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花の戦記  作者: 花和郁
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  (第三章) 二 前半

   二


 海国丸から脱出した華姫達は、あっと言う間に嵐に捕まった。

 九人の乗った小舟はどんどん押し流され、沈んでいく巨船の姿はすぐに見えなくなった。荒れ狂う高波と叩き付けるような雨、しぶきを吹き飛ばす強風にもてあそばれて、大海に浮かぶ小舟は急流を流れる木の葉のようにくるくると回り、何度もひっくり返って乗っている者達を海に投げ出した。

 最初に転覆した時、近くにいた華姫と政資ら数人はすぐに舟を元に戻して這い上がり、仲間を捜して救い上げた。小山のような高い波のうねりにもまれながら苦労して船を()いで回って一人ずつ引っ張り上げ、全員そろったと思って数えてみると、八人しかいなかった。一人足りないことを知った華姫はそれが景隣だと気が付き、激しく揺れる舟の中で立ち上がって、よろけながら周囲の海を見渡した。

 痛いほどの豪雨に耐えて必死に目を()らすと、(かい)の長さの十倍ほどの距離で、波間に白い手が浮き沈みしているのが見えた。華姫が声を上げて指差すと、家臣達はすぐにそちらへ漕ぎ出したが、向かいから吹き付ける強い風と高い波に邪魔されて舟は少しも進まなかった。

 全身ずぶぬれの家臣達が櫂と格闘している間、その手は波の上で見え隠れしていたが、次第に低くなり、遂に見えなくなってしまった。家臣達は絶望の声を漏らし、誰からともなく櫂を置いてしまった。海に投げ出されて体が冷え切っていた上、疲労の(きょく)に達していたのだ。華姫は漕ぎ続けなさいと家臣達を叱り付け、誰も動かないと知ると、櫂を奪い取って自分で舟を動かそうとした。

「華姫様、無茶です。風と波に邪魔されて、とてもあそこまでは行けません」

 家臣の一人が止めた。華姫が仲間達を見回すと、皆顔を伏せた。

「景隣は怪我をしています。とても体力が持ちますまい。行ってももう遅いでしょう。それより我々だけでも生き延びる方法を考えましょう」

 目を逸らして答えた家臣を華姫はきっとにらみ付け、小袖の裾を帯に差し込み腰に縄を結んで立ち上がった。

「私が行くわ。政資さん、この縄を握っていて頂戴」

 そう言うと、華姫は縄の輪を家老に投げ付け、海に飛び込んだ。政資は飛び上がって縄をつかみ、驚愕した家臣達は慌てて櫂を動かして、泳いでいく華姫を追いかけた。

 何度も波に押し戻されながら苦心の末景隣のいた辺りに泳ぎ着いた華姫は、水中に潜って沈みかけていた景隣を見付けた。何とか水上まで引っ張り上げると、咳き込む景隣に水を吐かせ、寒くて体に力が入らないという若者に手足を動かして体を温めるように言い、肩を入れて支えながら泳ぎ続けた。そうして、家臣達が縄をたぐって近付くのを待った二人は、何とか小舟に引き上げられた。

「無茶が過ぎますぞ」

 政資が(いさ)めたが、華姫は首を振った。

「私はもう誰も失いたくないの」

 華姫の表情に家臣達ははっとした。肩で切り取った短い髪の華姫は泣いてはいなかったが、何かに耐えるように伏せられたまなざしは、それ以上の深い悲しみを表していた。

「泰太郎さんは海に飛び込む前、生きて欲しいと私に言ったわ。だから、私は生き続ける。絶対に死を選んだりしない。同じように、あなた達にも諦めて欲しくないの」

 華姫は心を捕らえる重い固まりを振り切るようにして顔を上げると、家臣達に訴えた。

「脱出する時も言ったけれど、もう一度言うわ。私達は何としても生き延びなくてはならない。故郷に帰って真実を伝え、泰太郎さんを救出して増雄(ますかつ)さんの復讐をなし遂げることが、私達の使命なのよ」

 荒れ狂う嵐の中でも華姫の声は全員の耳に届いた。

「これからもきっとつらいことがたくさん起こると思うわ。でも、私達はそれに耐えて生き抜かなくてはならない。これは戦いよ。負けることは決して許されない戦いなのよ。私達は今、試されているの。梅枝家の家臣としての誇りを、吼狼国武家としての生き様をね。あなた達にはその覚悟があるはずよ。こんなことでくじけるはずはないと私は信じている。頑張って耐え抜きましょう。そうして家族の待つ故郷に全員一緒に帰りましょう」

「華姫様……」

 家臣達は(こうべ)を垂れたが、再び顔を上げた時には皆表情が変わっていた。互いに頷き合った八人を代表して、政資が返事をした。

「おっしゃる通りでございます。わしらは一番大事なことを絶望のあまり忘れるところでございました。姫様は武家の魂を思い出させて下さいました。感謝の言葉もありません」

 五十代の家老は舟の底に両手を付いた。

「これからは生き延びることだけを考えて、華姫様を主君と仰ぎ、我等一同団結して参ります。お下知に従いますので、どうかわしらをお導き下さい」

 政資が平伏すると、他の家臣達も一斉にそれにならった。

「分かったわ」

 頷く華姫のまなざしはもう悲しみを残してはいなかった。

「だったら、二つのことを約束して。一つ目は決して諦めないこと。もう駄目だとか、やっても無駄だとか、死んでもいいとか、そういう言葉は口にしないで。二つ目は絶対に仲間を見捨てないこと。誰か一人でも欠けてはいけないわ。全員で心を一つにして生き抜くのよ。そのかわり、私も約束する。私はあなた達全員を生きて国へ帰してみせる。いつになるかは分からないけれど、きっと実現してみせるわ。だから諦めずに付いてきて頂戴。みんな、いいわね?」

「ははっ!」

 家臣達は声をそろえて返事をした。頷いた華姫は早速指示を出した。

「では、まず、全員の体を縄で結びましょう。そうすればまた舟がひっくり返ってもばらばらにはならないわ。それから、常に隣の人の様子を見ていること。いなくなったり、具合が悪そうだったりしたらすぐに知らせるのよ」

「かしこまりました!」

 早速縄を手に動き出した家臣達には生気が戻っていた。そうして、目標と指導者を得た一行は、長い嵐を生き抜いたのだった。

「もう漂流を始めて八日目よ。どこまで流されるのかしら……」

 つぶやいた華姫に、政資は黙って首を振った。

 丸一日続いた嵐が去った後も、小舟は波間を流され続けた。どうやら嵐によって運ばれて海流の一つに乗ったらしく、ぐんぐん南へ進んでいた。

 (うち)(うみ)の南は(たき)(うみ)と呼ばれる難所だ。吼狼国の西岸を南下する冷たい海流と北上してくる温かい海流がぶつかって混じり合う海域で、流れが複雑に分岐している。うっかりどれかの海流に捕まってしまうとどこへ流されるか分からず、入り込んだらまず生きては帰れないと言われていた。

 始め華姫は太陽の方角を見て北へ漕ぐ努力をさせたが、すぐに諦めざるを得なかった。空腹と疲労でとても体が動かなかったのだ。海国丸を離れる時に積み込んだ食料は嵐で全て失っていた。むしろ動かずに体力を温存した方がよいと判断すると、それからは舟が流されるのに任せることにした。

 幸い、舟の底に雨が溜まっていたので水はあった。それに、着物の帯をほどいた糸に華姫の一本だけ残っていた(かんざし)を曲げた針という即席の釣り道具でも一日垂らしていると数匹は獲物がかかり、それを公平に全員で分けて食べていたから、すぐに餓死することはなかった。

 だが、濡れた着物がすっかり乾き、交代で眠ることに慣れた頃になっても、陸地は全く見えなかった。もはや吼狼国からかなり遠ざかっていることは明白で、誰も口にはしなかったが、帰国は絶望的になっていた。

 このままではまずいわ。

 華姫はぼうっとする頭で思った。六日目にはついに雨水も底を突き、家臣達は皆、飢えと乾きで何も言わずに倒れているだけになっている。特に水がないのが苦しかった。かなり南へ来たらしく、厳しい日差しにのどの奥がひりひりする。誘惑に負けて塩水を飲んだ家臣もいたが、すぐにそれまで以上の乾きに苦しんでいた。

 これでは体力も気力も持たないわ。早く陸地を見付けなければ手遅れになってしまう。

 募っていく焦りに無理をして首を持ち上げ、もう一度海上を見渡した華姫は、洋上に緑色のものを発見した。

 はっと体を起こした華姫は、まさか、と思い、何度も見直して幻覚でないことを確かめると、そばで横になっている政資を揺り起こした。

「政資さん、島よ! 島があるわ!」

「なんですと……?」

 一瞬怪訝(けげん)な顔をした家老は、言葉の意味を悟ると、急に立ち上がろうとした。

(いた)たたた……」

 きしむ体を無理に伸ばして華姫の指差す方へ目を()らし、政資は叫んだ。

「おお! 本当ですな。確かにあれは島に違いない。おおい、皆起きろ、島だぞ!」

 その知らせにぐったりしていた家臣達は体を起こし、島影を見て歓声を上げた。

「さすがは姫様ですな。さあ、櫂を漕げ。あの島を目差すぞ!」

 家老の下知の下、家臣達はよろよろと櫂をつかみ、動かない体で少しずつ舟を動かし始めた。

「誰かいるようです」

 景隣の言葉通り、島の砂浜に人影らしきものが動いているのが見えた。

「人のいる島だ!」

 家臣達は元気百倍した。櫂を漕ぐ腕にも力が入る。

 島の浜では島民達が何やら騒いでいる様子だったが、やがて数隻の舟が近付いてきた。

「助かった!」

 狂喜した家臣達はかすれた声で精一杯叫んで呼び寄せたが、丸太の小舟に乗ってやってきた者達の姿を見てぎょっとした。半裸の体に施された文身(いれずみ)や衣服の唐草(からくさ)模様など、明らかに吼狼国の民ではなかったからだ。盛んに話しかけてくるが言葉は全く分からなかった。

 急に不安そうな顔になった家臣達を落ち着かせた華姫が、もしやと思って恵国語で話しかけてみると、片言の恵国語で返事があった。ほっとして通訳らしい男に「ここはどこか」と聞くと、「暴波路(ボハロ)(こく)だ」という答えだった。華姫は驚いたが、同時に納得した。どうやら船はずっと南へ流されて、南の島国に属する小島の一つにたどり着いたらしい。

 華姫が身振りを交えて「困っているので助けて欲しい」と伝えると、島民達は頷いて舟を寄せてきて、「まず武器を渡せ」と言った。家臣達は渋ったが、華姫は指示に従うように説得した。持っていた唯一の短刀を受け取ると、島の民は一行を自分達の小舟に乗り移らせ、椰子の木に囲まれた狭い浜辺へ連れて行った。

 そこは五十軒余りの小さな村だった。全ての村人が浜に集まってきているらしく、二百人ほどが華姫達を指差して楽しそうに笑っていた。空腹を訴えると、既に用意していたのか、大きな葉に載せた果物や焼いた魚などが次々に運ばれてきた。

 久しぶりのまともな食事をむさぼる家臣達に慌てず少しずつ食べるように注意して、ゆっくりと食べ物を口に運びながら辺りの様子をうかがっていると、遠巻きにしていた人々の間から村長(むらおさ)らしい人物が現れた。

 がっしりした体一面に文身(いれずみ)をしたその老人を華姫と政資が立ち上がって迎えると、村長は厳つい顔に意外なほど人のよさそうな笑みを浮かべて、先程の人物に通訳させながら事情を聞いてきた。吼狼国人だと言うと大変驚いていたが、にこにこと笑って頷き、客人としてもてなすと告げた。

 華姫は鄭重に礼を述べ、仲間達にそれを伝えた。やり取りを不安そうに見守っていた家臣達は安心した表情になり、再び食事に専念し始めた。

 何度もおかわりして全員が満腹になると、村人は小さな板造りの小屋に案内し、ここで休むように言った。通訳は全員を中に入れると外に見張りを立てて去っていった。

「油断しない方がいいわ。念のため、誰かが交代で起きていましょう」

 華姫の提案に政資も頷き、家臣達と警戒に当たる順番を決めた。だが、大きな葉を幾枚も重ねただけとはいえ久しぶりに柔らかな寝床の上に横になると、満腹の華姫達のまぶたはすぐに落ちてしまった。

 ぐっすりと眠り込んでいた華姫は、政資に揺さぶられて目を覚ました。

 体に違和感を覚えて辺りを見回すと、手に木製の(かせ)をはめられ、そこに通した鎖でつながれていた。小屋の中には(もり)のような武器を持った村の男達が取り囲むように立っていた。他の家臣達も槍の尻でこづかれて目を覚まし、寝ぼけ(まなこ)で辺りを見回して異変に気が付くと、硬い顔になって華姫の周りに集まり始めた。

