第三章 帰郷 一
第三章 帰郷
一
藤月一日の朝、食事をすませた梅枝時繁は、穂雲城の自室で布団から体を起こし、暖かい羽織を肩にかけて光姫の手紙を読んでいた。
最近の見合いの様子を愚痴混じりに書き綴って都を発つ日を知らせてきた長い書簡に目を通し終えると、時繁は膝の布団の上にそれを置いて苦笑した。
「やれやれ、光子はいくつになってもお転婆が直らないな。嫁にもらう方も大変だろう」
一緒に届いた教育係の家老餅分具総からの報告書は申し訳なさそうに見合いの不首尾を伝えてきていたので、時繁はその苦労を想像して、帰ってきたらねぎらってやらねばならんなと思いつつ、数日後には到着する光姫に結婚相手についてどう伝えたものかと思案した。
というのは、手紙の文面から察するに末娘は誰とも結婚したくない様子の上、最終的に花婿候補として残った若様達に対する光姫の批評はかなり手厳しかったので、嫌な相手を押し付けなければならないのかと思うと気が重かったのだ。大抵の武家の親は息子や娘に自分が決めた相手との結婚を命じているのだから、時繁も悪いことをするという感覚はないのだが、光姫の気性からすれば好きでもない男と暮らすのは耐え難いことだろうと分かるので、やはり気が進まないのだった。だが、派手なやりかたで花婿捜しをしてしまった以上、今更全員を袖にして別な相手、例えば時繁の妹の息子で光姫もよく知る殻相国の仕置家老追堀家の長男などを選ぶことはできないので、光姫に諦めてもらうしかないことははっきりしていた。
「これだけ大騒ぎをしたのだから、光子も自分の立場がよく分かったろう。せめて、つまらない男でも、梅枝家の当主がきちんと務まる若者を選んでやるしかあるまい」
つぶやいた時繁が、読み返そうともう一度光姫の手紙へ目を落とした時、廊下をばたばたと走る足音が聞こえてきた。
「御屋形様、大変でございます!」
勢いよく部屋の襖を開いたのは梅枝家筆頭家老の帆室治業だった。顔が真っ赤で、禿げかかった頭から湯気が立ち上りそうな様子を見ると、全力で走ってきたらしい。治業は物の分かった落ち着いた人物で、主君の私室に許可を求めずにいきなり入ってくることなどあり得なかったので、時繁はよほどの大事が起こったに違いないと瞬時に心を引き締め、娘を思う父親から大封主家の当主に戻って尋ねた。
「何が起こった」
「て、敵襲にございます!」
「敵襲だと?」
あえぐように告げられた言葉に時繁は首をひねった。
意味は分かる。時繁は若い頃何度も戦場に出ているから、その言葉自体には馴染みがあった。だが、同時にそれはここ三十年聞いていない言葉でもあった。天下泰平の時代には全く似つかわしくない。それでも、息を切らして汗をぬぐっている治業の様子からすれば嘘を言っているはずはないので、時繁は様々な可能性を脳裏に浮かべながら更に尋ねた。
「どこの封主家だ。篩田か、屈谷か。まさか別河原……いや、あり得ない。一体誰が攻めてきたのだ」
治業は叫ぶように答えた。
「封主家ではありません。恵国です。恵国が攻めてきたのです!」
「恵国とは、海の向こうのあの大恵寧帝国か」
時繁は思わず聞き返した。あまりに予想外の返事だったので聞き違いかと思ったのだが、治業は何度も首を縦に振った。
「さようにございます! 今朝早く田美国の沖合に海を覆い尽くすほどの数の軍船が現れ、穂雲港の南方の長い砂浜に武装した兵士を次々に降ろし始めたと報告が入りました。その甲冑は異国のもので、聞き慣れぬ不思議な言葉を話しているとのこと。黒地に黄金の虎の旗印からしても、恵国軍に間違いございますまい。浜辺を占拠した兵士達はその場で隊列を組んで陣形を整え、穂雲の町へ向かって進軍する構えを見せております!」
時繁は一瞬呆然としたが、事態を理解すると、たちまち戦狼の世生き残りの封主の顔になって命じた。
「すぐに詰問の使者を送り、恵国の者達になにゆえ兵を送ってきたのか問い質せ。それから、田美国と殻相国の全家臣にこれを知らせ、武装して穂雲城へ集まるように命じよ。出陣だ。これは戦になるやも知れぬ」
「かしこまりました。早速手配致します」
治業は平伏して命令を受けたが、すぐに顔を上げた。
「ところで、軍勢の指揮は誰にとらせましょうか。御屋形様はご病気でいらっしゃいますから、どなたかを大将にご指名下さい」
「指揮はわしがとる」
「ですが、お体が……」
他の方にお任せした方がよろしいのでは、と言いたげな表情の治業を、時繁は大声で怒鳴り付けた。
「馬鹿者! 家の存亡の危機に部屋で呑気に寝ておれるか! わし自ら総大将となって、異国の侵略者どもを迎え撃ってくれるわ! そう皆に触れて参れ!」
「ははっ!」
治業は慌てて頭を下げると急いで立ち上がり、よろめきながら全速力で廊下を走って去っていった。
