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花の戦記  作者: 花和郁
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  (第八章) 二

  二


 翌二十九日の昼前、評定の間で再び軍議が開かれた。

 段上には直孝と芳姫がいた。芳姫はずっと泣いていたことが一目で分かる()れた目をしていた。直孝も師範の死に衝撃を受けたらしいが、朝には立ち直り、母の手を引いて軍議に現れた。

 一緒に芳姫を部屋から連れてきた光姫は、姉と甥の左手前に座って二人を心配していた。

 昨晩、部屋に運ばれた芳姫は布団に寝かされたが、武者達が帰っていくと、やがて目を開いた。

「お姉様」

 光姫の声に芳姫は顔を向け、はっとして体を起こし、「道久殿!」と叫んだ。光姫が思わず目を伏せると、芳姫はすがるように尋ねた。

「道久殿は生きていますね? 助かったのですね? そう言って頂戴、光子」

 光姫は首を振るしかなかった。全てが事実だったと悟ると、芳姫は尋ねた。

「今どこに」

「隣の部屋です」

 表は慌ただしかったので、取り敢えず奥向きへ運んだのだ。芳姫は立ち上がって隣室へ行き、恋人の姿を見て一瞬立ち尽くし、崩れるように遺体にすがって、泣き始めた。

「既に桑宮家には知らせを送りましたので、いずれ引き取りに来るはずです」

 そう説明すると、芳姫は首を振った。

「嫌です! 渡しません!」

「ですが、道久殿には奥方とご子息がいらっしゃいます」

 光姫が言うと、芳姫は叫んだ。

「その人達には絶対に渡したくありません! 道久殿は私のものです!」

「お姉様……」

「私はまた一人きりになってしまいました。なぜ誰もが私を残して去っていくのですか! この人は大丈夫だと思っていたのに!」

 光姫が困ってお絹やお牧と顔を見合わせると、芳姫は小さな声で言った。

「明日には返しますから、今だけは……」

 後はすすり泣きだった。

 光姫はどう慰めたらよいか分からず、胸を引き裂かれるような姉の悲しい声に自分も涙を流した。が、お牧に促されて立ち上がった。

「明朝、また参ります」

 そう告げて奥向きを出て武者達のところへ向かったが、光姫の耳にはいつまでも姉の泣き声がこびりついていた。

 夜が明けて姉のところに行くと、芳姫は自室で眠っていた。道久の遺体にすがって泣いている内にぐったりしてきたので、お絹が無理に布団に入らせたそうだ。寝付くまでしばらく泣き続けていたという。

「おはようございます」

 声をかけると芳姫は目を覚まし、光姫の顔を見てすぐに涙ぐみ、「分かっています」と言った。

 道久の遺体は血を拭き、乱れた衣服を取り換えて髪を直してあった。芳姫はしばらくその顔を眺めて、ていたが、やがて頷いた。直孝も呼んでお別れをすると、遺体は運ばれて行った。

 光姫はお絹の給仕で姉や甥と朝食を取り、一旦下がってから、軍議の前に再び呼びにいった。姉は大病の後のように体から生気が抜けた様子だったが、息子を一人で行かせるわけにはいかないと思ったらしく、二人に手を引かれて評定の間にやってきたのだった。

「これより、御前評定を始める」

 大翼も武者総監もいないので、九国総探題の萩矢頼統が司会を務めることになった。

 最初に、昨夜の事件を調べた結果を検断(けんだん)奉行が報告した。

 霞之介は「道久殿! しっかりして!」という叫び声で自らの失策を悟り、従寿達に追いかけられて堀へ飛び込み逃亡、いずこかへ姿を消した。行方は全くつかめず、都を逃げ出した可能性が高いという。

 桑宮家に問い合わせたが、そんな家臣はいないという返事だったそうだ。どうやら隠密のような仕事をする陰同心という身分で、正式な家臣ではなかったらしい。特別製の二連発の鉄砲が庭に残されていたので、再び暗殺をたくらむ可能性は低いだろうと奉行は結論付けた。

 庭で巍山からの書状が見付かったが、恒誠は光姫をおびき出した偽の芳姫の手紙との関連を指摘した。城内の用人の一人が書に詳しいので鑑定してもらったところ、同じ人物の手になるものと分かり、お里が臨書(りんしょ)を得意とするという証言が女官から寄せられた。お里の部屋にパシクと検断奉行が踏み込むと、押し入れの奥から手本にしたと思われる芳姫や巍山の書簡と練習した紙が出てきた。

 お里はすぐさま連行され、厳しい取り調べの末、自分が書いたと白状した。証拠は焼いて処分するつもりだったが、人目のない時間を待っていたら恋人が来てしまったらしい。お里は女官長になってから好き放題に振る舞っていて、恋仲になった若い御廻組の武者をたびたび奥向きの自室へ連れ込んでいたのだ。

 お里は、道久といい仲だった芳姫の真似をしただけだと主張したが、暗殺の(くわだ)てに加担したのは明白で、奥向きの女官としても非常に問題があったので、情状酌量(じょうじょうしゃくりょう)の余地がないと判断され、毒による死を命じられた。遺体は朝早く家族に引き渡されたが、問題を(おおやけ)にしないために実家の処分は見送られた。

 報告が終わると、頼統は言った。

「では、都防衛の軍議に移る。まず、状況を確認しよう」

 視線を受けて、伝馬(てんま)奉行が報告した。

「昨夜出て行ったのは七家の一万五千人で、都に残った封主家は、萩矢、槻岡、楠島、泉代、豊梨、梅枝、織藤の七家と半減しました。これに御廻組一万九千、京師守護所勢五千、ユルップ衆が二百と新しく到着した二千八百、笹町(ささまち)家の一千を合わせて、合計五万二千がこの都におります」

 最後に呼ばれた封主家の当主である若い男に諸将の注目が集まった。

 笹町(ささまち)則友(のりとも)は二十六歳、背の国の敷潟国(しきがたのくに)で六万貫の領主だ。楡本(にれもと)家と同じ貞亮公(ていりょうこう)五輔臣(ごほしん)の一家だが、貫高は五家の中で一番少ない。

 武芸に秀でた則友は、守国軍編成の際、吼狼国を守る戦いで先代の名に恥じぬ働きをしようと、意気込んで()せ参じた。だが、膠着(こうちゃく)状態になって活躍の場がなく、敗北を恐れて消極的な巍山に不満を感じ、光姫達が兵糧輸送隊を次々に襲撃しているのをうらやましく思っていた。

 そこへ、巍山が恵国軍と手を結び、影岡城を、次いで都を攻めると発表した。則友は驚き怒り、出陣の支度のふりをして準備を整えると、陣幕などをそのままにして夜中に脱走した。笹町勢一千は西国街道を二昼夜歩き通して巍山軍の追撃を振り切り、都の防衛に加わりたいと申し出てきたのだ。

 今朝、その知らせを聞いて光姫達は驚き、怪しんだ。もし巍山の手先で戦闘中に都の中で寝返られたら困るからだ。だが、萩矢頼統が則友殿なら間違いないと請け合った。領地が境を接しているため面識があり、以前からこの若者に好意を持っていたらしい。

 そういうわけで、則友は都に入ることができ、この軍議に招かれた。たった一家で兵力は少ないが、光姫達は都の門まで出向いて案内し、都人も大歓迎した。大勢が出て行った後に、見捨てず助けにきてくれた者がいたのだ。武者達は自分達の正しさを改めて信じることができ、大いに勇気付けられた。

 則友はまだ若く、闘志あふれる鋭いまなざしや武人らしく盛り上がった肩はいかにも戦場向きだが、国許では善政を()いて慕われているらしい。頼統から聞いた彼の人柄を光姫達は自分の目で確かめ、信用できる人物だと既に結論付けていた。

 評定の間には、則友の他にもう一人新しい人物がいた。羽至空(パシク)の父、多富利(タフリ)だ。ユルップ族の長である彼は恵国軍襲来直後からいざという時に備えていて、息子から鳩で連絡をもらうや即日二千八百を率いて沖崖島(おきがけじま)を出発し、昨夜遅く都へ着いたのだ。

「都には我々の他に、天宮警護隊三千、天衛兵(てんえいへい)二千がいます。戦闘には加わりませんが、天宮の警備はそちらに任せてよいでしょう」

 伝馬(てんま)奉行の言葉を、天宮(てんぐう)警護役頭人(とうにん)榊橋(さかきばし)文氏(ふみうじ)が肯定した。この六十二歳の老人は今日は珍しく二人の付き人を背の後ろに従えている。片方は頭巾(ずきん)で顔を隠しているがまだ若そうなので、公家(くげ)達から望天城の様子を見てこいと派遣された用人かも知れない。天衛兵(てんえいへい)は皇家直属の武者で、主に天宮の警備や皇家の人々の警護をする。

「一方、恵国巍山連合軍は二十二万に上ります」

 伝馬奉行は手元の書簡に目を落とした。

「恵国軍は本隊九万、暴波路兵一千、田美衆七千の九万八千です。巍山軍は十万四千から笹町家一千が抜けましたが、桑宮様の蜂起時に雉田家と殿軍(しんがり)家の合わせて四千が都を脱出して合流し、昨日また一万五千が加わって、十二万二千になりました」

 楠島運昌がつぶやくように言った。

「こちらの四倍以上か。まともに戦って勝てる相手ではないな」

 萩矢頼統も同意見のようだった。

「そうだな。城壁があるとはいえ、それだけの大軍に攻められては都を守り切るのは難しいだろう」

 泉代成保が言った。

「京師守護所勢は城壁の守備はともかく、出撃させるのは難しい。いざという時、避難する都の人々を誘導する役目がある」

 槻岡良門が深刻な口ぶりで言った。

「ユルップ衆が来ても五万そこそこだ。我々に勝ち目はあるのか?」

 人々の目は一斉に恒誠に注がれた。

「六万三千が五万二千になってもさほど変わらないさ」

 若い軍師は何でもないように言った。

「もともと兵力は圧倒的に劣勢だ。やれることも勝てる方法も多くはない」

「でも、作戦の案があるのよね?」

 光姫が確認すると、恒誠は頷いた。

「考えはある。都に来る時から立てていた計画を、少し変えてやるだけだ」

「分かったわ。それはあなたに任せるわ」

 光姫は信頼の笑みを浮かべた。

「あなたは私達に勝利を呼び寄せる軍師だもの。どこまでも信じるわ」

 実鏡とパシクが言った。

「僕も恒誠殿を信じます」

「私もあなたに全てを賭けます」

 則友が身を乗り出した。

「俺もあなたの作戦に興味がある。是非聞かせてもらいたい」

「皆、あなたに望みを託しているのです」

 運昌の言葉に諸将が頷き、恒誠は口を開こうとした。

「待って下さい」

 ところが、そこへ芳姫が割り込んだ。

「私から先に言うことがあります」

 何事かと人々が段上に注目すると、芳姫は気力を振り絞ったような声で言った。

「私は国母をやめます」

「えっ!」

「何ですと!」

 あちらこちらから驚きの言葉が漏れた。芳姫はそれを疲れた表情で受け止めた。

「頼りにしていた大翼が亡くなりました。これからどうすればよいのか、私には分かりません」

「お姉様!」

「私は一人では何もできません。道久殿に助けられて辛うじて国母の体面を保ってきましたが、到底国難の時に国の舵取りができるような人間ではないのです。これまで支えて下さった皆様には大変感謝していますが、もう無理です」

 芳姫は紅い座布団の上で深々と頭を下げた。

「ただ今をもって国母の職を返上します。萩矢公を大翼に任じて全権を委ねますので、後は彼に従って下さい。直孝様を頼みます。私は部屋に戻ります」

 広間はしんと静まり返った。諸将は互いに顔を見合わせて困った顔をし、光姫は黙っていられなくなって、立ち上がった姉に言った。

「お姉様、急に何をおっしゃるのですか!」

「私はもう疲れました」

 うつむいた芳姫は、本当にくたびれ切った顔をしていた。

「私はもともと(まつりごと)には向いていません。直孝のためと思って頑張ってきましたが、これ以上はできません。つら過ぎます」

「お姉様……」

 芳姫には執務の一つ一つが、いや、評定の間に座っていること自体が道久との日々を思い出させるのだ。すぐにでもこの場を去りたいのだろう。

 だが、それは許されないと光姫は思った。人には踏ん張らなくてはいけない時が、諦めてはならない瞬間があるのだ。それが今だと光姫は思った。しかし、姉の顔を見ると口に出しかねた。

「国母をやめることは認められない」

 言ったのは、恒誠だった。

「あなたのお気持ちはお察しする。とても戦どころではない気分なのも、ひどく疲れているのも分かる。だが、今、あなたはこの国を預かる立場にいる。国の危難の最中に仕事を投げ出せば、民はあなたを許さないだろう。あなたにはこの状況を何とかする責任がある。それは、あなたが直信公から、直孝様から、そして桑宮殿から託された役目だ。それを放り出してはならないし、我々も許さない。あなたはこの場にいて、全てを見届けるべきだ。国母の地位を下りるにしても、それはせめて、この戦いが終わってからにして頂きたい」

