(第二章) 二
二
蓮山英綱との見合いの三日後、光姫は正装して望天城に登った。芳姫に帰国の挨拶をするためだ。
婚礼は玉都で行われる予定で、現在梅枝家唯一の子女である光姫はそのまま都に留まることになる。全ての封主家は当主の奥方か子供か兄弟の一人を人質として都に置くことになっているからだ。
だが、その前に妹が結婚の準備と故郷の雑務の整理のために一旦穂雲城へ戻ることを、芳姫は許可していた。梅枝家は芳姫率いる統国府に協力的で警戒する理由はなかったので、遠慮がちに妹の特別扱いを言い出した国母に、御前衆はむしろ恩を売る機会だと積極的に同意した。
父との約束では光姫の都滞在は春が終わるまでだった。もう桜月も末で、見合いも全て済んだ以上、そろそろ国元へ帰らなければならない。それに、父が病に倒れて具合が思わしくなく、総馬揃えも欠席して穂雲城で養生していたので、光姫は帰国を決めたのだった。
光姫を大手門で迎えた城の若い用人は本郭御殿の控えの間へ案内して、「ただ今御前評定が長引いておりますので、しばらくここでお待ち下さい」と言って下がっていった。
出された茶を飲みながら、光姫は芳姫のやつれが見える白い細面を思い出し、今頃浮かべているであろう困惑と諦めの表情を想像した。穏やかでおっとりした上の姉に、頑固さで有名な総監達の話し合いを取り仕切るのは随分と荷が重いだろうと思ったのだ。
「この案のどこが駄目だというのだ!」
武者総監の杏葉直照は、あぐらをかいたまま身を乗り出して、同僚を怒鳴り付けた。
「多くの封主家から総馬揃えの負担が重過ぎると訴えがあった。費用がかさんでとても耐えられぬとな。だから、率いる武者の三割削減を提案しておるのではないか。どうしてそれがいかんのだ!」
「総馬揃えの縮小は認められぬ」
仕置総監の粟津広範は直照の怒声に全く動じず、冷淡なほど感情のない口調で言い返した。
「あれは諸侯が元狼公様にお目見えして忠誠を新たにする神聖な儀式。その権威を下げるような改革など絶対に受け入れることはできぬ」
「だが、現に封主達は困っておるのだぞ!」
直照は破鐘のような声で叫んだ。
「総馬揃えは年々派手になるが、どの家も他家に負けるわけにはいかぬからと、高価な武具を無理をして買いそろえておる。都へ多くの家臣を連れてきて滞在させるだけでも大金がかかる。そこで負担の軽減を図ろうというのだ」
直照はまるで自分を支持する諸侯に聞かせようとするかのように更に大声を張り上げた。
「天下統一から今年で三十年。戦がない以上恩賞の加増もなく、新田開発は限界を迎えておる。米余りと連年の豊作で米価は下がり続け、諸侯が力を入れた特産品も似たものが増えて売れ行きが鈍り、農民や武家の懐不如意による不景気で商家からの運上金も減る一方だ。だが、この十年で倍になった物価はなかなか下がらぬ。多くの封主家が財政難に陥り、借金でしのいでおるそうだ。外様家の義務の貫高に応じた献上金も年々滞納が増えておるのはよく知っておろう。これでは総馬揃えに不満が出るのも当然だ。そろそろ諸侯の収入に合わせた規模に変える時期に来ておるのではないか」
「諸侯の台所が苦しいのはよく知っておる。統国府の財政も火の車なのだからな。献上金も焼け石に水だ」
広範は冷ややかな口ぶりを崩さなかった。
「天下統一後、武公様は民の暮らしを豊かにするため田畑の開墾と特産品作りを奨励なさり、国内の農業や商工業を発展させようとお考えになった。だが、近年、諸侯が自家の米や産物を売ろうと競い合った結果、米や特産品の値が下がってきた。商人達も困っておるようで、百家商連から対策の要望が届いておる」
広範は先程この場の各人に配った紙へ目を落とした。
「それゆえ、新たな法度を設けることを提案する。諸侯の領内開発を監視して同じ特産品を作る家が増えぬよう統国府が調整し、秋に集中する米の出荷を分散させて価格の安定を図るのだ。同時に、奢侈禁止令を出して支出を抑えさせる。武家も民も、贅沢に慣れて暮らしが苦しくなっている者が少なくない。質素倹約の風潮が広まれば、諸侯の財政も楽になるはずだ」
「新しい法度など許さんぞ!」
直照は怒りに顔を真っ赤にして吼えた。
「諸侯の仕置きに制限を付けてどうする! ただでさえ苦しいのだ。この上、法度など設ければ、ますます追い詰めることになるぞ!」
「だが、これが最善の方法だと裁事や奉行達も認めておる」
広範は平然と言い返した。
「武公様は諸侯の仕置きにあまり口をお出しにならなかったが、それでも皆そのお心を慮って施政を行っておった。だが、武公様がお亡くなりになってから統制がゆるみ、統国府の許可なく関所を作って領内を通過する荷に税をかけたり、領民から買い叩いた特産品を商人に無理矢理高値で売り付けたりする封主家も現れておる。特に財政の苦しい外様の小封主家にそのような例が目立つが、これを放置しては統国府の御政道が揺らぐ。あのお方の威厳にかわるものとして、このような法度が必要なのだ」
「駄目だ駄目だ! 絶対に受け入れられぬ! 諸侯の財政の立て直しを助けてやらねばならぬ時だというのに、更に締め付けを厳しくするなど手足を縛るようなものではないか! 総馬揃えの負担軽減こそ急務であろう!」
「総馬揃えが貧弱になれば、武守家の面目に関わる。そうなれば、統国府の命令を軽んずる者が出てこぬとも限らぬ。この国の秩序を守り、平和と安定を保つことが、武公様に託されたわしの使命なのだ。そもそもあの儀式には諸侯に出費を強いて財力を圧迫し、反乱を防ぐというねらいもある。そこをゆるめるわけにはいかぬ。むしろ、苦しい封主達がこれ以上勝手をせぬよう、より厳しい法度を設けて監視を強化せねばならぬ。譜代だけ適用外とすればさすがに不満が出ようから全国一律とし、そのかわり外様封主家は献上金の額を少し増やす。これなら統国府も助かり、一石二鳥だ」
「だからそれがいかんというのだ!」
直照が思い切り畳を叩くと湯飲みの中の茶が波立ち、横に置かれた陶製のふたが跳ね上がった。
「困っておる諸侯を助けるどころか、無茶をせぬよう新たな法度で縛るなどという安易な方策は、いかにも目先のことしか考えぬ小役人どもの思い付きそうなことよ!」
直照の怒号に、芳姫の前で言い争う両総監を見守っていた人々の間から溜め息が漏れた。小役人と罵られた財務・所務・礼務・治都の四裁事と、その下官である主計・行李・商工・伝馬・宮社・墨浦・検断・公事の八奉行がこぼしたものだったが、溜め息の理由の半分はいつまでたっても終わらぬ評定に対する嘆きだった。朝から始まってもう昼過ぎなのだ。途中で挟んだ昼食休憩以外、ずっと座り詰めだった。まとめて御前衆と呼ばれる御前評定の参加者には執武官もいて、九国総探題・京師守護・天宮警護役頭人・水軍頭・望天城衛門所衛士督・御廻組頭の六衛職も執印官達に向かい合う形で並んでいるのだが、誰も総監二人の議論に口を挟もうとはしなかった。芳姫も一段高い畳に置かれた赤い座布団の上で困った顔をしていたが、何も言わなかった。
武者総監の杏葉直照と仕置総監の粟津広範は、半年前、手を組んで鷲松巍山を失脚させることに成功した。直照は辞任した秋芝鉄堅にかわって総監となり、両者は協力して芳姫を補佐するはずだった。だが、武守家の忠実な臣下として武公以来の政策を守ろうとする広範と、新総監にすり寄ってきた諸侯から様々な陳情を受け付けて人気を得ようとする直照はことごとに対立し、御前評定で衝突して芳姫を悩ませていた。
直照は武公の長男でありながら後継者になれなかった人物だ。これは母の身分の低さゆえとされているが、本当の理由はその短慮と放縦な行状を父に疎まれたからだと噂されている。実際、直照は総監になるまで、統国府の役職に任じないかわりに与えられた宝瀬国など二ヶ国五十三万貫の大封と所有する銀山の仕置きは家臣達に任せ、都で莫大な収入を湯水のごとく使って遊興にふけっていた。だから、広範は直照の主張する改革など取り巻きの諸侯の受け売りに過ぎぬと相手にせず、統国府の仕置きへの口出しをはね付けた。直照の方も、三十年前と同じやり方を続けようとする広範を因循姑息と馬鹿にし、父に仕えた老いぼれどもは役目を若い者に任せてさっさと引退するべきだと公言していた。両者の対立は日を追うごとに激しさを増したが、芳姫は決断力を欠いた上、二人に担がれてその地位にあったので彼等を抑えることができず、ただ困惑しながら見守ることしかできないのだった。
「法度の制定に賛同する諸侯は少なくない。複数の封主家から、小封主達が勝手をやって迷惑しておるので厳しく取り締まって欲しいと不満が寄せられておる」
「そんな文句を言うのはどうせ、いつもお主に加担する大封主家の爺さん達だろう! わしが話を聞いた小封主家の若い当主達は皆法度に反対しておる! 抑え込むだけでは問題は解決せぬのだ!」
「まあまあ、直照殿、落ち着きなされ」
顔を真っ赤にして怒号を発し、繰り返し床へ拳を叩き付ける直照を、三柱老の第三位である内宰の雉田元潔がなだめた。この六十六歳の老人も広範同様武公に長年側近として仕えた人物で、片籠国二十万貫の国主に出世した現在も、武守家の家政の長として元狼公直孝と国母芳姫の生活全般と望天城の庶務を取り仕切っている。
「これが落ち着いておれるか! 多くの封主家は既に借金漬けなのだぞ。このままでは財政が破綻する家が出かねんのだ!」
「じゃが、国母様が驚いておられる。もう少し声を落として話された方がよい」
そう言われて、評定の参加者達はそろって段上の芳姫へ目を向けた。元狼公の代理者であるこの場の唯一の女人は、直照の怒声と畳を叩く大きな音に身を固くしていた。
「これは申し訳ございませぬ」
直照はぐるりと座を見渡して文武諸官の面に浮かんだ非難の色に気が付くと気勢を削がれたような顔をしたが、芳姫に頭を下げて猫撫で声を出した。
「国母様、評定が長引いておりますが、重要な案件でございますので、もう少しだけお付き合い下さいませ」
疲れた表情で軽く頷き返した国母に媚びるような笑みを向ける直照を見て、幾人かが眉をひそめた。直照が芳姫に思いを寄せているのは周知の事実だったからだ。直照が芳姫をねらうのは、好色な彼が二十七歳の国母の艶やかさに惹かれていることもあろうが、主たる理由が芳姫と結婚して統国府の実権を握り、いずれは元狼公になろうという目論みにあることは明らかだった。
弟直信の死後、直照は取り巻きの封主達にそそのかされて大それた野心を持つようになった。総監になったのも巍山をまねた諸侯の陳情の取り次ぎもそれが目的だ。そもそも総馬揃えの負担軽減は半年前に直利陣営が諸侯を味方に引き込むために約束したことの一つで、巍山が二割と言ったところを直照は三割にすることで支持を得ようとしていた。
直照の作った笑みに露骨に嫌な顔をした広範がわざとらしく咳払いすると、武者総監は首を戻し、背筋を伸ばして厳めしく表情を引き締め、やや声を下げて再び語り出した。
「では、話を続ける。確かに、無許可で関所を設けるなど言語道断、放置はできぬ。米価の監視強化は必要だ。倹約の奨励もよい。だが、より重要なことは、諸侯の出費を減らし、収入を増やすことだとわしは思う。法度で縛るのは逆効果だ。むしろ法令を整理し、諸侯が自由に腕を振るえるようにしてやるべきではないか」
広範がすぐに反論した。
「それでは手綱をゆるめ過ぎだ。諸侯が勝手なことを始めたらどうする。一度ゆるめたら再び厳しくするのは難しいのだぞ。危険なことはできぬのだ。やはり奢侈の禁止と法度を組み合わせるのが現実的だな」
「締め付けを厳しくした上に贅沢まで禁じれば、諸侯の不満がますます高まるぞ!」
「贅沢を禁じられて困るのは貴公ではないのか。都の杏葉屋敷には側女が三十人もいると聞いておる。そういう者にこそ禁令が必要なのだ」
「なんだと! わしが側女を何人持とうと勝手だろうが!」
