(第七章) 五
五
道久が都で蜂起したという情報は、その日の内に守国軍と恵国軍に届いた。
翌々日の萩月二十二日、禎傑は将軍達を集めて軍議を開き、今後の動きを検討した。
「反乱を起こした桑宮道久は完全に都を制圧しました」
本部付きの庸徳将軍が現在つかんでいる情報を報告した。
「玉都には直利の件が伝わっていなかったらしく、巍山派の留守役の諸侯は不意を突かれたようです。そのため、新三柱老の雉田家・非木家・弐杣家や新裁事の二家など合計一万二千の兵を擁していたにもかかわらず、御廻組二万の迅速な行動で分断され、当主を捕らえられたり包囲されて逃げ場を失ったりして次々に降伏しました。ただ、雉田家と新財務裁事殿軍家の兵の多くは都の脱出に成功し、合計四千が巍山軍に合流しました。御廻組の損害は一千程度のようで、巍山が任命した新組頭の鮫崎央連は捕まって投獄されました。巍山派でない在京の諸侯は中立を宣言して静観したため無傷でした」
頑烈が確認した。
「都の実権はその桑宮とかいう男が握ったのだな」
「はい。国母芳子は彼を大翼と巍山討伐軍の総大将に任じ、全権を委任しました。都の諸侯は復権した国母に忠誠を誓いましたので、彼が都守備軍五万余を指揮下に置いたことになります」
「守国軍の方はどうだ」
「同じく二十日の朝、巍山は麾下の諸侯を集めて直利の死を公表し、自分個人への忠誠を求めました。全諸侯が巍山の新統国府樹立に協力を申し出たそうです」
敦朴将軍が尋ねた。
「離反者は出なかったのか」
「はい。巍山は縁者や恩のある封主家を集めて多くの兵を出させ、本陣を固めています。鷲松家の兵力は三万で、合わせると全軍の半数以上ですので、反抗するのは事実上不可能でした。恐らく武者で軍議の場を囲い、忠誠を誓わねばこの場で討ち取ると脅したに違いありません。彼等はもはや統国府の派遣した守国軍ではなく巍山の私兵になったと考えるべきでしょう」
華姫が口を挟んだ。
「光子は従わなかったと聞いたけれど」
「はい。影岡軍はその軍議に呼ばれなかったようです。彼等は影響力が大きいため、反対されると巍山に従わぬ封主家が出る恐れがあったからだと思われます。後から知らされた影岡軍は服従を拒否し、独自に行動すると決めたようです。これで敵は二つに分裂したわけです」
「とはいえ、どちらかを我々が攻撃したら、もう一方は喜んで背後を襲うのだろうな」
敦朴の言葉に将軍達は皆頷き、頑烈が言った。
「つまり、今後もにらみ合いが続くのか。事態はあまり変わっていないわけだな」
「いえ、そうでもありません」
庸徳が視線を向けると周謹将軍が言った。
「巍山軍、桑宮道久、双方から使者が来ました。殿下と私が応対しました」
周謹は総司令官禎傑の護衛部隊の指揮と本部運営の長で、軍議では司会を担当する側近だ。
「巍山軍は直利の引き渡しを要求し、当面の休戦を申し込んできました」
直利は現在、この本陣で監禁して療養させている。敦朴が尋ねた。
「巍山は都の桑宮との戦いを優先したいのか」
「そういうことでしょう。背後を脅かされては我が軍との戦いに集中できません。また、藍生原を押さえられて糧道を断たれると進退に窮します。まずは都を取り戻して後方の安全を確保したいと考えるのは当然です」
「攻め込んだ俺達が言うのもなんだが、外敵を前に内輪揉めか」
馬策将軍の呆れた口ぶりに、周謹はまじめな顔で「我々にとってはありがたいことですが」と答えた。
「だが、その提案は我が軍に利があるのか」
高卓将軍が疑問を口にすると、周謹は頷いた。
「巍山軍と桑宮軍が戦って双方が傷付き疲弊したところを襲えば容易く勝てるでしょう」
「そう上手く行くかな」
周謹はこれには答えず、報告を続けた。
「一方、桑宮道久は直利を殺して欲しいと言ってきました。その見返りとして、巍山軍の背後を襲い、和平に応じるそうです」
「巍山を共同で倒そうということか」
「はい。国母芳子は守国軍総大将の直利を守れなかった責任を問うて巍山の副大将の職を解き、諸侯に都への帰還を命じました。ですが、巍山はそれに従わず統国府への反逆の意志を明らかにしたため討伐するとのことで、我々に協力を求めています。我が軍と前後から挟撃し諸侯に投降を呼びかければ、巍山軍の潰滅は容易だろうと使者は言いました。その後、その功に免じて攻め込んできたことを許すと宣言するので、話し合って和平を結びたいそうです。銀の輸出量の増加や貿易の振興には前向きに応じると言っています」
「一応の筋は通っているな」
高卓は感心した顔をしたが、鍾霆将軍は不愉快そうだった。
「直利を捕らえられた巍山の責任を問いながら、殺して欲しいと言ってくるとはひどい二枚舌だな。全く信用できん相手だ。どうせ、巍山を倒して諸侯を味方に引き入れたら次は我等を討つつもりだろう。信用できないのは巍山も同じだがな」
周謹が言った。
「恐らく直利の暗殺を謀ったのは桑宮でしょう。巍山にとっては、今殺すより、我々を倒すまで生かしておいた方が得です。武守家の血を引く大将の補佐役という立場の方が、全国の諸侯を味方に付けやすいと思われますので」
この論評に将軍達は一斉に同意の声を上げると、司令官殿下に目を向けた。敦朴が代表して尋ねた。
「それで、殿下はどうなさるおつもりですか」
「それを話し合おうというのだ」
禎傑は不敵な笑みを浮かべていた。この状況を楽しんでいるらしい。
「どちらと手を組むかは今後に重大な影響を及ぼすだろう。我々の判断と行動次第では、現在の膠着状態を一気に打開することもできる。幸運なことに選択権は我々にある。慎重に検討して得な方を選ぼうではないか」
将軍達は皆考え込んだ。それぞれ意見はあるようだが、どちらを選ぶべきか断言はできないでいるらしい。禎傑はそんな彼等を見渡すと、二人の軍師に助言を求めた。
「涼霊、華子。お前達はどう考える」
二人は顔を見合わせ、涼霊が先に口を開いた。
「私は桑宮と手を組むべきと考えます」
涼霊は立ち上がって禎傑に進言した。
「理由は簡単です。桑宮と巍山では、明らかに巍山の方が強敵だからです。桑宮道久は御廻組六万五千の長ですが、今手元にある兵は一万九千に過ぎません。一万貫の小身では諸侯に重しが利かず、三十一と若く戦場経験がないため、もし大軍を集められても上手く動かすことはできないでしょう。一方、巍山は家督を継ぐや自力で領土を四倍に広げ、武公と激戦を繰り広げた戦上手と聞いています。この地で対峙して一ヶ月になりますが、全く付け入る隙がありません。恐らく、彼と影岡軍の織藤恒誠が現在の吼狼国で最強でしょう。桑宮と組めばその巍山を挟み撃ちで容易く打ち破ることができます。巍山さえ倒してしまえば、残った桑宮など恐るるに足りません。もし巍山が挟撃される前に焦って攻撃してきても、こちらは有利な戦場を選ぶことができ、守りを固めて桑宮軍の来援を待つことも、一気に会戦で決着を付けることもできます」
涼霊が口をつぐむと、続いて華姫が発言した。
「私は鷲松巍山と手を結ぶべきだと思うわ」
華姫も椅子から立ち上がって意見を述べた。
「なぜなら、桑宮道久に協力すれば、彼の兵力が増えるからよ」
どういうことかと首を傾げる将軍達に、華姫は説明した。
「涼霊将軍の策で私達と桑宮軍に挟撃されて勝ち目がないとなれば、巍山軍の諸侯の多くは桑宮側に下るわ。桑宮は上手く行けば、守国軍の内、鷲松家の三万を除いた全てを手に入れられる。また、光子も母代わりだったお姉様に誘われれば彼の味方に付く可能性が高い。つまり、最悪の場合、桑宮の軍勢は合計十四万人近くになる。これは大きな脅威だわ。戦の経験がないのも織藤恒誠が策を授ければ補える。都で相当な人気だと聞く光子が先頭に立って攻めてきたら、私達の勝ち目は薄いのではないかしら。仮に勝てたとしても大きな損害が出るのは確実。桑宮軍の壊滅に失敗し、西国街道を封鎖されて都に逃げ込まれたら、攻め落とすのは苦労するでしょう。いずれにしても、吼狼国を征服するのは難しくなるわ」
将軍達は華姫に批判的な者達も含めて、皆真剣に聞き入っている。
「一方、巍山と手を結べば都へ進軍することが可能になる。巍山に時間稼ぎをされて冬になっては困るから、共同で攻めようと提案するのよ。こちらは合わせて二十万の大軍。五万余の桑宮軍など敵ではないわ。そして、都を落とした後に、巍山と決戦するのよ。宗皇のいる玉都を攻撃した逆賊巍山が憎まれるように仕向ければ、彼に援軍は来ないでしょうし、都攻めの損害を上手く抑えることができるかも知れないわ。恐らく、ここが決戦の地になるわね」
華姫は机の上の吼狼国の大きな地図で、藍生原を示した。
「私達は都を制圧するまでに、巍山軍と桑宮軍の両方を倒さなければならない。問題はどちらと先に戦うかだけれど、私は巍山と結んだ方が勝利しやすいと思うの」
「なるほど。双方とも一理ありますな」
高卓がつぶやいたが、将軍達は皆、二人の軍師を見比べて困惑した表情だった。
これまで、二人は言い合いになる場面もあったにせよ、協力して禎傑を助けてきた。だが、今回は真っ向から意見が対立している。しかも、この論戦に勝った方が恐らく今後の遠征軍を主導することになり、禎傑の第一の軍師と見なされるだろう。将軍達は心情的には吼狼国人の華姫よりも涼霊に指示されたいが、遠征の成否を左右する重大な判断を感情で決めることはできない。
将軍達がどちらに賛成したものか迷っていると、涼霊が華姫に向かって言った。
「華子殿の意見は分かった。だが、巍山は信用できない。都の防壁を攻めている時に、突然横から攻撃されるかも知れない。一方、桑宮は必ず巍山の背後を衝くだろう。両軍は数で倍の差があり、自分達だけでは巍山を倒せないからだ」
涼霊の口調は相変わらず淡々としていたが、珍しく自分の考えを採用してもらいたいという意志が感じられた。
「それに、巍山軍を打ち破ればこの国で最大の敵は消える。吼狼国の総貫高は二千万貫と少しと聞く。計算すると、武家の数は約四十万だ。狐ヶ原で打ち破った軍勢六万五千と巍山軍、都守備の五万余を足せば、既にその半数を超える。蔓食国で手輪峠を守っている者達が一万六千ほど、梅枝家と手の国周辺の諸侯の兵が合わせて三万八千。足の国と踵の国と鴉の国の封主家の武者約十万は文島の二万五千を警戒して動けない。つまり、ほぼ全ての諸侯は武者を戦場に送っており、吼狼国の兵力は底を突いている。守国軍の十万四千は集められる限界の数だったのだ。都を制圧すれば大軍との戦いはしばらく起こらず、体勢を立て直すのに十分な時間が得られる。よって、我々が重視すべきは、敵の最大の軍勢である巍山軍を撃破することだ。それさえ果たせば、この遠征は成功したも同然だ」
将軍の何人かが指を折って計算するのを待って、涼霊は言葉を続けた。
「華姫殿は、挟み撃ちにした場合諸侯は桑宮側に下ると言うが、それは敵陣に混乱を生む。降伏したばかりの者達は信用できず、上手く連携が取れるはずもない。巍山の命令による偽りの投降の可能性を疑うかも知れない。そこを一気に攻めれば、両軍を野戦でまとめて始末でき、都攻めが楽になるだろう」
涼霊が口を閉じると、数人の将軍が禎傑を横目で盗み見た。彼等の表情で、華姫は涼霊の熱意の原因に気が付いた。禎傑が自分以上に華姫を信頼する様子を見せるせいで焦っているのだ。彼らしくなく意外だったが、統国府に本気で泰太郎を探させるには実力と覚悟を示す必要があると思っていたので、確実に都を落とせる方法を譲るつもりはなかった。
「影岡軍がいるわ。桑宮軍との戦闘中に背後を襲われたら危うくなるのは私達の方よ。巍山軍と合計二十万なら、一万程度の影岡軍には何もできないわ」
涼霊がすかさず反論した。
「我々に協力するよう、国母に命じさせればよい。もしくは、田美国など遠方に行かせる手もある。邪魔をさせない方法などいくらでもあるだろう」
華姫もすぐに言い返した。
「桑宮が巍山軍の諸侯を事前に調略して味方に引き込んでいれば、打ち破るのは難しくなるわ。敵が増えるかも知れない策は博打だわ。巍山と組めば都を確実に落とせるのよ」
「巍山が自国の都を本気で攻めると思うのか。自分が主となって支配したい町なのだ。住民を敵に回すようなことはするまい。恐らく、密約を交わして自分の担当する場所は形式的な抵抗だけで降伏させるなど、策を弄するに違いない。都攻めに全力を投じられるようにするためにも、巍山軍は前もって叩いておくべきだ」
涼霊が華姫への敵愾心を露わにしたので、華姫もつい言葉に力が入った。
