第九章 それぞれの道 一
第九章 それぞれの道
一
たちまち戦場は大混乱になった。
禎傑巍山連合軍は完全に不意を突かれた。というのも、連合軍の見張り役の者達は、花火を見ても寝ている仲間を起こさなかったからだ。
こんな場所で花火が上がるのは怪しかった。夜襲の合図ではないかと疑った。だが、鴉や狼や桜といっためでたい模様はいかにも平和的で、民の遊びかも知れないとも思った。もし違っていたら、そんなことに驚いて大騒ぎした臆病者と笑われて、主君から叱られるのは目に見えている。
万が一本当に奇襲だった場合を考えて即座に起こせばよかったと世の人々は言うかも知れないが、自分がその場にいたらそうできただろうか。彼等は確かに夜襲を警戒していたが、それは都を陥落させるまでは友軍のはずの少し離れて宿営している十万からのものであり、裏手の方角からではなかった。腹の据わった者が「俺が責任を取るから今すぐ全員を叩き起こせ!」と命令でもしない限り、ためらって上役に判断を押し付けようとするのは自然なことだった。そして、上役達は他の部隊が動くかどうかを判断の基準にしようとした。そのわずかな時間が奇襲を成功させたのだ。
こういうわけで、二十万の連合軍は突然湧き起こった雄叫びと次々に飛び込んでくる矢や焙烙玉、あちらこちらで発生した火災に慌てふためくことになった。武者や兵士達はすぐさま飛び起きたが、既に陣内に奇襲部隊が突入していて、甲冑を身に着ける余裕はなかった。
もちろん、こうした事態に備えて起きている兵士が両軍に各一万五千人いた。その内五千ずつが丹浪川の橋を共同で見張り、一万がそれぞれの陣地の五、六ヶ所の出入口を守っていた。巍山軍の襲撃を担当した光姫達は、その門の内三つへ殺到した。
守備側は抵抗しようとしたが、門一つ当たりの守備兵は二千程度で、光姫達は三倍で襲いかかった。しかも、敵が禎傑軍ではなく裏手からの攻撃だったので、他の門の武者達は状況がつかめず援軍を送れなかった。慌てて防御陣を組もうとしたが既に遅く、光姫と銀炎丸を先頭にした騎馬武者達が一斉に矢を射込み、焙烙玉を投げ付けて一気に突撃すると、なすすべもなく蹴散らされ、あっさりと通過を許してしまった。
門を確保すると、いつもの半分の長さにした槍を持った武者達は、陣内に駆け込んで辺りの天幕など燃えそうなものに片っ端から焙烙玉を投げ付けた。雄叫びを上げて陣内を駆け回り、あらゆるものを槍で切り裂き、ひっくり返し、袖に白い布がない武者には問答無用で切り付けた。華姫の提案で木を切ってきたばかりだったので、あちこちに板がや切れ端が積み上げてあり、燃やすものには不自由しなかった。馬がつないである場所には干し草が大量にあって煙がたくさん出たし、綱を切ると火に怯えた馬達は勝手に陣内を走り回り、あちらこちらで寝惚け眼の武者を蹴飛ばした。
陣内各所でこうして暴れ回りながら、影岡軍の武者達は大声で叫んだ。
「白狼の光姫が攻めてきたぞ!」
「敵は五万の大軍だ!」
驚いた巍山軍の武者達は耳を澄ませて狼の声を聞き、青ざめた。しかも、そこへ、別な声が聞こえてきた。
「恵国軍も攻めてきたぞ! 華姫と光姫が手を結んだんだ!」
「もう門が破られたぞ!」
「合わせて十五万にすっかり囲まれた! 早く逃げないと全滅するぞ!」
武者達は慌てて自分の天幕を飛び出したが、方々で上がる炎と漂う煙、敵か味方か分からぬ者達が叫びながら駆け回っている状況の中、主君の元に集合するのさえ一苦労だった。
そこへ、東から都守備軍が丹浪川を渡って到着した。都に残った京師守護所勢五千を除く二万三千は、半分に分かれて禎傑軍と巍山軍の陣地を襲い、反対側の門を一気に破って内部に突入し、手当たり次第に攻撃を始めた。
丹浪川の橋は連合軍一万が守っていたのにどうやって渡ったのか。橋の封鎖を予想していた恒誠が、下流に新しい橋を架けさせたのだ。
玉都港には多数の桟橋がある。その中には、丸太を並べて上に板を張った長い浮桟橋もある。それを六つ多数の小舟で曳いて密かに港を離れ、河口近くの海で灯りを消して待機していた。鴉と狼の花火が見えると小舟は動き出し、流れのゆるい広い河口で三つをつなげて一本にし、継ぎ目に板を敷き、重りを水中に投じて橋を二本架けた。
これを実行したのは、港の熟練の漕ぎ手達だった。彼等は港に到着した船を小舟で引っ張り、素早く桟橋に横付けするのが仕事だ。浮桟橋一つを四隻で担当したのだ。
仮設の橋を御廻組の騎馬隊三千が真っ先に渡り、北上して、橋を守る部隊の側面を襲った。しかも、背後を別な二千が攻撃した。彼等は多数の小舟で港を出て浜辺に上陸していたのだ。更に、正面から橋を進んだ部隊が突撃した。楠島家の軍船が三隻、川をさかのぼって橋のそばに碇を下ろし、弓で支援した。
橋の守備部隊は、敵が既に別な場所で渡河を始めていて、橋を守る意味が薄くなったことを知った。しかも、後方では本陣が襲われている。彼等は持ち場を放棄する決断をし、本陣の救援に向かったが、御廻組の一部に激しい追撃を受けて多数の損害を出した。
都から新手が襲来したという情報は、様々な尾ひれを増やしながら陣内を駆け巡った。巍山軍は一層混乱したが、それに追い打ちをかけたのは、この叫び声だった。
「一部の封主家が巍山公を見限り、光姫に味方しているぞ!」
そんな馬鹿な、と思いつつも、武者達は動揺した。諸侯の半数以上は渋々巍山に従っているだけで、本当は都攻めを嫌がっていることを皆知っていた。それに、影岡城を救うために勝手に都を出て駆け付けた若者達がこの陣内にいる。彼等は冷遇されているので、寝返る可能性は高かった。
