レイ・アライス 調合事故
――本日、晴天
「先生、レポート提出します」
「おお、持ってきたか」
調合室に入ってすぐの前の大きな机の中心に立つ教師に、数枚の紙を渡した。
「……うん。いいだろう」
受け取ったレポートをパラパラとめくって軽く確認した教師は、教壇代わりの大きな机の上に置いた本に挟み込む。
「出席していくんだぞ」
「はい」
釘を刺した教師にレイは本を持ち直して部屋の奥の方に歩いていく。
この授業は出席している方だと思うのに、違う授業を欠席して、担当ではない教師に見つかることがあってこの教師にも見つかったことがあるから、そんな印象があるのだろうか。
それとも、この授業を欠席しはじめると思われているのか。
長いテーブルが並ぶ教室、端っこの後ろから二番目に着席する。
「今日は九十四ページの薬を調合してもらう。この薬についてのレポートを来週提出してもらうのでそのつもりでやるように」
では各自はじめるように、という言葉で生徒たちが動き出す。前では教師が一応黒板に材料と作り方を記している。
教師が作り方を記し終えたあたりで、レイも遅れて動きはじめた。
教科書でもある本を開き、材料を簡単にメモして隣接する部屋へ向かう。
「レイ、いつの間に来てたの?」
授業で使うための材料が置いてある部屋に行くとアルフレッドと会った。
声をかけられたレイは「いつの間にか」とか何とか大雑把に答えながら、壁一面の引き出しを入っているものの名前を見て次々と開けていく。
「あ、レイそれ僕にもちょうだい」
たいしてその答えは期待していなかったのか、開けた引き出しを見てすかさず言うアルフレッドはちゃっかりしている。
まあついでなので引き出しから取り出した小さな束になった薬草を後ろのアルフレッドに向かって放って、他の薬草を探す。
「ありがと」
「どういたしまして。あとはローズマリー……」
材料をメモした紙切れを見て呟くと、横手から薄紙に包まれた花びらが差し出された。
「ありがとう、アル」
「どういたしまして」
それを差し出した人物を見てお礼を言うとと、差し出した本人、アルフレッドは笑って薬草類を入れた小さな鍋のようなものを持って部屋を出た。
調合室では材料を揃えた生徒たちが各々黙々と作業をはじめる。
鍋を火にかけていくつもの薬草を切り刻んだり、液体の量を量ったり。教科書とにらめっこしながらの慎重な作業だ。
何やらノートめくったりする生徒、何か一つ手順を進めるごと、しきりに本を見ながらぎこちなく作業を進める生徒。材料を間違えて、取りに戻る生徒……と各々進度に微妙な差がありながら、進めていく。
そうやって生徒たちが作業をしている机の間を、教師がゆっくりと歩いて巡回する。
「……」
くさい。
薬草を鍋に入れて三分、鍋から独特のにおいが漂ってくる。
レイは鍋を見下ろし、次いで周りを見渡した。同じような過程に入っている生徒は他にもおり、クラスメイト全員が同じことをするため、時間が経つにつれ当然においは強まり、さらには室内に煙さえうっすらと広がっていく。
心なしか、煙が薄い緑のような……。さっき投入した薬品の色が緑だったからだとでも言うのか。
しかし毎度のことながら換気の具合が良くないぞと窓の方に視線をやるが、やっぱり窓が開けられている。
この際天井にも窓を作るべきでは?と思うけれど、ここは最上階ではないので無理だろう。
最後には教師が魔法で空気を一掃するが、いくら体に害がないとはいえ、その都度空気を清浄に保ってくれやしないかと片手間に教師の姿を探す。
教師は窓側を通過したところだった。
と、そちらの方を見た拍子に、上着の下からカーディガンの袖をのばして鼻を覆っているアルフレッドがいて、あまり見ないしかめっ面にちょっとかわいそうになる。
寒さを犠牲にして窓際に陣取ったものの、鍋から漂うにおいから逃れられていないらしい。
「先生、ここの窓もうちょっと大きくならないんですかー」
鼻を塞いでいるためかいつもと異なる声色だ。あんなことを言えるアルフレッドは中々だと思う。
返答としては案の定「ならない」と言われて現実に戻るしかないのだ。
調合の授業は三年生から選択らしいので、あの調子では彼は絶対取らないだろう。
