表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花の戦記  作者: 花和郁
9/38

  (第三章) 三

   三


「そんな馬鹿なことがあるはずないわ!」

 光姫は思わず叫んで薙刀(なぎなた)を放り出すと、噂を教えてくれた近隣の農家の若者の(えり)を両手でつかみ、思い切り揺さぶった。

「華姉様が恵国軍の手先になって田美国へ攻めてきたですって? あり得ないわ! お姉様を侮辱(ぶじょく)するなんて許せない! 今すぐ訂正なさい!」

「く、苦しい……」

「姫様、おやめ下さい!」

 光姫の手を外させて二人を引き離した侍女のお(まき)は、のどを押さえて()き込む若者の背中をさすってやりながら、「やり過ぎですよ」と光姫をたしなめた。

「だって、お姉様が敵に寝返ったなんて言うんですもの!」

 光姫はぷいと横を向いた。

「その上、華姉様のせいでお父様が亡くなり、梅枝勢は壊滅ですって? 混乱で広まった嘘にしてもひど過ぎるわ!」

「嘘なんかじゃねえ」

 ようやく呼吸が落ち着いた若者が、(えり)を直して帯に押し込みながら言った。

穂雲(ほぐも)城下に行ってみろよ。町ん中は恵国軍でいっぱいだぜ。そいつらを率いてるのが華姫様さ。穂雲のお城と椎柴国(しいしばのくに)苫浜(とまはま)城、一夜で二国を落として乗っ取りやがった。逃げ遅れた町の連中はみんな震え上がって家に閉じ籠もっちまってるぜ」

「そんな話、信じられないわ!」

 家老の餅分(もちわけ)具総(ともふさ)が拾ってくれた薙刀を手に光姫が勢いよく振り向くと、若者は(おび)えた顔をした。

「お姉様が敵に味方しているというのも相当おかしいけれど、お父様を(わな)にはめて自刃(じじん)に追い込むことはもっとあり得ないわ。お姉様がお父様を恨む理由はないもの。まして、穂雲城に現れて家臣達を脅して自分が当主になっただなんて、どう考えても別人よ!」

「だから本当なんだって。畜生、華姫様って言やあ、貧乏人にお手製の薬を下さるやさしいお方で、手の国一の美女って噂だったのに、実は悪鬼(あっき)()()かれた化け物だったなんてなあ。……って、ひいっ!」

「何ですって! もう一度言って御覧なさい!」

 光姫が薙刀を構えたので、若者は慌てて飛び下がった。鞘がはめてあると言っても、叩かれたらたんこぶ程度ではすまない。

「ったく、なんで親切に教えてやって怒鳴られなきゃならねえんだ……」

 若者はぶつぶつ文句を言っていたが、お牧が板銀を一枚握らせると笑み崩れて、頭をへこへこ下げながら去っていった。

「どうしてこんな根も葉もない噂が広まっているのかしら!」

 光姫はそれを見送って憤然(ふんぜん)としたが、餅分(もちわけ)具総(ともふさ)は首を傾げながらもこう言った。

「華姫様のお人柄を考えますと誠に信じ難いことでございますが、話を聞いた三人は皆同じことを申しております。ここまで詳しいと作り事とは思えませぬ。恐らく事実ではないかと思いますぞ」

「もう、(じい)やまでそんなことを言うなんて!」

 光姫は悔しいやら悲しいやらで、この場に青竹があったら十本くらい切り倒してやりたい気分だったが、お牧が心配そうな顔をしているので、本当に薙刀を振り回すのは我慢した。

 玉都からの帰り道、高稲半島の付け根に当たる後明国(あとあけのくに)を南に向かって旅していた光姫一行は、昼食に立ち寄った茶屋で恵国軍の侵攻という驚くべき知らせに接した。なんと穂雲城が落ちたというのだ。とても信じられなかったが、その店にいた人々の中に穂雲城下から馬で逃げてきた武家がいたので、事実と考えざるを得なかった。

 茶漬けを急いでかき込んで茶屋を飛び出した光姫は、護衛の武者達に足の遅い荷駄隊と一緒に後から来るようにと告げると、愛馬に飛び乗って一路田美国を目差した。慌てて追ってきた具総やお牧と休みなく馬を飛ばし、二人に「姫様にも銅疾風(あかはやて)にも休息が必要です」と説得されて途中で一泊したものの、翌藤月(ふじづき)四日は朝早くから再び馬を駆った。三日の行程を一日で駆け抜けた光姫達三人は、昼過ぎに後明国と田美国の間にある梅枝家の三国の一つ、殻相国(からあいのくに)の城下町月下(つきした)の門前で、待ち構えていた家臣に出会った。

 家臣は殻相国(からあいのくに)を預かる家老追堀(おいぼり)師隆(もろたか)の指示だと言って光姫に穂雲城の陥落を知らせ、月下城へ入るように求めた。だが、華姫の帰還を聞かされた光姫は驚愕し、姉の生還を喜んで、「華姉様にお会いしなくては!」と言って、引き留める家臣を振り切って田美国へ向かってきたのである。

 道を急ぎつつ、途中で出会った旅人や領民を呼び止めて田美国の様子を尋ねたが、先程の若者を含めて三人が皆、華姫の悪評を語ったのだった。

「こうなったらお城へ乗り込むしかないわ」

 遠い雲が赤くなり始めた空の下、穂雲の町に程近い丘の上から懐かしい五層の天守の城を望んで、光姫は決意した。

「お城にお姉様がいるというのなら、今から行って会ってくるわ」

 光姫は姉の寝返りの噂をまさかと思いつつ、次第に不安になる自分に腹を立てていた。

「あれこれ考えるより、お姉様に直接確かめた方が早いわね」

「お待ち下され!」

 具総が慌てて止めた。

「それは無茶でございます。聞けば田美衆はほとんどが華姫様に従ったとか。姫様が乗り込めば、たちまち捕まりますぞ」

「大丈夫よ。お城に(もぐ)り込む方法なら知っているわ。何度も使ったもの」

 光姫が得意げに言ったので、具総は深い溜め息を吐いた。光姫が勝手に城を抜け出して遊びに行くのを追いかけ回すのに随分苦労しているからだ。

「確かに、姫様なら秘密の抜け穴から上手く潜り込めるかも知れませぬ。ですが、もしも捕まってしまったらどうしますか。今や姫様は梅枝家の最後の希望なのですぞ。姫様まで恵国の手に落ちてしまわれたら、まだ辛うじて城を守っている殻相衆まで恵国に従わざるを得なくなりましょう。そうなっては名門梅枝家の名は地に落ちますぞ。お気持ちはお察し致しますが、どうかここはこらえて、殻相国へお戻り下され」

