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花の戦記  作者: 花和郁
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第二章 玉都にて 一

  第二章 玉都にて


   一


「光子姫様、どうぞ!」

 遠くで叫ぶ声がして、棒に付けられた白い旗が高く(かか)げられた。光姫は手にした弓と矢を確かめ、息を整えると、赤い手綱(たづな)をぎゅっと握り、愛馬の腹を一つ蹴った。

「行くよ、銅疾風(あかはやて)!」

 その言葉を待ちかねたように、(あかがね)色の大きな馬は勢いよく走り出した。

 馬はぐんぐん速度を上げ、一直線に伸びる細い道を風を切って駆けて行く。あんなに小さく見えていた木製の円い的が、(またた)く間に近付いてきた。

 光姫は手綱を離して弓に矢をつがえた。ぎりぎりと音がするほど引き絞ると、的の横を通り過ぎる直前にぱっと放った。

 矢は(あやま)たず的を射抜き、木の板を半分に割って飛び散らせた。それを目の端でとらえながら、次の矢を素早く背中から取ってつがえ、すぐに放つ。

 計五回それを繰り返して馬場を走り抜けた光姫は、手綱を引いて愛馬の足をゆるめた。馬首を返して的のあった辺りへ戻っていくと、見物していた人々が拍手で迎えてくれた。

「素晴らしい! 全て命中とは、さすがは武勇の(ほま)れ高い光姫様ですね」

 蓮山(はすやま)英綱(ひでつな)が激しく手を叩きながら近寄ってきた。この二十一歳の若者は二十五万貫の譜代封主家の当主の弟で、光姫の花婿候補の一人だ。

「うむ。見事だ。わしも祖父として鼻が高い」

 梅枝家三姉妹の母の父、豊梨(とよなし)実護(さねもり)も腕を組んで頷いている。

「光姫様、これをお使い下さい」

 実護(さねもり)の孫で、雲居国(くもいのくに)十三万貫の当主の実鏡(さねあきら)が手拭いを差し出してきた。

「本当にお見事でした」

 十四歳の実鏡(さねあきら)は自分で渡したいと言って家臣から取り上げた白い布を両手で捧げ持ちながら、四つ年上の美しい従姉(いとこ)を誇らしげに仰いでいた。見物していた家臣達や他家の者達も、皆感嘆のまなざしを注いでいる。

 光姫は実鏡に笑顔で礼を言い、馬から降りると受けとった布で額の汗をぬぐった。新緑の森に囲われた馬場に晩春の(さわ)やかな風が吹き、首の後ろでまとめた長い髪を心地良くなびかせていく。実護はそんな孫娘の様子に目を細めて言った。

「この武勇を都中の封主家の子弟に見せてやりたいものだな。お前達も少しは見ならって武芸の腕を磨けとな」

 老将の言葉に英綱(ひでつな)が苦笑した。

「耳が痛いですね」

「なんの、お主の槍術(そうじゅつ)もなかなかのものだったぞ。楢間(ならま)惟鎮(これしげ)相手に健闘したではないか。こやつは当家の若手で一番の槍の使い手なのだぞ」

 実護は後ろに控える孫の近習頭(きんじゅうがしら)へ目を向けたが、英綱は首を振った。

「光姫様には遠く及びません。それに、武勇の(ほま)れ高いご老公にほめて頂くのはどうにも面映(おもは)ゆく感じます」

「それは昔の話だ。わしはもう六十五の楽隠居。長い都暮らしですっかり腕が(なま)ったわい」

 はっはっはと実護は笑ったが、光姫はそれこそ謙遜(けんそん)だと思った。豊梨(とよなし)家の先々代の当主だったこの老人は、若い頃は猛将として知られていたし、今でも相当の腕前だ。その辺りの若者など相手にならないだろう。武公の(もと)で共に戦った時繁とは十二の年の差がありながら仲が良く、嫁がせた娘が三姉妹を生んで亡くなってからも交友は続いている。上京した光姫の面倒を何くれとなく見てくれるし、かつて華姫が都へ来た時もかなり世話になったと聞いていた。

「父から戦狼時代のおじいさまのご活躍は随分うかがっていますよ。宝瀬国(たからせのくに)の合戦の時の逸話ですとか」

「僕も幼い頃、その話を家臣によくねだったものです」

 実鏡がうれしそうに言ったので、光姫は微笑んだ。実護の息子は昨年亡くなり、後を継いだばかりのこの少年は祖父の後見の下、玉都で学問と領地の仕置きを学んでいる。素朴に祖父を尊敬してあこがれ、光姫の腕前を嫉妬(しっと)や屈辱を感じずにほめられる素直さが、この少年の最大の長所かも知れなかった。

「兄もご老公には様々なことを教わったと常々申しておりますよ」

 英綱の兄で蓮山(はすやま)家当主の致綱(むねつな)も実護と親しく、領地の経営に様々な助言を受けているらしい。蓮山家と豊梨家は譜代の名家同士で付き合いが深く、英綱は実鏡と親しいようだった。