 数人が息を呑み、さすがに国母に対してその物言いは、という顔をした者もいたが、誰も反論しなかった。国母が国を、民を見捨てるのを容認などできなかったからだ。

「お姉様。恒誠さんの言う通りです。座って下さい」

 光姫も言った。

「ここで逃げたらお姉様は国中の民から恨まれます。とても見過ごせません。お願いです」

「私はもういやなのです」

 芳姫は首を振り、直孝を促した。

「帰りましょう。後のことはここにいる方々に任せましょう」

 が、直孝は頷かなかった。

「いやです! 僕はここにいます」

 芳姫は驚いた。

「何を言うのですか。あなたはまだ子供です。邪魔になるだけですよ」

「僕は統国公です」

 直孝は言った。

「道久先生に、吼狼国をお願いしますと頼まれました。今朝それを話したら、三郎太(さぶろうた)達も手伝ってくれると言いました」

 三郎太とは道久が直孝に付けた近習の名だった。

「だから、僕はここにいます。何もできないかも知れないけれど、いなくてはいけないんです」

 芳姫は目を見張り、広間を見渡して感激している妹や諸将を目にしてうなだれた。

「でも、私はもう……」

「お姉様!」

 光姫はとうとう心を決めて立ち上がり、段上に上がった。

「逃げては駄目です。道久殿も、お姉様が国中の民から罵られるのを望まないはずです」

 光姫は姉の袖を引っ張った。

「私達が支えます。頼って下さい。私を、みんなを信じて下さい!」

 全員の視線を受けて、芳姫は涙ぐみ、深い深い溜め息を吐いた。

「私には、もう逃げる場所すらないのですね」

「そうです。閉じ籠もっていられる安全な場所はありません。戦うしかないのです」

 芳姫は喪服の袖で目をぬぐうと、妹を見て頷いた。

「分かりました。全てをあなた方に委ね、私はそれをここで直孝様と見守ります」

 国母は自分の紅い座布団に再び正座した。

 あちらこちらで安堵のため息が漏れた。もし国母が仕事を放棄したことが噂になって広まったら都は大混乱になる。武者達は戦意を失い、戦う前から負けてしまうだろう。

「ありがとうございます」

 光姫は礼を述べて深くお辞儀をし、自分の場所に戻った。諸将も国母と元狼公の少年に頭を下げた。

「話を戻そう」

 司会役の萩矢頼統が口を開いた。

「先に述べておく。今、私を総大将にというお言葉があったが、お断り申し上げる。総大将は元狼公の直孝様、それで皆異存はありませんな」

 全員が頷いた。

「では、作戦について、織藤公にご説明頂こう」

 諸将の視線が集まると、恒誠はまず確認した。

「最初に意志を統一しておきたい。我々は都を決して敵に明け渡しはしない。戦って守り切る。それはよいな」

 誰からも異論は出なかった。

「俺は都を守るために戻ってきた。ここで都を落ちては意味がない」

「わしらユルップの民の仕事は望天城と元狼公様をお守りすることだ。逃げるつもりはない」

 笹町則友とユルップの族長タフリの発言に光姫も同感だった。

「それを確認したかった。では、どう都を守り、恵国軍を撃退するかだが、俺は合戦を提案する。藍生原で敵と決戦し、撃破する」

 恒誠は言い切った。城を出て戦うと聞いて諸将は驚き、槻岡良門が疑問を口にした。

「籠城という策はないのか。今となってはもう西国街道を塞ぐことは難しかろうが、都を守り続けていれば、影岡軍のお三方の武名を慕って多くの封主家がやってくるのではないか」

 笹町則友のもたらした情報と水軍による偵察で、巍山軍が既に街道を進んできていることが分かっていた。守るなら都の城壁に拠るしかない。

「籠城は難しい」

 恒誠は答えた。

「敵が多過ぎる。二十二万の大軍に玉都の城壁は無力だ。敵はいくら殺されても代わりの武者がいるから、本気で猛攻されたら数日で都は陥落するだろう」

 断言されて、諸侯の表情は硬くなった。芳姫や直孝も事態の深刻さを改めて突き付けられて、思わず拳を握り締めていた。

「都は国の中枢だ。奪われれば吼狼国の存続は危うくなる。宗皇陛下を連れてどこかへ移ればよいわけではない。民は都が失われたと聞けば、この戦は負けたと思うだろう。その影響は計り知れない」

 実鏡が悔しげな顔をしている。影岡城を思い出したのだろう。

「それに、都をできるだけ戦場にしたくない。ここは吼狼国の商工業の中心だ。もし都が焼ければ多くのものが失われる。戦が終わった後、この国と統国府を素早く再建するためにも、都は守り切りたい」

「そこまで考えておられるのだな。よく分かった。貴殿の策に従おう」

 槻岡良門は感心したように言った。この軍師に作戦を任せると腹をくくったらしい。光姫は戦いの後のことなど全く考えていなかったので、恒誠の視野の広さに衝撃を受けた。諸将も同じらしかった。

「では、合戦で話を進める」

 恒誠が話題を戻した。

「我々は敵の四分の一以下だ。少数で圧倒的多数に勝たねばならない。どうすればよいか」

 光姫が代表して答えた。

「分からないわ」

 恒誠はまじめな顔でそれを受けた。

「実はそれが正しい答えだ。強い方、同じ強さなら数の多い方が勝つのが当たり前だ。まともに戦えば勝てるはずがない。だから、我々が勝つには敵より強くなることが必要だ」

「どうやってですか」

 光姫はもどかしく思った。言いたいことは分かるが、恒誠にしてはくどい説明だ。そう思って正面に座る恒誠の視線を追い、彼の意図に気が付いた。直孝に軍学の講義をしているのだ。

「やり方はいろいろある。強力な武器や防具を使う、厳しい訓練をするなど工夫の余地は大きいが、今回は味方の強化は間に合わない。となれば、敵を弱らせるしかない」

 恒誠の言葉に全員がじっと耳を傾けていた。

「敵を弱らせるとは、敵の武者が戦えなくしたり、力を発揮できなくしたりしてしまうことだ」

「そんなことができるのですか」

「できる」

 直孝の疑問に恒誠は即答した。

「武者というのは、気力充溢(じゅういつ)し、きちんと武装し、落ち付いて戦いに集中でき、しっかりと隊列を組んで仲間と協力し合い、大将の指示が正しく行き渡ればとても強い。その逆になると弱い」

「元気がなくて、武装していなくて、慌てていて戦いに集中できなくて、隊列がばらばらで仲間と協力できなくて、大将の指示が届かない状態にするのですね。どうやるのですか」

 直孝が首を傾げると、諸将はその聡明さに感心した。恒誠の長い言葉を全部覚えて逆を言えたのだ。

 恒誠も笑った。

「よく言えた。実は、そうする有名な方法が一つあるのだ」

「奇襲ですね」

 運昌が耐え切れなくなって発言し、少年が思い付くのを待つべきだったか、という顔をしたが、直孝はなるほどという様子だったのでほっとしていた。

「その通り。奇襲だ」

 恒誠は大きく頷いた。

「もちろん、ただの奇襲ではない。策もなく城を打って出ても撃退されるだけだ」

「武装していないところを襲うのなら夜襲だな。寝ている時なら敵は隊列も組んでいない」

 泉代成保がつぶやくように言った。

「そうだ。だが、それだけでは足りない。敵の弱い部分を突くのだ」

「ということは、側面や背面からの攻撃か」

「挟み撃ちも有効だな」

 笹町則友とパシクが身を乗り出すと、恒誠は首肯した。

「それを全部やる。夜襲して敵の不意を突き、側面と背面を攻め、挟撃する」

 萩矢頼統は納得しかねる顔だった。

「なるほど、確かにそれなら勝てるかも知れぬ。しかし、どうやって敵に接近するのだ。都の城壁の門は一つ。出て行けば必ず見付かる。しかも、藍生原の前には丹浪川(になみがわ)がある。橋は一つ、当然守備の武者がいるはずだ。渡ろうとすれば抵抗され、援軍を呼ばれるだろう」

 丹浪川(になみがわ)は都の西を南北に流れる大河で雲見湾に注いでいる。

 実鏡も首をひねった。

「そうですね。発見されたら奇襲になりません」

「俺もそう思う。だから、側面や背面を襲う部隊は都から直接出撃しない」

 恒誠は、二列で向かい合う諸侯の間に広げられた玉都周辺の大きな地図を指差した。

「藍生原は都から出た道が西国街道と六国(りっこく)街道に分かれるところだ。よって、我々はその二つの街道から藍生原に進入する。つまり、雲居国と栄木国(さかえぎのくに)へ回り込んで、西と北から襲いかかる。敵が混乱したら都からも打って出て、三方から挟み撃ちにする」

「どうやって雲居国へ行くの?」

 光姫は考えて、はっとした。

「まさか……」

「そうだ。俺達は船で都へ来た。ならば、また雲見湾を渡ればいい」

「なるほど。大きく迂回するのですね。確かに恵国巍山連合軍はほぼすべての兵力を都へ向けるはず。雲居国には残して三千かそこらでしょうね」

 運昌がぽんと手を打つと、泉代成保が唸った。

「では、栄木国(さかえぎのくに)へは隠湖国(こもりうみのくに)を通るのか」

 玉都のある祉原国(よしはらのくに)の東の馬駆国(まがけのくに)から北へ進むと、大きな湖を中心とした隠湖国(こもりうみのくに)がある。周囲を高い山に囲まれていて、見通しの悪い国境の峠を下りて行くと突然森に隠れていた()(うみ)が目の前に広がるのが国名の由来だ。その街道は湖畔(こはん)にある最大の町を過ぎると西へ伸び、栄木国(さかえぎのくに)へつながっている。

「作戦はこうだ」

 恒誠の言葉を聞きながら諸将は食い入るように地図を見つめていた。

「西方軍は雲居国へ渡って西国街道を東進する。こちらは我々影岡組が全軍一万一千で向かう。地形や道をよく知っていて密かな行軍ができ、現地に残してきた小荷駄隊の協力が得られるからだ。藍生原から見えない玉都の南方で船に乗り込み渡海、昼は寝て夜行軍することを繰り返して、藍生原の西側、つまり敵の背後に出る。

 一方、北方軍は萩矢家七千五百と槻岡家三千五百、合わせてやはり一万一千だ。これに御廻組を二千付ける。敵は桑宮の死をまだ知らないから、お二方は彼と喧嘩したことにして都を去り、東へ向かう。お二人共、領国が東方にあるから不自然ではないだろう。夜陰に乗じて道を外れて行方をくらまし、一気に北上して隠湖国(こもりうみのくに)に入り、栄木国へ抜ける。そこは泉代公の領国だ。休息を取って南下し、藍生原の北側に至る。

 都に残る東方軍は京師守護所勢五千の他に、泉代家の在京武者二千、笹町家、ユルップ衆、御廻組、合計二万八千だ。これで城壁を守り切る。西と北の両軍が同時に敵陣を襲撃したら、息を合わせて打って出て、敵を挟み撃ちにする」

 ううむ、と同じ言葉が人々の口から漏れた。しばらくして、槻岡良門が言った。

「作戦としてはもっともだ。これが成功すれば勝利の可能性は高い。だが、敵が両街道に武者を置いて警戒していたらどうする」

 都を三万弱で守るのは苦しい。迂回する両軍は数日で戦場まで到達しなければならない。

 見付かるのを恐れて街道を避ければ時間がかかる。かといって、発見されて行軍が遅れ、西北両軍が同時に攻撃できなければ奇襲の効果は低くなる。

 だが、恒誠は慌てなかった。

「まず、雲居国だが、小荷駄隊に敵の位置を事前に探らせる。避けられればよし、難しい場合は彼等に陽動(ようどう)をさせる。別な場所で騒ぎを起こして敵の注意を引き付けるのだ。我々が敵陣に到達するまで見付からなければよいわけだからな。栄木国方面は国元に残っている泉代家の武者達の協力が得られるし、一つ考えがある」

 と、御廻組の新組頭軒溝(のきみぞ)一衡(かずひら)を見た。一衡(かずひら)は副頭筆頭だったが、道久の大翼就任で繰り上がった。もう五十一で無欲で真面目、芳姫と直孝に忠誠を誓っており、武将としても十分信頼が置けるので、引き続き御廻組一万九千を任されていた。

隠湖国(こもりうみのくに)のあれを使いたい。確か御廻組の管理だったはずだな」

 一衡(かずひら)は驚いた。

「まさか、あれでございますか。もう四十年も使われておりませんが」

「分かっている。が、使えるようにはしてあるのだろう」

「はい、それはもちろんです」

「いかほど用意できる。最低百、できれば二百欲しい」

「恐らく百五十でしたらすぐにそろいましょう」

「ちょ、ちょっと待って!」

 光姫が割って入った。

「もしかして、あれのことなの?」

 何のことか察した諸将も目を丸くしている。

「そうだ。劣勢な兵力を補うには有効だろう」

「ですが、上手く動かせるのですか」

 運昌が首を傾げ、槻岡良門も懐疑(かいぎ)的だった。

「あれは確かに強力だが、扱いはとても難しいと聞いておる」

「分かっている。だから、戦闘での活躍は期待していない」

 恒誠はその懸念(けねん)を予想していたらしい。

(おとり)に使うのだ。あれは目立つからな」

 恒誠は使用法を詳しく説明した。

「そんなに都合よく運ぶだろうか」

 萩矢頼統は心配らしかったが、光姫と実鏡は支持した。

「恒誠さんが言うなら大丈夫よ」

「そうですね。上手く行くと思います」

 一緒に戦った経験の長い二人が()け合ったので、諸将も賛成に回った。

「成功すれば実に効果的だな」

 成保の言葉が彼等の気持ちを代弁していた。

「作戦は大体理解しました。これなら勝てそうですね」

 運昌はうれしそうに言った。他の諸侯も笑みを浮かべている。直孝は顔を輝かせていたし、芳姫でさえ恒誠の実力を知って驚きを露わにしていた。

「ようやく光明が見えてきた気分だ」

 良門が言うと、恒誠は眉を曇らせた。

「それはまだ早い。実は、この作戦には大きな問題が二つある。それが解決できないので、皆の知恵を借りたい」

 諸将は急に不安そうになったが、問題がどこにあるのか分からない様子だった。

「西方軍、北方軍、都の東方軍、それぞれ遠く離れた場所にいる。しかも夜襲だ。藍生原に着いても互いが見えない可能性が高い。どうすれば息を合わせて同時に攻撃できるか、そこが難しい」

