(第三章) 二 後半
華姫達を待っていたのは三台の馬車だった。二台は鉄格子の付いた囚人護送用のもので、家臣達はそちらへ乗れと指示された。華姫だけは上等な箱馬車に案内された。華姫が乗り込む姿を家臣達は不安そうに見送っていたが、急かされて馬車へ入っていった。
華姫の馬車の中には先客が一人いた。四十過ぎの男性の武官で、身なりからするとどうやら将軍らしかった。華姫は何をされるのかと身構えたが、その男は顔を向けて華姫を一瞥すると、関心を失ったように目を閉じた。華姫の後から二人の兵士が乗り込んできて、左右を挟むように座った。
「閣下、出発致します」
将軍に声をかけて外から扉が閉じられ、すぐに馬車は動き始めた。
華姫は向かいに座っている相手をしげしげと観察した。この将軍がどうやら州軍の指揮官らしい。脱出計画を見抜いたのはこの男なのかと華姫は用心したが、将軍は目を閉じたままじっとしていた。
相手に何もするつもりがないと分かると、華姫はどこへ連れて行かれるのかしらと考え始めた。投獄する者をわざわざ将軍と同じ馬車に乗せる必要はないので、向かう先は牢屋ではない。将軍が直々に連行するのだから、それなりに身分のある相手に会うことになるのかも知れなかった。もしかして戴白氏の別宅だろうか。奴隷のかわりに罰を与えられる可能性も考えたが、相手が黙り込んでいるので判断のしようがない。華姫は疑問をいくつも抱えたまま落ち着かない気分で、木の覆いが開かれた小さな窓から後ろへ流れる景色を黙って眺めているしかなかった。
馬車は森を抜けると、畑が続く平地をかなりの速度で突っ走り、二刻ほどで港の町へ到着した。町の門は既に閉じられていたが、近寄ってきた衛兵に御者が何かを言うとすぐに開かれた。
門をくぐったところで、家臣達の乗った馬車が離れていった。仲間の身を案じつつ、この馬車はどこへ向かうのだろうと華姫はますます不安になった。もう真夜中で明かりの灯った家はほとんどない。真っ暗な大通りを馬車はがらがらと音を立てて疾走していく。どこかで鳴き騒ぐ猫の声が妙に耳に残った。
と、急に馬車が止まった。
扉が開き、「降りろ」と言われて外に出ると、そこは町の中心部だった。目の前に高く長い壁と衛兵が立つ立派な門があり、すぐ隣は巨大な州庁だった。
「付いてこい」
馬車を降りた将軍は振り向きもせずにしゃがれた低い声で言って、先に立って歩いていった。将軍が近付くと衛兵が敬礼し、頑丈そうな鉄張りの門が開かれた。中は広い庭のある大きな屋敷だった。暗くて辺りの様子がよく分からないが、華姫の見立てでは、ここはかなり上級の官吏の住居だった。
門をくぐった将軍はどんどん先へ進んでいく。華姫は迷ったが、大人しく付いていくことにした。両脇で兵士が見張っているし、逃げ出しても町の門は閉まっているから朝になるまでこの町を出られない。それに、屋敷の大きさや衛兵の態度からすると、この将軍やこれから会う人物はかなりの大物らしいので、話の分かる相手なら助けを求めることができるかも知れないと思ったのだ。
長い廊下を歩き、中庭をいくつも抜けた末に連れて行かれたのは、かなり広い部屋の前だった。扉は開いていて、真ん中にある大きな四角い机の隅で四人の将軍が椅子に座って酒を飲んでいた。どうやら遅い夕食が終わった直後らしかった。
「ここで待て」
華姫と兵士二人を扉の前に立たせたまま、将軍は中に入っていった。
「上陸場所の地形すら満足に分からぬ土地への遠征など、わしは賛成できませぬぞ!」
食堂の四人は何かの議論をしていたらしく、最も年長の五十代半ばの将軍が大声で叫んだ。
「殿下は確かに武勇にすぐれ、涼霊殿という戦上手を抱えていらっしゃるが、一国に戦を挑むのは簡単なことではありませぬ。もっと慎重を期すべきだとわしは思いますな」
同席している三人の将軍の内、一人がすぐに賛同した。
「頑烈将軍のおっしゃる通りです。綿密な計画なしに攻め込むのは危険ですね」
隣の将軍も頷いた。
「まったくですな。戦場が広い海の向こうでは、失敗しても簡単には退却できないのですからな」
頑烈と呼ばれた将軍は怒鳴るような口調で言った。
「皇帝陛下のご命令が下された以上、今更遠征自体に反対は致しませぬ。逆巻く波濤を越えて遥か遠い異国へ赴くことを恐れているわけでもありませぬ。ですが、わしが六年前突然こちらの軍の副将に任ぜられましたのは、はばかりながら、先代の陛下から殿下の後見役を仰せつかったものと心得ております。無茶をなさるのならば、全力でお止め致しますぞ」
「そう心配することもなかろう。俺とて無謀な企てで命を落とす気はない。この遠征を引き受けたのは成算あってのことなのだ」
三人より地位が上らしい身なりのよい若い男が答えた。
「この作戦は何としても成功させねばならん。そのために何度も議論しているのだ。明日また軍議があるから、問題点があれば、そこで思う様、存念を述べればよい」
「もちろん、そうさせてもらいまする。ですが、わしは今の段階ではこの遠征は実行不可能だと思いますぞ。あまりにも不確定要素が多過ぎますゆえ」
「そうだな。まだ詳細を詰めるには情報が足らんな。あの国について分かったことはどんな小さなことでも知らせろと永京にいる者達に命じてあるのだが、このままではいつ船出できるか目途さえ立たん」
「そうですとも。まずは情報を集めることです」
「全てはそれからですな」
他の将軍二人も賛同した。
そこへ、華姫を連れてきた将軍が歩み寄って声をかけた。
「太守殿下。よろしいですか」
太守と呼ばれたからにはこの州の最高官とおぼしき若い男は、精緻な装飾の施された豪華な椅子に腰かけたまま、酒の入った機嫌のよさそうな顔を将軍に向けた。
「涼霊、今戻ったのか。あの件は終わったようだな」
涼霊という将軍は、右手を心臓に当てて主君らしい若い男に一礼した。
「はい。鎮圧は完了致しました」
「お前には奴隷どもの躾など簡単過ぎたか」
「いえ、そうでもございませんでした。奴隷の指導者はなかなかの人物で歯応えがありましたので」
「ほう。お前の興味を引くような相手なのか。どんな男だ」
若い太守は面白そうに尋ねた。
「それが女なのです」
「女? あの鉱山にか?」
太守は意外そうな顔になった。
「戴白氏が先月の市で気まぐれに買い取った雑用係の女が、故国から同行してきた仲間と協力して奴隷達をまとめていたようです。女は吼狼国人の医者で、奴隷達を治療したことで人気があったとか」
「女の医者とは珍しいな」
「まことに」
無表情に同意した涼霊を、将軍の一人が酔いの回った口調でからかった。
「名軍師と名高い涼霊殿を感心させるとは大した女ですな。さては色香に惑わされましたかな?」
「いえ、敵の行動に一貫した方針と熟慮の跡が見られたということです。奴隷達が夜に密かに坑道から砂を捨てているという報告を聞いた時は、なかなか考えるものだと感心しました。それで、数日の内に脱出を図るだろうと思い、網を張りました。もっとも、私でもそうしただろうと思われる行動でしたので、逆に読みやすかったのですが」
涼霊の答えに太守は興味をそそられたようだった。
「お前がそこまでほめるとは相当な切れ者らしいな。それほどの相手ならば冒進がしてやられたのも仕方あるまい。どんなやつか会ってみたいものだ」
「実は、その女を捕まえて参りました」
涼霊は手で華姫の方を示した。
「聞けば、吼狼国の武家階級の出身で学問があり、恵国語が堪能とのこと。医者ならば知識は豊富でありましょうし、奴隷達をまとめ上げた手腕からすると頭もかなり良い様子。例の計画に必要な情報を引き出すにはうってつけの人材と思われますが」
「なるほど」
若い太守はちらりと華姫に目を向けた。
「よくやった。ここへ連れてこい」
涼霊が振り返って頷くと、両脇を固めていた衛兵が華姫に歩けと促した。
部屋に入っていくと、三人の将軍達は一斉に華姫に注目した。頑烈という男はすぐに不愉快そうに目を逸らして酒を口に運んだが、他の二人の将軍は遠慮のない視線で上から下までじろじろと眺め回した。
それを我慢して胸を張って歩いた華姫は、太守という若者のそばに立たされた。その男はまだ三十にならず、かなり整った容姿をしていて立派な服が似合っていた。武術の腕に自信を持っているらしく、自然な威厳を漂わせていて、教養もありそうだったが、それ以上に、いかにも野心にあふれた挑戦的なまなざしが、この男の印象を決定付けていた。
「お前、名は何と言う」
若い太守は手に杯を持ったまま、華姫を見上げて尋ねた。訛からすると帝都永京周辺の出身らしい。涼霊を見ると頷いたので、華姫は心を決めた。
「華子よ」
「姓は何だ」
華姫は身分を明らかにするか迷ったが、黙っていることにした。信用できる人物かどうか確かめるのが先だった。
「ないのか」
太守はそれ以上追及せず、質問を変えた。
「医者だそうだな」
華姫は頷いた。
「では、学問があるのだな」
再び首肯した。
「吼狼国の地図は書けるか」
華姫はこの質問は少し考えた。
「なぜそんなものがいるの?」
「お前が知る必要はない!」
頑烈という初老の将軍が怒鳴った。
「聞かれたことに答えておればよいのだ!」
「まあ、待て」
太守は頑烈を身振りで制してもう一度尋ねた。
「我々は吼狼国の詳細な地図が欲しい。書けるか」
華姫は迷ったが、頷いた。
「書けるわ。でも、理由次第では書かないわよ」
「奴隷のくせに生意気な!」
頑烈は本気で腹を立てた様子だったが、太守は愉快そうに笑った。
「なるほど、涼霊の言う通りなかなか面白い女だ。尋問のしがいがあるな」
太守は怒りに顔を赤くしている頑烈から目を戻すと、更に質問を続けた。
「では、女。各地の封主家の配置は分かるか」
「分かるわ」
華姫は頷いた。
「貫高や兵数もか」
「貫高が分かれば武者の数は推測できるわ」
華姫は次第に不安になってきた。
「なぜそんなことを聞くの?」
太守の若者はにやりと笑った。
「なぜだと思う」
華姫は先程聞こえていた会話を思い出して顔を強張らせた。
「吼狼国に攻め込むためなのね?」
「そうだ。よく分かったな」
肯定の笑みを浮かべて頷いた禎傑は、黙ってそばに控えていた涼霊をほめた。
「確かに頭が切れるし、知識も豊富そうだ。よい情報源になりそうだな。お手柄だぞ」
「ありがとうございます」
涼霊は無表情で頭を下げた。
華姫は急いで逃げ出そうとしたが、両脇に立っていた兵士に腕を捕まれて無理矢理引き戻された。
「お前には故国を攻略するための情報をたっぷりと話してもらう。大人しく協力すれば奴隷の身分から解放してやってもよい。だが、拒否すれば少々痛い目に遭うことになる」
太守の男は食卓を指差した。
「女、そこへ座れ。腹は減っていないか。飯を与えてやるから、ここで食べながら俺達の質問に答えてもらおう」
「お断りよ!」
両側から腕を拘束されたまま、華姫は太守をにらみ付けた。
「あなたは一体何者なの?」
若い男は不敵な笑みを浮かべた。
「俺は禎傑という。現在はこの南海州の太守、来年は吼狼国征伐軍の総大将になる予定だ」
華姫は自信に満ちたその笑みを見て、目の前が真っ暗になるのを感じた。最悪の相手に捕まってしまったのだ。自分達は国へ帰るどころか、故国を滅ぼす計画に加担させられることになるかも知れなかった。
華姫は深い絶望に襲われたが、すぐに気持ちを取り戻し、若い太守にきっぱりと言った。