その考えを裏付ける声も聞こえてきた。
「我等は譜代の名門蓮山家の軍勢だ! 元狼公様に弓を引いた報いを与えてくれん!」
「俺達は蕨里家の武者だ! 寝坊助どもめ、覚悟せよ!」
「新芹家の精鋭、ここに見参!」
それらの声は他の諸侯にも寝返るように誘っていた。
「心ある封主よ、武者達よ! 吼狼国を救うため、我等に味方せよ!」
「都攻めに加担した罪を償うのは今ぞ!」
返答もあった。
「分かった! 当家も譜代だ。これより、元狼公直孝様にお味方する!」
「楡本家も影岡軍と共に戦うぞ! 我等七家が巍山公に下ったのは、織藤公と示し合わせてのことだったのだ! さあ、内部で暴れるぞ!」
「この時を待っていた! 都攻めは気乗りしなかったんだ! 今より巍山は敵だ! 全員、攻撃を開始せよ! 構わん、適当にそこらの諸侯の陣へ攻めかかれ!」
嘘か真か、次々に寝返りを誓う声が上がる。それどころか、自家の名で巍山に敵対することを宣言している者までいる。それは偽者だ、俺達はここにいると思っても、他家は信じたかも知れない。近寄れば攻撃される可能性があり、各家は自力で事態に対処するしかなくなった。
その上、耳に飛び込んでくる噂は武者達を怯えさせるものばかりだった。
「勇名高いあの武将が討ち死にされた! 武芸に秀でたかの武者頭も重傷を負ったそうだ!」
「剛力無双の豪傑が光姫に一矢で殺された! あの女は化け物だ!」
「狼が次々に武者を噛み殺しているぞ! もう百人以上がやられたらしい! 早く逃げないとこっちへ来るぞ!」
「名軍師織藤公の作戦が完全に的中した! もう我々に勝ち目は全くないんだ!」
終いには、こんな悲鳴まで聞こえてきた。
「あの家も隣の封主家も陣を捨てて逃げ出した!」
「既にニ十家以上が降伏し、抵抗しているのはもう半数もいないそうだ!」
「遂に鷲松家が撤退を始めたぞ! 我等を見捨てて逃げるつもりだ! もうこの戦は負けが決まった!」
「ぎ、巍山公が討ち死にされた! 本陣を包囲されて逃げられなかったようだ。これ以上の抵抗は意味がない! すぐに降伏しよう!」
あり得ない、と思うが、不安はどんどん膨らんでいく。夜の闇の中、広い陣内を大勢が動き回っていて、状況がつかめない。どの情報が正確でどれが間違っているのか判断が付かないのだ。
しかも、この噂は全くの嘘ではなかった。影岡城を救うために都を飛び出して駆け付けた十五家の内、英綱達三人を除く十二家の若様に、光姫達は奇襲を知らせる手紙を送り、内応するように呼びかけていたのだ。蓮山家の使者は巍山軍の陣内へ先に堂々と入っていて、襲撃開始と同時に若様達に面会を求めて書簡を渡し、味方するように求めた。半数がすぐに応じ、残りも状況を見て巍山軍を見限った。
実は、陣地の門があっさりと破られたのは、彼等が守備の武者達を背後から襲ったからだった。この動きには鷹名家の一千五百も加わっていた。鷹名敏方は玉都を出る時は参加できないと断ったが、友人の英綱は彼が本心では加わりたかったことを分かっていたので、十五人の仲間以外で唯一、彼にも伝令を送った。他家への書簡は芳姫・直孝と御前衆全員、光姫・恒誠・実鏡の署名が既に入れてあって、最後に英綱達三人が名を書いたものだったが、鷹名家には英綱が自筆の手紙を添えて、君には特別に声をかけた、共に国を救おう、と誘った。敏方は友人の心遣いに感謝し、家老達を説得して門を破るのに協力したのだ。
こうして、影岡軍一万一千と都の東方軍の半数一万一千五百に加えて十六家の武者二万六千以上が陣内を駆け回ることになった。しかも、恒誠はいろいろな諸侯の家紋の旗を作らせて武者達に持たせていたし、恵国語で「巍山を倒せ!」「敵将討ち取ったり!」と叫ぶ者達まで用意していた。
陣内が大混乱したところで、光姫達は若様達にそれを助長する役目を任せ、影岡軍と東方軍で鷲松家の本陣を襲撃した。今回は百人隊を五つくっ付けた五百人を基本とする陣形を組み、三方から攻めたてた。
巍山はとっくに目を覚まして甲冑を身に着けていたが、影岡軍の攻撃を持ちこたえるのは無理と判断し、一時離脱を決断した。武者達が慌てていて力が出せそうにないし、この場を無理に収集しようとするよりも、陣地を出て少し離れたところで体勢を立て直し、状況が落ち着くのを待って反撃に転じた方がよいと思ったのだ。
敵は光姫達のようで禎傑軍はいないらしいと分かったが、もしこれに乗じて攻めてきたら大変なことになる。都守備軍は巍山軍の半数以下で、混乱が収まれば負けるはずがない。鷲松家が動けば他の諸侯も外に出てくるに違いなく、そうなれば敵味方がはっきりして、戦うべき相手と信じてよい者達が自然と分かる。
巍山は騎乗して撤退を命じると、背後を固める陣形を組んで、門へ向けて移動を開始した。さすがに三万人が動くと目立ったが、巍山は武者達を上手くまとめ、脱落者を出さずに出口へ進んでいった。
これを見て、恒誠は追撃の指示を出した。
「巍山が逃げていくぞ! すぐに追いかけろ!」
そして、用意していた言葉を叫んだ。
「守国軍の諸侯に告げる! 鷲松巍山は尻尾を巻いて逃げ出した。追撃に加わった封主家は罪を許し、所領を安堵することを元狼公と国母の名で約束する!」
同じ文句を、一万人が声をそろえて復唱した。
続いて、実鏡も叫んだ。
「巍山を討ち取った者は武功第一です! 大幅な加増と統国府での高い地位を約束します!」
これも武者達が繰り返し、英綱達も陣内に触れて回った。
「馬鹿な。そんな言葉に騙される者がいるものか」
巍山は吐き捨てるように言って馬を進めていったが、鷲松家が逃げ出そうとしているという情報はあっという間に陣内に広がり、諸侯に大きな衝撃を与えた。