「どれかの軍が攻撃を開始すれば分かるのではないですか」

 首を傾げた実鏡に、恒誠は「そうではない」と言った。

「三方面全てが配置に付いたことを確認する方法がないのだ。互いに準備完了を伝え合ってから、大きな合図で一斉に攻めかかる必要がある。何らかの理由でどれかが遅れたら、ばらばらの攻撃になって各個撃破されかねない。その場合、西方軍や北方軍が生きて戻るのは無理だろう」

「なるほど……」

 皆考え込んだ。奇襲も挟撃も同時攻撃だから効果が高いのであって、少数の部隊が次々にぶつかっていっても簡単に撃退されてしまうだろう。

「大きな音を出してはどうですか」

 直孝が言った。諸将に注目されてひるんだが、頑張って言葉を続けた。

「太鼓とか銅鑼です」

 何人かがなるほどという顔をしたが、恒誠は首を振った。

「それは駄目だ。三ヶ所で順番に大きな音が聞こえたら、さすがに敵も気が付いて寝ている武者達を起こしてしまう。彼等に襲撃だと悟られにくい方法がいい。また、藍生原の反対の端から都まで音が届くかどうかも怪しい」

「そうですか」

 直孝はがっかりした顔をした。恒誠は慰めた。

「発想はいい。ただ、今回は使えない」

 則友が提案した。

「玉都の全ての寺院の鐘を一斉に鳴らしてはどうだ。左翼右翼は多数の鉄砲を同時に撃つ。敵は仰天するはずで、そこを襲えば問題なかろう」

「いや、それでは、もし三軍がそろっていなかった時に引き返すことができない。我々は死にに行くのではない。もし奇襲が上手く行かなかったら脱出してどこかで再起を図る必要がある。敵を呼び寄せるような策は駄目だ」

 則友は残念そうだったが引き下がった。

「鳩を飛ばしてはどうだ」

 ユルップ族長のタフリが口を開いた。

「鳩で都へ到着を連絡するのだ。攻撃可能なら都の東方軍がその合図を出す」

「それは悪くない方法だな」

 恒誠は言った。

「他に上手いやり方がなければそれで行こう。だが、欠点がある。東方軍と北方軍は都で合図があるまで互いの到着が分からない。できれば、全員が攻撃決行を知って気持ちを整える時間がわずかでよいから欲しい」

「三方面そろったら武者達が用意をし、合図で一斉に駆け出すということですね」

 実鏡の言葉を恒誠は肯定した。

贅沢(ぜいたく)な注文かも知れないが、全員の心がまとまって戦へ集中するようにしたいのだ」

「なるほど……」

 諸将は眉間にしわを寄せて考えたが、誰も口を開かなかった。光姫も思案を巡らせながら、木目の美しい天井を見上げて、ふと思い出した。

「あれはどうかしら」

 説明すると、皆明るい顔になった。

「その手があったか。それなら上手く行きそうだな」

 恒誠は喜び、実鏡も賛成した。

「いい考えだと思います。さすがは光姫様ですね」

「お牧がこの場にいたら絶対にそう言うだろうな」

 恒誠が言って、大笑いになった。

「もう一つの問題は、戦の収拾方法だ」

 恒誠は続いて指摘した。

「奇襲が成功したとして、敵味方合わせて二十七万の武者が入り乱れる戦場をどうやって制御するのだ。勝利が確定した時点で素早く混乱を収めないと、敵にも味方にもいらぬ死傷者が出る。敵の半数以上は吼狼国人なのだ」

「確かにそうね」

 光姫はその光景を想像してぞっとした。

「巍山軍の多くは仕方なく従っている人達よ。できれば殺したくないわ」

 実鏡も領主として懸念(けねん)を述べた。

「それだけの人数が一斉に逃亡を始めれば、雲居国や栄木国の民に大きな被害が出るかも知れません」

 二人は戦場を知っているので、敗北し生き延びるために必死になった武者達の心の状態をよく理解していた。

「巍山軍の諸侯を(すみ)やかに降伏させ、鷲松勢や恵国軍の追撃に移りたい。立ち直る時間を与えたら、この乱は来年以降も続くことになる。国のため、民のために早く終わらせたいのだ。事前に調略して寝返らせるのが理想だが、この兵力差では応じる封主はいないだろうし、奇襲が敵に漏れたら計画全てが崩壊する。長期の籠城戦の後ならやりようもあるのだがな」

 勝った後のことを考えている恒誠に諸将は感心したが、確かに難問だった。人数が圧倒的に少ないだけに、あちらこちらで抵抗を続けられたら戦場を制圧するのに相当苦労するに違いない。

「それは私が何とかしよう」

 突如響いた聞き覚えのない声に、人々は広間を見渡した。発言したのは、天宮(てんぐう)警護役頭人(とうにん)榊橋(さかきばし)文氏(ふみうじ)の後ろに座っていた二人の人物の内の若い方だった。まだ十代後半と見える上品な少年は頭巾(ずきん)を脱ぎ去って顔を見せた。

「戦には加担できぬが、終わった後なら出て行っても構わぬな」

 隣に尋ねると、いかにも伝統と格式のある名家の当主という雰囲気の老人は、(いか)めしい顔つきで仕方がないと頷いた。

「本来は主上(しゅじょう)御身(おんみ)のご安全が第一、関わるべきではないと存じます。ですが、無益に傷付く民を減らすためであれば、大神様も認めて下さいましょう」

 丁寧な口調で答えた声の響きに独特の抑揚(よくよう)があったので、光姫は老人の身分に気が付いた。

公家(くげ)のしゃべり方? ということは、こちらの方は……」

 榊橋(さかきばし)文氏(ふみうじ)が横に下がって二人の前を空け、畳に手を付いて頭を下げた。

「皆にご紹介致す。このお方こそ、宗皇陛下ご自身でいらっしゃる。そちらは夏雲(なつくも)家のご当主様だ」

 諸将は慌てて平伏した。

「陛下はこたびの戦を大変心配なさり、軍議をご覧になりたいとおっしゃった。お止めしたのだが、こうして身をやつしてここへいらっしゃったのだ」

 都が戦場になるかも知れないのだから気になって当然だが、自ら出向いてくるとは、と光姫は驚いた。

「わしも娘婿が迷惑をかけたようなので、できることがあればと思ってな」

 夏雲(なつくも)家は桑宮道久の妻の実家だ。

「お若いだけあって無茶をなさいますな。心臓が跳ね上がりました」

 恒誠はさすがに立ち直りが早かった。

「ですが、ご協力頂けるとは大変ありがたく存じます。任せろとおっしゃるのは、あれを出して下さるのですな」

「うむ。山花獣鳥(さんかじゅうちょう)四尊合一(しそんごういつ)大御旗(おおみはた)を貸そう。巍山に従っておる封主達もあれを見れば戦をやめるはずだ」

 少年宗皇は当然のことのように言った。吼狼国では、神雲山、桜、狼、鴉、それぞれ単独の旗は寺院などでよく見られるが、この四つを一枚の旗の中に一緒に(えが)いてはならないことになっている。それは大神様に吼狼国の王に任じられて降臨した宗皇にしか許されないものなのだ。大御旗(おおみはた)は銀地で、真ん中に大神様を暗示する空間を敢えて作り、上に桜、下に神雲山、左に狼、右に鴉を配置しているが、その四つを全て細部まで丁寧に()い取ってあるので旗はかなり大きい。遠くからでも目立つし、この旗の意味を知らぬ武者はいないだろう。

「それから、天宮の守りは天衛兵(てんえいへい)だけでよい」

 宗皇は言った。

「天宮警護隊は都の治安維持に回すがよかろう。それで京師守護所の武者は戦いに集中できるはずだ」

「ご指示の通りに致します」

 榊橋(さかきばし)文氏(ふみうじ)と泉代成保が頭を下げた。

「噂の軍師の頭脳の冴え、諸将の覚悟と国を思う気持ちはしかと確かめた。万が一のために脱出の準備はしておくが、それが無駄になることを願っておるぞ」

 少年宗皇はにこりと笑うと、再び頭巾をかぶった。

「よし、これで問題は全て解決した。あとは実行するだけだ」

 恒誠は広間を見回して全員の戦意を確認すると、直孝に言上した。

「総大将の元狼公様。どうか我々に出陣のご命令をお下し願います」

 九歳の全吼狼国武家の棟梁(とうりょう)は母を見て、促されて座布団の上に立ち上がり、子供用の短い刀を抜いて、出せる限りの大声で叫んだ。

「では、国と都を守るため、元狼公の名において、この場のみんなに決戦への出陣を命じます。すぐに支度にかかって下さい。僕もできることで戦います。きっと勝ちましょう!」

「ははっ、必ずや棟梁様に勝利を献上致します!」

 芳姫と直孝、宗皇と公家以外の全員が声をそろえて誓い、平伏した。そして、頷き合うと、立ち上がって広間を出て行った。

 光姫は姉と甥が宗皇に挨拶して送り出すのを待って声をかけた。

「直孝様、一緒に頑張りましょう」

 少年ははにかむような笑みを浮かべて頷き、芳姫は妹に尋ねた。

「あなたは織藤公と一緒に戦いに行くのね」

「はい」

 光姫が答えると、芳姫は言った。

「彼を失わないように全力で守り助けなさい。決してそばを離れてはいけませんよ。必ず生きて帰ってらっしゃい」

 芳姫の微笑みはやさしく寂しげで、光姫は泣きそうになった。


 禎傑巍山連合軍が都の西に姿を現したのは、二日後の菊月(きくづき)一日の夕刻だった。後から後から現れる軍勢の膨大(ぼうだい)さに、都の民や守備軍の武者達は足が震えるような恐ろしさを覚えたが、必死に耐えて籠城の準備を進めた。

 連合軍の全軍が集結するまで翌日の昼過ぎまでかかった。一日かけて広大な藍生原を陣幕で覆い尽くすと、禎傑と巍山の連名で降伏勧告を送ってきた。華姫から姉と妹に宛てた手紙が添えられていて、抵抗しなければ命は保証すると投降を呼びかけた。もちろん光姫達は一蹴した。すると、それを予期していたように、次の三日には早速攻撃をかけてきた。

 連合軍は長く奥行きの深い隊列を組んで都の西の城壁全体に一斉に押し寄せてきたが、攻めかかろうとして躊躇(ちゅうちょ)した。水をたたえた深く広い堀の前に、更に二重に空堀が掘られ、急造の逆茂木がその前後に三列並べられていたのだ。

 壊さなければ都に近付けないので、連合軍はすぐに城壁に鉄砲や矢を射かけて牽制しつつ、盾をかざして前進してきた。城壁内の守備軍も応戦し、石や矢を雨あられと浴びせて追い返そうとした。

 連合軍は全軍を投入したわけではないが、それでも八万以上が戦っている。一方、守備側も二万八千のほとんどを西の城壁に集めて必死に守った。あっという間に地面が黒く覆われるほどの矢が飛び交い、十万人の叫び声は辺りに木霊(こだま)してまるで山鳴りのようだった。手柄を立てて出世したい巍山軍と禎傑軍の諸将と兵士達、決して都に入れまいと決意の固い守備軍の諸侯と武者達、双方共に戦意が高く、開始直後から激しい戦いが繰り広げられた。

 しかし、連合軍は夕刻になっても、一列目の逆茂木さえ壊せなかった。都の守りはそれほど堅固だったのだ。

 大人の背の六倍はある見上げるような城壁は武公が十年かけて作らせたもので、高い石垣の上に外が白く厚い漆喰壁で中が木造の建物を築き、青瓦の屋根を載せている。ところどころにある物見櫓はまるで小さな天守のようだ。つまり、都全体が大きな城のような造りになっている。

 外向きの壁には上下二列の細長い狭間が等間隔で設けてあり、怪我をしにくいため守備の武者は落ち着いて弓で敵をねらうことができる。一方で攻撃できる範囲や視界が限定されるので、指揮をとる武者頭は物見櫓の露台で全体を眺め、矢を集中する場所を指定する。石や焙烙玉を放り投げるのもそこだ。城壁のこの構造を生かした戦い方を恒誠が武者頭達に教え、それが上手く行ったのだ。

 特に活躍したのがユルップ衆だった。彼等は普段海で(もり)を使って漁をする。水中で魚を突いたり、投げ付けて刺したりするのだ。その技量を活かして、城壁の上から迫ってくる敵兵に槍を放った。そのねらいの正確さと高所からの落下の勢いはすさまじく、多数の敵兵の鎧を貫いた。盾で防いでも、長い槍が深く刺さってしまうと使いづらくなり、結局盾を取り換えに後退せざるを得なくなる。ユルップ戦士用の槍は望天城衛門所に備蓄があったがとても足りず、周辺の漁師が使っていた銛や都の民が提供した刃物を棒に縛り付けたもので代用したが、それでも大変な効果があった。

 こうした武器の製作は都中の工房が夜を徹して行っているほか、直孝と芳姫の協力要請に応じて都の人々も大勢手伝っている。職人が溶かした鉄を型に流し込んで矢尻を作れば、それを磨いて矢に組み立てる。粘土をこねて焙烙玉を成形し、素焼きする(かま)に持っていって、焼き上がったら硫黄を入れて紙と(のり)で封をする。投げる石を集めるのは幼い子供まで手伝った。東側は敵がいないので、そちらにある川で拾い集め、荷車で運んでくるのだ。