すぐに城の表の方で叫び声が聞こえてどよめきが起こり、騒ぎが広がっていく。それを耳で確かめた時繁は、娘の手紙を握り締めていたことに気が付くと、壁際の文机の上に放り投げ、肩の羽織を落として掛け布団をはねのけて立ち上がり、大声で叫んだ。
「誰かある! わしの出陣道具をここへ持て! 表に馬を回せ! 今すぐにだ!」
廊下で返事をする女官の声を聞きながら、時繁は寝間着を脱ぎ捨てて部屋の隅に飾ってある伝家の鎧に歩み寄り、横の箱を開けて具足用の内着を取り出すと、慣れた手つきで身に着け始めた。
同じ日の昼、穂雲港から南に十里ほどの小高い丘の上で、海に沿った平地に布陣した恵国軍を、禎傑は黄金に輝く鎧と赤い垂れ布を身にまとって見下ろしていた。
槍の穂先をそろえて整然と並ぶ黒い隊列の勇壮さに、二十八歳の遠征軍総司令官は満足の笑みを浮かべた。上陸は予定通りに進み、全軍の半数に当たる二万五千が既に戦闘準備を終えていた。この展開の早さは、事前に得た情報が正確で、陸に上がった部隊が順次街道を封鎖して、大軍の布陣に充分な広い場所を確保することができたことによる。未知の敵国への進入がこれほど順調にいくことは極めて珍しいことを禎傑は経験からよく知っていたので、情報提供者への評価を心中で更に高め、この功にどう報いてやろうかと考えた。が、すぐに本人はそれを喜ばないことを思い出して、面白いやつだと愉快になった。
恵国軍から北へやや離れたところでは、騎馬や徒歩の鎧武者一万一千が、白地に明るい紫で梅花の家紋を染め抜いた旗を掲げて街道上に陣取り、行く手を塞いでいる。
「梅枝家もなかなか大したものではないか」
禎傑は敵軍をほめた。実際、この短時間でよく集めたものだと、梅枝勢の展開の早さに感心していた。戦狼の世の気風を色濃く残し、武勇と質実を重んじる家柄と聞いてはいたが、梅枝勢の武者達は急な出陣にしては装備が整っており、士気も高いようだった。
恵国ではこうは行かない。急な招集などしようものなら兵士達は大混乱し、将軍達は奇襲を許した責めは誰が負うかだの、総指揮は誰が取るかだの、武具や物資が間に合わないだので、権力争いと責任のなすり付け合いを始めるに決まっている。それを禎傑の命令一下即座に動く集団に作り変えるにはかなりの時間と労力が必要だった。だが、それに成功したからこそ、禎傑の軍団は恵国最強と謳われるまでになったのだ。
それほど、あの古く大きな国は錆び付いていた。とりわけ帝都永京の宮廷はひどく、一つのことを決めるのに長い時間と大金がかかった。この遠征の実現にも、裏で途方もない金額がばらまかれたことを禎傑は知っていた。
隆国との戦いで財政が傾いた恵国は、銀貨の質を落として枚数を増やしたた。すると、物価が急上昇し、経済が大混乱に陥った。改革派の若手官僚達は政治の刷新と貨幣の質の回復を主張したが、銀貨の発行を請け負って大儲けしている大商人達も銀を欲した。また、密貿易で手に入れた吼狼国の銀で、隆国商人が恵国の産物を買い占めて持ち去る事件が頻発していて、権益が侵されることを恐れた。
そこで、吼狼国に銀の輸出を増やし密貿易の取り締まれと要求させたが、統国府は動かない。しびれを切らした彼等は遂に出兵を考えるに至った。鉱山と港を押さえて銀を手に入れ、密貿易を完全に遮断しようとしたのだ。吼狼国貿易は銀以外でも大きな利益が出たので、軍費を払っても元が取れるという計算もあった。こうして計画が決まると、実行役として禎傑に白羽の矢が立った。
「南方の諸部族の平定を終えて、俺は更なる出世の方法に頭を悩ませていた。州太守で終わるつもりはなかったからな」
禎傑は皇帝の第七皇子でありながら、母が身分の低い女官だったために父に忘れられ、市井で小身貴族の孫として少年時代を送った。隆国の反乱で領地を失って困窮すると、父の皇帝に拝謁して辺境の武官を志願し、次々に武功を重ね、十年かけてこの地位まで上ってきたのだ。
「太守は所詮は地方官、この国の腐敗の根源となっている連中には頭が上がらない。俺には帝位を望む権利も意欲もあった」
しかし、大きな手柄を立てようにも、南の国境は禎傑自身が安定させたばかりだった。北の隆国と戦いは、無能で腐敗した将軍ばかりの上、転属すれば手塩にかけた兵士達と切り離される。凡才ぞろいの兄達も、皇位を巡って足を引っ張り合う一方で、頭角を現してきた庶弟を抑え込むことでは一致している。次の目標を決めかねているところへ、吼狼国討伐の話を持ちかけられたのだ。
当初禎傑は馬鹿馬鹿しいと相手にしなかった。が、父の皇帝が崩御した。後を襲った長兄は、皇位を争った弟達を憎み、言いがかりを付けて殺し始めた。身の危険を感じた禎傑は、熟慮を重ねた末、司令官を引き受ける決心を固めた。
「一州の太守では皇帝に反抗しても勝ち目は薄い。それならばいっそ、腐りきったこの国を出て新天地を目指す」