「贅沢な暮らしに慣れた者は、すぐにそのようにむくれて不平を申すものだ。やはり、無茶をせぬよう、法度を設けて監視せねばならぬ」
「禁令や法度で溜まる不満を法度で抑えていては際限がないではないか! そもそも諸侯の監督はわしの仕事だ!」
「ならば、監視を甘くするようなことは申されるな」
「ええい、この頑固者め!」
「頑固なのは直照殿ではないか」
二人の総監の言い合いを聞きながら、執武官の末座にいた御廻組頭の桑宮道久が小さくつぶやいた。
「どちらも真の解決にはならないだろうに」
これを隣に座っていた勇留夫族の望天城衛門所衛士督羽至空が聞きとがめた。
「何が言いたい」
パシクは小声で道久に尋ねた。
「こんな議論は何の役にも立たないと言ったのさ」
道久は冷笑を浮かべて答えた。二人の総監のやり取りはもはや罵り合いと化していた。
「見ろ。またいつもの喧嘩が始まった。毎回同じことの繰り返しだ。これがこの吼狼国で最高の政事決定評定の現状とはお笑い種だな」
「仕方あるまい。お二人はお立場が違い過ぎる」
パシクは真面目な顔を崩さずにささやき返した。
「仕置総監は武守家の御料地や諸侯領の施政を監督し、各種法度を制定する。武者総監は陳情を受け付け、諸侯との関係を調整する。統国府の方針を行き渡らせようとする側と、諸侯の事情や考えを伝える側なのだ。意見が対立するのも無理はない」
粟津広範は裁事や奉行達の長として、杏葉直照は執武官や諸侯の意見の取りまとめ役として、それぞれの立場を代表しているのだ。
「それに、譜代諸家の内、粟津公は保守派の大封主家の、杏葉公は改革を望む中小諸侯の支持を受けている。どちらも引くわけにはいかないのだろう」
「ほほう。ユルップ族の族長の息子にしては随分詳しいな。政事には関与せず中立を守るはずではなかったのか」
「これでも御前評定には長く出ているからな」
パシクは道久より三つ下の二十八歳だが、望天城に出仕して十三年になる。
「そういえば、この場ではまだ三年目の俺よりよほど先輩だったな。ご苦労なことだ」
「お互いにな」
からかう友人に言い返したパシクは、怒鳴り声と冷ややかな切り返しの応酬を続ける二人の総監へ目を戻した。
パシクの属するユルップ族は、豊魚半島、つまり臥神島という大きな狼のぴんと立ったしっぽの更に北に点在する勇留夫諸島に住む少数部族だ。半島とこの島々との間には海流の激しい広い海峡があり、最も臥神島に近い主島の沖崖島はその名の通り半島に面した南側が切り立った崖で、船を着けられる入り江は北側まで回り込まないと存在しない。この防衛上の有利さと住民の勇敢さによって、勇留夫諸島は長い間中央政府の支配を免れていた。
だが、戦狼の世の末、ユルップ族はある封主家に言葉巧みに誘われて武守家との戦いに参加し、武公の討伐を受けて島を占領された。追い詰められたユルップ族が武器を捨てて降伏し、助命を嘆願すると、武公はそれを受け入れ、武守家に剣を向けないことを条件に以後も自治を続けることを認めた。
滅亡さえ覚悟していたユルップ族はこの寛大な処置に大変感謝し、武公の鷹揚な人柄に惚れ込んで、名目上武守家直轄領となったこの島々から毎年産物を献上することと、武守家の当主に絶対の忠誠を尽くしてその身を守護することを誓った。以後ユルップ族は武公の私的な護衛兵となり、天下統一後は望天城の警備を御廻組と共に務めているのだ。
道久とパシクはその職務柄御前評定にも出席の資格があった。しかし、一万貫と二万貫の封主の格式を与えられているとはいえ、武守家の直参衆と客将扱いの族長の世継ぎという身分に過ぎないため、国全体に関わる問題を扱うこの評定では、意見を求められでもしない限り発言は許されなかった。
総監同士の言い合いはいつまでたっても終わりそうになかったが、他の者達は沈黙して収まるのを待っていた。五十三万貫と三十万貫の国主である両総監に比べて四人の裁事は十万貫前後の中小封主、八奉行に至っては武守家の直参衆で身分が違う。比較的大きな封主である執武官達も、自分達が口を挟むと話が更にややこしくなることを知っているので見守るしかなかったのだ。
「総馬揃えの改革こそ国母様のお心にかなうはず。このような法度には、もちろん反対でいらっしゃいましょうな?」
「何を申す。四裁事と八奉行が一致して提案しておることなのだ。国母様も法度の趣旨にご賛同下さるに決まっておる」
遂に二人の総監は芳姫に自説への同意を求め出した。芳姫はどちらの意見に賛成したものか決めかねている様子で文武諸官に目で助けを求めたが、誰もが視線を逸らした。直照は芳姫に改革案の承認を迫り、広範はそれを冷ややかに牽制し、元潔だけが二人をなだめようとしていた。
「片方は元帥位をねらって諸侯の人気を取ろうとし、もう片方は頑なに現状を維持しようとしているだけだ」
道久が小声で吐き捨てるように言った。
「国母様のお顔を見ろ。うんざりなさっている。いい加減止めないと、この評定はいつまでも終わらないぞ」
「その通りだが、どうしようもあるまい。何か上手い方法でもあるのか」
パシクの問いには答えず、道久は急に片手を高く挙げた。
「お待ち下さい!」
発言を求めた道久は、司会役の礼務裁事の返事を待たずに立ち上がった。
「私の意見を聞いて頂きたい」
道久はいきなり語り始めた。
「私も倹約を奨励することは必要だと思うが、全部を禁ずることはないと考える。
そもそも物価の上昇と贅沢の広まりは、平和な時代の到来と武公様の施策によって開発が進んで各地に特産品が生まれ、商人の活動が活発化して民の収入が増えたことが原因だ。生活に余裕ができた者達が物を買うようになり、高価な品々の需要も増えたのだ。実際、玉都など町に住む者達の暮らしは随分豊かになった。桜祭を見ればよく分かるはずだ。近年の生産過剰による米や特産品の価格低下と諸侯の財政難だけを見れば確かに危機的状況だが、本来、民のする贅沢は、吼狼国の農業や商工業が発展した証なのだ。
一方で、武家は起きるとも思えぬ戦に備えて武器を磨くだけの日々を送っている。出世するのは算術の得意な者のみで、武芸に秀でた者や忠義の心の厚い者には活躍の場がない。その上、主家の財政悪化で禄は削られ、総馬揃えなどで出費は増え続け、諸国の武家の暮らしはどんどん苦しくなっている。多くの者が不満を抱える中、その反動で遊興にのめり込む者も少なくない。つまり、武家の子弟の放蕩は停滞と諦めの結果と言える。
今、全国の武家が求めているのは目標だ。自分達がこれからどう主家や国の役に立ち、どんな未来を作っていくのか、それが見えていない。だから不満ばかりが募るのだ。平和の恩恵で自然に発展してきた時代は終わり、もはや体制の維持に努めるだけでは国を守っていくことは難しくなった。今、統国府がなすべきことは、この国が次に進むべき道筋と、そのために諸侯やその家臣達が果たす役割を明示することなのだ」
道久はここまで一気に語ると一旦言葉を切り、昂然と評定の間を見回した。皆驚いたように道久に注目している。奉行達の反応を確かめた道久は、段上の芳姫に向かって再び言葉を続けた。
「では、今後この国をどこへ向かわせるのがよいか。私は国外へ目を向けるべきだと思う。大陸との貿易のことだ。現在、恵国には銀などの鉱産物と工芸品や食料品、合わせて数十品目が輸出されており、その利益は百万貫に匹敵するという報告もある。実際、いくつかの封主家は大商人と結んで貿易で大儲けしている。私は墨浦にいたことがあるから、無数の蔵と貿易商の豪壮な屋敷が建ち並び、幾多の巨船が出入りするあの町の繁栄ぶりをよく知っている。貿易があの富を産むのだ。一方で、恵国で高く売れる産物が輸出にばかり振り向けられて国内の価格が高騰している現実もあり、隆国との密貿易で巨利をむさぼる者達もいると聞く。
私はこうした問題を一挙に解決する方法として、事実上一部の封主家や大商人が独占している大陸との貿易を外様を含む全封主家に開放し、統国府が取りまとめる形に変えることを提案する。貿易に必要な産物を調べて諸国で生産させ、玉都に集めて武守家が買い取り、御用船に載せて輸出するのだ。こうすれば、統国府が潤うだけでなく、利益は諸国に還元され、更なる産業の発展を促すだろう。諸侯は自領に適した輸出用の産物を民に作らせることで、ただ収穫を吸い上げるだけの存在から、真の施政者になれる。民を導いてその暮らしを豊かにし、自身も潤い、国の役にも立てるようになるのだ。同時に国内で必要な物資を別に生産させれば、物価も安定し、武家も民も助かる。国内で余った米や特産品は恵国に売り付けてしまえばよい。銀と抱き合わせれば、いやとは言えないはずだ。これを統国府の監督の下、全国で行うのだ。無論やさしいことではないが、まだ諸国に余力のある今なら可能だと私は考えている。
この貿易改革の実現のためには二つのことが必要になる。一つは隆国との正式な国交の樹立だ。自立から十六年、大陸沿岸の三分の一を占めるに至った隆徳受命国はもはや反乱勢力ではなく、立派に一つの国と言える。隆国へも同じように統国府の交易船を送り、密貿易は禁止すれば、取引の相手が倍になって利益も大きく増え、何かと注文の多い恵国への牽制にもなる。すぐにでも使節を派遣し、正式に国と認めるから友好を結んで欲しいと伝えて交渉を始めるべきだ。大陸の両国の間で上手く立ち回ることで、吼狼国は大きな利益を上げることができよう。
必要なことの二つめは武力の強化だ。長期に渡って安定して貿易を続けるには、尊大な大陸人に吼狼国は侮れぬ強国と思わせ、対等な交渉相手と認めさせなくてはならない。また、両国を争わせて得をしようとしたり、銀を武器に譲歩を迫ったりすれば恨みを買うことになるから、万一の備えは必要になる。このため、諸侯には産業振興と同時に武力も整備させる。どちらの国とでも戦えるだけの力を持ち、それを背景に貿易や交渉をするのだ。
これらの実現には綿密な計画とかなりの資金が必要だが、今すぐできることもある。例えば、貿易や産業の振興に必要な人材を育成するため、武家に文武を奨励することだ。総馬揃えも華美なだけで非実用的な武具を禁止し、見た目の煌びやかさよりも武術の腕前を重んじることにする。武芸の大会を開くのもよい。諸侯が麾下の武者達を飾るのではなく鍛える方向へ持って行くのだ。武芸の修練や学問に励むことが国のためになると分かれば、諸国の武家は停滞の淀みから抜け出して、目標に向かって動き始めるだろう。その先頭に立って導くことこそが、元狼公様と統国府の役割ではないだろうか。
以上が私の意見だ」
道久が口を閉じると、しんとして聞き入っていた文武諸官は顔を見合わせた。
段上の芳姫は驚いた顔で道久を見つめていたが、大きく頷いた。
「道久殿の言う通りですね――」
そう言いかけた芳姫の言葉は、直照の怒鳴り声でかき消された。
「控えよ!」
直照は怒りを露わにして、ずしんと響くほど強く畳を叩いた。
「桑宮、お前の言いたいことは分かった。それは一つの考え方かも知れぬ。だが、貴様は武守家直参衆筆頭にして封主待遇とはいえ、一万貫の小身に過ぎん。国主である総監同士の議論に口を挟んでよい身分ではない。そもそも御廻組頭の職分は元狼公様の御身を守護することであって、御前評定に臨席するのは意見を述べるためではない。身の程をわきまえよ!」
「その通りだ」
広範も頷いた。
「貴殿にも意見があることは分かったが、それをこの場で言うのは間違っておる。しかるべき手順を踏んで担当の奉行に伝えるのが筋だろう。今の発言は聞かなかったことにしておく」
「……申し訳ありません。出過ぎたまねを致しました」
道久は総監二人の非難を穏やかな顔で受け止め、謝罪して深々と頭を下げるとすぐに座った。突然の発言に一番驚き、冷や冷やしながら見守っていたパシクは、道久が大人しく謝ったのでほっとした顔になった。
