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花の戦記  作者: 花和郁
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第八章 決戦 一

  第八章 決戦


   一


 光姫達が都に到着した翌日の昼前、望天城の評定の間に恒誠の落ち着いた声が響いていた。

「であるから、我々は都を出て西進し、西国街道を封鎖して敵の進路に立ち塞がるのが最善策と考える」

 御前衆や都守備の諸侯は段上の直孝と芳姫の前に向かい合って二列に並び、若い軍師の提案する作戦に真剣に耳を傾けている。

「雲見湾から双島(ふたじま)にかけての海は楠島家の水軍が警戒している。雲居国の恵国巍山連合軍は海を渡ることができない。田美国には三百隻の恵国水軍がいるが、ほとんどは輸送用の大型船で、海戦に向かない造りのようだ。恵国から田美国まで長い航海をするために、武装より積載量を優先したのだろう。恐らく、兵糧等の運搬(うんぱん)以外には使わないと思われる。負けて吼狼国から逃げ出す時にも必要だろうしな」

 恒誠の冗談に数人が笑みを浮かべた。

「つまり、玉都の南や東から襲われる心配は当面ない。もし上陸してきても、警戒網に引っかかって知らせが来るだろう。よって、我々は軍勢の大部分を出撃させることが可能だ。都の城壁の中に五千、港周辺に五千を残しても、五万三千を戦いに使うことができる」

 恒誠は玉都のある祉原国(よしはらのくに)と雲居国の境を指で示した。

「ここに、今日の内にも出陣して防御陣地を築く。作り方は影岡軍の武者達が知っているからさほど時間はかからないはずだ。そこで敵を食い止める」

「巍山の糧道(りょうどう)と退路を断つのだな」

 九国(きゅうこく)総探題(そうたんだい)萩矢(はぎや)頼統(よりむね)が唸り、水軍(がしら)の楠島運昌(かずまさ)が「なるほど」と手を打った。

「守国軍の食料は持ってあと二ヶ月。有効な作戦ですね」

 巍山は出陣に際して十分な兵糧を用意していたが、蓮山英綱達を慌てて追いかけることになったので、三ヶ月分しか持っていかなかったのだ。都が近いから後で運ばせればよいと思ったのだろう。行軍時の輸送量としては充分過ぎるほどだし、それだけでも十万人分となると荷車が千台を超えたのだ。

「あの狭い道では敵は多数の利を生かせない。戦いは膠着(こうちゃく)するな」

 京師(けいし)守護泉代(いずしろ)成保(なりやす)の独り言のようなつぶやきを、恒誠は肯定した。

「そうだ。そうなれば巍山軍の諸侯は動揺するだろう。とりわけ、巍山に仕方なく従っている諸侯は恵国との同盟に嫌気が差すに違いない。兵力差を埋めるため、可能な限り調略して味方に引き込みたい」

 何人かが頷いた。

「我々影岡軍は防衛の戦に慣れている。すぐ後ろが都で物資の補給に問題はないから相当(ねば)れるだろう。その間に全国の諸侯に(げき)を飛ばして援軍を要請し、兵力が増えたところで後退して、玉都の手前の藍生原で決戦して打ち破る。その時の作戦も考えがある」

 恒誠が自信ありげに言うと、何人かがほっとしたように溜め息を漏らした。軍師として全国に名の轟いている人物が勝利を()()ったのだ。戦場を知らない者達は安心しただろう。確実な勝利などあり得ないことを光姫達は分かっていたが、心強く思ったのは同じだった。

「その作戦には賛成できません」

 これで行こうと決まりかけていた雰囲気に、桑宮道久が水を差した。

「都を空にすれば、巍山の手の者が民を扇動(せんどう)して暴動を起こすかも知れません。また、万が一双島(ふたじま)を迂回して東の馬駆国(まがけのくに)辺りに上陸されたらどうしますか。都を落とされたら終わりです。ここには元狼公様と国母様がいらっしゃり、天宮もあるのです」

 芳姫の右手前に座る大翼は穏やかな口調で主張した。

「急造の陣地より玉都の城壁の方がよほど信頼できます。陣地造りが上手く行くかも分かりません。巍山も指をくわえて見てはいないでしょう。作業中に襲われて退却せざるを得なくなれば、玉都の城壁の外で敵の大軍と戦うことになり、準備のない我々の敗北は必至(ひっし)です。そんな危険な賭けはできません」

「賭けなのは都に籠もる方だろう」

 萩矢頼統が口を挟んだ。

「確かに都には高い防壁があり、その前には深く広い堀もある。だが、防壁は非常に長く、海や港から北に伸びてこの城まで達している。望天城にも守備兵が必要になるゆえ、武者を薄く配置せざるを得ず、数ヶ所を同時に攻撃されたら苦しい。戦場を狭い道に限定した方が長く時間を稼ぐことができよう。ユルップ衆の援軍はまだ来ないのだろう」

「そろそろ到着してもよい頃なのですが」

 パシクが答えた。国母芳姫の要請を受けて、パシクはユルップ族が動かせる最大の兵力を都へ寄越すように国許へ鳩を送った。と言っても、実際には三千人がやっとだ。ユルップ族は大きな船を二隻しか所有していないため、取引のある商家の船を融通してもらい、背の海から煙野運河を通って都に入り、パシクの指揮下で望天城を守ることになる。

 道久が言った。

「こちらは少数です。頑丈な城壁に()って抵抗して敵の兵力を減らし、反撃の機会をうかがうべきではないでしょうか」

 向かいに座る光姫が反論した。

「城壁に拠って戦うのも楽ではないのよ。長い城壁全体を警戒するには、常にほぼ全軍を臨戦態勢に置かなくてはならないわ。そんな状態を長く続けるのは無理よ」

 光姫は統国府から正式に梅枝家の当主と認められたわけではないので、本来はこの広間にすら入れないのだが、芳姫との関係と名声から上座を与えられていた。

 光姫の発言にあちらこちらで賛同の声が上がったが、道久はうっすらと笑みを浮かべて言い返した。

「敵が来るまで数日しかないのです。出撃を議論するよりも、今すぐ都の守備を全力で固めるべきです。武者達も都を敵国の手に渡さぬよう、必死で守るに違いありません。彼等の休息や治療にも都の方がよいと思います」

 数人の諸侯が舌打ちしたが、道久は聞こえないふりをした。道久も都に籠もるのが上策とは思わないが、光姫達に手柄を奪われるわけにはいかないのだ。

 蜂起して都を制圧した時の計画では、道久は恵国軍や影岡軍と手を組んで、巍山を、続けて恵国軍を撃破するつもりだった。そして、その功績で大封を得て諸侯に大翼の地位を承認させ、改革を強力に推進する予定だった。

 そもそも、道久は守国軍の諸侯全てが巍山に従うとは考えておらず、縁戚以外は都に戻って来ると踏んでいた。また、巍山の野望を批判して立てば全国の多くの諸侯が味方してくれると思っていた。恵国軍も膠着(こうちゃく)状態の打破を望んでいるはずなので、芳姫と光姫を使って華姫を説得すれば道久の申し出に乗ってくると考えていた。だから、海国丸事件の関係者をすぐに引き渡したし、泰太郎が現れた時は雲居国まで船と護衛を用意し、巍山軍を倒すのに協力すれば華姫の罪を不問にすると伝えてくれと頼んだ。

 ところが、恵国軍は巍山と同盟した。封主家も色よい返事をくれたところは一つもなかった。桜舘家でさえ、都が落ちたら皇家の人々と元狼公と国母を城に迎えたいと言ってきただけで、協力は拒んだ。

 道久は焦り、都にいる子弟を人質にして巍山軍の諸侯を脅そうとしたが、逃げられたり、無理矢理捕まえようとして怪我をさせたりして評判を落とし、諸侯を怒らせて巍山に一層忠誠を誓わせる結果になってしまった。

 都を出撃して巍山の背後を攻撃するという計画は武者が足りず不可能になったが、道久には大きな武功が必要だった。現在の地位は芳姫の支持によるもので、在京の諸侯は国母の手前従っているが、一万貫の小身の道久を見下している者もいる。