「吼狼国の民としてあなたには協力できない。拷問でも何でもするがいいわ。絶対に口は割らないわよ。話の分かる人なら私達を助けてもらおうと思っていたのだけれど、とんだ間違いだったようね」
「なかなか威勢がよいな。だが、その元気がいつまで続くかな」
禎傑は楽しそうに言った。
「女を拷問にかけるのは趣味ではないが、容赦はしないから覚悟しろ……」
そう言いかけて、急に気が付いたように華姫の顔をまじまじと見つめた禎傑は、立ち上がって腕を伸ばした。
「やめて!」
首を振る華姫の顎を押さえて動きを封じると、髪を左右に分けて顔をむき出しにした。
「ほう……」
目を見張った禎傑は、視線を下に移し、衿元へ手をかけてぐいっと引いた。腰の帯一つで止められている小袖の衿がはだけ、華姫の肩の白い肌が露わになった。
「気が変わった」
禎傑は目に好色そうな光を浮かべて言った。
「この女の取り調べは俺がする。風呂に入れ、何か食わせて俺の寝室に放り込んでおけ。逃がすなよ」
「殿下! お戯れが過ぎますぞ! この女、何をするか分からんのですぞ!」
頑烈が腰を浮かせて止めようとしたが、若い太守は笑いながら手でさえぎった。
「大丈夫だ。女一人くらいどうとでもなる。それに、この気の強さは気に入った。従順な女も悪くはないが、たまにはこういうじゃじゃ馬も面白い。今夜はなかなか楽しめそうだ。俺が聞き出せる限りのことを吐かせて、明日涼霊に引き渡そう」
「かしこまりました」
涼霊は表情一つ変えずに心臓に右手を当ててお辞儀をした。
「まったく、お若いとはいえ無茶が過ぎますぞ」
頑烈は呆れ顔になったものの、禎傑の自信にあふれた様子を見て諦めた。
「野暮は申しませんが、くれぐれもお気を付け下され」
それでも一言忠告してから、頑烈は椅子に腰を下ろした。
「連れて行け」
涼霊が命じると、兵士が歩けと小突いた。将軍達のやり取りを真っ赤な顔で目に怒りを浮かべて聞いていた華姫は、若い太守に軽蔑の視線を投げると、両脇から腕を引きずられてやむなく歩き始めた。
華姫は部屋から連れ出され、そのまま長い廊下を風呂場まで歩かされた。兵士達は華姫を扉の中へ押し込むと、外で見張りに立った。出てくるまで待つつもりらしい。先程走っていった者に知らせを受けたのか、中では女中が一人待っていた。
華姫は脱衣所を通り抜けて浴室をのぞいてみた。どうやら客が使う浴場のようで、かなり広い。中央の大きな湯船に熱い湯がたっぷりと入っていた。この地方は年中暑く湯につかって温まりたい気候ではないし、こういう吼狼国式の湯船は大陸では珍しいと聞いていたので、あの禎傑という男の趣味かも知れない。
二つの窓には格子がはめられており、高いところにある空気抜きの穴も小さくて人は通れない。外の焚き場へ出られるらしい板戸を押してみたが、案の定開かなかった。
閉じ込められたことを確認して、華姫は覚悟を決めた。風呂に入らないと抵抗しても意味がないし、兵士達に無理矢理服をはぎ取られることにもなりかねない。それに入浴は久しぶりだったので、どうせならさっぱりしておこうと思ったのだ。思い切ってぼろぼろになっていた橙色の小袖を脱ぐと、女中がつまんで拾い上げた。捨てるつもりらしい。棚に新しい着物があったので、出たらそれを着ろということのようだった。
浴室に入った華姫は、ほぼ二ヶ月ぶりに温かい湯を浴びた。鉱山では兵士の目があって川で水浴するわけにはいかなかったので、濡らした布で体を拭くことしかできなかったのだ。女中が入ってきて手伝おうとしたが、それを断って、華姫は自分で体を洗った。
吼狼国では貴重品の石鹸があったのでありがたく使わせてもらうことにしたが、質の高さに驚いた。泡がとてもよく立ち、ふわふわしてなめらかなそれで肌を軽く撫でただけで驚くほど汚れが落ちて、流した後もさっぱりしている。色は真っ白で花の香りがし、形もほころぶ寸前のつぼみを模してある。恵国の石鹸が全てこうだとは思わないが、吼狼国で使っていたものは高価なのに黄色っぽくって硬く、繰り返しこすっても少ししか泡が立たなかったことを思い出して、技術の差を痛感した。
ゆっくりと時間をかけて、華姫は肌にたまった航海と労働の垢を丁寧に落としていった。顔と手足は日に焼けていたが、ずっと着物を着ていたので体のほとんどは白いままだった。泡立てたへちまで夫でない男のために肌を磨きながら、華姫はこれからどうするかを思案した。
あの将軍達は吼狼国を侵略するつもりのようだが、そんなことに協力はできなかった。太守に抱かれてやるのは論外だ。華姫には夫がいるのだから。それに、仮に聞かれたことを全て話したとしても、解放はされないだろう。知りたいことは次々に出てくるはずなので、きっと理由を付けて留めようとするに違いない。そうして、故国が滅亡するまで利用され続けるのだ。華姫は自分の情報源としての価値の高さをよく知っていたから、その知識が敵に流れることを思うと体が震えた。だが、華姫が拒絶すれば、家臣達がどんな目に遭うか分からない。
そう考えつつも、久しぶりに熱い湯につかると、ほっとした気分になったのは事実だった。体からこれまでの疲労が溶け出していくようだった。十人は入れそうな広い湯船には名を知らぬ大きな白い花がいくつも浮かべられ、その香りが湯にも移っている。高い天井には湯気が籠もり、浴室を照らす灯火がかすかに揺れていた。
華姫は湯の中でこの二ヶ月の間に随分荒れてしまった両手を眺めて家臣達を思った。
ここで死ぬわけにはいかないわ。何とか脱出して仲間を救いに行くしかない。もしそれに失敗しても、情報は絶対に話さない。
そう決心して、華姫は湯から上がった。
脱衣所へ戻り、差し出された大きな布で体を拭くと、新しい着物を渡された。上質な絹の寝間着で真っ白だった。もちろん恵国風の仕立てだ。
小袖は処分されてしまったので、仕方なく袖を通して帯を締め、用意されていた室内靴を突っかけると、女中は華姫を椅子に座らせ、髪を拭いて櫛を入れた。
壁には玻璃の鏡があった。立って全身が映るほど大きなもので、華姫は驚いた。吼狼国ではまだ鉄板や銅板を磨いた鏡が主流で、玻璃のものは滅多にない。大封主家の梅枝家には玻璃の手鏡があったが、馬一頭よりも高価だと聞いていたので、華姫は恵国の技術に感心してじっくりと眺めた。
女中は髪を結おうとしたが、華姫は断った。肩までしかない髪では髷は結えないし、結う必要もないと思ったからだ。女中は少し迷って頷き、髪を中央で分けて整えると、華姫を促して部屋を出た。
廊下で待っていた兵士二人は、見違えるように美しくなった華姫に目を真ん丸にして顔を見合わせたが、黙って左右に付いて歩き出した。
連れて行かれたのは広い食堂だった。宴会にでも使う場所なのだろう。長い卓の端の椅子を示されて腰を下ろすと、次々に料理が運ばれてきた。そばで女中が給仕してくれる。華姫はかなり空腹だったので、どこかに閉じ込められているはずの家臣達には申し訳ないと思ったが、体が動かなくては何もできないと考えて腹ごしらえすることにした。
食べ始めると、思った以上に飢えていたらしく、久しぶりのまともな食事に体が喜ぶのが分かった。初めて口にする香辛料を効かせた辛い料理を慌てずに行儀よく食べながら、吼狼国の素材の味を重視した淡泊な料理を思い出して懐かしくなった。
食事が終わると茶が出され、それを飲み終えると、再び兵士に囲まれて廊下へ出た。
少し歩いて階段を上り、凝った作りの木の扉の前まで来ると、兵士達は華姫を中に入れ、背後から戸を閉めた。そのまま外で見張りに立つらしかった。
そこは思ったよりも質素な部屋だった。漆喰の壁に張り付けてある遥か東方の国のものとおぼしき極彩色の織物と、反対の壁の縁取りが金細工の大きな玻璃の鏡と、豪華な寝台と夜具以外は特に高価そうなものはない。寝台の脇で、背もたれと座面に布を張った座り心地のよさそうな木の椅子が二つ、小さな丸い卓を挟んで向かい合っているのは、酒を飲む時にでも使うのだろう。立派な作りだが実用品の書き物机といくつかある棚はきちんと整理されているので、どうやらあの禎傑という男はかなりのきれい好きらしかった。
奥の壁際に黄金色の鎧が置いてある。そばには真っ赤な厚地の垂れ布が支えのある棒につるされていた。金の鎧など重くて非実用的だから鍍金なのだろうが、灯火一つのほの暗い部屋の中でも明るく輝いて存在を主張していた。金と赤の組み合わせは戦場で相当目立つに違いない。よく見るとあちらこちらに修繕した跡があるので、かなり使い込んでいるらしい。となると、あの若い太守は戦場慣れした本物の武人なのだろう。一方、大きな本棚には華姫も読んだことのある経世学や軍学の書物がぎっしりと詰まっていて、なかなかの勉強家でもある様子がうかがえた。
鎧の横に、長剣が二振り、細身の短剣が一振り置いてある。その内、柄の尻に真珠が三つ埋め込まれた短剣をそっと鞘から抜き取り、枕の下に隠した。それを使って禎傑を人質に取るつもりだった。二人きりになるのだから丁度よい。太守の命を握れば家臣達を救い出すことくらいわけはない。あの男はかなり腕が立ちそうだがやるしかなかった。
寝台に腰掛け、絹布団に手を置いて、華姫は夫を思った。
泰太郎さんと結ばれるはずが、こんな格好で他の男の寝室に入ることになるなんて。
夫が海に消えた時のすがるようなまなざしを思い出して、華姫は指輪のない左手を見た。
私は泰太郎さんの妻よ。この身は夫だけのもの。あの男の好きにはさせない。
華姫は夫の救出と漂流のきっかけを作った者達への復讐を改めて誓い、どんなことをしても逃げ延びようと覚悟を決めた。
扉が開き、禎傑が入ってきた。
盆を持った女中を従えた若い太守は、部屋に足を一歩踏み入れて華姫の姿に目を見張った。一瞬立ちつくした禎傑は、すぐに我に返り、ぎらぎらする目で華姫をじろじろと見回した。
「ほう、これはなかなかではないか」
女中は急須のような形の陶製の酒入れと二つの小さな深い杯を小卓に置くと、お辞儀をして部屋を出て行った。酒は冷やしてあるようで、漂う香りで景隣の手術に使ったものだと気が付いた。吼狼国ではどぶろくという濁り酒が主流だが、恵国では高黍を原料に蒸留という手法を使って水のように澄んだ強い酒を造る。それを吼狼国では透景酒と呼んで珍重し、主に医師が治療用に使っていた。
禎傑は小卓に歩み寄って椅子に腰を下ろし、杯に酒を注ぐと、くいっとあおった。そして、逸る心を落ち着けるように深い息を吐き、「まずは尋問だったな」とつぶやいてから、華姫に目を向けた。
「女、お前は吼狼国のどの辺りの生まれだ」
寝台の端に座って身構えていた華姫は、戸口への距離を横目で測りながら答えた。
「高稲半島よ」
「高稲というと、前足か」
「そうよ」
「なんだ、違う地方の出身か」
禎傑は急に興味を失ったように見えた。
「では、後ろ足、長斜峰半島と言ったか、あの辺りのことは知らないのだな」
華姫は頷いた。禎傑は、ふむ、と言って少し考えてから、再び尋ねた。
「玉都へ行ったことはあるか」
「あるわ」
華姫の返事に禎傑は身を乗り出した。
「どれほど大きい。この町より大きいか」
「ずっと大きいわ」
華姫は慎重に答えた。あまり重要な情報を与えるわけにはいかない。
「どのくらい都に詳しいのだ。都の地図は書けるか」
「大まかなものなら書けるわ。でも、書かないわよ」
華姫が言うと、禎傑は愉快そうな顔になった。
「書いた方が身のためだぞ」
「それでも書かないわ。情報も話さない。国を売るようなことは絶対にしないわ。貴方が吼狼国人をどう思っているかは知らないけれど、私にも誇りがあるの。思い通りにはならないわよ」
