レイ・アライス 魔物
――本日、曇天
魔物生態学とは一年生のときにあり、二年生ではなくなった授業だ。基礎中の基礎の授業で、魔物に対する授業を行う前準備。
その授業がこの前時間割変更で入り、今日も入った。一年生のときと、前の授業は全てが教師の講義により進む形態の授業であったはずだったのだが、外にいる。
場所は広大な学園の敷地内、東の森。
「後ろの皆さん、遅れないようにして下さい」
「魔物生態学なのに、クィンシー先生?」
おまけに魔物生態学担当の教師ではなく、例えば、魔物に対する方法を学ぶ授業の担当をしている教師だ。
しかし歩いている森は、魔物のレプリカを離す西の森ではない。
「この時間が無理だったとか? ほら、不規則に入った授業だし」
「そういう問題なの?」
まあ別に、教師が違っても差し支えがあるわけではない。
「それよりどきどきするね。本物の魔物だよ?」
「……確かに」
アルフレッドの喋り方は楽しみにしているような感じだが、面持ちには緊張が混ざっている。また、同意したテオルドは表情には出ていないが声に出ている。
彼らだけでなく、他の生徒も緊張や不安でそれほど口を動かすことなく、喋っても自然と声が潜められている。
そしてその空気は森の奥へ奥へ進むたびに、どことなく張り詰めていく。
東の森――稀に授業で使う場合にのみ、必要最低限の『本物』の魔物が放してあるエリアらしい。
もちろん森の一部だけであり、境界線には魔法陣が刻まれており、魔物が完全に出られないようにしてある。
今日は当然、教師付き添いの元、レイたちは森の中を歩いていた。
初めての、本物の魔物との対面だ。
この「実習」は学年が上がろうとも、あまり行われない。授業ではやはり主に強さの変わる魔物のレプリカがずっと使われる。
本物の魔物へ接触及び対処は、大学へ行ったあと、もしくは仕事についてから訓練を受ける場合がほとんどなのだ。
専門的なことを学ぶ大学に行く際の、分野選択にも関わることでもあり、やはり本物を知っておくことは大切なので、こういう機会が設けられている。
「レプリカと、どれくらい違うんだろう」
魔物は国内に出没するとはいえ、王都に現れることはまずない。
王都出身はまず見たことがないだろうし、王都外出身でも魔物に対処するのは専門の職の魔法使いなので、実際に見た者は少なくなるだろう。
レイは元々は王都外出身だが、見たことがない。
レプリカは当然、本物の魔物を模して作られている。十分に気味の悪いものだとは思うが、本物との違いはあるのだろうか。
「レプリカが気持ち悪くて、残骸の感触も気持ち悪いっていうところが違ってくれたらいいなぁ」
「レプリカは倒したら崩れるように作ってあるだけで、研究所仕様じゃないの?」
「本物は残るってこと? えー嫌だなぁ」
少なくとも、感触のことは授業では習わなかったと思うので、気持ち悪いかどうかは、今日でなくともこの先自分で確かめてもらう他ない。
不思議な静けさに満ちた森の中、歩き続けると、やがて道の先に開けた場所と、見えてくるものがある。
「うわぁ、もしかしてあれ?」
アルフレッドが声を上げた。
周りからも他のクラスメイトたちの歓声とは言えない呻き混じりの声や、囁き合いが生まれていく。視線は同じ方を向いて離されることはない。
見えたものは、魔物。その身に、うっすらと闇を纏った魔物だ。
レイは、雑談をしていた口を閉じた。
それは、明らかにレプリカにない禍しさを感じさせるもので、まだ遠いのに存在をひしひしと感じる。
人が訳もなく恐怖する所以が分かるようだった。
「魔法陣が下に刻み込んであるので、襲いかかってくることはありません。安心して下さい」
まだかなり離れているのにも関わらず前列から集団が足を止めてしまったことにより、先導していた教師が安心させるようにいつもの笑顔で声をかける。
その言葉によくよく見てみると、魔物の下には、対レプリカのものよりずっと複雑な魔法陣が描かれている。魔物はそこから一歩足りともはみ出していない。
なるほど、出ることができないから危険性はまるでない。
教師がさらに歩みを進めるのに合わせて生徒たちもまた進み始めたので、最後尾辺りにいるレイもまた足を前に出す。
魔物の全貌が捉えられるくらいの距離まで来た。
魔物は、普段使用しているレプリカとそれほど変わらない大きさをしていたが、どうしてか一回り以上も大きいように思えた。感じる雰囲気のせいだろうか。
徐々に近づく中観察していると、魔物が、牙の生えた大きく裂けた口を開けた。
一部の生徒、特に前の方にいる生徒方が驚き足を止めるが、まだ足を進めた教師が魔物から少し離れた位置でようやく足を止める。
歩みを淀ませていた生徒たちも教師が示した場所にまで足を進めて止まる。
「基本的にこの位置から近づいて対処することはまずないと思って下さい。これ以上近づいた場合……」
教師が講義を始める。
ここでするのか、とレイが思ったと同時に周りでは講義が始まったことに顔をしかめる者が複数人いた。
「えぇ、この状態で講義するの? すごい落ち着かないんだけど」
アルフレッドがほとんどの生徒が等しく思っているだろうことを声に出す。ちらりと教師の後ろの魔物を見ながらだ。
「魔法陣があるから大丈夫」
魔法陣の存在があるのに必要以上に怯える必要はない。それは分かってはいるのだろう。
教師の話を聞くべきだとは分かっているが、その後ろに圧倒的な異質な存在感を示す魔物が気になって仕方がないというものだ。