 だからこそ、道久は自分の手による勝利にこだわった。ここで恒誠の策を採用すれば、主力の五万の指揮権も武功も全て光姫達に持っていかれてしまい、都で留守番をしていた道久は発言力を大きく低下させるだろう。決戦も、作戦は恒誠に立てさせるにしても、指揮は大翼である道久がとらなければならない。そうでないと、光姫達の名声に呑み込まれて、手柄も権力も諸侯から認めてもらえないだろう。

「今は現有戦力でいかに都を守るかの話し合いです。私はより確実に守れると思う策を提案しているに過ぎません。出撃はただでさえ劣勢な兵力を分けることになります。全軍で都に籠もるべきです」

「でも、都を戦場にすれば民に被害が及ぶわ」

 光姫が言うと、泉代成保が都の守護者として意見を述べた。

「私も都を戦場にするのは避けるべきだと思う。もし火矢や爆鉄弾が使われて燃え広がったら大変なことになる。離れたところで戦う方がよい」

「そうだな。わしも都に敵を近付けることには反対だ」

 天宮(てんぐう)警護役頭人(とうにん)榊橋(さかきばし)文氏(ふみうじ)が言った。この六十二歳の老人は十九万貫の譜代封主で、宗皇の御所である天宮の警備を担当している。実直朴訥(ぼくとつ)な人柄で政争に巻き込まれることを嫌い、巍山や道久の起こした政変にも加わらず、今回の戦も静観する構えだった。彼の脳裏を占めているのは、天宮を守り、もしもの場合どうやって安全に皇家の人々を避難させるかだけだろう。彼のこの姿勢は一貫していたし、宗皇の信任が厚いので、巍山も道久も更迭(こうてつ)しなかったのだ。

「万が一にも宗皇陛下や天宮に危険が迫るようなことがあってはならぬ。それは武をもって国を守れと武守の姓を(さず)かった御家(おいえ)の恥、統国府の恥、ひいては国の恥ぞ」

 この言葉にはその場の全員が同意見だったので、これで決着が付くかと思われたが、道久はなおも主張を曲げなかった。

「天宮は都の南方にあり、西の城壁からやや離れています。火矢に対する備えは、町衆に命じて水桶(みずおけ)(つじ)(つじ)に置かせればよいでしょう。自分の家が焼けぬよう、皆進んで消火に当たるはずです」

「だが、都が攻められていると聞けば、諸国の民は驚き恐れるのではないか。手前で敵を食い止めて都へ接近させていないと言った方が、援軍も頼みやすかろう」

 こう述べたのは槻岡(つきおか)良門(よしかど)だった。彼は六衛職(えいしき)でも御前衆でもないただの譜代封主だ。しかし、槻岡家は三十二万貫、譜代家筆頭の名門であり、煙野国(けぶりののくに)で都の東方と運河の守りを任されていることから、この場で御前衆に等しい発言権を持っていた。良門(よしかど)は武公が幼い頃から近習としてそばに仕えたこともあって武守家への忠誠が厚く、直孝のことを常に気にかけていて、こたびの大戦(おおいくさ)では運河と領国を息子に任せて、六十歳の彼自身が望天城にやってきたのだ。

 楠島運昌(かずまさ)良門(よしかど)に同調した。

「そうだぞ。諸侯が全く来援しないのは桑宮殿のせいではないか。そんな中、影岡城の方々は都の守備に加わって下さった。これがどれほど都の民を勇気付け、諸侯の我々への評価に良い影響を与えるか分かっているのか。その上、諸侯と交渉する時間を稼ぐ具体的な方策まで提案して下さっているというのに、お前は邪魔をするつもりか」

 この言葉に多くの人々が頷いた。道久の蜂起からもう九日目なのにいまだにどこからも加勢の連絡が来ないのは、彼の政策のせいだったからだ。

 道久は都を制圧すると、貿易改革案を公表して全国の封主家に使者を送り、共に吼狼国を改革して再生させようと呼びかけて、援軍を求めた。道久の目算(もくさん)では、魅力的な改革に早目に参画(さんかく)してよい立場を確保しようと、多くの諸侯が()せ参じるはずだった。

 ところが、現実にはどこからも援軍は来なかった。道久には実に意外なことだったが、影岡軍の人々は雲居国にいた時からこの事態を予測していた。だから、恒誠は都へ向かう船の上で既に今後の作戦と方針を考えていて、光姫達は今朝概略(がいりゃく)を聞いて承認していたのだ。

 なぜ援軍が来ないと予想できたのか。それは、道久の使者がもたらした書状を読んで、家老達の示した反応からだった。

「貿易改革でございますか……」

 具総は回し読みした書簡を実鏡に返して困惑した表情になり、師隆も首を傾げた。

「これは本当に諸侯にとって得になることなのか」

「面白い考えではありませんか」

 若い輝隆は前向きな反応を見せた。

「貿易が盛んになれば梅枝家はますます富むでしょう。この書状通りなら、殻相国でも輸出用の作物を作れば収入の増加が期待できます」

 しかし、奥鹿貞備ははっきりと不快そうだった。

「確かにそう聞こえるが、これはおいしいところを統国府が持っていき、諸侯は働かされて(しぼ)り取られるのだけなのではないか」

 楢間惟延も同意見だった。

「当家の硫黄の取引も自由にはできなくなりますな」

 道久の案では、諸国に生産させたものを統国府が買い上げて輸出する。つまり、買値や生産するものの配分を決めるのは道久なのだ。もちろん、相応の価格で買い取るのだろうが、それを恵国へ運んで値の高い時に売れば、統国府は大儲けできる。

 逆に、諸侯にとっては、商人と組んでやってきた貿易を取り上げられることになる。統国府は必要な分しか買い取ってくれないから、余ったものは手元に残すか捨て値で引き取ってもらうしかない。頑張って生産を増やせばそれだけ多く輸出できるわけではないのだ。自前で船を仕立てて貿易した方がよほど儲かるだろう。

 その上、道久は密貿易を厳しく取り締まるという。統国府の貿易の邪魔になるから当然だが、密貿易で稼いでいた諸侯は収入が減ってしまう。しかも、もし見付かったらこれまでより厳しい処分を覚悟しなくてはならない。

 更に、諸侯は道久に逆らえなくなる。彼の方針に反対すれば貿易で不利になるのは確実だ。文武応諮(ぶんぶおうし)や武者総監を通じて意見を聞いてくれた直信の時代の方がまだましに思われる。

 この改革案は桑宮道久に強い権力を与えるだけで、諸侯の利益は少ない。よほど財政に困っている封主家でもためらうだろうと家老達は言った。

 もちろん、諸侯も吼狼国の停滞した経済状況をよいとは思っていない。皆、戦狼時代に勝ち取った領地を今後も維持できるのかと危機感を(つの)らせていた。それが巍山や直照の総馬揃えの改革への期待として表れた。支出が減れば助かるし、法度(はっと)をゆるめて開発を自由にする案には多くの賛同者がいて、統国府に資金や技術の面で支援を望んでいた。

 諸侯は御前衆の無策にうんざりし、自分達の意見が反映された改革を求めていたのだ。巍山の政変が支持されたのは、現状を認識せず古いやり方を続けようとした広範に人気がなかったことも大きく、譜代封主家も多くが巍山に味方した。

 だから、道久の貿易改革に興味を持ったが、一層諸侯を縛り内政に干渉するつもりと知ってがっかりしたのだ。統国府だけに都合のよい政策を上から押し付けるのでは広範と変わらない。一方、恵国軍と手を結んだ巍山も応援したくなかった。結局、諸侯は静観を決め込み、比較的多くの武者が国許に残っていた尾の国では、数家が同盟を結んで巍山や道久に対抗しようとする動きさえ見せていた。

「貿易改革を取り下げてはどうかしら」

 光姫が提案した。

「とにかく今は恵国軍と戦うのが先で、後のことは勝ってから相談しましょうと諸侯に伝えるのよ。広く意見を聞くと元狼公様と国母様が約束すれば、きっと効果はあるわ」

 そうだそうだ、と多くの声が上がったが、道久は拒否した。

「私はあの改革案が国のためになると信じています。引っ込めるつもりはありません」

 道久は少なくとも表面上は動揺していなかった。

 広間の後ろの方から、楡本(にれもと)茂商(しげあき)という譜代封主家の子息が尋ねた。

「桑宮殿は都の城壁に拠って戦うべきだと言うが、具体的な作戦はあるのですかな」

 楡本(にれもと)家は貞亮公(ていりょうこう)五輔臣(ごほしん)の一家で、背の国の鬼刺国(おにさしのくに)に三十三万貫を領する。茂商(しげあき)はそこの次男で二十五歳、当主の兄にかわって六千人の武者を指揮していた。以前、時繁が華姫の婿候補の一番目に挙げた男だった。