かつて十七歳の禎傑は、武官の辞令を受けるや都の大商人達を皇帝の名で脅して資金を借り、国境の町へ赴任した。そして、渋る上役を説得して守勢一辺倒の方針を転換させ、越境してきて略奪を働く部族に対して積極的な攻勢に出た。それが彼の成功の糸口となったのだ。今度はこの無謀とも思われる遠征が、彼の望みをかなえてくれるに違いなかった。
「殿下、全ての準備が整いました」
風をはらんで揺れる禎傑の背中の赤い垂れ布へ、遠征軍本部付き武官の長である涼霊将軍が報告した。
「我が軍はいつでも攻撃を開始できます」
ややしゃがれた低い声を持つこの男は、長衣の上に軽い革製の防具を付けて細作りの剣をつるすという、文官と武官の中間のような格好をしていた。痩せた大きな体を無理に伸ばし、蟹股の靴の踵をぴたりと合わせて立つ姿は、高い背丈を持て余しているようで、血色の悪さもあって一見すると軍人には見えない。だが、実際には彼は多くの武勲の持ち主であり、禎傑の第一の腹心として作戦の立案を担当していた。
「計画に従って全軍が配置に付きました。全ての兵士に船の中で渡しておいた昼食をとらせてあります。物見の兵の報告では、周囲の地形や梅枝勢の兵数は、全て事前の情報通りでした」
涼霊は南方の異民族を討伐した際の幕僚の一人で、その才能を見出して取り立ててくれた十以上も年下の司令官に、絶対の忠誠を誓っていた。
禎傑は前方の敵勢を見つめたまま短く尋ねた。
「勝てるな?」
「もちろんでございます」
涼霊は無味乾燥な事実を述べるように淡々と答えた。
若い司令官は膝下まである赤い垂れ布を海風になびかせながら自分の軍師を振り向いた。涼霊の表情の欠落した青白い顔から何かを読み取ることは不可能だったが、禎傑はその返事に満足した。
「よし、大きな作戦はお前に任せよう。俺は前に出て直接部隊の指揮をとる」
禎傑が次々と南方の諸部族を平らげることができた一番の理由は、常に軍勢の先頭に立って剣を振るうことで兵士達の支持を得てきたからだった。禎傑が手ずから鍛え上げた彼等は、この勇気と武術の腕と戦機を見抜く目を備えた司令官に絶大な信頼を寄せていた。
「この連中を打ち破ったら、予定通りまっすぐ穂雲城へ向かい、占領して根拠地にする」
「かしこまりました」
涼霊は心臓に右手を当てて頭を下げた。
禎傑は軍師の左隣へ目を移した。
「梅枝家の当主は降伏勧告を一蹴したそうだ。撃破して制圧するがよいな?」
「覚悟はとうにできているわ。今更ためらったりはしない」
その人物は感情の乱れを感じさせないきっぱりとした口調で返答した。
「これは始まりなのだから。あなたと私の戦いの」
「そうだ。始まりだ」
禎傑は頷いた。
「これが全ての第一歩だ。俺の夢を叶え、お前の目的を果たす道のりのな。まずはここで勝たねばならん。その後はお前の出番だ。上手くいけば、この田美国は今日中に俺のものになる」
禎傑が手を伸ばすと、そばに控えていた兵士が馬の手綱を差し出した。
この国の五月は晩春だという。午後のまぶしいほどの陽光に金色の鎧を煌めかせながら馬にまたがった禎傑は、味方の兵士達の目が自分に注がれているのを感じて、全身の血が沸き立つのを覚えた。数万の視線がこの黄金の甲冑に見ているものは、勝利の栄光か、敗北の恐怖か。もし不安があるならばそれを払拭し、戦いの興奮と歓喜へ導いてやるのが総司令官の仕事というものだった。
禎傑は腰の長剣を引き抜き、不敵な笑みを二人の部下に向けた。
「では、そろそろ始めるとしようか。今からあの連中を蹴散らしてくるから、お前達は後ろで俺が勝利をつかみ取る瞬間を見ているがいい!」
そう叫ぶと、禎傑は馬腹を蹴って一気に坂を駆け下った。剣を高く掲げ、赤い垂れ布を翻した黄金の戦士は、兵士達の歓呼の声を全身に浴びながら、駆け寄ってきた将軍達と共に、行動を開始する軍勢の先頭に立つべく馬を走らせていった。
数刻の後、穂雲への道を塞ぐ形で街道上に布陣した梅枝勢の中心で、総大将の時繁は床机に腰を下ろし、目の前の敵軍を眺めて首を傾げていた。双方の戦闘準備が整っても、恵国軍に動く気配がなかったのだ。田美国の本隊に、午後になって到着した殻相衆二千を加えて総勢一万三千となった梅枝勢が、少しずつ街道を南下して上陸地点に接近しても、一万六千の恵国軍は守りを固めるように部隊をやや下げただけで、攻撃してこなかった。
両軍がにらみ合ってもう二刻以上になる。隊列を組んだ恵国軍は盛んに気勢を上げ、時折数百人の部隊が梅枝勢の前へ来て矢を射かけて挑発してくるが、時繁には見せかけだけに思われた。というのは、数に勝る恵国軍が本気なら、とっくに攻撃を開始しているはずだったからだ。