 焙烙玉に使う硫黄は、豊梨家が貿易で手を組んでいる商人から買い戻したもので、今年は輸出できなかったため在庫は豊富だった。矢の材料も、狐ヶ原の時に都防衛用に買い集めたものが山ほどあり、しばらくは持つ。矢や武器の心配をしなくてよいことは、守備軍の武者達にとって実にありがたいことだった。

 都の人々は武者達の食事作りや配達、負傷者の手当て、万一に備えた消火隊の巡回などにも積極的に働いていた。逆茂木を作りたいと材料の提供を呼びかけたら、家々で使っていた木の台や机が大量に集まったし、空堀を掘るのに多数の人々が無償で汗を流した。

 恒誠は百家商連の会頭に作戦を説明し、直孝も都を見捨てないと誓ったが、それが噂になって伝わっているのだ。都の人々は白狼の光姫様と大軍師様には起死回生の策があると信じていた。

 こうした民の応援と期待は武者達にとって大きな力になっている。とりわけここが本城である御廻組と京師守護所勢は、都とその民を絶対に守ると、若い町娘から受け取った握り飯を頬張りながら、決意を新たにしていた。

 翌四日、連合軍は前日多数の負傷者を出したことに学んで、逆茂木を焼き払う戦法に変えてきた。油を入れた壺をぶつけた後で、爆鉄弾や火矢で着火する。木自体が崩れなくても、炭化してもろくなって釘が抜けやすくなったり、縛り合わせている縄が焼けたりすれば、壊すのが容易になるからだ。

 城壁から矢の雨が降る中作業が進み、やがて一列目の逆茂木が燃え上がった。火が大方収まると、連合軍は前進してそれを蹴り倒し、一気に一本目の空堀を越えにかかった。

 が、すぐに彼等は悲鳴を上げて逃げ出す羽目になった。空堀の底は枯れ草や枯れ木で埋まっていて、その下に多数の三角菱があったのだ。しかも、硫黄と油を撒いてあり、多くの者が中に下りたところへ城壁から火矢が放たれた。空堀はたちまち火に覆われ、多数の武者や兵士が火傷を負い、攻撃は中断せざるを得なかった。

 連合軍は一旦下がって火が消えるのを待った。二刻ほど後、連合軍は鎮火した部分へいくつかの部隊を下ろしてみたが、すぐに撤退させた。空堀の中に悪い空気が充満しており、気分が悪くなる者や意識が朦朧(もうろう)とする者が続出したのだ。

 連合軍は堀の中の空気が入れ替わるまで待つしかないと判断し、攻撃再開を諦めた。こうして、二日目も、城壁に取り付くことさえできなかった。

 次の五日、連合軍は残りの逆茂木と空堀に放火して通りやすくする工作は続けつつも、主力を城門へ向けてきた。

 城門の前には、角が円い三角形の砦が築かれていた。砦の急造の高い壁は、空堀を掘った土を盛り上げ、てっぺんに影岡軍の厚い盾を並べたものだ。盾と盾は上と下に厚い板を打ち付けて固定し、板のない中間部分が狭間になっている。

 この砦は水堀を越えて前方にせり出している分、城壁から遠く、接近しやすかった。しかも、砦には北西と南西に門があり、その前だけ空堀や逆茂木がない。打って出る時のために造らなかったのだ。ならばそこから接近して砦を突破し城門を壊そうと、巍山軍が南西の海側、禎傑軍が北西側に兵士を並べて、一斉に接近してきた。

 この砦が都防衛の(かなめ)になると恒誠は予言していた。城壁を壊し乗り越えるのは時間がかかり、多数の損害を覚悟しなければならないと分からせれば、門を突破する方が早いと連合軍は思うはず。そうなれば、城壁への攻撃は弱まり、守備側も砦に武者を集中できる。しかも、ここだけ空堀と逆茂木を更に一重ずつ増やしてあるので、二ヶ所の門に敵は集中する。二万八千で守る城壁を二十万で攻められるよりも、一万で守る砦を五万で攻められた方が対処しやすいのだ。

 連合軍は多数の鉄砲や弓で後ろから援護しつつ、門の前の逆茂木に挟まれた細い道に二万ずつを送り込んできた。だが、盾を並べて進ませているのに、矢や焙烙玉の集中攻撃を受けて兵士は次々に倒れていった。

 門への道はわざと途中で二度曲げてある。道以外は逆茂木を置き、三角菱をまいてあって、その通りにしか進めない。だから、一気に走って接近することはできなかった。その上、砦の二つの門は内側にやや引っ込んでいて、そこへたどり着く道は左右と前の三方からねらわれる。影岡城のこぶに挟まれた大手門を小規模に再現してあるのだ。守備兵は盛り土の上の高い位置から敵を見下ろしてねらうことができる。

 ここの防御担当は御廻組七千、笹町家一千、泉代家二千の合計一万。それ以外は城壁を守っている。恒誠は影岡軍の武者達に彼等を訓練させ、味方の損害を出さずに敵の接近を阻止する方法を叩き込ませた。彼等はほとんどが初陣だが、影岡軍は雲居国へ行かねばならない。新組頭の軒溝(のきみぞ)一衡(かずひら)や笹町則友は、自ら弓や投石(ひも)を握って真剣に学んでいた。

 そして、その成果ははっきりと表れていた。敵を三方から攻撃して前進を阻む戦法は上手く行っている。時々わざと攻撃をゆるめて敵を誘い込み、一斉に矢を浴びせ焙烙玉を投げ付けると、狭い道で逃げ場のない敵兵はあっさりと倒れていく。それを数度繰り返すと敵は誘いに乗らなくなったが、それこそ恒誠の思う壺だった。本番は夜襲なので、西方軍と北方軍が到着するまでできるだけ損害と武者の疲労を抑えて時間を稼ぎたいのだ。

 砦の戦いは城壁の中と違って敵と距離が近いため、恐怖が段違いで武者達の消耗も早い。それを分かっていた光姫と恒誠は、自ら出向いて武者達を励まし、教えた作戦が有効なことを示した。光姫は自ら弓を取って、数人を射抜いて見せもした。

「弓の人は落ち着いて確実にねらって。無闇に射るより敵を怖がらせることができるわ! 逆に、石の人はどんどん投げて。敵に弓や鉄砲を使わせないで!」

 光姫が声をかけると、恒誠も叫んだ。

「矢が尽きる心配はないからどんどん射ろ! 今も都の人々が作り続けてくれている。とにかく敵を近付けるな!」

 できるだけ敵の前進を邪魔し、そばまで来たら硫黄玉と焙烙玉を放り込んで一斉攻撃で追い返す。この繰り返しで敵の接近を阻み、守備軍は三日目も連合軍を撃退することに成功した。

 夕刻、そろそろ敵の攻撃も終わりだと見極めると、光姫と恒誠は城門の上の一番大きい物見櫓に上って芳姫のところに行った。

「お疲れではないですか」

 近付いて声をかけると、芳姫は疲労の色が濃い顔に微笑みを浮かべた。

「そうですね、少し。でも、戦っている方々はもっと大変ですから」

「そうです。僕は全然平気です!」

 直孝は元気に答えた。子供用とはいえ甲冑を着ているので打掛の上に軽い胸当てを付けただけの芳姫より疲れるはずだが、そんなそぶりは見せなかった。手には自作の()がある。本人はまだ鉄砲だと主張していたが、本物の音を聞いて随分驚いていた。

「総大将が元気なら味方は大丈夫ですね。でも、時々休んで下さい」

 光姫が言うと、直孝は(かぶり)を振った。

「僕が頑張らないといけないんです」

 戦場を見たいと言ったのは直孝自身だった。(まれ)に銃弾や流れ矢が飛んでくることがあるので諸将は止めたが、行くと言い張り、戦場を見渡せる物見櫓で督戦(とくせん)していた。

 櫓には屋根があるので直射日光にさらされることはないものの、強い風に吹かれ続けることになるし、眼下で繰り広げられている死闘には心が冷える。子供でなくともくたびれるはずだが、直孝はしばしば母と一緒に城壁の中を歩き回って武者達を励ました。門の前の砦に行きたいとまで言って止められたが、そういう姿や噂は武者達に歓迎されていた。

「道久先生に吼狼国を頼むと言われました。みんなが僕に期待しているのですから、僕はここにいなくてはいけません」

 直孝にはいつも三人の近習が従っている。子分を持ったことで、直孝は以前より男らしくなった。奥向きの女官に甘えるのとは違う上下の関係を学び、自分は命令する立場だという自覚が生まれたのだ。これは対等だった直利との関係とは全く違うものだったが、それがかえって叔父を恋しく思わせているらしいと芳姫は言っていた。

「気になっていたのですけれど」

 芳姫が尋ねた。

「敵も投石(ひも)を使い出したのは、あの子の考えたことかしら」

「そうだと思います」

 光姫は答え、恒誠も同意見のようだった。砦の上部の木の盾に、禎傑軍が長い投石紐で爆鉄弾を投げ付け始めたのだ。多くは届かなかったが爆発の音と衝撃は恐ろしいし、砦の中に飛び込んだものも数発あって武者達の疲労は確実に増大した。巍山軍も真似て大きな石を投げ付け始め、数か所の盾が壊された。すぐに新しい盾で塞がせたが、武者達は随分肝を冷やした。

「昨日逆茂木を焼き払ったのもお姉様だと思います」

「敵に回すと本当に恐ろしい子ですね」

 芳姫はつらそうな顔をした。姉妹が戦っていることを三人で一番悲しんでいるのは芳姫だった。

「でも、私達は華姉様を打ち破らなければなりません。それが華姉様のためなのです」

 華姫はとうとう都を攻めるという罪まで犯し、助命は一層難しくなった。それでも光姫は姉を救うことを諦めるつもりはなかった。

 今日、砦を攻める禎傑軍の後方に白い姿を見付けた。すぐに見えなくなったが、しばらくして爆鉄弾の投擲が始まった。

「華姉様はすごいけれど、進む方向が間違っています。私達が止めてやり直させてあげなければ、きっと不幸になってしまうと思います」

 泰太郎が頷いた。

「その通りです。それが分かっていながら、華姫様は先に進まれるのです。その意志の強さを改めて思い知らされました」

 恒誠は軍議の後すぐに百家商連の代表を城に招いた。恒誠は大翼の死を打ち明け、芳姫と直孝の前で道久の貿易改革案を撤回し商人達の意見を聞くことを約束して、都の防衛に全面協力を取り付けた。光姫は自分達との連絡役と物資の手配の担当に泰太郎を指名したので、こうして国母のところにしばしばやってくるのだ。

「直孝様、芳姉様。では、行ってきます」

 これからいよいよ雲居国へ向かう。影岡軍は二日前の晩に実鏡に率いられて既に渡海している。都へ来た時と反対に、真澄池の南方の海岸で船に乗り、御島(みしま)の裏側を通って出航してきた場所に上陸したはずだ。北上して森の中で休みつつ夜を待ち、一気に御涙川を渡って、今日の昼は以前侠兵会(きょうへいかい)が光姫達を閉じ込めようとしたねぐらで過ごす。日が暮れたら出発して祉原国(よしはらのくに)へ入る予定だ。北方軍の萩矢頼統と槻岡良門は巍山軍到着の前日に出発しているので、もう栄木国(さかえぎのくに)にいるだろう。

 軍勢の半分近くが出陣して都は寂しくなっているが、城壁の中の武者の数は外から分からないので敵に気付かれる可能性は低い。それに、船乗りや漁師が海を見張って都から出ていく者を捕まえてくれる。

「泰太郎さん。後を頼みますね」

 もし負けた場合、直孝と芳姫を桜舘家の葦江国(あしえのくに)に逃がしてくれるように依頼してあった。この二人が捕まったら再起を図ることは難しくなる。

「分かっております」

 もう義兄ではなくなった商人は丁寧な口調で答え、昔を懐かしみ寂しがるような遠い目をした。

「光姫様はもう頭を撫でるようなお方ではなくなりましたね。この国の希望の光におなりですから」

 泰太郎はまじめな顔になり、光姫と恒誠に深々と頭を下げた。

「華姫様を頼みます。私は島の娘と結婚しますが、あの方をお救いできるのは光姫様だけです。そして、光姫様を勝たせることができるのは、織藤公だけだと思います」

「分かりました」

「任せておけ」

 光姫達は頷き、武者達に向かって叫んだ。

「勝利までもう少しです。それまで耐え切って下さい!」

「おう!」

 大きな返事に手を振ると、光姫と恒誠は元狼公と国母にお辞儀をし、銀炎丸を連れて櫓を出た。階段の下では従寿とお牧が待っていた。

「参りましょう」

 四人と一匹は密かに港へ向かった。港の入口で楠島家の家臣に迎えられて、二艘の小舟に乗り込んだ。舟が分かれたのは、馬が四頭もいるからだ。戦のため(あか)りがまばらな玉都港を離れ、八人ずつが漕ぐ小舟は海面を静かに進んでいった。

 連合軍に気付かれぬよう、わざと遠回りして御島に近い方を進み、御涙川の河口の港から北にやや離れたところに接近すると、岸辺で楢間惟鎮(これしげ)が待っていた。

 船乗り達に礼を言って、五人は馬にまたがった。惟鎮が灯火を持って先導する。五頭の馬は一つの灯りを頼りに闇の中を進んでいった。

 先頭が惟鎮、真ん中に恒誠と光姫、従寿とお牧が最後に付いた。横を並んで走る恒誠を時々見やりながら、光姫はどきどきする胸に耐えて意識を前方に集中させ、ひたすら馬を走らせた。

 田園地帯を素早く走り抜けて西国街道に入り、しばらく進んで、湧き水のある場所で休憩を取った。水を腰の竹筒に入れ、お牧が用意してきた握り飯を受け取って食べ始めると、惟鎮が恒誠に報告した。