「まったく、越権行為もはなはだしい。警護役風情が出しゃばりおって!」
直照はまだ怒りで息が荒かった。
「じゃが、今の意見にはなかなか見るべきところがあったとは思わぬか」
雉田元潔が口を挟んだ。
「よく考えられておるし、なるほどと思う部分もあった。お二人の意見が一致しそうもないことじゃし、ここは桑宮殿の提案を取り入れてはどうじゃろう。結論はこうじゃ。第一に武家に文武を奨励する。第二に倹約令を発布し、来年の総馬揃えでは華美な武具を禁じる。第三に総馬揃えに合わせて武芸大会を開くのじゃ。考えてみれば家中で武芸を競わせておる封主家はあっても、国全体の大会はなかったからのう。優勝者には国母様から直々に褒美をお渡し頂くことにすれば奮起する者も多かろう。この三つならば多くの者が納得し、諸侯の財政も助かるとは思わぬか」
元潔は直照と広範の顔を順番に見た。
「わしは、法度もじゃが、特に外様封主家の献上金の増額には慎重になった方がよいと思うのじゃ。巍山殿が人気を得たのは、統国府に意見を言えぬ彼等には他に頼れる者がいなかったからじゃ。巍山殿が失脚した途端に負担が増えるとあっては、外様衆の不満を高めることにもなりかねぬ。どこからも文句が出そうにない桑宮殿の提案を採用するのが無難じゃろう。お二人ともどうじゃな」
注目を浴びた両総監の内、広範が先に口を開いた。
「その三点には賛成だ」
広範は感情の読めないまなざしを道久に向けたが、すぐに顔を戻した。
「不十分ではあるが、効果はあるだろう。公平に見てやって損はない」
広範はしわがれた低い声で淡々と言った。
「外様の諸侯を恐れるからではない。彼等は武公様の武威に屈して従ったかつての敵であり敗者だ。これまで通り厳重に監視して統御すればよく、彼等のために仕置きを曲げる必要などないが、敢えて刺激することもなかろう。法度の発布は諦めぬが、もう少し考えて案を練り直すことにしよう」
元潔は次いで直照へ顔を向けた。武者総監はいかにも不満げだったが、周囲の視線を受けて渋々頷いた。
「仕方がない。それだけなら認めよう。俺も外様衆など恐れはせぬが、その案に反対する理由はないからな。だが、これでこの件が終わったわけではないぞ。わしも総馬揃えの改革と法度の緩和を諦めぬ」
元潔はにこにこしながら直照に同意した。
「それで構わんよ。今日はここまでということじゃ。続きはまた今度話し合えばよい。国母様、よろしいですかな」
道久のことを感心したように見ていた芳姫は視線を戻して頷いた。文武諸官も長い議論にようやく決着が付いたことに安堵した様子だった。
「では、次の議題です。墨浦奉行から報告があります」
司会役の礼務裁事が告げると、外交担当の奉行が口を開いた。
「大門国より、再び恵国から使者が来たと報告が入っております。使者は我が国が恵国に臣下の礼をとることを要求し、恵国側に立っての隆国への攻撃と密貿易の本気の取り締まり、銀の輸出制限の緩和を求めています。臣従と攻撃はともかく、密貿易の件は反乱勢力を弱らせるために当然の主張ですが、本音は、銀を隆国に売るな、こちらへ全部寄越せということのようです。輸出制限についても例年と同じ主張の繰り返しでした。ですので、当方からはいつも通り、隆国との貿易は禁止して違反者は厳しく罰していると答え、臣従と隆国への攻撃はあり得ないと拒否し、輸出制限に関しては、我が国も銀は必要なので今の制限は妥当であると返しておきました。ですが、今回は特に強硬で、臣従して命令に従わなければ討伐も辞さないとまで言って食い下がっているそうです。現地は口先だけの脅しと判断していますが、どう対応致しましょうか」
「追い返せ。相手にする必要はない」
直照は馬鹿馬鹿しいという顔をした。
「恵国に我が国を討伐する余裕などあるはずがない。隆国に攻められて負け続けておるそうではないか」
「恵国の使者は、物価高に苦しむ民を救うために協力して欲しいと訴えておりますが」
「それがどうした。我等に恵国の経済の立て直しを手伝う義務などない。隆国との密貿易は問題だが、取り締まりには全力を挙げておるのだ。そんなに銀が欲しければ隆国から奪えと言え」
「それはまずかろう」
広範が口を挟んだ。
「取りあえず話だけでも聞いてはどうか。真意を探った方がよい」
「無用だ。要するにもっと銀が欲しいのだろうが、あまり大量に持ち出されては我が国が困る。今まで通り、制限を付けての貿易で十分だ。臣従要求に至っては考える価値もない。吼狼国は武家の国だぞ。歴史を振り返っても、他国に従ったことなど一度もないのだ。隆国へ攻め込む理由も吼狼国には全くない」
「それはそうだが、だからといって追い返すのは恵国を刺激することになる。斜陽とはいえ相手は大国だ。へそを曲げられてよいことはない。貿易をしている商人達が困るかも知れぬ。恵国の事情など興味はないが、鄭重にもてなして聞くだけは聞き、土産でも持たせて帰せばよい」
「弱腰ではなめられるぞ! 商人のことばかり心配しおって!」
「喧嘩腰ではそれこそ戦になるではないか。貿易を許す商人を限定することで、統国府が管理できるようにしておるのは知っておろう」
再び言い合いを始めた総監二人に、段上の芳姫は深い溜め息を吐いた。その疲れの見える憂い顔を、道久はじっと見つめていた。
そうして更に一刻ほど続いた御前評定は、午後の最も暖かい時間に差しかかってようやく終わった。
礼務裁事のその宣言を聞いて、芳姫は心からほっとした表情になった。国母は一同の礼に頷き返すと、長い正座で痛む足を伸ばして立ち上がり、平伏する文武諸官の列の中央を通って廊下へ出て、奥向きへ去って行った。
芳姫が襖の向こうに消えるのを見届けた文武諸官は、立ち上がって次々に部屋を後にした。真っ先に腰を上げたのは直照で、そそくさと芳姫を追っていった。席次の低い道久とパシクは、他の高官達が部下を引き連れていなくなるのを座ったまま待っていた。
「さっきは驚いたぞ。いきなり演説を始めるとはな」
部屋が空になったのでようやく立ち上がったパシクが、伸びをしながら言った。
「あのまま放っておいたら夜まで終わらなかったろうから、正直助かった。だが、ああいうまねはもうやめた方がいい。お前のためにならないぞ」
「あんなことは二度としないさ。目的は達したからな」
道久も立って軽く肩を動かした。
「目的? あの改革案を通すことか」
「そんなところだ」
道久は曖昧に頷くと、パシクへ背を向けて歩き出した。パシクは何か言おうとしてためらい、黙ってその背中を見送った。
廊下に出た道久は、迷わず奥向きと表を分ける大扉の方へ進んでいった。
「この辺りか」
立ち止まって耳を澄ませると、横手の廊下から男女の押し問答が聞こえてきた。
「国母様。どうか一度我が屋敷へお運び下さい」
そっとのぞいてみると、直照とその家臣らしい三人が芳姫を取り囲んでいた。
「都で評判の役者どもを招いて宴を催しまする。杏葉家総出でおもてなしさせて頂きますゆえ、どうかご承知下され」
「い、いえ、結構です。私は直孝様のお世話をしなくてはなりませんから……」
芳姫の声は困惑が露わだった。胸元で閉じた扇を両手で握って体を硬くしている。
「直孝様はもう九つでいらっしゃる。一晩くらいお母上がいらっしゃらなくとも大丈夫でございましょう。国母様は毎日の政務でお疲れのご様子。たまには羽をお伸ばしになることも必要ですぞ。わしが吟味した山海の珍味は、必ずや国母様にご満足頂けるはず。食事の後はよりすぐりの美酒をご用意してございますので、一晩ゆっくりとお過ごし下され」
酔わせて泊まらせてものにするつもりか。古い手だ。
道久は不快げに眉をひそめた。もしやと思って来てみれば、案の定だ。
「なぜ何度お誘い申し上げても当家へお出で下さらぬのか。こたびはどうあってもご承知頂きますぞ」
「直照殿、どうかお許し下さい。臣下の屋敷を気軽に訪問してはならないと粟津公にも言われております」
「ええい、あのじじいめ、余計なことを言いおって。……こうなっては仕方ありませぬ。無理にでも我が屋敷へお連れ致しますぞ。おい、お前達、ご案内申し上げよ」
直照が顎で合図すると、家臣達は華姫を囲む輪を縮めた。さすがに体に触れはしないが、逃がすつもりはないらしい。
「おやめ下さい。行くわけにはいかないのです」
「いやいや、今日という今日は必ずお運び頂きますぞ。奥向きの者達へは後で伝えておきますゆえ、ご心配は無用です。ささっ、こちらへ」
「いやです。離して下さい。人を呼びますよ」
「その必要はありませぬ。そろそろお覚悟をお決め下され。それ、お前達。人が来ない内に急ぐのだ」
「だ、誰か……!」
小さく舌打ちした道久は、芳姫を取り囲んで廊下を移動しようとする直照達の前に立ち塞がった。
「国母様、お呼びでございますか」
道久の声に直照はぎょっとした様子で振り向いた。救い主の登場にほっとしたらしい芳姫は、現れたのが道久と知って顔を真っ赤にした。
「国母様はこれからお部屋で執務をなさるご予定ですので、申し訳ございませんが、杏葉公のお屋敷にはうかがえませぬ。どうかこたびはお諦め下さい」
表情を変えずに平坦な口調で告げた道久が主君へ小さく頷くと、芳姫はさっと家臣達の輪を抜けて足早に廊下を去っていった。
奥向きへつながる大扉はすぐそこだ。その中へ逃げ込んでしまえば直照も手が出せない。もう大丈夫だろうと思い、一礼して立ち去ろうとした道久の背中へ直照が怒鳴った。
「桑宮、覚えておれよ! この恨み忘れぬぞ」
直照は怒りと悔しさの混じり合った顔から湯気を噴きそうだった。
「先程の評定での発言のこともだ。今日は貴様の案が通ったが、ああいうことは二度とないと思え。もし今度貴様の職分に関すること以外で発言したら、御前評定への出席を禁ずる。そう心得よ!」
黙って頭を下げた道久をぐっとにらみ付けると、直照は家臣達と共に重い足音を立てて去っていった。
顔を上げた道久は、少し考えてから、廊下を逆の方向へ急ぎ足で歩いていった。
評定の間の前を通り過ぎ、更に進んだ道久は、前方をゆっくりと歩いている猫背の老人に追い付くと、丁寧に言葉をかけた。
「雉田様」
「ああ、君かい。なんじゃね」
六十六歳の内宰はゆっくりと振り返った。
「先程はありがとうございました」
元狼公の生活の管理者と警護役という関係上指示を受けることの多いこの老人に道久が頭を下げると、元潔は納得した顔で数度頷き、にっこりと笑った。
「いやいや、よいのじゃよ。君の提案はもっともだったから取り上げたのじゃ。意見の正しさと言った者の家格は関係がないからのう。むしろ、あの状況で誰もが納得する良案を出してくれたことに感謝しておるよ」
「とんでもないことでございます。思わず立ち上がって日頃考えていたことを述べてしまいましたが、雉田様のお言葉がなければ部屋を追い出されていたかも知れません。お礼申し上げます」
「いやいや、それには及ばぬよ。じゃが、一つ聞いてもよいかの。あれは全て自分で考えたのかい。誰かに聞いたのではなく」
「はい、私の意見です」
「ほうほう、それはすごいねえ」
元潔の目が一瞬値踏みするように道久を一周した。
「よければ、今夜わしの屋敷に遊びに来んかね。実はわしも恵国貿易を外様衆へ解禁することに賛成でのう。他の案件についても君の意見を聞いてみたいのじゃ。話によっては、君の今後の相談にも乗れるじゃろうよ」
「いえ、それはご遠慮申し上げます。役目柄、特定の方と親密に思われてはならないものですから」
元潔はもう一度、今度はぎょろりと獲物を見るように道久に目を走らせたが、すぐに好々爺然とした笑顔に戻った。
「そうかい、それは残念じゃな。じゃが、気が変わったらいつでもおいで。待っておるよ」
「はい、その時はよろしくお願い致します」
頭を下げた道久を残して、元潔は廊下を去っていった。
内宰の姿が見えなくなると道久は顔を上げ、老人が消えた方へ冷笑を向けた。