 ひとしきり話に花を咲かせた後、実護が言った。

「さあ、そろそろ着替えに行きなさい。後は二人だけで話すとよい」

 その言葉で、光姫は高揚していた気分が急速に下降するのを感じた。

「わしらは向こうで茶を飲んでおるよ」

 実護は笑って言うと、孫を促し、光姫と英綱を残して馬場の奥にある道場の建物の方へ歩き出した。

 実は今日は見合いなのだ。英綱は面白い男で、光姫が薙刀と馬術と弓、とりわけ騎射にすぐれていると聞いて、お会いする際に是非そのお腕前を拝見したいと申し入れてきた。都に来てから(めか)し込んで猫を(かぶ)る日々が続いていた光姫は、久しぶりに銅疾風(あかはやて)に乗れると喜んで承知し、武守家が都の武家に開放しているこの武芸修練場で会うことになったのだ。だから、英綱には期待していたのだが、今は気が重かった。それが分かるのか、実鏡は祖父と歩いていきながら時々従姉(いとこ)を振り返っていた。

「では、参りましょうか」

 英綱はにこやかに言った。

「はい。汗臭くて申し訳ありませんが」

「お互い様ですよ。私も先程の槍の試合で汗びっしょりになりましたから」

 二人は連れ立って馬場の隣にある瓦屋根の建物へ向かった。封主家の当主など身分ある人々が社交や休憩に利用する場所だ。

 光姫は入口で英綱と別れると、控えの間へ行った。待っていた侍女のお(まき)に手伝わせて、濡らして絞った布で体をぬぐう。予定では騎射の後入浴して身を清めることになっていたが、英綱がそのままでよいと言ったのだ。念のため香木をよく炊き込めた豪華な晴れ着をまとい、化粧を直すと、廊下で待っていた教育係の家老の餅分(もちわけ)具総(ともふさ)に付いていった。

 案内されたのは六畳の座敷だった。青い直垂(ひたたれ)に着替えた英綱は先に来ていて、白と桃色の稽古着から華やかな打掛姿に変わった光姫を感嘆の表情で迎え、向かいの座布団を勧めた。

「さて、何の話から始めましょうか」

 お牧が茶を置いて下がると、今更(いまさら)自己紹介もないですし、と英綱は笑ったが、光姫は、はあ、としか答えられなかった。

「では、まず、あれにしましょう。家臣達に必ずしろと言われましたので」

 英綱は光姫の返事を待たずに話し始めた。

「当家が治める虎落国(もがりのくに)は交通の要衝(ようしょう)で旅の道具がよく売れますので、民に草鞋(わらじ)などを作らせ、買い上げて宿場で販売しています。私は(みの)が重くかさばることが気になりまして、(わら)を少なくして軽くし、小さく畳めるようにできないかと考えました。そうしてできあがったのが虎落(もがり)(みの)です。これが予想以上に大きな利益を生みましたので、他にも工夫次第でもっと売れるものがあるのではないかと思い、研究を続けております。……光姫様。あの、もし?」

「えっ?」

 呼びかけられて、光姫は我に返った。つい物思いに沈んでしまっていたらしい。顔を上げると、英綱は話すのをやめて、光姫をじっと見つめていた。

「ご退屈ですか」

「いっ、いえ、そういうわけではないのですけれど……」

 慌てて返事をしたが、かえってほとんど聞いていなかったことが分かってしまったようで、英綱は首を(かし)げた。

「光姫様はこのような話にご興味をお持ちではいらっしゃらないのですね。実は私もさほど好きではありませんし、話題を変えましょうか」

「……すみません」

 光姫が謝ると、英綱は非礼に腹を立てるどころか、むしろあっさりと認めた(いさぎよ)さに好感を持ったらしく、微笑んでいた。よい方なのだわと思い、光姫はますます申し訳ない気持ちになった。謝ったのは話を聞いていなかったことだけではなかったからだ。

 英綱を上目遣いに見上げると、光姫に向けられる微笑みが苦笑に変わり、確認する口調になった。

「やはり、私では駄目なのですね」

 びっくりして顔を上げた光姫は、英綱の表情を見て、全てを見抜かれていたことを知った。

「……はい。本当に申し訳ありません」 

 光姫は深く頭を下げた。見合いの途中で気がないことを相手に感付かれるというのは大変な失態だ。真剣に話をして馬鹿を見たと言われても言い返せないが、英綱は怒らなかったので、光姫はほっとして、やっぱりよい方なのだわと思い、彼に恋を感じられない自分を情けなく思った。

「これは好奇心からお尋ねするのですが、今までに気に入られた方がいらっしゃったのですか」

「そういうわけではないのです」

 残念ながら、と光姫は口の中で小さく付け加えた。

「なるほど。では、私は不合格ということですね」

「いえ! その、……はい。すみません」

 光姫は認めたが、気が付いて慌てて言い足した。

「あの、勘違いなさらないで下さい。お人柄やご器量が不足ということではありません。先程の槍のお腕前といい、蓑のお話といい、英綱様はとてもご立派な方だと思います。思いますが、その、何と申しますか、運命を感じられないのです」 

「運命ですか。それでは仕方がないですね」

 英綱は気分を害した様子もなく、むしろ面白そうに言った。

「ですが、聞いたところでは、私が最後の見合い相手ということでしたが」

「そうなんです」

 光姫はがっくりと肩を落とした。だからこそ、実護と実鏡の評価が高く、面白い見合い方法を提案してきた英綱に望みをかけていたのに。

「……はあ。運命を捕まえるのは難しいのですね」

 つい愚痴をこぼすと、英綱は笑って「そうかも知れませんね」と答えた。

 そのまま互いに無言になってしまい、どちらからともなく部屋の外へ目をやった。開かれた障子と板廊下の先には、雪化粧の神雲山(かみくもやま)借景(しゃっけい)に、狭いが手入れの行き届いた見事な庭が広がっている。首元に円い神雲(しんうん)をまとった逆さのすり鉢そっくりの霊峰の手前、広大な馬場と庭を区切る数本の花海棠(はなかいどう)の木から、桃色の花びらがひらりひらりと散っていた。無数の小さな花の欠片(かけら)(いろど)られた小道を眺めながら、英綱がぽつりとつぶやいた。