「それをここで話し合うのです。皆で知恵を出し合い、共に都を守り切りましょう」

 道久は当主でない茂商にも丁寧に対応した。一方、茂商は一万貫の道久を大翼とは認めていないらしく、一応は敬語を使っているが、口調に自分の方が上だという意識が感じられた。

「ですが、今のままでは勝ち目は薄いように思われますぞ。援軍の当てなく都に籠もっても、民を苦しめるだけに終わりましょうな。最悪、負けた上に都を焼いたと非難されかねませんぞ」

 茂商の言葉に数人が頷いたが道久は引かなかった。

「敵を撃退し続けていれば、英雄と名高い影岡軍の皆様が加わった我々に必ず援軍が参りましょう。そうなれば勝機はあります」

 楠島運昌はそろそろ不満が爆発しそうな顔だった。

「では、その方々の意見に耳を貸したらどうだ。大まかな方針だけで細部が曖昧では、諸将も民も動けないのだぞ」

「ですから、先程から都の城壁に拠った効果的な防御方法を織藤公にお尋ねしています」

「中身は他人に丸投げとは無責任ではないか」

「影岡の方々は戦にお詳しいですからな」

 道久が光姫と恒誠ににっこりしてみせると、光姫はあからさまにむっとした顔をした。

「私達は都に籠もること自体に反対です。こうしている時間がもったいないのですよ! 今日中に出撃しなければ敵が動き出してしまいます」

「まあまあ、光子、落ち着いて話し合いましょう」

 芳姫が妹を止めた。

「ですけれど、お姉様。軍議が進まないのは、この人のせいなのですよ!」

 言い返す光姫を芳姫がなだめている。道久はかすかに眉をひそめた。

 兵力不足の中、光姫達が逃げ込んできたのは実にありがたいことだった。巍山と禎傑の両方と敵対することになった今、道久が生き残って貿易改革を実現するには、両軍を撃破して実力を示し、諸侯をひれ伏させるしかない。影岡軍は強く、軍師も優秀だ。味方として心強いし、芳姫や直孝に対する忠誠も信じられる。

 だが、名声と実力があり過ぎた。都の民は英雄達を熱狂的に迎えたし、諸侯も彼等の意見ばかり聞きたがり、道久を(かろ)んじ始めた。道久は城門で出迎えて機嫌を取り、彼等との親しさを示そうとしたが、光姫には嫌われているので懐柔(かいじゅう)して言いなりに動かすのは難しかった。

「戦は私達の方が経験も豊富で実績もあるのです。こちらの意見を採用して下さい!」

 光姫が姉に迫ると、芳姫は首を振った。

「道久殿は大翼です。彼の案をもとに考えるべきでしょう」

「では、大翼から解任して下さい!」

 光姫は叫んだ。

「あの人には都も国も守れません!」

「何ということを言うのです!」

 芳姫が驚いて叱ると、光姫はさすがに言い過ぎたという顔をしたが、更に言った。

「今のが本音です。道久殿は戦の素人です。頼りになりません。お願いです。私達に任せて下さい!」

「困りましたね……」

 言いながら芳姫は道久の方を見た。その表情に道久はどきりとした。

 もちろん、道久を解任することはないだろう。芳姫は道久に身も心も(まつりごと)も全てを(ゆだ)ねているのだから。だが、妹にせがまれると弱く、強く突っぱねることはできないようだった。

 これはまずい。

 道久はこの評定で初めて本気で焦りを感じた。光姫は国母への影響力が大き過ぎる。以前見合いのために都に来た時も、妹と面会した後は芳姫の機嫌がとても良かったことを思い出した。

 俺の権力は芳姫様を操れることによるものだ。だが、光姫への愛情と信頼は俺と張り合えるのではないか。

 姉妹の仲の良さそうな言い合いを聞きながら、道久は背中に冷汗をかいていた。

「いい加減になさい。今は仲間割れをしている時ではありませんよ」

 芳姫に(さと)されて光姫はやむなく引き下がったが、納得はしていないようだった。

 結局、評定はまとまらなかった。明日の午前に再度開かれることになり、いつでも出陣できる支度を整え、やむなく恒誠が提案した都の防御方法の準備を進めておくことを決めて、散会になった。


「お姉様」

 評定を終え、芳姫が奥向きへ戻ろうと直孝を連れて廊下を歩いていると、光姫が追いかけてきた。光姫は表と分ける大扉の手前で追い付いて、いきなり尋ねた。

「お姉様はなぜ、道久殿をかばうのですか」

 芳姫はぎくりとした。道久との関係を悟られたのかと思ったのだ。

「別に、特別扱いはしていませんよ。あの方は大翼ですから、その言葉を重視しているだけです」

 急いで答えたが、それが自分でも口先だけの言い訳に聞こえ、続けて言った。

「道久殿は、このお城の奥に閉じ込められていた直孝様と私を、巍山の手から救ってくれました。だから信用して今の地位を与えたのです」

「本当にそれだけですか」

 光姫は少しためらい、思い切った様子で言った。

「もしかして、何かで脅されているのですか。それとも、助けてくれた恩があるから強く言えないのですか。どうもお姉様は道久殿に甘い気がします」

 光姫の想像の方向を知って芳姫は安堵した。

「違います。そういうことは全くありません。道久殿の直孝様への忠誠を疑うのですか」

「そうではありませんが……」

 芳姫は隣の息子を見下ろした。

「道久殿はあなたにとって良い師ですね」

 直孝は話の流れがよく分かっていない様子だったが、この問いには大きく頷いた。

「直孝様は道久殿に本当に(なつ)いています。道久殿も大翼の仕事で忙しいのにいつも気にかけてくれて、よく武芸や学問を見てくれます」

 同意する直孝の笑みを見て光姫は渋々(ほこ)を収めた。

「お姉様と直孝様があの人をとても信用していることは分かりました。でも、私はあまり信じられません。巍山とは都を出て戦うべきだと思います」

「どうしてその案にこだわるの。都に籠もるのは堅実な作戦ではないかしら」

 芳姫は本当にそう思うのだが、光姫は首を振った。

「道久殿は戦場を知りません。恒誠さんの方が軍学の知識も経験もずっと上です。なのに、作戦に口を出してきます。それが不愉快なんです。影岡城では恒誠さんの作戦を総大将の実鏡さんが全面的に支持して、みんなに徹底しました。だから私達は勝ち続けられたのです。道久殿も恒誠さんの策で全員の意志を統一して、作戦の実行を支援すればいいのに、自分が大将でないと我慢できないように見えます。それではみんなの気持ちがまとまらず、勝利は遠ざかるばかりです」

「まあまあ。道久殿も自分なりに最善と思うことを述べているのだと思いますよ」

 芳姫は妹をなだめた。

「道久殿の国を思う気持ちの強さを私はよく知っています。直孝様のためにならないことはしないはずです。私達を守ると直信様の墓前で誓ったと聞いています」

 芳姫が微笑んでみせると、光姫は「直信公ですか……」とつぶやいて、視線を下に落とした。

「そういえば、お姉様。あの紅い扇はどうしたのですか」

「えっ?」

 芳姫は(きょ)()かれた。

「以前は直信公に頂いた扇をいつも持っていたのに、昨日も今日も手にありません。それに、その数珠(じゅず)は何ですか」

 芳姫の左手には紅い玉でできた美しい数珠が下がっていた。

「こ、これは道久殿がくれたのです。私が紅いものを好きなのは知っているでしょう」

「花の色ですものね」

 芳姫の木は紅梅だった。恋人との絆の(あかし)として、芳姫は数珠を肌身離さず持ち歩いていた。

「扇はもう暑くないので使っていないのです。萩月もあと数日で終わりですから」

 芳姫は何とか微笑みを作り直して誤魔化したが、妹は首を傾げた。

「その贈り物のせいとは思いませんけれど、お姉様は道久殿を贔屓(ひいき)しているように私には見えます。お気を付けになった方がいいと思います」

 そこへ、足音がして、道久が廊下を近付いてきた。大翼は三人にお辞儀して告げた。

「直孝様、本日は戦の準備がございますので、学問と武芸の修練はお休みさせて頂きたく存じます」

 直孝は残念そうな顔になったが頷いた。軍議に出ていたから状況は分かっているのだ。最近道久が軍学の講義も始めたので興味を持ったらしく、本人が出席を希望した。芳姫に相談されて道久はよいことだと喜び、諸侯も好ましく思っているようだった。

