レイ・アライス 弱い心
――本日、曇天
もうすぐ一年、また冬が来た。
この季節が嫌いになったと知ったのは、今年、寒くなってその片鱗を感じ取ったときからだ。
息を吐くと微かに白いが、雪は降っていない。
中庭は、静かだった。授業中という時間帯だからだ。人が来て予想もされやすい図書館と違って、教師は外にいるとは思わないだろう。
中庭の、建物内から見えにくい位置のベンチに座り、レイはコートに手を突っ込んでじっとしていた。
寒さには強いたちなので、雪が降ってもおかしくない寒さでも外にいられないことはない。寒いとは感じるが、許容範囲だ。
「うわ、まさかとは思ったが、本当に外にいるとはな」
かけられるとは思わなかった声にそちらを見ると、他に誰もいない中庭に現れたのは、シリウスだ。
時間帯の思い込みと、たった今まで学舎にしては静かすぎた場所ということで、何度か目を瞬いた。
シリウスが、なぜ、ここにいるのか。そのまま口に出そうとしたが、近づいてきたシリウスが口を開く方が先だった。
「お前さぁ、風邪引くぞ」
「……引きませんよ」
「寒くないのか」
「寒さには強い方なので」
そういうシリウスは意外と寒がりなのか、コートにマフラーで口元まで覆い、完全防備だ。白い髪は、雪が積もった世界だったら、馴染んでしまいそう。
シリウスはベンチが冷えていたのか、「冷た」と言いながら横に座ってきた。暑い季節には涼しそうに、寒い季節には冷たいように見える色の目が、レイを見る。
「で、ここで何してるんだ」
「……怠け者です」
「とうとう自称するようになったか」
「とうとう……じゃなくて、シリウスさんどうしてここにいるんですか」
すっかりペースに流されて、やっと尋ねることができた。
「自習だからって図書館とかに行かずにふらふら出歩いてたら、」
それも怠けていることになるのではと言おうとしたら、「自習じゃない」と遮られた。
「自習だが、自習じゃない」
「……意味分からないんですけど」
「自習だったが、先生に頼まれて怠け者を探しに来た」
「え?」
怠け者、と示されるところはレイだろう。
「頼まれたって、どうしてシリウスさんが」
「俺がお前が今受けているはずの授業の授業監督だから」
「監督? この時期の三年生に監督を?」
「なんか先生忙しいらしくてな、数人で頼まれた」
「だからってそんなのやりたがる人じゃないでしょう」
やりたくなかったら、どうにかしてのらりくらりと逃れるタイプだろう。
「別に無理に頼まれたわけじゃない、お前のクラスだったから引き受けた。お前がまた怠けてるんじゃないかって思ってな、正当な方法で探す役目に抜擢されてきたってわけだ」
ぽん、と頭に手を置かれた。
レイのクラスだったから。おまけに探しに。どうしてわざわざ、という言葉がこぼれそうになった。
けど、代わりに違う言葉を口にする。
「と、なると私は逃げるべきですか」
「え? お前、俺に見つかって逃げられると思ってるのか」
シリウスの言葉にこっちこそ「え?」と思って下を見ると、彼は手に何かを持っていた。種。瞬く間に黄緑の茎だか蔓だか分からないものが伸び、レイの手首に巻き付いた。
「俺にも責任と信用がかかってるから逃がす選択肢がなくてなぁ」
「……シリウスさんて、『木』属性も使えたんですね」
「優秀だからな。まあちょっとしか使えないけどな、捕まえるのにはちょうどいい」
シリウスのネクタイは紺色、つまり『風』属性。
しかし魔法が使える者の中には、数少ないが、複数の属性を持つ者がいる。その中でも実戦級やちょっとだけ使えるくらいか様々だ。
この学園にも複数属性を持つ生徒はいるが……シリウスがそうであるとは知らなかった。ネクタイに騙された。
完全に捕まった状態のレイはどうせ逃げようとは思っていなかった。意味もなく蔓が繋がる手首をぐいぐいと引く。中々強度がある。
「授業って今何してますか?」
「おい嘘だろ、何の授業かも把握してないのかよ」
「いえ、内容です」
「内容? ああ、それは俺も知らない」
嘘だろ? と言いたいのはレイになった。監督を引き受けたのではないのか。
「監督は真面目に引き受けてくださいよ」
「魔法陣の授業だろ? 実技ではあったな」
「……でしょうね」
だから休んだのだから。
「俺が探し疲れて休憩が必要だから行くの、少ししてからな」
「お疲れ様です」
「まあ十分しか探してないけど」
それさして疲れていないのではとか、結局休憩主体になっていて怠けている部類に入るのではとか思ったけど、レイとて早く戻りたいと思うはずもないので何も言わなかった。
「試験も受験もあるのに余裕ですね」
「俺は優秀だからな」
事実優秀だと知っているので、何も言えまい。嫌味もなく、自然に聞こえるのが不思議だ。事実だからか。
「試験があるのはお前もだろ」
「ですね」
「絶対受けろよ。救いようがなくなるぞ」
「……はい」
受けなければならないとは思う自分がいて、違う返事をするとシリウスが気にかけてくれていることに悪いからそう返事した。
自分がこの学園を退学になれば、落ちこぼれると養父の顔に泥を塗ることになる。ここにいることを支えている一端はそれだ。だが、ままならない。
講義のみの授業や筆記はいいとして、魔法実技は――。
どうすればいいのか分からない。
