レイ・アライス 図書館
――本日、おおむね晴天
猫は元々好きだった。だけど黒猫は嫌いになった。見た目だけなのに、心底、大っ嫌いだ。
長い机の端で頬杖をついているレイは、何をするでもなくぼーっとしていたが、隣の椅子に黒猫が前脚を畳んで座っていることを目が捉えた。
頬から手のひらを離す。ぼんやりとした意識は覚めた。
一体、いつから。素知らぬ顔でずっとしたような姿に、レイは険しい目付きで「黒猫」を見て、吐き捨てるように言う。
「私の前に、姿を現さないで」
猫はその目でレイを見上げて、すっと体を起こして消えた。
漆黒がしっぽの先に至るまで消えたことを確かめ、レイは机に頭を滑り落とした。その拍子に、置いていた紙がカサリと音を立てる。
本当に、嫌になる。何もかもが、ままならない。
空気は暖かいのに、机は冷たかった。端っこで、頭の上の方には向かい側とを隔てるための仕切りがある。
授業時間で人も少ないのをいいことに、目を閉じた。
――夢を、見た
いつの記憶か。中等部の頃か、高等部一年生の頃のことだろう。
魔法学園の図書館は、とても大きい。魔法に関する蔵書は国で二番目くらいにあまねく揃っているのではないだろうか。一番は城だ。
図書館は中等部、高等部の生徒共に利用可能となっており、学年が上がるにつれ、レポートの類いがあると利用頻度が増える。
――「レイ」
――「……ルーク」
レポートを書く手が詰まっていると、いつの間にか側に、先輩かつもう長めの付き合いの青年が立っていた。隣には、彼の友人がいる。
彼らも、課題のために来たのだろうか。しかし会うとは……。
――「レポートかい?」
――「うん」
――「詰まってるね」
――「……詰まってない」
――「端に絵を描きはじめているけれど」
指摘されて、手元を見るとペン先が意味のない落書きをはじめていた。
課題に詰まって考え直そうと思考に沈むと、無意識にペン先を動かしているらしいのだ。
落書きの紙を、さっと別の紙の下に隠した。
――「これは、レポートに必要な絵だから」
――「ウサギが?」
ルークが必要以上に、にこにこしはじめる。
分かって言われていることは分かっているが、レイとて彼とだてに何年も接してきたわけではない。これ以上の誤魔化しは無理だと悟っても「詰まってたよ。放っておいて」と何事もなかったように返した。
ふいっと顔も逸した。こんな、課題に躓いているところを見られるとは……。「あれウサギだったのか……」とルークの横の友人が呟いているので、ついでに少し睨むと、気がつかれて笑われた。
下手なのは知っている。むしろルークがよく分かったものだ。
――「どんな課題?」
――「え?」
問いかけられて目を戻すと、ルークが横の椅子に座っていた。彼の金色の髪がさらりと流れる。本当に、女性よりも「綺麗」が似合う人だな。と外見はいつも思うが。
――「私が教えてあげよう」
――「いいです」
何をしても優秀な彼であれば、的確な助言はお手のものだろうけれど、手は借りたくない。
口では素っ気なく即答すると、またルークの友人が笑った。図書館なので静かにした方がいいと思う。大体彼らは、何をしにきたのだ。
――「詰まっているんだろう? 先人の知恵を貸そう」
――「先人って……それより、ルークも何かしにきたんじゃないの?」
――「まあね」
結局彼はさらっと助言をしていって。
この学園は、どこにいても駄目だ。記憶が、姿が、重なるようで。
やはり、外に出るべきだったろうか。夢だと分かっていて、夢から覚めたくて、けれどいつも途中で覚める手立てが見つからない――
「レイ」
目が覚めた。呼びかけに意識を戻され、目を開くと、目の前に、同じように顔を倒している人がいた。
青い目と、やけに近くで目が合っていると気がついて、レイは目を見開く。
「いっ」
何事か反応する前に、前から素早く額を叩かれた。
いきなり何だ。と言うより、なぜ彼が。
叩かれて体を起こすと、横の方で、シリウスも起き上がっていた。
こちらを向いて座るシリウスは、机に右肘をついて一言こう言う。
「怠け者」
「……怠け者って、シリウスさんだって……」
高い本棚が並ぶ周囲を見渡し、時計を探す。時刻はそれほど経っておらず、まだ授業の最中だ。
故意に授業を休んでいるレイの前に、シリウスがいる。
「この時間、授業休んでるじゃないですか」