「巍山が私達を攻撃するには、桑宮軍を壊滅させるか都から追い出す必要があるわ。でないと背後が危ないもの。勝った方が都へ攻め込んでくるのが確実な状況で、桑宮軍が何もしないわけがないのだから。都を陥落させるまで、巍山は私達に協力するしかないのよ」
華姫は狐ヶ原で面会した時の印象で、国母を利用しようとした道久は信用できないと思っていた。巍山の方が目的や打つ手が分かりやすく、ある意味信頼できるのだ。
「あなたが言った通り、しばらくは他の諸侯の軍勢が都に向かってくることはないわ。それはつまり、都を落とせば巍山との決戦に全力を挙げられるということよ。一方、桑宮軍と挟撃する場合は、その次に彼等との決戦が待っているから大規模な会戦を連続して二回行うことになる。追い詰められた鷲松家の武者達は必死の抵抗をするはず。その直後にこちらより確実に多い敵と激突して、本当に勝てるのかしら」
「まあ待て。涼霊も華子も落ち着け」
二人の口調が激しくなってきたの見て、禎傑が口を挟んだ。
「もっと冷静に話し合え。ここにいる全員が納得する結論を出したいのだ。それに、俺は都をあまり傷付けたくない。どうしたらいい」
涼霊が答えた。
「それにはやはり、巍山を先に倒し、そのまま桑宮軍を押し潰すのがよいでしょう。この場合、桑宮が都に残す兵は少ないため、会戦に勝利した我々が大軍で迫れば、守備兵は諦めて逃亡する可能性が高いと思われます」
頑烈が涼霊に味方した。
「そうですな。野戦に引っ張り出した方がやりやすいと思いますぞ。都は周囲に高い壁があり、中は建物がぎっしり並んでおるようですから、大軍が入ったら混乱するに違いありませぬ。城壁の外で決着を付けるべきですな。巍山と手を結ぶなど論外です。あやつは我等の最大の敵なのですぞ」
頑烈は華姫の提案を認めるつもりはないらしかった。
「それなら、都の陥落が確実になった時点で巍山軍を襲えばいいのよ」
華姫が言うと、頑烈は鼻で笑った。
「そんな気持ちで城攻めができるか。背後を気にし、すぐそばにいる軍勢を警戒しながらでは本気で戦えぬ。五万が守る城壁を越えるのは難事だぞ」
「でも、巍山との決戦のためには桑宮軍を都から追い出さなければならないわ。これは絶対条件よ」
「巍山軍が先に都へ入って守りを固めてしまったらどうする。火でも放つのか。木造の家はよく燃えるから、敵をいぶり出すにはもってこいだ」
「都には大勢の民がいるのよ。そんなことをしてはいけないわ」
「都から追い出せと言ったのはお前だろう」
「火を放つのは駄目よ。民や百家商連を敵に回すことになるし、桑宮軍はきっと望天城に逃げ込むわ。広い堀と高い城壁に守られた難攻不落の巨城に籠もられたら攻め落とすのは難しい。逆に言えば、望天城さえ押さえてしまえば都は手に入れたも同然ね。巍山軍は城壁の外に出て決戦を挑むしかなくなるわ。私は都に行ったことがあるから町の様子には詳しいの。巍山を先に城に入れないように兵を動かすことも、あまり町を壊さないように上手く城壁や城を攻めることもできると思うわ」
「都を焼かれては困るな。俺の都になるのだ。城もできれば無傷で手に入れたい」
禎傑が言うと、敦朴が反応した。
「やはり玉都に政庁を置かれるおつもりですか」
「そうだ。望天城を俺の宮殿にする」
「宮殿ですと?」
頑烈が驚いた。
「都を統治の本拠にされるのはよいとしても、総督が派遣されてきたら明け渡さねばなりませんぞ。殿下が総督になるのは永京の大商人や高官達がいい顔をしますまい」
禎傑は笑って言った。
「俺は吼狼国で自立する。国王になるのだ。形式上の国王は宗皇に譲るがな」
「ど、独立なさるのですか!」
頑烈が叫んで目をむいた。将軍達も仰天している。涼霊は知っていたらしく、表情を変えなかった。
「そうだ。俺は恵国では邪魔者扱いだからな。この遠征にしたところで、許可した皇帝の思惑は、成功すれば儲けもの、失敗しても俺の処刑の口実にできるといった辺りだろう」
将軍達は皆、嫌なことを思い出したという顔になった。禎傑の部下はもちろん、新たに幕下に加えられた将軍や兵士達も死んだ皇子の配下などで、恵国に戻っても歓迎されない者達ばかりだったのだ。
「本当に自立なさるおつもりですか」
高卓が尋ねた。
「言葉も通じぬ異国の地で長く権力を保つのは難しいのではないでしょうか。恐らく本国から討伐軍が送られてきましょうし、来なかったとしても吼狼国の武家達はとても信用できず、上手く御していくのは相当難しいですぞ」
「そのために華子がいる」
禎傑は笑った。
「華子を俺の妻にし、共同統治者にすればよい。俺は吼狼国の風習には疎い。華子の知恵がなければ治めるのは不可能だろう。国王は宗皇だから元狼公を名乗ることになるが、御台所は華子だ。姉が国母だから民も納得するだろう」
「こ、この女と結婚なさるおつもりですか!」
禎傑が頷くと、頑烈は大声で叫んだ。
「わしは反対ですぞ! こんな売国奴を皇妃にするなど!」
将軍達は理解が追い付かぬ様子で混乱している。涼霊も妃の件は予想外だったらしく、目を見張っていた。
華姫は溜め息を吐いた。
「私は泰太郎さんの妻よ。あなたの求婚は断ったはずよ」
「俺は諦めないと言った。あれから数ヶ月、お前の夫はまだ見付からない。生きている証拠もない。もう死んでいるのではないか。そろそろ観念しろ」
「死んだ証拠もないわ」
このやり取りを聞いて将軍達はますます驚き、頑烈は一層腹を立てたらしかった。
「わしはこの女との結婚には反対ですが、それにしても殿下の求婚を断るとは、どこまで生意気な女なのだ!」
「私には夫がいるのよ。貞節を守りたいの」
「だが、殿下の妾ではないか! 何が貞節だ!」
「その説明は俺がしよう」
そう言って禎傑は、実は華姫の夫は連れ去られただけで生きている可能性があること、禎傑は求婚したが断られ、これまで手を出していないことを明かした。将軍達はあまりのことに言葉もなかった。
「つ、つまり、殿下は華姫殿の実力と気概を認め、対等な協力者として扱ってきたということですか」
高卓もさすがに信じがたいという顔だったが、禎傑は肯定した。
「そうだ。都を落としたら話そうと思っていたが、少し早くなったな。俺は華子を妻にし、一緒に吼狼国を支配するつもりだ」
広間を見回して、禎傑は言った。
「華子の実力は今更語る必要もあるまい。吼狼国を治めるにはこの国のことをよく知っている者が必要だ。その点、華子以上の適任者がいないのは分かるだろう。華子には既に手の国の諸国を慰撫した実績がある。民も少しは安堵するだろう」
「売国奴を妻にすれば逆効果ですぞ!」
頑烈が叫んだが、禎傑は確信に満ちた笑みを浮かべて答えた。
「その悪評は華子が自分で消し去るだろう。俺と華子なら、停滞している吼狼国の経済を立て直し、米価の下落と物価高で苦しんでいる民を助けてやれるはずだ。民というのは、口では正義だの吼狼国人の誇りだのと言っても、実際には日々の生活が一番大事なのだ。暮らし向きさえ良くなれば、大抵のことは大目に見てくれる。この俺でさえ、まともな太守や将軍なら、多少の蓄財くらい許してやってもよいと思っていたくらいだ。それだけ恵国の官吏の腐敗がひどかったということだがな」
「わ、わしはこの女に頭を下げるのは御免ですぞ!」
頑烈は顔を真っ赤にして華姫を指差した。
「殿下も殿下です! 恵国人の誇りを忘れ、異国の王になろうなどと言い出されるとは!」
怒りに立場を忘れて怒鳴った頑烈は、急に何かに気付いた顔になり、華姫をにらんだ。
「さては、お前が殿下に独立などというおかしな考えを吹き込んだのだな! このあばずれめ! 自国を裏切っただけでは飽き足らず、殿下まで籠絡して運命を狂わせるつもりか。許さんぞ!」
頑烈は華姫につかみかかろうとした。
「よせ、頑烈。やめんか! 早く止めろ!」
首を絞めようとした頑烈を、禎傑が素早く間に割り込んで止めた。が、頑烈は回り込んで華姫に向かっていこうとしたので、慌てた将軍達に羽交い絞めにされて引き戻された。
「頑烈、落ち着け。華子は俺達の仲間だ。乱暴はよせ」
禎傑は穏やかな声で諭したが、頑烈は頷かなかった。
「殿下、どうかもうこの女をおそばに置くのはおやめ下され。結婚などとんでもありませぬ」
「それはできん。俺は華子に惚れているのだ」
禎傑は堂々と言い切り、注目を浴びた華姫はまた溜め息を吐いたが、頑烈は華姫を憎しみのたぎった目でにらみ付けていた。
「殿下、申し訳ありませぬが、わしの主君は皇帝陛下ただお一人です。いくら殿下でも、国を裏切るとおっしゃるのならば従えませぬ。第一、大恵寧帝国の皇子でいらっしゃるあなたが、吼狼国のような辺境の小国の王に臣下の礼をとることなどあってはなりませぬ」
「ならば、国王ではなく皇帝を名乗ろうか。地の皇家を継いでもよい。方法は何とでもなる。その場合も妃は華子だが」
「そういう問題ではございませぬ。吼狼国はかつては恵国の臣下だった国だということです。それに、その女は必ず殿下に害をなしますぞ。わしは決して認めませぬ!」
禎傑はやれやれという顔をして、周謹に命じた。
「頑烈を部屋に連れて行き、酒でも飲ませてやれ。少し頭を冷やさせた方がよい」
「はっ!」
周謹の合図で三人の将軍が頑烈を取り囲み、廊下を連れていった。
「さて、それで、使者への返事はどうするか」
巍山軍の使者はもう帰ったが、道久からの方は陣地の中で待たせてある。
「意見がまとまるには時間がかかりそうです。すぐには返事ができぬと言って、一旦陣の外へ追い出しますか」
周謹が言い、涼霊も頷いたが、華姫は首を振った。
「いいえ、私が会うわ。巍山からも同盟の打診があったことを告げて、交渉を継続するのに条件を付けるのよ。巍山軍の方には交渉が成立するまで休戦を申し入れましょう」
「休戦は分かるが、桑宮に付ける条件とは何だ」
首を傾げた禎傑に華姫は言った。
「国母の名で影岡軍に私達の兵糧の輸送を邪魔するなと命令させるの。従えばこちらは助かるし、拒否すれば桑宮と影岡軍の間に距離を作ることができる。光子達は巍山にも従っていないから孤立することになるわ」
「なるほど」
「そして、桑宮に、大灘屋仁兵衛と大番頭の長次、鳴沼継村と頃田剛辰、それに玉都の高官の正体らしい前治都裁事と前行李奉行を差し出させるのよ。彼等を連れてきたら誠意を認めて真剣に同盟を検討するとね。巍山が死罪を申し渡したけれど、まだ処刑していないから、きっと喜んで送ってくるわ」
「その者達を連れてこさせて何をするのですかな」
高卓の問いに、華姫は凄みのある笑みを浮かべた。
「泰太郎さんの居場所を聞き出すのよ。彼等なら知っているはず。絶対に吐かせてやるわ」
鍾霆が尋ねた。
「夫が見付かったら華子殿はどうするんだ。殿下に夫と一緒に仕えるのか。妻になるんじゃないのか」
華姫は少し考えた。
「そうね。都を落とすまでは協力するわ。その後のことは分からないけれど、吼狼国の統治を長くは手伝えないわね。私は夫のいる身よ。他の人の妻にはなれないわ」
「では、あなたはいずれ殿下のおそばを去るのだな」
「そうよ。そういう約束だもの」
将軍達は驚いていたが、同時にある種の安堵が全員の表情に浮かんでいた。だが、その中でただ一人涼霊だけが、ようやく夫の手掛かりが手に入るとうれしそうな華姫を冷ややかな目で眺めていた。
華姫は道久の使者に会い、条件を告げて前向きな返事をもらうと、景隣を連れて母屋を出た。
広い庭を歩いて向かったのは数棟ある離れの一つだった。入口の前で警備している暴波路兵二名が頭を下げるのに頷き返し、中に入って廊下を進んでいくと、若い男女の言い争う声が聞こえてきた。片方は吼狼国語でもう一方は恵国語だった。その内容から事情を察して溜め息を吐くと、華姫は部屋の襖を大きく開け放った。
「そこまでになさい!」
一喝すると、直利はびっくりした顔をし、握っていた少女の腕を離した。十五歳の羅花は直利の寝ている寝台から華姫のそばまで走ってきた。
「ラハナ、大丈夫?」
「はい、華子様」
少女は頷いて腕をさすっている。暴波路国人は吼狼国人より肌の色が濃いが、それでも赤くなっているのが分かった。廊下に立つ景隣に気が付いて恥ずかしそうにしている。
「女の子に何てことをするの。怖がっているではないの!」
叱られて直利はふてくされた。
「もうここに閉じ込められて六日目だぞ。いい加減、退屈しているんだ。そいつは奴隷だろ。言うことを聞くのが仕事じゃないか」
そんなことだろうと思っていたが、華姫は心底呆れた。