「もう数件緊急の用件でご相談があるのですが」

 道久が芳姫に言うと、光姫は姉と甥に一礼した。

「では、お姉様、私もすることがありますので」

 そう言ってくるりと背を向けて去っていった。それを見送った道久は、芳姫にささやいた。

「光姫様に怪しまれましたか」

 芳姫は頷いた。もしあの真っ直ぐな妹が道久との関係を知ったら仰天し、激しく反対されるだろう。

 頑張って作っていた微笑みを崩して恋人に気弱な表情を見せると、道久は小声で忠告した。

「その数珠を身に着けて下さるのは大変うれしいのですが、扇もお持ちになっていた方がよろしいでしょう」

「そうですね。そうしましょう」

 芳姫は答えた。直孝が不思議そうに見上げていた。

 大扉の前ではお絹が待っていた。この侍女は芳姫親子の脱出を手引きしようとして元潔に捕まったが、道久が都を制圧した時、雉田邸の牢から救出された。芳姫が道久との関係を打ち明けると一瞬驚いたが、そうなると予想していたらしく、秘密を守ることを誓った。以来、奥向きの女官の(おさ)に取り立てられたお里と協力して、二人の愛欲生活を隠している。

 直孝はお絹と中へ戻り、芳姫は執務の間へ向かった。道久は光姫が去った方を一度だけ鋭いまなざしで振り返り、すぐに芳姫の後を追った。


 その日の夕刻、道久は上郭に与えられている大翼用の部屋で桑宮家の家臣達の報告を受けていた。

侠兵会(きょうへいかい)の皆馴憲之、浪人衆の(かしら)神酒田(みきた)長能(ながよし)は、共に仕官の誘いに乗りませんでした。義勇民の(おさ)の伍助にも接触しましたが、言下(げんか)に断られました」

「やはり駄目だったか」

 玉都守備軍六万三千二百の内、道久直属の部隊は御廻組の一万九千だけだ。三分の一近いが、たったそれだけだとも言える。自由に動かせる武者がもっと欲しかった。

 巍山が守国軍の全武将に忠誠を誓わせることができたのは、半数以上の武者が指揮下にあったからだ。それに、兵力が減れば影岡軍の発言力は下がる。彼等の一万一千は御廻組に次ぐ勢力だった。

 そこで、武守家の直参家臣に取り立てるという餌で正規の武者でない者達を自分側に取り込もうとしたのだが、断られてしまった。やはり、長く一緒に戦ってきた影岡軍の団結は固いらしい。

「となれば、次の手か。お前達、ご苦労だった」

 交渉担当の家臣達を下がらせると、霞之介だけが残った。道久は周囲を見回して二人きりなのを確認すると、小声で言った。

「お前の出番だ。呼んだ理由は分かるか」

「また狙撃(そげき)ですな。どこかの封主ですかな。それとも断った連中で?」

 そう尋ねたのは、身分を隠し桑宮家の一般家臣のふりをして城に来いと言われたからだった。

「そうだ。光姫を殺せ」

 道久は低い声で命じた。陰同心は一瞬動きを止め、すぐに確認した。

「よろしいので?」

 英雄で勇将の光姫を失うのは都守備軍にとって大きな痛手だ。

「構わない。あの娘は危険だ。芳姫様を動かせるのは俺だけでいい」

 今日の軍議で姉妹の仲の良さを見て道久は暗殺を決意した。芳姫は自分の言いなりでなければならない。他の者の言葉でぐらついてはいけないのだ。

 光姫が頼めばかなりのことを芳姫は承知してしまうだろう。戦後の新政権内で強力な対抗勢力になりかねない。早めに排除しておくべきだった。光姫がいなくても実鏡と恒誠がいれば影岡軍は戦えるはずだ。梅枝家の家臣は芳姫の名で統率すればよい。

「光姫は国全体ことを何も知らずに俺の改革案に反対する。戦は強いが(まつりごと)はできん。平和になれば役には立たん」

 改革案が統国府にばかり都合がよく、反対する諸侯を黙らせることにこだわり過ぎたことは失敗だったが、今更下手に出ても得なことはなかった。

「直信様は文武応諮(ぶんぶおうし)を通じて諸侯の意見を聞こうとなさった。その結果巍山の台頭を許しておしまいになったのだ。改革は断行するものだ。一々下々の意見を聞いていては進められない」

 戦に勝ったら鷲松家を取り潰し、隠している銀山を武守家のものにする。銀は大陸貿易の主要な輸出品だし、統国府の財政の安定のためにも必要だ。道久は都制圧に加担した奉行達と既にそこまで話し合っていたし、改革を実行できなければ権力を失い、芳姫とも引き離されるだろう。

 道久は思考を戻し、目の前の陰同心に言った。

「暗殺場所は上郭の東の端の部屋だ。広い中庭があり、奥に数本の木と茂みがある。そこに隠れていろ。光姫を呼び出す」

「どうやるので」

「お里に芳姫様の筆跡を真似(まね)た手紙を書かせた」

 道久と手を結んだ後、臨書(りんしょ)の得意なお里は命じられてそんな練習をしていた。都を制圧した際も、芳姫の名で京師守護所や楠島・萩矢・泉代などに邪魔をするなと命令する書状を書いている。

「巍山からの投降を呼びかける内容の書状も用意した。庭の隅にでも捨てておけ。皆、巍山か恵国軍の手先が光姫をおびき出して撃ったと思うだろう。都にいる者が今光姫を暗殺しても得はないからな」

「そうでしょうな」

「部屋にはお里が行灯(あんどん)(とも)しておく。あまり明るくすると目立って他の者に気付かれるから一つだけだが、できるな?」

「もちろんで」

 霞之介は愛用の二連発の鉄砲を撫でた。川の中を走る直利を遠くから狙撃したのだ。部屋の中にいる女をねらうくらいわけはない。

「ただ、わしは光姫の顔を知りませぬ。どうやって見分けるので」

 関係ない人物を撃ってしまうとややこしいことになりかねない。光姫と霞之介は直利が撃たれた河原で遭遇(そうぐう)したが、矢が届かないくらい距離があったので互いによく見えなかった。光姫が川に下りてきた時には霞之介は既に逃走していたのだ。

 道久は少し考えて説明した。

「梅枝家の三姉妹は自分の花の色の着物を好む。芳姫様は紅い着物を着て紅い扇を持っている。光姫は桜色だ。武芸好きできびきび歩くから、女官と区別が付くだろう」

「分かりやした」

「今回しくじれば再びおびき出すのは難しくなる。絶対に成功させろ」

「分かりやした」

 陰同心が頷くと、道久は自分に言い訳するようにつぶやいた。

「妹の死を芳姫様は嘆かれるだろうが、致し方ない。これも国のためだ。光姫を失えば芳姫様が頼れるのは俺しかいない。あの方を他の者には渡さん。たとえ妹でもな」

 道久は一瞬嫉妬のような激しい執着心をのぞかせたが、すぐににやりとした。


 その日の夜、光姫はくたくたになって本郭御殿に戻ってきた。軍議の後、影岡軍の宿所を回って武者達の様子を見て足りないものなどを聞き、世話をしてくれる御廻組や京師守護所と話し合っていたのだ。

 影岡城を急いで出てきたし、小荷駄隊がいないので、武者達は身の回りのものをあまり多くは持ってこられなかった。だから、布団が足りないとか、茶碗がそろわないとか、割り当てられた部屋が物置になっていて昨晩は外で寝たとか、そういう問題が山積みだったのだ。昨日はとにかく一万一千人に部屋を割り当てるだけで精一杯で、細かいことは後回しになっていた。