しかし、諸侯は迷い、動かなかった。どれだけの家がこれに応じるのかと疑ったのだ。暗くて戦場全体の様子は分からないが、攻め込んできた側が少数なのははっきりしていた。名将巍山が簡単に負けるはずがないという信頼もあった。
光姫は覚悟を決め、大声で命じた。
「ならば、私がその一番の手柄を頂きます。今が巍山を討つ好機なのよ! 影岡軍、前進! 銀炎丸、行くわよ!」
狼が長く遠吠えし、主従は駆け出した。すぐさま輝隆や従寿達騎馬隊が続き、鷲松勢の後部に噛み付いた。
「ええい、振り切れ! さっさと脱出するぞ!」
巍山は苛立ち、とにかく外に出ようと武者達を急がせた。だが、門は守りやすいように小さく作られていて一度に大勢は通れない。自然、門の前で渋滞し、追いかけてきた光姫達に包囲される形になった。
「盾隊、投擲せよ!」
恒誠は残りの焙烙玉を全て投げ込ませて矢を浴びせた。狭い場所に大勢が集まっているのでよく当たる。鷲松勢は多数の負傷者を出し、隊列は崩壊した。門の周囲の柵が壊れると、武者達は我先にと外へ逃げ出した。
光姫達もすぐに門を出て、隊列を整えると後を追った。諸侯はまだ動かない。味方は二万と少しだ。このままでは広い場所で三万の鷲松勢と戦うことになり、不利は否めなかった。
「全軍、総攻撃! 巍山を逃がすな! 敵に陣形を作らせるな!」
「頑張って! 勝利までもう少しよ!」
手をゆるめて敵に一息吐かせたら勝ち目はなくなる。ここが踏ん張りどころと、恒誠が大声を張り上げ、光姫が武者達を励ました時、夜が明けた。
東の空が明るくなり、戦場が照らし出された。神雲山が赤い朝日に輝き、上部が冠雪と神雲で白く、下部は紅葉に彩られた神々しい姿が空に鮮やかに浮かび上がった。
その眼下で、秋の色に染まった広い野原を、鷲松勢は隊列もなくばらばらになって走って逃げていく。美しい少女と銀色の狼を先頭にした軍勢がそれを追いかけている。どちらが優勢でどちらが押されているか、人々の目にはっきりと見えた。巍山自身は一旦安全な場所に引いただけのつもりだったが、名将の軍勢の無様な逃走ぶりは諸将に衝撃を与えた。
これが勝敗を決定付けた。一部の諸侯が巍山軍を離反する決心をしたのだ。
この頃にはようやくそれぞれの家ごとに武者が集まり始めていた。その内の数家が、「元狼公直孝様にお味方する!」と叫んで陣地を出て、鷲松勢追撃に加わった。光姫達は「ありがとう! あなた達の協力は忘れない!」と叫び返した。
その時、玉都の城壁に山花獣鳥、四尊合一の大御旗が翻った。気が付いた一部の軍勢からどよめきが起こり、それは戦場全体に広がった。
これをきっかけに、ほとんどの諸侯が巍山を見限った。英綱達と戦っていた封主家もそれを中止し、光姫達に使者を送ると、隊列を組み直して巍山の追撃に向かった。鷲松家と親しい封主家にとって、宗皇陛下のご意向はこれ以上ない寝返りの口実だった。
巍山は軍勢を止めて武者をまとめ、陣形を整えようとしたが、そこへ多数の封主家が次々に駆け付けてきて攻撃をかけた。巍山は驚き、守りを固めつつ使者を送って諸侯を説得しようとしたが、封主家の数はどんどん増え、鷲松家の倍を超える数で包囲して、四方から攻め立てた。
戦の勝敗が定まった以上、積極的に働いて元狼公と国母の心証を少しでもよくしたいと思うのは当然のことだ。彼等は都攻めに参加したので、処分を恐れていたのだ。
鷲松勢は手柄を焦る諸侯に包囲されて押しまくられ、防戦一方になった。鷲松家の武者達は大御旗に驚き、敵の中に縁戚や巍山に大恩があるはずの封主家が多数交じっているのを見て、もはや勝ち目はないと、持ち場を離れて逃げ出した。巍山は敗北を悟り、撤退せざるを得なくなった。
執拗な追撃を受けて鷲松家の武者は多数が討ち取られるか降伏し、巍山はかろうじて一万だけを率いて首の国へ逃げていった。
巍山の敗北が決定的になると、恒誠は抵抗を続ける部隊の包囲と捕虜の監視に二万を残し、残りを率いて禎傑軍の陣に向かった。
こちらを襲っていたのは北方軍と東方軍の半数だった。禎傑軍を奇襲することには成功したものの、激しい抵抗にあって苦戦していた。
これは予想されていたことだった。というのは、巍山軍と違って将軍や兵士の離反は期待できず、混乱させる工作も恵国人の中に吼狼国人を潜入させることになって、やりにくかったからだ。それに、そもそも、栄木国から街道を封鎖している部隊を突破して藍生原に到達することが困難だった。
六国街道にいたのは、雉田家三千、殿軍家一千、禎傑軍の于旋隊六千の計一万だった。祉原国と栄木国の境目は東西から山並みと深い森が迫って平地が狭い。彼等はその少し北の四方辻と呼ばれる宿場町に陣を張っていた。西へ非木家の領地に向かう街道が、東へは丹浪川を越えて栄木国東部へつながる道が分岐している場所だ。その先は街道の両脇の深い森が少しずつ遠ざかって畑地に変わっていくが、宿場の付近はまだ草地がさほど広くなかった。
西国街道の蓮山英綱達の陣地は文莫率いる禎傑軍のそれから距離を置いていたが、雉田元潔達は于旋と比較的上手くやっていて、三つの軍勢は隣り合って宿陣していた。相手の方が数が多く戦になったら不利だし、近くに泉代家の軍勢二千五百が布陣していたので、いざという時于旋が信用できないとやりにくい。内宰だった元潔も巍山に任じられた新財務裁事の殿軍益吉も戦には疎く、経験豊富な禎傑軍の将軍を上手に利用したかったのだ。