「心意気は買うが、それは無理だ。それに、お前が話さなくても他のやつに聞けばいいだけだ。例えばお前の仲間の吼狼国人とかな」
禎傑は再び杯に酒を注ぐと、華姫の美しい顔をじろりと見た。
「彼等は全員投獄した」
そう言って反応をうかがう。
華姫は想像通りとはいえ恐怖と嫌悪で寒気がしたが、拳を握ってそれに耐え、首を振った。
「だとしても、国は売らないわ」
「暴動を起こして奴隷どもと鉱山を占拠したそうだな。馬鹿なまねをしたものだ。そんなことを許していてはこの町の銅銭造りは成り立たん。反抗する者には厳しい罰が与えられて当然だ」
禎傑は再びくいっと杯をあおると、かん、と音を立てて卓に置いた。
「お前が情報提供を拒めば、その連中が痛い目を見ることになる。鞭で打たれる程度ではすまんぞ」
立ち上がって近付いてくる。
「漂流して異国で苦しんでいる私達を助けて欲しい、と言っても無駄なのかしら」
華姫は視線で押し戻そうとするかのように相手の黒い瞳をぐっと見返した。
「お前次第だな」
目の前に立った禎傑は、上から見下ろして答えた。
「条件は?」
華姫は相手の顔へきっとしたまなざしを注いだまま、片足を寝台の上へそろりと持ち上げた。
「吼狼国の情報提供だ。お前の知っていることを全て話せ。そして」
禎傑は手を伸ばし、後方へ逃げようとした華姫の左腕をつかんで引き戻した。
「今ここで俺の意のままになれ」
華姫は目の前に迫った禎傑の顔をにらみ返した。
「お断りするわ」
禎傑は不敵に笑った。
「言っただろう。気の強い女は嫌いではない。力ずくというのもたまには面白そうだ。だが、脅して従わせるのはあまり好きではないな。それは宮廷の汚い連中のやり方だ。だから、ここは一つ取引をしよう。お前は俺に身を任せ、情報を提供する。俺はお前と仲間達の命を救ってやろう。どうだ、悪い条件ではあるまい」
「いやよ。情報も私自身もあなたには渡さない。仲間は自分で助け出すわ」
「どうやって?」
面白そうに言って寝台に上がってきた禎傑は、後ろへ下がろうとした華姫を強力で布団の上に押し倒し、つかんでいる細い左腕を布団に押し付けた。
「脱走して捕まった奴隷は磔にするのが鉱山の掟だ。お前も見ただろう、坑道の前に十字の柱が何本も立っているのを。だが、ここで俺に協力すれば助けてやろうと言っているのだ」
禎傑は目をぎらつかせて、四つん這いになった膝で華姫の足を無理矢理割ろうとした。
「言っておくが、抵抗するだけ無駄だぞ。俺を押しのけても部屋の前には衛兵がいる。門にもだ。この町の中にどれほどの兵士がいると思っている。お前は決して逃げられない」
華姫は男の整った顔をにらみ付けながら、右手を枕の方へ伸ばした。
「できれば自分から受け入れてもらいたいが、お前が抵抗するなら仕方がない。このまま着物をはぎ取るまでだ。俺はこれまでねらったものは必ず手に入れてきた。今はお前が欲しい。こんな気持ちは久しぶりだ。お前は何かが普通の女と違う気がするのだ」
唇を華姫のそれに押し付けようとする。
「そこまでよ!」
華姫は顔を横に向けて避け、枕の下へ右手を突っ込むと、短剣の柄を握り締めて、「やあっ!」とかけ声をかけて禎傑の首筋へ思い切り突き出した。
「おっと、危ない」
禎傑はつかんでいた手を離し、身を反らしてよけた。華姫は素早く上半身を起こして禎傑の首筋に剣を突き付け、両手を上げた相手を脅しながら左へどかせた。だが、華姫が足を引き寄せ、左手を支えにしゃがんだ体勢になろうとして布団の柔らかさによろけると、その一瞬の隙を付いて、禎傑は華姫を右手で軽く突き飛ばした。
背中から布団に倒れた華姫は、伸びてきた両手を短剣を振るって退けると、一瞬迷った後、寝台の上で立ち上がった。圧倒的な腕力の差を悟り、人質に取ることは諦めてこの部屋から逃げ出そうとしたのだ。
だが、禎傑は座ったまま左腕を伸ばし、寝台を飛び降りようとする華姫の剣を持った方の腕をつかんで引き戻すと、体勢を崩して倒れ込んでくる華姫を胸で抱き留めた。禎傑はそのまま右にくるりと体を回転させて仰向けになった華姫に覆い被さり、腰の上に馬乗りになって、目をねらって突き出した左手も捕まえると、両腕を布団に押し付けた。華姫は必死でもがいたが禎傑が強く腕を握ると手がしびれ、剣をもぎ取られてしまった。
禎傑は短剣を部屋の隅に放り投げると、荒い息をしている華姫を見下ろして不思議そうに尋ねた。
「どうしてそこまで抵抗する」
禎傑は不可解だが興味深いものを見るような顔をしていた。
腰の上に男の重い体をのせて華姫はしばらく黙っていたが、横を向いたまま小さく答えた。
「夫がいるの」
「吼狼国にいるのか」
華姫は頷いた。
「そのはずよ。行方不明なの」
「行方知れずの夫になぜそれほど貞節を守るのだ」
禎傑はまだ納得できないようだった。
「どこにいようと夫は夫よ。私の夫はあの人だけだわ」
「立派な心掛けだが、それではお前もお前の仲間も拷問されて死ぬことになるぞ」
「死なないわ」
「ほう。どうする気だ」
華姫は答えなかった。禎傑は笑った。
「まだ逃げる気なのか。大した根性だが、さっきも言った通り、ここから逃げ出すのは不可能だ。諦めろ」
華姫は首を振った。
「何としてもここを抜け出して、仲間を助けに行くわ」
「何のためだ」
「全員で国に帰ると約束したの。そして、一緒に救出と復讐を果たすのよ」
「救出と復讐? 誰のだ」
「夫と殺された仲間のよ」
禎傑は黙って華姫の顔を見つめていたが、手首をつかんでいた手を離した。
「お前の事情に興味が湧いた。話してみろ。逃げないと約束すればどいてやる」
華姫は少し考えてから頷いたので、禎傑は布団の上で立ち上がって華姫から離れ、部屋の隅へ行って短剣を拾って鞘に戻してから、小卓の椅子の片方に座って手招きした。体を起こした華姫はちらりと戸口の方を見たが、寝台を降りて向かいの席に腰を下ろした。
禎傑は陶製の小さな器に酒を入れて華姫に渡し、自分の杯にも酒を注いだ。
「どういう理由でこの国に来ることになったのか、最初から話してもらおうか」
華姫は受け取った杯に目を落とし、口に近付けて少しだけ酒を含んだ。透景酒の舌を焼くような強さと芳醇な香りは強烈だったが、華姫はそれをぐっと一息に飲み干し、酒器を置いて語り出した。
華姫が泰太郎とのなれそめや漂流の様子を語っている間、禎傑は眉を上げたりひそめたりしたが何も言わず、ただ時々酒を注いでやった。華姫は夫が海に飛び込んだ場面では声を詰まらせ、自分達を虐げた者達への怒りは隠さなかったが、涙を流したり激昂したりはせず、努めて冷静に語った。
聞き終えた禎傑は、杯を持ったまましばらく黙って華姫の美貌を見つめていた。
やがて酒を飲まずに小卓に置くと、若い太守は確認するように尋ねた。
「つまり、お前は封主家の姫君なのだな?」
華姫は頷いた。
「そうよ」
「どこの家だ」
「梅枝家よ」
華姫ももう隠すつもりはなかった。
「うめがえ? 聞いたことがあるな。確か国王の関係者だったはずだが」
「それは姉よ。元狼公の妻なの」
「ほう……」
禎傑は驚いた様子だった。
「梅枝家の領地の広さはどれくらいだ」
「田美国、殻相国、天糸国の三ヶ国計八十七万貫。天下第三位の大封主よ」
「その地名なら知っている。確か田美国には銀山があったな」
「ええ、あるわ」
禎傑はじっと華姫を見た。
「ということは、お前は吼狼国の支配者の妻の妹で、最も力のある封主家の一つの姫君というわけか」
「そうなるわね」
禎傑は考え込み、しばらくして顔を上げると、酒で口を湿らせている華姫をまじまじと眺めて真面目な表情で尋ねた。
「もし、仮に、お前が無事にここを脱出して仲間を助け出すことができたら、それからどうする」
「さっき言ったわ。国に帰って夫を救出し、復讐を果たすのよ」
「それは無理だ」
禎傑は首を振った。
「気持ちは分かる。その根性も認めよう。だが、実行は不可能だ」
禎傑は先程までの不敵な様子とは打って変わった深刻な口調で言った。
「俺はお前を知ってしまった。恵国語が話せて、吼狼国の地理や政情に詳しく、都に旅したことがある人物を手放すことなどあり得ん。情報源としても貴重だが、大封主家の姫君となれば人質としても役に立つ。まさか元狼公の身内とはな」
若い太守はそれが残念なことであるかのように口にした。
「その上、お前は俺達の計画に感付いた。宮中でもまだ一部の者しか知らない極秘の作戦にだ。これが吼狼国に伝われば大変なことになる。絶対にお前を逃がすわけにはいかん。上手くこの屋敷を抜け出せても、町からは出さん。城門を閉め、港の船を全て止めてでも捕まえる。お前の家臣達を人質にしてもよい。俺は遠征を成功させる。誰にも邪魔はさせん。どうしてもここを出て行くというのなら、鎖で繋いで牢に入れるまでだ」
禎傑は感情を無理に押し殺したような低い声で語り続けた。
「お前は手足に枷をはめられて監禁される。自殺もできない。そうして情報を吐かされる。お前が話さなければ、家臣達を目の前で拷問にかけてもよい。武家の男が相手なら遠慮はいらんからな。もしくは、お前を拷問にかけると言って家臣達に口を割らせる方法もある。どちらも俺の好みではないが、数万の軍勢の生死と一国の運命がかかっているとあっては遠慮などしていられん」
言葉通り、禎傑は必要ならそういう手段をためらわないだろうと華姫は思った。
「そして、情報を話してしまえば、お前も家臣も国に帰れなくなる。帰っても裏切り者として殺されるだけだからだ。吼狼国の民は外国の軍勢に協力したお前達を憎むはずだ。民は自分達の暮らしの平穏や幸福を脅かす者を許さない。また、権力者達もお前達を非難し、処罰しようとする。国の威信だの民のあるべき姿だのを偉そうな顔で語る者達は、自分達に損な行動をする者がいれば、どんな過酷な境遇に置かれ、どれほど悩み苦しんで仕方なくしたことであろうと、同情など一切せずに断罪する。そういう人物ほど、自分や仲間の地位や家族や財産を守るためには不正な手段をなりふり構わずに使うものなのにな。自分のことでないなら、人はいくらでも偉そうなことが言えるのだ」
次々に告げられる恐ろしい事実に、華姫は黙って耳を傾けていた。
「分かっただろう。お前はもう、国に帰って夫を救うことはできない。この国で俺に飼われ、俺に従って生きるしかない」
華姫は全てはとっくに覚悟していたことだというように、硬い表情で若い武人の顔を見返した。そのまなざしを受け止めて、禎傑は深い声で言った。
「だが、もう一つだけ道がある。国に帰ることができ、夫の救出と仲間の復讐をすることが可能な道だ」
華姫は一瞬考えてそれに気付き、一層顔を強張らせた。
「華子と言ったな。お前、俺の女になれ」
禎傑は華姫の美しい顔を見つめて真剣な表情で言った。
「俺はお前が気に入った。お前は俺にその美貌と才知を提供しろ。そうすれば、俺はお前を吼狼国へ連れて行って、救出と復讐を手伝ってやろう」
沈黙している華姫に構わず、禎傑は話を続けた。
「俺は近々吼狼国へ攻め込む。これは確定している。お前が口を割る割らないに関わりなくだ。だから、俺は今、吼狼国の情報がのどから手が出るほど欲しい。地理や地形、各地の気候や風土や産物、封主達の配置や保有戦力など、知りたいことは山ほどある。お前がその情報を提供し、俺の吼狼国遠征に手を貸すのなら、俺はお前を救い、お前の目的に協力しよう。お前の家臣達も奴隷から解放し、国へ返してやる。今すぐは無理だが、攻め込んだ後なら帰国させても問題はない。どうだ。悪い話ではなかろう」