「もう春も終わりですね」

「はい……」

 光姫はその言葉に頷いて、忙しかった今年の春を思い返した。

 光姫が見合いのために玉都へ登ったのは梅月(うめづき)の半ばだった。本当はもっと早く都へ出たかったのだが、昨年の初夏に下の姉の華姫とその夫の乗った船が牙伐魔(ガバマ)族に襲われるという事件があり、夏の盛りには上の姉の夫の武守(たけもり)直信(なおのぶ)が亡くなって、秋の始めに芳姫が国母に光姫には甥に当たる直孝(なおたか)が元狼公に就任するという騒ぎがあったので、梅枝家はしばらく慌ただしい日々が続いていた。結局、光姫が父に上京の許可を願い出たのは、ようやく玉都の混乱が収まり、姉夫婦の法要も一段落した冬の初めになってからだった。

 都行きの理由を聞いた時繁(ときしげ)は、始め大いに渋った。

「封主家の結婚は親同士家同士で決めるものだ。娘の方から見合い相手を募集して気に入った男を選ぶなど聞いたことがない。民の結婚でもそんなことはせぬ。第一、お前はよいが、断られた方はどうなる。お主とは結婚する気になれぬから他の人を選ぶことにすると言われるのだぞ。男の面目丸つぶれではないか。いかんいかん。そんな話は認められぬ。予定通り追堀(おいぼり)の息子と結婚せよ」

 父の反対は覚悟していたので、光姫はめげずに食い下がった。

「無茶は承知です。ですけれど、他に封主家の結婚前の殿方と知り合いになるよい方法がありませんもの。私は幸せになりたいのです。それにはこうするしかありません」

「駄目だ。お前の結婚相手はわしが決める。娘は父親の命令に大人しく従うものだ」

 華姫の結婚騒動で()りたらしい時繁は家長の権限を持ち出してわがままを封じようとしたが、光姫は聞かなかった。

「いやですわ。私に大人しくしろだなんて、無理に決まっているではありませんか!」

 自分で堂々と言い切る娘に時繁は呆れ顔だったが、首を縦には振らなかった。やむなく光姫は、最近は口にしないようにしていた姉の話を持ち出した。

「華姉様が都へ行きたいと言った時、お父様はお許しになりました。あの時は都見物が目的でしたけれど、私は婿を探しに行くのです。私の目的の方がずっと重要ですわ。従兄(いとこ)輝隆(てるたか)さんが嫌いではありませんけれど、結婚相手は華姉様のように納得できる人を自分で探したいと思います。そうする、と華姉様と約束しましたし、私は亡くなった二人の分まで幸せになりたいのです。それに、梅枝家を切り盛りできるすぐれた婿を迎えるためにも、候補を幾人か挙げて実際に会ってみるというのは悪くない考えだと思いますわ」

「華子の分までか……」

 次女の名前を聞いた時繁は遠い目をしたので、光姫は心の中で謝った。兄に続いて下の姉まで亡くしたと知ってから、父がめっきり無口になり、急に老け込んでしまったことをよく分かっていたからだ。光姫自身も姉夫婦の葬儀で大泣きしたのだから気持ちはよく分かるのだが、ここで引くわけにはいかないので、用意した言葉を思い浮かべて、勝負所とばかりに攻め立てた。

「それに、芳姉様(よしねえさま)のこともあります。国母という大変な地位にお就きになってから、随分とご苦労なさっていらっしゃるそうですわ。お父様は大翼(だいよく)就任の要請をお断りになりましたけれど、本当はご心配なのでしょう? ですから私がお姉様のご様子をうかがって参りますわ」

 国母になった芳姫は、時繁に総監(そうかん)さえ上回る権限を持つ統国府の最高職への就任を求めたが、時繁は辞退したのだ。

「長いことかけて築いてきた統国府や譜代諸家との関係を崩すわけにはいかぬからな。外様のわしが大翼(だいよく)を引き受ければ、第二の鷲松巍山が現れたと言われるに決まっておる。それに、わしはそんな権力に興味はない。梅枝家さえ守れればそれでよいのだ」