「雲居国での陽動(ようどう)は成功しました。巍山の残した余之田(よのだ)家の一千は恵国軍一千とにらみ合って動けません。さすがです。策が見事に当たりました」

 軍議の後、恒誠は楢間惟鎮ほか数名を雲居国に派遣した。小荷駄隊と連絡を取らせて行軍中の食料などを用意させ、雲居国守備に駐留している敵軍を動けなくさせるためだ。

 策とは簡単で、影岡軍が通過する日の日没直後に、双方の陣へ矢や鉄砲を射込めというものだった。互いに信用していないから陣地は離れているだろうという恒誠の予想通り、両軍は本隊がいた時の本陣をそのまま使っていた。城は燃えてしまったし、影岡の町に入るのは住民に憎まれているので不用心過ぎる。かといって、新しく陣地を作るのは大変というわけだ。巍山と禎傑は一時的に手を組んだだけということは武将達も知っていたので、両軍は表向きは友好を装いながら警戒を怠らず、都が落ちたと知らせが来たら相手を壊滅させて手柄にしようと考えていた。

 そこへ突然の攻撃だ。禎傑軍は射かけられた矢や火矢による火災を巍山軍の仕業だと思い、余之田(よのだ)家は鉄砲を撃ってくるのは禎傑軍以外にあり得ないと判断した。双方すぐに防御体制をとったが、十万人を入れるための陣地は広過ぎて一千では守りにくい。やむなく正門を固めつつ、他の箇所から入り込まれないように警戒を厳重にして夜を明かした。が、それ以上の攻撃はなかった。攻撃した小荷駄隊はとっくに逃げて民に紛れていたのだ。弓矢や影岡軍が合戦で手に入れた十丁余りの鉄砲も、再び森の奥の洞窟に隠してしまった。それでも、両軍はあと数日は配下の武者や兵士を陣内に集めて夜の警戒を続けるだろう。

余之田(よのだ)家が巍山に送ろうとした使者は捕まえましたので、連絡が届くことはないでしょう。念のため、我々が通過した後で西国街道の各所で木を倒し、馬の通行を邪魔します」

 恒誠は軍議で、巍山軍の最大の弱点は連絡手段だと言った。藍生原では鳩が使えない。鳩は巣箱のある位置を覚えてそこへ帰ってくるから、巣箱を移動すると到達できないのだ。余之田(よのだ)家は直接使者を送らなければ巍山に情報を伝達できない。本体から離れて西国街道や六国(りっこく)街道を封鎖している部隊も、都に潜入している間諜(かんちょう)も同様だ。巍山軍の諸侯の領国には送れるが、都から数日の範囲にはなかった。都の巣箱は恒誠の命令で監視しているから送っても無駄だ。街道を馬が通れなくする策が有効なのはこのためだった。

 一方、栄木国の北方軍は、泉代家の城の鳩で都と連絡が可能だ。光姫達は鳩を都と北方軍へ飛ばすことができるが、受け取ることはできない。こんな単純なことのせいで、影岡軍の上陸を藍生原の巍山は知ることができなかった。

「よくやってくれた。ご苦労だった」

 恒誠は惟鎮をねぎらった。その様子を光姫はじっと見つめていた。と、恒誠が振り向き、目が合った。光姫は慌てて横を向き、銀炎丸に餌の雉肉を与えた。お牧と従寿の視線を感じたが、振り向かなかった。

「さあ、行こうか」

 恒誠は立ち上がり、馬へ向かった。光姫も銅疾風に歩み寄った。首筋を撫でてやりながら、光姫は恒誠へ目を向けて、小さく溜め息を吐いた。

 そうして、五人は再び馬を走らせて祉原国へ入り、明け方に実鏡達に追い付いた。

 実鏡達は街道の途中の茶屋にいた。そばに小川が流れていて武者達が水浴びをしていた。

 見張りの武者に案内されて茶店へ入っていくと、実鏡達は主人に茶と団子でもてなされていた。泰太郎がここの主人は絶対に協力してくれると請け合ったので行軍計画を立てた時に宿営地に決めたのだが、長年ここで店を維持している名物親父は先行した小荷駄隊から影岡軍が来ると聞いて大喜びしたという。武者達の食事の支度も手伝ってくれて、到着してすぐに食べられたそうだ。主人は以前都からの帰路に立ち寄った光姫と狼をよく覚えていて、歓迎してくれた。

「たった五人なので少し心配だったのですが、無事に合流できて何よりでした」

 実鏡は笑顔で光姫達を迎えた。恒誠が尋ねた。

「寝不足ではないか」

「行軍は順調でした。あのねぐらなら見付かる心配はないので、昨日はよく眠れました。お二人はどうですか」

「問題ない」

「私は少し疲れたわ」

 光姫が言うと実鏡は驚き、恒誠をちらりと見た。光姫は大したことはないと笑おうとしたが上手く笑みが作れず、気まずくなって「後で頂きます」と湯呑と団子の皿を持って立ち上がった。

「私達も水浴びをして寝るわね」

「女の方はこちらに場所がございます」

 主人が案内してくれる。お牧は着替えを取りに行った。肌着だけだが、こういう時でも持ってきたのはさすがだった。

 実鏡は首を傾げて恒誠を見たが、軍師は無言で団子を頬張り茶で流し込むと、「美味(うま)かった。礼を言っておいてくれ」と言い残して、安漣が率いている織藤勢の方へ歩いていった。


 光姫達が眠りに就いた頃、連合軍は都を攻めず、周囲の山で一斉に木を()り出していた。昨晩の軍議で華姫が一日攻撃を休むように主張したのだ。

「都の守りは思った以上に固いわ。さすがは織藤恒誠ね。既に死傷者が両軍合わせて一万近くに上っている」

 弓矢と投石による怪我や焙烙玉や硫黄による火傷がほとんどで、すぐに後送して治療しているから死者はまだ少ない。それでも、城壁や砦の内側に籠もる敵に与えた損害よりはるかに多いことは間違いなかった。

「このままでは兵力がすり減るだけよ。それは鷲松公にとっても望ましくないはず」

 禎傑巍山両軍から参加した合わせて二十名の将は、そろって巍山と華姫を見比べた。

「堅固な城壁にまともに攻めかかっても勝つのは難しいわ。あの砦も一見すると簡単に落とせそうだけれど、実際は相当攻めにくい造りになっている」

 華姫の言葉に反論する者はいなかった。

「もしあの道を上手く通り抜けて砦の門に接近できたとしても、破る作業が必要だわ。恐らく、あの門扉は望天城のどこかの門の扉を外して持ってきたのね。たった数日でよくできたものだと思うけれど、丈夫で壊すのは時間がかかるでしょう。そこを弓でねらわれ焙烙玉で焼かれるのは目に見えている」

「では、どうすればよい」

 巍山は不愉快そうに尋ねた。

「策があるなら言ってみよ」

 先を促す巍山のしかめっ面を、数人の封主が横目で盗み見た。

 巍山は野戦は強かったが城攻めはさほど得意でなかったと言われている。その噂の原因は、敵を合戦で打ち破って一気に城下に迫り降伏させる方法を多用したことや、群雀国(むらすずめのくに)の戦いで楡本(にれもと)家の三千が守る城を攻めあぐんで陥落させられなかったことだ。

 この時、巍山を盟主とする九万の軍勢は、救援軍の先鋒を命じられて急行した豊梨実護(さねもり)達一万二千に背後を奇襲されて大混乱に陥った。巍山は撤退を決断したものの、しつこく食い付かれて手間取っている内に武公率いる本隊が到着してしまい、不利な体勢で合戦せざるを得なくなった。

 合戦自体は守りを固めつつ小勢で敵の側面を()いて攪乱(かくらん)する戦法で猛攻をしのぎ切り、大きな損害を出さずに引き分けに持ち込めた。が、武公の強さとその大軍を()の当たりにして、北方で敵なしだった巍山もかなわないのではないかという見方が従属していた諸侯に広まった。

 そこへ、深草国(ふかくさのくに)から毅勇公(きゆうこう)の別働隊が中国(ちゅうごく)街道へ侵入し、梅枝時繁率いる手の国の軍勢が手輪(たわ)峠を越え、楠島家の水軍が(さき)(うみ)を北上しているという報告が入った。中つ国の五国の諸侯は空にしていた領地を襲われることを恐れて次々に離反し投降、巍山は退却を余儀なくされて次第に追い詰められ、本拠の鹿戸(かど)城へ逃げ込むしかなくなった。それで巍山は和平と恭順(きょうじゅん)を決断したのだが、合戦で負けなかった相手に(ひざ)を屈することを相当悔しがったそうだ。

 諸侯が皆それを知っていることが、巍山を一層不機嫌にしていた。だから、華姫はお前が提案しろという言葉にすぐに乗って、攻略法を説明した。

「投石機を作って、砦の中に爆鉄弾を投げ込むのはどうかしら。簡練(かんれん)将軍にも大砲で門や壁を狙わせるの。盾を並べただけの急造の壁で砲弾は防げないわ。都の城壁にも撃ち込ませましょう。崩すことは難しいかも知れないけれど、中にいれば相当な衝撃のはずよ。敵の士気を下げ、特に民の戦意をくじくには有効だと思うわ。大砲なら火事は起きにくいから都を焼く心配はないわ」

「影岡城攻めで涼霊とかいうそちらの軍師が考えた策と同じか。芸がないな」

 末座から楡本(にれもと)茂商(しげあき)が言った。巍山のご機嫌取りのつもりだろう。大勢を誘って寝返ったので巍山に気に入られていて、この軍議にも志願して付いてきたらしい。かつて鷲松家衰退の原因を作った忠臣の孫という誇りはこの男にはないようだった。

「そうね。同じね」

 華姫は否定しなかった。事実だし、軍学は学んだことがなかったので、知識が足りていないことは自覚していた。吼狼国に帰ってきてから必要性に気付いて少しは書物を読んだが、涼霊の穴を埋めるのは難しかった。

「それから、砦周辺の逆茂木も油をかけて焼き払いましょう。城壁の前の空堀は石を運んで埋めるのがいいわ。土より重いけれど運びやすいし、より少ない量で済むわ。人手は充分だから、歩いて渡れる道を数か所作るだけなら、それほど時間はかからないはず。涼霊将軍の考案した八本足の盾と動く壁を作って接近すればいいわ」

「また涼霊将軍か」

 茂商が鼻で笑った。禎傑はむっとした様子だったが黙っていた。自分は何も提案せずに、他人の考えを馬鹿にして賢いことを言ったつもりでいる。そんな人物をまともに相手にしても仕方がないと思ったのだろう。

 巍山は茂商の発言にも全く顔色を変えずに思案していたが、やがて承認した。

「なるほどな。悪くない考えだ。こちらも協力しよう。ただ、それだけでは足りんな」

 巍山は言葉を選んでいる風に考えながら言った。

「わしも攻略法を思案しておったのだが、内側から開けさせることはできぬかな」

「敵を裏切らせるということかしら」

 華姫はすぐに巍山の言いたいことを察した。

「そうだ。あの槻岡公や萩矢公まで都を離れたと聞いた。正直驚いたが、どうやら桑宮道久は相当嫌われておるようだ。今、都の武者は四万程度、勝ち目がないと思っている者も多かろう。誘いをかければ乗って来るかも知れん」

 巍山は道久が都を占拠した時、全国の諸侯に使者を送り、彼に味方せず自分を支援して欲しいと訴えている。禎傑軍と手を組んだ今、諸侯の来援は望みが薄くなったが、都にも援軍は来ないだろう。となれば、陥落は時間の問題で、内応しようと考える者もいるかも知れない。

「そうね。でも、都に残っているのは本当の忠臣だけよ」

 華姫が言うと茂商は嫌な顔をしたが、巍山はいかにもしたたかな陰謀家らしく笑った。

「御廻組一万九千は副頭十人が二千ずつ率いておる。中にはまだ若い桑宮の命令で戦うのを快く思わぬ者もおろう。数人寝返らせれば門など容易(たやす)く開く」

「なるほど。あの生意気な桑宮なら嫌われて当然。都の民にも同調する者が大勢出ましょうな」

 茂商はすぐに賛同した。華姫は少し考えて提案した。

「都は米が値上がりしていると聞いたわ。田美国の米を安く供給すると約束したら、民の協力を得られそうね」

「いや、それは我々がする」

 茂商が言った。

「桑宮に都を占拠される前から米を運ぶ話が進んでいたのだ。こちらに任せてもらおう」

 都の民の人気を得るのは自分達だと言うことらしい。攻略後を考えているのだ。

「御廻組の切り崩しも我々がする。俺は最近まであそこにいたのだ。伝手(つて)はたくさんある」

 茂商が自信ありげに胸を張ると、鍾霆(しょうてい)将軍が聞こえよがしに言った。

「最初から敵と通じてるんだろ。城壁攻めも格好だけじゃねえか」

 通訳がそれを吼狼国語にすると、巍山軍の諸将が色めき立った。

「なんだと! 我々が攻撃に手を抜いていると言うのか!」

 武将の一人が叫ぶと、鍾霆は怒鳴り返した。

「じゃあ、あの旗や太鼓は何なんだ。飛んでくる矢もそっちの方は明らかに少ねえじゃねえか」

 鍾霆は城壁攻めを担当していたが、陣に戻ってきて禎傑に訴えたのだ。巍山と都の守備隊は裏で手を結んでいると。

 鍾霆によると、巍山軍が攻めている時、時々太鼓の連打が物見櫓から聞こえてくる。三連打、四連打などそのたびに違うが、直後に飛んでくる矢の数が急に増えるらしい。巍山軍も気が付いて、太鼓の音に合わせて退いたり身を守ったりする。禎傑軍の担当場所ではそういうことは起きなかった。