「あなたがそういう遊びに溺れていたのは知っているわ。覚え立てで制御が効かないのね。でも、きちんと自分を律しなさい。あなたは武家の男で、武守家の一員なのよ。一族が笑われるような振る舞いをしては駄目よ。それに、この子にそういうことはしないでと言ったでしょう」
直利はうるさそうな顔をしながら、未練そうに少女の均整の取れた健康そうな体を横目で見た。
ラハナは恵国で奴隷の夫婦の間に生まれた娘だ。顔立ちが整っていたため主人に妾にされそうになって逃げ出し、華姫の馬車の前を横切って転んで助けられた。華姫が買い取って奴隷の身分から解放してやったが、行く当てがないと言うので侍女をさせている。華姫は名前が似ているこの少女を可愛がり、ラハナも新しい主人を慕って吼狼国に自ら望んで付いてきた。肌に文身がなく、商家の奴隷だったため読み書きができ、恵国語と暴波路国語に加えて華姫が教えた吼狼国語もかなり話せるようになってきたので、通訳や恵国兵達との連絡役としても重宝していた。
「じゃあ、あんたが相手をしてくれよ」
直利は小声でつぶやいたが、無言でにらまれて慌てたように目を逸らし、少しためらうと急に突っかかってきた。
「笑われるような行動っていうなら、それはあんたの方がひどいだろ。国を裏切って、売国奴って呼ばれているじゃないか。敵国の大将の妾のくせに!」
言いながら、時々華姫の表情を盗み見て、怒らせるのを怖がっている様子だった。言葉は憎たらしいが、本気で罵っているわけではないらしい。華姫に構って欲しいのだ。つまり、甘えている。
十七日の夜、気絶していた直利は、傷の手当の最中に痛みで目を覚まし、華姫の美貌に目を見張った。華姫はここが恵国軍の本陣だと告げ、直利が捕虜になったこと、肩の骨が砕けていて当分固定しなければならないが命に別条はないこと、右腕も弾丸がかすったがこちらの傷は小さかったことを説明した。
その他いくつかあったすり傷や切り傷を治療する間、直利は呆けたように華姫の顔に見入っていた。が、見つめ返されると顔を真っ赤にし、大人しく指示に従うことを誓った。
以後、直利はこの部屋から出ることを禁じられている。もともと腕白でわがままだし、華姫に想いを素直に告げられないもどかしさもあって、溜まった不満を世話係の少女に向けているのだ。だが、それを指摘しても仕方がないので、華姫は小言を繰り返さず、先程の軍議の結果を告げた。
「自分の立場が分かっていないのね。そんなことを言っている場合ではないわ。あなたは当分解放されないわよ」
「どういう意味だよ」
罵倒に華姫が反応しなかったので、直利は新しい話題に乗ってきた。どうせ口先だけだったし、自分の扱いがどうなるかはやはり気になるらしい。
「巍山と桑宮道久から使者が来たわ。桑宮はあなたを殺せと言ってきた。当然ね。あなたがいなくなれば、直孝が武公の血を引く唯一の子孫になるのだから。武守家の者を、それも子供を殺したと言い触らせば、私達を一層人々に憎ませることもできるしね。巍山はあなたを返せと言ってきたけれど、どうやら本気ではなさそうよ。守国軍の諸侯は掌握したから、あなたはもう用済みと思っているのではないかしら」
すぐには意味が呑み込めなかったらしいが、少し考えて自分の置かれた状況を理解すると直利は叫んだ。
「じゃ、じゃあ、俺はどうなるんだよ! ……まさか、殺されるのか?」
憐みの表情で華姫は答えた。
「いいえ。殺さないわ。あなたには利用価値があるもの」
禎傑の妻にするという発言のせいで先程の軍議で言えなかった考えを、華姫はこの少年に話した。
「まず、巍山に対する脅しに使えるわ。こちらの言うことに逆らったらあなたを殺すと言い触らすのよ。あなたは武守家の男児、見殺しにすれば非難は免れない。統国府を乗っ取り権力を確立するまで、巍山は悪評を避けたいはず。彼を思い通りに操ることはできないにしても、牽制にはなるでしょうね。巍山があなたを返すように言ってきたのはそれが理由よ」
「お、俺は統国副元帥だぞ!」
自分の命が道具のように扱われることに、直利は怒るよりも怖くなったらしかった。
「その肩書は桑宮が取り消したわ」
直利を一言で黙らせると、華姫は言葉を続けた。
「都を落として吼狼国を征服し終えたら、あなたには私達が作る新しい宮廷に参加してもらうわ。武守の姓を持つあなたが禎傑氏の家臣になれば、民は吼狼国が負けたことを実感するに違いない。全国の武家に抵抗を諦めさせるのに大きな効果があるでしょう。譜代封主家に対しては人質としても意味があるわね。弘徳公や武公の血筋を絶やしたくない、いつか武守家を再興したいと思う者達は、あなたを危険にさらす行動はできない」
直利は言葉が出ない様子だった。華姫の頭の良さに驚き、自分との差があまりにも大きいことを実感したらしい。
「なるほど。それは面白い考えだな」
背後から聞こえた声に振り向くと、廊下に禎傑が通訳を連れて立っていた。華姫の後を追ってきたらしい。
「いつもながらお前は後々のことを考えているな。涼霊は戦いにはすぐれているが、政事向きのこと、特に先の先を読んで前もって手を打っておくことではお前に及ばない」
ほめながら部屋に入ってくると、禎傑は寝台に座っている直利に言った。
「華子は俺のものだ。お前の手に負える女ではない。諦めろ」
見下ろす視線の迫力に直利はたじろいだが、禎傑の言葉の意味に気が付いて対抗意識を露わにし、必死で見返した。
「俺は武守直利だぞ。恵国人なんかに……!」
本人はにらんだつもりらしいが、声が震えている。ラハナは無表情の景隣をちらりと見やった。
「大人げないわよ。子供相手に」
華姫は溜め息を吐くと、子供と言われて衝撃を受けている直利に言った。
「あなたにこの国を支配している武守家の一員という自覚が本当にあるのなら、何ができるのかを考えなさい」
華姫の口調は少しだけやさしくなった。
「あなたには他の誰にもできないことができる可能性があるわ。先程の禎傑氏の家臣になるというのもその一つよ。あなたが説得することで、無駄な血を流さずにこの国の平和を回復することができるかも知れない。あなたが諸侯をまとめれば、横暴な振る舞いをする恵国人を止めることができるかも知れない。その立場を理解して生かすことができるか、ただ好色でわがままなだけの役立たずの御曹司で終わるかは、あなた次第よ」
この言葉の意味が直利にはよく理解できなかったようだが、華姫が自分を思って言ってくれたことは分かったらしい。だが、難しいことを迫られていると感じたのか頷くことはできずにいる。
顔つきから直利が言葉を真剣に受け止めたことを見て取ると、華姫は表情をゆるめ、禎傑に尋ねた。
「それで、あなたは何をしにここへ来たの?」
禎傑はもう一度直利をにらむと華姫に顔を向けた。
「捕虜の様子を確認しに来た。傷の具合と、こちらの教えた通りの言葉を言わせたり行動をさせたりできる相手かどうかを確認しにな」
禎傑は急に真面目な顔になった。
「それから、お前に言うことがあってな」
「何かしら」
華姫は尋ねつつ相手の表情から内容を予想していた。
「俺は都に入る前にお前を口説き落とすぞ」
禎傑は宣言した。
「今日、お前が俺の女でないことが将軍達に知られてしまった。彼等には、お前が個人的な理由で俺に協力しているだけでいずれは去っていくつもりだという事実は、かなりの衝撃だったらしい。これまでの働きで皆お前を認めるようになっていただけに、引き留められないと俺の失態と見なされそうな雰囲気だ。吼狼国人を妻にするのかと嫌がっていたのに、いなくなると思うと惜しくなるらしい。お前の夫が生きていることも、俺がお前に手を出していないことも、ひどく驚いたようだ。何人かに、惚れているなら早くものにした方がよろしいですぞと忠告された」
禎傑は苦笑した。一方、直利は話の内容をマハナに通訳してもらって愕然としていた。華姫は妾だと信じていたらしい。
「無駄よ。私は泰太郎さんの……」
「その言葉は聞き飽きた」
禎傑は途中でさえぎった。
「それに対する俺の返しも変わらん。俺は必ずお前を手に入れる。お前の夫が見付かっても別れて俺の妻になれ」
即座に否定しようとする華姫を制して、禎傑は尋ねた。
「もし、巍山か桑宮がお前の夫を探し出して人質にしたら、お前はどうする。これも将軍達に聞かれた」
景隣が息を呑んだ。
「分からないわ。その可能性は何度も考えたけれど、答えは簡単には出せないわね」
華姫は慎重に返事をした。
「でも、これだけは言える。私は、私の家臣達と、暴波路兵と、田美衆を見捨てることは決してしない。泰太郎さんも大切だけれど、彼等もとても大事なの。彼等との約束を果たすまで、私は立ち止まりはしないわ」
「そうか」
禎傑は頷いた。
「今はその言葉だけで十分だ」
禎傑は信頼の笑みを浮かべると、直利と景隣をちらりと見て部屋を出ていった。
「さあ、包帯を替えてしまいましょう」
華姫は直利に言った。そのためにこの部屋に来たのだ。この屋敷の別な離れに温泉があり、直利はそこで湯治することを許されている。華姫は毎日直利の傷口に薬を塗って包帯を巻き直してやっていた。医者は恵国軍にもいるが、直利は華姫にしてもらいたがった。
軟膏を塗られながら、直利は本当に禎傑の妾ではないのかと華姫に尋ねたい様子だったが、結局口にしなかった。華姫も話さなかった。もっとも、華姫の身の回りの世話をしているラハナに聞けば確かめられることではある。
「さて、終わったわ」
華姫は明るく言って飲み薬を渡し、部屋を出た。庭を歩いて母屋に向かうと、数歩後ろに従う景隣が尋ねてきた。
「泰太郎様はどこにいらっしゃるのでしょうか」
「皆目見当が付かないわ」
華姫は正直に答えた。手がかりが全くないので推測しようがないのだ。
「もしかしたら、簡単には助けに行けないようなところかも知れないわね」
「その場合は、私にお命じ下さい。しばらくおそばを離れることになりますが、どんな遠い場所だろうと行って助け出して参ります」
「そうね。私が自分で行きたいけれど、軍勢を派遣しない方がいい場合もあるわ。そういう時はあなた達が頼りね」
「お任せ下さい。私は以前、華姫様と泰太郎様を必ずお守りするとお誓いしました。それを忘れたことはありません」
華姫は立ち止まって若者を振り返った。
「泰太郎さんを助け出したら私は恵国へ渡るけれど、あなた達はどうするの。そういえば聞いたことがなかったわね」
「可能ならばいつまでもおそばにお仕えしたいと望んでおりますが、お邪魔になるようでしたらどこかへ去ります」
「邪魔だなんて」
華姫は小さく首を振った。
「でも、あなたにはあなたの幸せがあるでしょう。光子にも言ったけれど、あなたにも早くいい人を見付けてもらいたいわ」
景隣は何も答えなかった。華姫は溜め息を吐き、また母屋に向かって歩き出した。その後ろを、景隣はうつむいて付いていった。
翌日、巍山と道久から返事があった。巍山は休戦を了承し、再度直利を返すように言ってきた。道久からは、六人と捕らえてある鳴沼家の武者達を送る旨連絡があった。巍山はともかく、なぜ道久の返事がこんなに早いかというと、伝書鳩を使ったのだ。
望天城や封主達の玉都屋敷には鳩小屋があり、常時管理人が見張っていて手紙を脚に付けた鳩がいるとすぐに外して届けてくれる。各領国にも鳩小屋はあって、緊急時に素早く連絡が取れる。
政変の時、非木家の領地にいた鷲松家の五千は伝書鳩で知らせを受けて即座に出発したので、夕刻に都に着くことができたのだ。第一次討伐軍の招集の時も、先に領国へ鳩を放っておいたので、統国府からの正式な書簡が到着した時には準備がほぼ整っていて集合が早かった。だが、長い文章は運べないため、首の国から鷲松家の主力を都へ呼ぶような場合は、やはり詳しい編成や率いる家老の名を記した書簡を、飛脚や駅馬を利用して送る必要がある。
海国丸事件の首謀者六人と実行役の三十人の鳴沼家の武者は、連絡があった次の日の夕刻に届けられた。途中で巍山に邪魔されぬよう、楠島家の軍船で後明国側の浜へ回り、嵐の中を駕籠で運んできたので時間がかかったのだ。
「風雨を押してできる限り急いで連れて参りました。桑宮様の誠意はこれでお分かり頂けたはず。是非よいお返事を」
恩を着せようとうるさく言い立てる使者を追い返すと、華姫と家臣達は早速継村と剛辰を尋問し、泰太郎の居場所を聞き出そうとして、語られた言葉に愕然とした。
「何ですって! 嘘よ! そんな馬鹿なことがあるはずないわ!」