一方、泉代勢は二手に分かれていた。六国街道を少し北上した先で、一千五百が中心の町緑央への道を塞いでいる。四方辻から東へ伸びる街道上には、丹浪川にかかる橋の手前に、栄木国東部への侵入を防ぐように一千がいた。形だけ見ると連合軍を北と東から挟んでいるが、数が少なく領地を守っているだけのようなので、近付かない限り戦いになる可能性は低かった。
『花の戦記』 栄木国合戦図 その一
こういうわけで、連合軍の三将は元潔達から頼んで毎朝宿場の一番大きな宿で顔を合わせ、情報を共有していたが、あまり緊迫した雰囲気はなかった。ところが、菊月六日の夕刻になって、急報がもたらされた。
「何? 何と申した?」
呼ばれて宿屋の広間に駆け付けた元潔は、物見の武者に思わず聞き返した。殿軍益吉も、通訳から意味を聞いた于旋も耳を疑う顔をしている。
「ぞ、象でございます。北方の泉代勢の陣に多数の象が現れました。数えたところ、百五十二頭おりました」
一緒に行動していた禎傑軍の物見兵も頷いている。
「象とは、動物の象か」
于旋が確認した。
「そうじゃ。隠湖国におる。藺の湖のほとりの森で暮らしておるのじゃ」
元潔が考えながら答えた。
「象の飼育役は御廻組の配下じゃ。援軍が来たのかも知れぬな」
呆けていた殿軍益吉が慌てて物見武者に尋ねた。
「敵は増えていたか」
「はい。一千名増えて二千五百になっておりました。御廻組の桜紋の旗がいくつも見えました」
「やはりな」
元潔は予想通りと頷いたが、殿軍益吉はどうにも不可解だという顔つきだった。
「なぜ御廻組が……。しかも象とは。どういうことでしょうか」
「恐らく、都から来たのじゃろうな。馬駆国から北上して大回りしたのじゃ。隠湖国に武者はおらんからのう」
この奥まった国は名目上武守家の御料地だが、古来二十九万貫の収入は全て皇家のものになると決まっている。武守家は管理しているだけで、最低限の警備の武者しかいなかった。
「都から……。となると、織藤恒誠の策ですな」
益吉は不安そうな表情になった。先祖が戦上手で殿軍の姓を主君から賜ったのだが、彼自身は武芸が苦手で、見た目も算盤や帳簿の方が似合う。領内開発に成功した手腕を見込まれて巍山に財務裁事に任命されたが、文武応諮時代から商業関係の法度の改正案を持ち込んで働きかけるなど、もう五十五なのに加増と出世への意欲は強かった。だから、この戦にも絶対に勝ちたいと思っていた。
それを元潔は分かっていたので、安心させるように言った。
「あの象はまず攻めては来ぬよ。心配はいらぬ」
于旋が尋ねた。
「なぜそう分かる」
「象は軍用という名目で御廻組が管理しておるが、戦に使われたのはもう随分昔じゃ。実際は古くから歌や書籍に頻繁に登場する動物を絶やさぬのが目的なのじゃ。国中であの地にしかおらぬ貴重な生き残りじゃからな。四百頭ほどおるそうじゃが、ほとんどは餌をやるだけの放し飼いで、しっかり調教したものはニ十頭程度。それも、桜祭などで見世物にするために芸を仕込んでおるだけじゃ。他の象も進めや止まれくらいは指示できようが、戦に使うのは現実的ではないな」
「ということは、ただの飾りか」
「じゃろうな。わざと見せ付けて、こちらへ攻めてくるな、来たらこいつらをぶつけて踏み潰すぞと脅しておるのじゃな。恐らく、六国街道を封鎖して巍山公への援軍や兵糧を止めたいが、都から多くの兵を動かすことはできぬゆえ、困って象なんぞを持ち出したのじゃろう」
「なるほど。確かに、攻めてくるには武者の数が少な過ぎますな。敵は増えたといっても合わせて三千五百、こちらの三分の一ですからな」
益吉はほっとした顔になった。于旋も元潔の説明に一応は納得したらしい。頷いて言った。
「よし。では、警戒を厳重にして、このまま様子を見よう。もし敵にそれ以上の動きがあるようなら、司令官殿下と巍山殿に伝令を走らせて指示を仰いだ方がよいだろうが、今はまだ援軍を求めるほどではあるまい。明日の定期連絡で伝えれば十分だろう」
「そうじゃな。栄木国方面は我等に任されておる。巍山殿や禎傑殿下のお心を煩わせるほどのこともあるまい。頼るのは、もっと危険が大きくなってからでよい」
「織藤恒誠は都の防衛で手一杯のはず。自分がいない方面の戦にまで手が回りますまい。だから、象などという虚仮威しを使ってきたのでしょうな」
益吉は自分を落ち着かせるように言った。
「では、念のため、北側の物見を増やそう」
そう于旋が提案し、二人が同意した時、新たな伝令が駆け込んできた。
「ぞ、象が、横一列に並んで前進してきます」
「なんじゃと!」
元潔は思わず大声を上げてしまった。が、すぐに失態だったと気が付いて、こほんと咳払いすると、武者に尋ねた。
「状況を詳しく申せ!」
焦った様子の伝令武者は早口に報告した。
「百五十二頭の象がゆっくりと南下を始めました。六国街道上の二千五百がその後ろにぴったりとくっ付いて接近してきます。敵は攻撃陣形を取っており、象をけしかけて混乱させた後、突撃してくるものと推測されます」
「どうやら敵は本気のようだ。こちらも防御陣形を作るべきだな」
于旋が冷ややかな口調で言った。戦慣れしていない二人の封主を信用していないのだ。元潔は一瞬不愉快そうな顔をしたが頷き、益吉が青い顔で全軍に戦闘準備を命じた。すぐに外で武者や兵士が慌ただしく走り回る音や声が聞こえ出し、戦いの始まる緊張が部屋の中にまで伝わってきた。
三人は戦闘の進め方を確認すると宿屋を出た。既に日は沈み、辺りの森は真っ暗だった。元潔も足早に自隊に向かったが、途中何度も首を傾げた。
「馬鹿な、この状況で攻撃じゃと? 象がいるとて、勝ち目は薄かろうに。ここで我等と戦って何の得があるのじゃ。これも織藤恒誠の策じゃろうか」