「手下になれだと? 思い上がるな。お前のような日和見で保身しか考えぬ隠居間近の老人に付いても先は知れている。俺の野望はもっと大きい」
つぶやいた道久は、背後の足音に振り向いた。
「やっと来たか」
廊下の向こうから、主計・公事・商工の三人の奉行が近付いてくる。
「お、いらしたぞ。……桑宮様、少々お時間を頂いてもよろしいでしょうか。先程のお話をもっと詳しくうかがいたいのですが」
奉行達は同じ武守家の直参衆ながら封主格の道久に対して丁寧にお辞儀をして、ためらいがちに話しかけてきた。
「もちろん、いいとも。君達には是非話を聞いてもらいたいと思っていたのだ。だが、今は忙しい。後日にしてもらえないか」
道久は愛想よく答え、ここでは人目があるからと、三日後を約して別れた。
再び廊下を歩き出した道久はほくそ笑んだ。
「連中を取り込めば、統国府の実務面は思うままに動かせる。だが、総監達が邪魔だ。どうにかしてあの二人を排除する必要があるが、その前に俺の地歩を固めておかねばならん。やはり芳姫様を落とすのが先だな」
にやりとした道久は、政治の場である表と女性の世界である奥向きとを仕切る大扉へ向かって歩いていった。
御前評定の後、直照の誘いから逃げた芳姫は、奥向きの中の自分の居室へ戻ってきて、いつもの政務を始めていた。
「これでいいかしら……」
手に持った長い書簡に目を通し終えると、芳姫は、ふう、と深い溜め息を吐いた。朱墨で更にいくつか書き込みをしてから、もう一度ざっと見直して、筆を置く。
やっと一件終わったが、まだまだ先は長い。部屋の中程に置かれた小さな文机の右手には、四裁事や諸国の代官から提出された決裁待ちの報告書が山になっている。左手にはすでに読んで必要な指示を書き加えたものが数通置いてある。判断に悩んだ書状は机の隅に重ねてあった。紅の扇もその横にあり、芳姫の後ろには、壁際の二つの本棚から持ってきた参考用の書物が積み上げられていた。
「直信様はどうやってこの重圧に耐えていらっしゃったのかしら」
持っていた書簡を畳んで左側に置いた芳姫は、自分が独り言を言っていたことに気が付いて、力無く苦笑し、疲れているのだわ、と思った。
国母と呼ばれるようになって半年が経つが、芳姫はいまだに慣れなかった。荒れる御前評定にも、大きな責任を伴う決断をしなければならないことにも、現在している作業にもだ。
念のため部屋に他に誰もいないことを確認してから、芳姫は文机に突っ伏した。喪服の袖が汚れないように、筆と硯は畳に降ろして右に押しやってある。平服に着替えたとはいえ上等な絹なのだ。
「疲れるのは当然ね。こんなことをまさか自分がするなんて思わなかったもの」
芳姫はつぶやいて、頬をそっと木の机に付けた。
ひんやりと固い感触に目を閉じると、浮かぶのは幸福な思い出だけだった。
直信様がいらした頃が懐かしい。いいえ、もっと前の、田美国で妹達と暮らしていた頃に戻れたら。
そんなことを疲れた頭でぼんやりと思い、芳姫は急に悲しくなった。
自分で政務をとるようになって、芳姫は元狼公の仕事量の多さと責任の重さに驚き、そして戸惑った。夫の直信はいつもやさしくあまり疲れを見せなかったが、今ならそれがどれほどすごいことだったかがよく分かる。芳姫は以前も夫をそれなりに愛していたが、亡くなった今では尊敬する気持ちさえ生まれていた。
「でも、頑張らなくては……」
芳姫は口に出してみて、その声が弱々しく響くことに自分で情けなくなった。それでも、頑張るしかないのだ。
芳姫がこの仕事をやりたくないと言えば、総監である直照と広範の役割になる。だが、直照は自領の仕置きを家臣に任せて都で遊んでいたような人物で、諸侯に受けのよい政策にしか関心がなかったし、彼が勝手をやらないように広範が目を光らせていた。そして、その広範は、重要な判断を迫られて困り果てた芳姫の、かわりに決めて欲しいという頼みを拒絶した。
広範によれば、彼に判断を委ねることは、元狼公の権限を総監に譲り渡すことに等しいそうだ。もしそれが常態化すれば、直孝が成人した時、総監に権力を握られて何もできないといったことになりかねない。それに、元狼公がただの飾りになってしまえば、自然とその地位は低下し、武守家の権威が揺らぐ。諸侯は総監になり得る有力な譜代封主家に取り入って派閥を作り、互いに争い始めるに違いない。やがて戦雲が巻き起こり、世は再び乱れることになる。それを防ぐには、元狼公の代理である芳姫が決定権を握って行使し続けなければならないと広範は言い張った。
その主張に一応は納得していたからこそ、芳姫は半年間このつらい職務に耐えてきた。だが、頑張ろうとすればするほど、自分がいかにこういった仕事に向いていないかを実感するばかりだった。武守家の御料地の施政に財務や裁きの最終決定、諸侯や直参衆の監視と賞罰、果ては玉都の重犯罪人の死刑執行の許可まで、元狼公の判断に委ねられることはあまりに多く、その結果の重さに芳姫の神経は焼き切れそうだった。その上、評定では両総監が対立して芳姫を翻弄する。
直孝は今九歳だ。元服したといってもまだまだ幼く、自分で政務を見られるようになるまで十年はかかるだろう。その長い年月、この重圧に耐え切れる自信は全くなかった。だが、夫が死に際に苦しげな呼吸で繰り返し息子のことを頼んだ時、涙ながらに必ず立派な元狼公にしてみせると約束したのだ。
それに、芳姫自身のためにも直孝を守らなくてはならなかった。国母になる決心をしたのは、巍山に権力を握られれば息子も自分も命が危ないと言われたからだ。息子を無事に育て上げることが、望天城の奥に一人残された自分が生きていくために必要なことなのだ。芳姫がこの仕事をやり続けるしかないのだった。
華子ならどんな判断も迷わず、こういう書状もてきぱきと処理するのだろうと、海に消えた上の妹の聡明そうな美貌を芳姫は思い浮かべた。
「やるしかないわ」
独り言ちて体を起こし、筆に手を伸ばしたところへ、部屋の外で侍女の声がした。
芳姫が返事をすると襖が開いて、お絹が直孝の手を引いて入ってきた。
「母上」
現統国大元帥の男児は中年の侍女の手を離すと、真っ直ぐ芳姫に駆け寄ってきた。
「どうしたのですか」
取り上げかけた筆を再び置いて芳姫が立ち上がると、直孝は恥ずかしそうに手作りの木の船を差し出した。工作は手先の器用さや集中力を養うのによいというので芳姫がやらせているのだ。もっとも、直孝はこういう作業が好きらしく、そんな効果とは関係なく楽しんでいるようだった。
「まあ、船ですか」
「はい。自分で作りました」
直孝は得意そうに言った後、はにかむような表情になった。
「ちょっと不格好ですけれど」
「いいえ、とても立派ですよ。いろいろと工夫したのですね」
ほめると直孝は顔をほころばせて説明してくれた。
「帆は紙です。木の蔓で仕掛けを作ったので、ちょっとだけ前に進みます」
確かにその船はよく出来ていた。木の板を組み合わせた船体には甲板が張られているし、船尾の小さな舵の左右に付いている二枚の羽根のようなものは回転するらしかった。直孝は甲板を外して中にぐるぐる巻きにした木の蔓が入っているのを見せてくれた。巻き戻る反動で羽根を回す仕掛けのようだった。
「これを自分で考えたのですか。本当にあなたはこういうことが上手で感心します」
芳姫は手を伸ばして直孝を引き寄せ、照れつつも誇らしそうな顔をじっくりと眺めた。今の芳姫には息子の成長を見守ることが一番の楽しみであり、慰めだった。
「あの……」
直孝は勇気を振り絞ったように言い出した。
「この船をこれから池に浮かべるのですが、一緒に行きませんか」
九歳の元狼公の口ぶりは遠慮がちだったが熱意が感じられた。
「母上にも見て頂きたいのです。多分、上手く走ると思います」
「国母様はお仕事でいらっしゃいますよと申し上げたのですけれど」
困った顔でお絹が言った。止めたが直孝は主張を曲げなかったらしい。
大人しい息子にしては珍しい、よほど船が動くところを見せたいのだろうと芳姫は微笑んだが、まだ書簡はたくさん残っている。
「ごめんなさい」
そう答えると、母の顔をじっと見つめていた元狼公はがっかりしたらしかったが、急に決意した表情になって、ためらいがちに言った。
「無理なら仕方ありません。諦めます。でも、あの、そのかわりに、お願いがあります」
あまりわがままを言わない直孝らしくない言葉に芳姫は少し驚いた。が、近頃は政務が忙しくてなかなか相手をしてやれないので、できるだけかなえてやろうと、「何かしら」とやさしく聞き返すと、元狼公は真剣な口調で言った。
「直利殿を許してくれませんか」
言葉を失った芳姫に、直孝は訴えた。
「悪いことをしたのは広芽の御方様と巍山殿なのでしょう? 直利殿は悪くないと思います。ですから、この城に戻して下さい」
それはできません、と言い返そうとして、芳姫は息子の思い詰めた顔にその言葉を呑み込み、穏やかな声で尋ねた。
「どうして直利殿を許して欲しいのかしら」
「一人はつまらないのです。剣術の稽古も……」
と、尻つぼみになった言葉で、芳姫は息子が遊び相手を失って寂しいのだと察した。奥向きに子供は直孝と直利しかいなかったので、二人は何をするにも一緒だった。
芳姫は息子を哀れに思ったが、直利を呼び戻すことは不可能だった。それを母の表情から読み取って、直孝は暗い顔になった。芳姫は息子を慰めた。
「ごめんなさい。それはできないわ。でも、それ以外なら、大抵のことは聞いてあげますよ」
「……はい」
うつむいた息子に芳姫が両手を伸ばすと、直孝は近付いて体を預けてきた。普段はこういうところを見せないが、まだ九歳なのだ。芳姫は腕を回して息子を抱き寄せ、頭をやさしく撫でてやった。直孝は目をつむって母の胸に顔をうずめた。
と、そこへ部屋の外から男性の声がかかった。
「失礼致します」
直孝は驚いて芳姫から跳び離れた。
現れたのは桑宮道久だった。
「おや、直孝様もいらっしゃいましたか」
微笑みながら一礼して中に入ってくる。
直孝は甘えたところを見られたのが恥ずかしいらしく、真っ赤になっていた。芳姫も道久と目が合うと、先程の直照とのやり取りを彼が見ていたことを思い出してどきりとしたが、すぐに心を決めて息子にやさしく言った。
「私はこれから道久殿とお仕事の相談があるのです。お絹と行ってらっしゃい」
今度は直孝も素直に従った。
「では、母上、お仕事頑張って下さい」
「水に落ちないように気を付けるのですよ」
その言葉に頷くと、直孝は母から離れ、道久にお辞儀をしていたお絹と並んで歩き出した。
「道久先生。これ、僕が作ったんです」
入口の襖の手前で横へよけて道を譲った師範に直孝が船を見せると、道久は大げさに感心して出来映えをほめた。うれしそうな顔になった直孝はちらりと芳姫と道久を見比べてから隣の部屋へ出て、侍女が閉じた襖の向こうに消えていった。
それを見届けると、芳姫は覚悟を決め、道久に目を移した。道久は近付いてきて、文机の向かいに正座した。
「お仕事中、失礼致します」
道久は丁寧にお辞儀をした。
「何のご用でしょうか」
芳姫は努めて冷静に聞き返したが、若干声が硬くなるのを抑えられなかった。
「先程の評定の際、お疲れのようにお見受け致しましたので、ご様子をうかがいに参りました」
道久は爽やかに答え、礼儀を欠かない程度にやさしさと親しみを込めた微笑みを浮かべて芳姫を見た。芳姫はまたどきりとしたが、我慢して顔を見返した。
そうしてしばらく二人は見つめ合っていた。先に話しかけたにもかかわらず、道久は何も言わずに芳姫の美しい顔へじっと視線を注いでいた。芳姫も黙って心の底まで見抜くような道久のまなざしを受け止めていたが、次第に呼吸が苦しくなり、つい目を逸らしてしまった。道久とはこのように二人切りになる機会がしばしばあるのだが、そのたびに芳姫は落ち着かない気分になり、口の中が渇く思いがするのだった。だが、その理由について、芳姫は努めて考えないようにしていた。