華姫はいつもの冷静さを完全に失って叫んだ。
「嘘じゃねえ。本当に泰太郎は死んだんだよ」
鳴沼家の次男は苦痛に脂汗を流しながら吐き捨てるように言った。
「海国丸から落ちてそのまま海の底さ。とっくに人の世にはいないぜ」
厚い雲に覆われた闇夜に雷鳴が轟き、叩き付けるような雨が降っていた。荒れ狂う風が狭い蔵の高い窓の板戸をみしみしときしませ、灯火が激しく揺れていた。
「いい加減なことを言うな!」
景隣が我に返り、革の鞭で背中を何度も激しく叩いた。継村が引き裂かれるような鋭い悲鳴を上げて身を反らし、がっくりとうなだれると、その横でやはり縛った両腕を天井からつるされて正座させられている頃田剛辰が、苦しい息の底で言った。
「お前達を船倉に置き去りにして船に戻ったら、泰太郎を探したが発見できなかったと言われた。それが事実だ」
「でも、泰太郎さんが海に落ちた時、すぐに下の方から、見付けたから小船に引き上げるという返事が聞こえたわ!」
華姫が叱るように追及すると、様山和尹が思い切り鞭で打った。家老は胃の中身を全て吐き出すようなひどいむせ方をして咳き込んだが、顔を少しだけ上げて、皮肉そうな笑みに頬を歪めた。
「あの時引き上げられたのは当家の家臣だ。泰太郎にしがみ付かれて一緒に落ちた男だよ。泰太郎は浮かんでこなかったそうだ。そのまま沈んでしまったに違いない」
「では、本当に泰太郎様は亡くなられたと言うのか」
「ああ、あれ以来誰もあの男を見た者はいない。お前達が戻ってくるまで俺達の悪事は露見しなかった。大朋丸にもお前達の小舟にも乗っていなかったのだ。海の底以外にどこにいるというのだ」
家老が答えると、継村が耳障りな甲高い声で笑った。
「ざまあみろ。わざわざ夫を探しに吼狼国まで戻ってきたのに、全くの無駄骨とはな。いい気味だ。国を売った意味がなかったな。ははは!」
「貴様!」
景隣がまた鞭を振るった。この男のせいで景隣は生死の境をさまよって手術されることになったのだから、ただでさえ憎しみが深い相手なのだ。
「華姫が帰ってきた時、恵国の大将の女になったと聞いて、俺達は腹が痛かったぜ。あの高慢で偉そうな女が妾奉公とはな。きっと泣いてすがって、自分から着物を脱いで抱き付いたんだろうってな。あんな笑える話は初めて聞いたぜ」
更に鞭を食らいながら、継村は半分白目をむいた焦点の合わない目で華姫をにらんだ。
「どこまでも馬鹿な女だ。お前は悪女だ。吼狼国の不幸の元凶なんだよ。この国にも俺達にも災厄しかもたらさない悪鬼の生まれ変わりめ! 早く負けて捕まって、拷問されて苦しんで死ね!」
そう大声でわめくと、継村はがくりとうなだれて気を失った。
「こ、こんな馬鹿なことが……! 俺達の苦労は全て無駄だったと……」
一人の家臣が言いかけて、はっと気が付いて口をつぐんだ。八人に視線を向けられた華姫は、厳しい表情で命じた。
「他の者達も全員尋問しなさい。口裏を合わせないように別な場所でよ。牢も離しなさい。とにかく、確かめなくては」
「は、はい!」
家臣達は皆顔色がなかったが、すぐに手伝いの暴波路兵を連れて動き出した。
そうして、深夜華姫の部屋で全ての証言を付き合わせたが、継村の言葉を確認したに過ぎなかった。
「つまり、全員が泰太郎さんは死んだと言ったのね」
華姫は今にも倒れそうなほど真っ青だった。
「連中がそろって嘘を吐いている可能性もあります。まだ事実と決まったわけではありません。我々を困らせようとしているのかも知れません」
様山和尹が慌てて慰めたが、華姫は首を振った。
「でも、彼等の証言が嘘という証拠も見付からなかったわ。本当かも知れない」
言いながら、華姫は事実なのだろうと半ば以上確信していた。鞭打たれて泣きながら証言した鳴沼家の家臣達の様子は、とても嘘を言っているようには見えなかったのだ。菅塚興種と滝堂永兼と大灘屋仁兵衛は泰太郎の行方は知らなかったが、自分達が黒幕だったことは認めた。
「何ということ……」
華姫はかつてない衝撃を受けていた。今までの自分の人生が全て崩れてしまったような、信じていた世界が全て夢だったような、そんな深く暗い不安が胸を覆い、心にぽっかりと空いた大きな穴の中にどこまで落ち込んで沈んでいってしまいそうだった。
華姫を囲う八人の家臣も全員死人のような顔つきだった。一日で体重が半分になったようにげっそりとして、見た者がぞっとして逃げ出すような表情を浮かべている。その中で、最初に現実に返ったのは政資だった。
「どうなさいますか」
華姫はいつもはきちんと正座するのに、今は倒れそうな体を前に両手を突いて辛うじて支えていた。が、家老の問いに大きく上体をぐら付かせ、力の抜けた悲鳴のような声を上げた。
「どうするも何も、どうしようもないじゃないの! ……ごめんなさい」
華姫は珍しく反射的に言い返そうとして、急いで謝った。
「いえ、お気になさらず。それで、これからどうなさいますか」
素早く自分を取り戻した華姫の気丈さをむしろ憐れむような表情で、政資は再度尋ねた。
「そうね。どうしたものかしら」
華姫は虚ろな視線で床を見つめたが、政資の言いたいことは察していた。自分達の置かれた立場は非常に微妙になっている。禎傑に協力してきたのは泰太郎を探すためだった。その目標がなくなった今、恵国軍からも、田美衆からも、暴波路兵達からも、今後の方針を求められるだろう。特に田美衆は、夫探しをしないのなら禎傑に味方する必要はもうないだろうという声が上がることは避けられないと思われた。
「とにかく事態をはっきりさせましょう」
華姫は溜め息を吐き、勇気を振り絞るように深く息を吸うと、小さな声で、しかしはっきりと言った。
「泰太郎さんは、……死んだのよ」
言い切った華姫の口調は乱れを感じさせなかった。家臣達は息を呑み、うなだれた。
「はい。泰太郎様は亡くなられました」
政資は頷いた。そして、手を合わせて目をつむり、死後の幸福を祈る言葉をつぶやいた。華姫や家臣達もそれにならった。
短い儀式の後、政資がまた向けた視線を、華姫は今度はしっかりと受け止めた。
「葬儀をしましょう」
言ってから、華姫は急にその言葉の重みを感じたように息を止めた。みるみる両目に涙が浮かび、こぼれ落ちた。やがて大きく息を吐き出した華姫は、悲しみで胸がふさがったようにやや浅い呼吸をしながらゆっくりと言った。
「泰太郎さんと、増雄さんと、亡くなった人々を送りましょう。そして、あの人達を処刑しましょう」
「証人がいなくなります。もう少し生かしておいた方がよいのではありませんか」
政資が指摘すると、華姫は首を振った。
「もう聞くべきことは聞いたわ。殺しましょう。彼等は殺されるだけのことをした。その報いを受けさせましょう。それも誓ったはずよ。磔がいいわ。民に処刑を公開しましょう」
「承知致しました」
頷いて、政資は低い声になった。
「それで、今後の方針は」
華姫はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「明日の夜でいいかしら。処刑と葬儀の後で話すわ。今はまだ、気持ちの整理がつかないの」
「もう数日先でも構いませんぞ」
田美衆は黙らせますと言外にほのめかす政資に、華姫はかすかに微笑んだ。
「大丈夫、今夜の内に気持ちを立て直して考えをまとめるわ。泰太郎さんが既に亡くなっている可能性は考えていたから、それほど驚いたわけではないのよ。あの時助けられていなかったのは意外だったけれど。だから、一晩で大丈夫よ」
「分かりました」
政資は頷いて立ち上がった。
「では、我々はもう休みます。禎傑様にお知らせして葬儀の手配をしておきます」
「助かるわ。みんな、いろいろとありがとう」
拷問などやりたくなかっただろうという意味だったが、家臣達は皆首を振り、主君に深々と頭を下げて部屋を後にした。景隣は何か言いたそうにしていたが、結局一緒に出ていった。
襖が閉じられると、華姫は部屋の奥に行き、窓の雨戸を開いた。既に晴れている空には大きく欠けた黄金の月が浮かんでいた。それをじっと見上げると、華姫は辛うじてこらえていた悲しみを解放し、漂流してからのこの一年半で初めて声を上げて泣いた。
翌二十五日の午後、六人と鳴沼家の家臣三十人の処刑が行われた。ずらりとならんだ三十六本の十字の木の柱に男達は首謀者を中心にして縛り付けられ、順番に胸を前から槍で刺された。柱の下には全員の名と罪状を記した札が立てられ、大勢の雲居国の民の前で読み上げられた。悲鳴や苦痛のうめきが聞こえなくなり、全員の絶命が確認されると、下ろされた死体は柱の背後にそれぞれ用意されていた薪の山に乗せられて燃やされた。まとめて焼いてしまえばいいと家臣達は言ったが、華姫は供養したい人もいるでしょうと言って、雲居国で一番の大寺院に拾わせた骨を預けた。
その後、その寺院で海国丸の死者達を弔う大法要を行い、泰太郎の死を公表した。恵国軍の代表として禎傑と周謹、田美衆から帆室治業・内厩謙古・夜橋幽月の三家老他多数が参列し、華姫の呼びかけに応じて、巍山軍と桑宮道久の使者、それに楢間惟延と餅分具総と撫倉安漣が出席した。
光姫は自分で行きたいと言ったが、やめた方がよいと説得されて諦めた。芳姫の名で命じられた兵糧輸送隊の襲撃停止を拒否したばかりだったし、巍山や道久が恵国軍と何やら交渉しているらしいという情報が入っていたので、三者全てと敵対関係にある影岡軍は慎重にならざるを得なかった。華姫は夫の葬儀で妹をだまし討ちにしたりしないだろうが、将軍達が何かたくらむ可能性はあった。
法要には多くの民も訪れた。黒い着物に身を包んだ華姫は実に美しく、参列した人々は、やややつれの見える美貌に賛嘆と憎しみの入り交じった複雑なまなざしを向けていた。
その夜、肉を使わない夕食を済ませると、政資達八人は華姫の部屋に行った。他に帆室治業とラハナとサタルが呼ばれていた。
何が告げられるのかと緊張した面持ちの彼等に、華姫は深々と頭を下げた。
「今まで本当にありがとう。私が諦めずに戦ってこられたのはあなた達がいたからよ。心から感謝するわ」
華姫はしばらく頭を下げたままだった。家臣達が不安になった頃にようやく顔を上げると、きりっとした表情で言った。
「あなた達を呼んだのは別れを告げるためよ。私は今夜禎傑氏を殺して死ぬわ。あなた達は今夜の内にここを脱出なさい」
「姫様!」
「ハナコ様!」
全員が悲鳴を上げた。それを黙らせて華姫は続けた。
「これは禎傑氏に協力すると誓った夜から心に決めていたことよ。もともと吼狼国を彼の好きにさせるつもりはなかったの。泰太郎さんが見付かったら彼を暗殺して国外に逃げようと思っていたのよ」
「どうやって殺すおつもりですか」
政資はさすがに最初に冷静さを取り戻して、低い声で尋ねた。
「毒を飲ませるわ」
華姫は部屋の隅にある竹筒を指差した。田美国の酒と墨書されている。造酒用の希少な米を使った高級品だ。禎傑は吼狼国のどぶろくが気に入ったらしく好んで飲んでいたので、喜ぶだろうと華姫が職人に予約して取り寄せておいたのだ。
「あれに混ぜるのですな。ですが、その場合、姫様は……」
政資の痛ましげな表情に華姫は頷いた。用意した毒は非常に強く、ほぼ即死する。となれば、飲ませてすぐに屋敷を抜け出したとしても、恵国軍の陣地を離れて行方をくらます前に禎傑の死体が発見される可能性が高い。つまり、逃げるのはかなり難しい。
「私は彼と共に死ぬわ。もう疲れたの」
華姫が弱気なことを言うのは珍しかったが、家臣達はそれを指摘するどころではなかった。
「私は故郷に恵国軍を引き込み、父を殺し、大勢を殺し傷付けた。その罰を受けるべきよ。でも、あなた達は私に従っただけだわ。私がいなければ、こんなことに巻き込まれることはなかった」
華姫は政資に書簡を数通渡した。
「これは光子とお姉様に宛てたものよ。敵対したことを詫びて別れを告げ、あなた達を保護して欲しいと書いてあるわ。私の命令で出撃すると言ってここを出て、影岡城に入りなさい。あの二人なら、きっと私の最後の願いを聞いてくれるはずよ」
華姫は姉と妹を懐かしむ表情になった。
「恵国軍の内情など知りたがっている情報を提供し、攻撃の案内役を務めれば、あなた達の罪は許してもらえるでしょう。禎傑氏が死んだ混乱に乗じれば影岡軍は勝利できるはず。単独で難しければ、巍山軍や桑宮軍と手を組む方法もあるわ。それは織藤恒誠と光子が判断するでしょう。直利さんも連れて行きなさい。残していけばあの子は殺されるわ。まだ子供だもの、死なせるのは忍びない。巍山との交渉の材料に使えるかも知れないしね」