華姫は死刑を宣告されたような顔つきで首を振った。
「駄目よ。そんな話には乗れないわ」
禎傑はその反応を予想していたのか、華姫に問いかけた。
「では尋ねるが、もし国に帰れたとして、お前はどうやって夫を救出するつもりなのだ。船で連れ去られたのなら、捜索は困難を極めるはずだ。大灘屋はお前の夫を見付からぬところに隠すだろうし、絞り吹きという技術が完成したら殺してしまうに違いない。また、復讐の方もそう簡単にはいくまい。黒幕の高官は恐らくかなり地位が高い。外様の梅枝家が統国府に訴えても握りつぶされるだけだろう。よほどはっきりした証拠がなければ失脚させることすら難しいに違いない。鳴沼家も同じだ。実行役の彼等を調べられては困るから、高官は全力で守るはずだ。かといって、隣国を攻め滅ぼしたりすれば、大封主の梅枝家とて厳罰は免れまい。お前の姉の夫も、話を聞く限りではあまり当てにはならなそうだ。梅枝家が銀の質に文句を付けられた時は結局負けているではないか。それとも、家臣達に暗殺でもさせるつもりか。だが、中央の高官や封主家の当主を討ち取るのは至難の業だぞ。お前達も無傷とはいくまい」
「そんなことはしないわ」
そう答えたが、華姫の瞳はわずかに揺らいだ。一つの可能性としては考えていたことだったのだ。
「ふむ、家臣達を巻き込むのはいやか。彼等にはその後の人生もあるからな」
禎傑はじろりと華姫を見た。
「お前は救出と復讐を遂げた後どうするのだ。やはり商人になるつもりか」
「それが希望だけど、どうなるかは分からないわ。あの人と一緒にいられるなら私はどこでもいいの」
「だが、封主を暗殺したとなると、吼狼国にはいられまい。またこの国に来るつもりか」
華姫は答えなかった。はっきりと決めてはいなかったが、あり得ることだった。
禎傑は分からんと言いたげに大げさに首を振った。
「そこまでの覚悟があるのなら、なぜ俺の提案を受け入れない。俺に手を貸せ。俺を利用しろ。俺なら手を組む相手として申し分ないはずだ。逃げないと約束すれば、この町では自由にさせてやる。家臣達も国に帰すまで十分な待遇を約束する。もちろん、吼狼国征服がなった暁には十分な報酬を与え、安全に生活できるように保護してやる。どうだ、破格の条件ではないか」
「それでも国は裏切れないわ」
華姫が答えると、禎傑は困ったように両手を広げてみせた。
「となると、お前も家臣達も拷問に遭うことになる。お前のような貴重な情報源を殺すほど俺は愚かではない。死なない程度に痛め付けて、じっくり聞き出してやるさ。だが、お前のような美しい女を拷問にかけるのは正直気が進まん」
禎傑は身を乗り出した。
「俺に協力しろ。どうせ情報は話すことになる。結果は同じなのだ。だから、ましな方を選べ。さっきも言ったが、俺はお前が気に入った。お前の美貌も、知恵や知識もだが、覚悟を決めて動じないその気構えが特に気に入った。それほどの不幸に遭いながら、これほど追い込まれながら、なお誇りを失わない気高さに俺は惚れたのだ。普通の女ならば泣いてすがるか自分から媚を売ってくるだろうが、お前は違う。俺は女を対等の話し相手と認めたことはなかったが、お前にはその資格があるようだ。俺はお前を配下に加えたい。丁度吼狼国語の通訳が欲しかったところでもある。お前がこの提案を呑んで俺に協力するのなら、ここで俺に抱かれろ。それをお前が俺に従う証とする」
「夫を裏切れと言うの」
「そうだ」
禎傑は真顔で頷いた。
「それくらいでないと信用できないからな。お前は今、夫のために必死で抵抗した。そういう操の堅い女なら、自分の男になった俺も裏切らないだろう。それに、俺の女になれば恵国に味方したと見なされて国に帰れなくなり、俺に従うほかなくなる」
禎傑は笑った。
「安心しろ。俺は自分の女を大事にする。将軍達もお前に一目置くはずだ。これはお前が我が軍に加わるために必要なことでもあるのだ」
華姫はためらっていた。これは悪鬼の誘いだった。乗ればどれほどの不幸の原因になるか分からない。それに夫以外の男を受け入れるつもりは全くなかった。だが、泰太郎の救出と死んだ者達の復讐を果たすには、他に道がないことも明らかだった。
華姫は死は怖くなかった。拷問は恐ろしいが覚悟はできていた。だが、拒否すれば家臣達まで悲惨な運命に見舞われる。彼等は華姫を信じて州軍に身柄を預けてくれた。逃亡することもできたのに、奴隷達を見捨てたくないという意地に付き合わせた結果、家臣達を犠牲にするのは、それこそ、華姫の誇りに関わることだった。
それに、このままでは彼等を国に帰すという約束を守ることは難しい。華姫は自分は無理でも、せめて艱難辛苦を共にしてきた仲間達は家族の元へ戻してやりたかった。それには、もうこの誘いに乗るしか方法がなかった。
禎傑は華姫の心が揺らいでいることを見抜いて笑みを大きくした。
「分からんか。お前を俺に売り付けろと言っているのだ。考えても見ろ。お前の情報次第で作戦が変わる可能性さえあるのだからな。それとも力ずくで俺の女にされたいか。さあ、覚悟を決めろ」
「やっぱり駄目よ」
華姫は首を振った。
「あなたは無謀過ぎる。吼狼国は恵国ほどではないけれど大きな国よ。八十国二千万貫の国を簡単に征服できるはずがないわ」
「俺とて勝てぬ戦はしない。吼狼国の封主達を圧倒するだけの大軍を準備している。恵国は今回の遠征に十五万の兵を派遣するつもりでいると言ったら分かるか」
「十五万人……」
華姫は口にして戦慄した。武守家ですら総武者数が六万五千なのだ。梅枝家など到底相手にならないだろう。
「本気なのね」
「無論だ。恵国の全軍の五分の一を俺が預かることになっている」
頷いた禎傑は一瞬ためらったが、続けてこう言った。
「これはまだ涼霊ほか数人しか知らないことだが、おれは吼狼国を征服したら自立するつもりだ」
「国王になろうというの」
禎傑は肯定した。
「そうだ。俺はこの国を出て、俺だけの新しい国を手に入れる」
「吼狼国の民は恵国人の王など受け入れないわ」
「宗皇に俺を吼狼国の治政者として認めさせればよい。吼狼国の政権は代々そうして権力を公認されてきたそうではないか」
華姫は絶句した。
「武守家が吼狼国を支配できるのは、宗皇によって統国大元帥に任命されたからだと聞いている。ならば、俺をその職に任じさせればよい」
それは違うと反論しかけて、華姫は口をつぐんだ。皇家の影響力は侮れないことを知っていたからだ。
伝説では、初代宗皇初大皇は妻の始女皇と天下を協力して治めていたが、亡くなる時、その仕事を二人の子供に分けて継がせた。姉の空雲皇女に狼神を祭る役目を、弟の森原皇子に民と大地を治める役目を与え、互いにそれに専念して相手に干渉しないことを誓わせたのだ。
皇家が空と地の二家に分かれて数百年が過ぎた頃、森原皇子の系統が争いと混乱の末に絶えた。だが、時の空の宗皇は政争に巻き込まれることを恐れ、初大皇への誓いを持ち出して自分の子を養子に出すことを拒み、地の皇家の遠縁の賢者を治天最上大臣に任じて政治を行わせた。以後、皇家は一系統となり、政権の最上位者が交代する時は、真澄大社の最高官である宗皇と見守る公家達や民の前で、神と民と国のために政を行い私利私欲に走らないことを誓うのが慣例になっている。
宗皇は聖なる血筋を守るため、時の政権に逆らわない。全国を支配する実力者であれば、叙任する相手に文句を付けることはしない。よって、理屈上は、国内を武力で平定して宗皇の承認を受ければ、吼狼国を統治しても問題がないことになる。
「俺は国王の称号にはこだわらない。実質的に支配できればよい。俺が宗皇を倒して国王になろうとすれば吼狼国人は大いに反発するだろうが、皇家を尊重してその下に付けば文句を言いにくくなる。宗皇の臣となった俺に刃向かう者は吼狼国王の敵だ。封主達もおいそれとは反抗できなくなるだろう」
そう上手く行くとは思えなかったが、禎傑も分かっているはずなので、華姫は別な疑問を投げかけた。
「でも、自立なんて、恵国が認めるわけないわ。そちらはどうするつもりなの」
「吼狼国には銀がある。銀を送らないと言えば宮廷は慌てるはずだ。銀の安定供給を交換条件にすれば、独立を認めさせることは可能だろう」
銀を握ってしまえば恵国は恐くないと禎傑は言った。
「恵国には銀が必要だ。混乱した経済を立て直すために大量の銀がいるのだ。この町の様子を見たか。多くの貧民がたむろしていたろう。俺は善政を布いていると讃えられ、よその土地から来た者はこの町は治安がよいと思うらしいが、それでも盗みや人殺しが頻繁に起こる。その理由は長く続く戦乱と貨幣価値の暴落だ。無能な将軍どもと粗悪な銀貨を作る大商人達のせいで多くの民が苦しんでいるのだ。俺はそれを正したい」
華姫は奴隷市で売られていた恵国人や、政資と逃げていた時に路地裏で出会った貧民を思い出した。
「俺は吼狼国を占領したら全ての銀山を直接支配して隆国への流入を止め、恵国に十分な量を輸出するつもりだ。銀の交換比率も改訂し、価格を下げて安定させ、恵国経済の再建を支援する。銀以外の貿易も更に活発にし、吼狼国商人や大商人達の横暴を取り締まり、恵国の民に利益が還元される仕組みを作る。そうやって民を救い、隆国との戦いに協力することで、独立を大目に見てもらうのだ。両国が互いを必要とし合うようになれば、恵国も簡単には手が出せなくなる。それに、俺が自立すれば、俺を司令官に推した大商人達や、やつらと結んでいる宮廷の豚どもは慌てるはずだ。改革派が本気ならば、政変が起きるだろう」
「そこまで考えてあるのね」
「当然だ。俺は侵略して奪った財宝で贅沢三昧の暮らしを送ろうなどと考えるような連中とは違う。俺は既に富豪で、快楽も十分享受できる立場にいる。そんな目的のために出世してきたのではない」
禎傑は拳を握り、声に力を入れた。
「自分の利益しか考えない者達に治められる民は悲惨だ。長引く内戦と経済の混乱で恵国の民はひどく苦しんでいる。俺はそれを変えたいのだ。両国にとって利益のある関係を作り、次の発展へと導く。それこそが俺の目的だ。理想論だと笑うか」
「いいえ」
華姫が首を振ると、禎傑はうれしそうに笑った。その笑みを眺めながら、華姫はこの人の考えは泰太郎さんの夢と似ているわと思った。二人で夢を語り合った日々が思い出されて、胸が締め付けられた。
華姫のそんな思いには気付かずに、禎傑は語り続けた。
「これを実現するには大量の銀が必要だ。銀が成功の鍵なのだ。お前の夫が発見した絞り吹きという技術は素晴らしい。銀の生産量が一気に増え、貿易の振興に大きく寄与するだろう。是非詳しく知りたいものだ」
禎傑は子供のように好奇心と征服欲に目を輝かせていた。
「俺はどうしても銀を手に入れたい。だが、逆に言えば欲しいのは銀だけだ。米には興味がない。銀山と主要な港を押さえ、貿易を管理してそこから利益の一部を吸い上げ、武守家の領地を没収すれば、十五万の軍勢を養うには十分のはずだ。その他の土地については、封主どもにそのまま治めさせてやってもよいと思っている。ただし、その統治には目を光らせる。お前の敵の小封主のような連中には容赦しない。俺は貧乏には随分苦しめられたから、そういう国の民の気持ちはよく分かるのだ」
「あなたが?」
華姫が尋ねると、禎傑は頷いた。