 その時、戸口が開いて、村長や通訳と一緒に恵国風の立派な衣服を着た太った男が入ってきた。商人らしいその人物は、欲深そうな目つきで品定めをするように九人をじろじろと見回した。

「これはどういうことなの? 鎖を外しなさい」

 華姫が通訳に言うと、商人はにやりと笑い、恵国語で答えた。

「お前達はわしが買い取った。明日からわしの船に乗ってもらう」

「あなたは何者なの? 買い取ったとはどういうこと? どこへ連れて行くつもり?」

 華姫が用心しながら尋ねると、男は笑みを深くした。

「わしは貿易商だ。これからお前達を恵国へ連れて行く」

「恵国? どうしてそんなところへ行くの?」

「お前達を奴隷として売るためだ」

「奴隷……」

 華姫は青ざめた。恵国に奴隷を供給する商人の話は聞いたことがあった。彼等は近隣の諸部族の国々で狩りをして人を集め、恵国に連れて行って売り払うのだ。捕まった者達は鎖につながれて、農場や鉱山で死ぬまで働かされるという話だった。

「気付かなかったのかね。ここは牙伐魔(ガバマ)族の島の一つなのだよ。近くを通りかかった船を襲ったり、遭難した者達を捕らえたりして我々に売る。時には暴波路国まで人狩りに行って奴隷を捕まえてくる。そうやってこの貧しい村は生活しているのだ」

「牙伐魔族……警戒して当然だったのに。私の責任だわ」

 華姫は肩を落とした。

 牙伐魔族は暴波路国の一部族だが、住む島がやや離れていることとその凶暴性から他部族と対立し、今では事実上独立状態にある者達だ。牙伐魔族領には目立った産業がなく、貧しさから暴波路国を襲撃して略奪を働き、住民を捕らえて奴隷として売り払ったり、吼狼国と恵国の間を行き交う貿易船を襲って荷を奪い船員を連れ去さったりするので恐れられていた。

 奴隷商の隣では通訳の男がにやにや笑っていた。

「吼狼国の民は珍しいしよく働くから高く売れる。皆体が頑丈で力がありそうだ。よい値が付いたと村長も喜んでいたよ。これで新しい着物が買えると女達がはしゃいでいるのが見えていただろう」

 村長も村の男達も皆欲深そうな顔で笑っている。華姫から状況を聞いた家臣達は歯ぎしりして悔しがり暴れ出そうとしたが、華姫が(さと)した。

「武器もなく鎖につながれていては戦っても勝ち目はないわ。それに、ここは小さな島だから逃げてもすぐに捕まってしまう。今は耐えましょう。いつかきっと逃げ出す機会があるはずよ」

 家臣達はうなだれ、憎々しげに村人達をにらみ付けた。その様子を村長は嘲笑うような目つきで見下ろすと、奴隷商と連れだって出て行った。

「おい、女」

 村人の一人と話していた通訳が華姫に声をかけた。

「その指にはめているものをよこせ」

 村の男が華姫の指輪を物欲しそうに見ていた。

「いやよ」

 華姫は即答した。

「これは夫との絆の(あかし)なの。絶対に渡さないわ」

「ならば、力ずくで奪うまでだ」

 通訳から華姫の返事を聞くと、村人は手を伸ばして華姫の細い手首をつかんだ。華姫は思わず悲鳴を上げ、後ずさりながら手を振り払おうとしたが、丸太のような太い腕はびくともせず、村人の方へ引き戻された。

「抵抗すると痛い目を見るぞ」

 通訳が脅し、村人はしびれるほどきつく腕を握りながら、片手で手を開かせて指輪を外そうとする。華姫は(こぶし)を固く握り込んで必死で抵抗し、素早く男の足を払った。相手がよろけた隙に華姫は手を取り戻し、壁際まで下がった。男が舌打ちして銛を向けると、家臣達が殺気立ち、華姫の周りに体で盾を作った。

「華姫様を傷付けることは許さぬ」

 政資が一語一語をゆっくりと口にしながらにらみ付けた。周囲の村人達も銛を構えたが、政資らの気構えが分かり、商品に傷を付けるわけにはいかないと考えたのか、攻撃をためらっているようだった。

「ちっ、強情な女だ」

 恵国語で罵った通訳が何かを話すと、村人は渋々銛を下ろし、意味の分からない言葉を早口でまき散らしながら小屋を出て行った。その後に通訳や他の村人も続き、九人だけが残された。

「みんな、ありがとう」

 華姫は指輪をした左手をもう一方の手で胸に抱え込んだ。

「これだけは渡したくなかったの」

 政資が頷いた。

「泰太郎殿との思い出の品ですからな。わしらも同じ気持ちです」

 華姫は横を向いて浮かんできた涙を隠した。礼儀として目を逸らした家臣達は、この先に待ち受けているであろう悲惨な運命を想像して、壁の隙間から夕日が差し込む薄暗い小屋の中で長い間黙り込んでいた。

 翌日の朝、食事を与えられた華姫達は槍で囲まれて歩かされ、奴隷船に乗せられた。海国丸の半分ほどの大きさの古く汚れた船の甲板では、十数人の武装した兵士が無表情で並んで新しい積荷を迎えた。

 連れて行かれたのは船底の倉庫だった。そこには既に十人余りの暴波路国人の奴隷がいて、不潔で薄暗く、つんと鼻を突く悪臭の籠もった中で、虚ろな目をしてじっと座り込んでいた。華姫と家臣達はその光景を見て、これから始まる長い船旅をこの灯りもない暗い部屋の中で過ごすのかと思うと陰鬱な気分になった。

 船はすぐに動き出した。海国丸で覚えのあるゆったりとした揺れを感じながら、家臣達は思い思いに丸くなって不安と戦っていた。華姫も船倉の隅に座り、家臣達の訴えるようなまなざしに頷き返して元気付けながら、逃げ出す方法を考えていた。

 航海は順調だった。船は毎日どこかの港に停泊し、そのたびに新たな奴隷が増えて船倉は次第に狭くなった。奴隷の多くは罪人や貧しい階層の者達らしく、長く牢に入れられていたのか、服がぼろぼろの者や、髪や(ひげ)がぼうぼうの者が多かった。奴隷はほとんどが男で華姫は明らかに異分子だったが、家臣達が華姫を囲んで守って他の奴隷達を寄せ付けなかった。

 船が港に着くたびに華姫達は脱出の機会をうかがったが、警戒は厳重で、船倉の入口には常に武装した兵士が複数立っていたため断念するしかなかった。

 やがて、奴隷船は長い航海に入った。いよいよ恵国に向かうと知って、家臣達は更に絶望を深くした。だが、華姫は言葉が分かり吼狼国の商人が訪れる恵国の方が逃げ出す機会は多いと考えていたので、早く着いて、このごみ捨て場のような匂いのする倉庫を出たいと願っていた。


 暴波路国と恵国の間の広い海は(あらし)(うみ)と呼ばれている。その名の通り、奴隷船は何度か嵐に襲われたが、幸い沈むことはなく、十日の航海の末に恵国に到着した。

 市の立つ日まで数日あったので、奴隷達は船内に留められていた。華姫はいよいよ脱出の機会が来たと考え、家臣達と話し合った。海の上では逃げ出しようがないが、陸地ならば上手くすれば追っ手をまくことも可能だ。吼狼国商人の屋敷に逃げ込むことさえできれば、こちらは(れっき)とした封主家の姫君と家臣なのだから、保護を求めることは難しくないはずだった。

 脱出に際し、華姫は全員一緒に逃げようと言う家臣達を説得して、九人がばらばらに分かれて逃げることに決めた。一人でも逃げ延びることに成功すれば、仲間を助けに来ることができる。奴隷なのだから金を払えば買い戻せるはずだ。だが、一網打尽(いちもうだじん)にされてはそれが不可能になる。そう説明されて家臣達は渋々従ったが、華姫を一人にすることには反対した。全員が護衛を申し出たが、政資が自分が付いていくと主張して譲らず、家臣達もご家老様ならと納得したので、華姫もそれは受け入れることにした。

 正直、言葉が通じるとはいえ、女一人で知らない国は心細かったのだ。景隣も華姫との同行を望んだが、怪我をしている身では足手まといだと言われて、他の家臣と共に逃げることになった。家臣達はせめて華姫だけでも逃がしたいと思っているらしかったが、実際のところ、封主家の息女で大商人幟屋の関係者でもあり、玉都で有名だった華姫が一番現地の商人と交渉がしやすいので、妥当な判断でもあった。

 奴隷市の日がやってきた。九人は脱出の決意を胸に、久しぶりの日光に目を細めながら甲板に出て、町の風景に絶句した。そこは明らかに南国だったのだ。ぎらぎらと射るような熱い日差しとじめじめした蒸し暑さの中、橙色の屋根に煉瓦(れんが)造りの茶色い壁の家屋が雑然と立ち並び、あちらこちらに椰子(やし)やそてつの木が高く伸びていた。人々の衣服は日焼けした浅黒い肌を随分と露出させている。

 これはどう見ても吼狼国人が一般に想像する恵国の町並みとは違っていた。吼狼国商人が進出しているのは主に恵国の中部から西に突き出た半島の沿岸なのだが、ここはかなり南の方らしい。町は相当な大きさで、高い城壁に囲まれている。港には大勢の人々がいたが、吼狼国人らしい姿は見えなかった。中には明らかに恵国人でない者もいた。服装からすると南方の暑い森に住むと聞く諸部族に違いない。ということは、恵国の南の国境に近い。

 華姫は町へ入る門に扁額(へんがく)を見付けて眼を凝らし、そこに()られた地名に驚いて、やはりと思いつつ、がっかりせずにはいられなかった。ここは恵国の最南部で、吼狼国人が滅多に来ない地方だったのだ。この大きな町にさえ吼狼国人は一人もいないかも知れない。華姫は絶望的な気分になったが、自分の様子をうかがっている家臣達の手前、硬くなりそうな表情に無理に笑みを浮かべていた。

 恵国の文物(ぶんぶつ)に詳しい華姫でさえ初めて目にする異国の街並みに心が躍るとはとても言えない気分だったのだから、他の八人はあまりに吼狼国と違う景色に愕然として、本当に遠くへ来てしまったと実感しているようだった。互いに不安そうな視線を交わし、問うように華姫を見つめてきたが、華姫はそれに力強く頷き返して勇気付けた。華姫は脱出を決行する意志を変えなかった。売られてしまってはどうしようもないのだ。その前に何とか逃げ出さなくてはならなかった。

 手首の枷を太い鎖でつながれた奴隷達は船から下ろされ、周囲を大勢の兵士に囲まれながら街の大通りを一列に歩かされた。

 通り沿いの商店には見たことのない農産物や南方風の工芸品などが山と積まれ、強烈な香辛料の(にお)いのする軽食を売る店などがあった。あちらこちらに綿の文字が見えるから、どうやらこの地域の主要な産業は綿花(めんか)の栽培らしい。となると、この大勢の奴隷はその農場で働かせるのだろうと想像された。

 町は繁栄していたが、貧しい人の姿も多かった。大きな商店や邸宅が続く表通りはにぎやかだが、路地の奥には古びて壊れかけた家々が並び、多くの飢えた子供達が道端で膝をかかえていた。恵国は長い戦乱で経済が破綻(はたん)して民が苦しんでいると泰太郎が語っていたことが思い出された。

 華姫は商店の看板や立て札から情報を集めようとしたが、吼狼国との接点は見付からなかった。これでは、助けを求めるには、この町を出て同朋のいるもっと北の地域へ向かうしかない。絶望はますます深まったが、華姫はそれに耐えながら、必死で頭を回転させて、兵士達に隙ができるのを待っていた。

 脱走の機会は偶然訪れた。奴隷の長い列の前を、羊の群れが横切ったのだ。町の中だというのに、千頭はいそうな羊が途切れることなく通りをゆっくりと歩いていく。今日は市が立つ日だから農民が売りに来たらしい。珍しいことではないようで、町の人々は動物達が通り過ぎるのをのんびりと待っている。

 行く手を塞がれて奴隷の列は自然に止まった。奴隷達は立ったまま道が空くのを待ったが、羊の流れはしばらく続きそうだった。

 しびれを切らした兵士達が持ち場を離れて列の先頭へ集まっていった。周囲の兵士の数が減ったのを見た華姫は家臣達に目配せした。

 頷いて、家臣の一人がうめき声を上げて倒れた。腹を押さえて苦しそうに身もだえしている。家臣達が周囲に集まり、兵士を呼んだ。他の奴隷達は曇った目でそれを眺めていた。

「どうした?」

 列のそばに一人だけ残っていた兵士が近付いてきて、槍を杖に家臣の顔をのぞき込んだ。

「く、苦しい……」

「おい、しっかりしろ! こんなところで倒れられては困る」

 しゃがみこんだ兵士の背後にそっと回った景隣が、一瞬の隙をついて槍を奪い取った。景隣はくるりと穂先を回転させると、驚いて振り向く兵士の腹部へ突き込んだ。兵士は苦悶の声を上げて倒れた。