 そういう手配の一方で、都の防衛の強化もしなければならなかった。話し合った結果、そちらは恒誠と家老達の半数が担当することになり、光姫や実鏡達は武者達の生活の方を任されたのだが、二人は人気があるのでどこへ行っても歓迎されて戦の話をせがまれ、時間がかかった。それで、ようやく大体の問題に目途を付けて帰ってきた時にはすっかり暗くなっていた。

 光姫と実鏡と恒誠の部屋は上郭御殿の西の方にあった。三人は封主級の身分だし、軍議など諸侯との関わりも多いので、従寿ほか数名の護衛だけ連れて城内に泊まることになったのだ。芳姫は妹に奥向きの部屋を提供すると言ったが、それでは恒誠達とすぐに連絡が取れないので、表の部分に部屋をもらった。

 光姫がお牧と二人の部屋に戻ってくると、先に帰っていた侍女が夕食を運んできた。既に冷めてしまっていたので城の用人が気を使って温かい汁物を作ると言ってくれたが、ひどく空腹でできるのを待っていられず、断ってお牧と二人ですぐに食べ始めた。

 さすがに茶だけはお牧が温かいのを入れた。最後にそれを飲みながら、光姫は午前の軍議からずっと考えていたことを侍女に話した。

「私、道久殿を大翼から解任するように、お姉様を説得しようと思うの」

 お牧は茶のお代わりを注いでくれながら、無言で先を促した。

「道久殿はお姉様に忠誠を誓っている。それは認めるわ。でも、総大将の(うつわ)ではないと思うの。戦の指揮をあの人に任せるのは危ない。道久殿の(もと)では安心して戦えない。だから、大翼を下りてもらって、萩矢様か槻岡様を大将にするのがいいと思うわ。下りるのが嫌だと言うのなら、大翼はそのままで、軍勢の指揮権だけでも譲ってもらえないかしら。恒誠さんや実鏡さんに相談してからだけど、勝つには必要なことだと思うわ」

 お牧は少し考えて、熱い茶をすすっている光姫に言った。

「お気持ちは分かります。私もそうできたらその方がよいと思います。でも、無理ですね」

「どうして?」

 否定されると思っていなかったので驚くと、お牧はややためらって言った。

「お耳に入れない方がよいかと思いましたが、いずれお気付きになるでしょうから申し上げますと」

 そう前置きして、お牧は告げた。

「国母様は桑宮様と深いご関係ではないかと……」

「どういう意味かしら?」

 光姫が首を傾げると、お牧は小さく溜め息を吐き、ずばりと言った。

「お二人は愛し合っておいでではないかと存じます」

 光姫は面食らって聞き返した。

「お姉様が道久とどういう関係ですって?」

「つまり、恋人同士ではないかと」

「こ、恋人?」

 光姫は()頓狂(とんきょう)な声を上げ、気が付いて慌てて口を抑えた。が、すぐに笑った。

「それはただの噂よ。見合いに来た時にこのお城で聞いたわ。でも、嘘だったわよ」

「あの時はただの噂でした。少なくとも、私はそういう印象を受けました。ですが、現在は本当にそうではないかと」

「証拠はあるの?」

「軍議の時、国母様は桑宮様をかばっておいでだったとうかがいました。大翼に任命したのも国母様です。城内の女官から聞いたのですが、桑宮様はよく奥向きにお泊りになるそうです。その時は、国母様のいらっしゃる建物には誰も近付かせないとか」

「それって……」

 光姫は想像して赤くなった。

「あの貞淑(ていしゅく)なお姉様が、そんな……」

「狐ヶ原の宿陣地に桑宮様が姫様を訪ねていらした時、国母様の密命を受けて華姫様にお会いしてきたとおっしゃいました。随分信頼されているなと思いましたが、その頃から接近していたのかも知れません」

「で、でも……!」

「直信公を亡くされてお一人の国母様は頼れる人がなく、政務に随分とご苦労なさっていたとうかがいました。そんな時、心からの忠誠と愛情を注ぐ頼もしい殿方が現れたら……」

「頼もしい?」

 光姫は首を傾げたが、言われてみれば、道久は武芸が得意だと聞くし、直信の側近や直孝の師範を務めるくらいだから学問もあるはずだ。国母が頼りたくなるような有能な人物なのだろう。

「確かに、お姉様は道久殿のことを深く信じている様子だったわ」

 軍議で強くそう思った。

「国母様が桑宮様に心底惚れていらっしゃるのは一目見れば分かります。とても幸せそうで、まるで十四、五の娘のようですもの。奥向きでは公然の秘密だそうです。それに、あの数珠です」

「数珠?」

 光姫は今日の軍議の後、廊下で姉と話したことを思い出した。

「あの紅い数珠は、噂では、桑宮様がお贈りになったものだそうです」

「お姉様もそう言っていたわ」

 直信の贈り物の扇を持たず、道久のくれた数珠を身に着けている。それが何を表すかは明らかだった。

「まさか、本当にあのお姉様が……。どうすればいいのかしら」

 お牧は慎重に言った。

僭越(せんえつ)ながら申し上げれば、私は、その関係はいずれ不幸な結果を招くと思います」

「そうね。きっとそうだわ」

 光姫も二人の幸福な未来は想像できなかった。

 光姫は考え込んだ。お牧は黙って膳を片付けていた。

 そこへ、廊下から声がかかった。

「どうぞ」

 お牧が答えると襖が開いて従寿が顔をのぞかせた。

「今ここを通りかかったら、部屋の前にこんなものが置いてありました」

 書簡だった。

「芳姉様からだわ」

 受け取って開いた光姫は言った。

「東隅の部屋で会って二人だけで話がしたいって。今言っていたことかしら」

 お牧と従寿にも見せたが、二人は分からないと首を振った。だが、光姫は決めた。

「私、行くわ。お姉様に会って確かめてくる!」

 もし本当だと言われたら、別れるように言うつもりだった。道久はどうも信用ならないと光姫は感じていた。

「あの人はお姉様を利用しようとしているに違いないわ。お姉様はだまされているのよ。でなければ、そんな関係になるなんてあり得ないもの」

 従寿はお牧と目を合わせて、ああ、という顔をした。やはり噂を知っていたらしい。

「恒様さん達に道久を罷免させる話をする前に、確かめて別れさせるべきね。妹の役目だわ」

 光姫は立ち上がった。

「姫様、もう夜は冷えます。これをお召しになって下さい」

 お牧が紅い打掛を持ってきた。芳姫に借りたものだ。戦いが始まってからずっと暑い季節だったので、光姫は温かい上掛けを持っていなかったのだ。

「お見合いを終えて帰郷する時に船で送った荷が玉都屋敷に戻っているそうです。明日にでも持ってきますね」

 お牧は光姫に着せながら言った。

「では、行ってくるわ。先に寝ていていいわよ」

 そう言うと、光姫は部屋を出て廊下を歩いていった。


 その頃、芳姫は自室を出ようとしていた。道久が来るのを待っていたのだが、いつまでたっても現れないので、探しに行くことにしたのだ。

 道久と芳姫の親密な関係はとうに噂になっていたが、芳姫だけはそれに気が付いていなかった。だが、昼に妹と話した時、道久を特別扱いしていると指摘されて、二人だけの秘密と思っていたことが露見している可能性に思い至った。その不安は執務を終えて部屋に戻ると大きく膨らんできて、芳姫は落ち着かない気分になった。

 毎晩やってくる道久に相談しようと思ったが、今日に限って遅い。執務の間を出る時、戦の支度があると言っていたので、今夜は来ないかも知れない。だが、じっとしていられず、この気持ちで一晩過ごすのは嫌だったので、見付けて相談しようと立ち上がった。迷ったが、紅い扇は置いていった。道久は持ち歩くように言ったが、恋人を呼びに行く時に持っていくのは嫌だったのだ。

 途中、直孝の部屋をのぞくと、まだ戻っていなかった。近習の少年達と遊んでいるらしい。

 道久は再び師範となると、直孝に年の近い少年三人を付けて一緒に遊ばせたり稽古をさせたりした。直利を恋しがっていたと芳姫から聞いて、共に学ぶ仲間が必要だと思ったのだ。直信に道久が付けられたのも直孝と同じ年頃だった。

 近習達は年が近いとはいえ十をいくつか超えていて奥向きへは入れないので、直孝は表へ出ている時間が増え、その間に、道久は芳姫と愛欲にふけった。直孝はそれを知っているのかいないのか芳姫には分からなかったが、年の近い仲間ができて直孝は大喜びで、食事の時は彼等の話ばかりだった。