「残念、俺は自習だ」
指摘を彼は一蹴してみせた。
シリウスの前には、机の上に本が数冊と重ねられた紙、ペンがある。
「シリウスさんが、授業休むはずなかったですね」
「そういうことだ。で、お前は?」
「何がですか?」
「自習ってことはないだろ。本当は何の授業なんだ」
「……属性別魔法実技です」
魔法を実際に使う授業は色々ある。
対魔物を経験する授業や、属性別に特性があるため魔法能力を学ぶ授業。先輩や後輩との合同授業もある。魔法陣も魔力を使い発動させられるものなので、それも。
「不真面目してるな」
そこそこすんなりと、授業に出ずにここに来ていると認めたレイは呆れたかな、と思う。
だがそれに関しては、シリウスはそれ以上何も言わなかった。
「それで、ここで何広げてる」
「……魔物の生態に関するレポートです」
一応持ってきて、置いていたのは授業のレポートだった。
魔物の生態に関してまとめろという、高等部一年生のレポートのような内容だ。
「どうして今さら、魔物の生態をまとめるのか」
「二年のこの時期に……ああなるほどな」
課された内容を聞くと、シリウスはなぜか納得したような声を出した。それもまた、それ以上は何も言わない。
「広げて本当にしてたのかよ」
「……」
「おい」
ここでは手をつけていなかったので、無言にならざるを得なくなった。
レポート自体は難なく進め、後少しで出来上がるのだからそれに関しては問題ないはずだ。
これには呆れたようになっていたシリウスは、しかし、ふと異なる方を見て、いきなり制服の上着を脱いだ。
この空間が暖かいからと言うにはあまりに突然で、レイが違和感を抱いていると、
「えっ」
上着をそのまま被せられた。視界が真っ暗になる。一体何事かと、反射的に被せられたものを取ろうとするが、その前に続けて、後頭部から力が加わる。
「いたっ」
「静かにしてろよ」
押さえられた頭は、机で打った。だから一体何だ。
見えない向こうから、シリウスの潜められた声が言った。その声の調子に、レイは起こそうとしていた頭も、何事だと尋ねようとしていた声も止める。
すると、頭からはシリウスの手らしき感触が消え、少し。
訳が分からないが、机に顔を伏せたままじっとして様子を窺っていると、誰かが近づいてきた。
「リシェール、自習か」
「フレム先生、そうです。この時間の授業は自習となったので、図書館で勉強しようかと」
リシェールは、シリウスの名字だ。
近づいてきた声と、シリウスが口にした名前の教師はレイも知っていた。今度は自分の意思で、息を潜めて制止する。
「隣は誰だ」
「こいつはアイザックです。疲れてるんですよ、目を瞑ってやってくれませんか先生」
「そうか、構わない。ただ、適当な時間に起こしてやるのだぞ」
「はい」
「ところで、レイ・アライスを知っているな?」
「はい」
「見なかったか」
「いいえ、今日は見かけていません」
「そうか。すまないな、勉強を続けてくれ」
ほどなくしてそこに来ていた気配は足音と共に遠ざかっていった。
「いいぞ」
被せられていた制服の上着が浮き、覗きこんでくるシリウスが顔があった。
教師はいなくなったようだ。レイはゆっくりと身を起こす。ぶつけた額に痛みの名残があり、手で撫でてしまう。
「痛かったか?」
「大丈夫です」
シリウスの手が伸びてきて、その指がレイの前髪を避ける。
「赤くはなってるが、青くなってない。俺治療は不得手なんだよ、悪いな」
「いえ、」
「何らかの形で残ったら責任取ってやるよ」
そのまま手はぽんと頭に軽く置かれ、離れていった。
責任、とそこまでのものではないからこその軽口を叩いて、シリウスは笑った。
それよりも、あのでまかせは。
「アイザックさんってどなたですか」
「ああ、アイザックな。クラスメイト」
「制服で女子ってばれるでしょう」
「女子の名前を出すって思いつかなかった。ばれなかったんだからいいだろ。細かいこと気にするなよ。俺の信用の高さに感謝しろ」
突然の行動の理由は、レイが理解した通りか。
来た教師が、レイを探していたことを予想したかどうかは分からないが、ここにいるはずの生徒ではないとレイの顔を知っている教師である可能性は十分にあった。
その可能性を考え、レイの顔を見えないようにして、なおかつ違う生徒の名前を出した。
シリウスは軽く言ったが、彼の教師からの信頼性の高さがなければ、成立しなかっただろう。