 拝むようにする具総に、光姫は少し申し訳なさそうな顔をしたが、決意は曲げなかった。

「爺やの言うことも分かるけれど、このまま戻るなんてできないわ。もし本当にお姉様が恵国に寝返ったのだとしたら、説得して連れ戻すわ。捕虜になって利用されているのなら、多分これが正しいと思うのだけれど、その場合は助け出さなくてはならないわ」

 光姫は愛馬の赤い手綱をお牧に渡そうとした。

銅疾風(あかはやて)は置いていくわ。二人はこの辺りに隠れていて」

「私もお供します」

 お牧は手綱を受け取らなかった。

「駄目よ! こんな危険なことに巻き込むわけにはいかないわ。ここで大人しく待っていて」

 光姫は侍女を翻意(ほんい)させようとしたが、お牧は首を振ってきっぱりと言った。

「本当は姫様を縛り上げてでもお止めしたいところですが、どうしても行くとおっしゃるなら仕方がありません。私が付いていってお守りします」

 華姫と同い年のこの侍女がこうなると梃子(てこ)でも動かないことを知っているので、光姫は溜め息を吐いて頷いた。

「分かったわ。お牧も一緒に来てもらうわ。目立たないように持っていく武器は懐剣(かいけん)だけよ。爺や、馬と荷物を頼むわね」

 では、(じい)も一緒に参りますぞ、と言い張る家老をなだめて、光姫は薙刀を渡した。

「もし明日の朝になっても帰ってこなかったら、爺やは月下城へ行ってね。大丈夫、それまでには戻ってくるから」

「本当にお気を付け下され」

 具総は不安でならないようにくどくどと注意事を繰り返した末、丘の裏手の豪農の屋敷へ向かって三頭の馬を引いていった。

「では、行きましょう」

「はい、姫様」

 二人は頷き合って、丘を降りていった。


「情けないわ」

 華姫は溜め息を吐いて、両手をゆっくりと降ろし、泰太郎の手紙を正座した膝の上へ置いた。そのまましばらくじっと眺めていたが、やがて顔を上げ、目に浮かんだ涙を手拭き布でぬぐうと、文机の上の封筒の束を見やって再び溜め息を吐いた。

「こんな手紙を今更読み直しても仕方がないことは分かっているはずなのに」

 華姫はこの二日、時間があると自室に籠もって泰太郎の手紙を読んでいた。夫を懐かしみ、この手紙の束に安らぎを求めていたのだ。しかし、今朝目覚めた時に、もう読むのはやめようと決めた。それで、机の隠し戸の中に戻そうとしたが、いざ手紙を手に取ると惜しくなってつい読みふけり、また泣きそうになってしまった。

「早く吹っ切らないといけない。私は既に恵国の人間なのだから」

 禎傑と契約した時、華姫は全てを捨てたはずだった。故国も、故郷も、家族もだ。夫を取り戻せるなら、他のものは全て失っても構わない。そう思ったからこそ、禎傑の誘いに乗った。

 だが、華姫はこの国へ帰ってきてから、自分がまだそういったものに未練をたっぷり残していることを嫌でも思い知らされた。華姫は過去を捨てられない自分を不甲斐なく感じ、妹や泰太郎と過ごした楽しい日々を思い出させるこの手紙の束を封印することにしたのだが、いざとなるとできなかった。

 この土地には思い出が多過ぎるわ。

 華姫は涙に湿った手拭き布を見つめた。海国丸で旅立つ時、光姫に自分のをあげたかわりにもらったものだ。指には白い金剛石が光っている。どちらも故郷と自分をつなぐ大切な品だった。自然とそれらをくれた二人の顔が浮かんで懐かしい記憶がいくつもよみがえり、行方不明の夫への思慕が募って、また目頭が熱くなってきた。

 いけない。こんなに弱気になって。あの人の手を取った時に覚悟を決めたはずよ。すぐに泣いてしまうなんて、まるで光子みたいだわ。

 華姫は涙をこらえようとしたが、とうとう一筋こぼれてしまった。

 その時、廊下を足音が近付いてきた。華姫ははっと顔を上げて、急いで目を手拭き布でぬぐった。

「ここにいたのか」

 襖が開いて、禎傑が姿を現した。

「なんだ。泣いていたのか」

「違うわ」

 華姫は首を振った。

「そうか」

 禎傑は華姫の赤い目をじっと見たがそれ以上は追及せず、部屋に入ってくると華姫の背中に近付いて、後ろから首に両腕を回した。

「寂しいのなら俺が慰めてやろう。話したいことがあれば聞いてやる。俺なら遠慮はいらないだろう」

 出会って以来、この男は機会があるとこうして口説き落とそうとしてくるが、華姫は相手にしていない。禎傑の方も手を出さないという約束があるので、あまり無体(むたい)なことはしなかった。

「離れて頂戴。こういうことはやめてと言っているでしょう」

 禎傑は華姫の抗議を無視し、膝の上の手紙に目を落として尋ねた。

「そんなに夫が恋しいか」

「恋しいわ。当然でしょう」

 華姫は手拭き布を帯の中にしまうと、手紙を手早く折りたたみ、脇の畳に置いてあった封筒を拾い上げてその中へ戻し、文机の上に置いた。

「俺では不満か」

 禎傑は首を包み込んだ腕に体重をかけるようにして華姫にのしかかりながら、耳の後ろに語りかけた。

「そういう問題ではないの」

 華姫は腕を外そうとしたが、禎傑は力をゆるめなかった。

「その貞操(ていそう)の固さは称讃(しょうさん)に値するが、そろそろ諦めたらどうだ。夫の居場所は分からなかったのだろう?」

 椎柴国(しいしばのくに)を制圧後、鳴沼(なきぬま)家の家臣達を尋問し、飛木島(とぎじま)に梅枝家の者を派遣して調べさせたが、手掛かりは見付からなかった。

「お前は今まで何夜俺の部屋で寝たと思っているのだ。俺も我慢に疲れてきた」

 恵国では華姫は毎夜禎傑の部屋に行き、その日に訳した吼狼国の書物を読んで聞かせて語り合った。侵攻計画の細部、征服した後の統治方法、吼狼国の民の習俗や武家の生活の様子、幟屋(のぼりや)百家商連(ひゃっかしょうれん)といった商人達の活動の実態など、禎傑に問われるままに語り、また華姫も恵国の事情を尋ねた。