教師と魔物とを視線が行き来している生徒は一人ではない。
レイとて、魔物ばかり見て、講義内容は聞いていない。
少しだけ聞いたところ、これまで習ったことを本物を前にして改めて言っているようだ。生徒が意識が散漫になり、話が耳に入らないことは承知の上か。
それにしてもこうして見ると、教師が魔物を背後に笑顔で授業を進めている様子が何だか、ちぐはぐだ。
教師の背後にそびえ立つ魔物は、今にも教師を食べてしまいそうだが、魔法陣により檻の中からは出られない。
魔物は、黒かった。インクをぶちまけたようでいて、しかし、黒い中には暗い紫が蠢いているような。光の加減で、動くことにより変わっているのではなく、生き物のように。
そうか、この魔物は生きているのだ。
本物と、偽物の違い。
レプリカが元の材料が何で作られているのかは知らないが、魔法で作られたものには違いなく、動くようにされてはいるが、「生きている」わけではない。
本物との違いは、そこ。本物が違うのはそこで、禍々しさの一因となっているのだろう。
では本物の魔物は、如何様にして生まれてくるのだろうか。魔物は、決して普通の動物ではない。
魔物の目撃例は、各地で、神出鬼没。どこから、あの生き物は生まれているのか。それは教科書には載っていなかった。
だが本物のあの禍々しさすらも、レイには薄く思えた。レプリカとの違いで最初は驚き、それゆえに目を離せなかったが、ぼんやりと見ていて思った。薄い、ぬるい、と。
制服の上に着ているコートのポケットに、手を突っ込んだ。寒さには強い方だが、ずっと立って止まっているというのは、座りたくなってくる。
まだ講義は続く。魔物から目を離して教師を見ると、淀みなく話している教師がこちらを見た。
いや、もっと後ろ。
後ろで鋭い音がして、レイは背後を振り向いた。
「――え」
魔物がいた。
後ろ、何メートルも先、太い蔓でその動きを制限され、自由な頭部のような部分を振り乱している。
アアアアァ
その口のようなものが開き、何か奇妙な音が響いた。魔物が鳴いたのだと、直感的に気がついた。
鳴いた。それははじめて聞く音だった。レプリカは鳴かない、本物の違いがまた一つ。
「おかしいですね。放しているのは一体だと聞いていたのですが」
いち早く気がつき、魔法を行使した教師が後ろから、動けない生徒たちを優しくかき分けて歩み寄って来る。
その言葉は、放してある魔物がいるはずがないと示すものだった。授業の一環ではないということ。
どういうことか。教師の言葉でますます状況を飲み込むことが難しくなる。
いっそ授業の一環で、わざとだったと言われていれば、そんなことをしなくてもと思いながら受け入れられたろう。
さすがに驚いたレイも、教師が来ることに道を開けるために横に退く。そうしながら魔物は教師により拘束されているので、周りを見ると、クラスメイトはいずれも固い表情だ。
同じく端に避けたアルフレッドも――そのとき脇の藪に何かがぶつかった音がした。
一旦緩んでいた意識が緊張を取り戻し、レイは反応する。
アアアアァ
あの鳴き声と、それが飛び出してきたのは同時。――魔物だ
「アル!」
レイは、アルフレッドを呼んだ。
魔物が飛び出してきたのは友人がいる方で、一番近いのは彼だったのだ。
大きな牙。
鋭い牙。
不気味な音。
黒い体。
全てが、一番近くにいるアルに襲いかかる。
レイは手を伸ばす。足がとっさには動かなくても、魔法がある。魔法で魔物をどうにかすれば。魔法を使おうと本能が働き、魔法を使って――
「……あ、あれ?」
突如現れた新たな魔物にどうすることもできず、とっさに手で顔をかばい目を瞑ったアルフレッドが、固く瞑った目をゆっくり開けて先を見る。
彼の前には、不自然に止まっている魔物がいた。鋭い爪はアルフレッドのまさに眼前に。
止まって、いた。
そこだけ見ると、時間が止まっているがごとき光景に、時間の動きを与えたのは新たに現れた蔓。
瞬きの間に、制止した魔物全体を覆い、魔物の色が見えなくなったかと思えば、ぱっと黒紫の花が咲く。
花は、一つではとても小さな花であったが、咲いたのはその一つだけではなかった。
一つを皮切りにして同じようにいくつもの同じ色の花が咲き、今度は花が蔓を覆いつくす。魔物の色をしながらも、美しい魔法の花。
次いで、花の間からのぞく蔓が萎れていき、花もはらはらと落ちてしまう。蔓が覆い、花が咲き、落ちた光景は一分未満の出来事であった。
花が落ちた場所には、そこにいたはずの魔物は跡形もなく、花の色に魔物の名残を見るのみになった。
「ラトクリフくん、大丈夫ですか?」
「は、はい」
「それなら良かったです。……アライスさん」
声をかけられ、目を開いたままだったレイは、瞬きをした。一連の出来事が映っていた視界に、教師の姿が入る。
「大丈夫ですか」
「……はい」
のろのろと、伸ばしていた手を下ろした。
手を、握り締める。
周りを見ると、魔法陣の中も含めて全ての魔物は消えており、同じように、魔物の代わりみたいに黒紫の花がその場に落ちていた。
「今日はこれまでにします。すぐに森を出ます。離れないようにして下さい」
軽く眉を寄せた教師が、生徒たちを促した。
教師に僅かに触れ、押された背により、レイも森から出るための道に、動かなかった足を踏み出した。
俯いて足元を見ていたから、黒猫は見えなかった。
――疑うべくもなく、どんどん、強くなってきている