 それが父の本音であることを光姫は知っていた。領内の開発も銀の輸出も芳姫の結婚も全てはそのためだったのだ。

「わしは武公様のようにはなれぬ。それがわしの(ぶん)というものだ。芳子には悪いことをしたがな」

 そう言って肩を落とす時繁は、大封主家の当主ではなく一人の父親だった。

「いいえ。芳姉様はお父様の気持ちをよくお分かりだと思います」

 父の返事を聞いた芳姫は、寂しそうな顔で微笑んだだけで、あっさり引き下がったと聞いている。

「総監の杏葉(あんば)公や粟津(あわづ)公が付いていらっしゃいますもの、大丈夫ですわ」

 光姫は父を慰めたが、説得の手はゆるめなかった。

「でも、あのおやさしいお姉様のことですから、きっとつらいこともおありになるはずです。今、芳姉様は夫を亡くされて一人切り、愚痴を言う相手もいないでしょうけれど、その点、私ならよい話し相手になれます。甥の直孝様にもお会いしたいですし、私と芳姉様が仲良くするのは梅枝家のためにもなりますでしょう? 統国府が数年前から納める銀の量を増やして欲しいとしつこく言ってきていて、この前は品質に文句を付けられました。ここで姉妹の仲の良さを見せ付けておけば、きっとよい牽制(けんせい)になりますわ。そのついでにお見合いをしようというのです。芳姉様は気分転換ができ、私は幸せな結婚ができ、梅枝家は銀を守った上にすぐれた跡継ぎを選ぶことができるのです。一挙四得ですわ!」

 さあ、これでどうだ、とばかりに見つめる光姫に時繁はすぐには返事をせず、しばらく腕組みをして考えていたが、やがて腕をほどき、苦笑して溜め息を吐いた。

「わしも甘いな」

「さすがお父様、感謝しますわ!」

 光姫は躍り上がった。時繁は仕方がないという顔で頷いたが、条件を付けることは忘れなかった。

「ただし、見合い相手の募集はわしの方で行う。これという封主家にこちらから声をかけ、事情を話してお願いするから、その中から選ぶのだ。誰も気に入らなかったなどと言っても許さんぞ」

「そんなことは言いません。絶対運命の人を見付けてみせますとも!」

 喜ぶ末娘を眺めながら、時繁は小さな声で「お前も遠くへ行ってしまうのか」とつぶやいて、すっかり色付いた葉を時折散らしている庭の(かえで)へ目をやった。

 父を口説き落とした光姫は、収穫の祭りや一年で一番昼が短い誕日節(たんじつせつ)の祝祭といった諸行事の合間を縫って都行きの支度に取りかかった。見合い担当の家臣と打ち合わせをし、毎回同じ着物というわけにはいかないからと豪華な晴れ着を玉都の呉服店に注文する手紙を書き、張り切った師範に苦手な礼儀作法を基本からみっちりと叩き込まれるなど忙しい日々を送った後、準備万端整えて、梅月(うめづき)の初旬に穂雲港から厳寒の内の海へ船で乗り出した。時繁は華姫の事件を思い出すからか陸路を勧めたが、それでは行くだけで十日もかかってしまうので、半分の日数で済む海路にしたのだ。光姫は泰太郎に何度も話を聞いた巨船に乗りたかったが、幟屋は海国丸の沈没で大損をして所有の船をいくつも売りに出さざるを得なかったため、空いている船がないからとかわりに手配してくれた大灘屋の中型船になってしまった。

 それともう一つ、寂しいことがあった。

「銀炎丸を連れてくればよかったわ。そうすれば船の上でも温かかったのに」

 寒風吹きすさぶ船の甲板で波の荒い冬の海を眺めながら、光姫は灰色の狼の長い毛並みを懐かしく思い出した。船は玉都と高稲半島の間に丸く突き出た雲居国(くもいのくに)の沖をゆっくりと進んでいるので、高くそびえる神雲山の首元にまといつく神雲と、雪を被った頂から立ち登る細長い煙がよく見えた。吼狼国で最も高いとされる霊山を前にして光姫が置いてきた狼のことを考えたのは、この巨大な活火山の麓が銀炎丸の故郷だったからだ。

「仕方ありません。船に乗せるわけにはいきませんし、都では銀炎丸も不自由ですよ」

 後ろに控えた侍女のお牧が震える声で答えた。華姫と同い年のこの若い世話係は三年前から光姫に仕えている。裁縫が得意で、お転婆(てんば)ですぐにほころびを作る光姫の着物をいつも(つくろ)ってくれるし、弓はかなりの腕前なので護衛としても信頼できる。都に上るのはやはり初めてで、集めた玉都の噂を光姫と交換して楽しみにしていたが、寒さは苦手らしかった。白い息を吐きながら手をこすり合わせて足踏みしている。

「それはそうね」

 光姫は頷いて、目の前に広がる森へ目をやった。

「銀炎丸と離れるのは初めてだわ。寂しがっていなければよいけれど。あの子、私に夫ができたら嫉妬するのかしら。ううん、私が好きになった人ならきっとすぐに気に入ってくれるわね」

 光姫は都での暮らしを想像してわくわくしたが、吹き付ける風に身を震わせると、侍女のために船室に戻ることにしたのだった。

「これは一体どういうことなの!」

 五日の船旅の後、吼狼国最大の商港である玉都港に上陸し、意気揚々とこの大都市に乗り込んだ光姫は、都人達の好奇の視線を浴びて面食らった。会う人会う人が光姫をしげしげと見つめるし、船着き場でも途中で一休みした茶店でも人だかりができ、道行く人々まで立ち止まって、梅花の家紋が描かれた駕籠(かご)から都を眺める光姫の顔をじろじろと見るのだ。

 道々注目され続けて梅枝家の玉都屋敷に入った光姫が、出迎えた家臣達に早速事情を問い(ただ)すと、都家老は覚悟を決めた顔で暦を差し出した。首を傾げてそれをめくった光姫は目を疑った。この先二ヶ月ほどの「本日の予定」欄が、見合いの予約で埋め尽くされていたのだ。