何を緊張しているのかしら。私はこの人の主君なのだから、堂々としていればよいのだわ。
そう自分に言い聞かせると、芳姫は軽く息を整え、気持ちを落ち着けて、再び道久へ顔を向けた。
「先程の評定での提案、とても助かりました。あの場が収まったのはあなたのおかげです。感謝します」
芳姫の目を射抜くように見つめていた道久は、視線を外し、頭を下げた。
「出過ぎたまねを致しました。発言権がないにもかかわらず、つい思いが募って意見を述べてしまいました。お叱りは覚悟しております」
道久の表情は静か過ぎるほど穏やかだった。その何物にも動じそうにない柔らかな仮面に芳姫は威圧を感じたが、それに耐えて主君らしく家臣をほめた。
「いいえ、見事な口上で感心しました。皆もそう思ったことでしょう」
「ありがとうございます。そうおっしゃって頂きますと、勇気を振り絞ったかいがあるというものです」
道久はうれしそうな笑みを浮かべた。普段が締まった顔つきなだけに笑うと印象的で、妙に可愛げのある表情になる。三十一歳と芳姫より四つ年上にしては若々しい道久の笑みで場の緊張がゆるみ、芳姫はほっとした。思わず道久の顔をまじまじと眺めた芳姫は、道久の問うような視線で気が付いて慌てて目を外し、やや顔を赤らめて言葉を続けた。
「廊下でのことも助かりました。直照様に、その、誘われていた時のことですが、丁度よい時に現れてくれました」
道久はにこやかに答えた。
「杏葉公は少々強引でいらっしゃいますから、お困りではないかと思いまして。それに、芳姫様をお誘いになるのでしたら、雉田公とパシクと私にも事前に話を通して頂かなくては困りますので」
「確かにそうですね。次からはそう申し上げましょう」
芳姫は頷いて、顔を戻した。
「今日は二回も道久殿に助けられました。特に、評定でのあのお話には考えさせられました。その内に、もう一度詳しく聞かせてもらえますか」
「おほめ頂き恐縮です。では、今度資料を持参してご説明申し上げます」
「頼みますね。あなたの見識には期待しています。ですが、評定であのように急な発言をすれば杏葉公や粟津公が怒るのは当然です。今後は誰かにかわりに発言してもらうとよいでしょう」
「ご助言は肝に銘じます。……それでは、お言葉に甘えまして、政務についてまたいくつか意見を申し上げさせて頂いてもよろしいでしょうか」
「ええ、お聞きしましょう」
お辞儀をした道久は、机の上に重ねてある未決の書簡を手に取って読み上げ、少し考えてから、その案件について自分の考えを述べ始めた。
いつもならしっかり聞き取って必要なことは書き留めるところなのだが、芳姫は耳を傾けようとしてすぐに諦め、筆を置いた。今日はなぜか身が入らない。長い評定で疲れたのだろう。芳姫は道久の言葉を聞き流しながら、ぼんやりする頭で、いつの間にこの関係が当たり前になってしまったのかしらと考え始めた。
芳姫が一人になる時間を見計らって道久が部屋を訪れ、政務を手伝ってくれるようになったのは、国母になって一月ほど経った頃からだった。
その頃、芳姫は困惑の極みにあった。政務が初めての芳姫には分からないことや知らないことがたくさんあったのに、他家から身一つで嫁いできたために、気軽に尋ねられる人物がそばにいなかったからだ。当てにしていた父の時繁や桜舘直房は大翼への就任を固辞した。せめて文武応諮にという要請も、巍山と同じ野望を持っていると思われたくないからと統国府の役職を全て断られ、芳姫は一切の責任を一人で負うことになってしまった。
御前評定は総監達の話し合いの結果を承認すれば済むのでまだよかったが、裁事や諸国の代官達から上がってくる案件については芳姫が最終判断を下さなくてはならない。芳姫は広範や裁事達に任せてしまいたかったが、彼等は「国母様がお決め下さい」の一点張りだった。「武公様や直信様と同じようになさればよいのです」と言われても、予備知識がなく先例を知らないのだから処置の仕方など分かるはずもないのだが、彼等に言わせると、方針を決定するのは芳姫の仕事で、総監や裁事や奉行は実行するのが役割ということになる。
やむなく、芳姫が勇気を振り絞っていくつかの事案について考えを述べると、広範は首を傾げて「本当にそれでよろしいのですかな」と尋ねてくる。間違っていたのかと思い、判断材料を求めて基本的なことを質問すると、そんなことも分からないのかという顔をする。ならば一から教えてくれればよいと思うのだが、総監は教育係ではないと言う。
困った芳姫は奉行達に師範役になってもらって勉強を始めたが、すぐに絶望した。基礎的なことを学んでいないので、全く分からないのだ。そもそも華姫のような女性はこの国では例外で、封主家の姫君の多くは政治や経済に関する教育を受けていないのが普通だった。時繁は珍しく教育熱心で華姫の知識欲の旺盛さを喜んだし、光姫も姉に触発されてそういった学問をかじっていたが、芳姫は妹達の母代わりとして、結婚後は妻や母として育児や家政に忙しく、教養はあっても経世の学問とは無縁だった。
芳姫の部屋には、少し考えたいから待って欲しいと言って持ち帰ってきた書簡が既に随分溜まっていた。返却をどうにか引き延ばしてきたが、そろそろ苦しい言い訳も限界で、裁事達は遠慮がちに「例の案件はどうなりましたか」などと尋ねてくるようになっていた。
息子を守るために気の進まぬ国母の地位に就いたというのに、政務が滞ればかえって直孝の立場を危うくしてしまう。
手付かずの書簡の山を前に途方に暮れていると、突然道久が機嫌うかがいの名目で部屋へ入ってきた。戸惑う芳姫に道久は鄭重に挨拶を述べると、書簡を一つ手に取った。「それは極秘事項ですよ」と止めようとする芳姫を無視して目を通した道久は、独り言のようにその事件の背景や具体的な対処の仕方を語り始めた。芳姫は驚いたが、知りたかった内容だったのでつい耳を傾け、これは本当に正しい情報なのかしらと疑いつつも道久が勧めた通りの指示を書き込んで、翌日広範に見せた。はらはらしている芳姫の前で仕置総監はそれに目を通すと頷いて、すぐに承認した。
翌日も道久はやってきて、また数件について意見を述べた。今度は芳姫からもいくつか質問をしてみたが、直信の執務をいつもそばで見ていたという道久は淀みなく答えた。そして、再びその処理を広範はすんなりと受け入れ、「勉強の成果が出ているようですな」とほめたのだった。
それから道久はしばしばやってきて助言していくようになった。始め芳姫は彼が自分を操って思い通りに政を動かそうとしているのではないかと疑ったが、すぐにそうではないと分かった。道久は各案件について知っておくべき情報や知識を教え、どうするのがよいかをほのめかしはしたが、最終的な決定は芳姫に任せていたからだ。それに、その判断は広範達の点検を受けることになる。もちろん道久にとって得になる処置を勧めることはできたが、そういう様子はなく、彼の目的は本当に芳姫を助けることのようだった。
それが分かると、誰であれ補佐役が欲しかった芳姫は、道久を頼りにしてその意見に熱心に耳を傾けるようになった。それどころか、判断に迷った案件については自分の方から考えを尋ねさえしたが、道久は一々丁寧に説明してくれたので、芳姫は随分助かった。芳姫にとって何より心強かったのは、誰かと相談して結論を出しているという事実だった。道久という助言者の存在が、重い責任と孤独に追い詰められていた芳姫に深い安心感をもたらしたのだ。
もちろん、この作業は他人に知られてはいけないことなので、二人だけの秘密だった。名目上は直孝の学問と武術の修練の時間ということにしてあったが、この言い訳を疑う者はいなかった。以前から道久は奥向きに入れる唯一の男性家臣として直孝と直利の文武両面の師範役だったからだ。実際は執務の間お絹と手習いをさせていたが、直孝は身近に男性がいないこともあって随分と師に懐いていたので、道久もできるだけ相手をしてやった。こうして、芳姫は午前は表で総監や裁事達に教えを受けながら評定を見守ったり判断済みの案件について指示を下したりし、午後は道久と一緒に書簡を処理する生活を続けてきたのだった。
「――ですから、この件は所務裁事に任せるのが適当と考えます。大きな方針さえ指示すれば、あとは裁事と奉行が判断するでしょう」
書簡を手に語り続ける道久を前に、芳姫はその引き締まった容貌をちらりと眺めて、この四つ年上の執武官のことを考えた。
道久によれば、彼が芳姫を陰で助けるのは直信に恩を返すためだった。道久は武守家直参衆の一千貫ほどの家柄の出で、十歳から直信に近習として仕え、信頼を得て現在の地位に登った人物だ。直信にとって少年時代を共に過ごした同い年の道久は、学問や武術を同じ師から学んだ仲間であり、遊び相手であり、親友であった。
直信は元帥位継承後も父の時代の人事をほとんど変えなかったが、唯一抜擢したのが道久だった。直信は心の友を都へ呼び戻し、一万貫に加増して封主格に取り立てると、直参武官の最高位である御廻組頭に任命し、自分の側仕えを兼ねさせた。その上、身辺警護のためと理由を付けて、奥向きへの立ち入りを特別に許可した。元狼公の生活の場である奥向きへは総監でさえ入れないから、道久を別格に扱ったことになる。道久は公私に渡って自分を守り助ける存在であると天下に示したのだ。
実際、道久は一日中直信に近侍した。朝早く直信を私室の前まで迎えに行き、食事に相伴し、表へ随行して執務を助けた。午後の自由時間の多くも共に過ごし、夜は寝所まで送って退出した。直信は世子時代から道久を相手に酒を飲んだり、季節の行事に自分個人の客として招いたりしていたから、それをもっと進めたと言える。直信の感覚では、親友に仕事を手伝わせ、家庭への出入りを認めたということだったのかも知れない。
いずれにしろ、道久は兵百名の長からいきなり武守家六万五千騎の頂点に立ち、元狼公の親衛隊長として御前衆と呼ばれる望天城の重要人物の仲間入りをしたのだ。この厚遇には道久も感激し、直信が正式に統国大元帥に就任した時にはその膝下で改めて忠誠を誓い、命を懸けて御身をお守りすると宣誓した。同様に、御台所である芳姫にも思慕を抑えて誠心誠意仕え、最も忠実な家臣かつ親しい友人として振る舞ってきた。
だが、それが直信の死以来変わってしまった。機会があると、道久が自分の恋情をほのめかすようになったのだ。秘密の執務のために部屋で二人切りになる機会がぐっと増えたので、これは大問題だった。初めは時折曖昧なそぶりを見せるだけだったが、最近は大胆かつ頻繁になってきて芳姫を困らせていた。
道久が政務を助けてくれることには感謝していたが、芳姫はそれ以上の関係を望んでいなかった。まだ夫を愛していたし、立場上不貞の噂が立てば地位が危うくなる恐れがあった。息子にまで傷が付きかねないのだから受け入れる気持ちはなかったが、かといってあまり冷たい態度もとれなかった。身近で信頼できる人物の一人であり、政務の事実上の補佐役であり、直孝にも好かれている道久を遠ざけることは、今の芳姫にはできなかったからだ。それに、彼が自分を助けてくれる最大の理由は恋情だと芳姫は信じていた。だから、彼がほのめかす思いを受け入れもしなかったが、はっきりと拒絶もせずに来たのだった。
「芳姫様?」
名前を呼ばれて芳姫は我に返った。無意識に道久の顔をじっと見つめていたらしい。
「どうかなさいましたか」
「……いいえ、何でもありません」
「さようでございますか」
道久は答えたが、そのまなざしは芳姫が何も聞いていなかったことどころか、彼のことを考えていたことまで知っているかのようだった。いや、もしかしたら、それ以上のことを見抜いているのかも知れない。
それ以上のこと? それは何?