「お前達は示し合わせて互いに手加減して、俺達だけに損害を与えようとしてるんじゃないのか。弱らせ疲れさせておいて、都が落ちたら襲うつもりなんだろう!」

「言いがかりだ! 我々は本気で都を攻めている! 手を抜いているのはそちらの方だろう! 腰が引けた攻撃ばかりしやがって! 臆病者どもめ!」

 巍山軍の武将達は立ち上がって叫んだ。彼等は内心都を攻めたくなかったが、仕方なく城壁を攻撃している。それを手抜きなどと言われては、黙っていられなかった。

「俺達が何だって? もう一度言ってみろ!」

 禎傑軍は華姫の指示で死傷者を減らすべく、盾を持った兵を並べて天井を作り、その隙間から攻撃している。鉄砲はしゃがんで弾込めしなくてはならないので必要なことだが、鎧兜を頼りに弓を射ている吼狼国武者には、敵の矢に身をさらさずにこそこそ攻撃しているように見えたのだ。

「双方、静まれ!」

 乱闘になりかかったが、禎傑が大喝(だいかつ)して机を(こぶし)で叩いた。

「やめぬか。そなたたちも落ち着きなされ」

 巍山も言葉に力を入れた。この二人と華姫だけは椅子に座ったままだった。両軍の諸将は仕方なく席に戻ったが、互いへの不満と不信は明らかだった。

「これがねらいか」

 禎傑の言葉に巍山が腹立たしげに頷いた。

「そうであろうな」

「私達がいがみ合っては敵の思う壺よ。きっと、織藤恒誠がやらせているんだわ。こちらも寝返りを誘う矢文を射こんで敵を動揺させてやりましょう」

 華姫も言ったが、もともと両軍は都を落としたら戦うつもりでいる。それを皆分かっているだけに、協力しろと言われても互いに信じる気になれないのだ。

「やむを得ぬ。分担してそれぞれでやるしかあるまい」

 巍山が言い、禎傑も受け入れた。翌日の準備作業も別々に行うことになった。華姫は溜め息を吐きたい気分だった。

 軍議用の天幕を出て歩きながら、華姫は都の城壁へ目を向けた。

「こんな状態では都はいつまでたっても落ちないわ。人の和がない軍勢が勝てるはずがないもの」

 両軍は自然に距離を取って陣地を張り、周囲に空堀と柵を巡らしていた。軍議は互いに相手の陣地に入りたがらず、中間に仮設の幔幕(まんまく)を張ったのだ。

「仕方あるまい。どちらもできるだけ損害を出さずに決戦に臨みたいのだ。相手にはもっと弱って欲しいと思いながらな」

 禎傑は笑った。笑うしかないという心境ではなく、自信の表れだった。

「俺達は必ず勝って吼狼国を征服する。そのために海を渡ってここまで来た。それに、俺にはお前がいる」

「もちろんよ」

 信頼と愛情の籠もったまなざしを受け止めて華姫は答えたが、心は晴れなかった。

 妹が影岡城を燃やして脱出したと知った時、華姫は正直ほっとした。が、同時に、逃げ込んだ先を察して厄介なことになったと思った。都の守りが固くなるのは確実だったからだ。光姫達に邪魔されると困るから、先に影岡軍を倒そうとしたというのに。

「どうも嫌な感じがするの。都には光子と織藤恒誠がいるわ。あの二人が何かをたくらんでいて、それに気付かぬ内に乗せられているような不安を覚えるのよ」

「今日彼等は砦で防衛の指揮をとっていた。狼の声も聞こえていたぞ」

「そうね。でも、影岡軍はいないようだったわ」

 禎傑は驚いた。

「本当か。根拠はあるのか」

「彼等の旗は立っていたけれど、ほとんど動かなかったわ。飾ってあっただけだと思うの。砦の武者達の戦いぶりも、影岡城を守り切った猛者(もさ)達にしては、攻撃の正確さやこちらの動きへの対応が遅いような気がしたの」

「俺はそうは思わないな。あれは急造の砦。影岡城と勝手が違うのは当然だ」

「でも、もし影岡軍がいなかったとしたら、あの精鋭を最も得意で慣れているはずの砦の防御から外したのはなぜかしら。もしかしたら、反撃の機会をねらって温存しているのかも知れない。何か他の作戦の準備をしている可能性もあるわ。危険な感じがするのよ」

「考え過ぎだ」

 禎傑は一笑に付した。

「あの軍師の実力は大したものだ。それは俺も充分分かっている。だが、今回は駄目だ。圧倒的に戦力が不足している。二十万対四万は二万対四千よりずっと厳しい戦いになる。あの男は奇策を用いた会戦が得意らしいが、都の前は灌木(かんぼく)がところどころに立っているだけの草地で見晴らしがよい。門を出てくれば必ず我々に発見されて前をさえぎられる。また、都を空にするわけにはいかないから、四万全てを攻撃に投入できない。となれば、こちらが負ける可能性はほとんどない」

「それはそうだわ。でも……」

「焦るな。お前は冷静でいろ」

 禎傑は金箔(きんぱく)を貼った扇子で華姫を(あお)いだ。扇子は南海州にはないらしく、気に入ってもう夜は涼しいのに持ち歩いている。華姫は吼狼国を征服し終えたら、恵国へ本格的に輸出してみようと思っている。

「あの、ハナコ様」

 後ろを歩いていたサタルが声をかけてきた。

「地面に穴を掘ってはどうでしょうか。僕達は得意です」

 都の城壁を越える方法を考えていたらしい。鉱山で働いていた者らしい発想だった。だが、華姫は首を振った。

「この辺りは河口の湿地帯よ。きっと地下水が多いから無理ね。でも、ありがとう」

「いえ……はい!」

 サタルは残念そうな顔をしたが、すぐに笑った。

「僕の故郷にも扇子はありませんでした。かわりに、そういうものはたくさんあります」

 と華姫の首元を見つめた。華姫は婚儀の時禎傑から真珠と珊瑚(さんご)の首飾りをもらい、身に着けている。南海州の商家で買い求め、いつか渡そうと思っていたそうだ。真珠や珊瑚は吼狼国や、特に恵国で珍重される。禎傑は真珠が好きで、愛用の短剣の(つか)にも三つ埋め込んである。

「暴波路国は宝石がたくさん採れるのよね。そういえば、この金剛石も暴波路国産ね」

 白い指輪はまだ左手にはめている。泰太郎と離縁した時に処分しようと思ったが、思い出が多過ぎて捨てられず、身に着け続けていた。

「僕の故郷は珊瑚の産地です。だから、牙伐魔族にねらわれました」

「吼狼国に輸入できないかしら。暴波路国と貿易ができたら、恵国にばかり依存しなくて済むわ。硝石(しょうせき)は恵国から買うしかないけれど」

 硝石は火薬の製造に欠かせない。禎傑軍が鉄砲や大砲に使っている火薬は、輸送船で恵国から大量に運んできた硝石と吼狼国の硫黄などで作ったものだ。吼狼国には花火があり少数ながら鉄砲もあるため火薬生産の技術があるが、硝石はほとんどが輸入物で、国内の生産量はわずかだ。それも声返国(こえがえりのくに)深奥国(みおうのくに)など(かかと)の国北部の内陸国が中心の産地で、支配下に置けるのはしばらく先だろう。

「いずれにしても、私達は孤立してはやっていけないわ。恵国や暴波路国と、可能なら牙伐魔(ガバマ)族とだって手を結ばなければ」

「もうそこまで考えているのだな。やはりお前は他に得難(えがた)い女だ。そういう発想は泰太郎から学んだのか」

「そうよ。あの人にはたくさんのことを教えてもらった。だから、今、私はあなたを助けることができるのよ」

 禎傑は立ち止まり、華姫の腰に片手を回して抱き寄せた。

「俺も巍山との決戦の計画を立てておこう。涼霊がいなくなりお前が頼りだが、全てを背負わせるつもりはない」

 禎傑の口づけを首筋に受けると本陣の入口で彼と別れ、華姫は自分の天幕へ向かった。大将の禎傑と別の天幕を華姫はもらっていた。中に入る前に、華姫はサタルに頼んだ。

「政資さんと治業さんを呼んできてくれないかしら。あなた達に話があるの」

 二人はすぐにやってきた。護衛役の景隣とラハナも加えた五人に、華姫は小声で告げた。

「いつでも移動できる準備をしておいて欲しいの。いざという時、すぐに田美国へ戻れるように」

 驚く家老達に華姫は軍議の様子を話した。

「同盟はかろうじて維持されているけれど、いつまで続くか分からないわ。都が落ちる前に巍山軍と戦闘になる可能性もある。禎傑皇子を守って退避しなくてはならなくなるかも知れない。もしもの時に備えたいの」

「素早く撤収可能な状態にしておけということですな」

 治業が確認した。

「そうよ。物資などは毎朝荷造りさせて。夜間の警戒は交代で四分の一ずつでいいわ。ほかは休ませないと持たないでしょう。すぐに全員を起こせるようにしておいて」

「かしこまりました。武者頭達に伝えておきましょう。暴波路兵にも命じておきます。ですが、それほど危ぶむ根拠はおありなのですか」

 政資の問いに、華姫は少しためらって説明した。

「禎傑皇子は考え過ぎと言うけれど、私はやはり心配なの。光子とあの軍師を甘く見ては駄目よ。例えば、サタルさんの提案と逆に、都のどこかに抜け道や穴を作ってそこから打って出てきたらどうなるかしら。門ばかり警戒していて不意を突かれたら、本陣近くまで切り込まれる恐れがあるわ」

「しかし、都の北は大きな池、西には水堀があります。それに、我等の本陣を襲うには丹浪川(になみがわ)を渡らねばなりませぬ。難しいのではありませぬか」

 玉都は縈水(えいすい)の都と呼ばれ、北を池、東西を川、南を海に囲まれた天然の要害の地だ。池の北は何本も深い谷が山脈へ伸びているし、防衛上の必要からとげのある木を多数植えてあり通行は困難だ。また、都の西を南北に流れる丹浪川(になみがわ)()(うみ)から栄木国を通って雲見湾に注ぐ大河で、藍生原と都周辺を区切って古来堀代わりとなってきた。橋は西国街道にかかるもの一つしかなく、そこを見張っていればまず渡れない。

「皇子を失ったら私達は終わりなのよ。夫や仲間を危険にさらしたくない。用心した方がいいと思うの」

 華姫の顔は晴れなかった。

「明日から物見を増やして、光子と織藤恒誠の動きを見張ってくれないかしら。桑宮側が反撃するとしたら、絶対にあの二人が中心になるはずよ。影岡軍の武者達の所在も知りたいわ」

 三人の将はなおも首を傾げていたが、主君の賢さをよく分かっていたので、笑い飛ばすことはしなかった。

「姫様のご懸念は分かりました。都の警戒は厳重で中に人を忍び込ませるのは難しいでしょうが、できるだけのことはやってみます」

「頼んだわ」

 華姫は都の方へ目を向けて、「心配が外れればよいけれど」とつぶやいた。


 その日、つまり菊月六日の深夜、光姫達は藍生原へ数刻のところまで来ていた。

 もう少しで海沿いの細い道は終わる。暴払山脈に連なる左手の山並みも、この先は遠ざかって開けた平地に入っていくはずだ。

 影岡軍は攻撃の前の最後の長い休憩を取った。この後は連合軍の陣地にできるだけ接近し、隠れて突撃の合図を待つだけだ。

 武者達は好きな場所に腰を下ろして、鎧の帯につるしていた握り飯三個で腹ごしらえしている。光姫も海を眺めながら一人で食べたが、味は分からなかった。

「今しかないのよ。勇気を出して、彼のところに向かいなさい」

 光姫は自分に命じ、深い溜め息を吐いた。出発したら、敵に気付かれぬよう、私語は厳禁だ。ゆっくり話などできない。恒誠の求婚に返事をする機会は他にないことは分かっていた。決戦の前に結論を出すと決めたのは自分だ。

 それなのに、光姫は動けなかった。様々な思い出や感情で胸と頭がいっぱいで、最後の勇気が出ない。

 光姫は銀炎丸をぎゅっと抱き寄せてつぶやいた。

「お姉様は桑宮道久を本気で愛していたのね。きっと運命の恋だったんだわ」

 道久が撃たれた時、光姫は倒れていく彼を一瞬恒誠と勘違いした。

 恒誠さんが死んでしまったかも知れない。そう思った瞬間、激しい恐怖が体を突き抜けた。目の前が真っ暗になり、自分の胸が撃たれたような衝撃を受けてよろめいてしまった。

 その時、光姫は悟ったのだ。自分がいかに恒誠を大切に思っていたのかを。彼は失ってはいけない人だった。常に光姫のそばにいてくれなければならない男性だったのだ。芳姫は言っていた。道久は絶対に自分に必要な人だったと。

 私は恒誠さんを愛しているんだわ。

 光姫はようやくその事実に気が付いた。直後に、かばおうとした恒誠にきつく抱き締められて、息が止まった。涙が出そうだった。彼は生きていて、自分を守ってくれる。痛いほど力の籠もった腕が、二人を結び付けていた。

 自分はこの瞬間をずっと待っていたのだと光姫は思った。いつの間にか、こうして全身で彼の存在を感じたいと望むようになっていたのだ。興奮と驚きで頭に血が上り、彼に抱き締められている幸福に酔いしれた。