 景隣は家臣達に地面へ手を付けさせ、両手首を拘束する木の枷の蝶番(ちょうつがい)を刃先で突いて壊した。枷が外れて手が自由になると、今度はその家臣が槍を受け取って景隣の手を解放した。

 全員の鎖が外れると、家臣達は頷き合って一斉に別々の方向へ逃げ出した。それを見た他の奴隷達も槍を拾って枷を外し始めた。

 たちまち大騒ぎになった。事態に気が付いた兵士達が戻ってきて追いかけ始める。華姫も政資と一緒に走って逃げた。数人の兵士が追ってきたが、細い路地を何本も抜けて振り切り、全力で町の外を目差した。

 大通りへ出ると、町の門が閉じていくのが見えた。兵士が門の前に集まっている。町から逃げ出すのは無理のようだった。

 やむなく華姫達は引き返し、裏通りを選んで走りながら隠れる場所を探した。

 やや広い通りを横切り、狭い路地に入り込んで角を曲がったところで、華姫は何かに足を引っかけてつんのめった。

 道に倒れた華姫は、すぐに体を起こした。とっさに伸ばした手に付いた砂をはたいて後ろを振り返ると、転んだ原因は路地に座り込んでいた貧民の足だった。

 その中年の男は尻を土に付けて膝を伸ばし、目を閉じて崩れかけた塀にもたれていた。男のいかにも疲れ切った無気力な表情に、華姫は驚いた。男は胸の骨が浮き上がるほど痩せ細り、もともとは立派だったらしい着物はすっかりぼろぼろになっている。恐らく以前は何かの商売をしていたが、失敗して落ちぶれたのだろう。この男も恵国経済の混乱の犠牲者に違いなかった。

 数歩先を走っていた政資が戻ってきた。

「姫様、お怪我はありませんか」

「大丈夫よ」

 聞き慣れぬ言葉に男は薄目を開けて橙色の小袖姿の華姫を見たが、すぐに興味がなさそうに目をつぶった。

「ありがとう」

 政資が伸ばした手を華姫がつかもうとした時、表の通りを走る複数の兵士の叫び声が聞こえてきた。

「吼狼国人の男八人と女一人が逃げ出した。捕まえた者には一両の報奨金が出るぞ!」

 声の近さに思わず身をすくめた華姫は、男が目を見開いて華姫の顔を食い入るように見つめていることに気が付いた。

 はっとした華姫の腕を、男が強くつかんだ。

「ここだ! ここにいるぞ!」

 まるで金塊の山を前にしたかのように目の色を変えた男を見て、華姫の全身に震えが走った。と、政資が男の腕を握ってその腹へ蹴りを入れた。男はうめいて手を離した。

「大丈夫ですか」

 硬直していた華姫は我に返って頷き、政資の手につかまって立ち上がった。

「急ぎましょう!」

 言いながら、華姫は既に走り出していた。背後で男が慌てて立とうとして転ぶ気配がした。褒美の一両を惜しむ悲痛な叫び声を振り切るように、華姫は狭い路地を必死で逃げていった。

「こっちよ!」

 角をいくつか曲がって裏通りの更に裏へ向かった華姫は、小さな家畜小屋を見付けて飛び込んだ。十頭ほどの羊をかき分けて奥へ進み、突き当たりの壁際にある飼料の山に近付くと、隙間を作って潜り込み、頭から干し草を被った。政資もすぐにそれにならった。

「暗くなるのを待つしかないわ。夜になったら海から街の外へ逃げましょう」

 頷き合った二人は、仲間達の幸運を祈りつつ、息をひそめてじっとしていることにした。

 数刻が過ぎた。何度か兵士の声が聞こえてひやりとしたが、小屋の中をざっと見回しただけで気付かずに去っていった。南国の家畜小屋は蒸し暑く、干し草と動物達の匂いでむせかえるようだった。蠅の飛ぶ音と羊の鳴き声、かすかに聞こえる町の喧噪(けんそう)に耳を澄ませながら、額に浮かぶ汗に耐えている内に、市の始まる正午を過ぎ、暑さがますます厳しくなってきた。

 外の騒ぎも収まったようで、どうやら捜索は打ち切られたらしいと安堵した時、町を歩き回る兵士の叫び声が聞こえてきた。

「吼狼国人の女とその連れに伝える! 仲間は全員捕まえた。大人しく出てこい。さもなくば、一人ずつ火あぶりにする!」

 華姫が家老に意味を伝えると、政資は首を振った。

「あれはただの脅しです。だまされてはいけません」

 華姫は目に怒りを燃やして黙っていた。

「七人の処刑は鐘が百鳴ったら開始する。それまでに出てこい。そうすれば命は助けてやる」

 しばらくして市場の鐘が鳴り始めた。寺院の釣り鐘のような長く尾を引く大きな音がゆっくりと響いてくる。親切なことに、十回ごとに二回続けて鳴らして区切りを教えてくれた。

 十。

 二十。

 三十。

 華姫の表情は次第に険しくなっていった。

 五十を過ぎた時、華姫は体を起こそうとした。

「姫様。なりませぬ」

 政資が華姫の肩を押さえた。

「ここはこらえるのです。わしらだけでも生きて戻るのが、あの者達のためですぞ」

 干し草の中で身を起こしたまま、華姫はためらっていた。

 六十。

 七十。

 八十。

 九十の鐘を聞いた時、華姫は体の草を払いのけた。

「姫様!」

 止めようとする政資の腕を振り払って、華姫は立ち上がった。

「全員で生き延びて国に帰ろうと私は言ったわ。誰一人見捨てないと約束もした。ここであの人達を犠牲(ぎせい)にして助かっても喜べない」

 華姫は羊の間をかき分けて外へ向かった。突然現れて歩いていく人間を、羊達は驚いたように見送った。政資はやむなく立ち上がり、華姫に追い付くと、隣に並んだ。

「私も参ります」

 華姫は家老に頷くと、二人で通りへ出て声を上げた。

 兵士達に囲まれて連れて行かれたのは市場の隣にある広場だった。片側に観覧席が設けられていて、中央に並ぶ太い木の(くい)に数百人の奴隷が手の枷の縄を結び付けられて、立ったまま売られる順番を待っていた。

 広場の外れには七本の柱が立ち、縛られた家臣達の足下に(まき)の山が積まれていた。

 体中に殴られた跡のある家臣達は、華姫と政資を見て顔をくしゃくしゃにした。景隣は華姫の無事な姿に、安堵したような悲しむような表情になった。

「私はあなた達を見捨てないわ」

 家臣達に笑いかけると、華姫は奴隷商の方を向いた。

 商人が顎をしゃくると、兵士達が華姫と政資を両側から拘束した。奴隷商は華姫を上から下までじろじろ見回して状態を確認すると、いきなり頬をぴしゃりと叩いた。家臣達が一斉に(うな)り声を上げた。

「姫様に何をするか!」

 政資は捕まった際に殴られて血だらけの顔を一層真っ赤にして、震える声で奴隷商を怒鳴り付けた。華姫がきっとにらみ返すと、奴隷商は肉で丸く膨れ上がった顔を醜く歪めた。

「お前達のせいでとんだ出費だ。兵士達に礼金をはずまねばならん。余計なことをしおって」

 奴隷商は吐き捨てるように言うと、兵士に身振りで鎖に繋げと指示して行ってしまった。

 二人が手に枷をはめられて杭につながれると、七人も柱から下ろされ、列の最後に並ばされた。

 競売が始まった。五人の奴隷商が売り物を連れてきていて、競売人が呼ぶと、奴隷が一人ずつ前に引き出される。奴隷の出身地は様々で、暴波路国人の他に、捕らえられた南方の部族の民や隆国の兵士、それに恵国人も多かった。恵国人の奴隷のほとんどは、重い税と経済の混乱で落ちぶれて借金を返せずに連れてこられたり、貧窮した家族に売られたりした者達だった。

 上半身を裸にされた男達の体付きを農場主達がじろじろと見回して値段を付け、一番高い値を提示した者がその奴隷を手に入れる。女達は服を着たまま顔がよく見えるように見物人の前を歩かされたが、服をはぎ取って体付きを確かめる買い手もいた。子供の奴隷も十両ほどで売られ、母親と引き離されて泣き叫びながら引きずられていった。

 華姫達の順番は最後だった。九人まとめて引き出され、吼狼国の武家出身と紹介されるとどよめきが起こった。数十人の買い手と、その数倍の見物人が、日に焼けているとはいえ他の奴隷達より明らかに肌の白い彼等をじろじろと眺め、筋肉の付き具合や健康状態などを品定めしていた。だが、誰も値を付けようとはしなかった。

「さあさあ、珍しい吼狼国人だよ。武家だから教養があるし、腕も立つよ!」

 競売人が叫んで板を木槌で叩くと、ようやく数人が声を上げた。

「右端の男に三両!」

「真ん中の男に五両!」

「左の二人合わせて八両だ!」

 付いた値の低さに、競売人の横で()りを見守っていた奴隷商は、顔をしかめて舌打ちした。

「兵士達への礼金もあるのだ。こんな値段では話にならん。せっかくの掘り出し物だというのに、脱走などとするから値が下がったわい」

 逃げ出そうとする奴隷は使いにくい。しかも武芸ができるのでは反抗されるとやっかいだ。恵国語が話せないのも大きい。暴波路国人なら他にも使っているから仲間に世話をさせて少しずつ言葉を教えればよいが、吼狼国人となるとこの地方で通訳を見付けるのは困難だ。特に政資は年齢が高いので誰も値を付けなかった。

 声を上げる者もいなくなり、会場は静まりかえった。

「さあさあ、もう誰もいないかい。よく働くと評判の吼狼国人を買うなら今だよ。全員健康で体力もありそうだが……」

 競売人の声も勢いがなくなって尻つぼみになる。

「大損だ」

 奴隷商が頭を抱えた時、声が上がった。

「男八人まとめて百両だ!」

 叫んだのは、最前列の特等席に座っていた小柄な老人だった。

「最近死ぬ奴が多くてな。体の丈夫そうなのが欲しかったのだ」

 群衆がざわめいたのは、値段の高さと買うと言った人物が意外だったかららしい。がっしりした体格の大男を連れているこの老人は、それまで何度も奴隷を落札していたから、恐らくかなりの数の奴隷を所有しているのだろう。

「全員わしが引き受けよう。八人で百両なら文句あるまい?」

 やや甲高い声で老人が言うと、他の応札者は黙り込んだ。どうやら諦めたらしい。

「異存のあるやつはいないな? ではわしが買い取るぞ」

 奴隷商は渋々といった風に頷いた。これが限界だと思ったらしい。席を離れて歩いてくる老人と握手しようと歩み寄った。

「待って!」

 華姫が大声を上げた。老人のそばに駆け寄ろうとすると、兵士が慌てて縄を引き戻した。

「私も買ってくれないかしら?」

 華姫は引っ張られながら叫んだ。

「その人達と一緒に買って欲しいの」

 老人は振り向き、華姫を上から下までじろりと眺めると、首を振った。

「女はいらん」

 そう言って老人は背を向けようとした。

「医術を知っているからきっと役に立てると思うわ。あなたの侍医になってもいい」

 華姫は諦めなかった。

「奴隷達の治療もするわ」

「必要ない」

 老人は首を振った。

「奴隷はいずれ死ぬ。死んだらまた買えばいい。それだけのことだ」

「お願い!」

 華姫は食い下がった。

「私は恵国語が分かるから通訳になれるわ。その人達は家臣だから私の言うことに従うの。私がいれば彼等を上手く働かせることができるわよ。雑用でも何でもするから、一緒に連れて行って頂戴」

 華姫は頭を下げて頼み込んだ。老人は少し考えてから華姫の全身をもう一度じっくりと見回し、奴隷商に首を向けて尋ねた。

「いくらで売る?」

「三十両ですな。言葉が分かり医術を知っているとなると、買い手は大勢おりますので。見た目もなかなかですし」

 奴隷商はここぞとばかりに吹っかけたが、値段を聞いて、老人は首を振った。

「やはり必要ない」

 そのまま席に戻ろうとする。

「で、では、二十両ではどうです?」

 奴隷商は慌てて老人の前に回り込んで引き留めた。言葉が分かり知識が豊富とはいえ、逃亡の首謀者とあっては買い手が付かないのは明白だったからだ。

 逃げようとする者に普通の家事労働はさせられない。鎖で繋ぐかどこかに閉じ込めて行動を制限するような仕事にしか使えないのだ。なまじ言葉が分かるから逃げ出すと始末が悪い。となると女の場合綿織物の加工場で働かせるか娼家(しょうか)くらいしかないのだが、工房の(あるじ)達はすでに必要な奴隷を買ってしまっていたし、娼家の払う値段は非常に安い上、この気が強く誇り高い女が、容姿はともかく、娼婦に向いているとはとても思えなかった。