「子供の頃、俺の家は隆国の独立で北方にあった領地を失って没落した。焦って博打に手を出した祖父が無法者に殺された後は、もうひどいものだった」
祖父の死後、一文無しで残された母を養ったのは十三歳の禎傑だった。知り合いの家を回って屈辱的な扱いに耐えながら簡単な仕事をもらい、わずかな駄賃を稼ぐことで生き延びたのだ。
「生きることに必死だったその頃の俺が一番許せなかったのは、帝都永京の高官達だった」
悪政で内乱の原因を作った者達が立派な屋敷に住んで贅沢な生活をしていることが、幼い禎傑には我慢ならなかった。有能な人物なら高潔でなくとも大目に見ることができたが、実際には保身と金銭欲と現世の快楽しか頭にないような人物ばかりが都で力を持ち、国を支配していたのだ。彼等は戦争の指導で失策を繰り返した上、将軍人事を賄賂で決めたり、権力者に従順でない勇将に言いがかりを付けて更迭したり、金蔓の大商人の要請で不必要な作戦を行って犠牲者を増やしたりと、好き勝手なことをして戦いを長引かせてきたのだった。
「そういう連中の立派な馬車が町を通ると民は土下座させられる。ぶくぶくと太った高官や大商人を見るたび、俺は額を地面に付けながら、絶対に偉くなって、いつか必ずあいつらを足元にはいつくばらせてやると誓った。汚れ切った者達の支配から逃れ、卑屈に頭を下げずにすむだけの力を手に入れることが俺の望みだった」
こんなことが許されてよいのかと禎傑は人々に訴えたが、その答えは憐れむようなまなざしだった。禎傑はその不愉快な態度が諦めの裏返しだと察して一層の怒りを感じた。人々の弱さに怒ったのだ。そして、自分は同じようにはならないと決意した。俺は強くなってやる。そして世の中を変えてやる。それは野望だった。立身出世して自分の理想の世界を実現することが禎傑の目標となったのだ。
「十年かけて州太守まで上ったが、俺の手はまだあの連中には届かない。しかし、これ以上の出世は難しい。このままでは一生やつらに頭が上がらないかも知れん。帝位など夢のまた夢だ。そこへ、大商人達がこの遠征の話を持ち込んできたのだ」
この国で出世できないのならば、新天地を目差せばよい。吼狼国を征服し、そこで自立して力を蓄え、恵国に戻ってくるのだ。たった一人の家族だった母は昨年亡くなっていて、禎傑を引き止めるものはもはやなかった。宮廷の豚どもや大商人達の思惑などどうでもよい。むしろ、諸部族との戦いでできた莫大な借金を盾に取って服従を迫る奴等の話に乗ったふりをして資金を出させ、自分の国を手に入れてやろうと、禎傑は考えたのだった。
「俺は新しい土地に俺が望む国を作り上げる」
その国では不正を許さず、誰も不当に虐げられることがないようにするつもりだと禎傑は語った。
「俺は貧しさをよく知っている。卑屈に頭を下げねばならぬつらさもな。そういう人々がいない国を作りたい。あの高官連中のようには決してならん」
禎傑はそう言って胸を張った。
「俺は吼狼国の武家や民を味方に付けたい。だから、彼等の意見をよく聞いて、皇家や治天府など旧来の制度はできるだけ尊重しようと思っている。そのためにもお前の知識が必要だ。助言を大いに当てにさせてもらおう」
禎傑は笑った。
「お前は俺に似ている。その誇り高いところ、決して卑屈にならないところ、絶対に諦めず、投げ出さないところがな。俺はそういう生き方を貫いてきたつもりだが、残念ながら世の中にはそんな人物は滅多にいない。華子、お前はその貴重な一人だと俺は思う。だからこそ、俺はお前をそばに置きたい。その誇り高い魂を俺は手に入れたい。お前となら話していて飽きないだろうと思うのだ」
華姫は考え込んだ。
国を捨て父や姉や妹と絶縁することはつらかったがまだ我慢できた。漂流した時点で覚悟はしていたし、どうせこのままでは帰国できないのだ。
また、話さないと抵抗しても拷問されるだけだった。苦しむ家臣達を前にすれば、いずれは国を売らざるを得なくなる。自ら死を選んだとしても、他の人物を捕まえて情報を引き出せばよく、吼狼国が侵略されることは変わらない。何より、泰太郎を助け出すことは不可能になり、鳴沼家や大灘屋の悪事は暴かれず、黒幕の高官はのうのうと生き続けるだろう。
ならば、拷問されて屈するよりも、自らの意志でその道を進んで目的を遂げるべきだと華姫は思った。
敵に寝返ったと謗られることは恐くない。世間の評判ばかり気にする人間には肝心なことは何も決められないというのが華姫の信念だったからだ。自分は贅沢な暮らしを送ることや男に可愛がられることに最大の喜びを見出すような女とは違う。成し遂げると誓った目的のためならば多くのものを捨てて大勢を敵に回し、悪評を立てられ罵声を浴びせられても昂然と顔を上げて信じる道を堂々と進む。その強さこそが誇りなのだ。
禎傑は黙って返答を待っている。
既に心の八割は決まっていたが、この提案を受け入れた自分を夫がどう思うかという一点が、華姫をためらわせていた。
夫と離れ離れになって以降も、華姫は泰太郎の伴侶にふさわしい行動を自分に課してきた。常に夫を第一に考えて振る舞うと別れ際に父に誓ったこともあったが、華姫自身がそうしたかったからだ。医師や奴隷達の指導者としての活動も、華姫自身の誇りが原動力であると同時に、夫がほめてくれると思う行動を選んだ結果でもあったのだ。
ここで禎傑の手を取れば、吼狼国にはいられなくなる。幟屋の支店を恵国に作って自分達で切り盛りするという泰太郎の夢も壊れてしまう。きっと夫は嘆くに違いない。
だが、泰太郎を救えるのは華姫だけだ。海国丸の事件は牙伐魔族の仕業と信じられているはずで、誰も彼が生きていることを知らないからだ。今頃夫は大灘屋の命令に反抗してひどい仕打ちを受けているかも知れないし、絞り吹きの研究が終わったら殺されてしまう可能性が高く、救出は急がねばならないが、帰国どころかこの町を逃げ出すことすら現状では難しい。
海国丸で船出する時、二人は幸せの絶頂で、待ち受ける不幸のことなど想像もしていなかった。もうあの平和な日々ははるかかなたに遠ざかり、二度と戻ってこない。泰太郎と結ばれて幸福を築くという夢を少しでもかなえたいと思うのならば、目の前の男の手を取るしかなかった。
華姫は膝の上で両手を握り締めた。
この人の力を利用しよう。仲間を帰国させ、夫の奪還と復讐を果たすまでは協力し、その後でこの人を殺せばいいのだわ。上手くすれば国を救えるかも知れない。
総大将を失えば恵国軍は動揺する。きっと統国府は勝利できるに違いない。殺すのはかなり難しいだろうが、禎傑が華姫に心を許すようになれば不可能ではないはずだ。その後は泰太郎と二人で隆国へ逃げればよい。
暗殺に失敗したら殺されるだろうが、それが自分のしたことの報いならば仕方がない。夫が生きろと言ったから生き続けてきたが、死への心の準備はできていた。それでも、夫が生きている可能性がある限り自ら死は選ばず、救い出す努力もやめない。それが自分なりの夫への操の立て方だと華姫は思った。そういう華姫の生き方を、泰太郎はきっと理解してくれるに違いない。
長い沈黙の末、華姫は遂に頷いた。
「分かったわ。あなたに協力する」
「そうか」
禎傑は破顔すると、立ち上がって歩み寄ろうとしたが、華姫はそれを手で制した。
「ただし、体は任せない。それだけは絶対に譲れないわ」
華姫は禎傑が自分に興味を持ったことを知っても、大人しく抱かれてやって油断させ、隙を見て逃げるという方法を一顧だにしなかった。常に監視が付けられるだろうし、数万の兵を動かせる一州の太守の手から逃げ切ることはどう考えても不可能だということもあったが、それ以上に他の男に進んで身を任せることになるからだった。
「夫は裏切れない。あなたに協力はするけれど、妾にはならないわ」
「分かった。では、手を出さないと約束しよう」
禎傑は残念そうな顔をしたが、その言葉を予期していたらしく、頷いて椅子に戻った。
「ただ、部下達はお前が体を許したと思うだろう。ここで一夜を過ごしたことはすぐに知れ渡るに違いないし、そうでないと皆信用しないだろうからな」
夫のいる身でそんな評判が立つのは身が震えるほどの屈辱だったが、華姫もそれは避けられないだろうと思った。夫を取り戻すためと言っても信じてくれない可能性が高いし、自分達の司令官に対等な立場で協力というのは将軍達からすると腹が立つだろう。体の関係を持てば女を征服したことになると考える男の単純さと傲慢さは不快だが、国を売った時点で悪評は避けられないのだから耐えるしかなかった。
「妾は名目だけで実は断られたと知ったら、部下達は俺を軽蔑するだろうな」
禎傑の笑みは未練たっぷりで、昂ぶった感情を無理に抑えようとしている様子がうかがえたが、その一方で、断られたことで華姫に一層好感を持ったようでもあった。
「協力するに当たって、いくつか条件があるわ。まず、家臣達は巻き込めない。必ず国に返すと約束して。情報は全て私が話すから、彼等には何も尋ねないこと。私のことも話さないで。後で私から手紙を書くわ」
「承知した」
「次に、鉱山の奴隷達のことよ」
「奴隷達?」
禎傑は首を傾げた。
「彼等を許して欲しいの。処罰はしないで」
「もちろんだ。涼霊がした約束は守る」
「戴白氏にも罰を与えるなと命じて」
「よかろう」
「彼等を奴隷の身分から解放すること。千人全員をよ」
「それはできないな」
禎傑は首を振った。
「それでは鉱山が止まってしまう。あの鉱山はこの州の産業の要なのだ。鉱石の大部分は銅銭を作るために国が買い取ってこの町で加工している。それをやめるわけにはいかん」
「でも、あの待遇はひど過ぎるわ。貧しい食事で一日中働かされているのよ。怪我人が多く出るのに医者もいない。私が治療しようとしたら余計なことをするなと止められたわ。国が買っているのなら賃金を払っても十分利益を出せると思うの。この街には仕事のない人がたくさんいるのだから、給金を出すと言えば働き手は集まるのではないかしら。あなたは貧しい者の苦しみを知っていると言ったはずよ」
「ふむ……」
禎傑は少し考えた。
「奴隷達は戴白に金を与えて買い取ろう。鉱山での奴隷の使用は禁止する。それでよいか」
華姫は頷いた。
「彼等の内、希望する者は帰国させて。恵国に留まりたい者には職を与えてやって欲しいの」
「帰国は難しいだろうな」
禎傑は腕組みをして言った。
「恵国と暴波路国の間には嵐の海がある。あの荒海を越えて千人もの人間を運ぶのは容易ではない。船団を編成する費用も馬鹿にならん。遠征を控えたこの時期にそんなことをしている暇も金もない。それに、この国にやってくる暴波路国人の奴隷は皆、牙伐魔族に襲われた村の生き残りか人身御供として差し出された者達だ。無宿者や罪人か孤児、もしくは家族を殺された者などで身寄りがない。今更帰る故郷はあるまい」
「では、この国で生きていけるように計らってあげて」
「その方が現実的だな。できるだけのことはしよう。定職のない者が千人もうろうろしていては治安に関わるからな」
禎傑はますます華姫が気に入ったという顔で約束した。
「条件はそれだけか」
華姫は頷いた。
「では、契約の杯を交わそう。約束通り手は出さんが、酒くらい付き合ってもらうぞ」
禎傑が杯を手渡そうとすると、華姫は首を振り、「先に約束を果たして」と言った。禎傑は首をすくめたが、立ち上がって書き物机から紙を一枚持ってきてさらさらと指示を書き込むと、「これでよいか」と華姫に見せた。目を通した華姫が頷くと、禎傑は署名をして封筒に入れ、大声で廊下に向かって叫んだ。