 南海州の太守だけあって禎傑は政治と軍事に詳しく、その口から出る問いや具体的な施策の提案は要点をとらえていて、華姫にも興味深いものが多かった。つい面白くなって深夜まで話し込むことも少なくなかったが、華姫はそれを楽しい時間だと素直に認める一方、泰太郎と語り合ったことを思い出して複雑な気分でもあった。これほど話していて楽しい相手は夫以外では初めてだったが、心の中で禎傑への好意が大きくなっていくのを感じるたびに、華姫は驚いて、私は泰太郎さんの妻なのよと自分に言い聞かせた。だが、そうしなければならないこと自体が自分の心が揺れ始めている証拠だと華姫は気が付いていて、なおさら禎傑に隙を見せまいと思うのだった。

「俺にはお前が必要だ」

 吼狼国征伐軍の総司令官はささやいた。

「その知略も、知識もな」

 禎傑の声はやさしかった。

「お前は大した女だ。穂雲へ退却する梅枝勢より早く森浜村に着くことができたのはお前の書いた地図のおかげだ。椎柴国(しいしばのくに)を落とした手並みも見事だった。自分の部下を落ち武者に仕立てて苫浜(とまはま)城へ送り込み、深夜に内側から門を開けさせて攻略するとはな。あれほど上手くいくとは正直思っていなかったぞ」

 禎傑は笑った。

「お前の部下もよくやった。裏門とはいえ、たった七人で城門を(ひら)いて味方を引き入れたのは驚嘆すべき働きだった。大手柄だな」

 穂雲城で華姫を当主として承認する儀式をした後、景隣達は快速船で椎柴国へ急行し、同じ船団で運ばれて密かに接近していた暴波路兵一千を呼び込んだのだ。同時に正門方面に堂々と迫っていた恵国軍二千も総攻撃をかけると、たった六百人しか守兵がいない小城は呆気なく落ちた。

「お前のおかげで最初の戦いに勝ち、田美国と椎柴国をあっと言う間に制圧できた。わずか一日で二国を落とせるなど、お前なしではあり得なかったことだ。将軍達も感心していたぞ」

 華姫は首にからみついた禎傑の太い腕を片手で押さえて黙っていた。

「俺はお前の働きに報いねばならん。褒美は何がよい。望みのものがあれば何でも与えよう」

「何もいらないわ」

 華姫は冷やかに答えた。

「私はあなたの協力者であって家臣ではないのよ。褒美など不要よ」

 禎傑はやれやれと首を振って、話題を変えた。

「あの連中を(はりつけ)にして少しは気が晴れたか」

 華姫は返事をしなかった。

 苫浜城が陥落すると、景隣達は城内を探し回って上郭(かみくるわ)の物置の奥に隠れていた鳴沼(なきぬま)在村(ありむら)を捕らえ、穂雲城へ連行した。庭に引き出された在村は華姫の姿を見て震え上がり、拷問される前に全てを吐いた。

 やはり、襲撃を計画したのは大灘屋(おおなだや)だった。当主の仁兵衛(じんべえ)から直接話を持ちかけられたのだという。海国丸を襲えと指定してきたらしい。政資達は背後にいるという玉都の高官の名前を吐かせようと厳しく追及したが、在村は知らなかった。

 聞けるだけのことを聞き出すと、華姫は泣いて慈悲を乞う在村を磔にせよと命じた。残酷な刑罰は華姫の最も嫌うところだったし、そんなことをしても泰太郎はきっと喜ばないだろうと分かっていたが、華姫は敢えてこの刑罰を選んだ。それは、自分は復讐のためにはどんな手段も避けはしないという覚悟を世に示すためだった。

 意外なことに、華姫を悪女と呼んだ穂雲城下の人々も、この処刑方法は批判しなかった。華姫が戻ってきた理由や、漂流と恵国での体験が噂になって広まっていたからだった。おかげで、もともと重税とその不満を封じるための圧政で憎まれていた肥満体の小封主は、来西(くるにし)敦平(あつひら)ら五名と共に十字の木の柱に手足を縛り付けられて前から槍で胸を刺された上に、民衆に石を投げられることになった。

「これで第一の目的は達したわけだな」

 禎傑の言葉に、華姫は首を振った。

 海国丸襲撃の命令を出した在村(ありむら)とその長男住村(すみむら)や情報を流した来西(くるにし)敦平(あつひら)達は処刑したが、実行部隊の指揮官だった次男の継村(つぐむら)と家老の頃田(ころた)剛辰(たけたつ)は捕まえられなかったからだ。運悪く二人は領内開発の相談をするために大番頭の長次(ちょうじ)と玉都へ行っていた。華姫の生還を聞けば、三人は都に留まるに違いない。それに、大灘屋仁兵衛も正体の分からない高官も玉都にいる。船を襲撃した鳴沼家の武者達も、警護役として彼等のそばにいるらしい。やはり都へ攻め上るしかないと、華姫は覚悟を決めたのだった。

 禎傑は華姫の横顔を見つめていたが、低い声で尋ねた。

「俺に味方したことを後悔しているのか」

「違うわ」

 華姫は否定して問い返した。

「どうしてそんなことを聞くの」

「磔などお前らしくないからな。自棄(やけ)になっているわけではなさそうだが、悪評が気にならないのか」

「確かに残酷に殺すことに意味はないわ。別にあの人達を苦しめたかったわけではないのだから。彼等を殺しても増雄(ますかつ)さんが帰ってこないのも事実よ。でも、私は復讐すると決めた。復讐するなら徹底してするべきだわ。手加減することにも意味はないのよ」

 華姫はかすかに笑った。在村を磔にしたのは、わざと退路を断ち、もう戻ることはできないと自分に言い聞かせるためでもあった。それを感じたのか、家臣達は華姫の命令に黙って頷き、悲鳴を上げて泣き叫ぶ小悪党を引きずっていった。

「復讐なんて愚かなことだわ。愚かなことをしておいて評判を気にしても仕方がないのよ」

 その声には自嘲(じちょう)の響きがあったので、禎傑は眉をひそめた。

「今更弱気になって逃げ出そうなどとは考えるなよ。俺はお前を手放す気はないぞ」

「分かっているわ。私はこんなところで立ち止まったりしない」

 華姫はきっぱりと答えた。

「まだ泰太郎さんを救出していないし、捕まえて報いを受けさせてやりたい相手が何人もいる。家臣や私の兵士達を見捨てるようなことは絶対にしないわ」

「そうか。ならばよい」

 そう言うと、禎傑は片手で華姫の髪を後ろへ寄せて、首筋に接吻(せっぷん)した。

「いやよ。何をするの」

 華姫は逃げようとしたが、禎傑は肩を抱き締めて拘束した。

「接吻くらいよいではないか。よく働いてくれていたから我慢してきたが、九ヶ月の間、俺は何もさせてもらえなかったのだぞ。目的を一つ達した今夜は、俺にも分け前をくれてもよかろう。もう少しじっとしていろ。乱暴なことはしない」