 直孝の机の上には手作りの鉄砲が乗っていた。火薬が使えないので上に弓が付いている。仕方なく考えた工夫らしいが、こういうのを()と呼ぶのですよと道久に言われて驚いていた。

 近習達と走り回ったり軍学に興味を持ったりと随分男の子らしくなってきたが、工作好きは変わらなかった。特に、巍山に奥向きに閉じ込められて以降、一層熱中するようになった。直利が望天城に帰ってきた時は喜んだが、彼は侍女にしか興味がなく、甥に会いもせずにすぐに出陣して言ったので、がっかりしたらしく、また工作に没頭していた。最近は近習達と鉄砲を試射して改良を繰り返しているらしい。

 その姿を思い出して芳姫は微笑むと、襖を閉めて、廊下を大扉へ向かった。

 表へ出て執務の間へ行くと、二人の奉行が仕事をしていて、道久は別な場所で軍議中だと言われた。御廻組の副頭以上が集まって話し合っているという。

 今夜は来られそうにないと知って芳姫はがっかりし、少し考えて光姫に会いに行くことにした。妹は分かりやすい性格をしているので、自分と道久との関係について何か知っているのなら態度に出るだろう。昼の感触では知らないようだったが、その方が自分の態度のどの辺りが怪しいのか聞き出しやすい。

 そう思って西の方へ歩いていくと、パシクに出会った。

「お方様、どこへいらっしゃるのですか」

 尋ねられて、芳姫は「妹に会いに行くところです」と答えた。

 国母様を一人にしておけないと、パシクは護衛を呼ぼうとしたが、芳姫は断った。向かうのは女だけの部屋だし、話を聞かれたくなかったのだ。

「分かりました。お早めに奥向きへお戻り下さい」

 パシクは丁寧に頭を下げて、去っていった。

 光姫の部屋に行くと、侍女と若い武者が話し込んでいた。妹の居場所を聞くと、二人は不思議そうな顔をした。

「姫様は国母様にお会いしに行くとおっしゃって出て行かれました」

 芳姫は驚き、行き先を聞いた。

「東の端の部屋ですね。分かりました。行ってみます」

 首を傾げる二人に礼を言って、芳姫はそちらへ向かった。

 もう夜遅いのでほとんど人に会わなかった。雨戸が閉じられていたが廊下のところどころに灯りがあって、歩くのに不自由はしなかった。

 そうして、言われた部屋までやってくると、襖の隙間から明かりが漏れていた。光子はもう来ているのねと思って開けようとすると、背後から声がかかった。

「お姉様」

 光姫だった。早足で歩いてくる。

 では、誰が中にいるのかしらと思ったが、その思考は妹によってさえぎられた。

「お姉様、桑宮道久と深い仲なのですか!」

 芳姫は絶句し、口を開きかけたまま固まってしまった。尋ねる先に、いきなり核心を言われてしまったのだ。

「どうなのですか! 答えて下さい!」

 言いながら、光姫は顔が真っ赤だった。それを見て、芳姫は自分を取り戻した。

「いきなり何を聞くのですか。落ち着きなさい!」

 お互いとにかく冷静になろうとして妹を叱ったが、光姫には通用しなかった。

「これが落ち着いていられますか! お牧に聞きました。どうしてあんな男と、その、夜を一緒に過ごしているのですか!」

 芳姫は更に仰天し、慌てて妹の口を塞いだ。

「待って。静かになさい!」

 光姫は唸り声を上げたが、さすがに姉の手に噛み付いたりはしなかった。

「私も聞きたいのです。でも、ここではまずいですね」

 芳姫は辺りを見回し、襖を開けて目的の部屋をのぞいた。誰もないかったので、中に入り、光姫も引っ張り込んで、襖を閉めた。

 そこは六畳ほどの部屋だった。広い中庭に面していて、庭を眺めて茶を飲んだり、諸侯が客と会ったりするのに使うような場所だ。部屋の隅に行灯が一つ室内を照らしており、夜中なのになぜか雨戸と障子が開いていた。

 部屋に誰もいないことを確かめると、光姫は小声で尋ねた。

「お姉様、さあ、教えて下さい。本当なのですね!」

 言葉が確認調なので、光姫は事実だと既に確信しているようだった。芳姫がつい目を逸らすと、妹の手から急に力が抜けた。

「お姉様、どうして……」

 離れようとする手を芳姫は握った。

「私こそ知りたいわ。どうしてあなたが知っているのですか」

「お牧は女官はみんな知っていると言っていましたわ」

「みんながですか。……そう」

 芳姫は全部知られていたのだと悟った。道久は毎晩自分のところに泊まっていたのだから、女官達が気付かないわけがなかった。

 いろいろ恥ずかしかったが、かえって気分が落ち着いた。妹が知っているのなら隠す努力は意味がない。それに、自分達は悪いことはしていないという気持ちが芳姫にはあった。芳姫には夫がいないのだから浮気ではない。むしろ、道久と堂々と結婚すればよい。そういえば、道久もあなたの夫になってみせると言っていたではないか。

「他にいなかったのです」

 芳姫は告白した。

「誰も私を助けてくれませんでした。お父様や桜舘公も政務の手伝いを拒否なさいました。誰でもいいから助けが欲しくて、道久殿を頼るしかなかったのです。彼が私を愛していることは知っていました。ずっと拒み続けていたのです。でも、迫られている内に、私も道久殿を愛していることに気付いてしまいました。それで、受け入れたのです」

 光姫は驚いた顔になったが、すぐに姉の苦悩を悟って悲しげな表情になった。

「随分ご苦労なさったのですね。知りませんでした。そういう話は聞いていましたが、それほど苦しかったのですね。春に都に来た時も、私は全く気付きませんでした」

「権力なんて欲しくありませんでした。この国を一人で背負うことが苦しく、重い責任に押しつぶされそうでしたが、誰も分かってくれませんでした。道久殿だけが助けてくれました。あの人のおかげでこれまで何とかやって来られたのですよ」

 芳姫は寂しそうに、しかし幸福そうに微笑んだ。

「道久殿を愛していると自覚したのはつい最近です。こんな気持ちは生まれて初めてなのです。国母だもの、ほめられることではありませんね。でも、後悔はしていません」

「どうしてですか」

 光姫は分からないという顔をした。

「あなたにもその内に分かります。この人は自分に絶対に必要な人なのだと思う殿方が現れたら、どうしようもないものなのですよ」

「絶対に必要な人、ですか」

 光姫は姉の言葉を繰り返した。

「それは、運命ということですか」

「運命……、そうかも知れませんね」

 芳姫は頷いた。

「そう言われると、私と道久殿は出会い愛し合う運命だったという気がします。なるようになったということですね」

「そうですか……。お姉様は運命の人を見付けることができたのですね」

 光姫はうつむいた。が、すぐに顔を上げた。

「お姉様はそれでよいかも知れません。好きな人と愛し合って幸せなのでしょう。でも、直孝様はどうなるのですか。きっと、道久殿との子だと噂を立てられます。それに、直信様はどう思うでしょう。それで本当にいいのですか!」

「直孝は直信様の子です。本当ですよ!」

「この扇に誓えますか!」

 光姫は握っていた紅い扇を開いて突き付けた。

「先程、直孝様にお会いしました。母上にこれを届けたいって」

 近習達と別れて自室に帰ってきた直孝は母にお休みを言いに行き、文机の上に扇があるのを見付けて昼の道久の助言を思い出したのだ。

「母上はこれを持っていた方がいいと思います」

 芳姫を探しに大扉から出たところへ光姫が通りかかり、扇を預かったのだ。

「さあ、この扇に、直孝様に誓って下さい。間違ったことはしていないと」

「光子!」

 芳姫は苛立った。自分は悪くないという気持は揺るがないが、幸福感を他人に勝手な基準で批判されるのは不愉快だった。

「誓えます。誓えますから、それを返しなさい!」

 そう言って手を伸ばし、扇をつかんだ。

「お姉様、やめて下さい! 壊れます!」

「それは私のものです。渡しなさい!」

 引っ張り合いになり、芳姫は光姫に突き飛ばされて後ろによろめいた。

 その瞬間、庭で轟音が鳴り響いた。

「銃撃!」

 光姫がはっとした時、弾丸が絹の着物を切り裂いた。


 少し前、道久は御廻組の評定が休憩に入ったので、廊下に出て伸びをしていた。ずっと正座なので足も痛い。都の守備の御廻組の配置を確認し、明日の軍議で提案する防御作戦を検討していた。光姫に具体案を出せと言われたからだ。また、暗殺の時間に他の場所にいたことを彼等に証言させ、疑いを逸らすためでもあった。

