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花の戦記  作者: 花和郁
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  (第七章) 二

   二


「このように、玉都の米不足は深刻で、価格の高騰は天井が見えませぬ。既に恵国軍侵攻前の倍、ここ十年一度も達したことのない水準まで来ております」

 所務(しょむ)裁事が手元の紙を見ながら報告した。

「実際にはここ数年の豊作と米余りで足りないはずはないのですが、今年は都で消費される米の四分の一を供給していた田美国から入荷が見込めない上、諸侯が自国の食料の確保のために米を売らないようです。これでは生活ができぬと町の人々から訴えが商工奉行へ寄せられており、兵糧を買い付けに来た諸侯も悲鳴を上げております。確かに、現在の価格では品があっても手が出せませぬ。万が一巍山殿が負けるようなことがあれば領国を自分で守らねばならぬため、多くの諸侯が兵糧を求めておるのですが、なかなか思うように手に入れられぬようですな……」

 そこへ、甲高い声が割り込んだ。

「巍山公がお負けになるはずがありませぬ。そのような仮定は無礼じゃぞ!」

 声の主は広芽(ひろめ)の方だった。政変後、閉じ込められていた都郊外の法花寺(ほっけじ)を出て望天城へ戻っている。落飾したため髪が肩までしかない頭を紫色の頭巾(ずきん)で覆っているが、着物は以前のような派手な柄の豪華なものだ。半年以上に及ぶ尼寺での蟄居(ちっきょ)生活はこの女人を何も変えなかったらしい。現在は幽閉同然の芳姫と直孝にかわって城の(あるじ)のように振る舞っている。

「守国軍の大将は直利(なおとし)殿じゃ。あの二人が力を合わせれば恵国軍を打ち破ることなど容易(たやす)いはずじゃ。どこぞの飾り物の国母とその息子とは器量が違うのじゃ!」

 広芽の方は段上の芳姫を見下したように横目でにらんで言い切った。直利は配流(はいる)先の背の国の鞍島(くらじま)から呼び戻され、統国副元帥に任じられて守国軍の名目上の大将となり、巍山に同行している。つまり、飾り物なのは広芽の方の息子も同じなのだが、そんなことは全く気にせず勝利を信じ込んでいるのは、親の欲目と巍山の娘としての誇りなのだろう。

 ところが、そんな根拠のない断定と勢いだけの発言に、すぐさま同調した者が二人いた。

「そうだ。巍山公はお前と違って武名が天下に轟いていらっしゃるお方だ。執印官の分際で歴戦の名将の実力を疑うなど不遜(ふそん)の極みだ。身の程をわきまえよ!」

 自分も戦の経験がないのに所務裁事を叱り付けたのは、大翼(だいよく)巍山の(もと)で新たに武者総監となった非木(ひき)持朝(もちとも)だった。まだ三十二歳だが、巍山の娘婿であることと、栄木国(さかえぎのくに)の十二万貫の領地に鷲松家の武者五千人を隠していた功績で総監に抜擢(ばってき)されたのだ。

「そうですな。敗北は決してあり得ませぬ。何せ、売国奴の妹のじゃじゃ馬ですら勝てた相手です。到底巍山公の敵ではないでしょうな」

 続いて弐杣(ふたそま)義郡(よしくに)が冷ややかに言った。雉田(きじた)元潔(もときよ)にかわって内宰(ないさい)となったこの男は、首の国の垂氷国(たるひのくに)に十五万貫を持つ譜代の封主で、年は五十を超えている。領国が近いため巍山とかねてより親しくしており、息子の嫁が巍山の娘で、鷲松家の密貿易にも加わっていたと噂されている。第一次討伐軍敗退後に芳姫が諸侯を集めて行った大評定で、持朝と共に粟津広範や御前衆を非難する声の中心になり、その後諸侯を説いて回って多くの家を巍山側に引き込んだ働きが認められて今の地位をもらったのだ。

 この二人は巍山の威光を笠に着て専横な振る舞いが目立つと陰口を叩かれている。が、それが本当に陰でしか語られず、本人達に聞こえることを皆が恐れているという事実こそ、彼等の権力の証明だった。