芳姫はどきりとし、固く目をつぶって軽く頭を振り、雑念を追い払おうとした。
いけない。私は今、何という可能性を想像してしまったのかしら。
芳姫は自分にぞっとした。まだこの九年の日々をありありと思い出せるというのに、他の男のことをたとえちらりとであっても考えるなど、亡き夫に申し訳がない。それに直孝にも謝らねばならない。あの子の父親は一人なのだから。道久と初めて会った時のあの感情は、結婚と上京の不安に予想外の相手だったことが重なって動揺しただけなのだ。
「芳姫様?」
田美の方と呼ばれるようになってからも他の人のいないところでは名を呼び続ける道久は、芳姫の顔をじっと見て首を傾げた。
「本当にお疲れのようですね。ご意見を申し上げるのは、またに致しましょうか」
「いいえ、大丈夫です」
芳姫は慌てて首を振った。
「ちょっとぼうっとしてしまっただけですから」
本当はもう追い返したかったが、それはできなかった。道久はこの望天城内で心を許せる数少ない人物の一人なのだ。それも、政務から直孝の教育方針まで相談できる腹心だ。何でも言える相手は他には芳姫が子供の頃から仕え、輿入れの時も国元から付いてきた侍女のお絹くらいなのだから、道久との間に亀裂が入るのは避けたかった。
「お加減がお悪いのですか。侍医を呼んだ方がよろしいかも知れません」
道久は心配そうに言った。
「少し疲れているだけです。本当に大丈夫ですよ」
道久との関係の均衡を維持するためにはあまり弱さを見せない方がよい。疲れくらい我慢して毅然としていなくては隙があると思われてしまう。自分を見つめる道久の表情に恋情がほのめくのを見た芳姫は、いつものように君臣のけじめを盾に取ってあしらおうと考え、無理に笑みを作った。
「お話を続けて下さい。所務裁事に任せるのでしたね――」
先を促そうとした芳姫の言葉を、道久は急にさえぎった。
「芳姫様。私は心配なのです」
真面目な顔で道久は言った。
「芳姫様はこの国を統べるお方。もっとお体を大事になさらなくてはいけません。直孝様も、芳姫様がお倒れになれば、さぞやお悲しみになることでしょう。それだけではありません。もしものことがあっては、私が直信様に申し訳が立ちません」
身を乗り出した道久は、右手を伸ばして芳姫の左手をつかんだ。
「あの、手を……」
離してという言葉を、道久は言わせなかった。
「芳姫様もご存じの通り、私は直信様に大恩ある身です。直信様がお亡くなりになった時、私は賜ったご恩に報いるため、芳姫様と直孝様を必ずお守りすると墓前で誓ったのです。直信様はきっとお二人を心配なさっていらっしゃいます。私がこうして時折密かにお会いしてご助言申し上げているのも、芳姫様を通して直信様へご恩をお返しするためなのです」
道久は捕まえた細い手を両手で包み込んだ。芳姫は左手を取り戻そうとしたが、道久の武人らしく太い腕はびくともしなかった。
「信じて下さい。私は芳姫様と直孝様の味方です。私だけはどんなことがあってもお二人を裏切ったり致しません。いいえ、私は芳姫様を裏切れないのです。その理由を芳姫様はご存じのはずです」
道久は芳姫の手をしっかりと捕らえたままぐいっと手前に引き寄せた。芳姫は引っ張られて思わず文机に自由な右手を突いた。道久の整った顔を目の前にして、芳姫の心臓は跳ね上がった。慌てて視線を外したが、再び手を引かれて、芳姫は道久の目を正面から見てしまった。
「私はあなたの僕なのです」
道久は言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「私はあなたのものです。あなたは私の全てなのです」
この目だわ。この情熱的な黒い瞳が私を怯えさせ、心を揺さぶるのよ。
芳姫は急に怖くなり、無理に目を逸らして横を向き、手を取り返そうと思い切り引っ張った。
横顔に道久の強烈な視線を感じて焦りながら、その一方で、芳姫は心の半分では喜びと安心を覚えていた。
道久殿は私を恋している。だからこの人は自分で言った通り私を裏切らない。そうよ、裏切れるはずがないわ。この人の想いの強さを私はよく知っているのだから。
そう考えながら握られた左手を見た芳姫は、直照に迫られた時の総毛立つような嫌悪感を道久には覚えないことに気が付いて、驚くと同時に後ろめたさに襲われて、一層この男性から逃げたくなった。
「あなたは夫の友人だった方。信頼しています。こうして助言して下さるし、頼りにもしていますが……」
早口で言いながら、芳姫は引っ張り合いを続けた。男の強い握力で握られた手首が痛くなってきた。大きな両手で挟まれた左手が熱を持って汗をかき始め、それに合わせて芳姫の体温も上がっていくような気がしていた。
「芳姫様」
道久が低い声で言った。激情を抑えたような口調に思わず道久を見てしまった芳姫は、その目の中に燃え上がる情熱を見付けて悲鳴を上げたくなった。
「私はあなたを……」
「は、離して下さい!」
つい声が大きくなる。
これはいけない。どうにかして逃げなければ。
芳姫は本当に身の危険を感じていた。胸の鼓動が全身に響くように激しく打ち始めた。
この人は本気だわ。押し倒されたら力では敵わない。でも、ここで大声を上げたらこの人は破滅する。もう政務の手伝いはできなくなって、私はまた一人切りに戻ってしまう。それはいや。でも、応じるなんて論外だわ。とにかく何とか逃げるしかない。
道久は芳姫の葛藤を見抜いているかのようににやりと笑い、手をつかんだまま左から文机を回り込んでくる。芳姫の喪服の袖に引きずられて未決の書簡の山が崩れ、音を立てて床に散らばった。
芳姫は必死で逃げる方法を考えながら体を反対へ傾けて手を引き抜こうとしたが、横へ回った道久に思い切り腕を引かれては武人の厚い胸に頭から突っ込んでしまった。
慌てて体を離した芳姫を道久の左腕が抱き込もうとする。芳姫は抵抗しながら覚悟を迫られた。
このままでは押し切られてしまう。でも、声を上げてはこの人が……。
そう思って廊下へ繋がる襖の方を見た瞬間、芳姫の脳裏に先程船を見せにきた直孝の顔が浮かんだ。芳姫ははっとして動きを止め、文机の上に置かれた紅色の扇を見つめて、そして決意した。
この人のされるままになることはできないわ。私が国母になったのはあの子のためなのだから。ここで道久殿を受け入れたら大切な何かを、直孝や直信様と私をつなぐ絆のようなものを失ってしまう気がする。それだけは駄目。絶対にその絆を失うわけにはいかない。
助けを呼ぼうと決めた芳姫の表情を見て道久は一瞬怪訝な顔をしたが、動かなくなったのを好機と抱き寄せようとした。芳姫は道久の胸を両手で思い切り突き離すと、深く息を吸った。そして口を開いて叫ぼうとした瞬間、外で侍女の声がした。
「国母様。おいでですか」
「えっ? ――あ、はいはい、おりますよ」
芳姫は救われた思いで急いで返事をすると、手を取り戻した。今度は道久も素直に離した。
すっと襖が開いて二十代初めの若い侍女が姿を見せた。廊下に平伏した侍女のお里は、今は亡き妹の華子を思い起こさせる美しい顔をゆっくりと上げ、芳姫の上気した頬とやや崩れた衣服、赤くなっていることに気が付いて慌てて隠した左手首へちらりと目をやり、何も見なかったように淡々と口上を述べた。
「梅枝光子様が面会を求めていらっしゃいますが、お通ししてもよろしいですか」
下の妹の名前を聞いて芳姫はほっとし、完全に気持ちを取り戻した。
「構いません。この部屋へ通しなさい。すぐに着替えます」
芳姫が命じると、侍女はお辞儀をして襖を閉じた。
廊下を去っていく足音が聞こえなくなるまで芳姫は黙っていた。道久はいつの間にか畳一枚分ほど離れた場所に無表情で控えていた。
「聞いた通りです。妹が来ましたので、お話の続きはまた後日うかがいます」
「かしこまりました」
道久は頭を下げた。
芳姫はさっと立ち上がると、道久から目を逸らしたまま逃げるように部屋の左手の襖へ向かい、寝間などがある奥の方へ去っていった。
襖が閉まると、道久は立って廊下の方へ歩き出したが、ふと足を止め、誰もいない部屋に残された文机と散らかった書簡を振り返って、ふん、と笑った。
「妹に邪魔されたか。まあ、いい。機会はまだある。急ぐことはない」
道久は芳姫のぬくもりの残る右手を握り締めた。
「どうせそう長くは持つまい。もうしばらくの辛抱だ。必ず俺のものにしてみせるさ」
低い声でつぶやくと、道久は静かに部屋を出て、先程の侍女に口止めする方法を考えながら、表へ繋がる大扉の方へ歩いていった。
控えの間にいた光姫は、長いこと待たされた末、ようやく戻ってきた若い用人と一緒に姉の元へ向かった。
板廊下の外はきれいに整えられた中庭で、春らしい澄み切った青空の下、苔むした岩の島が点在する白い砂の海に、脇から数本の見事な枝ぶりの松が影を落としている。廊下の黒い板をかすかに軋ませてゆっくりと歩きながら、光姫は望天城本郭御殿の建物を興味深げに眺めた。
この城には何度も登っているが、来るたびに趣味の良さに感心する。城を作った武公は華美を嫌ったらしく、赤や青や金といった華やかな色は使わずに木の地色と紙の白を基調にした落ち着いた色合いで統一されているが、いかにも美々(びび)しい装飾がないかわりに、襖に描かれた墨絵や部屋の欄間に施された彫刻はどれも見事なものだった。その一方で、あちらこちらに立っている大きな櫓や威容を誇る七層の白い天守は実戦を考えた造りになっていて、戦闘用としても相当堅固な城塞であることは疑いなかった。武家の屋敷は実用性と美しさを兼ね備えるべきだという武公の思想が、光姫には分かるような気がした。
表と奥向きとを区分する大扉から案内役が女官に変わった。後に付いて広い建物の中を進んでいくと、先を歩く女官がつと止まった。庭を囲う長い板廊下の向こうから、紺色の直垂姿の男性が一人やってくる。その人物を見て、光姫はわずかに眉をひそめた。御廻組頭の桑宮道久だった。
光姫はこの壮年の武官が嫌いだった。道久は初めて顔を合わせた時から妙に愛想がよくて何かと親切にしてくれたが、そのやさしさが光姫にはかえって不気味に思われたのだ。恐らくは姉の覚えをよくするために妹と親しくしておこうという打算に違いないが、道久の態度は主君の親族に取り入る家臣というよりも、まるで義理の姉妹になるはずの者達と友好関係を築こうとする求婚者のようで、ある種の優越感や馴れ馴れしさと、避けられないことだという義務感が感じられた。光姫を見つめる道久のまなざしには獲物を値踏みするかのような鋭さがあり、警戒心を呼び起こした。
それに、光姫は道久について嫌な噂を聞いていた。芳姫と密通しているというのだ。侍女のお牧から望天城内の女官に聞いたというその噂を教えられた時、姉の性格をよく知っている光姫は初め呆気にとられ、次いで笑い飛ばした。あの淑やかでやさしく嘘の吐けない姉が不貞を働くなどあり得なかったからだ。芳姫は明らかにまだ亡くなった夫を愛していたし、たった一人の息子を本当に大切にしていた。それは誰が見ても分かるはずだった。
醜聞を笑って否定した後で、光姫は不機嫌になった。姉にそんな噂が立ったのは道久の失態だと思ったからだ。口さがない女官達がまだ二十七に過ぎない姉と道久の親密な関係にいらぬ憶測をするのは仕方がないだろうが、逆に言えば予想もできるはずだ。道久は臣下として、主君との関係を疑われぬように注意して振る舞うべきだった。なのに、実際に姉と二人切りで部屋にいるところを何度も目撃されているらしい。しかも、どうやら噂されていることを知っている様子でありながら、態度を改めようとしないという。
噂を鼻で笑っているのか、超然としているつもりなのか、道久の考えは光姫には分からなかったが、姉のためにならない行動を平気でしていることは癇に触った。その話を聞いて以来あのわざとらしい笑顔が陰険な笑みに見えるようになり、彼を避けていたのだが、今日は運悪く顔を合わせることになってしまった。
道久が近付いてきた。もうこちらに気付いている。今更隠れることはできないので、光姫はやむなく腹をくくった。
通り過ぎる道久に案内役の女官がお辞儀した。光姫もならって頭を下げると、道久は目の前で立ち止まった。
「これは光姫様。お久しぶりですな」
道久は笑みを浮かべて話しかけてきた。一見爽やかな笑顔だが、目が笑っていない。好意どころか、主君の妹にある種の苛立ちすら感じているような雰囲気に、光姫は疑問と反発を覚えたが、社交用の笑みを浮かべて応じた。
「桑宮様もお元気そうですね。総馬揃えでは御廻組を率いての行進、とてもご立派でしたわ」
「おや、私ごときを気にかけて下さっていたとは、うれしいことです」
道久はにこやかに言った。
「光姫様のお噂もうかがっておりますよ。お美しさに多くの封主家の若君が熱を上げておいでだとか。私の耳にまで聞こえて参りますな」
見え透いたお世辞だわ。相変わらず調子がよいこと。