レイも余計なことを考えるのはやめにして、鼻の呼吸のみを止めて鍋を見下ろした。時計の針で計っていた時間ぴったりに、スプーンで掬った液体を鍋の上から慎重に垂らす。
「……あ、一滴多かった」
液体を入れる量を間違えた。
定められた材料と、その分量、順番という基本的なことを間違えなければ失敗と言うほどの失敗は起こらない。
ただ、他の要素として火力が強すぎると焦げたり、諸々の時間を間違えるともちろん失敗と呼ぶべきものとなる。
以上から言うと、基本的な調合を学ぶこの授業では、多少ぼんやりしていても、材料をさっさと用意して順番に並べ、待つ時間があっても、ぼんやり時計でも見ていれば簡単なものだ。
授業終了まで後二十分。
レイの鍋の内容はもう完成間近といったところで、相変わらず鼻呼吸を止めて、鍋をじっと見下ろしているばかりだった。
後は煮込むだけ。今呼吸すれば、煮込んで濃度が上がっているにおいでやられるに決まっている。同時に視界もますます悪くなっていく一方なのに、目に染みないことが不思議だ。
このにおいは服に染み付くだろうな、と立ち上る湯気を見つつ制服を見ても、見た目からでは分かりようがない。
早く完成させてこの部屋から出たい、と思っても、煮込む時間は決まっているのでそうはいかず。仕上げは煮込むだけと言っても、最後の最後での火加減は重要で、焦がすといけないから離れることもできない。
椅子に座って、鍋の番をする。窓を開けていても、鍋の近くが暖かいのがせめてもの救いか……。
耳が、拾ったのは、一瞬前の奇妙な音。
ぐつぐつ、ぐつぐつと穏やかとも言える音のみが聞こえていた頃、耳に響いた――破裂音。
鼓膜を刺激されて、何事かと、暖炉の前にでもいる気分になっていたレイが音の方だと反応したのは横だった。
隣の作業机の生徒の鍋から一瞬のうちに大きく激しい火が上がり、 一気に大きくなり、視線を引き付けられる。隣ということもあり熱を感じ、危険だと判断したのはすぐだった。
しかし破裂音から間髪いれず二度目、今度は激しい爆発音が起こり、膨張した炎が、赤色が一気に周囲を染める。熱い。
隣で椅子から立ち上がりかけていたレイの視界も、あっという間に炎の赤に埋め尽くされる。
赤が、これは――広がった赤色に錯覚した視界に一度瞬きしたときに見たのは、妙に近い炎。こちらに手を伸ばす炎が。
「レイッ」
巻き込まれたレイの名を呼ぶ声が周りの生徒の悲鳴に紛れた。
誰もが炎に包まれる瞬間を目にしたと思った。実際赤色に染まった世界で、炎の近くにいる生徒は炎に飲まれたように映ったのだ。本人も、動けなかったのだから。
反射的に椅子から腰を浮かせたが、迫る炎の方が余程早い。瞬きをすれば、眼前に炎が迫り、時間が止まったような心地を抱いた。
あ、まずい。
頭のどこかが考え、炎が触れんとする危機に無意識から魔法を行使しようとする。使いなれた、魔法を。
レイとしてはそのつもりで、この瞬間に出せる限りの魔法をと判断して、準備するまでもなく息をするように魔法を準備し、――躊躇った。
大丈夫だろうか? と。
それが命取り。正常な体感時間を取り戻した視界では、容赦なく火の手が迫る。
眼前に火の赤、顔を触れ、舐め、焼く炎は酷く熱かった――熱が、パキ、とまるで涼やかな音がした瞬間に隔てられたような――。
一瞬後、バケツの水をひっくり返したような音がして、爆発と共に周囲目掛けて手を伸ばした炎と同じくらい一瞬で、赤い色は消え失せた。
広まっていた火による熱も同時に引き、代わりに問題の鍋からはこれまでの比でない煙がもくもくと上がる。
近くにいる生徒を覆い隠すほどで、レイも煙に襲われる。
「大丈夫か!」
声がして、何度も瞬いてようやく認識できた前では、教師が走っていく。
微かな風と、鼻に触れる煙のにおい。
「……ゲホッゲホッ……」
咳き込む音は、向いている方から。
一番近くで煙を大量に吸ったのは、爆発した鍋の生徒だ。床に座り込んでしまっており、見える部分で手と、顔にひどい火傷をしているようだ。
その生徒が座り込んでいる床が水浸しだ。
なるほど、教師が消火作業に入ったらしい。
目の前にはさっきまであった赤色も何もなく、レイはぼんやりと、教師が生徒の怪我の具合を診ている様子を見ていた。
「大丈夫か? 火傷は手と顔か……すぐに医務室に行ってこい」
「……は、はい」