全てが敵軍師の思惑通りに進んでいるような嫌な予感を覚えて、元潔は眉をひそめた。
雉田家三千人は北を前にした陣形を既に作り終えていた。三隊は隣り合って並び、東の橋へ続く道の方に殿軍家一千が、西の非木家領へ向かう道の方には于旋隊六千がいる。
正面の敵は一気に駆けてこられる距離で停止していた。象の群れも歩みを止めている。生きた重く厚い壁は街道沿いに広がる細長い畑地を塞ぐように東西に長く並び、武者達に無言の威圧を加えてくる。背の上の乗り手達が掲げる灯りに照らされて、宵闇の中に浮かぶ巨体は一層大きく見え、恐ろしさと凶暴さが強調されていた。
「象が来たら無理に抵抗せず、素通りさせよ」
元潔は武者達に伝えさせた。
「象は突進を始めれば急には止まれぬ。小回りも利かず、向きを変えて戻って来るまで時間がかかる。その間に主力である敵の本隊を叩き、象は後でゆっくり料理すればよいのじゃ」
あの巨体にまともにぶつかれば多くの死傷者が出る。操っているのは武者ではなく象使いの民なので、包囲して脅し、安全を保証すれば簡単に降伏するだろう。
そう言われて、武者達はほっとした表情になった。他家同様初陣の者が大部分を占めているのだ。
だが、そこへまた伝令が到着した。
「ご報告致します! 東の橋の手前にいた泉代勢が前進を始めました。少しずつ接近してきます!」
「なるほど、挟み撃ちにするつもりか」
元潔は敵の策を察した。象で混乱させて、北と東から同時に襲うつもりなのだろう。
「じゃが、そちらの敵は一千程度。恐れることはない。殿軍家が阻んでくれるじゃろう。名前の通り武勇の家柄じゃからのう」
武者達を安心させるように元潔はわざと大声で言った。
東方の敵もやや離れたところで動きを止めて、突撃の合図を待つかのように、攻撃態勢をとった。象達は今にも攻めてきそうな気配だった。
だが、攻撃はなかなか始まらなかった。連合軍の武者達は深呼吸し、槍をしっかりと握り、周囲の仲間達と目配せを交わしながら身構えていたが、敵は両軍ともそのまま動かなかった。
しばらくにらみ合いが続くと、雉田家の武者達は疲れてきた。ここは命のやり取りをする戦場だ。しかも多くが初陣だ。緊張や恐怖は膝が震えそうなほどで、手の平は汗びっしょりだ。そんな気持ちの状態を長く維持するのは難しい。
このまま攻めてこないのではないか。やはり象はただの脅しだったようだ。
連合軍の一万の武者達が思い、やや気をゆるめた時、突然、背後の南側で、鬨の声が上がった。
元潔は慌てて後ろを振り返った。祉原国との境は東西から山並みが伸びてきて峠のようにやや高くなっているが、その坂を多数のたいまつが駆け下ってくる。夜なので正確には分からないが、光の数からすると一千はいそうだった。
「しまった! 背後に回られたか!」
元潔は歯噛みした。
「退路を断たれた! 巍山殿と切り離されて孤立するぞ!」
恐らく新たな敵は北から六国街道の東の森の中を進んできて、獣道を通って元潔達の後ろへ回ったに違いない。東の一千が守りやすい橋の対岸ではなくこちらの岸にいたのは、その背に橋の前を通過する味方を隠すためだったのだ。前にいる象に気を取られて、背後への警戒がおろそかになっていた。
「これで三方から囲まれたか!」
元潔は思わず声が震えた。敵はまだ合計で四千五百、こちらの半分だが、包囲されると厳しい戦いになるかも知れない。元潔は武公の生活の面倒を見る役目で出世し、戦場にはほとんど出たことがないので、こういう状況に慣れていなかった。
「ま、まだ脅しかも知れぬ! 一千を後ろに向けて背後を守らせよ。もちろん、念のためじゃ!」
無理に平気そうな顔を作ろうとした時、象達が一斉に吼えた。太い、深い、重い声が辺りの森に響き渡った。
そして、象の群れは一斉に動き出した。荒々しく恐ろしい叫び声を上げ、地響きを立てて百五十二頭が突進してくる。二千五百の武者がそれに続いた。同時に、東の一千も側面を衝くべく進んでくる。背後からは鬨の声を上げて一千が迫る。
武者達は震え上がった。あの巨体が真っ直ぐこちらへ駆けてくる。背後と右手を敵に塞がれて身動きもままならないところへ突入されたら、何人が踏み潰されることか。ただでさえ、雉田勢は左右を味方に挟まれて動きにくいのだ。そこへ敵の突撃だ。今すぐ逃げるべきではないか。初陣ばかりの武者達は目で訴えていた。
「ここで撤退しては巍山殿に合わせる顔がない!」
元潔は勇気を振り絞って叫んだ。
「背後の新手を合わせても敵はこちらの半数程度。裏手と側面は少数じゃ。守りを固めておれば、我等は簡単には負けぬ。正面の敵を打ち破れば敵は引いていくはずじゃ。皆、まずは象に備えよ!」
既に武者達は逃げ腰だったが、主君に命じられて仕方なく槍を構えようとした。
その時、宿屋の二階で物見の武者が大声で叫んだ。
「て、敵に援軍だ! 橋の向こうにどこまでもたいまつの列が続いている! 一万以上はいるぞ!」
これは萩矢頼統と槻岡良門が率いる北方奇襲軍の本隊一万一千だった。隠湖国から栄木国へ入った後、泉代家の本城である緑央城へは向かわず、南下して丹浪川の対岸の町で休んでいたのだ。橋の前に泉代家の部隊が布陣していたのは、橋向こうの軍勢の存在を連合軍に知られぬためでもあった。他の橋はずっと北にあるため、物見兵や間諜に発見されても、元潔達に情報が届く前に四方辻へ到達できたのだ。対岸で味方の攻撃が始まったところで、存在を誇示するために一斉にたいまつを灯したのだった。
誰かが叫んだ。
「敵の数は俺達を大きく上回った! 包囲され、象に踏み潰されて大混乱したところへ、大軍が攻め寄せてくるぞ!」
