ることもなかったはずだ。
気を抜けばちらつきそうになる光景に、唇を噛む。運が良かったのか、悪かったのか。――悪かったに決まっている。
「その魔法陣、よく描けたね」
確か授業では、対レプリカのものも見本があるのにもかかわらず満足に描けなかったと記憶している。明らかに複雑さが倍の少女の足元の魔法陣は、レイも一度間近で見たことがあり、不気味なほどに綺麗な模様だ。
「練習しました。おかげでもうすぐ試験なのに勉強出来てません」
アリシアは、何が可笑しいのか自分で言って笑う。
「れ、レイよく会話できるね」
「アルも適当に喋って」
「えぇ? えーっと、その魔法陣が何かは分からないけど、試験勉強した方がいいんじゃないか、とか?」
「試験勉強ですか? わたし、試験勉強は最低でも一ヶ月前からしないと駄目なんです」
「……ならなおさらじゃ……」
「一ヶ月、二ヶ月必死に勉強しても、毎日必死になったって点数の足りない科目があります。わたしは、いつも底辺」
「だからって、なんでこんなこと……」
「こんなこと? 先輩にそんなこと分かるんですか、きっと分からないですよね? ねえ、アライス先輩、あなたはとても完璧ですね」
「……私?」
「あなただけじゃない、わたしは、皆が羨ましい。才能があって、親に認められるだけの才能があって、優秀で、わたしは誰にも何にも勝てない」
突然巻き込まれ、一年前の、記憶が、また重なる。
幻聴が聞こえる。なぜ、こんなに重なる。
重なりすぎる。
「でも、これさえ成功すれば!」
大きな声に、意識が引き戻された。
「わたしには誰にも負けない力が手に入って! きっとお父さんもお母さんも認めてくれる!」
彼女は叫んだ。その言葉には込められているのは、痛いまでの願望と悲鳴だった。
叫んだアリシアが肩で息をする音が、冷えた空気に溶け込み、静寂が訪れる。
お父さん、お母さん、という言葉。クリーム色の髪に目が留まる。それに、顔立ちと。必死の形相が、たった一度しか見なかった顔に重なった気がして。
レイの中で、一つの答えが得られた心地がした。
「レイ、駄目だよ。先生が来るまで待とう」
服を引かれ、傍らを見ると、アリシアの脈絡のない叫びと正気でない様子にアルフレッドが完全に気味悪そうにしていた。
「……ねえ、あなたその魔法陣とかどこで聞いたの」
「どうして、そんなこと聞くんですか?」
「ウィリアム・ラトス」
レイが口にした名前は、一年前この場に立っていたクラスメイトの名前だった。
同じクリーム色の髪をして、普段は大人しそうだった同級生。
もしかして、と思ったのは、当たりだったらしい。アリシアが反応した。
「ウィリアムと、あなたの関係は?」
「……先輩は知っているんですね」
「クラスメイト、だったから」
「わたしは」
同じクリーム色の髪をした女子生徒は、答える。
「わたしは、ウィリアム・ラトスの妹ですよ」
妹、しかし名字が違うというのは、今は些細なことに感じられた。
「ウィリアム……? ウィリアムって去年……」
流行り病で……。とアルフレッドが突然名前の出てきた去年病気で死んだとされているクラスメイトの名前を呟いた。
「流行り病? 流行り病で、あんなに傷だらけで、帰ってくるはずがないでしょう!」
ああそうだ。だって、彼は流行り病で亡くなったのではないのだから。
「あなたは、悪魔召喚のことを、ウィリアムから聞いていたの?」
「ええ、お兄ちゃんは出来損ないで他の家の子どもだと見せかけられていたわたしを妹だと接してくれていました。同じ学園に通っていたから、教えてくれました。力を得る方法を。お兄ちゃんが死んでから、家に呼び戻されて、親からの圧力をかけられるようになってお兄ちゃんの気持ちが分かりました。わたしは、お兄ちゃんより要領が悪くて、贄は用意出来なかったけど、でも」
脈絡もなく、彼女は制服のポケットを探りはじめた。
「でも、もう、見つかったからには、やるしかない」
追い詰められた目に、以前授業などで見た覚えのある怯えの色が戻った。
しかしその足は魔法陣から一歩足りとも外には出ず、ポケットから取り出したのは、周りの灯りを映す銀色の輝き。
そのまま、ふりおろす仕草をした。
「まずい」