 奴隷商は売り付けようと必死に見えたので、華姫も加勢した。

「お願い。一緒に連れて行って。買ってもらえるならどんな仕事でもするわ」

 華姫が頭を下げると、成り行きを見守っていた家臣達も一斉にそれにならった。老人は立ち止まり、首をひねった。

「三両なら買おう」

「そ、それはいくら何でも……」

 奴隷商は悲鳴を上げた。娼家の買値より安い。

「せめて、十五両で」

「嫌なら買わん」

「では、十両」

「もう一声だな」

 奴隷商は自棄(やけ)になったように叫んだ。

「ご、五両! これ以上は絶対に負けませんぞ。それ以下なら自分で使った方がましです。その女には金がかかっているのですからな」

「よかろう」

 老人はにやりと笑って頷いた。

「それで手を打とう」

戴白(たいはく)さんにはかないません」

 奴隷商は顔の汗を布でぬぐいながら言った。とにかく売れてほっとしたらしい。老人に手を差し出し、契約の握手を交わした。

 何とか買ってもらうことに成功した華姫は安堵の溜め息を吐いた。家臣達も華姫がどうなるか不安だったらしく、同じ人物に買われたと知って喜んでいた。

「ありがとうございました」

 華姫が礼を言って頭を下げると、戴白(たいはく)という老人は、冷え切ったまなざしで華姫を一瞥(いちべつ)した。

「感謝するのも今の内じゃろうな。管杖(かんじょう)、金を払ってやれ」

 そう言って老人は席へ戻っていった。

 管杖(かんじょう)と呼ばれた大男が九人を受け取ったところで、この日の競売は終了となった。見物の人々は席を立って散っていく。南国の午後の苛烈な太陽が、鎖で繋がれて歩かされる奴隷達の肌を焼いていた。

 戴白と管杖は九人を繋いだ縄を部下らしい兵士に持たせて歩き出した。

「どこへ行くの?」

 華姫が尋ねると、老人は「行けば分かる」とだけ答えた。

 九人は広場の外れに連れて行かれた。そこには既に二十人ほどの奴隷が集められていた。全員暴波路国人の男でたくましい体付きをしている。鉄格子を巡らした護送用の馬車が五台並んでいて、その回りでは武装した兵士が四人ずつ槍を構えて、奴隷達の乗車を促していた。他にも食料らしい荷を積んだ馬車が十台ほど準備を整えて出発を待っている。

 それを見て華姫と政資は顔を見合わせた。自分達以外にも買われた奴隷がいることは知っていたが、これほどとは思わなかったのだ。先程老人は最近死ぬ奴が多いと言っていたので、彼等も自分達も補充用だろう。ということは、今から向かう場所では三十人もの奴隷が死んだのだ。奴隷商の態度からすると老人はしばしば奴隷を購入してくれる上得意らしいので、奴隷の死は頻繁に起こるに違いない。食料の量を見ても相当の数の奴隷を使っているようだ。それに、完全武装の兵士がこんなにいるのも不思議だった。

 華姫は嫌な予感がしたが、逃げ出すこともできず、仕方なく馬車に乗り込んだ。

 全員を収容すると、馬車の列は動き出した。屋根は木製だが側面は鉄格子(てつごうし)なので景色が見える。馬車は真っ直ぐ大通りを突っ切って門へ向かい、そのまま町の外へ出ると、広々とした平原の中の一本道を進み始めた。

 華姫は町の周辺を見回して風景を頭に叩き込もうとした。吼狼国や恵国北方へ行く船便を捕まえるとしたら、この辺りで最大の町らしいあそこなのだ。いつ戻ってこられるかしらと思いながら、華姫は次第に遠ざかる町の高い城壁を眺めていた。

 畑の広がる平原が終わって鬱蒼(うっそう)とした森へ入っても馬車は止まらなかった。もう町からかなり離れている。どんどん内陸の方へ向かっているようだ。この細いでこぼこ道のほかは深い森がどこまでも続いている様子なので、逃げ出すとしたらこの道を戻るしかなさそうだった。

 そうしてどのくらい揺られただろうか。歩けば半日はかかりそうな距離を進んだ頃、馬車は坂を登り始めた。奴隷と兵士達の重みで速度が落ち、御者が何度も馬に鞭を入れた。辺りの木々は一層密度を増し、時々、ぎゃあ、という奇っ怪な鳥の声が響いていた。

 と、急に坂が終わった。同時に辺りを覆っていた森が遠退(とおの)いていく。かわりにむき出しの土と岩が見えた。

 監視塔の付いた高く長い塀の門をくぐり、ようやく馬車が止まって下ろされた時、華姫は悪い予感が当たったことを知った。ここは鉱山だったのだ。目の前に沈みかけた夕日を浴びた小山があって、中腹にたくさんの穴が開いている。坑道の周りには掘り出された土砂の山がいくつも盛り上がり、半裸の奴隷達が鉱石が入っているらしい麻袋を運んでいた。

「姫様」

 隣に立った政資が言った。

「最悪の場所に来てしまいましたな」

 華姫は頷いた。農場ならまだよい。労働はきついだろうが命の危険は少ない。だが、鉱山はそうはいかない。いつ事故があるか分からないし、粉塵(ふんじん)まみれの環境は体をむしばんでいく。華姫の知識では、こういった鉱山で強制労働をさせられる奴隷の寿命はせいぜい十年だったはずだ。多くの奴隷は二十歳そこそこで捕まるから、三十まで生きられるかどうかということだ。

「早く逃げ出す算段をしないといけないわね」

 華姫の言葉に、政資が無言で頷いた。


 この鉱山は銅の鉱石を掘っていた。港の町にある銅銭の鋳造場(ちゅうぞうじょう)へ材料を供給しているのだ。ここにいる奴隷は全て安価な暴波路国人で、監視の兵士だけが恵国人だった。仕事が単純な肉体労働なので、言葉が通じなくても問題が少ないからだろう。

 また、この鉱山には男しかいなかった。華姫は唯一の女性だったのだ。それを知った華姫は、与えられた元は物置だったらしい専用の小屋の扉に鍵を付けて用心したが、鉱山奴隷も仲間の雑用奴隷達も華姫には興味がないようだった。その理由はすぐに分かった。鉱山の仕事は予想以上にきつかったのだ。女に振り向ける余裕は体力的にも精神的にもないということらしかった。見張りの兵士達はあの老人に禁じられているらしく、近寄ってもこなかった。

 華姫の役割は雑用の手伝いで、一日中休む暇なく働かされた。朝は一番に起こされて、他の雑用係の男奴隷達と一緒に食事の支度をした。料理は質の悪い米の飯と干し肉の欠片を入れた汁物と決まっていた。二十人で奴隷千人分の食事を作るのだから大忙しだった。見張りの兵士百五十人の分は別の係が作り、中身も違っていた。鉱山の所有者である戴白(たいはく)老人の豪華な食事は、鉱山の麓の彼の屋敷にいる専門の料理人が作っているという話だった。

 朝食の準備ができると、華姫達は手分けをして奴隷達を起こしに行った。彼等が食べ終えて仕事に出て行くと、自分の食事を済ませてから後片付けをし、各部屋の前に出されている汗と泥で汚れた作業服を回収して、敷地内を流れる小川で洗濯する。それを干した後は鉱石を入れる袋を縫ったり藁紐(わらひも)をなったりする。洗濯物を取り込んだら夕食の支度をし、夜は翌日の朝食と昼飯時に配る饅頭(まんじゅう)の下ごしらえだった。

 寝る頃にはへとへとになったし、洗い物で手は荒れ、慣れぬ縫い物に針傷をいっぱい作ったが、華姫はまだよかった。仕事は量こそ多いものの単純な作業ばかりだったのでこつをつかむのは早かったし、座ってする作業も結構あったからだ。

 華姫はむしろ家臣達の体を心配した。この鉱山の奴隷は毎朝日が昇ると同時に起こされ、貧しい食事で一日中働かされていた。暗い坑道に入り、たいまつの明かりの下、つるはしで銅の鉱石を掘らされる。別の者がそれを砕いて砂利状にし、袋に入れて運び出し、倉庫に入れた。

 昼頃に米の粉で作った饅頭のようなものが配られて、仕事の手を止めて食べることを許されるが、それ以外は全く休憩がない。へばって座り込むと兵士が槍でつついて立たせる。空が暗くなると作業終了で、食事をして寝床に入る。入浴は洗濯する小川で三日に一度だけだった。

 鉱山の実態を知った華姫は憤慨(ふんがい)した。

「ここの奴隷の扱いはひど過ぎるわ。田美国の銀鉱山はきちんと休みを挟むように働く時間が決められているし、賃金だってなかなかのものよ。だから望んで働きに来る者が多いし、穂雲城下も鉱夫の落とすお金で潤っているの。でも、ここは働く者達を人間扱いしていないわ。賃金がないだけでも大儲けできるはずなのに、食事や待遇を悪くして少しでも経費を抑えようとしているんだわ。これでは奴隷達が早死にするのも当然よ」

 夜になって仕事から戻ってくると、家臣達は夕食の給仕に働く華姫に体の痛みを訴えた。筋肉が強張ってしまって歩くのさえつらいという。文句が言えるのはまだ元気のよい方で、口をきく気力さえない者もいた。漂流と航海中の貧しい食事で体力が衰えていたところへ激しい労働をさせられたのだから当然だった。全員武芸の心得があったので体は鍛えているはずだったが、それでも家臣達は悲鳴を上げた。華姫は按摩(あんま)の方法を教えてやって互いにし合うように勧め、何とか元気付けようとしたが、疲れ切った彼等の顔は暗かった。

 政資と華姫は逃げ出すことを諦めていなかったので、見張っている兵士の人数や交代の時間などを調べて夕食のたびに情報を交換していた。華姫は「生きて欲しい」という泰太郎の最後の言葉を胸に刻んでいたし、必ず夫の救出と死んだ者達の復讐を果たすと決意していたから、いつまでもこんな場所にいるつもりはなかった。だが、逃げ出せそうな隙はないかと尋ねる華姫に、家臣達はとても無理だとそろって首を振った。昼間は武装した兵士がたくさんそばにいるし、夜には逃げ出す体力などとても残っていないというのだ。

 それに、脱走の方法が問題だった。この鉱山は周囲をぐるりと高い塀で囲まれていた。明らかに奴隷の逃亡を防ぐためだった。唯一の門には常に衛兵が立ち、あちこちに兵士の詰め所があって昼夜を分かたず警戒している。もし脱走しようとして捕まったらどうなるかは、奴隷小屋から坑道までの間に点々と立つ十字に組まれた木の杭が物語っていた。架けられたままになっている半分白骨化した死体は、奴隷達への脅しなのだろう。

 激しい労働に家臣達の疲労は肉体的にも精神的にも日を追うごとに増していったが、中でも華姫が心配したのは景隣だった。国にいた頃は口数こそ少なかったが時々可愛らしくさえ見える純朴そうな笑顔を浮かべていたのに、鉱山に来てからほとんど口をきかなくなり、食事がすむと華姫達に頭を下げて部屋に戻り、さっさと寝てしまうのだ。

 食堂を出ていく景隣の背中を見送った華姫が他の家臣達に相談すると、彼等も若者の変化には気が付いていたが、当然だろうと思っているようだった。ここの生活が楽しいはずはないし、まだ十八歳でこんな境遇に置かれれば気落ちすることは理解できると言うのだ。

 華姫はそれに同意しつつも、どうにも気になっていた。話しかけても目を逸らして黙り込み、そそくさと席を立ってしまう。景隣の想いを知っている家臣達は照れているのだろうと笑っていたが、華姫には違う理由があるように思えてならなかった。それでも、本人が話さない以上、華姫にできることは、汁物の椀に入れる肉片の数をそっと増やしてやることくらいだった。

 景隣の元気がない理由が分かったのは鉱山に来て五日目だった。

 景隣が仕事中に倒れて担架で運ばれたと聞いて、華姫は洗濯物を放り出して駆け付けた。他の家臣達に囲まれて奴隷部屋の木の床に横になっている景隣を見て、華姫は自分を叱り付けた。どう見ても病人の顔だったのだ。額に手を当てると燃えるように熱かった。

「いつからなの?」

 蒼白になった華姫が尋ねると、家臣達はそろって首を振った。誰も知らなかったらしい。

「これです」

 政資が景隣の袴を少し下げた。脇腹の下部、腰骨のすぐ上辺りの矢傷が()んで真っ黒に変色していた。()れ上がった肉の中に矢尻らしい銀色のものが見えている。

「暑いのに服を脱ぎたがらないので不思議に思っていたのですが」

 政資はうなだれた。

「海国丸でできた傷ね。なぜ今まで黙っていたのかしら」

 華姫の言葉に、様山(さまやま)という家臣が答えた。

「ご心配をおかけしたくなかったのでしょう。我々こそ華姫様をお守りしなければならないのですから」

「そんなこと」

 華姫は溜め息を吐き、眠っている弟のような年齢の若者の乱れた髪をそっと撫でた。

「申し訳ありませんが、後は頼みます」

 家臣達は頭を下げた。そばで槍を持った兵士達が作業に戻れと急かしていた。

「とにかく治療しなくては」

 家臣達を送り出した華姫は、小川に行って水を汲んできて、傷口を洗った。痛むはずなのに、失神しているのか若者はぴくりとも動かなかった。

 景隣の腹に開いた指が入りそうな穴を見つめて華姫は決心した。これは切開して矢尻を取り出すしかない。さもないと命に関わる。それには刃物がいる。包帯もいる。熱を冷ます薬も体力を付ける栄養のある食べ物も必要だ。