華姫は視線を治業に向けた。
「田美衆には無理なことをさせて苦しめてしまったわ。謝って済むことではないけれど、みんなには申し訳なかったと伝えて」
「華姫様……」
筆頭家老は絶句した。止めたものか歓迎したものか迷っているらしい。次に、華姫はサタルとラハナに言った。
「暴波路衆も田美衆に付いていきなさい。手紙の中で、戦いが終わったら国へ送り届けて欲しいと光子とお姉様に頼んだわ。あなた達に残っていられても困るはずだから、すぐにではないでしょうけれど、きっと帰国させてくれるはずよ」
「ハナコ様……」
「こんなの私は嫌です! 死なないで下さい!」
サタルは涙を流し、ラハナは懇願した。政資達も考え直すように言葉を尽くしたが、華姫の意志は固いと知ってうなだれた。
部屋が静かになると、それまで黙っていた景隣が尋ねた。
「禎傑様を殺して、華姫様は本当によろしいのですか」
華姫は景隣の真っ直ぐな視線を避けるように目を逸らしたが、すぐに正面から見返して頷いた。
「最初めから決めていたことよ」
「お気持ちは分かります。ご覚悟は薄々察しておりました。ですが、今更華姫様が命を投げ出される必要はありません!」
景隣は叫んだ。
「このまま一緒に逃げましょう。追手がかかっても私がお守りします! 吼狼国にいづらいのなら、隆国でもどこでも構いません。私も一緒に参ります!」
「ありがとう。でも、もういいの。決めたのよ」
目からこぼれた涙をぬぐうと、華姫はもはや悲しい顔はしなかった。
「みんなは長生きしてね。こんなところで放り出されて怒っているでしょうけれど、あなた達には生きて欲しいの。ここまで一緒に来られて本当によかったと思っているわ。ありがとう。さようなら」
そう言ってもう一度深く頭を下げると、納得しかねる顔の彼等を部屋から追い出した。
華姫は穂雲城から持ってきた小さな手鏡をのぞき、薄く化粧をして涙の跡を隠し、壁際の棚の薬が入ったたくさんの木の小箱の一つから小さな紙包みを取り出した。酒の竹筒に白い粉を入れ、数回振って溶かすと、華姫は廊下に出て、もう一度部屋を見渡し、静かに襖を閉めて去っていった。
この一部始終を部屋の窓の外で聞いていた者がいた。直利だった。
葬儀にも招かれず離れに閉じ込められていたが、ラハナが華姫の部屋へ行ったので、部屋を抜け出して建物の中を見て回っていると、玄関前にいるはずの見張りの暴波路兵がいなかった。サタルとラハナが華姫の様子がおかしいことに気付いて仲間を呼び集めたからだった。直利は庭に出て母屋に近付き、周囲を歩き回っている内に華姫の声を聞き付けて、この部屋の外の壁に張り付いていたのだ。
直利は華姫の覚悟を聞いて真っ青になった。部屋に戻って連れ出しに来るはずの政資を待つべきだと思ったが、華姫がどうなるか気になって仕方がなかった。それで、すぐには離れに帰らず、母屋の周りをうろうろして禎傑の部屋を探したが、あちらこちらに衛兵がいてなかなか窓に近付けない。
木の陰に隠れながら、もう諦めようかと思った時、すぐそばの窓から華姫の声が聞こえた。辺りを見回すと、先程までいた衛兵がいなくなっていた。直利は一瞬ためらったが覚悟を決め、閉まっているがわずかに光の漏れているその板戸に近付いた。
「華子か。入れ」
警備の兵士がいなかったので廊下から声をかけるとすぐに返事があった。襖を開けると、禎傑は恵国から持ってきた書き物机に向かって書類を眺めていた。
「こんな時間にどうした」
振り返った禎傑に、華姫は竹筒を見せた。
「それは酒か。持ってきてくれたのか」
禎傑は珍しそうな顔をした。華姫は初めて会った夜に酔いつぶれて禎傑の部屋で眠ってしまったことを反省して、あまり酒を飲まないようにしていたのだ。手を出さないという約束はあるが、隙を見せない方がよい。もともとさほど好きではないので、禎傑に杯を差し出されても数杯付き合う程度にとどめていた。
「なかなか手に入らない貴重なお酒よ。きっと気に入ると思うわ」
「そうか。ありがたい。丁度のどが渇いていたところだ」
禎傑は筆を置いて立ち上がり、小卓へ来た。これも南海州の部屋から運んできたものだ。
「田美国で一番の銘酒なのよ」
華姫は部屋の隅から陶器の深い杯を持ってきて、白く濁った酒を注いだ。上品な甘い香りが辺りに漂った。
「あなたのおかげであの人達を捕まえて処刑することができたわ。泰太郎さんの法要もできた。これはこれまでのお礼よ。さあ、どうぞ」
禎傑は杯をうれしそうに受け取った。口元に持っていくところをじっと見つめてしまいそうになり、慌てて目を逸らして誤魔化す微笑みを浮かべると、禎傑は華姫に笑い返しながら杯に口を付けた。が、すぐに離した。
「飲まないの?」
驚いた顔をしてみせると、禎傑は杯を華姫に差し出した。
「お前が飲んでみろ」
口調はやさしかったが、目が笑っていなかった。
「分かったわ」
受け取って口へ運ぼうとすると、禎傑は急に杯をもぎ取り、畳に叩き付けた。陶器の杯は鋭い音を立てて砕け散った。小卓が揺れて竹筒が破片のそばに落ち、ごろごろと転がった。
「やめておけ。死ぬ気か」
華姫は不思議なほど動揺しなかった。
「気付いていたの」
「当たり前だ。お前が前々から俺を殺して逃げようと思っていたこともな。夫の法要の日の夜だ。怪しむなという方が無理だ」
「そう……」
華姫はつぶやいた。全身から力が抜けたようだった。悔しさや無念さはなかった。ただただ虚しかった。
「残念だ。お前にこんなことをされるとは」
禎傑は本気で寂しそうに言った。
「お前の心をもう少しつかんでいるつもりだったのだがな。もっとも、お前はどの道いつかはこうしたかも知れないが」
「したわね。私はそうすると自分に誓ったのだから」
もう一年以上前になるが、あの時の決意を忘れたことはない。
「だが、その誓いはもう果たしたわけだ。気持ちに区切りが付いたろう」
禎傑は華姫を正面から見つめた。
「華子、俺の妻になれ」
禎傑はどこか苦しそうに言った。
「それがお前のためだ」
「私は泰太郎さんの妻なのよ」
「夫はもう死んだ。葬儀も済ませた。義理は充分果たしたはずだ」
「あの人が亡くなっても私が妻であることは変わらないわ」
「再婚しても誰も文句は言うまい」
「私がしたくないのよ」
「俺はしたいぞ」
言うなり、禎傑は立ち上がった。
「もうこんなやり取りは飽きた。俺はこれ以上我慢したくない」
小卓を回り込んでくる。華姫も腰を上げて椅子から離れた。
「今夜、お前を手に入れる」
禎傑はぐんぐん迫ってきた。華姫は後ずさって、豪華な寝台の前に追い詰められた。一年前、禎傑を刺そうとしたあの寝台だ。
「いい加減に観念しろ。そして、素直になれ」
両手で肩を押して華姫を寝台に突き飛ばし、禎傑はその上に四つん這いになった。
「なぜ抵抗する」
禎傑は尋ねた。一年前は不思議そうだったが、今はひどく悲しそうだった。
「なぜ拒む。受け入れれば楽になるものを」
「私には夫がいるわ」
「そう言って自分を誤魔化すお前に付き合ってきたが、それはもうやめだ。自分に正直になれ。お前は俺を愛しているはずだ」
華姫はその言葉を否定しなかった。しても無駄だと分かっていた。禎傑はとっくに気が付いていたのだ。華姫がこの男にどうしようもなく魅かれていることを。
泰太郎に感じる親しみや敬愛やほっとするような温かい気持ちとは全く違うが、華姫はこの男が好きだった。不敵さ、大胆さ、おのれの強さへの自信、そういった男としての激しさやたくましさや猛々(たけだけ)しさと、時折こうして見せるやさしさが、華姫の心の奥の女の部分を刺激するのだ。恵国で彼と過ごす内にそれを自覚するようになって華姫は驚いた。恋と一口に言っても様々な形があるものだと思った。初恋だった泰太郎への想いは変わらない。会いたいし懐かしかったが、同時に禎傑も愛している自分がいた。
それでも、華姫は常に心の中で泰太郎を選び続けてきたし、彼のために死ぬことに迷いはなかった。華姫は認めたくなかったのだ。禎傑への愛を肯定すれば、吼狼国との最後のつながりが絶たれる。復讐者や夫を取り戻そうと頑張る妻ではなく、恋しい男に尽くすだけのただの女になってしまう。それでは、自分を信じて付いてきてくれた者達に申し訳がなかった。
「一緒に漂流した八人は家臣ではなく、共に生き抜く仲間だわ。みんなで力を合わせて苦難と戦ってきたのよ。でも、私があなたの妻になれば同志ではなくなる。彼等は私に養われる本当の家臣になる。それは、吼狼国武家であることをやめて恵国人になれと言うに等しいわ。暴波路兵も、私が彼等を自分の手駒として扱ったら、きっと裏切られたと思って怒るに違いないわ」
華姫は仲間達に禎傑を利用して自分達の目的を遂げようと言った。だから、彼等は生き残り帰国するために華姫に協力してきた。だが、禎傑の求婚を受け入れたら、愛する男のために仲間を使うことになってしまうのだ。
景隣はどこまでも付いてくると言っているし、他の七人も喜んで家臣になってくれるだろうが、華姫は彼等を道具にしたくなかった。他の人々からは国を売ったと思われていても、自分達は心の中では吼狼国人だった。それを捨てろと言いたくなかった。
このまま進めば、巍山軍や桑宮軍との決戦と都攻めが待っている。それに参加してしまえば、もはや言い訳の余地はない。だが、今ならまだ、華姫が全ての罪を被ることで彼等が許される可能性があった。
彼等は華姫の指示に従っただけで、自発的に吼狼国の敵に回ったわけではない。暴波路兵も華姫に付いてきたに過ぎない。田美衆に至っては戦意の低さは明らかで、仕方なく一緒に行動しているだけなのは誰が見ても分かるはずだった。恵国軍も彼等を信用しておらず、華姫の周囲や敵に襲われる可能性の低い場所の警備くらいしかさせていない。
杏葉直照の討ち死にに関与しているので厳しい処分は免れないにしても、恵国軍を打ち破るのに協力し、光姫がかばえば、家名の存続が認められるかも知れない。これが最後の機会なのだ。
しかし、禎傑はそんな考えはお見通しのようだった。
「お前は家臣達を救いたいらしいな。だが、もう遅い」
「そんなことはないはずよ……!」
言い返しかけて、華姫は気が付いた。禎傑は華姫の心のことを言ったのだ。
「俺はお前をもう手放せない。お前がそばにいない日々など想像したくない。この国を手に入れてもお前を失っては意味がないとさえ思う。お前も同じ思いのはずだ。俺から離れたくない、ずっとそばにいたいと願っているのは分かっているのだ。素直に妻になり、俺の横に並んで立て」
「同じではないわ」
答えつつ、華姫は自分への言い訳がそろそろ限界に来ていることを自覚していた。
もしかしたら、仲間達のこともこの人を拒むための口実なのかしら。いいえ、それはないわ。
華姫は思わず首を振った。それを見て、禎傑は顔を歪めた。
「どうしてそこまで抵抗する。俺は死んだ男にも勝てんのか。その想いは早く断ち切れ。お前を不幸にするだけだ。俺に協力するという約束をお前はまだ果たしていないはずだ」
「泰太郎さんのことを忘れるなんてできないわ。仲間を巻き込むこともできない」
華姫は叫んだ。
「あなたの妻にはなれない。あなたが嫌いではないわ。真剣に求婚されていることも分かっている。でも、私の夫は一人だけ。泰太郎さんだけなの。私はまだあの人を愛しているのよ」
禎傑は苦しそうに目をつぶり、やがて開くと「分かった。仕方がない」と言った。
「こうなっては、俺も腹をくくるしかないな。俺がその男を忘れさせてやる。許せ」
言うなり、華姫の左腕の上部をつかんで動けなくして、口を華姫のそれに寄せてきた。
「やめて!」
「お前を縛り付けているたがを俺の手ではがしてやる。俺はもう、身動きの取れないお前を見ていられないのだ」
片手が華姫の帯に伸びてくる。自由な方の手で必死で抵抗したが、男の強い力に圧倒された。
「こういう手段は嫌いだが、はっきり俺のものにしてやれば、お前も覚悟が決まるだろう」
言いながら、禎傑は厳しい顔をしていた。華姫のような女にこのやり方は最悪だ。怒らせ嫌われるのは避けられないので、惚れた女を手に入れられる喜びや欲望よりも、他の方法を思い付けない悔しさが上回っている。その心の真っ直ぐさが愛おしかったが、されるままになるなど論外なので、華姫は必死で抵抗した。
「やめて! 人を呼ぶわよ!」