だが、ここで時間を稼ぐ理由が分からなかった。このままいたずらに時を費やせば夜になり、拠点を持たない恵国軍には不利になる。そもそも、こんな浜辺にいたのでは船が着けられないから物資の揚陸に手間がかかり、軍勢の食事と寝床の支度だけでも相当苦労するので、できるだけ早くどこかの港を確保し、町か村を占領したいはずだ。それに、周辺の諸侯に急を知らせてあるから、明日になれば援軍を送ってくるだろう。それが分からないとは思えないのに、なぜか時間を浪費しているように見えたのだ。
だが、敵軍は味方よりやや多い上、船にはまだ多数の兵士がいるようだし、恵国兵の戦闘力がどれほどのものか分からないので、こちらから攻撃をしかけるのは得策とは言えなかった。援軍が到着するまで敵をここに釘付けにしておけるのならその方がよい。取りあえずこのまま様子を見ようと、逸る家臣達を抑え、気を引き締めて守りを固めよと指示したところへ、伝令が駆け込んできた。必死で馬を飛ばしてきたらしい若い武者は荒い呼吸で、恵国軍の一部が脇の森を大きく迂回し、裏街道に出て北上しつつありますと報告した。
それを聞いた時繁は思わず「しまった!」と叫んだ。恵国軍は合戦の構えを見せて梅枝勢の主力を引き付けておいて、その隙に手薄な穂雲城をねらうつもりなのだ。時繁は軍勢のほとんどを出撃させて城を空にしていたし、本街道と裏街道の合流点に先回りされると城に戻れなくなり、最悪の場合は背後を襲われて挟み撃ちにされてしまう危険があった。
ここにいる部隊は囮だと知ると、時繁はすぐさま後退を決断した。敵より早く穂雲に戻って、町と城を守らなければならない。
指示を受けた梅枝勢は一斉に陣を引き払い、時繁の指揮の下、整然と街道を移動し始めた。それを予期していたように、恵国軍はひたひたと追尾してくる。梅枝勢は迎撃体勢を保ったまま、恵国軍を牽制しながら、街道を北へ向かって進んでいった。
時繁は戦慣れした者らしく、尺取り虫のように部隊を動かした。前半分を警戒しながら進ませ、一旦止めて攻撃準備をさせてから、後部がそれに追い付き、迎撃体勢を取ると、再び先頭が進むという運動を繰り返したのだ。少しずつ移動した梅枝勢は、どうにか大きな混乱を起こさずに困難な敵前の退却を成功させ、行程の大部分を消化して森浜村に到達した。
海岸沿いの森はこの村で途切れ、国名の由来である広大な田園地帯に入る。街道の合流点まであと少しで、そこまでいけば穂雲城はもう遠くない。どうやら恵国軍より先に到着できたらしいと梅枝勢の武者達は安堵し、小休止しようと村の入口に近付いた。
と、突然、大きな鬨の声が起こり、村の中から恵国軍の黒い鎧が多数現れた。
「すでに村を押さえられていたか!」
時繁は全軍を停止させ、素早く周囲を見回して表情を硬くした。
高い柵と空堀に囲まれた村には頑丈そうな門があり、その前に開けた狭い平地に恵国軍が展開していた。この村は穂雲城の南方の守りの拠点なので、この泰平の時代にも、いまだに防御設備が残されているのだ。
北に村の門と柵、東側は砂浜と海、西と南は森だ。馬屋のような建物がいくつか見えるので、どうやら放牧場として使われている場所らしい。梅枝勢はこの南北に細長い草地に誘い込まれてしまったのだ。背後からは追尾してきた敵の軍勢が迫っている。恵国軍の動きからすると、どうやらここで挟撃して殲滅するつもりのようだった。
「この村へ先回りするには途中で森を突っ切らねばならぬはず。どうやって地元の者しか通らぬ脇道を知ったのか。……だが、今はそれどころではないな」
時繁は疑念にとらわれかけた頭を振って余計な考えを追い出した。
「まずは生き延びることだ。何とかここを切り抜けて穂雲城に戻らねばならん」
集まってきた武将達の顔は緊張に強張っている。まだ敵に動きはないが、いずれ前後から一斉に攻撃してくるに違いない。
「追撃部隊が一万四千、前方を塞いでいるのが六千か。そして、我等は一万三千。となれば、方法は一つだな。治業」
「はっ!」
そばに控えていた梅枝家の筆頭家老は片膝を付き、鎧をきしませて頭を下げた。
「お主に後衛として三千を預ける。この草地の入口に防御陣を敷き、何としても追撃部隊を食い止めて時間を稼げ。その間にわしが前方の敵を撃破して村を確保し、退路を切り開く」
「かしこまりました」
帆室治業は一礼すると、五十五の年齢に似合わぬ機敏な動きでさっと立ち上がり、数人の部下を引き連れて後方へ去っていった。
「よし。他の者はわしに続け。敵陣を突破する」
時繁は恵国軍の黒い隊列を指差した。
「敵は門の前に二千の鉄砲隊、その西側に四千の槍兵隊を配置しておる。鉄砲隊の東は海ゆえ安全と踏み、森側を守らせておるのだろう。我等が村に入るには、あの鉄砲隊を何とかせねばならぬ」
諸将は一斉に前方の敵へ目を向けた。
「あれが鉄砲の二段陣か……」
多くの者が物珍しげな顔をしていた。というのは、鉄砲が使用されるところを見たことがある者はほとんどいなかったからだ。