 部屋を飛び出した華姫は門衛の詰め所に向かった。

「奴隷に付ける薬などない!」

 事情を話して薬と刃物を貸してくれと頼む華姫に、休憩中のうたた寝を邪魔された兵士は不機嫌そうに答えた。

「兵士用のものでもいいわ。どうしても必要なの!」

 食い下がる華姫を兵士は追い払おうとした。

「俺には分からん。管杖(かんじょう)さんに聞け」

 そう言って兵士は再び目をつむってしまった。

 華姫は考え込んた。

「奴隷市で戴白(たいはく)氏に付き従っていた大男のことね。あの人が兵士の長のようだし、そっちにかけ合った方が早いわね。きっとあの館に違いないわ」

 鉱山の麓にそびえる大きな屋敷に戴白は住んでいた。あの老人の護衛兼使用人頭だという管杖もそこにいるはずだ。

「案内して」

 華姫はもう一度兵士を揺り起こした。

「私一人では門を出られないわ。あなたが付いてきて頂戴」

「だから無理だと言っているだろうが」

 嫌そうに首を振る兵士に、華姫はわざと尊大な態度を取った。

「私の言うことを聞いておいた方があなたのためよ。私は戴白さんに会う許可を特別にもらっているの」

「そんな馬鹿な……」

 兵士は疑わしそうにしつつも目を開けたので、華姫はここぞとばかりにと畳みかけた。

「考えてご覧なさい。私はこの鉱山で唯一の女性なのよ。恵国語も分かるし、医術の心得もある。彼が私を買うのにいくら払ったと思っているの。奴隷達の健康管理も私の仕事なのよ」

 胸を張ってみせると、兵士はしばらく考えていたが、もし本当だったらまずいと思ったらしく、重い腰を上げた。

「仕方がない。連れて行ってやるから付いてこい」

 念のため、華姫の両手に枷をはめると、兵士は鎖の端を握って小屋を出た。

 戴白の屋敷にはすぐに着いた。遠目にも立派な建物だと思っていたが、近くで見ると大変な大きさだった。港の町と同じこの地域特有の橙色の瓦屋根を、書物などで見たことがある恵国北方風の灰色の壁の上に乗せた折衷様式の建物は、海国丸がすっぽり入ってしまうかと思うほど大きかった。

 内心驚きながらも、入っていくのが当たり前という顔で屋敷の中に足を踏み入れると、通りかかった使用人を呼び止めて、管杖(かんじょう)の居場所を尋ねた。

 庭にいると言われて行ってみると、戴白が木の長椅子に横になっており、その横で例の大男が何かの書類を読んで聞かせていた。

「誰だ」

 気が付いた戴白が鋭い口調で言った。

「ここに勝手に入ってきてはならんと言ってあるはずだ」

「申し訳ありません、戴白さん」

 華姫が進み出て挨拶した。

「突然お邪魔したことはお詫びします。ですが、どうしてもお願いしたいことがあって参りました」

「お前か」

 戴白が驚いた顔で体を起こすと、管杖が歩み寄ってきて立ち塞がった。

「ここは奴隷の来てよいところではない!」

 管杖は兵士を叱り付けた。

「なぜ連れてきた。今すぐ鉱山に戻せ!」

 管杖が太い声で命じると、兵士は背筋を伸ばして敬礼し、華姫を引っ張って帰ろうとした。

「待って!」

 華姫は抵抗しながら叫んだ。

「どうか話を聞いて! 仲間の一人の怪我が悪化して苦しんでいるの。私に道具と薬を与えてくれれば治してみせるわ。私に治療させて頂戴!」

「なんだ、そんなことか」

 戴白は興味を失ったように背もたれに寄りかかった。

「治療など必要ない。追い返せ」

 老人が目をつむると、管杖が華姫の肩をつかんだ。

「お願い、私にやらせて! このままでは彼は死んでしまうわ。でも、私なら助けられるかも知れない。せめて治療だけはさせて欲しいの!」

「奴隷は死ぬものだ。足りなくなったらまた新しく買ってくればよい。それだけのことだ」

「新しく買うより治療した方が安いわ。それに、買ったばかりの奴隷が死んでは損をするはずよ」

「薬代が馬鹿にならん。それに、治療してもしばらくは動けんのだろう。病人が回復するまで待つより新しく元気な奴隷を買った方が早い。管杖、その奴隷の食事を止めろ。働けぬ奴に食わせる飯はない」

 ひどい、と華姫は思った。

 人間に対する扱いではないわ。

 華姫は怒りに体が震える思いだったが、ぐっとこらえた。

 この老人はずっとそうやって生きてきたのね。奴隷を酷使して得たお金で贅沢をしていられるような人物に、人の命の価値を説いても時間の無駄だわ。

 華姫は心を落ち着けると、管杖に抵抗しないことを示して、腕を肩から降ろさせた。

「さっさと仕事に戻れ」

 関心を失ったように長椅子に横たわっている戴白に、華姫は深々と頭を下げた。

「お願いです。治療を許可して下さい。大切な仲間なんです。薬代は自分で出しますから」

 戴白は嘲笑うよう言った。

「金などどこにある。奴隷に労賃は出ないぞ。念のために言っておくが、わしはお前の体には興味がない。女など町に行けばいくらでもいるからな」

 隣に立つ兵士のなめ回すような視線を感じて華姫はぞっとしたが、ここが勝負所と、できるだけ冷静な声を作って左手を突き出した。

「これでどうかしら」

 そう言って指差したのは、白く輝く指輪だった。

「私が持っている高価な物はこれしかないの。これで薬を分けて頂戴」

 ちらりと見た戴白は首を振った。

「そんなものはいらん。女物の装飾品などわしが手に入れても意味がないからな」

 だが、戴白の頬がぴくりと動いたのを華姫は見逃さなかった。

「これは本物の金剛石よ。暴波路国の奥地で採れる最高品質のもので、私の夫は手に入れるのにかなりの金額を払ったわ。銀に宝玉をはめ込んだのは故郷で一番の職人よ。知り合いのある商人はこの指輪を見て、売れば三百両にはなると言ったわ」

 再び頬がぴくぴくと動いた。

「この指輪を買って欲しいの。三百両とは言わない。百両でいいわ。その百両で買えるだけの薬と栄養のある食べ物を買ってきてもらいたいの。本当は自分で行きたいのだけれど、それは無理でしょうから、兵士さん、あなたにお願いするわ。町まで行ってきてくれないかしら」

 兵士は何で俺がそんな使い走りの小僧のようなまねをさせられるんだという顔をしたが、念のため、対応を尋ねるように主人を振り向いた。戴白は指輪をちらちら見ながらしばらく考えていたが、諦めたように深い溜め息を吐いた。

「五十両なら買ってもよい」

「それで結構よ」

 頷いて、華姫は交渉の成功にほっとした。

「分かった。好きにしろ。買ったばかりの奴隷を死なせては大損だからな」

 欲に負けた老人は説き伏せられた悔しさと儲けられたうれしさの混じり合った表情で言った。 

「ありがとうございます」

 そんな老人を内心で軽蔑しながら、華姫は礼を言った。

「では、まずこの屋敷にある薬を見せてもらうわ。それから、短い刃物を何本か貸して欲しいの。その代金は五十両から引いてくれて結構よ。買ってきて欲しいものは今紙に書いて渡すから、急いで行ってきて頂戴。私は鉱山に戻って、すぐに治療に取りかかるわ」

 さあ、これからが本当の勝負よ。

 華姫は思った。

 必ず景隣さんを助けてみせるわ。こんなところで死なせてなるものですか。絶対に一緒に国に帰るのよ。

 華姫は戴白に一礼すると、くるりと向きを変え、兵士と管杖を促して屋敷の中へ戻っていった。


 手術はその日の午後に行われた。

 器具や薬を持って鉱山に戻った華姫は、手術に先立ち、奴隷小屋の前の平たい大きな岩をきれいに洗った。乾くのを待ってから、古い布団やぼろ切れを敷いて寝床を作り、景隣を運ばせた。

 しばらくして馬で町へ行かされた兵士が戻ってくると、薬の材料を受け取って準備を整え、太陽の明かりの下で一刻あまりをかけて切開を行った。

 刃物で人の腹を切るなど初めての経験で、肉を切る手応えや、刃先を動かすたびに流れる大量の血にぞっとしたが、戴白の許可を盾に取って呼び出した政資の援助もあって、腹に深く刺さっていた矢尻を何とか取り出すことができた。布で(うみ)を全て拭き取ると、以前梅枝家の侍医から聞いた通りに傷口を強い酒で洗ってから糸で縫い合わせて塞ぎ、買ってこさせた材料を調合した軟膏(なんこう)を塗り付け、その上から包帯をきつく巻いて血止めをした。最後に気を失ったままの景隣の口に政資が薬を流し込み、水を含ませて無理矢理飲み込ませた。

 処置が済むと、華姫の小屋に運び込み、兵士達から借り集めた布団をかけ、景隣が寒がっていると見るや自分が温めると言って肌着姿になって布団に潜り込んだ。そして、一晩中付き添って、時々額の汗をぬぐってやった。

 この手術は屋外で行われたので、昼食時の奴隷達が遠巻きに見物していた。男の奴隷達は手に米の饅頭を二つ持ち、立ち込める血の匂いに顔をしかめながら、袖をまくってたすきをかけた華姫が刃物を動かすたびにどよめきを上げていた。

 彼等は病人には無関心だったが、真剣に刃物を振るう華姫は不思議な存在に見えたようで、薄汚れながらもやはり美しい顔に汗を浮かべた二十歳の娘を見つめるまなざしには、奴隷仲間を見る時とは違ったある種の(おそ)れのようなものが浮かんでいた。

 千人の奴隷達は食事がすんでも動こうとせずに華姫の手術を眺め続けていたので、やはり興味津々で見入っていた兵士達が管杖に命じられて仕事へ戻るように促した。奴隷達はやむなく立ち上がったが、坑道へ向かいながら、何度もその奇妙な手術風景を振り返っていた。

 華姫の熱心な看病にもかかわらず、景隣の病状はなかなか改善しなかった。高熱は手術の後も一向に下がらず、額の布切れはすぐに熱くなり、枕の周りが濡れるほどの汗をかいた。あえぐような荒い息や激しい咳が続いたかと思うと、ぐったりして呼吸が弱くなり、耳を口元に近付けないと聞こえないほどかすかになってしまうこともあった。病人はのどが渇くらしく、何度もうめいて水を求めたので、そのたびに華姫は少しずつ薬湯を飲ませてやった。

 華姫は毎日景隣の体を拭いてやり、包帯を交換して傷口に薬を塗り直してから、町で買ってこさせた食材を特別に煮込んで作ってもらった汁物を口へ流し込み、薬を飲ませた。他の奴隷達は感染を恐れるらしく、華姫が食堂へ姿を見せると露骨に嫌がるそぶりを見せたが、華姫は構わなかった。家臣達も夜は交代で患者の様子を見て、華姫に休む暇を与えた。

 五日ほど高熱が続いた後、景隣の病はようやく快方に向かった。熱は次第に下がり、呼吸も落ち着いてきた。傷口も塞がり始めていた。手術は成功したのだ。

 華姫は胸を撫で下ろし、家臣達もほっとした様子になって喜んだ。目を覚ました景隣が震える手を伸ばすと、華姫はやさしく握ってやって微笑みかけた。景隣はまだ虚ろな目で華姫の顔をじっと見て涙をこぼし、再び眠りに落ちていった。

 熱がすっかり下がると景隣の意識ははっきりした。自分を助けてくれたのが華姫でその対価に指輪を失ったと聞いて、景隣は無理に起き上がって土下座しようとし、家臣達に止められた。景隣はしゃがれた声で何度も礼を言い、華姫が頷くと、横になったまま肉の落ちた頬に不思議な笑みを浮かべて、華姫の顔をいつまでも眺めていた。

 景隣の容態が安定して数日が経った頃、若者と華姫が寝泊まりしている小屋に、一人の奴隷がやってきた。

 叩かれた扉を開いた華姫に、二十一、二歳のその奴隷は左腕を見せた。その腕は明らかに折れていた。驚いた華姫が最近覚えた片言の暴波路国語で尋ねてみると、天井から落ちてきた岩を避けようとして転んだということだった。腕の中程が紫色に腫れ上がっていて、奴隷は痛みに顔をしかめていた。

 華姫は佐足(サタル)と名乗ったその奴隷を中へ入れると、小屋にあった椅子から足を一本引っこ抜いてきて、腕に添え木をして包帯で巻いてやった。そして、痛みを和らげる薬を渡し、一包みをその場で飲ませた。