急に、急激に、心が空虚になった。空が曇り、景色が薄暗いからだろうか。色を失ったようになって、空っぽになった気分に陥った。
「……帰ってくるのかな」
ぽつり、と声が耳に入った。出した意識がない自分の声。
耳に入って、我に返って口を手で押さえた。
反射的に見たシリウスは、前を向いてマフラーに口元を埋めたままだった。何も聞こえていない様子で、レイはほっとして口か
ら手を離す。
……何を、馬鹿なことを。ベンチの背にもたれかかった。
白々しくも、最も望むこと。望まない瞬間はないことだ。だからといって、あろうことか自分が。罪の意識に苛まれる。消えてしまいたくなる。シリウスの前からも。
「ごめん」と言われるのではなく、自分が「ごめんなさい」と謝るべきなのだ。
「お前が授業怠けはじめて、もうすぐ一年か」
いつもなら、動揺はしても表さないのにビクッと肩が揺れたのは、「一年」という歳月に。
「湿気た面するな、あいつなら戻ってくるだろ」
頭に重みが加わり、横から手を乗せられたのだと分かった。
その重みが、言い方とは裏腹に優しすぎて、胸が締め付けられるように痛んだ。
ああ、数日前に雪を見たからだろうか。この季節だと自覚してしまったからだろうか。今日は、心がやけに弱くなっていると感じる。
「お前、俺が監督引き受けたばかりか探しに来たのなんでわざわざって思っただろ」
思った。
「言っただろ。あいつがいない間、俺がお前のこと見とくんだよ」
泣きそうになったのは、何へか分からない。
一年前から学園から姿を消すこととなったあの人へか、その人の友人であるシリウスへか。そのシリウスが、自分にそんな言葉をかけてくれることへの罪の意識か。
泣くことは許されない。この人の前で泣くことはもっと許されない。
「レイ?」
「いや、なんか、本当にお手間かけます、というか――」
不自然にならないように応じた声が、わずかに詰まった。それだけだ。少しだけで、続けて声を出して怪訝そうだったシリウスの様子を誤魔化そうとした。
けれど。
腕を掴まれ、体を向けさせられた。純粋に驚いて顔を向けると、一度さ迷った末に青い目と、目が合って。
「お前、」
驚いたような顔をしたシリウスは数秒そのままで、レイも突然のことに動けなかった。
動きがあったのは、見ていたシリウスの表情。掴まれた腕を引っ張られ、シリウスの腕が後ろに回った。
自分が持っているものとは異なるネクタイの色、制服、顔、青い目、全てが近づき、あまりに近くその姿が見えて、抱きしめられたかと思った。
――首の後ろから前に何か回され、ぐんっと首が前に持っていかれそうになった。
何だ、何だ。目を白黒させていると、首に何か巻かれていく。
「うわ、な、なんですか」
「マフラー貸してやる」
何をされているのかとわけが分からずに戸惑っていたら、マフラーと言われた通り首にマフラーが何重にも巻かれていくところだった。
シリウスのしていたマフラーだと気がつき、なぜ急に、いやそれよりも――
「危な……卑怯なことしそうになった」
「ちょっと、シリウスさん。目まで塞ぐつもりですか。と言うか、これ長すぎませんか」
「あ? このまま連行してやるよ」
あ? って柄悪すぎる。
抵抗する暇もなく素早く、目の前が真っ暗になった。だからといって、結び目がどこか分からないし、ずらそうと思ってもずらせない。
「え? ちょっと、シリウスさん」
視界がないまま立たされ、手を引かれて進まされる。
何の罰ゲームだ、という状態。しかしシリウスはうんともすんとも言わない。
真っ暗でどこを歩いているのか分からないのはさすがに不安で、何かにぶつかりやしないかと思いながらの足取りで歩き続ける。
このままクラスメイトのいるところに連れていかれたら、いい笑いの種だ。授業に出ていなかったからわざとか。
「……え?」
立てていた予想とかけ離れた場所に、呆けた。
やっと止まって、マフラーが取られて目の前が見えるようになって明らかになった場所は、図書館。
「……図書館?」
シリウスを探すと、「座っといた方がいいぞ」と言われてとりあえず座る。
「連れ戻されると思っていました」
「見逃してやる。今日だけだ」
またぽかんとするはめになった。見逃す。
意図が図れずシリウスを見ていると、彼は微かに笑った。
「お前の湿気た面、出来れば俺は見たくないんだよ」
さっきのことだと、気がついた。自分はどのような表情をしていたのだろう。見せてしまったのだろう。
「俺はこうすることしか思いつかないから、今日だけ見逃してやる」
「……シリウスさんの沽券に関わるんじゃないですか?」
「俺の信用、そんなに低くないから」
「……よく、マフラーぐるぐる巻きの生徒連れて入れましたね。司書の方に何も言われなかったんですか」
「階段から落ちて顔面強打して顔がすごいことになって見せたくないらしいからって言って通った」
何でもない風に言うけれど。
何も知らないこの人は、もうすぐ一年だからと優しくしてくれている。
「シリウスさんは、優しすぎますよ」
「今さら気がついたのかよ」
失礼だな、とシリウスは笑った。
その笑顔にレイは泣きそうになり、揺らぎそうになり、やはり胸が痛んだ。
――あなたは優しすぎる。私は自分だけがのんきに温かく生きているわけにはいかないのに、優しすぎるのだ。