「まあまあ。万が一の話だと断っておったじゃろう。目くじらを立てる必要はなかろうよ」

 この三人に巍山不在の望天城で意見できるのは雉田(きじた)元潔(もときよ)だけだった。

「もちろん、ここにいる誰も巍山公がお負けになるなどとは思っておらぬはずじゃ。そうじゃな?」

 現在この老人は仕置総監の地位にある。(こう)(こう)()(ぜん)とした笑顔で確認されて、所務裁事は慌てて頷いた。

「も、もちろんでございますとも。巍山公がお負けになる可能性は全くございませぬ。ですのに慌てて米を買い込もうとする愚か者が多いという話でございまして。はは……」

 元潔の笑みは一見やさしげなだけにかえって怖い。四裁事は治都(ちと)裁事の菅塚(すげづか)興種(おきたね)行李(こうり)奉行滝堂(たきどう)永兼(ながかね)の上役だった財務裁事以外の二人は留任となったのだが、巍山の足元に()いつくばって忠誠を誓い、ようやく保った地位をこんなことで失うわけにはいかない。所務裁事は額の汗をぬぐって話を戻した。

「申し上げましたように、民からも、その、万が一を考える不届き者達からも、陳情(ちんじょう)が寄せられております。これを放置しては不満が高まりましょう。統国府として対応する必要があると考えます」

「では、わしの領国から米を運ばせよう」

 元潔が言った。これに弐杣(ふたそま)義郡(よしくに)が賛同した。

「それはよいお考えですな。当家の米も運ばせましょう。鷲松家ももちろん出して頂けますな」

 文武応諮(ぶんぶおうし)の鷲松勝弼(かつすけ)が頷いた。

「都の人々が困っているのを放ってはおけません。すぐに対応します」

 勝弼(かつすけ)は巍山の息子で鷲松家現当主だ。人質として八歳の時から三十年玉都で暮らしてきたので都を故郷と思っていた。

「ですが、我々の領国は遠い首の国。もっと近い国から運ばせた方が早いのではありませんか」

 そう言って勝弼が視線を向けてきたので、それまで黙って御前評定を見守っていた芳姫は、勇気を振り絞って提案した。

「では、隣の馬駆国(まがけのくに)の倉から運ばせましょう。確か、都の飢饉(ききん)に備えた備蓄があったはずです。財務裁事殿、行李奉行殿、すぐに実行できますか……」

「その必要はない」

 芳姫の言葉を持朝(もちとも)が即座に否定した。

「我が非木(ひき)家の倉から運ばせよう。非常用の古い兵糧米がある。当家の領地もこの祉原国(よしはらのくに)の隣国だ。数日の内に運び込める。量はあまり多くないが、それで当座はしのげるだろう」

 そう言ってにらみつけてくる。それでも、芳姫は頑張った。

「古いお米では民は喜ばないと思います。馬駆国のは米所なので毎年倉の中身を全て新しいものに入れ替えていると聞いています。そちらを食べてもらった方がよろしいのでは……」

 光姫は都を守るために命を懸けて戦っている。だから、国母の自分も民のために何かしたかったのだ。

「その必要はないと申し上げている」

 だが、持朝はまたもや無礼にも国母の発言をさえぎった。

「武守家の米は必要ない」

 持朝は声に力を入れた。芳姫は現在も名目上は元狼公の代理でこの御前評定の(おさ)だが、持朝の口調には敬意の欠片(かけら)もなかった。

「はっきり言わねば分からぬか。そんなことをされては困るのだ。民に米を与えるのは鷲松家と我等巍山公から都の留守を預かった者達だけで十分だ」

「その通りですな」

 義郡(よしくに)も言った。

「我等の米を巍山公のご厚意だと宣伝して民にただで配るのがよろしいでしょう。都の民も、今更武守家から温情を受けることなど望んではおりますまい。そういう役目は、今後は我々が(にな)っていくことなのですからな」

「飾り物の分際で出過ぎた真似をするでない! そなたには発言権などないのじゃ。間男(まおとこ)の力を借りねば何もできなかった無能者が、今更国母らしく振舞おうとしても無駄じゃ!」