「やめて。私は泰太郎さんの妻なのよ」

 禎傑の腕の中で必死にもがきながら、華姫の目は文机の上に置かれた泰太郎の手紙へ注がれていた。

「あの夜約束したでしょう。私は夫以外の男性に肌を許すつもりはないわ」

 禎傑は手紙の束を見て顔をしかめた。

「生死の知れぬ者のことをいつまでも考えていても仕方あるまい。さっさとその男を思い切って俺の女になれ。そうすれば楽になれる。俺はお前のためを思って言っているのだぞ」

「離して。いやだと言っているでしょう!」

「抵抗は無駄だ。大人しくしろ」

 とうとう禎傑が華姫を押し倒して覆いかぶさったところへ、廊下を歩いてくる足音がした。禎傑は舌打ちして腕の力を抜いた。華姫は急いで男の下から抜け出し、離れて着物を直した。

「華姫様、いらっしゃいますか」

 景隣の声だった。

「ええ、いるわ」

 返事をすると、襖が開いた。廊下に膝を突いた景隣は禎傑を認めて一瞬動きを止めたが何も言わず、華姫に向かって報告した。

「先程本郭(ほんくるわ)の中庭で、光姫様と侍女のお牧殿を捕まえました」

「光子が?」

 華姫は驚いた。

「はい。どこからか忍び込んできたようです。庭を警備していたサタル達に発見されて囲まれたところに折良く様山(さまやま)様が通りかかり、彼等に口止めしてお二人の身柄を引き取り、武器を預かった上で本郭御殿の一室にご案内しました。現在は様山様ほか数名が見張っております。光姫様は華姫様との面会をお望みですが、どうなさいますか」

 考え込んだ華姫に、黙っていた禎傑が尋ねた。

「何が起こった」

「妹が来たのよ」

 華姫は恵国語で事情を簡単に説明した。

「都に行っているという実の妹か」

「そうよ。この件は私に任せてくれないかしら」

 禎傑は少し考えたが、頷いた。

「よかろう」

「感謝するわ」

 そう言うと、華姫は立ち上がった。

「会うわ。案内して」

 はっ、と頭を下げた景隣は、低い声で尋ねた。

「どうなさるおつもりですか」

「私に考えがあるの」

 景隣に先導されて、華姫は去っていった。

 残された禎傑は二人の足音が消えて行くのを座ったまま聞いていた。が、やがて立ち上がり、室内を見回して手紙の束を一瞥(いちべつ)すると、部屋を出て行った。


「お姉様!」

 光姫は薄暗い部屋でお牧と一緒に様山和尹(かずただ)達から漂流の話を聞いて泣いていたが、いきなり開いた襖の向こうに死んだはずの姉を見付けて大声を上げた。

「本当にご無事だったのですね!」

 思わず立ち上がった光姫に頷いて、華姫は部屋に入ってきた。

「話は聞きました。随分と苦労したそうですね。でも、元気そうで安心しました!」

 涙を浮かべて飛び付こうとした妹を手で制した華姫は、光姫に座るように促した。別れた時のように喜びの抱擁(ほうよう)をし合うつもりでいた光姫は拍子抜けしたが、仕方なく指示に従った。光姫が畳に正座すると、華姫は妹の目の前に立った。

「まず、涙をお拭きなさい」

「えっ? ……あ、はい」

 姉の様子に怪訝な顔をしながらも、光姫は言われた通りに頬をぬぐった。

「光子」

 華姫は妹を見下ろして名を呼んだ。その声の冷ややかな調子に驚いて、光姫は顔を上げた。

「私が梅枝家の当主になったことは聞いたわね」

「はい、先程」

 光姫は首を傾げて頷いた。

「ですけれど、私が結婚して家を継ぐのですから、お姉様が当主になる必要はありません。結婚相手はお父様がお決めになっていたはず……」

「今は私が当主よ」

 華姫は妹の言葉をさえぎった。

「家臣達も承認したわ」

「はあ……」

 話の流れがつかめない光姫は曖昧(あいまい)な返事をしたが、華姫はそれを無視して厳しい口調で言った。

「当主として命じます。私に従いなさい」

「お姉様?」

 光姫は口をぽかんと開けた。

「従うとはどういうことですか。意味がよく分からないのですけれど……」

「私に服従しなさいと言っているの」

 華姫は呆気にとられている妹に要求を突き付けた。

「これ以後、当主である私に臣下の礼をとってあらゆる命令に従い、恵国軍に協力すると、今ここで誓いなさい」

「なっ!」

 光姫は言葉の意味を悟ると顔色を変えた。

「お姉様、一体どうしたのですか。まさか本当に恵国軍に味方を……」

「もう一度言うわ。私の命令に従うことと、恵国軍のために戦うことを今すぐ誓いなさい!」

「お姉様は本気でそんなことを言っているのですか!」

 光姫は叫んだ。

「そうよ」

 華姫は頷いて薄笑いを浮かべた。その表情に光姫はぞっとした。

 お姉様がこんな笑い方をするなんて。

 それは何かの覚悟を決めた者の笑みだった。それも、その行為が愚かなことだと知っていながら突き進んでいる者の自嘲の笑みだ。泰太郎と船出していった時の幸福そうな笑顔を無意識に期待していた光姫は、その落差に愕然とした。

 これはいつものやさしいお姉様ではないわ。

 光姫はようやくそのことに気が付いた。光姫の知る華姫は常に誇り高かった。自分のあり方や行動に自信を持って堂々としていた。だが、今の姉の笑みは、ひどく()て付いた何かを感じさせた。

 光姫は姉の初めて見る表情に驚き、同時にその原因が恵国軍への寝返りだと悟って、二重に混乱した。

「そんな! なぜお姉様が恵国軍に味方するのですか!」

「理由などどうでもいいわ。尋ねているのは私よ。さあ、どうするの。答えなさい!」

「待って、待って下さい。私には何が何だかさっぱり分かりません。恵国でつらい経験をしたのは今聞きましたが、まさか本気で国を売るようなことを……。お姉様がこんなことをするなんて、一体どうしてですか!」

「説明してもあなたには理解できないわ。話すだけ時間の無駄よ」

 華姫は冷たく突き放した。

「分かるわね。これは命令よ。私は梅枝家の当主として命じているのよ。家臣はただ服従すればいい。主君に命令の理由を問うことは許されないわ。私に従うというのなら家臣の列に加えてあげる。もし反抗するなら投獄する。さあ、どうするの!」

「投獄って、お姉様は私を牢に入れるつもりなのですか!」

「あなたが拒否すればね」

 その言葉は光姫には絶縁を言い渡されたように聞こえた。

「私は泰太郎さんの救出と仲間の復讐のために玉都へ攻め上るわ。それに光子が協力するならばよし、邪魔をするなら牢に入れて家臣達から切り離すわ」

「そんな……」

 光姫は姉が本気であると悟らざるを得なかった。その事実に打ちのめされた光姫は、がっくりと畳に手を付いた。

「もう一度言うわ。私に従いなさい」

 華姫は叱責(しっせき)するような容赦のない口調で命じた。

「さあ、どうするの。答えなさい!」

 喧嘩をほとんどしたことがない姉からの厳しい追及に、光姫はどう反応したらよいか分からなかった。

 お姉様が敵に味方している? 一体どうして?