「誰かいないか!」
「何かご用ですか」
扉を開けた兵士を手招きで呼び寄せて、禎傑はその手紙を渡した。
「これを涼霊のところへ持って行け。書面の通りに実行しろと伝えるのだ」
「はっ」
兵士はちらりと華姫に視線を投げると、敬礼して出て行った。
扉が閉まると、禎傑は酒入れを持ち、不敵な笑みを浮かべて華姫に杯を差し出した。華姫も覚悟を決めて立ち上がり、杯を受け取った。
禎傑はそれに透明な酒を注ぐと自分の杯にも酒を満たし、目の前に掲げた。同じく腕を上げた華姫がやや顔を強張らせながらきっとした視線を返すと、禎傑は自分の杯を華姫のそれにかちりと打ち付けた。
「俺は契約を守ることを誓う」
「私も誓うわ。あなたを手助けし、自分の目的を必ず達成することを」
華姫の宣言に禎傑はにやりとし、二人は同時に酒を干した。
禎傑は満足そうな顔で椅子に座った。
「では、吼狼国について、お前の知っていることを全て話してもらおうか」
華姫は頷き、腰を下ろすと杯を置いた。禎傑は二つの杯に酒を注ぎながら言った。
「まず、各地方の地形と封主家の配置からだ」
「分かったわ」
その夜、禎傑の部屋の灯りは明け方まで消えなかった。
次の日、華姫は聞き慣れぬ鳥の鳴き声で目を覚ました。
こんな心地よい目覚めは久しぶりだった。柔らかな布団が体を包んでいる。
この鳥は何かしら。聞き覚えがない声だわ。吼狼国の鳥ではないみたい。まるで異国の鳥……。
そう考えて、華姫ははっとして目を開いた。
ここは穂雲城でも鉱山でも狭い船倉の中でもなく、禎傑の寝室だった。首を動かして部屋を見回したが、既に起きたらしく、禎傑はいなかった。
昨夜はあの男と一緒だったのだわ。
禎傑と語り合う内、華姫は酒を過ごして酔いつぶれてしまった。泰太郎のことやこれからのことを考えると心が乱れ、珍しく自分を見失ってしまったのだ。小卓に突っ伏し、次第に朦朧とする意識の中で、涙をこぼしながら夫の名を繰り返しつぶやいていたことをおぼろげに憶えている。
武人の太い腕で寝台に運ばれたことに思い至った華姫は慌てて体の具合を確かめたが、異変はなかった。禎傑は手を出さないという約束を守ったのだ。
何て情けない。知り合ったばかりの男性の前で飲み過ぎて意識を手放すなんて。
きっとひどい酔態をさらしたことだろうと華姫は恥ずかしくなり、布団の端をぎゅっと握り締めた。幸い二日酔いにはならなかったが、当分酒は飲む気になれない。
もう二度とこんなことは繰り返さないわ。
華姫は心に誓った。
簡単に弱さを見せては駄目。もっと強くならなくては。
これからは今までとは比べものにならないくらい厳しい日々が待っている。敵は吼狼国の悪人達だけではない。恵国軍もほとんどの者が華姫に非難や嘲りの視線を向けてくるだろう。それに負けずに禎傑を助けて共に戦っていかなくてはならないのだ。
華姫は一晩語り合って確かめた禎傑の人柄と能力を思い返した。
確かにあの人は手を組むに足る相手だわ。救出と復讐の協力者としては申し分ない。同盟関係の第一歩として、まずは私が彼の役に立ってみせなくては。
そう自分に言い聞かせると、華姫はとにかく布団から出ることにした。
体を起こした華姫は、白い寝間着がかなり着崩れていることに気が付いて赤面した。体に布団をかけてくれたのは禎傑だろう。
華姫は寝台から降りて、枕元に置いてあった衣服を身に着けた。白い前合わせの長い着物に薄紅の上掛けの組み合わせだった。材質は絹でかなり上等の仕立てだ。最後に濃い紫の帯を締めると、壁の玻璃の鏡を見ながら禎傑のものらしい櫛で髪を直した。
昨晩禎傑と語り合った小卓の上に蒸かし饅頭と茶が用意されていることに気が付いて、空腹だったので食べることにした。一つは緑っぽい豆の餡、もう一つは肉と野菜の煮込みが挟んであった。ゆっくりと饅頭を口に運び、冷え切った茶でのどを潤すと、華姫は静かに部屋を出た。
外はもうすっかり明るかった。廊下の窓から見える太陽は中天を過ぎている。随分と長く眠っていたようだ。部屋の前に警備の兵士がいなかったので、禎傑は華姫を信じているらしい。
廊下を歩いていると女中がやってきた。禎傑の居場所を尋ねると、昨日最初に連れて行かれた広い部屋の前に案内された。女中は閉じられている両開きの扉を手で示して去っていった。華姫は胸に両手を重ねて一回深呼吸すると、覚悟を決めて大きな扉を押した。
中では恵国軍の黒い服を着た武官が、机の上に広げた吼狼国の大雑把な地図を細い棒でつつきながら作戦を説明していた。
「我が軍は大陸から西へ突き出た半島である青囲州の先端の突辺港に集結し、まず半数が吼狼国へ飛び石状に続く島々を伝って文島に向かいます。一部は島を占領し、残りは臥神島の最南端、対岸の潮待岬の手前に上陸する予定です。そして一気に墨浦に迫り、制圧して拠点とします。周辺の国々を攻略しながら後続部隊の到着を待ち、体制を整えてから玉都へ向かって進軍することになるでしょう」
ぎい、という扉の開く音で将軍達は一斉に食堂の入口へ顔を向けた。彼等は華姫の美貌に目を見張り、次いで怪訝な表情になった。だが、昨日頑烈と呼ばれていた男が軽蔑するように「売女め」と吐き捨てると、将軍達はそろって禎傑へ目を向け、呆れたと言わんばかりの表情で顔を見合わせて小さく笑い、興味を失ったように地図に目を戻した。禎傑が手招きしたので華姫は部屋の奥へ進み、昨日の豪華な椅子に座っている太守の左隣の空いた席に腰を下した。
作戦担当の武官は問うように禎傑を見たが、若い太守が頷くと一つ咳払いし、説明の続きを始めた。
「この墨浦は大きな町と聞きます。我が国との貿易の中心地であり、港も広く設備が整っているそうです。ここを輸送船団の基地とすることが第一の目標となります」
「奇襲をかけるということだが、墨浦の制圧は簡単にいくのか」
机を囲む二十人余りの将軍の一人が質問すると、武官は頷いた。
「そう思われます。大門国は武守家の直轄領で封主がおらず、墨浦にはそこそこの規模の城があるものの、普段は二千程度の警備兵しかいません。この町は伝統的に大商人達が自治を行っていて、武守家の家臣達は遠慮してやや離れた小さな町に集住しているのです。よって、彼等が駆け付けてくる前に一気に攻めれば、陥落させることは難しくないでしょう。大門海峡の通行の安全を確保するためには対岸の鯖森国も攻略する必要がありますが、ここはいくつかの小封主が分割支配しており、攻略は容易でしょう」
「では、大前提である港の占領と侵攻の拠点作りは可能なのだな」
「はい。その点に疑いはありません。大門・鯖森の両国を制圧すれば墨浦周辺の海は完全に支配できます。文島も占領は難しくないと思われ……」
「そこまででよい!」
頑烈が太い声でさえぎった。
「以前聞いた作戦の確認はもう十分だ。我々が知りたいのはその先だ。玉都への侵攻計画はどうなっておる」
頑烈は地図に赤く描かれた都を指差した。
「その墨浦とかいう港から玉都まで一体何日かかるのだ。途中にいる封主の数と規模は。相手にしなければならん兵力は。城をいくつ落とせばよいのだ」
「それが、細かな計画はまだでして……」
作戦担当官は言い淀んだ。
「あの国は三十年前まで戦乱の世だっただけに、封主達は領内の生産力や地形を隠したがります。民は領主の貫高を知っていても瓦版などには記載しませんし、統国府もそうしたことを記した書物の輸出を禁じておりまして、資料が乏しく詳しいことが分からないのです。苦心して手に入れた本も、吼狼国語のできる者が我が国にはほとんどいないため、翻訳の作業がなかなか進みません。ですが、墨浦と玉都の間にいる封主家が九家ということは分かっておりまして、貫高と兵力、当主達の能力や性格、家風について、大まかには把握しております」
「大まかとはどういうことだ」
「先頃帰国した使者が墨浦滞在中に、玉都で行われる総馬揃えという閲兵式について、今年の各家の評判を巷間で集めてきました。そこからの推測ですので今一つ確実性が……」
「民の噂だと! そんなものが当てになるか!」
頑烈は机を拳で叩いて怒鳴った。
「敵の兵数や防衛体制が分からんのでは、侵攻計画の立てようがないではないか!」
「申し訳ありません! 恵国人は墨浦の外へ出ることを禁じられておりまして、他の地域のことは話で聞くだけなのです」
武官は慌てて謝った。
「吼狼国の役人も商人も交渉を上手く運ぶために余計な知識をこちらに与えまいとしますので、なかなか情報が集まりません。そもそも貿易は吼狼国商人が船で恵国へやってきて、荷を交換して帰っていく形で行われています。恵国へ来る吼狼国人は多いのですが、向こうへ渡ったことのある恵国人は少ないのです。かといって、吼狼国商人にあれこれ尋ねて侵攻計画を感付かれでもしては困りますので情報が集めづらく……」
「つまり、不確かな情報に基づいた大雑把な作戦ということだな。文字通り机上の空論ではないか。話にならん!」
「そう申されましても……」
言い訳を続けようとした武官は、頑烈にぐっとにらまれて慌てて口をつぐみ、小さくなった。
「情報源ならここにいる」
禎傑が言った。
「華子に聞けばよい」
禎傑は華姫の肩へ手を置いた。
「商人の妻で各地の情報に詳しいそうだ」
将軍達の視線が華姫に集まった。嘲笑を含んだ探るようなまなざしに華姫は震えを感じたが、それに耐え、胸を張っていた。
「説明できるな」
「ええ、できるわ」
答えた華姫は、立ち上がると武官に手を伸ばした。
「その棒を貸して」
作戦担当官は一瞬戸惑ったが、ちらりと禎傑を横目で見ると棒を差し出した。
「ありがとう」
受け取った華姫は一座をぐるりと見渡して口を開いた。
「墨浦に侵攻するのはやめた方がいいわ」
華姫は断言した。
「その作戦は無謀よ」
「なっ……」
将軍達は驚いて一斉に顔を上げた。
「私ならそんな攻め方はしない。墨浦は無視するわね」
「貴様! 女の分際で作戦に口を出すつもりか!」
頑烈が吼えた。
「この場で吼狼国の事情に一番詳しいのは私よ。この意見にはちゃんと根拠があるの。はっきり言うわ。今の作戦では恵国軍は勝てない」
「奴隷のくせに偉そうなことを言うな! 吼狼国人の言葉など信用できるか!」
「まあ、待て」
顔を真っ赤にして立ち上がった頑烈を禎傑が手で制した。
「華子は俺に協力すると約束した。嘘は言うまい。それに涼霊もこの女の知略は認めている。そうだな?」
「はい」
幕僚長は頷いた。
「ということだ。だからまずは華子の考えを聞いてみようではないか。文句はそれから言えばよい」
「涼霊殿までそうおっしゃるのであれば仕方ありませんな。ですが、女の意見など役には立たないと思いますぞ」
頑烈は渋々腰を下ろした。
「それは聞き終えてから判断しよう。華子、続けろ」
禎傑が促すと、華姫は頷いて語り出した。
「確かに墨浦の占領はやさしいわ。兵力は少なく、大軍で攻めれば簡単に落とせるでしょう」
作戦担当官がそれならなぜ勝てないんだという顔をすると、華姫はこう言った。
「でも、ここを守り続けるのは大変なのよ」
華姫は隣接する国々を次々と棒で差していった。