 広芽の方に決め付けられて芳姫はびっくりし、さすがにやや気色(けしき)ばんで言い返した。

「わっ、私と道久殿はそんな関係ではありませんでした。本当に、本当に違うのですよ!」

 道久に迫られたのは事実だが拒絶したのだ。もし受け入れていれば巍山の台頭(たいとう)を防げたかも知れないという後悔が心の奥でくすぶっているために、一層我慢できなかった。

 だが、持朝は侮蔑(ぶべつ)を隠そうともせずに言った。

「都の(ちまた)では田美の方は国一番の淫女(いんじょ)、最奥の部屋の売女(ばいた)と呼ばれているのだぞ。あの大評定で粟津広範の和平案を承認し、桑宮道久との密通の噂が広まったことで、もはや不貞の国母を支持する諸侯はいない。まだ生かされていることに感謝するべきなのだ」

「さよう。余計な差し出口はあなたとあの男児の命を縮めるだけですぞ」

 義郡は直孝をただの子供のように言って、初めて知った自分の悪評に衝撃を受けている芳姫を冷笑した。

「このような者が統国府を率いていたとは、亡き武公様や直信公も失望されていらっしゃるでしょうな。売女に売国奴に(けもの)を連れた野蛮な娘、よく似た三姉妹ですな」

「まあまあ。この親子には真に元狼公たるべきお方に位を譲るという重要な役目が残っておる。巍山公への期待を高めるためとはいえ、あまり国母様の価値を下げられては統国府が困る。ほどほどに抑えた方がよいじゃろうな」

 その悪評を彼等が意図的に広めていることを察して、芳姫はうつむいたままもう何も言えなくなった。

「ですが、それでは米が届くまで時間がかかり過ぎます。やはり馬駆国(まがけのくに)の米を使う方がよいのではありませんか」

 四人の集中攻撃に打ちのめされた芳姫を痛ましげに見やって勝弼(かつすけ)が言った。都で育ち、武公に可愛がられたため、巍山の息子でありながら武守家びいきなのだ。そのせいで父には嫌われているが、彼が当主になることで、一年前の大評定で巍山達が逮捕された時、鷲松家は減封(げんぽう)を免れたのだ。

「勝弼殿がそのようなことをおっしゃるとは意外じゃな」

 元潔がにこやかに言った。

「民におやさしいのじゃな。それはよいことじゃ。じゃが、三十八にもなって、そのように視野が狭くてはいかぬな。巍山公が嘆かれるじゃろうよ」

 元潔の笑顔の中で、ぎょろりとした目だけが笑っていなかった。

「巍山殿は勝弼殿に都を預けていかれたのじゃ。お父君の信頼を裏切って、足を引っ張るようなことをなさってはならぬ。鷲松家のためになる行動を常にお考えなされ」

 御前評定は吼狼国と武守家を守ることが基本方針のはずだが、長年この場に出ているはずの元潔がそれを無視する発言をしても誰もとがめなかった。

「私が言っているのはそういうことではありません。都の人々のために何が最善かを考えているのですが……」

 勝弼は助けを求めるように執武官達を見た。だが、萩矢(はぎや)頼統(よりむね)泉代(いずしろ)成保(なりやす)は無表情で口をつぐみ、楠島(くすじま)運昌(かずまさ)も固く握った(こぶし)をかすかに振るわせつつも沈黙していた。彼等は他に適任者がいないから職にとどめられただけで、巍山や新しい三柱老から信用されていない。特に運昌(かずまさ)は影岡城に何日も逗留(とうりゅう)したので巍山ににらまれていた。それでも、国内最大かつ最強の水軍を率いる楠島家を水軍頭から解任するのは、恵国との戦いのためにも、都の防衛の面からも、現実的ではなかった。

 そんな三人を横目に見て、元潔が勝弼に言った。

「確かに首の国から運ぶと二ヶ月はかかるじゃろう。じゃが、それでよいのじゃよ。本当に困った時にもらった方が、民の感謝はより大きくなるからのう。慈悲深いだけでは(まつりごと)はできぬのじゃ」