「誰も来るなと言ってある! 抜かりはない!」
「叫べば誰か来るわ!」
「来ないと言っているだろう!」
左肩を押さえられ、右手は握り合って抵抗したが、力では到底かなわないことは分かっていた。だが、本気で逃げ出すのもためらわれた。仲間達はもう脱出を始めているはずなので時間を稼ぐ必要があったからだ。それに、人を呼べば禎傑を殺すことは不可能になってしまう。
とにかく振りほどいて距離を取る必要があるわ。
華姫は素早く判断した。
話し合いに応じると言ってこの部屋に引き留めて、可能なら動けなくさせて毒を飲ませるのよ。仲間達のためにはそれしかない。
そう決意すると、華姫は足で相手の股間を蹴り上げようとした。
が、その時、突然襖が大きく開いた。
「そこまでだ! 売女め! 殿下から離れよ!」
叫びながら十数名の兵士を連れて飛び込んできたのは頑烈だった。その後ろから涼霊も姿を現した。
「その女を拘束しろ!」
頑烈が命じると兵士達が近付いてきたが、体を起こした禎傑ににらまれてためらった。
「頑烈、涼霊、これはどういうことだ。ここは俺の私室だぞ」
邪魔されたことに禎傑は怒るよりも驚いていた。彼等の闖入は全く予想外だったのだ。華姫も素早く寝台から起き上がり、乱れた着物を直した。それを横目ににらんで頑烈は言った。
「勝手に入ったご無礼はお許し下され。ですが、やむを得ず突入致しました。もはやその女を殿下のそばに置いてはおけませぬ。処刑しますゆえ、お引き渡し頂きたい」
「処刑だと? なぜだ」
禎傑の声が怒りを帯びた。頑烈は司令官が本気で腹を立てたことを知ってたじろいだが、怒鳴るような大声で訴えた。
「その女は妖魔の類ですぞ。殿下をたぶらかし、誤った道へ進ませようとしております。殿下が気に入っておられ、多少の働きもありましたので大目に見ておりましたが、妃になろうとはあまりに傲慢強欲。到底見過ごすことはできませぬ。殿下は一時はお怒りになられましょうが、いずれ分かって頂けると信じております」
禎傑は呆れた顔をし、軍師に目を移した。
「涼霊、お前も同じ意見か」
涼霊はいつもの平板な口調で答えた。
「華子殿は確かに有能です。手の国の制圧では大きな手柄を立てましたので、お引き立てになるのも分かります。ですが、華子殿は今もって吼狼国人であることを捨て切れていません。それでは今後は使えません」
涼霊は感情の見えない視線を華姫に向けた。
「吼狼国で自立し政権を維持していくためには厳しい施策も必要になりますが、華姫殿は反対するでしょう。殿下は彼女に惚れていらっしゃるようですので、判断が甘くなって適切な手が打てなくなる可能性があります。華姫殿は都攻めにもためらいがあるようです。町を焼いたり民を飢えさせたりするような攻撃方法に難色を示したのがその証拠です。今後の戦いに向けて軍内の意見を統一しておくためにも、ここで死んで頂くのが最もよいと判断しました」
「ちっともよくないぞ。俺の意志はどうなる。それに、お前は俺を色恋や一時の感情で施政を揺るがせるような太守だと思っていたのか」
禎傑の射るような厳しい視線を涼霊は受け止め切れず、横を向いた。後ろめたい気持ちがあるらしい。彼等は華姫に嫉妬しているのだ。禎傑が華姫の意見を最も重視する様子を見せることが許せなかったらしい。涼霊まで加わったのは意外だったが、彼にも禎傑の第一の腹心兼軍師として守りたい誇りがあるかも知れなかった。
「お前達、これは反乱だぞ。俺に逆らうつもりか」
「殿下のためを思えばこその行動です。今はお怒りになるかも知れませぬが、いずれご理解頂けると信じております」
頑烈達に引くつもりはないらしかった。
「さあ、兵ども、あの女を殿下から引き離せ。殿下を傷付けてはならんが、抵抗なさるようなら拘束し申せ」
兵士達が顔を見合わせ、禎傑に近付こうとした時だった。
「待て!」
「姫様をお守りしろ!」
外の庭で叫び声がして縁側へ出られる板戸が乱暴に外され、八人の家臣が飛び込んできた。帆室治業やサタル、ラハナもいる。庭には多数の暴波路兵が集まっているようだった。
「あなた達!」
もう陣地から出ているだろうと思っていたので華姫が驚くと、抜身の刀を構えて頑烈達をにらみ付けていた景隣が顔を向けた。
「申し上げたはずです。私は華姫様にどこまでも付いていき、必ずお守りすると」
政資も言った。
「姫様は我々の大切な主君です。一緒にあの日々を生き抜いてきた仲間としても、到底置いて逃げることなどできませぬ」
様山和尹が頷いた。
「姫様はおっしゃったはずです。決して仲間を見捨てるなと。そのお言葉に従って、姫様を助けに参りました」
他の家臣達も口々に同じ意味の言葉を叫んだ。治業も言った。
「わたくしは華姫様を主君と仰ぐと決めました。主君を置いて逃げ出すなど、梅枝家の家臣にあるまじき行いです。ご命令には従えぬと申し上げに参りました」
サタルとラハナも叫んだ。
「僕達はハナコ様だから命を預けられるのです。死なないで下さい!」
「あなたにどこまでも付いていきます。私はあなたにいつまでもお仕えしたいのです!」
「みんな……」
華姫は何も言えなかった。自分は彼等のこの思いを捨て去ろうとしたのだ。政資が言った。
「我々にとって姫様は希望です。周囲が敵ばかりの中で生き抜いて未来を切り開くために、あなたが必要なのです。姫様には我々がそう思うだけの力と魅力がおありです。いきなり自分達の力で生きていけと放り出されて、皆途方に暮れました。こんなところで姫様を失ったら、我々は一致団結して動くことができなくなり、自滅するでしょう。どうか、我々をこれからも導いて下さい。我々も全力で姫様をお助け致します」
政資は禎傑に視線を移した。
「姫様が禎傑氏を殺せとお命じになればそう致します。従えとおっしゃるなら恵国軍のために戦います。どちらにするかお決め下さい」
家臣達や暴波路兵が槍や刀を構えると、頑烈配下の者達も緊張した様子になった。
一方、治業はかなり怒っていた。
「田美衆も、急に光姫様に従えと言われても困ります。穂雲城は恵国軍に占領され、皆の家族が人質になっておるのです。寝返るには相応の覚悟が必要です。我等をこういう運命に引き込んだのは華姫様ですぞ。最後まで面倒を見て頂きたい。でないと、我等は敵に味方した裏切り者として、統国府からも恵国軍からも責められ滅ぼされることになりましょう。筆頭家老は梅枝家の者達を守り、主君に務めを果たさせるのが仕事。あなたが家臣をそんな目に遭わせるのを許すつもりはございませぬ。家臣を途中で放り出すなど当主失格ですぞ。わしがこの方ならばと思った意志の強さを取り戻し、我等をきちんと導いて頂きたい」
ラハナや暴波路兵達も泣きそうな様子で「見捨てないで下さい!」と叫んでいる。
華姫は迷った。この人数差なら禎傑や頑烈達を殺すのは簡単だが、本陣を逃げ出す前に家臣達や暴波路兵は皆殺しにされてしまうに違いないからだ。夫を失った自分はせめて彼等を守りたい。しかし、禎傑の手を取れば、彼等を完全に恵国軍に引き渡すことになる。
「さて、どうなさいますか、禎傑様」
廊下から聞こえた新たな声に振り向くと、周謹が多数の兵士を連れて立っていた。彼は禎傑の警護部隊の長だ。この騒ぎに気が付いて駆け付けてきたのだろう。華姫が来た時部屋の前に兵士がいなかったし、庭からこれだけの人数が近付けたのだから、当直の警備兵は涼霊達が遠ざけたのだろうが、頑烈以上に堅物の周謹を口説くのは無理と見て、話を通していなかったらしい。
「既に二万の兵士を動かして陣地の門は全て封鎖し、母屋の周辺を遠巻きに包囲させております。ですから、田美衆と暴波路兵を壊滅させることも可能です。頑烈殿の意見を入れてその命令を下されるか、華姫殿やその者達を助命して頑烈殿と涼霊殿を捕縛なさるかは、殿下のご判断に従います」
「殿下、その女の処刑命令をお出し下さい」
頑烈は深く頭を下げた。
「惚れておられるのは存じておりますが、わしと涼霊殿はもう十年近く殿下にお仕えしております。その者達と比べられますまい」
「都攻めや巍山達との戦いで殿下に必要なのは我々です。どうかお心をお決め下さい」
涼霊も決断を促したが、禎傑は華姫を見つめて黙っていた。華姫はその視線を感じながら、顔を上げられないでいた。禎傑にも仲間達にも自分はひどいことをしようとしたのだと、今更ながらに実感していたのだ。
禎傑が迷っているのを見て、頑烈は次第に焦ってきた。
「殿下、お悩みになることはございませぬ。殿下により忠実で、より役に立つ我々をお選び下され」
「殿下、ここは吼狼国で、華子殿にかわる情報源は容易に見付けられます。都さえ落とせば多くの吼狼国人が殿下の軍門に下るでしょう。その中には治政に長けた者も多いはずです。華子殿はもはやどうしても必要な人材ではないのです」
涼霊の言葉を聞いて、禎傑はふっと笑った。
「俺に必要な人間か。そうだな、そう考えればよいのだな」
禎傑は華姫に真顔で呼びかけた。
「華子。お前は俺を愛しているな?」
「ええ」
華姫はゆっくりと顔を上げ、頷いた。もう隠す意味はなかった。
「お前には俺が必要か。俺がいなくても生きていけるか。正直に答えろ」
華姫は少し考えて、首を振った。
「私にはあなたが必要だと思うわ。生きていくために共に頑張る仲間はいるけれど、愛する人、心のよりどころになる人も欲しいわ。泰太郎さんがいなくなった今、それはあなたしかいない。もう愛する人を失うのは嫌だわ」
「そうか」
禎傑は表情をゆるめた。
「お前にはこの者達も必要なのだな」
「そうよ。この人達は私を守り、支えてくれる。今も逃げる最後の機会だったのに、こうして来てくれたわ。だから私もこの人達を守りたい」
「分かった。ならば、俺もこの者達を大切にしよう」
禎傑が答えると、頑烈が慌てて叫んだ。
「殿下はその女にたぶらかされておるのです。言葉に耳を傾けてはなりませぬ。殿下は我が軍の総司令官でいらっしゃるのですぞ。敵国の女を妻にするなどあってはなりませぬ。我々こそ殿下にお仕えするにふさわしいですぞ!」
「失礼ながら、女などいくらでもかわりが用意できます。ご希望でしたら、すぐにでも美しく艶やかな女を多数連れて参ります。華子殿にこだわる理由はありますまい」
禎傑は頑烈に、続いて涼霊に視線を向け、周謹に言った。
「心は決まった。俺は華子を取る」
「よろしいのですな」
禎傑は頷き、華姫に言った。
「俺はお前に言ったはずだ。その心映え、気高さ、意志の強さは他の誰にもないものだと。決して屈せず、誇りを捨てぬその生き方こそが俺には貴重だ。お前のかわりは世界のどこにもいない。俺が欲しいのはお前だけだ。たとえ、代償として忠実な良将と名軍師を失うとしてもだ」
禎傑の言葉に迷いは微塵も感じられなかった。
「俺はお前を愛しているから、お前の意志を尊重する。暴波路兵達も、田美衆も、お前の家臣達も、全てを守ろう。だから、お前は死ぬな。もはやお前に死ぬことは許されないのだ。お前は意志の強い女だろう。始めたことは最後までやり切れ。民はお前を憎みながらも頼りにしている。最後まで面倒を見ろ。それがお前がこの国へしたことの償いになる。お前が俺を手伝ってくれたように、俺もお前を助けよう」
強く温かなまなざしを向けられて、華姫は自分が負けたことを知った。もうこの人を拒めないと悟ったのだ。ここでこの愛を受け入れないのは、自分自身の心を否定することだった。それでは、自分らしくあることはできない。
家臣達を見回すと、政資と治業は娘を見る父親のようなやさしい表情だった。サタルやラハナは信頼し切った様子で、景隣も悲しみの交じった顔でしっかりと頷いてきた。
「分かったわ。あなたの妻になりましょう」
華姫は禎傑の目を真っ直ぐに見返した。
「吼狼国を捨て、恵国人になるわ」
「後悔しないな」
禎傑が確認すると、華姫は大きく頷いてきっぱりと言い切った。
「絶対に後悔などしないわ。自分で選んだ道ですもの、決して途中で逃げ出したりしない。あなたにどこまでも付いていき、最後まで全力で助けるわ」
「さすがは華子だ」
禎傑はうれしそうに笑った。
「ならば、お前はもう俺のそばを離れることはあるまい。そういう気高さや意志の強さに俺は惚れたのだ」
禎傑は華姫に右手を伸ばした。
「お前は永遠に俺のものだ。そして、俺はお前のものだ。二人で俺達の生きる新しい国を作ろう」
「あなたの夢を必ずかなえさせてあげるわ」
禎傑の手を握って華姫は華やかに微笑んだ。