この一言が武者達の闘志の炎を完全に吹き消した。まだ勝てると思っていた者達も、味方の総数を超える敵の新手が間もなく到着すると聞いて絶望した。
象はもう目の前だった。鬨の声もすぐそこだ。ぐずぐずしていたら戦闘が始まり、包囲されて逃げられなくなる。
「もうだめだ! このままでは俺達は全滅する!」
叫んだ声がどちらの家の武者だったのか、雉田勢も殿軍勢も分からなかった。だが、その言葉の必死さと正しさは、全員の感情を揺さぶった。
「逃げろ! 西側が空いている! 非木家領へ逃げ込めば助かるぞ!」
悲鳴のような絶叫を合図に、二家の武者四千は一斉に逃げ始めた。一度走り出すと恐怖が倍増し、敵兵の鬨の声がすぐ後ろを追いかけてくるように感じられて、もう立ち止まることは不可能だった。
「たわけ! 弱気なことを大声で叫ぶでない!」
元潔は叱ったが、既に遅かった。怯えた武者の洪水に巻き込まれて元潔の馬は身動きが取れなくなり、取り残されそうになった二人の封主も後を追わざるを得なかった。
驚いたのは于旋だった。敵に大規模な援軍が来たと通訳に聞いて対策を考えていたら、東隣の二家の武者が隊列に雪崩込んできたのだ。
陣形が乱れたところへ、象の群れが突っ込んできた。慌ててよけさせたが、既に大混乱だった。更に、そこへ、三方から武者が槍をそろえて突撃してきた。于旋は舌打ちしたが、総員西へ逃げろと命じるしかなかった。
泉代家の二千五百と御廻組二千は合流を果たすと、連合軍を追撃した。槻岡勢と萩矢勢合計一万一千は、峠を越えて祉原国へ去っていった。
「しまった。あれは藍生原に向かったに違いない。そのために大きく迂回してきたのじゃな。あれを通してはならなかったのじゃ」
非木家の城下町まで逃げたところで、元潔はようやく泉代家が戦いを挑んできた理由を悟ったが、激しい追撃を受けて多くの者が負傷し、戦力は半分程度にまで減っていた。于旋隊も同様で、一番東にいた殿軍勢は三分の二を失っている。物見に出した者の報告では、泉代勢と御廻組はほとんど損害を出しておらず、象隊と共に四方辻の宿場に陣を張って街道を封鎖しているという。
「なあに、どうせやつらは巍山殿には勝てぬ。一万と少しでは二十万と勝負にならぬわ。後で巍山殿に叱られるじゃろうが、最後にこちらが勝っておればよい。これまでの功績もあるゆえ、わしの地位が危うくなることはなかろう」
とにかく武者達を休ませて負傷者を治療させ、体勢を立て直そう。元潔はそう思ったが、敗走を決定的にした三つの叫び声が恒誠に命じられた間者の演技だったことには気付かなかった。そして、その頃には既に巍山軍は藍生原で負けていたのだった。
『花の戦記』 栄木国合戦図 その二
こうして、北方軍は藍生原に到達し、鴉の花火を上げて禎傑軍の陣地に攻めかかった。奇襲は成功し、不意を衝くことはできた。
だが、華姫は直属の暴波路兵と田美衆に警戒を厳重にさせ、すぐに全員が起きられる体制を取らせていた。知らせを受けた華姫は彼等に全軍を今すぐ叩き起こせと命じると、寝間着のまま本陣の天幕へ駆けていき、敵襲の銅鑼をがんがん鳴らさせた。そして、本陣にいた兵士や武官を暴波路兵と二人一組にして各将軍へ派遣し、守備を担当する門や方面を指示した。
将軍達は敵襲の銅鑼と天幕を一つずつのぞき込んで起きろと叫んでいく異国の者達に驚いたが、夜で戦いの様子が分からない。とりあえず兵士達に武装を命じ集合させていると、持ち場を知らせる使者が駆け付けて来た。使者に暴波路兵が付いてきたので、将軍達は華姫の指示と知り、即座に動いた。華姫の独断の可能性はあったが、禎傑がそれを追認するのは確実だったからだ。
こういうわけで、陣地の各門に破られる前に援軍が駆け付けてきた。華姫は全軍を起こし終えた田美衆と暴波路兵に薪を集めさせて門の前に数ヶ所ずつ大きな焚火を作らせ、鉄砲の弾込めをしやすくした。小さな火だとそばに近寄らないといけないので火薬に引火する危険があるが、大きく燃やせば離れていても明るい。風上で一部の兵士を弾込め専門にさせて、準備のできた鉄砲を戦っている兵士に届けさせた。門が守られ敵の侵入を防いでいるのを見て、慌てていた兵士達も落ち着いてきて、人数が多い禎傑軍が優勢になってきた。
やがて、反対側から東方軍の一万一千五百が現れて攻撃してきたが、既にそちらの門にも兵が配置されていた。華姫は北側の敵が案外少なく、攻めてきた方向から隠湖国を通って大回りしたことを察すると、必ず都からも打って出てくると読んで、守備を固めさせていたのだ。
弾幕を張って奇襲軍の接近を阻止することに成功すると、華姫は兵士達に食料を配らせた。干し飯や干し魚といった携帯食を、戦闘の合間に食べさせたのだ。早朝で兵士達は皆空腹だったし、人間腹にものが入ると気分が落ち着き、元気になるものなのだ。
完全に禎傑軍側が優勢になってきたところで、華姫は作りかけの攻城機の屋根に上がって巍山軍の様子を観察した。状況を見て取ると、寝間着から着替え、禎傑のところへ行って、救いに向かうべきだと提案した。
禎傑は真っ先に起きて側近達と門に駆け付け、兵士達を励まして指揮していた。華姫が次々と事後承諾を求めてくる策には驚いたが、全てに許可を与え、新妻が近付いてくると、信頼の笑みで迎えた。
「やはりあちらも襲われていたか。巍山は危ないのか」
「分からないわ。でも、その可能性は高いと思うの」
華姫は禎傑に干し肉の塊と水筒を差し出して言った。
「私が織藤恒誠なら、巍山軍を先に壊滅させるわ。吼狼国の諸侯には寝返りが期待できる。巍山が負けそうだとなれば、雪崩を打つでしょうね。それに、気が付いたかしら。こちらを攻めているのは光子達ではないわ。あの子は絶対にこの戦いに出てきているはずだから、向こうを攻めているのよ」