あまりに唐突で、時間を稼いでおこうという考えだったレイは、右手を上げる。
アリシアが何かを切り裂く音と、火が彼女手に引火したのはほぼ同時だった。
「きゃあああああ!」
「うわあ、レイ!? いやでも、良かった!?」
空気を切り裂くように上がったのはアリシアの悲鳴だ。勢い余って地面に尻餅をついている。
そんなに叫ばずとも、怪我をさせるようにはしていない。ナイフを取り落とさせるためのことだ。
魔法を使うとほぼ同時に走り出した。無論、向かうは一直線に魔法陣の方だ。
尻餅をついた女子生徒が立ち上がらないうちに、駆け寄ることができた。
地面に座り込んで腕を抱えているアリシア自体には注目せず、手を見る。弾みで取り落としたのか、持っていたものはない。
狙いは果たした。だが、
「痛い! いたいよ……っ」
声に、アリシアを見ると、ぼろぼろと涙を流している。震わせている腕を見ると、さすがに力加減を間違えたようだ。制服が焼けており、軽い火傷をさせてしまった彼女は、臆病な少女に逆戻りしていた。
しかしここに来たばかりの様子を思うと、気味の悪さが残る。情緒が不安定なだけか。
そんなアリシアを見ていたのも数秒、アリシアが降り下ろしていたものを探すと……ナイフはすぐ側に転がっていた。
拾い上げずとも分かる。赤いものがついたばかりで濡れている。周りの地面にも何かの飛沫のような散った跡がある。
「……こんなことになるなら、待たなかったら良かった」
心の底からそう思った。
もう深く巻き込まれたくなかった。ここまで来てそれは贅沢かもしれないが、予感が当たり発見したらしたで、教師が来るまで時間稼ぎが出来れば良かった。
それなのに、こうだ。
レイは座り込んだままのアリシアの腕を掴み、引っ張る。とりあえず、魔法陣の外へ引きずり出そう。
「離して!」
しかし、移動させようとした瞬間に、アリシアが暴れはじめた。
彼女が円の外に引きずり出されることをもがくと、それにより、血が腕から滴り落ちる。飛び散った具合からして、相当深く切り裂いたのか。
ますます眉を寄せ、レイは目についた制服の襟首を掴んで引っ張る。何でもいい、とにかく外へ。
無理矢理、力ずくで引きずる。
「レイ!? 首、首絞まるよ!」
未だ状況が分かっていないだろうアルフレッドの慌てた声が聞こえた。何も知らない状況で見ると、過剰防衛もいいところだろう。そもそも攻撃さえされていないのだから。
でもそんなことにも構っていられない。
血が、伝い落ちる。レイの腕を引っ掻き、離そうと暴れる度に、血が落ちる。
「離して!!」
悪魔を喚ぶには、あのおまじないのような条件は必要ない。本当に必要なのは、魔法陣と血。あのおまじないは釣りに過ぎない。
条件をきっちり揃えようとしていたウィリアムのように条件を信じ、一か八かでやろうとしていたのかもしれないが、状況は悪すぎる。
「離してって、言って……っ」
引きずろうにも、すんなりいかない。
魔法は修練しても、腕力を鍛えるようなことはしない。良くも悪くも女子の力で、暴れる女子を引きずるのは、そこそこ困難だ。
それでもようやく、訳が分からないなりに手伝おうと来たアルフレッドに手伝ってもらって、とうとう泣くばかりの女子生徒を放り出せる、はずだった。
しかし全てが遅かった。
儀式は、成立していたのだ。
周りにあった灯りが、消えた。
『こんなにいるのか』
声。
『まあいいか。お前らの内、どいつが力が欲しいんだ?』
それは、レイがあの日、あの悪夢のような光景の中で吐かれた言葉と同じものだった。
レイは足を止めて、円の外に放るために今まさに思いっきり力を込めてやろうとしていた手さえも止める。
アリシアから手を離すと、彼女の泣き声もそのとき止んで、止められないしゃくりあげが僅かに響くのみだった。
「レ、レイ……?」
得体の知れない声と、おかしくなった周りの景色。アルフレッドが、何が何だか一人分からず戸惑いの声を上げた。
「アル、出て」
「レイは?」
「いいから早く」
強く言うと、アルフレッドは戸惑いながらも魔法陣の上から出ていく。彼が魔法陣の上から出たことを確認して、レイは息を吸い、吐く。一度、落ち着こう。