 慌てて回数を尋ね、返答を聞いて唖然(あぜん)とする光姫に、都家老は「考えてみれば当然のことでした」とうなだれた。光姫に気に入られれば、武門の名家にして三ヶ国八十七万貫の大封主家の当主になれるのだから、こんな好条件の縁組みを次男や三男の扱いに困っている諸侯が見逃すはずはなかった。光姫は国母様の妹だから、統国府への影響力も強化できる。特に貧乏な封主家は、息子を入り婿させれば豊かな梅枝家の支援が当てにできるとあって、皆この話に飛び付いた。部屋住みの若様達にとっても、養子の口でもなければ臣下に下るか飼い殺しにされるだけなのだから、これは運をつかむ機会だった。その上、結婚相手はとびきりの美人だというのだ。

 梅枝家の三姉妹の美しさは玉都では有名だった。十年前に長女の芳姫が都に嫁いできた時は、楚々として(しと)やかな中に色気を(たた)えた花嫁姿に、婚礼の行列を見守る山のような人だかりから溜め息が絶えなかったと言われているし、国母という立場からも国を代表する美人と見なされている。次女の華姫が玉都を訪れた際も華やかできりっとした美貌が評判になり、積極的に見て回った名所旧跡や大市場では、国で最も富裕な封主家の美しい姫君を一目見ようと集まった人々の長い列が、一行の後をぞろぞろと付いて回ったというのはいまだに語り草になっていて、商人との結婚と悲運の死は一時都の話題をさらったものだ。では、この春十八になるという三女はどんな娘なのかと都人達は興味津々で、武芸を好んで勇ましいらしいが器量は姉達に劣らぬそうだなどと噂していたところへ、その本人が結婚相手を探しにやって来るというのだから、この情報が瞬く間に都中に広まったのは当たり前のことだった。

 というわけで、内々に数家にだけ打診したはずの見合いに、多くの封主家が、駄目でもともと、会わせてみて損はないとばかり、次々と名乗りを上げた。こうなるともう()り好みはできなくなる。あの封主家はよいのになぜ当家は駄目なのか、会わせるだけ会わせて欲しいと言われれば断りにくい。早くもうんざり顔の光姫に、都詰めの家臣達は平謝りで、全ての相手に会ってくれと頼み込んだ。

「まさかこんな騒ぎになるなんて……」

 後悔したものの既に遅く、言い出した本人としては承知するほかなかった。封主家の子弟を蹴って商人を選んだ姉の件があるので見合いを渋る家が多いのではないかという危惧(きぐ)は、全く無用だったらしい。

 とはいえ、前向きな光姫はすぐに覚悟を決めた。

「起こってしまったことを嘆いても仕方がないわ。こうなったら片っ端から会ってやろうではないの。会う相手が多い方がよい人に巡り会う可能性も高くなるというものよ。絶対に私の運命の人を見付けてやるんだから!」

 こうして、光姫は待ち構える見合いの洪水に立ち向かっていったのだった。

「あれからもう二ヶ月以上になるのね……」

 光姫は庭の花海棠(はなかいどう)から目を戻し、冷めてしまったお茶を上品にすすりながら、苦い溜め息を吐いた。

「まさか一人も好きになれなかったなんて」

 次々と会っては不合格を出していく光姫について、器量自慢だの高慢だのと都で心ない悪口がささやかれていることは知っている。見合いの後で結果を聞く家臣達の口ぶりも、次第に責めるような響きを帯び始めていた。姉の芳姫までが心配して適当なところで妥協なさいと(さと)したのだが、光姫は一人残らず首を振ってしまった。

「だって、我慢して話を合わせていることに気付かずに、とく(とく)と自慢話を続けるような相手を好きになれるはずがないわ。こちらはこんな動きにくい格好をしているだけで疲れるのに」

「それは申し訳ありませんでした」

「えっ……?」

 返事があったことに驚いた光姫は、自分が口に出していたことに気が付いて赤くなり、謝る蓮山英綱を慌てて止めた。

「お顔をお上げ下さい。英綱様のことではないのです。……ただ、そういう方が多かったものですから」

「光姫様は活発でいらっしゃいますから、お気持ちはお察ししますよ」

 飾り(ぐし)(かんざし)を入れて大きく結った(まげ)と何枚も重ねた厚い豪華な着物を見て英綱は微笑んだ。

実護(さねもり)公は光姫様のお元気さを楽しそうにお話になって、あの気性で見合いはつらかろうとおっしゃっていました」

「おじいさまがそんなことを……」

実鏡(さねあきら)殿も頷いて笑っていましたよ。随分と気に入られていらっしゃるようですね。長々と噂を聞かされました」

「まあ、何をお聞きになったのかしら」

 光姫は恥ずかしくなった。実護と実鏡のことだから大丈夫とは思うが、英綱のおかしそうな表情からすると、いかに光姫がお転婆かという逸話をたっぷりと語ったのだろう。

「ですから、私はこの見合いを楽しみにしていたのです」

 英綱の表情を見て、言い訳の言葉を続けようとしていた光姫はそれを呑み込み、思い切って正直に打ち明けてしまうことにした。

「これは内緒にして頂きたいのですが、実は、見合い相手達の退屈な長話にうんざりしていたのです。確かに、見合いの席で自分の長所を話すのは当然だと思います。ですけれど、学問の師範にほめられた程度の話をされても困ります。武芸自慢にしても……」