鉄砲が発明されたのは百年ほど前だ。硫黄や硝石などを混ぜ合わせて作る火薬は以前から製法が知られていて、恵国では爆鉄弾といって薄い鉄でできた玉の中に火薬と鉄片を詰めて導火線を付けた武器が用いられていたが、やがて遥か東方の国で鉛の小さな玉を爆発で弾き出す仕組みが考案された。火薬の生産が盛んな恵国では熱心に研究され、隆国も多くの鉄砲兵を抱えていたが、吼狼国に伝わったのは戦狼時代が終わる直前であまり普及しなかった。
吼狼国で飛び道具と言えば弓であり、鉄砲が実戦で使用された例はほとんどなく、武守家などいくつかの封主家がさほど多くない数を保有しているに過ぎない。梅枝家には十丁の鉄砲があったが、戦陣での合図用や威嚇用で、武者達はもちろん、武将達の多くも実物を見るのは初めてだった。諸将はこの不思議な兵器がずらりと並んでいると恐ろしさよりも好奇心が先に立つらしく、中には上手く鹵獲できれば家人に自慢できるなどと考える者までいたが、同時に、あの細い筒の先から人を一撃で殺すという魔の弾が出てくるのかと不気味に感じてもいるのだった。
どうやってあの敵を倒すのかと問いたげな諸将の顔を見回した時繁は、渋いがよく通る声で言った。
「鉄砲は確かに恐ろしい武器だ。弾丸は鎧さえ貫くと聞く。正面からこれに突撃すれば、どれほどの死傷者が出るか分からぬ」
急に不安そうな顔になった諸将を代表して一人が尋ねた。
「では、どうするのでございますか」
「鉄砲隊は攻撃せず、敵の槍兵隊をねらえばよい」
時繁は前方左手に槍を構えて整列している敵を指差した。
「敵は槍兵と鉄砲兵の二隊からなる。そこで、我等も隊を二つに割る。二千は鉄砲隊の正面に進み、威嚇して敵を引き付ける。残り八千はわしと共に鉄砲の射程外を左へ回り込むように進み、槍兵隊を攻撃する」
諸将は真剣な顔で時繁の言葉に聞き入っていた。
「敵の槍兵は四千。倍の八千で攻撃すれば必ず勝てる。すぐに敵は後退し出すだろう。といっても、西側は森、背後は空堀と木の高い柵だ。鉄砲隊のいる東側へ逃げるしかない。我等は敵を圧迫して東の方へ押し込みながら距離を取られぬように急追し、そのまま鉄砲隊の陣列へ乱入する。鉄砲は強力な武器だが弓と同じで切り込まれると弱い。槍兵を破った勢いで混戦に持って行き、一気に打ち破る」
「なるほど。敵の槍兵を盾にするのですな!」
武将の一人がぽんと手を打った。
「そうだ」
時繁は頷いた。
「まさか逃げてくる味方に発砲はできまい。我等は鉄砲隊の陣に突入してかき乱し、門の前から追い払う。この戦いの目的は敵を殺すことではない。城への退路を切り開くことだ。門を確保できればよい。敵を打ち破ったらすぐに帆室隊三千を呼び寄せて村に入り、門を閉じてしまう。それで敵はしばらく前進できぬ。その間には我等は陣形を組み直し、城へと戻る」
「なるほど!」
時繁の下す指示を息を呑んで聞いていた諸将に安堵の色が広がった。戦がなくなって既に三十年。戦場を経験している者はごくわずかだった。それをよく分かっている時繁は、家臣達の不安を吹き飛ばすように笑ってみせた。
「はっはっは。この作戦ならまず負けはない。さっさとあの敵を倒して城に帰るぞ。気を抜くなよ!」
「ははっ!」
諸将は声をそろえて返事をし、明るい表情でそれぞれの部隊へ散らばっていった。
『花の戦記』 森浜村の合戦図 その一
全軍が配置についたのを確認して、時繁は軍配を振るった。すると、右手の二千の隊が鉄砲隊に対して鬨の声を上げながら前進と後退を繰り返して威嚇し始めた。同時に、時繁自身が率いる残り八千が、長い槍を前に向けた徒歩武者の列を先頭に前進していく。
鉄砲の射程外を移動して敵の槍兵達の顔がはっきりと見えるところまで近付いたところで、時繁は怒鳴るような大声で命じた。
「攻撃開始!」
わあああ、と大きな喊声を上げて横隊を組んだ梅枝勢の武者達が敵陣へ駆けていく。恵国兵四千も槍を構えて前進し、迎え撃った。
たちまち激しい突き合い叩き合いが始まった。梅枝勢は敵を後退させようと槍を振るい続け、恵国兵は必死で押し返そうとする。双方の全員がのどが裂けんばかりに絶叫し、その中に血を流して倒れていく者達の悲鳴が切れ切れに交じっていた。
「ひるむな! 手を休めるな! ひたすら槍を突き出し続けろ!」
武者頭の叱咤の声は、風を切る無数の槍の音や刃先が鎧や兜を叩く音にしばしばかき消された。
どれほどの時が経ったか、長い槍を振り回す手がしびれ、汗と血にまみれて鎧が重くなり出した頃、遂に数に劣る恵国兵の動きが鈍り始めた。
「やったぞ! 今だ、一気に突き崩せ!」
武者頭が叫び、武者達はかけ声に合わせて槍を突き出しながら、足を一歩ずつ踏みしめて前に進んでいった。耐え切れなくなった恵国軍は少しずつ後退していく。
「よし、このまま敵を押し込め!」