光姫は内心で舌打ちしたが、喜んでみせた。
「私などお姉様にはとてもかないませんわ」
光姫は、ほほほ、と笑った。数十回に及ぶ見合いで外面を取り繕う修練は十分に積んでいるのだ。これくらいで崩れはしない。
「いやいや、それは違いますぞ。国母様もお美しいが、光姫様はまた違った魅力をお持ちだ。決して姉君に劣るものではありません。私が独身でしたら見合いの相手に名乗りを上げるところなのですがね」
「それは残念ですわ。わたくしが生まれるのが少し遅過ぎたようですわね」
あなたなんて絶対にお断りだわと思いつつ、光姫が愛想笑いをすると、道久は「私も残念です」と答えた。
光姫は顔に笑みを貼り付けたまま、先程から気になっていたことを尋ねた。
「ところで、桑宮様は、今、お姉様のところに行っていらしたのですか」
道久は頷いた。
「ええ、評定の際お疲れのご様子でしたので、念のためにお部屋にうかがってお顔を拝見してきたのです」
「そうですか。それはお気遣いありがとうございます」
頭を下げた光姫は、まだ出入りしているのかと思い、釘を刺しておくことにした。
「でも、侍女がおりますから大丈夫ですわ、桑宮様がご心配なさることはありません」
光姫が言うと、道久は庭へ目をやって、閉じた扇子の先で池の方を差した。
「お絹殿なら、あそこで直孝様と遊んでいますが」
「あら、本当ですわね」
そちらを見た光姫は、つい先程まで部屋に二人切りだったと悟ってますます不愉快になり、すぐに顔を戻して言った。
「ですが、男の方にはお分かりにならないこともございますから、侍女達にお任せになってはいかがですか」
道久は首を振った。
「国母様はこの国を統べるお方です。ご健康に配慮するのも護衛官の仕事ですし、私個人としても気になります。任せてはおけませんね」
道久が笑顔を崩さないことに苛立った光姫は、はっきり口にすることにした。
「私は桑宮様がお姉様のお部屋に行くことにあまり賛成できませんわ」
「どうしてですかな」
「心ない噂を耳にしましたので、ご忠告申し上げているのです」
光姫は笑みを消し、相手の切れ上がった目を見つめて瞳に力を入れたが、道久は平然と見返して口元に薄笑いを浮かべた。
「なるほど。どんな噂かは存じませんが、つまらぬ想像をする輩はどこにでもいるものです。お気になさらぬ方がよろしいでしょう」
「その想像を招いているのはあなたの行動なのですよ。私はお姉様のために申し上げているのです。あなたのためでもありますけれど」
「それは痛み入ります」
「では、もう行かないと約束して頂けますか」
光姫が迫ると、道久は「さて……」と言いながら少し考えたが、急に社交用のにこやかな笑顔に戻った。
「そういえば、光姫様はご帰国なさるそうですな」
「えっ? ……あ、はい。明日都を発ちます」
どう答えるかしら、返事次第ではきつく言い聞かせなくてはならないわと身構えていた光姫は、肩すかしを食らった。
「そうですか。寂しくなりますね。お帰りになったらすぐご結婚とうかがっておりますが」
「え、ええ……」
まだ話は終わっていないわと思いつつ仕方なく頷くと、道久はもっともらしい顔で祝いの言葉を述べた。
「それはおめでとうございます。お相手はきっと立派なお方なのでしょうな。国母様の義理の弟君になられるのですから、統国府にとっても重要なお方です。ご祝言には私からもお祝いをお贈り致しましょう」
「ありがとうございます。父も喜びますわ」
光姫は笑顔に戻ろうとしたが、上手くいかなかった。
「いえいえ、武守家と梅枝家双方の繁栄のためですよ」
不満そうな光姫に気付かぬように、道久は機嫌よく言った。
「そのお言葉も父に伝えますわ。ところで、先程の件ですが……」
何とか返事を絞り出し、話題を戻そうとした光姫に、道久は一礼した。
「では、道中お気を付けて。失礼致しますよ」
光姫が慌てて頭を下げると、道久は横を通って去っていった。
頭を上げた光姫は、真っ赤な顔でその背中を見送った。
「あの男……!」
光姫は思い切りあかんべえをしてやりたかったが、そばに女官がいたので心の中だけにしておいた。
道久は二十歩ほど歩いたところで立ち止まり、背後を振り向いた。光姫は長い廊下を池の方へ進んでいく。その後ろ姿を見やって、道久は低く笑った。
「あのお転婆娘には嫌われたらしい。姉を守るつもりなのか。今日はいいところを邪魔してくれたが」
光姫の腰の辺りを道久は冷ややかな目で眺めた。
「しかし、光姫も確かに美しいが、芳姫様の艶やかさには遠く及ばぬな。芳姫様は年を追うごとに一層お綺麗になっていく。体もふくよかになり、清楚さに成熟した色気が加わった。それに比べれば光姫などまだまだ子供だ。武芸を好むそうだが、そのじゃじゃ馬も嫁げば少しは世の中の現実というものが分かるだろうよ」
そう言って踵を返した道久は、大扉を開けさせて、奥向きから表へ戻った。
御殿の建物を出て御廻組の詰め所へ向かった道久は、その手前でパシクと出会った。
「国母様の元へ行っていたのか」
パシクはいきなり切り出した。
「ああ、そうだが、それがどうかしたのか」
道久が答えると、パシクは身振りで横道へ誘い、本郭を囲う城壁の角にある櫓の一つに入って扉を閉めた。
「内緒話か」
道久の問いには答えず、パシクは真面目な顔で尋ねた。
「国母様のところで何をしてきた」
「何をと言われてもな。お疲れのご様子だったから、お顔を拝見してきただけだ」
「本当にそれだけか」
「疑うのか」
道久が問い返すと、パシクは口をつぐみ、しばらく道久の顔をじっと眺めていたが、やがて言った。
「お前があの方に尽くすのは分かる。大恩ある直信様の御台所様だし、現在の主君でもある。だが、政務に口出しするのはよせ。私的な問題なら構わないが、それ以上はお前の権限ではないはずだ。お前はただの護衛官なのだぞ。政務の相談役には杏葉公や粟津公がいらっしゃる。それに、お前も知っているだろうが、心ない噂を立てる者もいる。あの噂を国母様がお聞きになったら悲しまれるだろう。直孝様の傷にもなりかねん。お二人のためにも疑われるような行動は慎むことだ」
黙って聞いていた道久は、小さな窓の方へ歩いていき、その明るい四角形をのぞき込んで、堀の水へ目をやった。
「俺はあの方が苦しむのを見ていられないだけだ。国母様は俺の主君だが、それ以前に一人の女であり、母親だ。あの方はおやさし過ぎる。誰か強い男が守ってやる必要がある。そう思うから気にかけているのだ」
「本当にそれだけか?」
パシクは尋ねた。
「ああ、それだけだ」
「ならよいのだが……」
パシクは口籠もったが、すぐに決心したように顔を上げた。
「正直に言おう。俺は不安なのだ。お前が何かとてつもないことをしでかそうとしているように思えて仕方がない。長い付き合いだからお前のことはそれなりに知っているが、どうも最近様子が怪しい。今日の評定にしてもそうだ。いきなり演説をぶつなどどうかしている。お前も執武官なら、組織の秩序を破った行動が厳しく罰せられることくらい分かっているはずだ。なのになぜあんな発言をしたのか、真意を聞きたい」
パシクが言葉を切ると、道久は窓の外を眺めたまましばらく黙っていた。が、突然、くっくっくと低く笑い出した。そうして笑い続けた道久は、笑みを納めると口を開いた。
「真意か。正直なことを言ってしまえば、評定の結果など俺にはどうでもよかったのだ」
「なぜだ。今日はお前の提案が通ったではないか」
パシクが尋ねると、道久は首を向けて「本当にそう思うのか」と問い返した。
「俺の発言の中心は、文武の奨励や総馬揃えを武芸重視にすることではなかった。それに、あんなその場しのぎの施策は、実際には大して役に立たないさ。本当はな、総馬揃えなどやめてしまえばよいと俺は思っている」
道久は窓から離れると、櫓の中をゆっくりと歩き回り始めた。
「総馬揃えに一体何の意味がある。統国府が諸侯に課す軍役の一つということになっているが、実際はただの儀式ではないか。それも武家が町人の見せ物になる儀式だ。それを武守家の武威と勘違いして、統国府は諸侯に大金を使わせている。そんな政はもう駄目だ。時代が変わったのだ。そのことがあの三人には分からない。見ただろう、元潔のやり方を。あいつは俺の言葉の内、最も重要でない部分を取り上げた。そして、総監達はそれを良案だと受け入れた。より大きな問題提起には耳を塞いだままにな」
道久の足音は櫓の高い天井に大きく響いた。パシクは腕を組んで壁に寄りかかり、友人を見つめながら黙って話を聞いていた。
「確かに粟津広範には忠誠心がある。だが、それだけだ。時代の変化に気が付かず、古いやり方を守ることにただ固執している。雉田元潔は保身しか考えていない。杏葉直照に至っては、総監の地位を利用して自分の野心のために人気取りをしている。あの男は元狼公になりたいらしい。だが、なって何をするかは持っていない。長男に生まれながら世子になれず、統国府の役職を与えられなかった悔しさで動いているようだが、吼狼国にとっては迷惑なだけだ。
結局、あの三人は目先のことしか考えていないのだ。総馬揃えの人数削減や新たな法度も、起きている事態に場当たり的に対処しているに過ぎない。諸侯や統国府の支出を少し減らした程度ではもはや問題は解決しない。これからこの国が進むべき方向を示してこそ、展望が開けて改革が実現するのだ。
それに、三柱老や裁事達は皆独立した封主だ。自国の都合を無視できない。法度も人数削減も、連中の主張していることは詰まるところ自家や仲間の譜代封主家の利害でしかないのに、その政策が天下のためになると信じているのだ。広範など、恵国貿易を禁止されて一層財政が厳しい外様の諸侯の献上金の増額を提案して平然としているのだからな。そんな総監達を、譜代諸家は自分達に都合がよいからと支持している。裁事達はもっとひどい。陰で勝手なことをして私腹を肥やしている者までいる。それが統国府の実態なのだ。
だが、この国はもはやそんなことを許す状況ではない。国全体の耕地や生産が拡大していく時代は終わり、蓄えを食いつぶす段階に入った。何も手を打たなければ十年の内に諸侯は借金で首が回らなくなり、統国府も財政が破綻して瓦解するだろう。もう現状維持では駄目なのだ。それでは暗い未来しかない。まだ十分余力のある今の内に根本からの改革を断行し、新たな発展へ繋がる道を切り開かなければならない。それに成功してこそ武守家は生き残ってこの国の平和を維持していくことができる。
御前評定で語ったのは俺が考えた改革案だ。そして、その実行には強力な指導者が必要だ。三柱老が合議して諸侯の利害を調整するというゆるやかな統治ではこの危機は乗り切れない。あんな老いぼれどもに天下を次の段階へ導けるはずがないのだ。
本当は直信様とこの改革を行なうはずだった。だが、改革案を申し上げる前にお亡くなりになってしまった。後を継がれた直孝様はまだ幼く、成長なさるまで待ってはいられない。
だから俺は、これからは権威と実行者を分けるしかないと思うのだ。国全体を考えて方針を示す者を一人選んで国母様が信任をお与えになり、その人物を統国府の実務をとっている武守家直臣の諸奉行が補佐して政策を立案する。定めた法令は元狼公直孝様の名で全国一律に施行する。譜代封主家の優遇もやめ、全ての諸侯は等しく統国府の命令に従う。そういう体制を作る必要がある。恐らく守旧派の連中は反対するだろうが、それを討伐してでも断行する。それだけの意志と実行力の持ち主が、今求められているのだ」
道久はパシクの前を通り過ぎたところで足を止め、長い言葉を締めくくった。
「もし可能ならば、それを俺の手で実現したいと思っている」
「それがお前の目的か」
「大きな目的はそうだな」
「小さな目的は何だ?」
道久はパシクに背を向けたまま答えた。
「いずれ分かるだろうさ」
「まさか、自分が総監になろうなんて思っていないだろうな」
「お前の心配はそれか」
道久が尋ねると、パシクは首を振った。
「違う。俺が心配しているのは、お前があの方へ……、いや、何でもない」
言葉を濁したパシクは、壁から体を離し、三つ年上の友人の正面へ回って立ち塞がった。
「道久、お前の考えは分かった。だが、これだけは言っておく。俺達ユルップ族は武守家の当主にだけ忠誠を誓っている。もしお前が国母様や直孝様の害になるようなことがあれば、十年来の付き合いがあろうと容赦なく捕まえるからな」
道久は笑ってパシクに近付くと、横を通過しようとして立ち止まり、相手の肩に片手をぽんと置いて「好きにしろ」と言った。
「そもそも、こんなことに口を出すことこそ誓約違反ではないのか。中立を守り、政事には関与しないのがユルップ族の掟だろう。他人の心配より、自分こそ不忠者に利用されぬように気を付けるのだな」
パシクは軽口には取り合わず、真剣な顔を崩さなかった。