 が、すぐに彼は離れた。「大丈夫か」と心配そうに尋ねられて、状況を思い出した。慌てて周囲を見回して安全を確認していると、芳姫の絶叫が聞こえた。

「道久殿! しっかり、しっかりして!」

 その悲痛な声に、光姫は再び激しい衝撃を受けた。姉がどれほど道久を愛していたのかを理解したのだ。そして、その悲しみの大きさ、絶望の深さを自分のことのように感じた。息を引き取った道久を見て姉が気を失った時、自分も倒れたような錯覚を覚えた。もし死んだのが恒誠だったらと想像して、しばらく体の震えと動悸(どうき)が収まらなかった。

 光姫は担架で運ばれる姉に付き添って歩きながら、直前に聞いたつらい日々の告白を思い出し、胸が痛んだ。姉は心ならずも権力者になってしまい、重い責任の重圧と孤独に苦しんでいたのだ。そんな姉にとって、道久は支えだった。彼は姉の幸福の源だったのだ。それを奪ってしまったのは自分ではないかと光姫は思った。

 芳姫は国母だ。だから、道久との関係は望ましいことではない。だが、追い詰められて救いと心の拠り所を身近な男性に求めた姉を責められるだろうか。一人で全てを背負えと迫るのが正しいのだろうか。それが民のため、国のため、何より姉のためだっただろうか。

 現実には、道久の貿易改革も権力への執着も見過ごすことはできなかった。芳姫を利用しようとしたのも許せない。光姫の暗殺までたくらんだのだから、当然の報いではある。

 それでも、姉を悲しませない解決法はなかったのかと光姫は悔やんだ。それはどんな方法かと問われると答えられなかったが、姉から幸福と愛する人を取り上げずに済んだ道もあったような気がしてならなかった。

「決して愛する人を手放してはいけないんだわ」

 光姫は遺体にすがって泣く姉を見て強く思った。だから、恒誠への返事は決まっていた。あの時から、彼を見ると胸がどきどきし、そわそわしてしまうようになったのだ。これに無自覚でいられた自分は相当鈍感だが、実はこういう気持がはっきり心の中に生まれたのはあの瞬間だったようにも思われた。

「さあ、光子、行くわよ」

 とっくに握り飯はなくなっている。食べ終わったら行こうと考えていたのに、ぐずぐずしていた。しかし、そんなのは自分らしくない。

「銀炎丸。ここで待っていてね」

 命じたが、狼も起き上がった。付いてくるつもりらしい。

「仕方ないわね」

 光姫は狼の頭を撫で、覚悟を決めて歩き出した。

 織藤勢に近付いて軍師を探したが、見当たらなかった。すると、撫倉安漣が近付いてきて教えてくれた。

「恒誠様はあっちですよ」

 指差された方へ行ってみると、軍勢から少し離れたところで、一本の高い木に背を預けて座っていた。暗い海を眺めながら酒を飲んでいるらしい。

「よし!」

 気合を入れると、歩み寄って声をかけた。

「戦いの前にお酒?」

 声は震えずに済んだ。恒誠は顔を上げ、木の椀を持ち上げてみせた。

「最後の酒になるかも知れないからな」

 口ぶりで冗談だと分かった。

「勝った後にとっておいたら」

 光姫も応じると、「おう、そうだな」と返事があった。

 これなら上手く言えそうだと思って隣に座って気が付いた。恒誠はひどく緊張していた。光姫をちらりと見た横顔が強張っている。

「ど、どうしたの」

 光姫も自分の緊張を思い出して、どもってしまった。

「いや、そろそろ来る頃だと思っていたのでな。予想よりも遅かったが」

「えっ……」

 恒誠が向けた顔で、彼が返事を聞くつもりだったと分かった。わざと人に聞かれない離れたところで待っていたのだ。

「何でも分かっちゃうのね」

「これは俺でなくても分かるだろう。光姫殿はとても緊張しているしな」

「そ、そうかしら」

「声が震えているぞ」

「あなたもよ」

「分かっている」

 光姫は溜め息を吐いた。

「なら、答えは聞かなくても分かるわね」

 恒誠は首を振った。

「いや、予想はできるが確信はない。人の心は分からないからだ。光姫殿の口からはっきり聞きたい」

 あれだけ敵味方の行動を読んだ作戦を立てるくせに、と思うと、それを察したように言った。

「部隊を率いる将の判断の基準や群衆の感情の動きは分かっても、個人の心は分からんな。特に、大切な人の気持ちは難しい。どうしても願望が入ってしまうし、間違っていた時に衝撃が大きい」

 そういうものなのね、と光姫はこんな時だが感心した。

「それで、答えを聞こう」

 息を呑んで待っている。

 待ち構えていられると、かえって言いづらい。が、言わなければならない。光姫は敵陣へ突撃する時の十倍の勇気を振り絞って、口を開いた。

「俺が好きなんだな?」

「……はっ?」

 直前に先を越されて、間抜けな声が出てしまった。

「違うのか」

 確認されて、慌てて頷いた。

「ち、違わないわ。す、好きよ。本当よ」

「では、結婚してくれるんだな」

「そうよ。するわ」

「そうか……」

 恒誠は大きく息を吐き出した。そして、小さく噴き出した。光姫はむっとした。

「なんで笑うの!」

「いや、滑稽だと思ってな。こんなことに緊張して真剣な俺達が」

「真剣なのは当然でしょう。一生の問題なのよ」

「それはそうだな」

 恒誠は頷き、謝った。

「笑ったのはよくないな。俺にとっても重大な問題だ。笑い事ではない」

 そう言いながら、まだおかしそうだった。

「だが、これから国の運命を左右する大決戦に向かおうというのに、俺は昨日からこのことばかり気になって浮足立ち、頭が回らなかった。まあ、そうなるだろうと予想して、出発前に全ての計画を立てて実鏡殿に伝えてあったから、問題はなかったが」

「予想していたって……」

 光姫は驚いた。自分が考えに集中できなくなることまで想定して対策を講じておくなんて、理解を超えている。そう思ったのが顔に出たらしく、恒誠はやさしい顔になった。

「光姫殿はそれでいいんだ。その時々に、喜んだり、悲しんだり、笑ったり、怒ったり、驚いたり、泣いたり。それが光姫殿の魅力なんだ。三日後の自分の心境を予想して準備する女なんて可愛くないからな」

「そうなの? よく分からないわ」

 首を傾げると、恒誠は腰の黒い軍配を抜いて光姫と自分を(あお)いだ。

「光姫殿は真っ直ぐだ。信じる道を突き進む。俺はそういう光姫殿を眺めているのが心地よい。だから、あなたを俺の妻にして、これからも一生共に暮らしてそばで見守りたい」

「うん……」

 はっきり言われて、また恥ずかしくなってきた。

「初めて会った時、一目で光姫殿に惚れた。一緒に戦っていく内に、ますます惹かれていった。白林宗明は、八十七万貫を持たないあなたには魅力を感じないと言ったな。だが、俺は違う。たとえ領地を失ってただの娘になっても、俺はあなたを妻に迎えたい。梅枝家の跡取り娘だからではなく、あなたを一人の女人として愛している」

「私もよ。恒誠さんと離れて暮らすのはもう想像できないの」

 感激で涙があふれた。が、ここが肝心と思い、泣き出したいのをぐっとこらえて、しっかりと返事をした。

「私はたくさんの人と見合いをしたけれど、ずっと、大封主家の娘でなくてもよい、と誰かに言ってもらいたかった。あなたを選んで正解だったわ。あなたは私の運命の人だと思うわ」

「俺もあなたを運命の女人だと思う。だから、その運命のきっかけを作ってくれた華姫殿に礼をしないといけないな。ようやく思いが届いたのに、婚儀も上げぬまま死ぬのは嫌だからな」

 恒誠は笑った。光姫も笑い返した。

「そうね。華姉様を破り、ついでに巍山も打ち負かして、一緒に明るい未来を勝ち取りましょう」

 笑い合いながら光姫は涙を流した。愛する人に愛されている。それがとてもうれしく幸福だった。だが、その一方で、そういう相手を失った上の姉の悲しみが思われて、胸が二つの感情で破裂しそうだった。

「ところで、一つ言っておくことがある」

 恒誠が急に真顔になった。

「戦の前だし、結婚に水を差すようでなんだが……」

 光姫は驚き、はっと気が付いた。

 まさか、結婚生活に前もって条件を付けるつもりかしら。あれはしないとか、あれは認めろとか。

 恒誠はどう言い出すかを考えている。

 変な条件だったら許さないわ。側室は絶対駄目よ。

 光姫が身構えると、恒誠は首を傾げて言った。

「光姫殿は俺の妻になるが、梅枝家の当主はどうするのだ」

「あっ……!」

 考えないわけではなかったが、最近いろいろあって頭から抜けていた。

「忘れていたか。まあ、そうだろうな。でなければ、簡単に俺と結婚するとは言えないはずだからな」

 予想はしていたが、と恒誠は呆れていた。

「戦が終わって全て片付いてからだが、俺達の婚儀の前には決めないといけない」

「そうね」

 条件でなくてほっとしたが、頭の痛い問題を思い出してしまった。

「それから、これは宿題だが……」

「宿題?」

 光姫は驚いた。

 結婚相手に宿題なんて聞いたことがないわ。けれど、恒誠さんだから、きっと大変な難問を出してきそうだわ。

 再度身構えたが、話の方向が予想と全く違った。

「戦いが終わったら、新しい国を作らなければならない。それは分かっているか」

「え、ええ……」

 光姫は頷いた。道久の貿易改革は実現しなかったが、現状のままでよいはずがないので、何らかの改革は必要だ。それくらいは光姫でも分かる。

「改革の中心になるのは俺達だ。周りも期待するし、勝つだけ勝って後は任せると言って引き上げたら、吼狼国の混乱は終わらない。権力争いが起こって、最悪また戦だ。それを避けるには、俺達が少なくともある程度の期間は統国府を支えなければならない。俺はその新しい御前衆の中心は光姫殿がふさわしいと思う」

 光姫が驚いて口を開こうとするのを手で制して、恒誠は言葉を続けた。

「そう思う理由は二つある。一つは、国母様が桑宮の死後、政務への意欲を失っていることだ。誰かが代行、もしくは交代する必要がある」

「芳姉様の代わり……」

 確かに、誰かがその役割を果たす必要があった。

「二つ目は、光姫殿がこの国と民を心から大切に思っているからだ。その光姫殿を俺達が支える。そういう体制が今後は必要だ」

 恒誠は真剣な口調だった。

「さっきも言ったが、光姫殿は本当に真っ直ぐだ。口先だけの甘言(かんげん)や嘘を嫌い、言ったことをきちんと実現しようとする。そういう人物が新しい統国府の長になれば民も安心するだろう」

「待って。萩矢様など、他にもっとふさわしい方がいるわ」

「譜代であることや身代(しんだい)の大きさを考えればそうかも知れない。だが、俺は光姫殿が適任だと思う。それで、宿題だが、光姫殿が吼狼国をどういう国にしたいのかを考えて欲しいのだ」

「どういう国、ですか」

「そうだ。新しい国の方針、目指す方向、治政の上で大切にしたいことを考えて欲しい。それを諸侯や民に伝え、俺達が具体案を作って実行していく」

「難しいわ」

 正直な感想を述べると、「そうだな」と恒誠も頷いた。

「確かに難しい。俺もすぐには答えられない。だから、戦の後、じっくりと考えてくれ。光姫殿がこの半年の戦でどういう体験をし、何を学んだかを考えればよいのだと思う」

 恒誠は頭を下げた。

「頼む。俺と一緒に、新しい国を作って欲しい」

 これが彼なりの求婚の言葉なのだと光姫には分かった。俺の子を産んで欲しいとか、そばにいて欲しいではなく、一緒に未来を作っていこうと言われたことが、光姫はうれしかった。海国丸の船出の時の姉の言葉が思い出された。

「あなたも早くいい人を見付けなさい。その人となら苦労が幸福に変わるという人を」

 幸せにしてもらうのではない。共に幸福な世界を作るのだ。光姫は力を入れて答えた。  

「喜んで! どこまでもあなたと共に行きます! 二人でいい国を作りましょう!」

 恒誠は笑っている。光姫も笑みを浮かべた。ようやく思いが通じて結婚した後の話までできた。ここは感動的な場面で、大いに喜ぶところだった。

 が、素直にそれに(ひた)れなかった。確かに幸せな気分なのだが、何かが引っかかって、恒誠の顔をじっと見た。

 分かった。お互いの気持ちを確認し合っていたはずなのに、いつの間にか(まつりごと)の話になっているからだ。嫌ではないが、恋人同士の会話ではない。ちょっと悔しかった。