「あなたの方が強そうでしたか」

 英綱に聞かれて、光姫は頷いた。

「馬術も弓も私に勝てそうな方はいませんでした。でも、そんなことはどうでもよかったのです」

 そもそも学識では華姫と泰太郎という見本が身近にいた光姫が、ちょっとした手柄話程度に感心するはずもないのだが、問題はそこではなかった。

「私が求めていたものは学問や武芸の腕ではないのです。私の長所や短所をそのまま受け入れて愛してくれる心の広さ、この方となら一緒に歩んでいけると思えるような尊敬できる生き方、そういうものを見せて頂きたかったのですが……」

 せめて自分と対等に話のできる人であって欲しい。それが光姫の望みだった。一目惚れして激しく恋心が燃え上がるような劇的な出会いは、現実には難しいと光姫も思っていた。それでも、好ましく、(した)わしく、ずっとそばにいて一緒に語り合いたいと感じる相手を選びたかった。

 だが、実際にはすっかり封主家の子弟というものに幻滅させられることになってしまった。これなら従兄(いとこ)と結婚した方がよほどましだったと思うのだ。

「英綱様は立派なお方だと思います。本当です。許して下さい」

 光姫はもう一度謝った。

「いえいえ、よいのですよ。家臣達に勧められて見合いをしただけで、特に期待はしていなかったのですから」

 英綱は笑っていたので光姫はほっとしたが、相手がよい人であるだけに一層申し訳なかった。

「それに、私も正直に言うと、この縁組みにはあまり気が進まなかったのです。これは秘密でお願いしたいのですが……」

 英綱は隣の部屋へ続く襖にちらりと目を向けてから身を乗り出し、口の横に手を当てて小声になったので、光姫も体を前に傾けて耳を寄せた。

「当家は遠国(おんごく)街道の起点を領しているので、鷲松(わしまつ)家にとっては紅日岬(くびみさき)半島からの出口を押さえられたことになり、目の上のこぶです。もちろん、譜代の蓮山家を虎落国(もがりのくに)に配置した武公様の意図はそこにあったわけですが、たった一国二十五万貫の当家としては、一百六十四万貫の鷲松家の機嫌を損ねるわけにはいかず、兄は友好を保つためと家臣達に説得されて巍山殿の娘をもらいました。幸い兄嫁はやさしい方で体の弱い兄と仲睦まじく、よい縁組みだったと喜んでいたのですが、巍山殿が失脚した途端、家臣達は今度は国母様の縁者になろうと言い出したのです。弟の私を大封主である梅枝家に送り込めば鷲松家に対抗できるという思惑もあるようですが、私はあまり賛成ではありません。鷲松家には文武応諮(ぶんぶおうし)の影響力を利用して何かと便宜を図ってもらったというのに、世話になった家を見限ってさっさと鞍替(くらが)えしようとは、節操がないと言われても仕方がありませんからね。家中で肩身が狭くなってしまった兄嫁を守ろうとしている兄にも申し訳ないですし、始めからこの縁談は辞退しようと思っていたのです。結果的には私の方が不合格を出されてしまったわけですが」

 英綱は片目をつぶってみせた。

「それに、兄は病状によっては私に家督を譲る可能性も考えているようですので、なおさら他家に養子に行くわけにはいかないのです。安心して断って下さい」

 そう言うと、英綱は体を戻した。

「ですが、今は見合いをしてよかったと思っています。都中で噂のお方にお会いできただけで十分楽しかったですし、国元の兄へよい土産話ができました。光姫様の本音も聞けましたしね」

「お気遣い、ありがとうございます」

 身を起こした光姫は、丁寧に頭を下げた。光姫の気を軽くするために英綱がわざと打ち明け話のお返しをしてくれたと分かったからだ。

 なぜこの方では駄目なのかしら。

 光姫は動かない自分の心にちょっとだけ文句を言いたくなった。間違いなく、英綱は会った中で最上の男性だったのだ。こちらの気持ちを察して心配りができるし、頭も切れるらしい。人柄もよさそうだから、数人目に会っていたらこの人に決めていたかも知れないとさえ思う。

 だが、多くの相手と会った後だからこそ、光姫はこの人は何かが違うと感じてしまった。それがどこなのかは上手く言葉にできないが、恐らく男女の相性というものなのだろう。蓮山家という譜代の名門の次男を断れば光姫の悪評は決定的になるだろうが、それでもそうするしかないと思った。隣室で聞き耳を立てているはずの家老の餅分(もちわけ)具総(ともふさ)が溜め息を吐くのが聞こえた気がした。