 残りは食後に飲むようにと身振り手振りで説明していると、部屋に兵士が入ってきた。兵士は槍でサタルを小突いて、「仕事に戻れ」と言った。

 華姫は驚いた。骨折している者には鉱石を掘るなど無理に決まっている。華姫が抗議すると兵士も困った顔をしたが、決まりは決まりだと言う。

 そこで、華姫は兵士とサタルを連れて兵士達の寝泊まりする小屋に行った。管杖はいつもはそこにいると聞いていたのだ。

 入ってきた華姫を見て管杖はまたお前かという顔をし、華姫が「この奴隷を休ませて欲しい」と言うと、不愉快そうに首を振った。

「駄目だ。奴隷は働くものだ。動けないなら仕方がないが、動ける以上は働かせる。戴白様には、働かぬ奴には飯は食わせるなと言われている」

 当のサタルは管杖の前に連れてこられた時点で逃げ腰だったので、やれと言われれば無理にでも仕事をするのだろうが、医者として片腕の動かない者を坑道で働かせるわけにはいかないと考えた華姫は、交渉の仕方を変えた。

「働かなくていいとは言わないわ。できる仕事に変えて上げられないかしら。例えば雑用よ。食事の支度や洗濯の手伝いなら、片手でもできることはあるわ。これなら休ませつつ働かせられるわ」

「例外を認めるわけにはいかんのだ。さっさと仕事に戻れ」

 管杖は追い払おうとしたが、華姫は諦めなかった。

「考えてみて。この腕で鉱山の仕事は現実的に無理よ。片腕の人がつるはしなんか持っていたら危ないわ。仕事にならないばかりか、他の人の邪魔よ」

「それはそうかも知れんが……」

「だったらできる仕事をさせた方がいいわ。私達も助かるし、この人も食事をもらえる。食事をしなくては怪我は治らないわよ。できることで働きながら食事をもらって、腕が治ったらまた元の仕事へ戻ればいいのよ。それでどうかしら」

「ううむ……」

 管杖はしばらく首をひねっていたが、結局は頷いた。

 結果を知らされたサタルは顔をぱっと明るくした。何度も華姫と管杖に頭を下げてから、サタルは兵士に連れられて出て行った。

「あの男も治療したのか」

 管杖が尋ねた。

「私にできることをしただけよ」

「そうか」

 管杖は何かを考える風だったが、黙ったまま身振りで華姫を追い出した。

 この事件はたちまち噂になった。翌日から怪我をした奴隷達が次々に華姫のいる小屋を訪れるようになったのだ。

 多くの奴隷が景隣の手術を見ていたし、起きられるようになった若者が食堂に現れたのを確かめていた。それに、戴白の屋敷へ華姫を連れて行った兵士やサタルから、鉱山主の老人や恐れられている兵士長と対等に交渉した話が広がったので、華姫に対する評価が一気に上がったのだ。

 鉱山では怪我をする奴隷が後を絶たなかったが、これまでは自分で治すしかなかったし、治るまでは働けない者として食事をもらえなかった。それが、治療を受けられる上に仕事を軽減してもらえるというのだから、奴隷達が喜んだのは当然だった。

 続々とやってくる奴隷達を、華姫は嫌な顔をせずに治療してやった。ぐったりした仲間を同郷の者が抱えてきたりすると、華姫は片言の暴波路国語でやりとりしながら病状を調べ、傷の手当てをし、薬を調合して渡した。おかげで薬の在庫はどんどん減っていったが、華姫はけちけちせず、できるだけのことをしてやった。

 華姫は評判を聞いて訪ねてきた兵士達も治療したので、彼等からも一目置かれるようになった。おかげで足りない薬の材料の調達を町に行く兵士に頼めるようになったし、薬草を採りに行く時など、かなりの自由を認めてもらえるようになった。

 華姫は医師としての地位を確立すると、病気や怪我の治療だけでなく、奴隷の生活環境や食事の内容にまで口を出し始めた。脚気(かっけ)に苦しむ奴隷や兵士が少なくないことに気が付いていたので、朝夕の食事の汁物に野菜を具として入れるように管杖を説得し、怪我をした奴隷達と山へ行って採ってきた野草を提供した。奴隷達が汚れたまま寝ていることに気が付くと小川に行く回数を増やすように要求し、奴隷部屋を掃除して一日一回換気させたり、草を(いぶ)して蚊や(のみ)を駆除したりした。

 華姫は少しでも奴隷達の生活を改善しようとしたが、管杖は全く乗り気でなく、兵士達も約束したことでさえせっつかれてようやく動くくらいだった。それでも華姫は諦めずに働きかけ、少しでも前進させようとした。

 こうした華姫の活動を管杖や兵士達は胡散臭(うさんくさ)そうに眺めていたが、奴隷達は熱狂的に支持した。彼等は華姫の熱意が本物であることを知って感謝し、恵国語で「先生」と呼んで丁寧な態度を取った。奴隷の多くは売られたり無理矢理捕まえられたりして知らぬ遠い国に連れてこられた者達だったから、孤独であり、人間らしい扱いに飢えていた。貧しい食事できつい労働をさせられ、夜は硬い木の床の上で強張った手足を丸めて死んだ様に眠るだけの厳しい生活に、華姫は小さな明かりを(とも)したのだ。

 自分達が大切にされているという事実が彼等を喜ばせた。華姫の活動が家臣達の健康維持のためであることは分かっていたが、そんなことは重要ではなかった。家臣達と区別せずに同じ扱いをしてくれただけで、彼等には充分だったのだ。

 その上、相手は美貌の若い娘だ。兵士達は非番の時に町へ行って適当に遊んでいたが、奴隷達にとって華姫はこの狭く苦しい世界でたった一人の女性であり、医師であり、自分達を大切にしてくれる人だった。だから、多くの奴隷達が華姫を(あが)めるような目で見るようになったとしても、それは仕方のないことだったのだ。

 華姫の人気に管杖は不愉快そうだったが、熱病や怪我から回復する者が増えてくると、渋々ながら華姫の腕を認めるようになった。だが、奴隷や兵士が華姫を特別扱いするのは気に入らないらしく、彼等が頻繁(ひんぱん)に出入りするようになった華姫の小屋には決して足を向けなかったし、怪我のせいで違う仕事をしている奴隷達にしばしばつらく当たった。

 一方、華姫は逃げることを諦めていなかった。できるだけ環境をよくしようと動いてみたが、それはとりあえず生き延びるためであって、目標はあくまでもここを出て帰国することだ。奴隷である華姫にできることにはおのずと限界があったし、毎日のきつい労働は少しも変わっていなかった。

 こんなところに何年もいたら本格的に体を壊してしまう。特に、病み上がりの景隣やもう五十二の政資には厳しい生活だ。医師として活動することによって安心するどころか、早く脱出しなくてはならないという気持ちが華姫の中でますます大きくなっていくのだった。

 だが、調べれば調べるほど、その難しさが分かってきた。昼も夜も警戒は厳重で、塀の上に設けられた監視所では鉄砲を構えた兵士が警備に当たっている。塀の前後は小石だらけの荒れ地で隠れる物がなく、見付かったらねらい撃ちされる。上手く逃げられても、この小山の周辺は深い森で、道はあの港へ続く一本しかないから馬で追いかけられたらすぐに追い付かれる。かといって、森に逃げ込めば虎などの猛獣がいるし、底なし沼が散在していて、うっかり奥へ踏み込めばまず生きては出られない。

 それを知った家臣達の顔には諦めの色が濃くなっていた。鉱山の暮らしはつらいが、かといって鉄砲で撃たれるのも猛獣に食われるのも嫌だ。それに、たとえここから逃げられたとしても国へ帰る方法がなかった。あの町の港では鉱山から近過ぎて手が回るのが早く捕まりやすいし、北へ向かうにしても、広大な恵国を無一文で逃げ回るのは難しい。

 もううんざりだ。疲れ過ぎて何も考えたくない。早く寝床に入って眠りたい。家臣達の口から出るのはそんな無気力な言葉ばかりだった。鉱山に連れてこられて既に一ヶ月。家臣達の「故郷が懐かしい」というぼやきも、次第に回数が減ってきていた。

 仲間達の変化に華姫は危機感を持った。だが、政資に相談しても、黙って首を振るだけだった。

 このままでは本当にまずいわ。早く何とかしなければ。

 華姫の焦りは日に日に募ったが、上手い脱出方法は思い付かず、増える一方の患者を相手にしながら、密かに溜め息を吐くばかりの日々が続いていた。

 その事件が起こったのは、そんな時だった。


落盤(らくばん)ですって?」

 自分の小屋で、まだ坑道では働けない景隣を助手に怪我人の手当をしていた華姫は、駆け込んできた家臣の報告に思わず椅子から腰を浮かせた。

「はい。第十五坑の入口付近で天井が崩れました。中に三十人ほどが閉じ込められている模様です」

「その中に、様山(さまやま)殿が混じっています」

 一緒に入って来た政資が厳しい顔で答えた。

和尹(かずただ)さんが?」

 華姫は蒼白になった。

 様山(さまやま)和尹(かずただ)は三十代前半で、交易交渉の補佐役として航海に同行していた人物だ。落ち着いた人柄と思慮深さから、華姫の信頼が厚かった。

「すぐに助け出さなくては」

 華姫は小屋を飛び出した。

 第十五坑の前には既に人だかりができていた。百人余りが集まって穴の奥を指差して騒いでいる。それをかき分けて華姫は中に入った。たいまつで照らしてのぞき込むと、歩いて四十歩ほど先で天井が崩れて完全に道をふさいでいた。

 状況を確認した華姫は付いてきた家臣や奴隷達に声をかけた。

「さあ、急いでここを堀りましょう。みんな道具を用意して」

 おう、と上がった返事の後ろから、太い声が響いた。

「掘る必要はない」

 奴隷達を左右に下がらせながら十人の兵士を率いてやってきたのは管杖だった。兵士長は居丈高(いたけだか)に命令した。

「この穴は捨てる。すぐに別な坑道を掘るから、奴隷達は監督兵の指示に従え」

「ちょっと待って!」

 華姫は抗議した。

放棄(ほうき)するとはどういうこと? 中の人を助けないつもり? まだ崩落したばかりなのだから、土砂をどければ救い出せるわ」

「無駄だ。放っておけ」

 管杖は冷たく言い放った。

「どうせこの坑道は銅を掘り尽くしてそろそろ別な穴に切り換えるところだったのだ。丁度よいので放棄する」

「そんな! まだ生きている人を見殺しにするなんて!」

「黙れ!」

 管杖は怒鳴った。

「崩落した穴はもう使わないのがしきたりだ。それに、三日後にはまた月に一度の市の日が来る。それまでに予定量の鉱石を用意せねばならん。ただでさえ採掘が遅れているのだ。銅が出なくなった穴に割く人手などない。減った奴隷は市で新しいのを買ってくればすむ」

 管杖が傲然(ごうぜん)と辺りを見回すと、奴隷達はこうなることが分かっていたのか、暗い顔でうつむいた。

「ここは立ち入り禁止だ。近付いた者は処罰する。さあ、お前達、仕事に戻れ!」

 管杖は連れてきた兵士を見張りに立たせると、持っていた長い槍を振り回して後ろにいる奴隷達を追い払おうとした。

「冗談ではないわ! 放棄なんて認めない!」

 華姫は叫んだ。

「そこをどきなさい! 道を空けて!」

 坑道を塞ぐように並んで槍を構えた兵士達を一喝すると、その向こうでなりゆきを見守っている奴隷達に呼びかけた。

「さあ、みんな。道具を持って。急がないと中の仲間が本当に死んでしまうわ。こんな人達は放っておいて、さっさと作業に取りかかりましょう」

 落ちている(くわ)を拾い上げようとした華姫を、槍を持った兵士二人が制止した。

「やめろ。管杖さんの言う通りにしろ」

「いやよ」

 華姫ははっきりと拒絶した。

「絶対にやめないわ。私は仲間を見捨てたりしない。そう約束したもの」

 華姫がきっぱりと言い返すと、迷った兵士達に見つめられた管杖は、(いま)(いま)しそうに舌打ちした。

「おい、女。少し医術ができるからって付け上がるなよ。お前は奴隷だ。奴隷は所詮、物だ。物はしゃべらず何も考えない。奴隷はただ言われた通りに働いていればいいのだ。だが、お前は余計なことをやり過ぎる。戴白様の財産に傷を付けるわけにはいかんから黙っていたが、正直目障りだ。何が医者だ。何が環境改善だ。奴隷にはふさわしい扱いというものがある。戴白様も懸念なさって、奴隷を自由にさせ過ぎるなとおっしゃっていた。必要ならお前を殺す許可ももらっているのだ!」

「奴隷は物ではないわ。人間よ!」

「黙れ!」

 兵士長はまなじりを上げて怒鳴った。

「奴隷風情が何をほざく! 丁度よい。反抗した者がどうなるか、お前に見せしめになってもらおう。そうすれば、奴隷どもも自分達の命を握っているのが誰なのか思い出すだろう」