禎傑は早速食事にかぶり付きながら、華姫の話を頼もしそうに聞いていた。
「二十万を五万で一気に打ち破るのは奇襲でも相当難しいわ。私なら一方を抑え込んで陣から出られなくしておいて、精鋭で戦慣れしている影岡軍を使って弱い方を先に叩くわ。巍山軍の諸侯を従えたら、彼等の兵数は私達を超えるかも知れない。そうさせないために、今は巍山軍を救うべきよ」
禎傑は驚嘆のまなざしで華姫を見つめて頷いた。
「分かった。華子の言う通りにしよう。お前は涼霊をも上回る軍師かも知れんな」
禎傑はすぐに伝令を出し、高卓に後の指揮を一任すると、鍾霆や馬策と言った攻撃的な将軍の部隊を呼び寄せて、四万を自ら率いて門を出ようとした。
だが、一歩遅かった。門を出た時には、鷲松勢は光姫側に付いた諸侯に包囲されていたのだ。
一緒に出撃してきた華姫は驚き嘆いたが、禎傑に手の国への撤退を進言した。都を落とすことは不可能になった。ならば、ここにいる理由はもうない。鷲松勢が抵抗を続けている間に西国街道へ逃げ込み、穂雲城へ引こう。冬の間に体勢を立て直し、来春再び都を目指すのだ。ここにとどまっていれば包囲されて全滅もあり得る。今ならまだ多くの兵を残して撤退できる。
華姫の提案に、禎傑は腕を組んで考え込んだ。馬策と鍾霆はここで光姫達と決戦して打ち破るべきだと主張し、撤退に反対した。敵の多くは寝返ったばかりだ。能力も忠誠もあまり信用できず、恒誠の思う通りに動かすのは難しい。今なら勝機がある、と。
大御旗を見て降伏した鷲松勢を残して、吼狼国軍の主力は禎傑軍に向かってくる。禎傑はそれをにらんでしばらく黙っていたが、会戦を決断した。
「撤退は性に合わん。ここで引いては再起は難しかろう。乾坤一擲の勝負に賭ける」
華姫は思い直すように説得しようと口を開きかけて、諦めた。確かに、来春再侵攻するといっても、光姫を中心にまとまり恒誠に指揮された大軍と戦って勝てる可能性は低い。吼狼国の征服を成し遂げるためには、賭けに出るしかなかった。
禎傑は華姫や将軍達と相談し、急いで全軍を配置した。陣地内には高卓と二万を残し、右翼の守りとした。攻撃の中心になる左翼には、鍾霆や馬策達四万を置いた。本隊は田美衆や暴波路兵を含めた三万で固め、陣地と右翼をつないで敵の攻撃を食い止める。
戦場は二つの宿陣地の間の草地だ。左翼の鍾霆達は左が巍山軍の陣地で側面を襲われる危険がないため、思い切って前進できる。最も数が多い彼等が敵の攻撃を受け止めて押し返し、吼狼国軍を半包囲する形へ持っていき、呼吸を合わせて右翼と本隊も前進して敵を殲滅する作戦だ。
禎傑軍の動きを見て吼狼国軍も布陣を始めた。合戦に応じるらしい。
恒誠のねらいは分かりやすかった。西北東の三方の奇襲軍四万五千の全てを中軍に集め、左軍二万九千、右軍三万六千には寝返った諸侯を配置している。敵の本陣内の兵力と、攻め寄せてくる禎傑軍の左翼を抑えさせておいて、最も信頼できる精鋭で敵の中央を突破し、分断して打ち破るつもりだろう。
中軍で恒誠が黒い軍配を前に振ると、吼狼国軍の前進が始まった。禎傑軍も動き出し、両軍は野原の真ん中で激しくぶつかり合った。数では九万対十一万と吼狼国軍が優勢だが、初陣の武者が多いので、戦力としては互角だった。両軍は激しくぶつかり合い、槍を突き出し、鉄砲を撃ちかけ、矢を射込み、石を投げ、焙烙玉をまき散らした。
両軍ががっぷりと組み合った激戦に見えたが、やがて吼狼国軍の右軍が少しずつ押され始めた。鍾霆や馬策といった猛将達の苛烈な攻撃に、戦慣れしていない吼狼国武者が耐え切れなくなったのだ。鍾霆は鉄砲を斉射させて敵をひるませると、自分は正面から突撃し、馬策には左から回り込むように側面を狙わせた。これを防ごうと右軍の諸侯は次第に後退し、吼狼国軍の陣形が「く」の字型に折れ曲がってしまった。
「こちらが優勢ね。このまま行けば勝てるはず。なのに、なぜこんなに嫌な予感がするのかしら」
禎傑軍の本隊の中央で、華姫は動く壁の上に立って戦場を眺めながら首を傾げていた。
華姫のつぶやきに禎傑が反応した。
「何が気に入らない。俺達は勝っているではないか」
黄金の鎧の禎傑は先頭に立って剣を振るっていたが、一旦引き上げてきたのだ。
「織藤恒誠は味方の敗勢を分かっているはずなのに、何も手を打とうとしないわ。それがどうにも解せないの」
「だが、今更どうやって盛り返すというのだ。このまま鍾霆達が押し込めば敵陣は折れ曲がり、やがて崩れる。それで勝負は決まるだろう」
「でも、光子が攻めてこないのよ」
「どういうことだ?」
「見て。恒誠のそばにいるでしょう」
光姫は中軍の中央で馬上から督戦していた。実鏡や奥鹿貞備と共に、薙刀を振り回して武者達に声をかけている。いつもの赤と白の鎧に兜をし、桜色の鉢巻きを上から巻いていた。真っ白な着物の華姫同様、男ばかりの戦場で実に目立った。銀色の狼は主君のそばに大人しく控えている。
「なぜあの子はあそこにいるの? 先頭に立って戦いそうなものでしょう」
「機会をうかがっているのではないか。ここぞという時に精鋭を投入して強力な打撃を与え、勝負を決するつもりなのだろう」
禎傑は当たり前だという顔だったが、華姫の不安は去らなかった。
「おかしいわ。何かを見逃している気がするの」
「だが、もうじきこの戦は終わる。見ろ、鍾霆達がどんどん敵を押し下げている。間もなく敵の中軍の背後に出られそうだ」
「そうね。総大将のいる本陣に敵が後ろから殺到して来たら、戦いは負けるわね」