 ぐるぐる回る頭で必死に考えをまとめようとした光姫は、ふと気が付いて顔を上げた。

「お父様が合戦で負けた原因がお姉様だというのは本当ですか」

 華姫は一瞬口籠もったが頷いた。

「事実よ。私が涼霊に待ち伏せと挟撃には森浜村の前がよいと助言して裏街道と脇道を教えたのよ」

「では、お姉様がお父様を自刃(じじん)に追い込んだというのは……」

 光姫の声は震えていた。

「降伏勧告はしたわ」

 華姫は冷然と言った。

「包囲してから、隠居して家督を私に譲り、恵国軍に協力して武守家と戦うと誓えば命は助けると伝えたわ。でも、お父様はそれを拒絶して自害なさったのよ」

「恵国軍に味方しろだなんて、そんな要求をお父様が()むはずないわ!」

「そうかも知れないわね。でも、必要なことだったのよ」

「それなら、お父様を殺したのはお姉様だわ!」

「そうなるかしらね」

 華姫は否定しなかった。

「それがどうしたというの。私は今あなたに主君への忠誠を求めているのよ。先にそれに答えなさい!」

 光姫は姉の厳しい顔を呆然と見上げた。華姫が父殺しを肯定したことで、光姫は姉が変わってしまったことをはっきりと理解した。これはもはや以前の姉ではない。仲が良かったあのやさしい姉はもういないのだ。

 光姫は顔を伏せると左の乳房を右手でつかんだ。胸の奥が苦しかった。泰太郎に失恋した時以上に、何かが心臓を締め付けていた。知らず知らずの内に、光姫の目から再び涙がこぼれ出していた。

「いや……」

 光姫はゆっくりと首を振った。

「いやよ、絶対にいや。お父様を殺したお姉様には従わない!」

 光姫は顔を上げ、華姫をにらんで絶叫した。

「そんなのはもうお姉様ではないわ。ただの人殺しよ! 私は華姉様を絶対に当主とは認めないわ!」

 言い放って自分の言葉に衝撃を受けた光姫は、両手を畳に付いて大声で泣き始めた。

 人殺しと言われて華姫はやや青ざめたが、泣きじゃくる妹を見下ろして冷ややかな声で宣告した。

「そう、分かったわ。では、あなたを投獄するしかないわね。私が目的を達して戻ってくるまで牢の中にいなさい」

 次に、華姫は、ずっと黙って成り行きを見守っていたお牧に目を向けた。

「あなたはどうするの。私に従うのかしら」

「お断りします」

 お牧はきっぱりと拒絶した。

「華姫様にはお仕えできません」

「ならば、あなたも牢に入ってもらうわ」

 華姫は背後に控えていた様山和尹達に命じた。

「この二人を蔵の牢へ連れて行きなさい」

「はっ!」

 家臣達は二人に歩み寄り、両側から腕を拘束した。

 光姫は涙をぼろぼろこぼしながら支えられて何とか立ち上がり、引きずられるようにして部屋を出て行った。お牧は(うなが)されると自分で立ち上がって歩き出したが、華姫の前でつと足を止め、同い年の姫君の顔にきつい一瞥を投げると、静かに廊下を去っていった。

 二人がいなくなっても、華姫はしばらく立ったまま、光姫が畳に残した涙の()みを見つめていた。

「大丈夫ですか」

 すぐ後ろに控えていた景隣が遠慮がちに尋ねると、振り返った華姫は寂しそうな笑みを浮かべた。

「平気よ。覚悟していたことだもの」

「ですが……」

「いいの。自分で決めたことよ」

 華姫はもう一度光姫のいた場所を見下ろした。

「これでいいのだわ」

 つぶやくと、華姫は景隣の方を向いた。

「それより、あなたに頼みたいことがあるの」

「何なりとお命じ下さい」

 景隣は頭を下げて、命令を受ける姿勢をとった。

「では、私に付いてきて」

 そう言うと、華姫は部屋を出て、先程歩いて来た廊下を戻っていった。景隣もすぐにその後を追った。


「姫様。誰か来ます」

 お牧がささやいた。

 真っ暗な中、牢の格子の木を削る手を止めて耳を澄ますと、確かに何者かがこの蔵の戸を開けようとしていた。

 光姫は急いで真鍮(しんちゅう)(かんざし)(たもと)に入れて奥へ下がり、自分の布団に横になった。お牧も鉄の髪留めを手に隠しながら戻ってきた。

「こんな時間に誰かしら」

 光姫が掛布団を引き上げて小声で尋ねると、お牧は首を傾げた。

「分かりませんが、用心した方がよろしいでしょう」

「そうね」

 主従は頷き合って布団にくるまり、牢の入口へ背を向けた。

 夕方、華姫に入牢を申し渡された光姫は、様山和尹達によってこの座敷牢へ連れてこられた。ここは外から見ると白い漆喰(しっくい)壁の蔵だが、中は半分が土間、奥は畳を八枚敷いた牢になっている。その境には天井まで太い角材を組み合わせた格子があって出られないようになっていた。戦狼時代に身分の高い捕虜を閉じ込めた場所らしい。家臣達は光姫とお牧を牢に入れると施錠し、更に蔵の扉にも鍵をかけて去っていった。

 閉じ込められた光姫は、薄暗い牢の中で畳に座り込み、天井近くの明かり取りの穴から辛うじて入ってくる夕日の光をしばらくの間呆然と見上げていた。いつの間にか涙は止まっていたが、目は()れ、乾いた頬はひりひりしていた。

 光姫には華姫の豹変(ひょうへん)の理由が分からなかった。あのやさしい姉がなぜ父を殺し妹を投獄したのか、どうにも合点(がてん)がいかなかったのだ。

 光姫に分かったことは、姉が何かを決めてしまったということだけだった。あの態度から察するに、華姫は自分の意志で国を裏切り、恵国軍に味方する道を選択したらしい。

 光姫は先程家臣達から聞いた話で、泰太郎を取り戻して黒幕に罰を与えるには恵国軍に従うしかなかったことは理解した。だが、それは明らかに悲惨な結末しか考えられず、華姫も周囲の人々も不幸にする道だった。光姫は道中民から聞いた噂の中で姉が売国奴と呼ばれていたことを思い出して戦慄(せんりつ)した。