 すると、警護役の武者の一人が近付いてきた。

「先程、国母様が探しにいらっしゃいました」

 道久を呼び出そうとしたが、話し合いの最中だと知って戻っていったという。

 何の要件だろうと考えていると、パシクがやってきた。彼は毎晩、最後に城内の戸締りを見て回るのを日課にしている。部下にやらせればよいと思うのだが、自分でやりたいらしい。

「今日も見回りか」

 尋ねると、パシクは頷いた。

「西側は異常なしだ」

 そう言って、何気なく付け加えた。

「そういえば、先程国母様にお会いした」

「ほう。どこでだ」

 この時間、芳姫は部屋で道久の訪れを待っているはずだ。パシクもそれは知っているはずなので、不思議に思って尋ねると、「西の奥の方だ」という返事だった。

「妹君を探しているとおっしゃっていた」

「光姫様を?」

 道久は嫌な予感を覚えた。

「光姫様の居場所は知っておられたか」

「いや、知らぬご様子だったが……」

 と言いかけたところへ、恒誠と実鏡が、従寿や追堀親子や具総を連れて早足で歩いてきた。

「どうなされた」

 尋常でない勢いだったので尋ねると、恒誠は足を止め、道久をじろりと見た。

「光姫殿が何者かにおびき出されたようだ」

「どういうことだ」

 パシクが驚くと、恒誠は手の中の書簡を見せた。

「偽の手紙が届いた。国母様からの呼び出しだが、これは嘘だ」

「どうして分かる」

 道久が尋ねると、恒誠は静かな怒りを感じさせる口調で言った。

「国母様ご自身が光姫殿を探しに部屋に来られた。場所を聞いてそこへ向かわれたそうだ。だから、嘘に違いない」

 お牧と従寿は芳姫が去ったあと、どうにもおかしいと思って、二つ先の部屋の恒誠に相談したのだ。恒誠はすぐに罠を疑い、隣室の家老達に声をかけてその部屋に向かうところだという。

 道久は青くなった。

「芳姫様も向かっただと?」

 国母に万一の事があれば道久の権力は失われるのだ。

「ああ、先程すれ違った武者が、国母様が通った後、少しして光姫殿がやってきたと言っていた。向かった方角は同じだと言っていた」

「まずい」

 道久はすぐに歩き始めようとして思い出し、恒誠を振り返った。

「その部屋はどこだ」

「貴殿が向かおうとした方角だ」

 恒誠の口調は冷ややかで、表情は厳しかった。パシクや家老達はまさかという顔で息を呑んだ。

「行くぞ。急げ」

 道久は少しためらったが走り出し、全員がすぐに続いた。

 その部屋の前まで来ると、襖越しに女同士の言い争いが聞こえた。二人はまだ無事らしい。

 恒誠達は少し表情をゆるめ、襖に近付いた。

 その瞬間、銃声がして、襖に穴が開いた。

「芳姫様!」

 道久が襖を開いて中へ飛び込んだ。

「無事か、光姫殿!」

 恒誠が叫んで続いた。

「恒誠さん!」

 光姫が驚いて振り向いた。

「やめろ、霞之介!」

 道久は芳姫をかばおうと突き飛ばした。

 その途端、再び銃声がして、女の悲鳴が上がった。


 霞之介は驚いていた。

 部屋に女が二人入ってきたのだ。しかも、同じような紅い着物を着て、背格好も顔立ちも似ている。

 二人は何かを話していた。距離があるため内容は分からないが、辛うじて「光子」「お姉様」という言葉は聞き取れた。梅枝姉妹なのは間違いない。

 ただ、どちらが光姫なのか分からなかった。もっと明るければ年下の方を見分けられるだろうが、行灯は部屋の隅にあり、光が二人に十分届いていなかった。

 じりじりしながら待っていると、右にいる方が紅い扇を広げて相手に突き付けた。左の方がそれを奪おうとしている。霞之介はこの瞬間、左側が光姫だと判断した。

 すぐにねらいを定め、発砲した。

 が、女がよろけたため、弾は袖をかすっただけだった。

「ちっ、逸れたか」

 霞之介は舌打ちし、再度ねらいを付けようとした。愛用の鉄砲は二連発なのだ。

 その時、背後の襖が開いて男が飛び込んできた。暗くて顔が見えず、一瞬道久かと思ったが、「恒誠さん!」という叫び声で別人だと判断し、ためらわずに女に向かって発砲した。

 その瞬間、その男が叫んだ。

「やめろ、霞之介!」

 しまったと思った時には、左の女を突き飛ばした男の左脇腹に銃弾が吸い込まれていた。


 光姫は事態が信じられなかった。

 芳姫に道久との関係を告白され、夫と息子に恥じることはないのかと尋ねた。その瞬間、銃撃されたのだ。

 光姫は悲鳴を上げた。芳姫は訳が分からぬ様子でよろめき、倒れそうになって、踏みとどまった。

 銃弾は芳姫のたもとを突き抜けていった。光姫と引っ張り合いになって離れた瞬間だったため、体には当たらなかったのだ。

 光姫は素早く庭を見回したが、襲撃者は見付けられなかった。そこへ、廊下で「芳姫様!」と声がして襖が開き、道久が二人の間に飛び込んできた。更に恒誠の声もした。

「無事か、光姫殿!」

「恒誠さん!」

 光姫が驚いて振り向いた時、再び銃声がした。

「やめろ、霞之介!」

 道久が叫んで芳姫を突き飛ばし、銃弾を受けてひっくり返った。

 光姫は再び悲鳴を上げ、恒誠にかばうようにきつく抱き締められた。光姫は頭が真っ白になり、動けなかった。

「大丈夫か」

 体を離した恒誠に心配そうに言われて光姫は気が付き、状況を思い出した。慌てて頷いて辺りを見回すと、道久が畳に倒れて血を流していた。

曲者(くせもの)め。()がすか!」

 従寿が部屋を横切り、庭に下りて茂みの方へ走っていった。パシクと輝隆もそれに続いた。すると、茂みから人影が現れ、するすると城壁を登り、堀へ飛び込んだ。失敗を悟って逃げたのだ。脱出用に縄ばしごを仕掛けてあったらしい。

 暗殺者がいなくなったことで光姫は一安心したが、胸はまだ激しくどきどきしていた。そこへ、悲痛な声が響いた。

「道久殿!」

 芳姫は道久を抱き起こして叫んでいた。

「道久殿! しっかり、しっかりして!」

 その悲痛な声に、光姫は胸を突かれた。

「芳姫様、ご無事ですか」

 道久が芳姫の腕の中でかすれた声を出した。左の脇腹からひどい出血だった。戦場に慣れた光姫には、もう助からないと一目で分かった。

 周囲に重い沈黙が下りた。その中で、芳姫だけが道久にすがり付いて叫んでいた。

「芳姫様、よいのです。これは報いです」

 道久は自分の死を悟ったのか声は落ち着いていた。

「自業自得なのです。泣かないで下さい」

 芳姫はまさかという顔で道久を見つめ、光姫達を見上げて事態を確認すると、衝撃で黙り込み、低い声ですすり泣き始めた。

「お前が光姫殿の暗殺をたくらんだのだな」

 恒誠が尋ねた。道久は首肯した。霞之介の名を叫んだのを聞かれているので、もはや隠しても無駄だった。

「直利様を撃ったのと同じ男だな」

 これにも道久は頷いた。

「芳姫様を独占したかったのだ。光姫殿の影響力が邪魔だった。いや、嫉妬(しっと)したのかも知れん。済まなかった」

 言葉の内容は自嘲(じちょう)的だったが、響きにはある種の諦観(ていかん)のような静けさがあった。

「芳姫様は何も知らない。都を占拠したのも、直利の暗殺も、全て俺がしたことだ」

 道久は芳姫をかばった。

「芳姫様をたぶらかし、政事に不向きと知りながら国母に仕立て上げたのは俺だ。この方に罪はない」

「分かっている。国母様が進んで権力を求めたとは誰も思っていない」

 芳姫は道久を抱き締めて涙をこぼし続けていた。その姿に光姫はひどく胸が痛んだ。恒誠が言った。

「俺は、この事件は恵国軍の仕業だと発表することを提案する。鉄砲を使ったことからも明らかだろう。桑宮殿は国母を守って死んだ忠臣だ。よって、貴殿の跡目を息子が継ぐことが許され、家族も守られる。それは安心しろ」