心臓は強く、大きくなっていた。恐怖ではない。焦っているのでもない。もうこんな状況になった時点で嫌な予感でもない。
『ああ一人減ったな。で、どっちだ? いいか、取引は一人だ。あとは、殺す』
魔法陣の中の闇が濃くなり、声の正体が姿を現す。
人型、ギョロり、と目を動かすその異形のモノ。悪魔だ。どうやら、悪魔にも個体差があるらしい。美しいとは言えない造形だった。
「わ、わたしよ! わたし! 呼んだ人間の血くらい分かってよ!」
正気を失っているアリシアが目の前の、異形の存在にも関わらず叫んだ。それが求めていたものだと、喚んだものだと知ったからだろう。
理解できない。
『んん? お前か? 惨めな人間だな』
這って近づこうとしているアリシアに目を向け、悪魔は見下すように、すがり付くように這う力を持たぬ人間を笑った。
「力をちょうだい! 早く!」
『そうか、お前か。じゃあ、そっちの人間は殺すか』
落ち着くことは、出来なかった。
近くで交わされるやり取りに、落ち着けるはずもなかった。
「――もう、たくさん」
心の底から、そう、思った。
『何だって? 人間』
悪魔が、面白そうに言った。
「なんでこんなのことに、二回も巻き込まれなきゃならないの」
確かにここに来たのは、自分だ。
だが、そもそもこんなことを起こそうとする者がいるから悪い。間違っている。
そう思うのは、間違っているだろうか。自分の声に怒りが混ざっていると、他人事のように感じた。
『人間が俺を無視してるのか? これだから人間は身の程知らずだ! 先にお前を殺そう!』
悪魔というのは、人間を見下すものなのだろうか。
嘲笑う声が、細かな理由は把握できていない怒りが煽られた。過去一年は感じなかった種類の感情が、反動のように膨れ上がる。
闇を纏うその手が伸ばされる様に、やってやろうではないかと拳を握りしめた。悪魔だから、何だと言うのだ。
悪魔なんて大嫌いだ。
触れようとする手に対し、右手を上げ対する覚悟が決まった。
『無謀なことをしようとする』
上げた手に触れたのは、背後から伸びた闇が先だった。
する、と冷たい手が這う。
『我のものに手を出すのは、何処の愚か者か』
前にいる悪魔とは明らかに異なった声が嗤うと、前から伸ばされていた闇が氷に包まれる。
前の闇が、揺れた。
『な、何だ!?』
悪魔が威厳も何もなく、狼狽える。
レイは眉を寄せる。
『消えよ、目障りだ』
『ギャアアア……』
氷が闇を包み中身ごとあっという間に砕くと、聞いたこともない声が響き、そして突然途切れた。
残ったのは、冷気のみ。
レイが振り返っても、闇はなく。
「おやおや、遅かったようですねえ」
代わりに、後方に現れていた姿があった。
緊張感も何もない声が、不気味な空気を霧散させる。
「学園長……」
道からでなく木々の間から姿を現したのは、銀色の長い髪を横で緩くまとめている紺色の目の男性、この学園の長だ。
さらにその後ろには見慣れた長髪の教師と、教師を呼びに行ったテオルドが見える。
「遅いですよ」
「これでも出先から急いで戻ってきたんですがね。お手柄ですよ、レイ君」
紺の目が、視線を下にやる。
「……これは見事な魔法陣だ。そこの女の子は生徒ですかね。クィンシー先生、彼女を連れて行って下さい」
「はい」
放心状態の女子生徒は、何も反応せず、目には何も映していない。その状態のまま、教師が担ぎ上げた。
「今回は誰も死んでいないようですねえ。どうやらお兄さんよりは、正気だったようですね」
「『目』があったのに、のんびりでしたね」
見ていたかのようなことを言う学園長に、レイは言わずにはいられなかった。結局不完全燃焼のような終わりの名残かもしれない。
すると、学園長は笑う。
「あの日よりはいいでしょう? あの日は『赤月』で『目』も閉じられてましたからねえ。で、実際どうでしたか?」
「見ていたのであれば、分かりますよね」
「そうですねえ」
この学園内には、この魔法使いの『目』の役割を果たすものがたくさんある。
「とりあえずここから離れましょうか。もうすぐ呼んでおいた他の教師も来るはずです。君たちがいると色々面倒になるでしょうからねえ」
紺色の目が笑みの形になり、促した。