 管杖が槍を華姫へ向けると、政資達七人の家臣が華姫を中心に集まった。

「華姫様を傷付けることは許さん!」

 十人の兵士と、つるはしや金槌やのみを持った家臣達がにらみ合った。

 管杖は兵士達に命じた。

「おい、こいつらを拘束しろ。俺がたっぷりといたぶった後で、(はりつけ)にしてやる」

「磔……」

 奴隷達がざわめいた。兵士達が脅す時によく使うので、恵国語が分からない暴波路人達もこの言葉は全員が知っていた。

「そうだ。磔だ。木の杭の上で、俺に反抗したことを後悔させてやる」

 管杖は華姫を侮蔑するように見下ろして、舌なめずりした。

「まずは男達から殺す。じっくりと痛め付けながらな。この山の周りには(わし)が棲んでいる。腹を割いておくとな、血の(にお)いをかぎ付けてそいつらがやってくるのよ。そして手足を打ち付けられて動けないのをいいことに、はらわたを食い始めるのさ。腹をつつかれるたびにひいひい悲鳴を上げながら死んでいくのは最高だぜ。女、お前は最後に殺す。仲間達が苦しむのをたっぷり見せ付けてから、裸にひん向いて頭を下にして木に打ち付けてやろう。逆さ磔は血が頭に上って苦しいんだぜ。お前のような(さか)しらな女には丁度いいだろうよ」

 管杖は下卑た笑みを漏らした。

「よし、やれ!」

 管杖が命令すると、十人の兵士が一斉に槍を向け、包囲の輪を縮め始めた。

「華姫様を守れ!」

 激しい戦いが始まった。槍とつるはしがぶつかり合って火花を散らし、金属がたてる耳障りな音が坑道に反射して、鉱山中に響き渡った。

 だが、勝負はすぐに付いた。兵士達は鎧を着て長い槍を持っている。一方、家臣達は得物が重いつるはしや短いのみだし、皆厳しい労働で体のあちこちを傷めているので思うように戦えなかった。

 華姫達はあっと言う間に坑道の奥に追い詰められた。崩れて天井まで積もった土砂を背にした八人に、兵士達が槍の穂先をそろえて迫った。その後ろから、管杖は勝ち誇って叫んだ。

「さっさと縛り上げろ。少々傷付けても構わん!」

「何とか逃げる方法はないかしら」

 華姫は必死に考えたが、十本の槍の前にはなすすべがなかった。

「ここは一か八か突っ込むしかありません! 私が血路を開きます」

 景隣が言ったが、他の家臣達は首を振った。

「とても無理だ。この体勢では動いたらずぶりとやられてお終いだ」

「さあ、大人しくしろ!」

 兵士の一人が縄を構えて迫ってくる。

「ここまでか……」

 政資が無念そうに顔を歪め、華姫が唇を噛んだ時、どん、と鈍い音がして、兵士の一人が倒れた。

 全員の目が一斉にそちらへ集まった。

 兵士の頭へ大きな石を投げ付けたのは、華姫が最初に腕を治療した若い奴隷だった。

「せ、先生は俺を助けてくれた。だから、俺は先生を助けたいんだ……」

 自分のしたことが恐ろしいのか、まだ左腕を包帯でつっているサタルは膝を震わせながら後ずさりした。

「貴様!」

 管杖はサタルをにらみ付けると、重い足音を立てて歩み寄った。

「この役立たずが! 反抗する気か!」

 息を呑んで固まっていた奴隷達が一斉に後ろへ下がった。その間へ逃げ込もうとしたサタルの背中へ、管杖は槍を突き出した。

 ぎゃあ、と叫んで人垣の中へ倒れ込んだサタルは、背中から血を流しながらはうように逃げ出そうとしたが、その足を管杖が踏み付けた。

「お前から先に殺してやる!」

 槍を振り上げた管杖は、いきなり横へ吹っ飛んだ。つるはしの一撃が飛んできたのだ。

 肩を砕かれて倒れ込んだ兵士長に、つるはしを振るった奴隷が言った。

「俺達は物じゃない!」

「何だと……?」

 管杖が苦痛に顔をしかめて見上げると、奴隷は言った。

「俺達は人間だ。先生は俺達を人として扱ってくれた。俺達には先生が必要なんだ」

 奴隷は再びつるはしを構えた。

「や、やめろ!」

「お前こそ、死ね! 金の亡者の手先め!」

 がつん、と大きな音が坑道に響いて、脳天をかち割られた管杖は血しぶきをまき散らして倒れた。

「よくも管杖様を!」

 兵士達はその奴隷に槍を向けたが、すぐに青ざめて後ずさりした。つるはしを振るった男の背後で大勢の奴隷達が岩塊を手に持っていた。

「き、貴様ら、こんなことをしてただですむと思っているのか!」

 叫んだ顔に大きな石が激突し、兵士は昏倒した。

 たちまち、その場は大騒ぎになった。

 奴隷達が次々と石を投げ付け、兵士達は防ごうとしたが、半数が石に当たって地面に倒れた。残りの半数は槍で脅して道を空けさせ、兵舎の方へ逃げていった。

「ありがとう。立てるかしら」

 華姫はサタルに近付いて手を差し伸べ、立たせて背中の傷を調べた。

「怪我は大したことないわね。でも、すぐに手当てをしなくては」

 華姫は懐に入れてあった布で傷口をさっとぬぐうと、包帯を巻き付け、サタルの手を引いて坑道の外へ出て辺りを見回した。

 騒ぎは鉱山全体へ広がっていた。つるはしを持った奴隷達と槍を構えた兵士達が各所でやり合っている。

「姫様」

 後ろから追い付き、隣に立った政資に、華姫は頷いた。

「そうね。こうなってはもう戦うしかないわ。私達も加勢しなくては。みんな、まだ動けるわね?」

「はい!」

 家臣達は声をそろえて答えた。景隣も死んだ兵士の槍を手に大きく頷いた。

「では、まず兵士達を追い出してこの鉱山を制圧しましょう。全てはそれからよ」

「ははっ!」

 頭を下げた家臣達はそれぞれ武器を持って、戦っている奴隷達に加勢するために走っていった。


 翌々日。

 華姫は鉱山の自分の小屋で、これからどうするか考えあぐねていた。

 監視兵達を追い払い、仲間を助け出したところまではよかった。つるはしでは槍にかなわないからと華姫は石を投げるように指示し、兵士達は多数の怪我人を出して逃げていった。崩落した坑道の奥に閉じ込められていた奴隷は全員無事で、苦心して開けた小さな穴から様山(さまやま)和尹(かずただ)が元気な姿を見せた時、華姫は心からほっとした。

 だが、その先がまずかった。鉱山に立て籠もることになってしまったからだ。

 華姫はすぐにでもここから逃げ出したかったが、自分のために兵士と戦ってくれた奴隷達を見捨てていくことはできなかった。放っておけば反乱はすぐに鎮圧される。少なくない者達が見せしめに殺されるのは確実で、誰かが彼等をまとめて導いてやる必要があった。

 自由を喜びつつも不安そうな奴隷達を呼び集めると、華姫は脱出の意志を明らかにして支持を取り付け、手分けして準備をさせた。兵舎と奴隷小屋で金銭や食料や武器を集めさせ、一週間程度の行動に必要な物資を確保すると、華姫は急いで全員を率いて鉱山を離れた。奴隷達はぞろぞろと長い隊列を作って町へ伸びる街道を歩き出したが、出発してから一刻も経たない内に、偵察に出していた家臣が約五百の騎馬の軍勢が向かってくるのを発見した。

 華姫の計画では、鎮圧部隊が動き出す前にできるだけ遠くまで逃げて行方をくらまし、追撃を免れるつもりだった。暴動の知らせが届いてから軍勢が到着するまで一日はかかると踏んでいたのだが、州府の対応は予想以上に機敏だったのだ。どうやら、町の近くで訓練をしていた騎馬隊が命令を受けて駆け付けてきたらしい。人数は華姫達の半分程度だったが、正規軍相手に正面から戦っても勝ち目はない。華姫はまさか森を抜ける前に軍勢に出会うとは思わなかったと嘆いたが、敵に気付かれる前に全員を鉱山へ戻すしかなかった。

 こうなっては戦うほかないと覚悟を決めた華姫は、奴隷を百人ずつ十の組に分け、それぞれに隊長を任命して作戦を授けると、敢えて鉱山を守る壁を放棄して坑道の奥へ逃げ込んだ。

 臆病な奴隷達を嘲笑い、後を追って坑道へ進入した鎮圧軍は、たちまち悲鳴を上げて逃げ出すことになった。奴隷達は複雑に枝分かれした細い穴へ兵士達を引きずり込んで、少人数に分かれたところを四方から包囲して攻撃したのだ。

 その結果、州軍の作戦がずさんだったことと、彼等が騎馬隊で馬を下りて狭い場所で戦うのに不慣れだったこと、生き延びようと必死の奴隷達が上手く動いてくれたことで、第一陣は撃退することができた。鉱山は奴隷達の勝利の雄叫(おたけ)びであふれ、奪った武器で武装も強化できた。

 だが、華姫は喜べなかった。次はこう上手くはいかないことが明白だったからだ。数倍の兵力を送り込んでくることは確実で、攻め方も慎重になるはずだ。それに、華姫はできればもう戦いたくなかった。奴隷達は本職の兵士ではないから戦闘は不得意だし、彼等を傷付けたくない。目的はあくまで全員で生き延びることであって、戦いに勝つことではないのだ。

 となるとやはり脱出するしかないが、その方法に華姫は頭を悩ませた。鉱山から外の世界へ繋がるたった一本の道は州軍が封鎖していて、彼等に気付かれずに逃げ出すのは難しい。第二陣が来る前に攻撃して蹴散らしてから逃げることも考えたが、集団で行動する限り小部隊に追尾されることは確実で、援軍を呼ばれて戦闘になれば、身を守るもののない広い場所では勝負にならない。

 かといって、解散してばらばらに逃げるのも難しかった。森は危険でいっぱいだし、上手く森を抜けられてもその先にはそれ以上の困難が待ち受けている。暴波路国人は体の文身(いれずみ)ですぐに分かるから町に入れないし、鉱山では恵国語を教えていなかったのでそもそも言葉が通じないのだ。船を見付けて国に帰ることなど到底不可能だろう。持っている食べ物がなくなれば、投降するか、村に近付いて捕まるか、飢え死にするしかない。ここで解散を言い渡すことは彼等を奴隷に戻すか殺すことになると分かっている以上、華姫が率いていくしかなかった。

「敵の新手が到着しました」

 鉱山を囲う壁の上の監視所から家臣の一人が華姫の小屋に戻ってきた。

「どのくらいの数なの?」

 華姫は尋ねた。結局、華姫は鉱山に籠もり続ける以外の方法を思い付けなかった。こうなってはできる限り戦うしかないと腹はくくったが、どんな相手が来るかと密かに恐れていたのだった。鉱山の前に陣取る討伐軍の残存兵と合わせてこちらと同数くらいなら、戦っても地の利を()かせば何とかなるかも知れない。

「それが、どこまでも続く長い隊列でして。相当の数です」

「ざっと三千はいますな」

 一緒に戻ってきた政資が言った。

「州府も本腰を入れてきたということでしょう」

「そう……」

 華姫は溜め息を吐きそうになったが、周りから注目されていることに気が付いて、慌てて笑顔を作った。

「大丈夫よ。この鉱山に籠もっている限り手出しはできないわ。いくら数が多くても、坑道に入る時は少数の隊に分かれるしかない。無理に大勢を送り込んだら身動きがとれなくなるもの。だから昨日の作戦でまた勝てるはずよ。それより、食料の坑道への運び込みと武器の製作を急がせて」

 兵士達から奪った武器を修理して奴隷達に配り、足りない分はのみを棒の先にくくり付けた簡単な槍を作らせていた。

 華姫は小屋にいる者達を見回した。

「敵も用心しているでしょうから、今度の戦いは前回ほど甘くないはずだわ。でも勝ち目はある。頑張って自由を勝ち取りましょう」

 華姫が明るく笑ってみせると、サタル達は「はい!」と返事をして、指揮所を出て行った。

「姫様。お疲れのご様子ですな」

 ふう、と今度こそ溜め息を吐いた華姫に、食堂から運び込んだ椅子に腰掛けた政資が話しかけた。

「華姫様、どうかお休みになって下さい」

 常に華姫のそばに控えている景隣が湯飲みを持ってきて、華姫と政資の前に置いた。

 華姫は快い不思議な香りに顔を上げた。

「これは恵国のお茶ね」

「はい。兵舎にあった茶葉で入れました。吼狼国のものでなくて申し訳ありませんが」

 華姫は微笑んだ。

「いいえ。ありがとう。うれしいわ。そういえば、お茶なんて久しぶりね」

 穂雲にいた頃が懐かしいわ、と言いながら茶をすすった華姫は、泰太郎を思い出した。もうそろそろ拉致されて二ヶ月になる。無事でいるだろうか。湯金(ゆがね)増雄(ますかつ)も法要すらしてやれていない。つい左手を見て指輪がないことを思い出した華姫は、涙が浮かびそうになり、目を拭おうとして、はっとした。政資と景隣がいたわるようなまなざしで見ていた。