 光姫は驚いたが、恒誠はこう説明した。

「大翼が望天城内で暗殺されたという大事件だ。民や諸侯の混乱と動揺を避けるには、悪役は敵側にいた方がいい」

 道久は恒誠を見上げて礼を言った。

「ありがたい。感謝する」

「勘違いするな。国母様の名誉のためだ。深い仲だったなどと発表できるわけがない。光姫殿の姉君でもあるしな。お前を忠臣にしておく方が都合がいいだけだ」

 恒誠も二人の関係を知っていたのだと光姫は思った。

「それでもありがたい」

 道久は恒誠に向かってかすかに頭を動かした。

「妻と息子をよろしく頼む」

「分かった」

 恒誠は請け合った。

 道久は次に光姫を真摯(しんし)なまなざしで見つめた。

「暗殺しようとしておいて身勝手な頼みだが、芳姫様を守って差し上げてくれ。あなたにしか頼めないのだ」

「分かりました。心配はいりません」

 光姫は深く頷いた。

 そこへ実鏡が現れた。もう暗殺者はいないとはっきりしてようやく部屋に入れてもらえたのだ。

 道久は三人を見上げて言った。

「吼狼国をお願いする。恵国軍に勝利し、国を救ってくれ」

「頼まれるまでもない」

 恒誠が答え、実鏡も頷いた。

「任せて下さい。必ずやり遂げます」

「できれば、俺の貿易改革も実行して欲しい。吼狼国のために必要なことだ」

 実鏡と光姫は返答できなかった。恒誠が言った。

「そのままというわけにはいかないが、貿易の改革はするつもりだ。今の状態ではいけないのははっきりしているからな。その施策の参考にする」

「それで構わない」

 道久は頷いた。

 そこへ、子供の声がした。

「道久先生!」

 直孝だった。光姫に扇を渡して奥向きに戻ろうとしたところへ近習達が通りかかり、大扉の前で明日の予定を話し合っていたら、賊が出た、桑宮殿が撃たれたという声が聞こえてきたのだ。城内が大騒ぎになる中、直孝は走ってここまで来たのだった。

「直孝様」

 道久は体を起こそうとしたが諦めた。もう動けないのだ。それを悟った直孝は、足元にできた血だまりと辺りに漂う血の匂いに恐ろしそうな顔をしたが、自分から道久に近付いた。

「直孝様、あなたにはすぐれた資質があります。皆があなたの成長に期待し、この国の未来を賭けているのです。補佐してくれる有能な臣下を早く見付けて下さい。私はもうその任を果たせませんが、あなたの周りにはすぐれた人材が大勢おります」

 道久の視線をたどって、直孝は三人の近習や光姫達を見回した。

「新しい師をご自分で探して学んで下さい。学ぶことを(おこた)らなければ、直孝様は必ずや名君になられるでしょう。吼狼国をお願いします」

「分かりました」

 直孝にはそれだけしか言えなかった。しかし、そう言えただけでも立派だと大人達は思った。

 続いて、道久は友人に目を向けた。

「パシク。忠告してもらったのに、こんなことになってしまった。済まないな」

 パシクは必死に涙をこらえながら首を振った。

「止めても無駄だと内心では分かっていた。お方様への気持ちに気付いていたからな。俺の言葉くらいでやめるお前ではあるまい」

「直孝様をお守りしてくれ。最後の頼みだ」

「任せておけ」

「お前はまだ当分あの世に来るなよ」

 道久はかすかに笑うと、最後にやさしい声で話しかけた。

「芳姫様」

 道久は(いと)おしげに恋しい女の名を呼んだ。

「あなたを愛していました。心から愛していました」

「道久殿、お別れは嫌です! 死んでは駄目です!」

 芳姫はすがるように叫んだ。

「短い間でしたが、あなたと想いが通じてからのこの十日は、これまでで一番幸福な日々でした。私はよい思い出を持って旅立てます」

 道久は芳姫をじっと見つめ、手を伸ばして頬を撫でた。

「私はあなたに出会えて幸せでした。あなたもどうかお幸せに」

 最後の力を振り絞って言い残して微笑むと、道久の腕がだらりと垂れ、体から力が抜けた。

「道久殿、道久殿、道久殿!」

 繰り返し呼びかけて返答がないことを悟ると、芳姫は恋人を胸に抱きしめて絶叫した。

「ああ、なぜ!」

 そのまま、がくりと男の上に倒れた。気を失っていた。

「お二人を鄭重にお連れしろ」

 恒誠が命じ、二人はそれぞれ担架に乗せられて運び出された。全員が(こうべ)を垂れてそれを送った。

「では、皆、この件は他言無用に願う。詳しくは明日の評定で話し合うことにしよう」

 恒誠が言い、光姫達は頷いた。

「大丈夫か。顔が青いぞ」

 恒誠がやさしい声で言った。光姫はまだどきどきしている胸を抑えて、何とか頷いた。

「平気よ。あなたは生きているもの」

 恒誠は首を傾げたが、光姫は彼をじっと見つめると、それ以上何も言わずに姉に付き添うべく背を向けた。パシクも直孝を促した。

「奥向きへお戻り下さい。大扉までお送りしましょう。君達ももう帰りなさい」

 近習の少年達にも声をかけ、実鏡も加わって一緒に歩き出そうとした。

 その時、廊下を走ってくる慌ただしい足音が聞こえた。

「大変です! 緊急事態です!」

 御廻組の武者が叫びながら部屋に飛び込んできた。が、報告する相手がいないことに気が付いたらしく、戸惑ったように辺りを見回した。

「ここへ来い」

 恒誠が呼ぶと、パシクも言った。

「この方々で構わない」

 武者は一瞬迷って、光姫の足元に片膝を突いた。

「ご報告申し上げます。楡本(にれもと)家ほかの七家が武者を連れて都を出て行きました。巍山軍に合流するものと思われます!」

茂商(しげあき)め。元狼公様と国母様を裏切るとは!」

 いつの間にか駆け付けていた楠島運昌(かずまさ)(ののし)った。槻岡(つきおか)良門(よしかど)が呆れた口調で言った。

「桑宮殿の作戦に懐疑(かいぎ)的だったからな。我々を見限ったのだろう。小利口そうな若造だと思っていたが、おのれが何を守るべきかも分からぬとは」

 萩矢頼統(よりむね)も同感らしかった。

「軍議の時からそういう雰囲気だったゆえ、もともとこうするつもりで機会をねらっていたに違いない」

 そう言われると思い当る節はあった。光姫にもあまり好意的な態度ではなかったからだ。だが、他の封主家も同調するとは意外だった。

「楡本家の御曹司が六家を誘ったのかも知れないな」

 恒誠の考え通りだろうと光姫は思った。

「彼等の合計の武者数はどのくらいだ」

 パシクが尋ねると、泉代(いずしろ)成保(なりやす)が指を折って数え、低いがよく通る声で答えた。

「一万五千人だ」

「つまり、我々の兵力は五万を切ったわけか」

 恒誠の冷静な指摘が皆の頭に染み込むと、部屋の中は先程とはまた違った暗い雰囲気に覆われた。

「とにかく詳しい状況を調べよう。残った者を確認し、武者達の動揺を抑えてくれ。更に脱走者が出ては困る。対策はそれから考える」

 恒誠が言うと、人々はやることを与えられて動き出した。御前衆や封主達も急ぎ足で廊下を去っていった。

「お姉様の様子を見て、私もすぐ行くわ」

 光姫は影岡軍の家老達に声をかけて廊下を歩き出した。ちらりと振り返ると、恒誠は(あご)に手を当てて、じっと何かを考えていた。


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