 光姫も小さく溜め息を吐いて向かいを見ると、英綱は何やら考え込んでいた。と、急に視線を上げて真剣な面持ちで光姫の顔をじっと見つめ、再び口を開いた。

「それに」

 と、英綱は一旦言葉を切り、少しためらってから、決意したように続けた。

「白状してしまいますが、実は私には好きな女人(にょにん)がいるのです」

「えっ?」

 光姫は驚いたが、つい身を乗り出した。

「どのようなお方ですか」

「都のとある茶屋で働いている娘なのですが」

「町人ですか」

 光姫は更に驚いた。

「ええ。その店の前をよく通るので、何度か茶を飲みながら言葉を交わす内に気に入ってしまいまして。これは惚れたなと悟って、しまったと思いました」

「それはそうでしょう」

 光姫は頷いた。身分が違い過ぎる。まして、兄君に何かあった時には当主になる可能性があるというのだ。家臣達は到底承知すまい。

「部屋住みの身では側室というわけにもいきません。ですから、最近はその茶屋の前は通らないようにしているのですが、折々にその娘のことを恋しく思ってしまいまして」

「なるほど……」

 光姫は泰太郎にあこがれた経験しかなく、本当のところ自分が恋というものをきちんと理解しているのか自信がなかったので、思い切って尋ねてみた。

「恋しいとは、その方のことをつい考えてしまうということですね?」

「そうです」

「その方のそばにいると、どきどきしますか」

「しますね」

 英綱はやや照れながら頷いた。

「では、その方を、運命の人だと思いますか」

「運命、ですか」

 英綱は意表を突かれた顔をしたが、首をひねりながらも真面目に答えてくれた。

「どうでしょう。そんなことは考えたことがありませんでした。ですが、そうですね、そうなのかも知れません」

「確信はないのですか」

「ううむ、よく分かりませんが、本当に惚れ込んでしまったのなら、きっとその人が運命の人なのでしょうね。恋の病と言いますが、実際、激しい情熱に身を焦がすような時は、本人の意志で相手の()り好みをできるものではありません。そういう意味では、誰かに恋してしまった時点で、これは運命なのだと諦めるしかないのかも知れませんね」

「……なるほど、そういうものなのですね」

 期待していた答えとは違っている気もするが、英綱がその娘に本気で惚れていることは分かったので、光姫はこう言った。

「無責任かも知れませんが、上手く行くといいですね。私の姉も商人と結婚しましたから」

「ありがとうございます。そう言ってくれた人は初めてです」

 光姫の言葉に、英綱は頬をゆるめた。

「話したら何だかすっきりしました。誰かこの件に直接関わりのない方の意見を聞いてみたかったのです。家中であの娘の名は禁句ですし、やめなさいと言われるのが落ちですからね」

「いいえ、こちらこそありがとうございます。とても参考になりました」

 あれだけ噂になった華姫のことは当然知っているはずで、その妹だから大丈夫と思ったのかも知れないが、こんな重大な話を打ち明けてくれたことが光姫はうれしかった。

「あの娘と結ばれることが果たして私にとって本当によいことなのか自分でも分からず諦めかけていたのですが、もう一度よく考えてみることにします」

 英綱はにっこりした。

「お互い、いい結婚をしたいものですね」

「本当に」

 光姫も笑い返した。数十回の見合いをしたが、本心から微笑んだのはこれが初めてかも知れなかった。

 恐らく英綱が光姫との縁談を断わろうと思ったのは、その娘のことを諦め切れずにいたことも大きかったに違いない。封主家の子弟の結婚相手としては光姫の方がずっと条件がよいに決まっているが、英綱はその町娘の方をより好ましく思っているのだ。初めて先方から断られたというのに、光姫にはそれが心地良かった。これまで会った他の若君達が聞けば馬鹿げていると言うに違いない英綱の選択が、光姫には貴いものに思われた。

「では、他の話をしましょうか。光姫様は玉都は初めてだそうですが、総馬揃(そううまぞろ)えをご覧になった感想はいかがでしたか」

 英綱が話題を振ってきた。ここからは見合いではなくただの世間話だということが分かったので、光姫は素直に応じることにした。

「とても勇壮で素敵でした! 芳姉様――国母様に特別に許可を頂いて、参加させてもらったんです」

 総馬揃(そううまぞろ)えとは毎年桜月(さくらづき)一日の春始節(しゅんしせつ)に全国の封主を集めて行われる閲兵式(えっぺいしき)のことだ。諸封主は統国府の役職にある者以外は領国に居住することを認められているが、この時だけは全員が都へ集まる。各封主家の当主は貫高によって割り当てられた人数の武者を率いて玉都の大通りを行進し、望天城の大手門前に勢ぞろいして、そこで待ち受けている統国大元帥に忠誠を誓う。総馬揃えには全国から人が集まるので評判は吼狼国中に広がる。だから、諸侯はこの日のために何ヶ月も前から入念に準備をし、当日は()()しく飾り立てた武者達を率いて足並みのそろった隊列を披露して、自家の武威を誇示するのだ。

 赤や青の糸で縫い上げ黄金で飾った(よろい)(かぶと)に身を包んだ武者の群れが、磨き上げた槍や刀を(きら)めかせて広場いっぱいに整列したところは実に壮観で、光姫は武守家の威光をまざまざと見せ付けられる思いがしたものだ。今年は元狼公(げんろうこう)が年少ということで、櫓門(やぐらもん)の物見台には国母である芳姫も一緒に立って諸侯の拝礼を受けていた。

「聞きましたよ。美人姉妹のどちらがより魅力的か、総馬揃えを見物した都人の間で意見が分かれたとか」

「とんでもないことです。姉にはとてもかないません」

 光姫は本心を答えた。

「いえいえ、梅枝勢の先頭に立って八百七十人の武者を率いていらっしゃった光姫様は本当にお綺麗でご立派でしたよ。薄桃色の上衣(じょうい)(はかま)に下垂れ付きの赤と白の胴鎧がよくお似合いで、薄桃色の鉢巻きを締めて(かぶと)を被り、背に弓、手に薙刀で(あかがね)色の大きな馬にまたがったところは、戦狼の世の女武者もかくやという凛々しさでした。もちろん、(あか)い晴れ着の国母様も非常にお美しかったですが」