 光姫にはあの賢い姉が自ら破滅へ向かって歩いていく姿がどうにも想像できなかった。それはもはや別人だと思った。決して希望と理性的な判断を捨てず、自暴自棄(じぼうじき)になったり安易な道へ流れたりしないことこそ賢者に必要な資質だということを、光姫は姉の姿から学んでいたのだ。

「姫様」

 きちんと正座をして背筋を伸ばし、黙って光姫を見つめていたお牧が、静かな声で語りかけてきた。

「姫様はこれからどうなさるおつもりですか」

「これから……?」

 考えに沈み込んでいた光姫は、それが自分への問いだと気が付くと、侍女へ顔を向けて首を傾げた。

「どうするとはどういうこと?」

 自分達は牢に閉じ込められてしまったのだからどうしようもないではないかと思って問い返すと、お牧は光姫の顔をじっと見て言った。

「姫様はこのままでよろしいのですか。華姫様は御屋形様を死に追いやった上、今度は都へ攻め上るとおっしゃっているのですよ」

「お姉様が都へ向かう……?」

「そうです」

 お牧は頷いた。

「恐らく、華姫様は田美衆を率いて恵国軍にお味方されるおつもりなのでしょう。それは、武守家や全吼狼国の武家を敵に回すということです」

 光姫ははっとして、先程の会話を思い返した。

「確かにそう言っていたわ。お姉様は大戦(おおいくさ)を始めるつもりなのね」

「そうなれば梅枝家はどうなりましょう」

 お牧は身を乗り出した。

「これは武守家への謀反(むほん)です。敵国に荷担した封主家を統国府は許さないでしょう。華姫様が負ければお家はお取り(つぶ)し、勝っても恵国軍の手先として国中から憎まれます。早く止めないと取り返しのつかないことになります」

 言われて、光姫は姉の意図に気が付いた。華姫は梅枝家を使い潰す気なのだ。光姫は改めて姉の覚悟の固さを思い知らされた。あの姉が本気で戦を始めたら大変なことになるだろう。

「姫様はそれを黙って見過ごされるおつもりですか。私は許せません。梅枝家の人々は華姫様の道具ではないのです」

「そうね。本当にそうだわ」

 光姫は頷いた。

「華姉様を止めないといけないわね。何としてもやめさせないと」

 光姫はぎゅっと(こぶし)を握った。今まで姉に反抗したことはなかった。賢く公平でやさしい姉には隙がなかったし、喧嘩しても到底勝てそうになかったからだ。だが、今は思い切ってぶつかってみるしかないと思った。

「華姉様は間違っているわ。それを教えてあげるのが妹の役目だわ」

 そう言いつつも、あの姉に正面から挑むのかと思うと膝が震える思いがした。武芸以外は何をやっても数歩先を歩いていて決して追い付けないように思われた三つ年上の姉に立ち向かうことは、予想以上に勇気のいることだった。それを分かっているのか、お牧は主人を励ました。

「華姫様をお止めできるのは姫様だけです」

「そうね。もう一度お姉様にお会いしてやめるように説得してみる。説得して駄目なら力ずくでもやめさせるわ」

 光姫はこうと決めた時の華姫の意志の固さをよく知っていたので、いざとなったら縛り上げてでも止めるしかないと思った。それこそ光姫にしかできないことに違いない。

 光姫は立ち上がった。

「できるだけ早くここを出ましょう」

 決意すると光姫は早かった。髪に()していた(かんざし)を抜き取ると、牢の格子へ駆け寄って木を削り始めたのだ。お牧も自分の鉄の髪留めを外して加わった。

 やがて日が暮れた。牢の中は真っ暗になったが、見付からずに済むからかえって好都合と、光姫達は作業に精を出した。

 しばらくすると夕食が運ばれてきたので、二人は小さな明かりの下で食事を済ませ、家臣が食器を下げて出ていくと、再び格子に張り付いた。

 木は硬くてなかなか減らなかったが、光姫は根気よく削り続けた。姉が都へ向かって出発する前にここを抜け出さなくてはならない。格子を壊したら、食事を持ってくる者が蔵を開けた隙に脱出すればよい。