時繁の大声が響き、武者達は一斉に「おう!」と答えて前進の速度を速めた。恵国軍の後退もそれ以上に早くなっていく。いつの間にか、梅枝勢は恵国軍を始めにいた位置からすっかり押し出しつつあった。
「ふむ。どうやら勝てそうだな」
時繁は馬を進めながら内心ほっとした。口では勝利は確実のようなことを言ったが、戦を知らぬ武者達を率いて戦闘力が不明な敵と戦うことに、内心冷や冷やしていたのだ。だが、何とか勝利が見えてきたようだった。
「よし、先鋒隊を下がらせ、第二隊を出せ。全軍に突撃隊形をとらせよ。この勢いのまま鉄砲隊を蹴散らして村に入るぞ!」
時繁は敵陣の奥に煌めく黄金の鎧をにらんで叫んだ。
敵に打撃を与えた上で穂雲城に籠もれば、援軍が来るまで持ちこたえられるだろう。時繁は無理をして余裕の笑みを浮かべていた頬をようやくゆるめた。
光子が帰ってくる頃には戦は終わっているやも知れぬな。
今頃田美国へ向かって街道を進んできているはずの勇ましい娘を思い出して微笑んだ時繁は、無傷の隊を前面に配置した菱形の陣形の中央で、突撃命令を出そうと軍配を振り上げた。
だが、振り下ろそうとした腕は、突然聞こえてきた悲鳴によってさえぎられた。
「て、敵の奇襲だ!」
「なにっ!」
時繁が慌てて周囲を見回すと、左手の森から現れた敵の槍隊一千ずつ二隊が、左側面と後方に突っ込んでくる。
「伏兵か!」
はっとして前方を見ると、敗走しかかっていたはずの四千の敵勢が、反転してこちらへ向かってきていた。同時に、敵の一千の騎馬隊が森から草地へ駆け出ると、鉄砲隊に気を取られている二千の牽制部隊の背後へ回って爆鉄弾を投げ込んだ。
「敵の槍隊が下がっていったのは我等を引き込むためだったのか!」
新手は少数だったが、三方から一斉に攻撃された時繁隊八千は崩れ立った。戦慣れしていない軍勢はこういう状況になると弱い。敵の奇襲に肝を冷やし、包囲の恐怖に襲われた武者達は、武者頭達の必死の制止にもかかわらず、唯一空いている右手へ向かって雪崩を打って駆けていく。牽制部隊も背後からの騎馬隊の攻撃と爆鉄弾の轟音に驚いて、隊列を乱して本隊の方へ逃げ込んでくる。
敵の槍隊と騎馬隊合計七千に包囲された梅枝勢一万は、次第に戦場の一点に集まりつつあった。
「待て、そっちへ行ってはいかん!」
時繁は敵の意図を悟って叫んだ。梅枝勢は敵の鉄砲隊の前方に押し出されていたのだ。
「すぐに待避せよ! 後退、後退だ!」
いつの間にか、鉄砲隊はやや前進して向きを変え、照準を包囲の輪の中心に向けていた。
「何をしておる。早く下がるのだ!」
鉄砲の威力を知っている時繁が軍配を大きく振って出せる限りの大声で命じた瞬間、二千の銃口が一斉に火を噴いた。耳をつんざく轟音が鳴り響き、周囲の森から無数の鳥が一斉に飛び立った。馬達は悲鳴を上げて暴れ出し、騎馬武者達は必死に手綱を引き絞った。
白い煙が辺りを覆った。
やがて、ごおんごおんという遠くの山から戻ってきた破鐘のようなこだまが消え、立ちこめていた焦げ臭い白い靄を風が運び去ると、静かな波音の聞こえる草地には、無数の鎧武者が血を流して倒れ伏していた。二千もの鉄砲隊の目の前に無防備に飛び出した者達の当然の末路だった。
巨大な発砲音に肝をつぶし、余りの惨事に立ちつくす武者達の周囲から、大きな鬨の声が涌き起こった。包囲する恵国軍の一斉突撃だった。射撃を終えた鉄砲隊は素早く下がり、かわりに行く手をさえぎった恵国軍の槍隊が、黄金に輝く鎧をまとった将軍を先頭に突っ込んでくる。
「完全に囲まれたか……」
時繁がつぶやいた瞬間、草地の南方で多数の銃声が轟き、山を揺るがすような大喊声が聞こえてきた。治業の指揮する後衛部隊の防御陣が遂に破られたのだ。間もなく一万四千の追撃軍がここに押し寄せてくる。
梅枝勢は恐慌状態に陥った。
蒼白になって森へ逃げ込もうとする武者達の前に、恵国兵が槍を構えて立ちはだかる。たちまち激しい斬り合い突き合いが各所で始まったが、包囲され、あれほどの惨劇を見せ付けられた梅枝勢の戦意は既に失われていた。武者頭達はばらばらに逃げ出し始めた部下を呼び戻そうと慌てて怒鳴り付けたが、張り上げた声にはどこか力がなく、かえって聞く者の恐怖心を募らせるばかりだった。
海岸沿いの細長い草地を悲鳴と怒号が埋め尽くした。その騒ぎの中心で、馬上の時繁はただ一人、軍配を握った右手を額にかざして、初夏の真っ青な空に浮かぶ傾き始めた太陽をまぶしそうに仰いでいた。
その日の夕暮れ時、穂雲城の大広間で、留守を預かる次席家老の内厩謙古は次々に届けられる知らせに呆然としていた。
逃げ戻ってきた武者達の報告によれば、一万三千の梅枝勢は恵国軍の巧妙な作戦の前に惨敗したという。合戦に勝負が付くと、恵国軍は一隊を穂雲港の占領に向かわせ、残りの部隊は血路を切り開いて穂雲城へ退却する梅枝勢の主力を追撃し、逃げ遅れた部隊を各個に包囲して殲滅した。