「どうした」

 若い軍師が首を傾げると、その(あご)へ光姫は手を伸ばした。

「痛っ! 何をする」

不精髭(ぶしょうひげ)がすごいわよ」

 指を見ると、一度に四本もむしり取っていた。

「早くも嫁気取りか」

 恒誠が顎をさすりながらからかったので、光姫はむきになった。

「吼狼国を救う大軍師がそんな顔では威厳がないわよ。私も許婚(いいなずけ)として恥ずかしいわ。来なさい。()ってあげる」

「いらぬお世話だ。俺はこのままでいい」

「討ち死にして遺体を民にさらされた時、髭ぼうぼうだと恥をかくわよ」

「嫌な想像だな」

「大丈夫よ。刃物の扱いは得意なの。任せなさい」

「まさか薙刀を使うつもりか」

「そんなわけないでしょう」

 軍師の手を引っ張って立たせ、連れて行きながら、光姫は愉快だった。

 軍勢の方に戻ると、家老達が集まっている。

「あれ、もう出発かしら」

 近付いて尋ねると、従寿がにやにやしている。

「どうかしたの?」

 尋ねると、家老達は顔を見合わせて笑った。光姫は首を傾げて、従寿に言った。

剃刀(かみそり)を貸してくれないかしら」

 従寿は意表を突かれた顔をした。お牧や師隆や具総と顔を見合わせて深刻な様子で確認した。

「何に使うのですか。まさか、上手く行かなかったのですか。もしかして、自殺……、いや、姫様に限ってそんなことはないと思いますが」

「何のこと? 恒誠さんの髭を剃るのよ。見て。稲を刈った後の田んぼみたいだわ」

 光姫が言うと、家老達は皆ほっとした顔をし、輝隆が喜んだ。

「やっぱり上手く行ったみたいですね」

「さっきから、何の話?」

 光姫が尋ねると、楢間福子が言った。

「もちろん告白ですよ!」

「えっ……?」

 実鏡もうれしそうに祝福した。

「やっぱり恒誠殿と婚約したんですね。おめでとうございます」

 従寿がとどめを刺した。

「俺の賭けは先月中だったんで負けましたが、なるようになってよかったです。みんなやきもきしていたんですよ。でも、手なんか握っちゃって、随分と幸せそうですね」

「もしかして、みんな知ってたの?」

 光姫は顔を真っ赤にして叫んだ。

「光姫殿の考えは分かりやすいと前に言ったろう」

 恒誠が手を引っ張られたまま照れ臭そうに言った。


「では出発しましょう」

 影岡軍は集合して隊列を組んだ。全員鎧兜を身に着け、武具の最終点検も終わっている。実鏡と恒誠と楢間親子が先頭に立ち、一万一千人は再び歩き出した。

 皆口を利かず、灯りも持たずに黙々と歩いた。戦が始まる緊張感で、涼しい秋の夜だというのに武者達はいつも以上の汗をかいた。

 そうして一刻ほど進んだところで、小荷駄隊が十名ほど待っていた。

 恒誠は全体に休憩を指示して、彼等の報告を聞いた。

「街道に封鎖の軍勢がいたか」

「はい。おりました」

 小荷駄隊の若者が答えた。

「巍山軍六千五百、恵国軍三千、合計九千五百です。両軍は少し離れて布陣しています」

「巍山軍はどこの家だ」

「織藤公の予想通りでした。蓮山(はすやま)家四千、蕨里(わらびさと)家二千、新芹(にいぜり)家五百です」

「やはりそうか」

 恒誠は集まってきた諸将に事態を説明した。

「この先で街道が封鎖されている。巍山軍は三家だ」

「英綱さん達、後ろに回されたのね」

 光姫と同じことを輝隆も思ったらしかった。

「恐らく、我々に巍山と禎傑の同盟を知らせたからでしょうね。他の二家も、勝手に都を飛び出して雲居国へ駆け付けた一万五千の中心と見なされて信用されていないのでしょう」

「手柄を立てさせたくないのですな」

「当然、三家は面白くないでしょうな」

 師隆と具総が推測を述べると、安漣が言った。

「彼等が巍山に負けて欲しいと願っていてもおかしくありません」

 実鏡がにっこりした。

「では、きっと僕達を通してくれますね」

 楢間福子も期待する口ぶりだった。

「それどころか、味方してくれるかも知れませんよ」

 その三家の若君達に影岡軍の諸将は好感を持っていた。

「では、早速使者を出しましょう」

 貞備が伝令の武者を呼ぼうとしたが、恒誠が止めた。

「その説得だが、俺が行こう」

 皆驚いた。輝隆が尋ねた。

「恒誠様が(じき)(じき)にですか」

「だからこそ効果がある。手紙では俺達の勝利を信じてくれないかも知れない。直接出向いて作戦を説明し、その場で決断させる」

「だったら私も行くわ」

 光姫も名乗り出た。

「英綱さんとは私の方が親しいわ。いきなり行って、驚かせてやりましょう」

 光姫と恒誠は、輝隆と従寿ほか数名の護衛を連れただけで蓮山家の陣地を訪れた。名乗ると警備の武者は驚いていたが、知らせに人を走らせ、中に入れてくれた。他家に見られると困ると思ったらしい。

 本陣の天幕に近付くと、入口から英綱が足早に現れた。英綱は二人の顔を穴が開くほど見て、「とりあえず中へどうぞ」と招き入れた。

 蓮山家の家老五名を左右に従えた英綱は、床几に腰も下ろさずに、ずばりと尋ねた。

「お二人ご一緒に、しかも戦支度をしてとなると、これから夜襲ですか」

「さすがは英綱さんね。その通りよ」

 光姫が頷き、恒誠が言った。

「貴家にも協力して頂きたい」

「詳しくご説明頂けるのでしょうな」

「もちろんだ」

 計画を聞いた英綱はいくつか質問をし、考え込んだ。が、顔が笑っている。光姫はここぞと頭を下げた。

「お願い。協力して」

「勝ったら大幅な加増を約束する」

 恒誠も言ったが、英綱はすぐには答えなかった。

「一つ確認したいことがあります。戦後、あなた方が新しい政権を作るおつもりですか」

「ああ、そうだ」

 恒誠はその問いを予期していたらしく、驚かなかった。

「桑宮道久は死んだ。巍山も負ければ失脚する。誰かが権力を握らなければならない。大翼の地位が欲しくてたまらないような連中に任せるより、俺達がやった方がましだろう。蓮山家にも是非加わってもらいたい。譜代の名門だし、虎落蓑(もがりみの)の工夫の話は聞いている。そういう人物が新たな統国府には必要だ」

「そこまでお考えなのですね。いや、感服致しました」

 英綱は楽しそうだった。

「巍山禎傑連合軍が都に迫る状況で、お二人が何もしないわけはないと思っていましたが、まさか後ろへ回っていたとは」

「では、手伝ってくれるのね」

 英綱は頷いた。

「お前達、反対するか」

 五人の家老は顔を見合わせ、筆頭家老が答えた。

「巍山が勝利すれば当家は冷たく処遇されましょう。最悪の場合、減封(げんぽう)や取り潰しもあり得ます。ここは賭けに出るべきでしょうな」

 次席家老も言った。

「蓮山家は古くから武守家にお仕えして参ったお家柄。はばかりながら武公様の天下統一にも大きく貢献していると自負しております。元狼公様をお助けして鷲松家を打ち破ることを、ご先祖様もお望みでしょう」

「皆、済まぬ。私が勝手をして皆を巻き込んでしまった。付いてきてくれることに深く感謝する」

 英綱は家老達に頭を下げると、光姫達に向き直った。

「では、当家は貴殿らの(くわだ)てに加担し、共に戦いましょう。ところで、他の二家はどうなさる」

「口添えを頼みたい。それで真っ先にここへ来たのだ」

「分かりました。何も知らせずに、二人にすぐに来るように言いましょう。ここの六千五百の大将は私ということになっていますので」

 家老の指示で使者が走った。

「ありがとう。英綱さんなら大丈夫と信じていたわ」

 光姫が礼を言うと、英綱は笑った。

「春に見合いをしたのが私達の(えん)の始まりでしたね。そう思うと感慨深いものがあります。これが運命というものでしょうか」

 つぶやくと、英綱は意味ありげに恒誠を見やった。

「運命のお方が見付かったようですね。この方でしたか」

 光姫が首肯すると、英綱は微笑んだ。

「そうではないかと思いました。お二人の信じ合った様子は、どう見ても恋人同士ですよ」

「そ、そうですか?」

 光姫が真っ赤になって照れると、英綱は真顔で頷いた。

「あなた方を見て、私も覚悟が決まりました。この戦が終わったらお(まち)に求婚します」

「若様!」

 家老がそれは承服しかねるという顔をしたが、英綱は言い切った。

「私はお町殿を愛しています。彼女の幸せを願い、身分違いの結婚は不幸ではないかと思ってためらっていましたが、あの人が私を求めてくれるのなら、私も精一杯お町殿を幸せにするように努めます。幸せは向こうからやってきません。自分達で作り上げるしかないのだと思います」

 光姫は海国丸の出航の時、父時繁が姉に言った言葉を思い出した。

 自分の幸せは自分の力でつかみ取れ。

 姉はこう答えた。

 絶対に幸せになってみせます。

「お父様と華姉様の言った通りだわ。幸せは自分でつかみ取るものなのよ」

 光姫はつぶやき、恒誠に言った。

「私達、幸せになろうね!」

 恒誠は驚いた様子だったが、すぐに答えた。

「ああ、もちろんだ」

「私も負けませんよ」

 英綱は笑い、二人を見比べて言った。

「しかし、()けますね。本当にお二人は熱々です」

 光姫はまた顔を赤くした。

 蕨里(わらびさと)恒寛(つねひろ)新芹(にいぜり)康竹(やすたけ)はすぐに家老を連れてやってきた。光姫達を見て驚いていたが、恒誠の話を真剣に聞き、協力を誓った。半数以上の四千を有する蓮山家が賛成に回った以上、反対しても蹴散らされるだけだし、巍山のやり方には二人も家老達も不満と疑問をたくさん感じていたらしい。

 蕨里(わらびさと)恒寛(つねひろ)は兄と光姫の雰囲気に気が付いて確認し、恒誠が肯定するとうれしそうに祝福した。新芹(にいぜり)康竹(やすたけ)は衝撃を受けた様子だったが、薄々感付いていたらしく、英綱が町娘との結婚を決めたと聞いて、自分も新しい運命を探します、と決意を固めていた。

 恒誠は三家と詳しい打ち合わせをし、英綱達は文莫(ぶんばく)率いる禎傑軍に知られぬように、そっと陣を抜け出すことになった。蓮山家の家老は包囲して全滅させてはどうかと提案したが、一人でも逃がして通報されたら奇襲作戦が崩れるし、戦闘の銃声が藍生原まで届くかも知れない。あと数刻で突撃の時間なので、それまで気付かれなければ十分だ。攻撃が始まると大混戦になるので、後ろを襲われたとしても三千程度に大したことはできないだろう。

 三家六千五百を加えて一万七千五百となった西方軍は、海沿いの道を静かに進み、森が終わるぎりぎりまでやって来た。もう文莫(ぶんばく)隊が気付いて追ってきても奇襲を阻止することはできない。

「姫様。準備が整いました」

 輝隆が報告に来た。あとは命令を下すだけだ。武者達は百名ごとに固まってこちらを見ている。敵陣を駆け回って蹂躙(じゅうりん)し混乱させるため、大勢で陣形を組むことはしない。全員兜と鎧の左腕に白い布を巻いていた。

 光姫は後ろで作業をしていた盾武者達のそばへ行った。今回彼等は盾を持ってきていない。都の城門前の砦に使われているのだ。そのかわり、大量の焙烙玉と硫黄玉を背負い、目の前のこれを(かつ)いできた。

「光姫様、どうぞ」

 盾武者の一人が差し出した木の棒を、光姫は受け取った。先が小さく燃えている。

「そろそろね」

 言った時、北の夜空に一筋の黄色い火花が現れた。真っ直ぐ星のそばまで(のぼ)って、ぱんと弾けた。赤い鴉の模様が天に広がった。

「向こうも無事に到着したみたいですね」

 実鏡がうれしそうに言った。

「では、返事をしよう」

 恒誠に促されて、光姫は花火に近付いた。不動屋(ゆるがずや)大五郎お手製の四号玉だ。光姫は桜祭で火を付ける体験をさせてもらったことを思い出して、これを使うことを軍議で提案したのだ。

「行くわよ!」

 導火線に着火すると、しゅるしゅると音を立てて火が花火の中に入っていき、大きな爆発音と共に火の玉が天に飛んでいった。

 秋の夜空いっぱいに、大きな銀色の狼が描かれた。

「銀炎丸ですね」

 従寿とお牧が微笑んだ。

「そうよ。だから、この花火を選んだのよ」

 軍議の後、光姫と恒誠は大五郎を訪ね、花火を分けて欲しいと交渉した。始め、大五郎は戦に使うことに難色を示したが、百家商連の会頭の口添えもあって承知し、花火台の設置の仕方や運搬時の注意点を盾武者達に仕込んでくれた。

「都から返答です!」

 実鏡の声に東を見ると、城壁の上に薄桃色の桜の花の模様が浮かんでいた。彼等も準備ができているようだ。

 光姫は武者達を振り返った。

「さあ、みんな、決戦よ! 勝って、生き残って、吼狼国を救いましょう!」

「おう!」

 全員が答えた。

 光姫は銅疾風に駆け寄り、またがった。

 都で花火が上がり始めた。十や二十ではない。まるで桜祭の夜のような華やかさで、数千の光の花が次々に開いては散っていく。

 後方で多数の銃声が聞こえた。三家の陣が空だと気付いた禎傑軍が味方に知らせようとしたらしい。だが、もう遅い。

 実鏡は諸将と武者達を見渡し、大きく空気を吸い込むと、前を指差して出せる限りの大声で叫んだ。

「全員、攻撃開始!」

「私に続いて!」

 光姫が真っ先に飛び出し、恒誠、実鏡がすぐに追いかけた。英綱達三人も、従寿やお牧や福子も、家老達も、一万七千五百人全員が腹の底から大声で叫びながら、まだ動きの見えない巍山軍の陣地へ全力で走っていった。

 後ろで不発だった時の予備の四発が次々に打ち上げられ、上空で大きな音を立てて大輪の花を開いている。

 私は勝つ。絶対に勝つ。華姉様を救い、未来と幸福をつかみ取ってみせる!

 隣を走る恒誠と微笑み合って、光姫は馬上で右手を上に三度突き上げた。

「銀炎丸、吼って! 高らかに、勇ましく、吼狼国のために吼って!」

 狼の長く猛々しい咆哮を合図に、吼狼国史上に名高い大合戦は幕を開けた。


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