教師が疑いを持ち、レイをいくらか注視した時点で、「アイザック」という男子生徒の名前とは矛盾する、被った上着では覆いきれないスカート姿がシリウスの影から見えてしまい、嘘が露見していた可能性が高い。
「……ありがとうございます」
「それ、ここにいるなら被ってろ。先生、図書館内探し回ってるぞ、どっかで見られてたんじゃないのか」
返そうとした上着を示し、判断はレイ自身に委ねたシリウスは、机に向かい、持ってきていた教科書らしき本を開き勉強しはじめた。
ばれなかったことで、せっかくなのでレイはここにいることに決めて、上着を被り直した。寝ているように、頭を倒して、静かにする。上着の影から見えるのは、シリウスの横顔。
何気なく、ぼんやりと、眺める。
シリウスの青い目は、青空の「青」ではなく、水を思わせる。正確には水は青い色を持っているわけではないが、水のような静けさを持っている青い目だ。
彼と初めに会ったのは、いつだったか。少なくとも関わるようになったのは、学園に来てからだ。
あの人の友人が、シリウスだったのだ。
勉強をしているシリウス。自習、と言っていた。
高等部三年、魔法大学への受験が迫る中、新しく学ぶことはほとんどないらしい。実技はこの限りではないが、教師によって自習になる授業も出てくる時期なのだとか。
授業時間であるのに、図書館に現れはじめる姿は大体三年生で、彼もその一人ということ。
「シリウスさんって、王都の大学に行くんですか」
「王都のどこの大学だよ」
「一番頭良いところです」
「気になるか?」
視線がちらりと向けられる。
一応頷く動作をすると、視線は戻され、彼の手はまた動かされはじめた。
「順調に行けばそこになるだろうな」
レイは、ゆっくりと目を一旦閉じるように瞬きをした。あの人もそのはずだったのに、と思う。彼はどの分野に進むつもりだったのだろう。
「卒業ですね」
「まだ先だろ。寂しいか?」
「……」
「そこは寂しがれよ」
シリウスが笑う。何も言ってないのに。
季節から言っても、現在の高等部三年生はもうすぐ卒業だ、とこぼした話題だった。
自分から出す話ではないな、とそれきり口を閉じた。
寝てしまったら、シリウスは起こしてくれるだろうか。まあ起こさなくても、上着を回収して、置いていってくれればいい。
「レイ」
名前を呼ばれて、目を開けた。
シリウスは手を止めていない。目も手元に向けたまま、話しはじめる。
「お前は留年目指してるのか」
「留年なんて制度、ありました?」
「成績優秀な生徒が何らかの理由で学年を上がるに相応しい知識を身につけられなかった場合、はな」
「じゃあ、無理ですね」
「前途有望な生徒も、だ」
「……それも無理ですね」
ほぼ、口の中で呟いた。シリウスに聞こえたかどうかは分からない。
「何のために、勉強してたんだよ」
何のために勉強し、なぜ、今勉強しないのか。
別に、あの人に褒めてもらうために学園に通い、勉強に励んでいたわけではない。だが今、「彼」がいなくなったことを考えると、原因を考えると。
「……分かりません。……ただ、分からないんです」
今度こそ、呆れてしまうかもしれないと思いながら、それ以上のことは言えなかった。
だからシリウスの方へ向けていた顔を反対側に向けるために浮かせ――ゴン、と頭が机に向かって押された。
「いった……!?」
何をするのか、と頭を押し付けた手の正体であるシリウスを見たら、シリウスは椅子から腰を浮かせて顔を周りに向けている。
何か、探しているような。
「先生、フレム先生いますかー」
「シリウスさん……!?」
先ほどここに、レイを探しに来ていたらしき教師の名前を呼ぶではないか。
おまけに教師は近くに戻って来ていたらしく、すぐに来た。
「レイ・アライスを見つけました」
「アライス、授業に出ずにどこにいるのかと思えば……すぐに行くぞ。リシェール、礼を言う」
「いいえ」
さっきの優しさは何だったというのか、突然の裏切りだ。
何も言う暇なく教師に腕を掴まれ、立ち上がったレイからは上着は回収されていた。証拠隠滅、シリウスの手元にある。
そんなシリウスは、見送る体勢でレイに言う。
「先輩が受験で必死こいて勉強してるんだ。横でだらけるな、勉強しろ後輩」
必死こいてはないだろうに。
レイは授業に連れ戻された。