「後ろ足のつま先に当たる大門国は東と北で陸続きの一国ずつ、西は大門海峡を挟んで御使島の二国と接するわ。つまり、踵の方と向う脛へ街道が、対岸へ海路が伸びているの。この内、玉都へ向かうには北へ南国街道を内の海に沿って進むことになるけれど、残りの三国にも警戒を怠ることはできないわ。もし私が統国府の総大将ならば、南国街道の守りを固めて恵国軍の進軍を阻んでおいて、他の三方面から墨浦を攻めさせるからよ。墨浦を落とされれば、船団と引き離された軍勢は足の国の街道上で挟み撃ちに遭い、逃げ場を失って全滅する。それを防ぎ根拠地を守るには、三万から四万の軍勢を墨浦に残さなくてはならない。つまり、遠征軍の四分の一近くがここに釘付けになってしまうのよ。それに、墨浦港が確保できたとしても、もっと大きな困難がその先にある」
華姫は狼の後ろ足を棒で円く囲った。
「長斜峰半島は武守家の御料地が多いわ。南国街道沿いでは、大門国の他に、そのすぐ北の中空国がそうよ。この国には城がなく、警備兵も少ない」
「ならば進軍は容易ではないか」
将軍の一人が言うと、華姫は首を振った。
「これだけだとそう聞こえるわね。でも、そうではないの。問題はその次の葦江国なのよ。ここの領主の桜舘家は北隣の茅生国と合わせて七十六万貫、天下第四位の大封主だわ」
「そうなのか」
将軍の一人が作戦担当官に尋ねた。
「はい、兵力は約一万五千と聞いています」
「そうよ。三十年前に武公が兵力削減令を出して一万貫につき二百人と定めたから、一万五千二百人ね。武公は武者数が増えないように諸国の貫高を戦狼時代以前と変えなかったから兵力の計算は難しくないの」
将軍は首を傾げた。
「一万五千か。なるほど、確かに強敵だ。だが、その程度の兵力ならば攻略は難しくあるまい」
「そ、そうだぞ。こちらは四万を墨浦に残したとしても十一万。城を落とすのにさほど苦労はしないはずだ」
作戦担当官は不満そうだったが、華姫は落ち着いていた。
「敵が桜舘勢だけならばね」
「どういうことだ?」
「桜舘家は武守家の御連枝で長斜峰半島方面の総責任者なの。だから、緊急時には御料地の直参衆はその指揮下に入るし、近隣の封主家にも命令が出せるわ。周辺の御料地は七ヶ国一百八十三万貫、武守家だけは一万貫につき一百二十人だけれど、それでも約二万二千人があの地域にいて、桜館家と合わせると三万七千人を超える。桜舘家の豊津城は天下に名高い堅城よ。しかも、当主直房の父と母は武公を助けて天下統一を成し遂げさせた天下六翼の内の二人で、毅勇公、慈翊院と尊称される実力者だわ。どちらももう七十近い高齢だけど、その武略と声望は侮れない。戦狼時代を生き抜いた名将が大軍を率いて堅固な城に籠もり、多くの封主家を指揮して戦ったら、恵国軍は相当苦戦するはずよ」
将軍のある者は地図をのぞき込んで真剣に耳を傾け、別の者は本当に正しいのかと疑う顔で華姫を見上げていた。
「そして、豊津城を落とし、その北の二国の秋芝家三十五万貫など六家を上手く下したとしても、煙野運河が待ち構えている」
華姫は北の背の海から狼の腰に大きく入り込んだ広い内海と南の海の間で、線を引くように棒を動かした。
「ここは越の海と内の海をつなぐ運河よ。以前は背の国から玉都へ向かう船は豊魚半島と長斜峰半島を迂回するしかなかった。二十年前、武公がその不便を解消するためにこれを掘らせたのだけれど、この運河の役目はそれだけではないわ。東国から玉都へ向かってくる敵を防ぐための堀でもあるのよ」
むう、と将軍の一人がうめいた。
「煙野国の支配は槻岡家三十二万貫と錐名家十五万貫だけれど、運河の警備は西隣りの御料地、馬駆国六十五万貫の御廻組と共同で行っているわ。つまり、他の封主家の援軍がなかったとしても、合わせて一百十二万貫の一万七千二百人はいることになる。ここに来るまでに恵国軍は相当消耗しているはずよ。それに、墨浦との連絡路を確保するためには占領した全ての国に守備兵を置かなくてはならないけれど、この地域は貫高の大きな国ばかりだから多くの兵が必要になるわ。特に長斜峰半島の東部へ抜ける道がある三国には一万人は残すべきね。となると、吼狼国へ十五万人で攻め込んだとしても、煙野運河の攻撃に連れて行ける兵力はその半分もいればよい方だわ」
そして、と華姫は都を示した。
「最後は玉都よ。ここには常時五千人の京師守護所勢がいるし、当然北や西の国々から援軍が来ているはず。煙野運河にも多数の兵士を残さなくてはならない恵国軍に勝ち目はあるのかしら」
聞き終えた将軍達は地図から目を離し、顔を見合わせて一斉に溜め息を吐いた。
「海路で攻め上ればよい」
頑烈が言った。
「墨浦港を確保した後、船団は大門海峡を通過して一路北を目差し、玉都の手前の、この馬駆国辺りに兵を上陸させればよいではないか」
「それは無理ね」
華姫は首を振った。
「まず、大門海峡は通れないわ」
「なぜだ?」
将軍の一人が尋ねた。
「先程両岸を制圧すれば安全に通行できると聞いたばかりなのだが……」
作戦担当の武官は将軍達の視線に後ずさりしながら「で、でたらめだ! 使節の報告には海峡を通ってきた商人と話したと書かれていたぞ!」と言ったが、華姫は相手にせず、あっさりと理由を告げた。
「この海峡には渦潮があるのよ」
将軍達は御使島と大門国の間の狭い水路を一斉に見つめた。
「大門海峡は現地の船乗りでさえ恐れる難所なの。内の海から墨浦の方へ強い流れがあって巨大な渦がいくつも巻いている上に、暗礁が多くて大きな船は通れない。玉都と墨浦を結ぶ大型の荷船は皆、御使島の外側を通るのよ」
「そんな馬鹿な!」
作戦参謀は顔を真っ赤にした。
「本当のことよ。吼狼国の周りは海流が複雑なの。北から来る冷たい流れと南から来る温かい流れが高稲半島の南西でぶつかって分岐し、その一つが内の海へ入り込んでいるわ。沿岸に沿って進んで大門国に突き当たった海流は二つに分かれ、片方は御使島をぐるりと回って南下し、もう片方は狭い大門海峡に流れ込んで大渦巻きを作るのよ」
華姫は海流の道筋を棒でなぞってみせた。
「小型の船なら海峡の端ぎりぎりを櫂を使って岩礁を避けながら通ることもできるけれど、軍船は無理ね。だから、船団を組んで玉都へ向かおうとすれば、海流を避けて御使島を西に大回りすることになるから日数がかかるし、墨浦との連絡の確保のためには主要な港を占領して守備兵を置かなくてはならないわ。付け加えれば、馬駆国に大きな港はないし、玉都とその南に浮かぶ双島には統国府で水軍頭を務める楠島家の軍船百二十隻がいるから、近付けば迎撃されるわね」
「なんという国だ!」
頑烈が唸り、他の将軍達も言葉を失った。作戦担当の武官は真っ青な顔をしていた。
「では、お前ならどう攻める?」
黙って地図を眺めていた禎傑が尋ねた。
答える前、華姫は一瞬ためらった。
これを口にすれば悲劇が始まる。それは分かっていた。だが、全てを捨ててでも夫の奪還と仲間の復讐を果たすと決心したからこそ、この男に味方することにしたのだ。それに、鳴沼家を倒し、玉都に攻め上って黒幕を捕らえるには、この方法が確実だった。
華姫は禎傑の信頼のまなざしを見返して自分を叱り付け、声が震えないようにわざと淡々とその言葉を告げた。
「私なら恵国からの船団を違う場所へ向かわせるわ」
「どこだ」
「ここよ」
華姫は棒で地図の一点を差した。
「高稲半島……」
将軍の一人がつぶやいた。
「私なら田美国に上陸する」
この瞬間、華姫は父や姉や妹や懐かしい故郷の風景の全てが敵に回り、もう二度と手が届かない存在になってしまったと感じた。
「その国は恵国から遠いではないか」
頑烈が指摘した。
「確かに遠いわ。墨浦と比べて航海が更に二十日は必要ね」
「なぜわざわざそんな遠いところへ行かねばならんのだ。後続軍の輸送が大変になるではないか」
「それは確かに問題かも知れない。でもそれ以上の利点があるのよ」
初老の将軍は疑わしげな顔をしたが、華姫は説明を続けた。
「まず、そんなところに恵国が攻めてくるとは思わないから奇襲になること。次に、穂雲港という広い港が利用できること。田美国は穀倉地帯で大きな銀山があるから、兵糧や軍資金を確保しやすいこともあるわ。それから地図を見て」
華姫は西国街道を棒で示した。
「墨浦から玉都までは七国を通ることになって、歩くと一月近くかかるわ。けれど、田美国からなら殻相国、後明国、雲居国の三国だけで、距離も半分以下、十日で着くの。これだけでも進軍と物資の輸送に随分と差が出るはず。しかも、その途中で他の地域と繋がっているのは後明国だけよ。この国には中つ国の蔓食国へ抜ける街道があるけれど、暴払山脈を唯一越えられる手輪峠は大変な難所で防衛には有利とされているわ。現に戦狼の時代、手の国の虎と呼ばれた名将梅枝時錦でさえ、小封主達に阻まれて通過することができなかった。つまり、そこさえ押さえてしまえば中つ国方面からの反撃は考えなくてよく、途中の三国に置く守備兵は少なくてすむの。高稲半島に残す兵士もそんなに多くはいらないわ。楠島家の軍船で一度に運べる軍勢は最大でも一万人程度。玉都から片道七日はかかるし、田美国の奥の二国は小さくて兵糧の調達が難しいから、穂雲の街と港さえ押さえておけば大したことはできない。また、西側の先の海方面から攻めてくる可能性はほとんどないわ。そちらには水軍を持つ封主家が存在しないのよ。これが高稲半島への侵攻が有利な点の四つ目。そしてもう一つ、大きな利点がある」
華姫は高稲半島と西国街道沿いの国々を一つ一つ示し、封主家の名と貫高を告げていった。
「分かるかしら。この地域の九ヶ国の内、貫高が二十万貫を超えているのは田美国と後明国だけなの。後明国二十七万貫は半国ずつ二つの封主家が治めているから、実際は十数万貫の二国と同じよ。御料地はないからそれぞれの国はばらばらに抵抗するはず。となれば、玉都までの間に大きな兵力を持った封主家は、事実上田美国の梅枝家だけということになる。梅枝家は三ヶ国で八十七万貫だけれど、天糸国は天下統一完成時に働きの褒美としてもらった国で、遠い背の国にあるわ。だから、実際に相手にしなくてはならない兵力は、田美国と殻相国の合計七十八万貫一万五千六百人よ。これを撃破すれば、玉都まで行く手を阻む勢力はいないも同然だわ。それに」
と、華姫は言葉を切った。
「それに何だ」
頑烈に問われて、華姫は顔が強張るのを感じながら、その言葉を噛みしめるようにゆっくりと口にした。
「私には梅枝家を攻略する方法があるの」
「どんな方法だ」
頑烈は華姫の緊張に気付かずに聞き返した。
「私が梅枝家の当主になるのよ」
「何だと?」
頑烈は意味が分からないという顔をした。
「私が梅枝家の当主になるの」
華姫はもう一度言った。
「梅枝家は私の実家よ。私に妹はいるけれど、生きている男の兄弟はいないわ。私が行って父を隠居させれば、この封主家は意のままになる」
「つまり、お前がその国に乗り込んで従わせると言うのだな?」
禎傑が確認した。
「そうよ。梅枝家を吼狼国攻略の尖兵として使うのよ」
華姫がはっきりとした口調で言い切ると、将軍達は驚いたように見上げて、互いに顔を見合わせた。
「よし、決まりだな」
禎傑が立ち上がった。
「今華子が述べた作戦を軸に計画を練ることにしよう。早速検討に入れ」
「お待ち下され!」
頑烈が驚いて止めようとした。
「こんな女の世迷い言を鵜呑みになさってはなりませぬ。こやつは吼狼国人ではありませぬか!」
「俺は華子と契約を結んだ」
禎傑は自信に満ちた顔で笑い、華姫に確認した。
「お前は俺達の遠征に全面的に協力する。そうだな?」
そのまなざしを華姫はしっかりと受け止めた。
「何でもするわ。私の目的を達成するためなのだから」
華姫はきっぱりと断言すると、やややつれの見える頬に華やかな微笑みを浮かべた。将軍達はその笑みの美しさに息を呑み、禎傑は満足そうな顔になった。