現在、次々と敗残兵が城に逃げ帰ってきているが、多くの者が負傷し、装備を失っていた。戻ってきた武者達は皆震えながら鉄砲という兵器の恐ろしさを語り、城内の者達にまで動揺が広がっている。
梅枝勢は散り散りになり、総大将の時繁の行方も分からないという。それほどの混乱だったということだが、それでは今後の方針の判断が難しい。謙古にできることは、主君を捜索させることと籠城の準備を急がせること、負傷兵の受け入れと手当の手配をすることだけだった。
「このままではどうしようもない。とにかく武者の数が足らぬ」
謙古はうめいた。
「城に残っていた者が一千、港を守っていた者が六百、戻ってきた者達が約三千で半分以上が負傷している。これでは籠城しても一日と持たんぞ」
法体の家老夜橋幽月が剃り上げた大きな頭を縦に振って同意を示し、硬い顔で言った。
「恵国軍は二万三千と聞きました。しかも、占領された穂雲港に軍船が続々と到着し、多数の兵士を下ろしているとのことです。そんな大軍に包囲されたら、いくら堅城と名高いこの城とてひとたまりもないでしょう。それに、敵は鉄砲を持っているというではありませぬか。そんな兵器に対する備えはしておりませぬぞ」
どうにも困ったと顔を見合わせたところへ、一人の家臣が大広間へ駆け込んできた。
「た、大変です!」
謙古はうんざりしたように顔をしかめてから渋々そちらを向いた。これ以上大変なことなど聞きたくなかったのだ。
「どうした」
「こ、これを!」
謙古は面倒くさそうに家臣から書簡を受け取った。が、それを読む内に顔から血の気が引き、手が震え出した。
「謙古殿。何が起こったのですか」
尋ねる幽月に謙古はその書簡を渡して何度も額の汗をぬぐった。それに急いで目を通した幽月も顔いっぱいに驚きの色を浮かべた。
「これは一体どういうことでしょうか」
「まさか、あり得んことだ」
「ですが、この手紙の語り口はまさしくそうだとしか思えませぬぞ」
「そんな馬鹿な……」
そこへ再び廊下を走る音が聞こえてきた。
「ご家老様!」
飛び込んできた若い武者が焦りも露わに告げた。
「あ、あの方が、門の前に来ておられます。お連れの方々もご一緒に」
家老二人は同時に手紙へ目を落とすと、頷き合ってすぐに腰を上げ、足早に城門へ向かった。
既に辺りは真っ暗だった。大手門の櫓に登った二人の家老は、露台の上から篝火に赤々と照らされた道を見下ろし、その人物を見付けて目を見張った。
「は、華姫様……」
謙古があえぐように相手の名前を口にすると、大勢の恵国兵を従えた時繁の次女は、一年前よりやや肉の落ちた顔を上げ、はっきりした声で返事をした。
「謙古、幽月、久しぶりね。元気そうで何よりだわ」
黒い鎧の集団の前で、髷を結わずに垂らした肩までの髪に恵国風の裾の長い真っ白な着物という姿で立つ華姫は、以前と変わらず美しかった。いや、昨年はなかった陰のようなものが表情に加わったことで、不思議な魅力が増してさえいた。燃え盛る炎の明かりに浮かび上がる白い衣装と美貌のあまりの妖艶さに、梅枝家の家臣達はまるで恐ろしい亡霊に魅入られたように動くことができなかった。
「手紙は読んでくれたわね」
二人の家老は顔を見合わせると頷いた。
「では、要求は分かったはず。今すぐ開門なさい」
「で、ですが……」
謙古が言い返そうとすると、華姫は急に厳しい口調になった。
「この状況で戦うと言うの? 勝ち目がないことは明白ではないの! はっきり言うわ。籠城しても負けは確定している。恵国軍にはこの城を攻め落とすことなど容易いわ。でも、私はあなた達を殺したくないの。だから降伏勧告をしているのよ」
「そう申されましても……」
口籠もった謙古の横から、幽月が言い返した。
「ご城主様のご指示なしに降伏などできませぬ」
その言葉に周囲にいた家臣達は生気を取り戻した。
「そ、そうだ。その通りだ」
謙古も勇気を出して言った。
「我等は城の守りを命じられております。御屋形様のお下知がなくば、たとえ華姫様のご命令といえど、降伏は致しませぬぞ」
それを聞いた華姫は、急に悲しそうな顔をした。以前より濃い化粧を施した美貌が激情に耐えるように歪んだ様はぞっとするほどの艶めかしさで、見るものの心に抗い難い魅力を忍び込ませたが、二人の家老はなぜかそこに不吉なものを感じて身震いした。
「我が父時繁は亡くなったわ」
華姫は静かに言った。
「父は先程自害したの。私は止めようとしたのだけれど、負傷して包囲され、もはやこれまでと思ったのね。降伏勧告を拒否して自刃なさったわ」
「そんな馬鹿な!」
華姫のつらそうな表情の意味を理解した謙古は、思わず大声で叫んだ。
「そ、そのような言葉が信じられるか!」