 光姫は疲れて重くなった腕を無理に動かしながら、姉を説得する方法を考えていた。

 お姉様が決心を変えなければここに入ってもらうことになるわ。でも、もし抵抗されたら。

 光姫は最悪の場合を想像してぞっとした。

 私にお姉様が討てるのかしら。

 光姫は額の汗をぬぐった。

 とにかく、もう一度会ってもっとよく話を聞かなくてはならないわ。すべてはそれからね。

 そう心を決めて、光姫は木を削り続けた。

 そうして、二人が真っ暗な中で寝ずに作業を続けていたところへ、誰かがやってくる気配がしたのだ。

 ぎぎい、と音を立てて蔵の扉が開いた。月明かりが中に差し込んでくる。

 まさか殺しに来たのかしら。……いいえ、そんなはずはないわ。お姉様の命令は閉じ込めることだったもの。一体誰かしら。

 光姫が布団の中で息を殺していると、密かな足音は真っ直ぐ牢に近付いてきた。

「光姫様」

 若い男の声がささやいた。

「お牧殿も起きて下さい。お逃がし致します」

 光姫は侍女と目を見交わすと尋ねた。

「あなたは誰?」

「槍本景隣と申します」

「景隣さんですって?」

 光姫は布団から飛び出して格子に駆け寄った。蔵の扉の隙間から入り込むわずかな月明かりに浮かび上がる顔は、確かに先程華姫の後ろに控えていた若い家臣だった。

 同じく起きてきたお牧が尋ねた。

「どうしてあなたがこんなことを?」

「お二人はこのままではずっとここを出られません。それではお可哀想なので、お逃がしすることにしたのです」

 景隣は牢の鍵を外して扉を開いた。

「さあ、急いで下さい。見回りの者が戻ってこない内にここを離れましょう」

 光姫はお牧と顔を見合わせたが、すぐに頷いた。牢を出られるならありがたいことだった。

 二人は素早く土間に降りると、蔵の扉のところで外の様子をうかがっている景隣に追い付いた。

「こちらです」

 景隣はするりと蔵から滑り出て、真っ暗な本郭(ほんくるわ)の庭を音を立てずに足早に歩いていく。光姫とお牧も急いでその後に続いた。

 景隣が先行し、手招きを受けて光姫達が駆け寄ることを繰り返しながら、何度か衛兵をやり過ごして、三人は本郭の奥へ進んでいった。

「待って」

 光姫が先を歩む景隣を呼び止めた。

「もしかして、大神(おおかみ)様のお(やしろ)の裏の抜け穴に向かっているのかしら」

 景隣は頷いた。

「はい。そこから外へお出しするつもりです」

 この人がどうして家中でも数人しか知らない秘密を知っているのかしらと光姫は疑問に思ったが、それはとりあえず置いておいて、自分の希望を述べた。

「私は華姉様に会いたいの。お姉様のところへ連れて行って」

「それはできません」

 景隣は首を振った。

「華姫様は光姫様にお会いになりません。いらっしゃっても無駄でしょう」

「私はお姉様に会わなくてはならないの。武守家に盾突くなんて絶対にやめさせなくては。二人で力を合わせて恵国軍を追い払いましょうと説得するのよ」

「それは不可能です。華姫様のお心は動きません」

「どうしてそんなことが分かるの!」

 思わず声が大きくなってしまい、お牧に「しっ!」と言われた光姫は慌てて辺りを見回した。それを景隣は穏やかな目で眺め、静かな口調で答えた。

「華姫様は禎傑様の(めかけ)になられた、と申し上げたらお分かりになりますか」

 言いながら景隣は横を向いて表情を隠した。

「めかけ? めかけとは何かしら?」

 光姫は言葉の意味が分からなかった。首をひねる主人を横目に見てお牧が慎重に尋ねた。

「ていけつ様とはどなたですか」

「恵国軍の総司令官です」

「敵軍の大将の側女(そばめ)になられたのですか!」

 さすがにお牧も声がひっくり返っていた。

「ええっ! 妾! 華姉様が?」

 ようやく意味を悟った光姫は悲鳴を上げた。

「お姉様が妾になるなんてあり得ないわ!」

「事実です」

 景隣は言った。

「九ヶ月ほど前からです。噂だけで実際はそうした関係ではないそうですが、恵国軍ではそれで通っていますし、華姫様も否定なさいません。そうでないと信用されないと」

「そんな! では、泰太郎さんのことは……」

 光姫は絶句した。

「恵国軍の将軍や兵士達の中には司令官をたぶらかす魔の女と陰口をきく者もいますが、華姫様は夫を助けるためにはそれくらいの悪評は甘受(かんじゅ)するとおっしゃいました。そこまでのご覚悟がおありなのです。また、禎傑様も華姫様のご意思を尊重して手を出さず、互いに協力し合っていらっしゃいます。ですから、華姫様は泰太郎様の救出と殺された仲間の復讐を成し遂げるまでは絶対に恵国軍を裏切りません。説得なさっても無駄です」

 重い沈黙が三人の間を流れたが、それを無理に破って景隣が言った。

「さあ、早くお城から出ましょう。いつまでもここにいると見付かります」

「でも……」

 光姫は本郭御殿の明かりに目を向けてためらったが、お牧が言った。

「姫様。ここは逃げることを優先しましょう。きっとまた機会があります。それに、華姫様を説得するには準備が必要のようです」

「お急ぎ下さい」

 景隣も促した。

「分かったわ」

 遂に光姫も承知した。姉にそれほどの覚悟があるのなら、ただ押しかけていっても説き伏せることはできないだろう。

「今は逃げることにするわ。でも、その前に寄るところがあるの」

 光姫が道を戻り始めると、景隣が慌てて追いかけてきた。お牧も怪訝な顔で付いてくる。

「どちらへいらっしゃるのですか」

 光姫は立ち止まり、振り返って景隣に尋ねた。

「銀炎丸はどこにいるの?」

 灰色の大きな狼は本郭の奥の物置小屋にいた。

「暴波路兵達が恐れるので閉じ込めるしかなかったのです」

 申し訳なさそうに説明した景隣が扉を開けると、中から狼が飛び出してきた。

「大丈夫だった?」

 顔中をなめられながら光姫が尋ねると、銀炎丸は激しく尻尾を振った。その温かい体をぎゅっと抱き締めた光姫は、二人に言った。

「さあ、脱出しましょう」

 半刻後、光姫達は具総と別れた丘の上にいた。本郭の抜け穴は、この丘の(ふもと)にある古い寺院の裏庭のお堂の地下室へ繋がっているのだ。

 寝静まった町の中で、穂雲城だけは門前や(やぐら)篝火(かがりび)が燃え、番兵が歩き回っている。闇の中に浮き上がる白壁の城を光姫はじっと眺めていたが、背後に控えていた景隣に体を向けた。

「あなたのおかげで逃げることができました。感謝します」

「いいえ」

 若者は首を振った。

「お礼は華姫様に申し上げて下さい」

「お姉様に?」

「はい。華姫様に光姫様を脱出させよと命じられたのです」

 景隣は手紙を差し出した。

「華姫様からです」

 光姫は急いで封を開いた。景隣が抜け穴を通るために用意した灯りで白い紙を照らしてくれた。

『光子へ。

 私と泰太郎さんが結婚できたのはあなたのおかげでした。その時、私は光子のためなら何でもしようと誓いました。ですからあなたを助けます。

 私は必ず泰太郎さんを救い出し、仲間の(かたき)を討つつもりです。国を裏切り、故郷へ恵国軍を呼び込み、お父様を殺した私はもう引き返すことはできませんが、自分で決めたことですから後悔はしていません。

 ですが、光子はこの件に無関係です。私もあなたを巻き込みたくありません。この手紙を読んだら、すぐに天糸国(あまいとのくに)へお行きなさい。そこで大人しくこの戦いが終わるのを待っていなさい。そうすれば生き延びることができるでしょう。

 そうして、早くよい人を見付けて結婚し、幸せになりなさい。それがあなたにふさわしい生き方です。私は悪人に盗まれた自分の幸福を必ず取り戻します。ですから、光子にもあなたの幸せを手に入れて欲しいのです。

 船出の時にも言いましたが、光子には笑顔の方が似合います。あなたが幸福をつかみ、いつまでも笑顔でいられるように、心から祈っています。

 さようなら。元気でお過ごしなさい。

                    華子』

 光姫の頬を涙が伝った。

「お姉様……」

「華姫様はこの国に戻ってこられてからずっと光姫様のことを案じていらっしゃいました。そのお気持ちがお分かりでしたら天糸国(あまいとのくに)へお向かい下さい。それをお聞きになれば華姫様もご安心なさるでしょう」

 光姫は手紙をぎゅっと握り締めてうつむいた。景隣とお牧は黙って心配そうに姫君の決断を待っていた。

 やがて、光姫は顔を上げた。

「心が決まったわ」

「よろしゅうございました。きっと華姫様も喜ばれます」

 ほっとした顔になった景隣に、光姫は首を振った。

「いいえ。天糸国へは行かないわ」

 光姫は涙をぬぐうと、暗闇に浮かび上がる穂雲城へ目を向けた。

「お姉様の覚悟がよく分かったわ。泰太郎さんを取り戻すために全てを捨てたのね。きっと、夫を助け出したら吼狼国を離れて、どこか遠い国で暮らすつもりなんだわ。もし失敗したら、悪評を一身に受けて死ぬ気なのよ」