 容姿については見合いで散々話題にされたのでほめられても少しもうれしくなかったが、英綱の言葉に他意がないことは分かるので微笑んでいられた。封主家の子弟の中には露骨なお世辞を言って機嫌を取ろうとする者も少なくなく、光姫は何度も馬鹿にするなと怒鳴り付けたくなったのだ。侍女のお牧は「半分は本気でおっしゃっておいでだったのですよ」と言い、餅分(もちわけ)具総(ともふさ)も「姫様のお姿を目にした途端、目の色を変える若君は多うございます」と頷いていたが、二人の姉の美貌を見慣れている光姫は到底喜べなかった。

「ご覧になっていたのですか」

「ええ。花を見るか、武者を見るか、美人姉妹を見るかと騒がれたお方ですからね。実は私もあの行列に参加していたのです。兄が病気ですので」

 英綱の兄の致綱(むねつな)は最近持病が重くなって体が言うことを聞かないらしい。そこで、都へ出てこられない当主にかわって英綱が蓮山家二十五万貫の武者を率いたのだという。

「総馬揃えだけではありません。桜祭(さくらまつり)の話も聞きましたよ。職人と一緒に花火を上げたそうですね」

 春始節(しゅんしせつ)は皆が一つ年を取り新しい一年が始まる日だ。早朝から玉都の南にある真澄(ますみ)大社で宗皇や公家(くげ)達によって狼神(ろうしん)を祭る儀式が、昼に望天城で総馬揃えが行われるが、夕方には再び真澄池(ますみいけ)のほとりへ公家や諸侯から町人までが集まって大観桜会(かんおうかい)が催される。大きな池の周囲にはこう(こう)篝火(かがりび)()かれ、提灯(ちょうちん)幟旗(のぼりばた)で飾られた出店が軒を連ねて、春を楽しみ花を()でる人々で大いににぎわう。

 芳姫に誘われて参加した光姫は、始めの内は次々に現れて案内を申し出る封主家の子弟を退けて、姉や豊梨実護や実鏡と武守家の幔幕(まんまく)の中で茶を飲んでいたが、途中で見に行きたくてうずうずしている妹に気が付いた芳姫の許しをもらうと、姉のそばを離れて人混みへ突撃した。付いていくと言い張った実鏡や侍女達を引き連れて出店をのぞき、漫才や居合いの芸を見物し、踊りの輪にも加わった光姫は大はしゃぎで、薄桃色の打掛姿の鮮やかさに周囲の人々が振り返るのも気にせず、手に団子の串を数本持って花の間を走り回った。隠湖国(こもりうみのくに)からやってきた象の芸を見てその大きさに魅せられ、背中に乗せてもらいさえした光姫は、くたびれ切ったお牧達がとうとう音を上げるまで動き詰めだった。

 この祭の最大の呼び物は最後に打ち上げられる一万発の花火で、水の澄んだ大きな池と数万本の満開の桜にかぶさるように次々と広がる大輪の花の輝きに、光姫も熱い甘酒をすすりながら寒さを忘れて見入ったものだ。とりわけ、名物町人不動屋(ゆるがずや)大五郎(だいごろう)の四号玉は真澄池全体を覆うかのような巨大さで、花火を見るのが初めての光姫はびっくりした。桜の花や狼の頭や羽を広げた鴉の形をした花火まであり、その仕組みに興味を持った光姫は、打ち上げるところが見たいと発射場に乗り込み、大五郎に気に入られて花火の筒に火を付ける体験までさせてもらった。祭の終わり頃になってようやく戻ってきた光姫の豪華な晴れ着が真っ黒になっているのを見て実護は大笑いし、芳姫は苦笑しながら顔の(すす)をぬぐってくれたのだった。

「そんなに評判になっているのですか」

「ええ、花婿捜しの姫君のお転婆ぶりはもうすっかり知れ渡っていますよ。次は何をするかと都で毎日噂になっているとか」

 そこまで言われると、さすがに光姫も笑うしかなかった。

 その後も二人は他愛ない話をしばらく続け、頃合いと見て家臣達が入ってくると、話を切り上げて建物を出た。

「光姫様にふさわしいお方が見付かることをお祈りしています」

 実護や実鏡と一緒に武芸修練場の門まで送ってくれた英綱は、そう言って別れを告げた。祖父と従弟(いとこ)に礼を述べ、もう一度英綱にお辞儀をして駕籠(かご)に乗り込んだ光姫は、最後がこの人でよかったと思った。彼のような人を断ることで、むしろ結婚に踏ん切りが付いたかも知れなかった。

 光姫の気持ちに関わりなく、今ごろ故郷の父は諸侯の子弟の情報を集めて、これまでに会った数多い若様達の中から、戦狼の世を生き抜いた名門武家の跡継ぎにふさわしい若者を絞り込んでいるはずだった。やさしい父のことだから、光姫が嫌だという相手を無理に押し付けるようなことはしないだろうが、あまりわがままを言うこともできない。帰郷すれば婚儀は遠くないと思われた。

 揺れる駕籠の小窓から見える街の桜はもうすっかり葉だけになっている。光姫は何のゆえとも分からぬ溜め息を吐いて、春の青空をぼんやりと眺めた。


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