 華姫は慌てて笑顔を作ろうとして、すぐに取り繕う無駄を悟り、黙って茶をもう一口飲んだ。

「私は大丈夫よ。一緒に国へ帰ろうとみんなと約束したもの。それがかなうまでは落ち込んでなんていられないわ。絶対に生き抜いてみせる」

 華姫はもう一度左手を見た。

「必ず泰太郎さんを救い出し、増雄さんの(かたき)を取るわ」

 海国丸での出来事を思い返すと今でも悔しさがこみ上げてくる。梅花をかたどった白い石の指輪はまだあの老人の屋敷にあるのかしら、あれのおかげで船から逃げ出せたのだわと考えて、華姫は急に顔を上げた。

「たった今、この状況を切り抜ける方法を思い付いたわ。ちょっと坑道を見てくるわね」

 華姫は湯飲みを置いて立ち上がり、小屋の扉を開いた。

「お供します」

 華姫の護衛を自任する景隣も付いていった。

 二人が出て行った戸口を政資はしばらく眺めていたが、茶を一息に飲み干すと、自分も後を追っていった。


「準備はいい?」

 華姫がささやくと、おう、と返事があった。

 一人一人の出した声は小さかったが、坑道の中で千人が返事をしたので、その響きは大きかった。華姫は外に音が漏れたのではないかと思ってひやりとしたが、そんなはずはない、大丈夫、と心を落ち着けて、出発の指示を出した。

「では、行きましょう」

 全体の先頭に立つ政資が頷くと、二人の奴隷が出口を塞いでいた大きな木の板を外した。外は真っ暗な森で、眼を凝らしても何も見えなかった。だが、政資は慣れた足取りで穴から出ると、短い斜面を滑り降りて森に入った。

 周囲の安全を確認した家老が手まねきした。それに頷いて二人の家臣が穴を出た。華姫も景隣に手を貸してもらいながら坑道を抜け出した。

 半月だった。頭上には数え切れないほどの星が輝いていた。地面にうっすらと影ができるほどのその明かりを頼りに斜面を降りた華姫が政資に追い付くと、奴隷達が次々に続いて出てきた。

「では、参りましょう」

 政資が先頭に立って歩き出した。長い隊列が草を踏む音を立てて少しずつ進み始めた。

「上手くいくかしら」

 発案者である華姫は不安だったが、景隣は華姫を信じているようだった。

「大丈夫です。敵は気付いていません。まさかこんなところに穴を開けるなんて想像できないでしょう」

 ここは鉱山のある山の北側だった。町へ続く道は西へ向かっているので、山の陰になっていて見えない。

「だといいのだけれど」

 華姫は景隣にだけ聞こえるようにささやき返して、心配そうに辺りを見回した。

 鎮圧部隊の第二陣が到着して三日ほど、華姫は全体に警戒させた。ところが、三千人も兵士を連れてきたのに、彼等は道の封鎖を一層厳しくしただけだった。やがて敵が森から木を切ってきて防御陣地を作り始めたのを知って、華姫はやられたと思った。この鉱山を兵糧攻めにするつもりだと気付いたからだった。

 華姫は鉱山に押し込められて身動きを封じられることを最も恐れていた。この鉱山で働く奴隷と兵士合わせて一千百五十人分の食料は、毎月港の町の市でまとめて買って来ていた。華姫達が連れてこられてから一ヶ月が経って次の市の日が迫っていたので、食料の備蓄は減っているはずだった。華姫が調べたところ、節約しても半月程度しか持たないことが分かった。つまり、長期戦になったら負けなのだ。

 それに、奴隷達が華姫の下でまとまっているのは、他に指導者がいないことと、捕まったら磔にされるという恐怖が理由だった。食料がなくなって飢え始めれば、容易(たやす)く仲間割れが起こるだろう。そこへ突入されたらひとたまりもない。最悪の場合、自分が助かりたいからと華姫達を売ろうとする者が出る可能性さえあった。

 敵の意図がはっきりした段階で、華姫は密かに準備を進めさせていた脱出作戦の実行を決断した。

 食べ物がなくなる前にここを抜け出さなくてはならない。その(あと)の食料も必要だから、できるだけ早い方がよかった。だが、正面の道は敵に厳重に封鎖されている。となれば、別な場所に出口を作るしかなかった。幸い、奴隷達は穴を掘ることには慣れていたので、坑道の一つから鎮圧部隊に見えない方向へ掘り進んで抜け穴を作り、そこから逃げる以外にないと華姫は思った。

 脱出は夜密かに行う。危険な森の中で長距離の移動はできないので、敵を迂回したら道に戻り、夜を徹して歩いて森を抜ける。その先は海を目差す。海岸沿いに進んでどこかの小さな港町に入り、船を調達して帰国する。上手く船が手に入るかは博打(ばくち)だったが、このまま鉱山にいても自滅するだけなので、運を天に任せてみるしかなかった。

 幸い、今夜はよく晴れていて半月が美しかった。たいまつは使えないので、月明かりが必要だったのだ。深い森の中でもかろうじて地面や木々が見え、隣を歩く景隣が周囲に油断なく目を配っているのも分かる。

 自分が考えた計画を思い返して間違っていないと確認したが、華姫の胸から不安は消えなかった。一昨日から半数を坑道の外へ出し、塀際に並べて(とき)の声を上げさせたり隊列を組んで戦う練習をさせたりして包囲の突破をねらっている様子を見せたが、効果があっただろうか。鎮圧部隊が昨日になって兵をやや下げたのが防御のためならばよい。守りを固めた彼等は攻撃を待ち構えて肩すかしをくらい、数日後に怪しんで突入し、空っぽの坑道を発見して立ちつくすだろう。だが、もし、この脱出計画に気が付いて隙を見せるためにわざと下がったのだとしたら……。

 華姫は慌てて首を振った。

「そんなはずはないわ。全ては上手くいっているもの」

 自分に言い聞かせ、そばを歩きながらこちらの様子をうかがっているサタルに微笑んで見せた。

 大丈夫、この人達を助けられるわ。私達も国へ戻れるはずよ。まずは暴波路国へ行くことになるけれど、そこで吼狼国へ向かう船を見付ければよいのだわ。恵国北部へ行く便でも構わない。暴波路国の役所に訴え出てもいい。とにかく、まだ帰る方法はあるのだから、希望はあるわ。

 どうか気付かないで。

 星のように点在する州軍の天幕の小さな明かりを横に見て、華姫は先を急いだ。闇の中、何度も木の根や草に足を取られて景隣に助けられながら、華姫は森の中を進んでいった。

 そうして歩くこと一刻余り。山際にあった半月が大分空の中央に近付き、わざといつも通り燃やしてきた鉱山の焚き火が見えなくなってから随分経った頃、先頭を行く政資が立ち止まった。

「姫様」

 家老は華姫に小さくを声をかけ、手で合図して、左に進路を変えた。よく見ると、そばの木に目印の白い布が巻いてあった。この数日間、政資は密かに森へ入って道を確かめていたのだ。

 数百歩の後、華姫達は道の上に出た。

 辺りを見回したが、敵の気配はなかった。

「ここで後ろの者達を待ちましょう」

 政資は奴隷達を整列させ始めた。森から現れた彼等はのろのろと動いて、家臣達に指示された通りに並んでいった。華姫は「急いで!」と言いたくなるのをこらえて、次第に増えていく人影を見守っていた。

「全員そろいました」

 やがて政資が報告に来た。

「急ぎましょう。少しでも遠くへ逃げないと」

 華姫の言葉に政資は頷き、小さく暴波路国語で「進め」と命令した。

 ところが、景隣がその言葉をさえぎった。

「待って下さい。何か音がします」

 華姫が全体に静まるよう伝え、息を殺して耳を澄ますと、ぱき、ぽき、と枯れ枝を踏む音が聞こえた。たった今抜け出してきた右手の森の方からだった。段々大きくなる音は、少なくとも数百人はいることを示していた。

「こちらかも足音がします」

 政資が前方を指差した。ざっざっ、という響きが次第に膨らみながら近付いてくる。

「まさか……」

 華姫が青くなった時、隊列の末尾にいた家臣が走ってきた。

「姫様! 後方から軍勢が向かってきます」

「左手の森からもです」

(はか)られたのね……」

 華姫がつぶやいた瞬間、かちかち、という音が無数に響いて、周囲に一斉に火が(とも)った。

「囲まれておりますな」

 政資の声は震えていた。

 やがて、数千の軍勢が姿を現し、奴隷達を四方から包囲した。完全武装した兵士の群れは、槍や鉄砲を向けて攻撃命令が下るのを待っている。

「どうなさいますか」

 政資が小声で尋ねた。他の家臣達も華姫の周りに集まってきた。

「どうしようもないわ」

 華姫の声は衝撃の大きさの割には落ち着いていた。

 様山和尹(かずただ)が悔しげに言った。

「まさかこの計画が見抜かれるとは」

「信じられませんが、事実のようですな」

 政資が(うな)った。

「こうなっては戦うほかありますまい。すぐに槍衾(やりぶすま)を作らせましょう」

「勝ち目はないわ」

「私が血路を開きます。その隙にお逃げ下さい」

 景隣が槍を構えたが、華姫は首を振った。

「とても無理よ。完全に囲まれているわ。向こうは脱出すると知って待ち構えていたのよ。ここで道に出ることも知られていた。目印を見付けられたのね」

「しかし、むざむざ捕まるわけには参りません」

 政資の言葉に家臣達も頷き、景隣が奴隷達の方を向いて戦闘準備を命じようとした時、前方の敵兵の列が割れ、隊長らしい人物が十名ほどを連れて近付いてきた。

「華姫様、お下がりを」

 槍を持った景隣が前に出た。政資や他の家臣達も身構えた。

「待たれよ」

 隊長は手を伸ばして制すると立ち止まり、持っていた紙を広げた。部下の兵士がそれをたいまつで照らした。

「将軍閣下よりのお達しである」

 隊長は声を張り上げた。

「お前達を完全に包囲した。殲滅(せんめつ)することは容易(たやす)い。だが、奴隷達を殺しても益はなく、閣下もそれをお望みではない。首謀者の吼狼国人の女及びその仲間が我々に同行し、身柄を閣下に預ければ、奴隷達の命は保証しよう。反乱の罪は問わず、刑罰も科さないと、閣下の名において約束する」

 同行していた通訳らしい人物が恵国語の文書の内容を暴波路国語で大声で繰り返すと、奴隷達の間にざわめきが起こった。

「私達をどうするつもり?」

 華姫は尋ねた。

「女と吼狼国人は連行せよとのご命令です」

「安全は保証されるのかしら」

「私には分かりかねます」

「そう……」

 華姫が考え込み、家臣達に相手の要求を説明すると、「そんな条件が()めるか!」と景隣が怒鳴った。

「華姫様、戦いましょう。この暗闇です。森に飛び込めば逃げられます」

「そうね。でも」

 華姫は奴隷達を振り返った。

「ここで私達が逃げ出したら、この人達は殺されてしまうわ」

「ですが、華姫様は彼等のためにもう充分力を尽くされました。こうなっては指導者も何も関係ありません。自分一人で逃げるだけです。奴隷達はそうするでしょうから、我々が彼等から離れて逃げても許されましょう」

「駄目よ」

 華姫は首を振った。

「この人達は私達を救ってくれた。だから、今度は私達が彼等を救わなければならないのよ。ここで彼等を見捨てたら私は最低の人間になってしまう」

 華姫は悲しそうに微笑んだ。

「どうやら、帰国も救出も復讐も果たすのは難しくなってしまったわね。でも、絶望しては駄目よ」

「華姫様……」

 悔しげな家臣達の顔を華姫は見回した。

「私は最後まで諦めない。だから、あなた達も諦めないで」

「はっ!」

 政資が頭を下げると、家臣達もそれにならい、うつむいて腕で涙をぬぐった。

「先生……」

 サタルが近付いてきた。

「俺達はどうしたらいいのですか」

「あなた達は助かるわ」

 華姫はできるだけ明るく微笑んだ。

「こんなことに巻き込んで迷惑をかけてしまったわね。助けてくれた時はうれしかった。ありがとう」

「とんでもありません」

 サタルは涙を浮かべていたが、華姫になだめられて戻っていった。

「では、女とその連れはこちらへ来てもらおう」

 頷いた華姫は、奴隷達の方を向いて深々と頭を下げ、州軍の間に開いた一筋の道を隊長の後に付いて歩いていった。政資や景隣達がそれに続いた。

 去っていく九人の吼狼国人を、暴波路国人の奴隷達は黙って見送っていた。

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