生徒はまだ呆然としたまま、教師の手を借りてふらりと立ち上がってドアの方へ歩いていく。周りの生徒たちはその生徒を目で追わずににいられない。
よろよろとだが、火傷をした生徒は倒れる様子はなく教室の外へ消えていった。
「アライス、お前は大丈夫か?」
教師が次に来たのは、爆発した箇所の隣にいたレイの元だった。
「……え、あぁ、はい、問題ないです」
声をかけられはっと教師を見たレイは、火傷一つしていない手を上げてアピールしながら答える。その言葉の通り、怪我どころか身につけた制服も焦げていない。
その様子に、教師が少し首を傾げた。が、怪我はしていないので納得したのか、頷いた。
「全員作業に戻れ、煮すぎてしまうぞ」
隣の生徒にも被害が及んでいないことを確認した教師が、周りを見て作業の再開を促す。
周りの生徒たちは鍋を見てはいたが、どちらかというと爆発を起こした鍋の方を主に見ていたので、一斉に鍋に視線を落とす姿が見られた。レイも、鍋を見る。
横では、教師が爆発した原因を探りはじめていた。
「これは、入れる液を間違えたな」
机にいくつかの薬草と共に置いてある、小さな透明な器の中のにおいを確かめてついたため息が聞こえた。
今回の調合に使う中の液体、おそらく時間から言って最後の最後に投入するものを間違えてしまったらしい。
原因を突き止めた教師は、次に床を濡らしている魔法の水を消した。
「出来た者から瓶に詰めて提出しなさい。名前を書くのを忘れないように」
グツグツと煮える鍋の中身、部屋の中には鼻につくような独特のにおいが充満していたが、レイには気にならなかった。
足元に、ふわりと掠めたものがあって弾かれたように下を見る。そこにいたのは黒い猫、こちらを見上げ、嗤って。レイが動かない内に、しっぽを揺らし消えていった。
消えた猫に、一瞬遅れて動きを取り戻したレイは唇を噛んだ。姿を現すかもしれないとは予想できたはずのに。動揺、していたのだ。
「レイ、大丈夫それ? 煮すぎてない?」
下を見ていたレイは、顔を上げる。
「鍋」
声をかけてきたのはアルフレッドで、彼はレイの前にある鍋の中を指差した。
「……あ、まずい」
指された鍋の中を認識して、とうに煮るべき時間が過ぎてしまっていたことを思い出した。かき混ぜてみる。
「焦げてる?」
「いや……焦げては、ない」
混ぜた中身を見て目を凝らし、臭いを嗅いで判定を下す。焦げてはいない。
「アル、ありがとう。危なかった」
「ううん。レイが失敗しかけるなんて珍しいね」
アルフレッドはすでにラベルまで貼って、調合した薬を提出する途中だったらしい。改めて、それを提出しに前へ歩いて行った。
「珍しい、か」
まだぐつぐつと表面が煮立つものを、見下ろした。
*
一方その頃、学内のとある部屋に二人の男性の姿があった。教室の類いではなく、まるで貴人の書斎のような雰囲気の部屋だった。
一人は窓の方を向いて、革張りの椅子に座っており、銀色の長い髪は先で軽くまとめられている。
「最近彼女の様子はどんな感じですか?」
銀色の髪をした男性は、机の前に立っている教師に対して尋ねた。背を向けてはいるが、窓越しにうっすら映った姿を紺色の目で見ている。
「相変わらずと言いますか……。今では欠席が目立つと教師の中では……」
問われた教師は、その眉を僅かに八の字にさせて歯切れ悪く答える。
「それ以外は出来が良いので仕方がないかという空気が濃くなっているのですが……」
王都の魔法学園。優秀な魔法使いになるためには一番良い道とされる学園は、成績によっては進級不可や退学となることもあり得るため、誰もが真面目に授業を受ける。
やむを得ない事情以外での欠席はもっての他で、誰も考えたことがないだろう。
しかし現在この学園にいるはずのない「不真面目」な生徒がいる。
この学園において、その行動は不真面目と言い表すしかないのだ。
その生徒は、偏った授業の休み方をしていた。教師の講義によって進む授業は出ている。
出席している授業でも、以前より意欲が感じられなくなったと教師の中で話が出たときはあるが、それ以上の欠席続きの授業が出てこれば些末事。
欠席が多い授業には、なんとか出席させられたときもあるにはあるが……多目に見られる程度にも限度がある。
「……仕方のない子ですね」
その小さな呟きは、冷えていくばかりの空気の中に溶け込んでいった。