「我々も禎傑様に忠誠をお誓い致します」
政資が言って片膝を突くと、景隣と家臣達、治業、サタル、ラハナがそれにならった。
「頼むぞ。俺もお前達を必ず守る」
彼等に大きく頷くと、禎傑は周謹に命じた。
「頑烈と涼霊を拘束せよ。他の兵士は元の隊に戻せ。罪は問わん」
この言葉に、真っ青になっていた頑烈の部下の兵士達はほっとした顔になり、愕然としている頑烈と涼霊に頭を下げて部屋を出て行った。
「二人のご処分は?」
周謹が尋ねた。
「苦しまぬように死なせてやれ」
「待って!」
華姫は叫んだ。
「この二人を殺すの? 恵国軍に必要な人達よ!」
「分かっている。だが、許すことはできない」
禎傑の言葉に周謹が頷いた。政資や治業も同意見という顔だった。
「この者達は皇子である俺に逆らって妻を殺そうとしたのだ」
「それはそうかも知れない。でも、あなたのためを思ってしたことよ。殺すことはないわ」
「目的は関係ない。許しては兵士達に示しがつかん。総司令官としてこの罰を甘くすることはできない」
「これまでの功績を考慮すれば、死一等を減ずることはできるはずよ。降格か、せめて監禁で済ませられないかしら」
禎傑が首を振ると、涼霊が言った。
「もうよいのだ。殿下に剣を向けた時点で覚悟はあった。勝負に負けた以上、見苦しいまねはせず、大人しく死ぬつもりだ」
「そういうことだ。お前に助命されてもうれしくはない」
頑烈は華姫をにらみ、頭を下げた。
「わしはもう殿下をお助けできぬ。お前は殿下に選ばれたのだ。最後までお助けし、この遠征を成功させてくれ」
「私からも頼む」
涼霊も頭を下げ、二人は禎傑に深々とお辞儀をした。
「殿下、これまでお世話になりました。殿下と戦った日々は苦しいこともありましたがとても楽しかったですぞ。ご武運をお祈りしております」
「殿下、お引き立て頂きましたこと、深く感謝しております。華子殿はすぐれた軍師、よく意見をお聞きになることをお勧めいたします。どうかご自愛なさり、お健やかで長生きなさって下さい」
「今までお前達には随分と助けられた。礼を言う」
禎傑が返礼すると、周謹の合図で兵士達が二人を取り囲み、連れて行こうとした。
「待って」
華姫殿は足元に転がっていた竹筒を拾ってそばにいた様山和尹に渡した。
「これを二人に飲ませて処刑すればいい。上等のお酒よ。猛毒が入っているから楽に死ねるわ。その後の処置は周謹殿と相談して済ませて。報告だけくれればいいわ」
「承知しました」
和尹は竹筒を受け取って一瞬戸惑ったがすぐに兵士達を追っていった。禎傑が言った。
「さあ、皆、この部屋から出て行け」
政資と治業は顔見合わせ、主君二人に一礼すると家臣達と共に廊下を歩いて去っていった。サタルとラハナはうれしそうな様子で暴波路兵を連れて庭に出て、板戸をはめ直して宿所へ戻っていった。
壁に張り付いて中をのぞき込んでいた直利もラハナに促されて仕方なく付いていった。直利は何度か振り返ったが、なぜ皆が去っていこうとしているかに思い至り、絶望的な表情になった。初めて知る失恋の痛みだった。
部屋が空になると、華姫と手を握ったまま見つめ合っていた禎傑は、小卓の上の灯りを消した。二人は抱き合って口づけを交わし、そのまま寝台に倒れ込んだ。
翌朝、華姫は禎傑の部屋の寝台で目を覚ました。
禎傑は既にいなかった。
昨夜、禎傑はやさしかった。華姫が初めてだと知って驚き、一層やさしくなった。行為の間は夢中で細部は覚えていないが、男のたくましさと深いやさしさは体に刻み付けられた。
今は不思議な満足感が胸にあふれていた。これは愛し愛されることを自分に許し、体で実感したことから来るものだろうと華姫は思った。
裸だったので、布団から起きて着物を身に着けようとすると、体から男の汗の匂いがした。温泉に入りたいと思いながらとにかく帯を締めると、外から声がかかった。
「華子様、お目覚めですか」
ラハナの声だった。起こしに来たらしい。
「どうぞ」
答えると襖が開き、少女が近付いてきた。盆に朝食をのせている。炊いた玄米に根菜の漬物と焼いた干し魚と菜っ葉の浮いた汁物だ。
それを小卓に置いて、ラハナは板戸を開けた。昨日彼女達が入ってきた窓だ。外を見ると随分日が高く、そろそろ朝も終わりの時刻だった。
食事をしている間にラハナは畳の上の割れた杯を片付け、寝台の布団を直した。顔が少し赤くなっているのは十五歳の少女らしい。
入れてくれた吼狼国の茶を飲みながらあの後他の人達がどうしたかを聞いていると、廊下を急いで近付いてくる足音がして、声がかかった。
「妃殿下、起きておいでですか」
周謹だった。まだ式を挙げていないのに気が早い呼び方だわと思いながら、「起きているわ」と返事をすると、襖が開き、将軍が顔を見せた。
「起きたばかりのところ申し訳ございませんが、殿下がお呼びです。妃殿下にお会いしたいという人物が訪ねてきております。至急お出で下さい」
自分の客らしい。誰も思い当らなかったが、華姫は湯呑を置いて立ち上がった。
「すぐに行くわ」
周謹が先に立って案内したが、かなり早足だった。
こんなに急いで呼びに来るなんて、誰が来たのかしら。
そう思いながら、廊下をいくつか曲がって使者の引見に使っている部屋に入り、客という人物を見た途端、華姫は愕然として立ち尽くした。
「泰太郎さん!」
思わず叫んだ声はほとんど悲鳴だった。泰太郎も椅子から腰を浮かせて、喜びと驚きを人の良さそうな顔いっぱいに表わしている。
「お元気そうですね」
長い間黙って見つめ合った後、先に言葉を発したのは泰太郎だった。華姫は我に返り、忘れていた呼吸を再開して胸を大きく上下させた。
「生きて、いたのね」
何とかそれだけを尋ねると、泰太郎は大きく頷いた。
「はい。生きております。華姫様もご無事で何よりです」
そして、急に顔を曇らせた。
「漂流して牙伐魔族に捕まり、奴隷として恵国に売られたとうかがいました」
と華姫の全身を見回した。
「あなたが私を探すため恵国軍に味方し、司令官の妾になったという噂を開いて、そんなはずがないと急いで駆け付けてきたのですが……」
言葉を切った泰太郎に思わず言い訳をしそうになって、華姫は口をつぐんだ。今更何を言えるだろう。身に着けている恵国風の上等な着物が、急にひどくおかしな格好のように感じられた。
一方、泰太郎は胸に長い旗の家紋が入った幟屋一族の正装だった。きっと都の本店に寄ってからここへ来たに違いない。では、親族の元へ戻れたのだわと思った途端、のどにつかえていた疑問が口からほとばしった。
「どうして生きているの! 今までどこにいたの!」
華姫は叫んだ。目から涙があふれ出た。
「生きていてよかった。本当によかったわ。でも、なぜあなたが助かったのか分からないわ。これまでどうしていたのかを聞かせて」
「それは俺も聞きたい」
横から聞こえた冷ややかな声に驚いて振り向くと、豪華な椅子に禎傑が座って二人を見比べていた。機嫌が非常に悪いことは一目で分かった。昨晩やっと口説き落とした女の夫がいきなり現れたのだから当然だ。華姫を呼ばせたのは禎傑だろう。よく見ると周囲には主だった将軍がそろっていた。政資や家臣達、治業達三家老とサタルも左右の壁際の椅子に腰を下ろしていて、なぜか直利までいる。彼等の視線で華姫は自分が相当青い顔をしていることに気が付き、深呼吸して心を落ち着けて尋ねた。
「どうやって生き延びたのかを教えて」
泰太郎は頷き、椅子に腰を下ろして語り出した。
「海に落ちた時、そばに丸太があったのです。それに乗って漂流していたところを助けられました」
泰太郎が海の中で抱き付いていた鳴沼家の武者を離して必死で水から顔を出したら、目の前に甲板に積まれていた長い丸太が浮いていたという。墨浦の仰雲大社の支社の修理用のもので、樹齢数百年、大人一人では抱えられないほどの太さだった。五本あった内の三本が縄でゆるくつながって漂っていたので、その縄につかまったら、海流に流されてどんどん海国丸から遠ざかってしまったらしい。船はすぐに見えなくなり、もはや戻るのは不可能と悟ると、何とか上に這い上がって三本を筏のような形に縛り合わせた。その上に横たわり、落ちないように自分も縛り付けたところで、出血と疲労と傷の痛みで気を失った。
「あの時は死ぬようなことを言いましたが、水に落ちたら急に怖くなりまして、縄にしがみ付いてしまったのです」
恥ずかしそうに言う泰太郎に華姫は首を振った。丸太の落下は船が大きく揺れたので知っていたが、まさかそれに乗って漂流したとは夢にも思わなかった。
「気が付いたら、千鳥島の村長の家で布団に寝かされていました」
「千鳥島……。あの海域からさほど遠くない島なのに、連れて行かれたと思い込んでしまったせいで寄港しなかった。私は本当に愚かだわ」
華姫はうなだれた。
千鳥島は滝の海に浮かぶ絶海の孤島だ。最も近い御使島まで大きな船で五日はかかり、罪人の流刑地として使われている。南海州から田美国へ向かう途中にあるので立ち寄って水や食料を補給することも検討したが、玉都に知らせが行く可能性を考えて避けて通ったのだ。
「私を助けてくれたのは、都から罪人を運んできた船でした」
検断奉行に遠流の刑を言い渡された者は年に二回、気候が安定する初夏と晩秋に統国府の大きな船で島に運ばれる。その船の水主が偶然波間に漂う丸太の筏を発見した。泰太郎は気を失っていて呼びかけに返事をしなかったため死んでいると思われたが、船乗り達は念のために船を止めて小舟で近付き、まだ息があると分かると、傷の手当てをして島に連れていってくれたのだ。
泰太郎は島の罪人の監督役を務めている村長の屋敷に運び込まれた。村でたった一人の医者は、診察して生きているのが不思議だと言った。なにせ、複数の刀傷と多量の出血に加えて嵐にもまれ、数日何も食べていなかったのだ。村長の十八の娘が付きっ切りで看病してくれたが、ぐったりして高熱を出して生死の境をさまよい、意識が回復したのは十日以上が過ぎてからだった。泰太郎は村長に事情を話して都へ戻りたいと言ったが、既に船は出航した後で、次に来るのは秋だと告げられた。島には漁師がいるから小舟があるが、周囲は海流が激しく、しかも吼狼国から遠ざかる方向へ流れているため、脱出しようと漕ぎ出しても漂流して飢え死にするだけだという。泰太郎は華姫達がどうなったか気になったが次の船を待つしかなく、村長の家にやっかいになって養生することにした。
そうして、動けるようになると村を見て回り、産業がないことに気が付いて、助けてもらった恩返しに恵国風の織物の作り方や染め方を教えたり、何か名産になるものはないかと考えて、船用の新しい掃除道具を発明したりした。
束子箒と名付けたそれは、椰子の実の硬い繊維を木の棒に縛って先を切りそろえ、長い柄を付けたものだ。親しくなった村長の娘が鍋を洗う時、こびり付いた米粒をこの繊維の束で落としているのを見て思い付いたのだ。
船の甲板はぬるぬるして滑りやすくなるので、危ないからしばしば洗わないといけない。若い水主が縛った藁でごしごしこすっているが、柔らかいのですぐにすり減ってしまう。この繊維なら長持ちするし、硬くてよく落ちるだろう。棒を長くすれば立ったままで磨ける。村の漁師に大好評だったので、村人や罪人にも協力してもらって二百個ほど作り、連絡船で使ってもらうことになった。
そんなことをしながら船を待ったが、秋が終わり冬になっても船は来なかった。村長はこんなことは初めてだと首を傾げて気の毒がったが、初夏まで我慢するしかなかった。だが、その季節にも来なかった。
結局、連絡船が来たのは蓮月の末だった。連絡船に乗ってやってきた統国府の役人は、政変が続いたためだと説明した。昨年の秋は芳姫の国母就任と巍山達の逮捕や直利の配流などで統国府がごたごたしていて、一般の罪人の流刑の手配が遅れている内に冬が来てしまい、今年の初夏は恵国軍の襲来でそれどころではなかったというのだ。今回の船がこんな時期に来たのは、元御廻組番頭簾形建澄を運んでくるためだった。狐ヶ原で戦わずに撤退して杏葉直照を討ち死にさせたとして、大翼巍山に閉門と遠流を言い渡されたのだ。
役人から恵国軍の襲来と華姫の立場を聞かされた泰太郎は仰天し、出航を早めてもらって島を離れたが、玉都周辺は物騒だからこの船は墨浦に行くという。仕方なく御使島で下ろしてもらい、通りかかった船に頼み込んで馬駆国まで行き、駕籠で都へ入った。本店へ行くと、驚愕して迎えた親族が、華姫から今日泰太郎の葬儀を行うと連絡が来たというので、望天城の桑宮道久に頼んで軍船で送ってもらい、朝一番で駆け付けてきたらしい。