だが、光姫がその笑みを見たらきっと悲鳴を上げたに違いない。穂雲港を出発する時の幸福そうな笑顔にはなかった悲壮な決意が、華姫の美貌には浮かんでいたのだ。
「売女で、しかも売国奴とはな」
唯一顔をしかめたままだった頑烈が横を向いて吐き捨てるように言った。そちらへちらりと目を向けた禎傑は華姫を問うように見たが、華姫が頷くと小さく笑い返し、「反対意見はもうないな」と諸将の顔を見回した。
「では、早速、計画の詳細を詰めるとしよう」
総司令官殿下の決断が下ったことを知った将軍達は、まだ半信半疑の表情ながらも一斉に右手を心臓に当てて頭を下げて、その命令に従った。
「華子、ちょっとこっちへ来い」
作戦会議の途中で禎傑が華姫を呼んだ。後に付いて二階に上がり、促されて一つの部屋の扉を開くと、そこには涼霊がいた。だが、華姫の目はそちらには向かなかった。
「あなた達……」
華姫は真っ青になって立ちつくした。家臣達は入ってきた華姫を見て安堵と喜びを露わにしたが、恵国風の衣服に気が付いてぎょっとした顔になった。
「姫様、ご無事でしたか」
政資が尋ねた。華姫が「ええ」と頷いて禎傑を見ると黙って首を振ったので、これは涼霊の仕業だと分かった。
「どうしてあなた達がここにいるの」
「それは我々がお聞きしたいことです」
景隣が言った。
「我々は昨夜、馬車で牢獄へ運ばれ、鎖で繋がれました。ところが、今朝になって急に枷を外され、入浴を許されて温かい食事を与えられ、広い部屋に移されました。扉に鍵こそかかっていましたが、待遇は天地の差です。それでも我々は気を許さず、これはどうしたことか、華姫様はどうなったのかと繰り返し尋ねていると、この将軍がやってきて、主君に会いたいかと尋ねました。我々はもちろんだと答え、ここへ連れてこられたのです。ですが、華姫様、その格好は……」
景隣は言葉を切って、華姫を上から下まで見回し、苦しげな表情になった。
「まさか、恵国に寝返ったというのは本当のことなのですか」
華姫は返事ができなかった。家臣達は驚愕に呼吸を忘れて顔を見合わせた。
「では、敵の司令官と一夜を共にしたというのも……」
政資は顎が外れそうな顔だった。華姫は急いで「ただ一緒にお酒を飲んでいただけよ」と言ったが、政資の驚きは減るどころか一層増したようだった。
「何という……」
政資は言いかけて絶句した。他の家臣達も信じられないと顔中で叫んでいた。
華姫は青い顔で唇を噛んでいたが、怒りに燃えた目を涼霊に向けて厳しい口調で抗議した。
「これはどういうことなの! 私は黙っていて欲しいと言ったはずよ。なぜここに連れてきたの!」
「その方がよいと思ったからだ」
涼霊は平然と答えた。
「彼等も突然の待遇の変化の理由を知りたかろう。黙っているなど無駄なことだ。どうせいずれは耳に入る。彼等はお前の行方を知りたがっていたのだからな」
「だからといって!」
華姫はなおも涼霊の約束違反を非難しようとしたが、政資のかすれた声にさえぎられた。
「姫様……。これは、これは我々のためでございますか」
のどの奥から絞り出したような悲痛な声に驚いて振り返った華姫は、くしゃくしゃになった家老の顔を見て言葉を失った。
「何ということを……」
政資はぼろぼろと涙をこぼしていた。
「わしらは姫様に何ということをさせてしまったのだ」
政資だけではなかった。家臣達は皆泣いていた。景隣はあふれる涙をぬぐいもせずに華姫を見つめていた。
「あなた達のせいではないわ」
華姫は溜め息を吐いた。
「あなた達を救うには他に方法がなかったことは事実よ。追い詰められた末の決断でもあるわ。でも、これは私が自分の意志で決めたことよ」
華姫は涙を見せなかった。
「私は禎傑皇子に協力することにしたの。この人に吼狼国へ連れていってもらい、恵国軍の力を借りて泰太郎さんを救い出し、増雄さんの敵を討つわ。それが彼と私の契約よ」
衝撃のあまり理解が追い付かず呆けている家臣達の姿に華姫は胸が痛んだが、わざと明るく言った。
「でも、あなた達は関係ないわ。彼は他の八人には何も尋ねないと約束してくれた。この町での安全は保証されるし、私はもう国を捨てたけれど、あなた達は戻れるわ。やっと家族に会えるのよ。喜んで頂戴」
「華姫様を置いて故郷になど帰れません!」
景隣が叫んだ。
「今からでも遅くはありません。ここを逃げ出して、一緒に故国を目差しましょう!」
「無理よ」
華姫は首を振った。
「既に私は吼狼国の情報を話してしまった。もう後戻りはできないし、そのつもりもないわ。そのかわり、絶対に夫の救出と復讐をやり遂げてみせる。でも、あなた達には家族がいるわ。まだ故郷がある。必ず帰らせてあげるから、もう少しだけ待っていて」
「嫌です!」
景隣は激しく頭を振った。
「私は華姫様の家臣です」
景隣は華姫の前に片膝を突いて頭を下げた。
「私はどこまでも華姫様に従います。華姫様が恵国に味方するとおっしゃるのならば、私も恵国のために働きましょう」
「待って!」
華姫は慌てて止めようとした。
「景隣さん、それは駄目よ! あなたは帰国できるのよ」
「華姫様」
景隣は涙に濡れた顔を上げた。
「あなた様は私の命の恩人です。海で船が覆って溺れた時、華姫様は泳いで助けに来て下さいました。矢の傷で倒れた私がこうして生きていられるのも華姫様のおかげです。意識が戻ってそれをご家老様からうかがった時、私は誓ったのです。このご恩は必ずお返しする、今後何があっても絶対に華姫様をお守りする、と」
自分を見上げる若者の表情のあまりのやさしさに、反論しようとした華姫は何も言えなくなった。
「私は自分の意志で華姫様に付いていきます。華姫様がそうしろとおっしゃるのなら、私は恵国に味方して吼狼国と戦います。ですから、私がこれからもおそばにお仕えすることを、どうかお許し下さい」
「景隣さん、お願いだから考え直して!」
華姫は翻意させようとしたが、若者の澄み切ったまなざしに無駄を悟り、絶望的な気分になった。
「剣を貸せ」
景隣は涼霊の腰を指差した。長剣を受け取ると、若者は頭の髷をばっさりと切り取った。
「これで私は吼狼国武家ではなくなりました。この髷を忠誠の証としてお受け取り下さい」
華姫へ差し出した景隣に、手を伸ばしたのは政資だった。
「その刀、わしにも貸してもらおう」
政資も白髪交じりの髷を切った。
「わしとて気持ちは同じだ。わしは御屋形様から姫様の警護を申し付かっておる。それに、嵐にもまれる小舟の上で、この方を主君と仰ぐと決めた。姫様がどこへ行かれようと、何をなさろうと、わしはこの命尽きるまでお仕えする」
「では、私も」
次に剣を受け取ったのは様山和尹だった。
「姫様は港で火あぶりにされそうになった時も、鉱山で坑道が埋まった時も、私をお見捨てにはなりませんでした。今度は私の番です。苦難の道を歩まれようとする姫様を全力でお助け致します」
他の家臣達も異口同音に忠誠を誓った。次々と刀が手渡され、髷を切った家臣達は華姫の前に片膝を突いていった。
「駄目よ。どうか考え直して……!」
華姫の目から涙がこぼれた。
私はこの人達を最悪の形で巻き込んでしまった。これを恐れていたからこそ、黙っていて欲しいと言ったのに。
「もう心は決まっております」
家臣達は故郷や家族を捨てると決意したにしては晴れやかな顔をしていた。
「漂流した時点で帰国は諦めておりました。お気になさいますな」
政資がうなだれる華姫を慰めた。
「こうなると分かっていて、わざと知らせたのね」
華姫は涼霊を赤い目でにらみ付けた。
「当然だ。人数が多い方が情報はたくさん手に入るからな。この者達にしても、故郷で、主君の姫君が犠牲になったおかげで帰って来られましたなどと言えるはずがない。お前が太守殿下に味方した時点で、彼等に選択の余地はなかったのだ」
華姫は涼霊に怒りをぶつけようとしたが、全ては自分の責任と悟って顔を伏せた。
「この者達の運命はお前次第だ。待遇がよくなるよう、せいぜい殿下のお役に立つことだ」
涼霊は無感情に言った。
「それに、お前が守らなければならないのは彼等だけではない。外を見ろ」
視線を向けたのは、部屋の奥の大きな扉だった。
「まさか……」
華姫が板戸を開けて石の手すりに囲まれた露台に出ると、外で大きな歓声が湧き起こった。
「ハナコ様、万歳!」
口々に叫んでいるのは、昨夜別れてきた千人の奴隷達だった。太守公邸に隣接する州府の建物の前の広場で、暴波路国人の群が両手を挙げて万歳を繰り返している。振り返った華姫は涼霊に尋ねた。
「これは一体どういうこと?」
「簡単なことだ。お前はあの奴隷達にこの国で職を与えよと言ったらしいが、元奴隷では大した働き口はない。有給の使用人として暴波路国人を使いたがる者はもともと少ない上、恵国語を話せないのでは雇い手が見付からないだろう。だが鉱山には戻りたくないらしい。そこで私から提案したのだ。華子殿はお前達を助命し奴隷の身分から解放することを条件に殿下にお味方することになった。華子殿と太守殿下はこれから吼狼国へ戦いをしに行く。もし希望するならば、お前達を華子殿直属の兵士として雇ってもよい、とな」
華姫は返す言葉がなかった。
「これでもしお前がいなくなれば、この連中は主を失ってただの烏合の衆となり、我が軍に処分されることになるだろう。彼等を殺したくなければ、逃げ出したりなどせぬことだ」
「この悪党め!」
華姫が事情を説明すると景隣が怒りも露わに叫んだ。華姫も涼霊をにらみ付けて拳を握ったが、すぐに力なく下ろした。
「はっはっは、よいではないか」
やり取りを黙って聞いていた禎傑が大声で笑い出した。
「これで華子も千人の兵を率いる将軍だ。彼等が戦場で生き残れるよう、家臣達を使ってよく鍛えておくのだな」
禎傑は笑いを収めると華姫に歩み寄り、右手を伸ばして握っていたものを見せた。
「これを返しておこう」
華姫は目を大きく見開いた。
「どうしてこの指輪を……」
「戴白から取り戻しておいたのだ。手を貸せ。俺がはめてやる」
禎傑は華姫の左手を取ると、薬指に白く輝く指輪を通し、その手を両手で包み込んだ。
「お前は俺のものだ」
禎傑は不敵に、そしてうれしそうに笑った。
「お前の家臣も、お前の兵士達もな」
禎傑の手の平は燃えるように熱かった。いかにも野心に満ちた禎傑の笑みがこの指輪を贈ってくれた泰太郎と重なって、華姫は急に胸が苦しくなった。
奴隷達を眺めていた政資が顔を戻した。
「姫様、こうなってはやむを得ませぬ。少しでも味方は多い方がよいというもの。彼等を従えましょう」
他の家臣達も華姫を囲み、口々に「やりましょう」と言った。
「やるしかないのね」
華姫は自分に言い聞かせるように尋ねた。
「はい。それしかありますまい」
政資が返事をした。
華姫は家臣達の顔を見回した。全員が華姫に頷き返した。景隣も大きく頷いた。彼等の決意を知った華姫は一瞬だけ悲しげな表情を浮かべたが、それはすぐに消え去り、強い意志に満ちたきりっとした微笑に変わった。
「分かったわ。やりましょう。生きるために。国へ帰るために。何よりも私達の誓いを守るために。みんな、力を貸して頂戴。一緒に泰太郎さんを救出し、増雄さん達の復讐を果たしましょう」
「かしこまりました!」
家臣達は一斉に頭を下げた。
手すりへ歩み寄った華姫は、眼下の奴隷達へ高く手を振った。大歓声がそれに応えた。
華姫の本当の戦いが始まろうとしていた。