「余計なお節介かも知れないが、これも武守家を思えばこそだ。お前にも俺が都に上ってきた時に何かと世話になった恩がある。ユルップの民は主家や友人の破滅を見過ごしたりはしないのだ」
道久はパシクの横を通り抜けて出口へ近付き、扉に手をかけた。
「忠告には感謝するが、気の回し過ぎだ」
「だとよいのだが」
道久は唇だけで笑うと、戸を開けて櫓を出て行った。
庭の松の間を歩いていくその後ろ姿を、パシクは櫓の戸口に立って複雑な表情で見送った。
光姫を芳姫の居室まで案内した女官は、襖の前で平伏して到着を告げた。「お入りなさい」という姉の返事を聞いて女官が襖を開くと、光姫は礼を述べて中に入った。芳姫は上等な来客用の喪服姿で待っていて、妹を見ると喜んだが、すぐに用件を察して寂しそうな顔をした。
一通り形式的な挨拶を済ませると、早速光姫は姉妹の口調になった。
「お姉様、お疲れのご様子ですね」
「あら、そうかしら」
芳姫は微笑んで否定したが、疲労の色は隠せなかった。きっと評定がもめたのだろうと考えた光姫は、これほどお姉様が頑張っていらっしゃるのにと、廊下でのことにまた腹が立ってきた。
「先程そこで桑宮道久と会いましたわ」
光姫が警護役の名を口にすると、芳姫はどきりとしたらしかった。
「まあ、呼び捨てなんて、一体どうしたのですか」
聞き返す口ぶりにややぎこちなさがあったので、光姫は「おや?」と思ったが、道久との噂を知っているのだろうと考えて、ますます姉が可哀想になった。
「お姉様もお分かりだと思いますが、あの男には気を付けた方がよろしいですわ。いくら直信公の許可があるとはいえ、男性が奥向きに出入りするのは控えるべきです。きっとお姉様に取り入りたいのでしょうけれど、私は不愉快です」
芳姫は思い当たることがあるのか曖昧な笑みを浮かべたが、何も言わなかった。
「あの人はあまりおそばに寄せない方がよいと思います。奥向きへの立ち入りを禁止なさってはいかがですか」
光姫の熱心な勧めを芳姫は困った顔で聞いていたが、首を振った。
「それはできません。あの方は大切な家臣なのです。武守家にとても忠実で有能ですし、直孝様も懐いています。私には道久殿の力が必要です」
はっきりと拒絶してから、芳姫はふと思い当たったような顔をして、急に身を乗り出した。
「もしかして、道久殿について何かよくない噂でも聞いたのですか。不行状、いえ、女性との浮き名かしら。普段のあの方からはとても想像できませんが、もしあるのなら是非教えてもらいたいわ。私にはそういう情報が入ってこないのですもの。どうなの、光子?」
「いえ、そういうことではないのですけれど……」
さすがに面と向かって道久と密通していると聞いたとは言えずに口籠もると、芳姫も黙ってしまった。
思わぬ反撃に戸惑った光姫は姉の様子を訝しんだが、今の反応からするとやはり醜聞は事実ではないようだし、姉にも考えがあるらしいと分かったので、この話はここでやめておくのがよさそうだと判断した。
光姫は気分を変えるために何か楽しい話題はないかと考えて、庭にいた直孝のことを思い出した。幼い元狼公は池の周囲を駆け回っていて、声をかけたら得意そうに船を見せてくれた。
「そういえば、先程直孝様にお会いしましたが、工作が本当にお上手ですね。手先が器用なのですわ。とても聡くていらっしゃいますし、きっと立派な元狼公様におなりでしょう」
光姫がほめると、芳姫はうれしそうな顔になった。
「私もそう思います」
「きっと直信公も喜んでいらっしゃいます。お姉様も鼻が高いでしょうね」
光姫の言葉に、芳姫は真剣な顔で頷いた。
「直孝様は私の宝です。あの子のためなら何でもできます。あの子のためならば」
芳姫が急に思い詰めた口調になったので光姫は驚いた。
だが、芳姫はすぐに笑顔に戻った。
「それで、今度はどんな方とお会いしたのかしら」
光姫は姉の様子を一層不審に思ったが、芳姫が見合いの話を聞きたがっていることが分かり、その話題が姉のお気に入りだと知っていたので、気を取り直して早速最近の体験を話し始めた。
「あの寺院は庭の八重桜がとてもきれいでした。立派な本堂が池を囲むお花と一緒に水に逆さに映るのです。まるで真澄池を小さくしたみたいでしたわ」
光姫はわざと溜め息を吐いてみせた。
「あのぼんくらのお坊ちゃんに先祖の武功話を延々と聞かされなければ、最高の思い出になりましたのに」
芳姫はおかしそうな顔で後半は聞き流すと、妹に尋ねた。
「そんなに素敵なお庭なの?」
「ええ、それはもう」
光姫が大げさな身振りで庭園の広さを強調して、「あそこなら馬を思い切り走らせられますわ。馬術と騎射の稽古にぴったりです」と言うと芳姫は吹き出したが、すぐに妹の気持ちを察した顔になった。穂雲では騎射の鍛錬を日課としていた光姫は、都にも銅疾風という見事な茶色の毛並みの愛馬を連れてきていたが、見合いに忙しくて乗る機会がなかったのだ。お転婆な光姫が馬で走り回りたくてうずうずしていることに芳姫は気付いていたらしい。
姉が笑ったことに調子に乗った光姫が、「玉都の有名なお庭はお見合いでほとんど見てしまいました。おかげでよい都見物ができましたわ」とこぼしてみせると、芳姫は今度こそ本当に笑み崩れてしばらく笑っていた。
姉の「婿に迎えたい方はいましたか」という問いに、光姫は最近会った若様達を容赦なくこき下ろして近頃の武家の男性への不満を訴えた後、蓮山家の次男はよい人だった答えると、芳姫は身を乗り出して見合いの様子を詳しく尋ね、その方に決めればよかったのにと断ったことを残念がった。
光姫は見合いの話題の合間に、訪れた都の名所や庶民の暮らしについての話を挟み、芳姫はそれに興味津々で聞き入った。光姫は姉に会うたびに玉都で見聞したことを報告している。城からほとんど出ない芳姫は、驚くほど都のことを知らないのだ。
やがて話題は故郷のことになった。父の病や華姫の思い出、家臣達の様子、穂雲の町の人々の暮らしぶりなどが話題に出ると、芳姫はいつものように田美国にいた頃のことを語り始めた。
光姫にとって九歳年上のこの姉は母親代わりだったので、子供の頃の思い出には共通のものが多く、自然と話は弾んだ。いかにも懐かしそうに故郷での暮らしを語る姉を見て、光姫はやはり都へ来てよかったと思った。侍女達の話では、芳姫は夫を亡くして国母の称号を得てから滅多に笑わなくなってしまったらしい。だが、自分の手で育てた光姫の前では、封主家の一姫君に戻れるようだった。光姫が都に来てから笑顔が増えたと、お絹も喜んでいた。政務で忙しい姉の息抜きに話し相手になるという光姫のねらいは成功したと言えるだろう。
だが、幼い頃の妹達のお転婆ぶりを楽しそうに語る芳姫を見て、今の望天城での暮らしが果たして姉にふさわしいのだろうかという疑問を光姫は禁じ得なかった。穏和で争いを好まないこの姉に、武家の棟梁の代理の地位と国内で最大の権力は重荷に思えてならなかった。
しばらく他愛ない話をした後で、光姫が帰郷の挨拶を切り出すと、芳姫はあからさまに悲しそうな顔をした。姉には最後まで笑顔を見せようと決意していた光姫も、いざ別れの言葉を告げる時には涙声になってしまった。
帰国すればまた都に出てくるまで半年はかかるだろう。それに、病気になった父は隠居をほのめかしているから、光姫が再度上京したらすぐに婚儀が行われる可能性が高い。考えてみれば時繁ももう五十三、そろそろ老人と呼ばれる年なのだ。結婚すれば、いくら姉妹とはいえ気軽に望天城へ登ることはできなくなる。国母である芳姫が梅枝家の奥方とだけ特に親密というのは、依怙贔屓と見られかねないのでよいことではない。国元から尋ねてきた未婚の妹と大封主家の当主の妻では立場が違うのだ。姉妹として形式張らずに会えるのはこれが最後かも知れなかった。光姫は封主家の姫君である我が身の不自由さを思わずにはいられず、涙を抑えかねた。
芳姫も涙をこぼして別れを惜しんだ。芳姫はせめて夕食を一緒にとっていくように勧めたが、光姫は旅の準備があるからと、引き留める姉を振り切って望天城を後にした。
一人部屋に残された芳姫は、蹌踉と立ち上がって隣室へ続く襖を開けた。先程光姫に別れの挨拶をした直孝は、隣の勉強部屋で文机の前に座ってお絹の書いた手本を見ながら、「愛」という文字の練習をしているところだった。芳姫は息子にそっと近付き、後ろから首へ手を回して抱き締めた。
「母上?」
直孝は身動きを封じられて驚いた。が、母の様子に何かを感じたのか、墨を付けた筆を握ったままじっとしていた。
しばらく我慢して動かずにいた直孝は、やがて背後の気配に気が付き、首を向けて遠慮がちに尋ねた。
「母上、泣いていらっしゃるのですか」
返事はかすかなすすり泣きだった。困った直孝は、腕を伸ばして筆を置くと、肩にかかる腕の下から手を伸ばして母の頭をそっと撫でた。
「母上、元気を出して下さい」
その言葉に芳姫は返事をしなかった。できなかったのだ。
光子が帰ってしまう。あの子が近くにいなくなってしまう。これからはもう、あのほっとする笑顔は見られないのだわ。
光姫に会った直後だからこそ、芳姫は自分がこの二ヶ月余り、いかに妹の明るさと元気さに救われていたかを実感していた。故郷や家族と切り離され、献身した夫を失った芳姫にとって、田美国にいた頃の懐かしく温かな生活を思い出させてくれる光姫は、自分と幸福な記憶とを結び付ける最後の糸のように感じられていたのだ。それがたった今、永遠に切れてしまった。そう思うと、芳姫は体が震え、涙が止まらなかった。
光子はもういない。直信様ももういない。私は一人よ。本当に一人切りなのよ。私の大切な人達は、みんな私を残して去っていく。私の喜びも幸せも、全て手の中から逃げいってしまうのだわ。
芳姫を襲っていたのは巨大な寂しさだった。これからは妹が与えてくれていた安らぎがなくなる。唯一の側近である道久も、あんなことがあった以上、もうあまり心を許すことはできないだろう。芳姫は自分を支えてくれた人々が次々にいなくなり、一層の孤独とこの国で最大の責任の重圧に押しつぶされていくような、激しい恐怖に襲われていた。
「母上、本当に大丈夫ですか」
直孝が心配そうに言った。その声に芳姫は顔を上げ、頭を撫でてくれるやさしい息子の横顔を涙に濡れた目でじっくりと眺めた。
私にはもうこの子しかいない。
芳姫は先程自分が道久を捨ててまで息子との絆を守ろうとしたことを思い出した。
この子だけは手放してはいけない。直信様と約束したのだもの。私の全てを懸けても絶対に守り抜かなければ。
芳姫は息子の首を強く抱き寄せ、小さな耳へささやいた。
「あなたはいなくならないでね。もう、私にはあなたしかいないの。お願いよ。私を一人にしないで」
「母上、今何とおっしゃったのですか。よく聞こえなかったのですが」
聞き返す直孝に芳姫は何も答えず、首に巻いた腕に一層力を入れた。
そうして、困惑する直孝を抱き締めたまま、長い間涙を流し続けたのだった。
翌二十七日、光姫は教育係の家老餅分具総や侍女のお牧と共に故郷への帰途に就いた。昨日父へ手紙を送ったから、帰り着く数日前には届くだろう。
都へ来る時は海路だったが、帰りは陸路にした。馬である。具総は駕籠を勧めたが、十日も閉じ込められるのは我慢できなかった。多少疲れても馬の方がよい。光姫は銅疾風を思い切り飛ばしたかったが、都を出るまでは我慢することにした。
一行には徒歩の者や荷物を積んだ馬もいるので無理のない行程が組まれていたが、光姫は旅を楽しみつつ、急げるところは急ぐ気でいた。病床の父が心配だったし、早く故郷に帰りたかったのだ。
光姫の帰郷を聞き付けて、玉都屋敷には見合いをした封主家から次々に餞別の品が届けられた。やむなく受け取ったものの荷物になるので、具総と相談して他の大きな道具類と一緒に後から船で送ってもらうことにした。見送りは鄭重にお断りしたのだが、都の西の門の外には三十あまりの封主家の若様や家臣が集まっていて、挨拶で出発が遅れてしまった。
旅装の光姫は西国街道を馬で進みながら、市女傘を上げて辺りの景色を眺めた。
玉都の町並みはもう見えない。そのかわり、神雲山の雪を被った白い姿が近付いてくる。田美国からは海の向こうに頂上と円い神雲だけが小さく浮かんでいる遠い山だが、都からはかなり大きく見えていた。
毎日目にしていたこの景色を次に見るのは半年後だと思うと、何やら寂しい気持ちがした。涙ながらに分かれてきた姉のことが思い出され、急に銀炎丸が懐かしくなった。光姫は噴煙を上げる霊峰を見上げながら、今度都へ来る時はあの狼も連れてきて、故郷である麓の森で遊ばせてやろうと心に決めた。
西へ向かって順調に旅を続けた一行は、六日目に高稲半島への分岐点に当たる後明国の独岩の町へ到着した。藤月三日、この屈谷家十六万貫の城下町を朝早くに出発し、殻相国へ向けて南下していった光姫達は、昼食に立ち寄った街道脇の小さな茶屋の店先で、初めてその驚くべき知らせを耳にしたのだった。