「なんということ……」
華姫はそれ以上言葉が出なかった。将軍や家臣達も驚いた表情で顔を見合わせている。
「今、華姫様は恵国軍に味方しておられるとお聞きしました。それは私のためですか」
語り終えた泰太郎は、華姫にひたと視線を当てて尋ねた。
「もしそうならば、本当に申し訳ありません。そこまでして頂いて感謝の言葉もございません」
「感謝するのか……」
高卓将軍のつぶやきには感心の響きがあったが、少なくない者が同じように感じたらしい。
恵国軍に味方した華姫は国中から嫌われている。他に道がなかったと頭では理解できても、この大戦は民の生活の平穏を壊したから、多くの者は怒り憎んだ。そして、その非難の矛先は、華姫の行動の原因となった泰太郎にも向けられたはずだ。ここに来るまでに泰太郎は散々恨み言を言われ、罵られたに違いない。なのに、華姫のしたことを自分のためだと理解し、むしろ感謝すると言ったのだ。
「私はあなたを恨みません。私のために命を懸けて戦い、故国を捨てさえした人を、何ということをしてくれたのだ、などと責める気にはなれません。むしろ、華姫様らしいと思いました。その意志の強さや行動力は、凡人の理解の及ぶところではありません」
落ち着いた口調から、泰太郎が本心で言っていることと、華姫を深く愛していることが伝わってきた。
「ですが、もうその必要はありません。この通り私は無事です。多少、体に傷跡や上手く動かない部分は残りましたが、生活に支障はなく、商売を続けられます。あなたが吼狼国を敵に回して戦う理由はなくなったのです」
華姫は身じろぎもせずに夫の言葉に耳を傾けていた。
「都で国母様にお会いしました。国母様は三姉妹で力を合わせて恵国軍と戦いたいとおっしゃいました。華姫様が投降し、軍師として国母様を輔佐なさるなら、助命し罪を問わないと約束して下さいました」
泰太郎は視線を禎傑に向け、また妻に戻した。
「私はあなたを私の元へ、いえ、吼狼国へ、国母様や光姫様のところへ連れ戻しに参りました。どうなさいますか」
通訳がそれを恵国語に直すと、全員の視線が華姫に集中した。それを感じながら、華姫は硬直したように動けなかった。
吼狼国を救うには最後の機会だった。投降すれば姉と妹は喜ぶだろう。家臣や田美衆や暴波路衆はきっと付いてきてくれるに違いない。だが、どうするのが彼等のために一番よいのだろうか。そもそも、ここで投降すると言って、恵国軍は承知するのか。華姫の実力をよく知っているし、八千の兵力を失うことになるのだから、すんなりと認めてはくれまい。
判断の基準は様々あった。だが、華姫の心を占めていたのは、二人の恋人のことだった。
泰太郎は懐かしく慕わしい。一方、禎傑のことも愛している。畢竟、これはどちらを選ぶかという問題だった。
泰太郎を夫にすれば、かつて夢見ていた商人の妻の生活を送ることができる。こんなことをしでかした後だけに困難が待ち受けているだろうが、二人で力を合わせれば乗り切っていけるはずだ。
一方、禎傑を選べば完全な国賊となる。恵国軍の軍師兼将軍として、征服後は妃として、禎傑を支え、その覇業を手伝うことになる。
華姫は迷った。これほど迷ったことはないというほど迷った。どちらを選んでも、自分には幸福と不幸が待っている。
果断な華姫が決断を下しかねているのを見て、泰太郎が言った。
「あなたが幸せになれる方をお選び下さい」
夫は真剣だがやさしい顔で頷いてみせた。禎傑へ目を向けると、苛立ちと悲しみと胸の苦しさをぐっと我慢しているような表情で華姫を見つめていたが、視線を受け止めて言った。
「お前の好きにしろ。去っていくと言うなら引き留めぬ。背後を襲ったりせぬと約束しよう」
将軍達は驚いて何か言いたそうだったが、禎傑の一瞥で開きかけた口を閉ざした。
二人とも、何てやさしいのかしら。
華姫は涙が出そうだった。彼等の人生や運命に大きな影響を与えるであろう決断を、自分に任せてくれている。華姫を信じているのだ。それが彼等の愛と信頼の証であり、矜持なのだ。
華姫は泰太郎の人の良さそうな顔をじっと見つめた。そして、禎傑の自信に満ちた不敵な面構えに目を移した。
正直に言えば、二人とも好きだった。どちらも大切で失いたくなかった。だが、片方を選ばなくてはならない。ならば、自分がより求め、自分をより求めてくれる方を選ぶしかなかった。
華姫は浮かんだ涙を拭いて歩き出した。そして、禎傑に近付き、彼の手を取って両手で握り締め、振り返って泰太郎に言った。
「私はこの人の妻になる。妃になるわ。あなたとはお別れしなくてはならないわ」
禎傑が驚きに目を開き、いかにもうれしそうに笑った。
「私はこの人を選ぶわ。あなたとは生きる世界が違ってしまったのよ。吼狼国はもう捨てた。これからはこの人のために戦い、吼狼国を征服する。それが私の決意、私の戦いよ」
禎傑は華姫の手を両手で包んだ。
「よいのだな」
「はい」
確認の言葉は短かった。
華姫は禎傑を愛している。それを昨夜ようやく自分で認め、吼狼国も夫も捨てて、彼の愛を受け入れたばかりだった。
華姫は禎傑と愛し合って実感した。泰太郎への愛は、もう過去の思い出になっていた。今自分の心が求める夫は禎傑だった。そして、華姫は夫を守り助けるためには敵国にさえ味方する女なのだ。
それに、体からはまだかすかに男の汗のにおいがする。こんな自分が泰太郎の元へ帰れようか。
「分かりました」
泰太郎は小さく溜め息を吐いたが、それほど衝撃を受けてはいないようだった。
「では、離婚しましょう。私達は仮とはいえ、祝言を上げたのですから」
そう言って、懐から一枚の紙を取り出した。
「離縁状です。都で書いてきました。使わなかったら破り捨てるつもりでしたが」
景隣がそれを受け取って持ってきた。華姫は禎傑の手を離し、既に書かれている幟屋泰太郎という署名の横に、梅枝華子と墨で書いた。
景隣がまたそれを運ぶと、泰太郎は掲げて皆に見せてから、懐に仕舞った。
「泰太郎さん、ごめんなさい……」
華姫が謝ろうとすると、泰太郎は止めた。
「謝罪は必要ありません。実は、お会いする前からこうなるような気がしていました」
そして、勢いよく頭を下げた。
「謝らなければならないのは私の方です。私にも他に結婚したい人がいるのです」
将軍達がざわめくと、泰太郎はやや恥ずかしそうな顔をした。
「看病してくれた千鳥島の村長の娘がとても慕ってくれるのです。都へ戻れず、自分や華姫様の今後がどうなるか分からぬまま、不安と焦りを抱えてひたすら船を待ち続ける日々に耐えられませんでした。つい人肌の温かさが欲しくなりました」
泰太郎は華姫が罪悪感にさいなまれぬように浮気を告白したのだ。そのやさしさが、華姫にはうれしく、悲しかった。
「都に戻ったら、船を仕立てて島へ行き、求婚するつもりです。華姫様と短い間でも夫婦でいられたことは私の誇りですが、分不相応だったようです」
華姫は首を振った。自分達は本気でお互いを求め合って結婚したのだ。父や妹から隠れて夢を語り合った日々の幸福は本物だった。
「華姫様。幸せにおなり下さい。遠くから、そうお祈りしております」
「泰太郎さんこそ、その娘さんとお幸せに」
泰太郎は椅子から降り、床に平伏した。
「今までありがとうございました」
そうして顔を上げてもう一度華姫の美貌をじっと見つめると、立ち上がって部屋を出ていった。景隣が付き添っていった。
「皆、よく分かったろう」
ざわめき出した将軍達を黙らせて、禎傑が言った。
「もうこれで、華子が妃となることに反対する者はいないな。国を捨て、夫と別れてまで俺を選んだのだ。これほど忠誠の厚い者がいるか」
誰からも否定する声は上がらなかった。
「では、すぐに全軍に布告せよ。昼過ぎに、略式だが、俺と華子の婚礼の儀式を行う!」
よいな、と確認する視線を受けて、華姫は進言した。
「鷲松巍山に使者を送りましょう。同盟を受け入れ、共に都を攻めようと伝えるのよ。婚儀にも代表に参列してもらい、終わったら軍議をしましょう。互いの信頼の証として目障りな敵を共同で倒すために」
華姫はきりっとした表情にほのかな笑みを浮かべて、凛とした声で言った。
「明日、影岡城を攻め落としましょう。都へ進むために背後の安全を確保する必要があるし、巍山が本気なのか確かめられるわ。恵国軍と一緒に譜代封主家を攻めれば、巍山は後戻りできなくなる」
「よし」
禎傑は諸将に命じた。
「すぐに儀式と出陣の準備にかかれ!」
「ははっ!」
将軍達は一斉に頭を下げ、次々に部屋を出て行った。政資達や三家老やサタルもそれに続いた。直利は華姫達のやり取りに赤くなったり青くなったりを繰り返したせいでくたびれたらしく、大人しくラハナに連れられて去っていった。
禎傑は彼等を見送る華姫に近付き、肩を抱き寄せてささやいた。
「大丈夫か」
あれほど助けようと必死だった夫を追い出して、心身ともにつらくないかと気遣ったのだ。
「平気よ」
華姫はやや疲れた様子だったが、むしろ何かが吹っ切れたような晴れやかな表情をしていた。
「私にはあなたがいるもの。寂しくないわ」
華姫は夫のたくましい腰に腕を回して、耳元にささやき返した。
「それよりも、お願いがあるの。儀式の前に、もう一度あなたのものになったことを確認させてくれないかしら。あの人のことをきちんと忘れて、あなたを体に刻み付けたいの。昨晩は夢中だったからよく覚えていなくて」
ほんのり頬を赤らめて言う新妻に禎傑は笑みを大きくし、華姫の膝を持って両手で抱き上げた。
「よかろう。すぐに行こう」
「待って。その前に温泉に入って体を洗いたいわ」
「ならば、一緒に入るか」
「恥ずかしいわ」
「今更何を恥ずかしがることがある」
禎傑は「湯殿にしばらく誰も近付けるな、甲冑を持ってきておけ」と周謹に命じると、華姫を抱いたまま廊下を歩いて去っていった。
景隣は帰る泰太郎を陣の外まで送っていった。
「槍本様。華姫様は禎傑様と結ばれていたのですね。いつからですか」
泰太郎は先導する景隣の背に声をかけた。
「昨夜です」
「昨夜?」
泰太郎が叫ぶと、景隣は足を止めて振り向いた。その顔を見つめて事実と知った泰太郎は、大きく息を吐き出した。
「そうですか。私は一日遅かったのですね」
「はい。ですが、昨日の夕刻までにいらっしゃったところで、華姫様のお返事は変わらなかったかも知れません」
問うような顔の泰太郎に、景隣は昨夜の事件を語り、「死のうと決意した華姫様は、禎傑様の説得で生きることを選びました」と告げた。
「そうですか。あの方の言葉で華姫様は決心を翻されましたか」
「はい」
景隣が肯定すると、泰太郎は寂しそうに笑った。
「それでは私に勝ち目はありませんでしたね。本気で心を固められた華姫様を翻意させることなど私にはできません。ですが、禎傑様にはそれができるのですね。華姫様は本当にあの方を愛していて、強制や他に道がなかったからではないと分かって、はっきり諦めが付きました」
泰太郎はまた溜め息を吐いたが、今度はどこか悲しげだった。
「華姫様には、どうか禎傑様の元で幸せになって頂きたいものです。もともと一商人の妻に納まるような方ではないと思っていました。吼狼国の敵になってしまわれましたが、華姫様が本当にお力を発揮できるのは、国を左右するような人物のそばにいらっしゃる時なのかも知れません」
景隣は何か言おうと口を開きかけたが、結局黙っていた。
「華姫様は国を売ってまで助けようとして下さったのに、私はあの方をお救いできませんでした。妻が苦難の時に何もできなかった私に、もはや夫の資格はないのでしょう」
景隣に聞かせると言うよりも、自分に言い聞かせる独り言のように語ると、泰太郎は若者に尋ねた。
「槍本様はどうなさるのですか」
「俺はどこまでも華姫様に従います。どこへ行かれようと、何をなされようと、決しておそばを離れません」
「一途ですね」
泰太郎は弱く微笑むと、表情を引き締めて頭を下げた。
「華姫様を頼みます。恐らく、禎傑様とは違う意味で、槍本様は華姫様に必要です」
「ありがとうございます。この命にかえても華姫様をお守りします。一緒に漂流した者達は皆同じ思いです」
「よろしくお願いします」
泰太郎がもう一度頭を下げると、景隣は頷いて再び歩き出した。泰太郎は華姫のいる母屋を振り返り、深々と一礼して、景隣の後を追っていった。