 景隣は何も言わなかったが、その沈黙が肯定の印だった。

「だったらなおさら見過ごせない。人々に非難されることに自分から手を染めて、不幸へ向かって歩いていくなんて、全くお姉様らしくない生き方だもの」

 光姫が見合いを始めたきっかけは、船出していく姉が浮かべていた幸せにあふれた笑顔だった。自分があこがれ、周囲の人々を魅了したあの輝きこそ、姉にふさわしい。悲壮な覚悟でこの国を滅ぼす姉の姿など光姫は見たくなかった。

「泰太郎さんを救い出したいのは私も同じよ。でも、やり方が間違っているわ。追い詰められて他に方法がなかったのだとしても、吼狼国の多くの罪のない人々を巻き込んでいいはずがない。何としてもお姉様を止めなくてはいけないわ。そして、それができるのは私しかいない。自分だけ安全なところへ逃げて、嵐が過ぎ去るのをじっと待っているなんてできないわ。妹として無責任だし、第一全く私らしくないわ」

 光姫は景隣の隣に立っている侍女に尋ねた。

「お牧、確か殻相国(からあいのくに)はまだ恵国軍に従っていなかったわね」

「はい、姫様」

 侍女は頷いた。

「では、すぐに月下(つきした)城へ行きましょう。私が殻相衆の指揮をとるわ。お父様が亡くなった今、商家に嫁いだ華姉様よりも、私の方が正統な当主だもの。月下城に籠もって恵国軍を迎え撃ち、高稲半島から先へは進ませない」

「光姫様、お待ち下さい! 華姫様の敵に回るおつもりですか!」

 思わず声が大きくなった景隣に、光姫は言った。

「華姉様に伝えて。お姉様が恵国の味方をして武守家と戦おうとするのなら、私はその前に立ち塞がる壁になると。たとえお姉様と戦場でぶつかることになったとしても、絶対に恵国軍を食い止めてみせる。そして、お姉様を説得して投降させ、梅枝家を滅亡から救うわ。それが逃がしてくれたお姉様のやさしさに対する私なりの答えよ」

 光姫は穂雲城の明かりへ誓った。

「お姉様、待っていて下さい。絶対に私が助けますから!」

 光姫が叫ぶと、主人の様子に何かを感じたのか、五層の天守の上に輝く細い月に向かって銀炎丸が高く遠吠えした。

 光姫は顔を戻して尋ねた。

「景隣さん、あなたは華姉様と一緒に戦うつもりなのかしら」

「はい。私はどこまでも華姫様に従います」

「ありがとう」

 光姫は若者に丁寧に頭を下げた。

「お姉様を頼みます」

「命ある限り」

 景隣はとうに覚悟を決めていることを物語る微笑みを浮かべて約束した。

 しっかりと頷き返した光姫は、もう一度五層の天守を眺めると、くるりと城に背を向けた。

「さあ、お牧、行くわよ!」

 光姫は丘を反対側へ駆け下りながら叫んだ。

「急いで月下城へ入って、どのくらいの武者が残っているかを確かめなくては。私の健在と当主就任を知らせて、まだ逃げている家臣達を集めましょう。天糸国から武者を呼び寄せるのは間に合うかしら」

 銀炎丸がうれしそうに主人の後を追い、景隣にお辞儀したお牧もすぐに続いた。二人の忠実な仲間を連れた光姫は、夜の林の中の一本道を餅分(もちわけ)具総(ともふさ)の待つ豪農の屋敷へ向かって走っていく。景隣はその後ろ姿に深々と頭を下げて、再び抜け穴へ戻っていった。


「そう。光子がそんなことを」

 自室の障子(しょうじ)を開いて細い月を眺めていた華姫は、景隣の報告を聞いてかすかに笑った。

「あの子らしいわ。私の敵に回ると宣言するなんて、光子なりに戦う決意をしたのね。きっと強敵になるわね」

 華姫が浮かべた笑みはどこか寂しげだった。 

「父殺しが言っても信じてもらえないかも知れないけれど、あの子は殺したくなかったの」

「お察しします」

「あの手紙の通り、私はもう戻れないし戻らないわ。でも、あの子には同じ道を歩ませたくなかった。光子には復讐や統国府への反逆のような暗い行為は似合わないもの。あの子にはこれからもずっと日の当たる道を歩んでいって欲しい。景隣さん、本当はあなたもなのよ」

 若者は首を振った。

「私は華姫様のおそばを決して離れません。そう自分に誓いました。どうかいつまでもこうしてお仕えすることをお許し下さい」

「あなたには本当に感謝しているわ」

「もったいないお言葉です」

 頭を下げる景隣に微笑んだ華姫は、立ち上がって文机に歩み寄った。

「おかげで吹っ切れたわ」

 華姫は積んである封筒を一つ手に取り、中身を抜き出して文机の上の灯火にかざした。

「華姫様、その手紙は……」

 火に触れた白い紙はたちまち燃え上がった。文机の上に置かれると激しく炎が広がり、あっと言う間に黒い灰になっていく。

「私は全てを捨てると決意したはずだったけれど、まだ捨て切れない未練が残っていたわ。でも、それももう終わり。光子に会ってよく分かったの。既に私とあの子の生きる世界は違ってしまったのよ」

 わずかに火を残してくすぶっている燃えかすを見つめて華姫は言った。

「だからもう迷わない。過去は全て捨てるわ。思い出はまた作ればいい。泰太郎さんやあなた達と築く新しい未来でね。その邪魔をするのなら、たとえ相手が妹であろうと戦って打ち負かすわ」

 華姫は新しい手紙を手に取り、燃えかすにのせた。再び激しく炎が起こった。その上へ、華姫は次々に手紙と封筒を重ねていった。炎は次第に大きくなり、黒い灰を巻き上げながら文机の上で燃え盛った。

 華姫は泰太郎の手紙を全て火に投じると、光姫の桜色の手拭き布を帯の間から取り出して、しばらく眺めてからそっと火にのせた。

 炎に包まれていく薄桃色の梅花の刺繍(ししゅう)に視線を向けたまま、華姫は背後の景隣に尋ねた。

「あなたは付いてきてくれるわね」

「華姫様のいらっしゃるところなら、どこへでも共に参ります」

 若い武者は主君の背中に向かって頭を下げた。

「ありがとう」

 手拭き布が黒く変わると、華姫は黄金の細い月を見上げた。わずかな光を浴びた白い頬を、涙が一筋伝って落ちた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