「ああ。織藤恒誠と光姫を逃さぬように、俺達も突撃の用意をした方がよかろう」
禎傑が指示を出そうとした時、華姫が叫んだ。
「そういうこと! やっと違和感の理由が分かったわ!」
「何だったのだ」
禎傑は振り向いて尋ねた。
「銀炎丸が吼えていないのよ。いつも戦場に響いていた猛々しい声が聞こえないわ。光子の足元に大人しく座ったままよ。あの声は武者達を勇気付ける効果があるのに、なぜ吼えさせないのかしら。きっと何かねらいがあるんだわ」
「今更一匹の狼に大したことはできまい」
禎傑はまだ首を傾げていたが、華姫はもう一度念入りに戦場全体を見渡して、南側を指差した。
「ああ、織藤恒誠にやられたわ!」
禎傑はそちらを見て目を見張った。梨の花の家紋や梅花の家紋を掲げた騎馬ばかりの部隊がこちらへまっすぐ向かってくるのだ。ねらいは禎傑軍の本隊の背後を衝くことだろう。
「巍山軍の陣地の裏側に隠れていたのよ。だから気付かなかったんだわ! あれは光子よ!」
三千の騎馬武者を率いているのは光姫だった。お牧や従寿や輝隆もいる。海の側にある巍山軍の陣地を大きく迂回することで、禎傑軍左翼に気付かれずに裏手へ出ることに成功したのだ。
「では、織藤恒誠の隣にいるあれは誰なのだ!」
禎傑の問いの答えを華姫は知るはずもないが、それは楢間福子だった。都にいる間に光姫と同じ形の甲冑を恒誠が作らせていたのだ。巍山軍を攪乱する時、有名な光姫を増やして走らせたらどうかと考えたのだ。実際、それは効果があった。そして、この合戦で敵の背後を襲う役目を光姫に任せるに当たり、福子に替え玉をやらせたのだ。
「あれは偽者だったのね。妹を見間違えるなんて!」
華姫は嘆息し、すぐにそばにいた将軍に迎撃準備をさせたが、間に合うかは分からなかった。
「織藤恒誠は味方の右軍がこちらの左翼に負けると読んでいた。そこで、鍾霆将軍達が前進して本隊の左側が空になったところで、騎馬隊を突っ込ませようと考えた。私達はそれにまんまと乗せられてしまったのよ」
「だが、まだ負けたわけではない。敵はたった三千ではないか。俺がじきじきに迎え撃ってやる」
「駄目よ。私なら、前からも攻めさせるわ」
その言葉通り、吼狼国軍の中軍四万二千は、禎傑軍本隊へ全員で突撃を敢行しようとしていた。
「即席の大軍に細かな動きは難しいわ。織藤恒誠は始めからこの一撃で勝負を決めるつもりだったのね」
光姫が馬を走らせながら笛を吹いた。その甲高い音色を聞いて、銀色の狼が長く遠吠えした。戦場全体にそれが響き渡った瞬間、織藤恒誠が叫んだ。
「中軍の全ての武者に命ずる! 敵本隊に突撃せよ!」
狼の声を合図に武者達は駆け出した。先頭を灰色の大きな狼が行く。光姫に扮した楢間福子が馬で追いかけ、その父や兄、恒誠、槻岡良門や萩矢頼統、ユルップ衆や御廻組が続いた。まるで大神様が白く輝く神獣を介して、武者達を導いているようだった。
「お姉様、ご覚悟!」
狼が恐れおののく恵国兵の頭上を飛び越えるのと同時に、銅疾風に乗った光姫達が禎傑軍の本隊に矢を斉射して背後から突っ込んだ。
「銀炎丸!」
狼はまっしぐらに主人の元に駆け付け、一緒になって禎傑軍の本隊を蹂躙した。
「田美衆のみんな! この私に槍を向けるつもりなの!」
光姫が一喝すると、武者達はためらった。後方を襲われて慌てた兵士達は、前方から押し寄せてくる恒誠達に押されてどんどん後退っていく。ユルップ衆三千人が一斉に投擲用の槍を投げ込み、陣形の乱れを広げた。優勢だった左翼の鍾霆達も、本隊が奇襲されたことに驚き、自分達も背後を襲われるのではないかと恐れて攻撃の勢いが弱まった。更に、禎傑軍の陣地を攻めていた左軍は、火矢を一斉に射こんで牽制すると、半数を敵本隊の攻撃に回した。
合わせて六万の武者が殺到すると、遂に禎傑軍本隊はその勢いを支えきれなくなった。後退はたちまち潰走になり、本隊が崩れると右翼と左翼も敗北を悟って逃走を始めた。
華姫は治業と政資に田美衆と暴波路兵を指揮させて禎傑を守らせ、周謹の本陣警護隊と協力しつつ、戦場から離脱を図った。すぐに光姫達が追撃したが、梅枝家の家臣同士で戦うのは互いに嫌だったので、どちらにもやや遠慮があった。それが幸いして、華姫達は西国街道に逃げ込むことに成功した。
鍾霆と馬策は直属の八千で街道の入口に陣を布き、敵を防いで兵士達の逃走を助けた。彼等の部隊はほぼ全滅し、鍾霆は負傷したものの何とか最後に逃げられたが、馬策は激戦の末討ち死にした。陣地内の高卓将軍の左翼は必死に抵抗して多数の敵を引き付け、ほかの仲間が逃げおおせたのを確認して降伏した。
戦いは吼狼国軍の大勝利に終わった。九万いた禎傑軍の内、半数以上が藍生原で死亡するか捕虜になった。
戦いが終わると恒誠と光姫達は諸侯を集め、今後の分担を決めた。御廻組と泉代勢とユルップ衆は都に残り、合戦に加わらなかった京師守護所勢と協力して負傷者を都へ運んで手当てをし、捕虜を監視することになった。道久を嫌って巍山軍に身を投じた楡本家など七家一万五千は戦場の後片付けと死者の埋葬を命じられ、その後は都の外で謹慎することになった。
残りの七万余は西国街道を進み、禎傑軍を追撃した。街道沿いの国々にいた禎傑軍は華姫の指示で撤退したので、道中抵抗らしい抵抗はなかった。
手輪峠を封鎖していた厳威将軍がいなくなったので、屈谷家などの一万六千余が独岩の町で合流した。一方、蓮山・蕨里・鷹名・新芹の四家合計八千は巍山を領国へ帰さぬため、手輪峠を越えて虎落国や周辺の自領へ向かった。
合戦から十日後の菊月十七日、吼狼国軍は華姫達が逃げ込んだ穂雲城を包囲した。