相手が主君の娘だということを忘れて怒鳴った次席家老に、幽月もすかさず同調した。
「その通りですな。御屋形様が亡くなったという明確な証拠がなければ信用できませぬ」
「証拠ならある」
答えたのは華姫の隣にいた兵士だった。黒い鎧の恵国軍の中で異彩を放っていた数名の吼狼国風甲冑の人物の一人が兜を脱ぎ、白髪頭を見せた。その顔を見て二人の家老は再び仰天した。早頭政資だった。
「我等は御屋形様の亡骸を引き取って参った。今お見せしよう」
政資が手で合図すると、一台の担架が運ばれてきた。その上には白い布をかけられた遺体がのせられていた。兵士の一人が布をめくって顔を見せたが、家老達の目はそちらには向かなかった。
「政資殿か!」
謙古は大声を上げた。同年配の家老同士で仲が良かったので、政資の死の知らせを謙古は随分悲しんだのだ。
「そうだ、わしだ。わしだけではないぞ」
その言葉を合図に、背後の三人と担架を運んできた四人の兵士が次々に兜を脱いだ。全員が海に消えたとされている者達だった。
「ご家老様、私もいます」
槍本景隣もはっきりした声で名乗った。
「これは一体どういうことなのだ」
「まったく何が何やらさっぱりですぞ」
家老達の疑問の声を華姫がさえぎった。
「その説明は中でするわ。まずは開門なさい。そこからでも分かるはず。これは父の遺体よ。父が亡くなったのだから、現在の当主はこの私。光子はまだ結婚していないと聞いたわ。ならば私が最上位者になる」
たいまつの火に照らし出された白い顔に恐ろしいほど美しい微笑を浮かべて、華姫は断固とした口調で言った。
「梅枝家当主として命じます。ただちに開門し、降伏なさい」
「し、しかし、女の当主など……」
「戦狼の世にも例はあったわ。何より、私以上に梅枝家の後継者として筋の通った者はいない。さあ、早く門を開き、私を受け入れなさい!」
「姫様の言う通りにしてくれ。でなければ、我等はお前達を攻め滅ぼさねばならん。悪いようにはしないと約束する。謙古殿、幽月殿、頼む!」
政資が言うと、取り囲む七人も一斉に頷き、そろって頭を下げた。
二人の家老は予想外の事態に混乱したが、使者が出されて時繁の遺体が確認されると、華姫の背後に控える数万の大軍の圧力の前に、降伏以外の選択肢は残されていなかった。
恵国兵と政資達に守られて門をくぐった華姫は、すぐに主立った家臣を大広間に集め、戻ってきた事情を説明した。その証拠として捕縛した来西敦平達五名を引き出して全てを白状させた華姫は、驚きと怒りにざわめく家臣達を静めると、以後自分が当主として立つと宣言し、下知に従うとの誓約を要求した。
「私は恵国軍と共に玉都に攻め上り、我が夫泰太郎を探し出して救出すると共に、海国丸襲撃を指示した者の引き渡しと関係者の処罰を求めるつもりよ。統国府が素直に応じればよし、応じなければ武守家を倒してでも夫の救出と仲間の復讐を果たすわ。あなた達にもそれに協力してもらいたいの」
人々が戸惑う中、最前列で華姫を囲んでいた早頭政資達八人が膝を突き、大声で誓いを立てて平伏すると、他の家臣達も不安げな面持ちながら、やむなくそれに和し、新しい主に頭を下げた。
儀式が済むと、華姫は当主として負傷者の手当とまだ城外にいる武者の収容を命じ、一部の家臣を捜索に向かわせた。また、財務方に政資と相談して城の物資を恵国軍に提供するように言い、夜橋幽月には時繁以下の戦死者達の葬儀の準備を、内厩謙古には恵国軍に差し出す人質の人選を指示した。
大広間を出た華姫のそばに、先程まで左右を守っていた景隣など政資以外の七人が集まってきた。七人は既に全員が敗残の武者達から借り受けた汚れた具足に着替えていた。
「では、手はず通りに致します」
「頼んだわ」
七人は華姫に頭を下げ、静かに城を出て行った。
残された華姫は一人城の奥へ向かった。城内は多くの恵国兵や負傷兵達の声で騒がしかったが、城主一家の住まいのある一角だけは静かだった。途中ですれ違った侍女が華姫を見て悲鳴を上げそうな顔で頭を下げて、逃げるように去っていった。
華姫の自室は何も変わっていなかった。使っていた諸道具や壁際の大きな書架もそのままで、鉢に植えて縁側に飾ってあった薬草さえ、誰かが世話をしているのか小さな黄色い花を咲かせて主人の帰りを待っていた。
華姫は桐箪笥の前に座ると一番下の引き出しを開き、内側の仕掛けをいじって箪笥の側面にある隠し戸を開いた。
出てきた封筒の束の一つから白い紙を取り出して開いた華姫は、懐かしい筆跡を見て涙を浮かべた。海に消える間際の夫の表情はまぶたの裏に刻み付けられて、決して忘れることができなかったのだ。
左手の白く輝く指輪をじっと眺めて目をぬぐった華姫は 泰太郎が旅先から送ってくれた手紙を一つずつ読み返しながら、これまでの一年近い日々のことを思い出していた。