「仕置総監殿のおっしゃる通りじゃな。民を甘やかしてはならぬと我が父巍山公もよくおっしゃっておられた。待たせておけばよいのじゃ」

「米をただでもらえるのだから、町の者達は感謝して当然なのだ。米が古いだの、届くのが遅いだのと、文句を言う奴にはやらなくてよい」

「両総監が賛成なさったのなら、内宰の私もそれに反対致しませぬ。すぐに巍山公に連絡を取って、米の輸送の許可を頂きましょう」

 運昌が何か言いたそうに口を動かしたが、結局黙ったままだった。三人の執武官は密かに会合を持ち、元狼公直孝様と国母芳子様を守るためにこの城に留まり続けようと決めていた。もし巍山に政権が移っても、お二人のお命だけはお救いしたい。そのために、多少のことは我慢して巍山と新三柱老に従っていたのだ。

 結局、運昌達の援護を受けられなかった勝弼も渋々ながら了承し、御前評定は解散となった。芳姫は警護という名目で付けられている鷲松家の武者達に囲まれて、奥向きへつながる大扉へ向かった。彼等はそこで巍山の息のかかった侍女達に役目を引き継ぎ、そのまま扉の前に立って、芳姫と直孝が奥向きを逃げ出さないように見張るのだ。

 芳姫は自室へ戻ると溜め息を吐いた。新たに望天城にやってきた鷲松家出身の侍女達もさすがに中までは入ってこないが、ずっと襖の外で聞き耳を立てている。広芽の方は以前武公が使っていた最上等の部屋を占領しているので建物が別だった。

「母上」

 隣室から直孝が現れ、芳姫に近付いてきた。

「お仕事は終わったのですか」

「ええ」

 精一杯微笑んで答えると、直孝はその表情から何かを察したようで、暗い顔をした。

「さあ、また一緒に学問の修練をして、それから遊びましょう。夕食までまだ大分ありますもの」

 芳姫は直孝を元気付けようと明るく言った。政務の権限を取り上げられてしまったので、御前評定が終わると芳姫はすることがない。息子と過ごす時間が増えたことはうれしかったが、同時に寂しくも感じていた。

 以前なら午後は道久殿と二人で執務をしていたのに……。

 つい室内を見回し、文机を目にした途端、もうそばにいない護衛官の面影が目に浮かんで、芳姫は急に胸が苦しくなった。

 いつもこの時間になるとあの人のことを思い出してしまう。まだ彼の逮捕から三ヶ月しか経ってないのに、もう十年も過ぎたような気がするわ。

 近頃、以前とは比べ物にならないくらい道久が恋しい。城の中に彼との思い出を見付けるたびに寂しくてたまらなくなり、道久がもういないことを再確認して絶望に襲われる。彼を田美国へ使者として派遣した際も胸に穴が開いたような気持ちだったが、あの時は帰ってくると信じることができた。だが、もはや道久が戻ってくることはない。

 政変後、道久は御廻組頭の職と領地を没収されて首の国の額星島(ぬかぼしじま)へ流され、桑宮家は閉門(へいもん)となった。公的な罪人なのだから御料地(ごりょうち)鈴島(すずしま)にするべきだという意見もあったが、巍山は自領の北端の離島に閉じ込めることを強く主張した。無事でいて欲しいと思うが、巍山の人柄からすれば、とうに処刑されてしまったのではないかという疑念が頭から消えない。

 もう二度と会うことのない人のことを考えても仕方がないわ。道久殿のことは忘れなければ。

 芳姫は自分に言い聞かせたが、それが無駄なことをよく分かっていた。

 芳姫はうずく心臓を押さえた。何かがそこに足りない。暗く深い穴があって、充足を求めている。そこは道久にしか埋められない。その激しくもどかしい感情は初めて経験するもので、芳姫自身にも正体がよく分からなかった。

 道久の妻子は都の屋敷で監視下に置かれて蟄居(ちっきょ)していると聞いている。彼女達も自分と同じような気持ちなのだろうかと想像したが、共感は覚えなかった。この感情が道久の妻と同じだと認めるのはなぜか嫌だったのだ。

 離れるのがこんなにつらいと分かっていれば、やりようはあったのに。

 芳姫は悔やんだ。

 国母になった時に道久殿を私の側近として正式に皆に認めさせればよかったのだわ。武者総監にして評定でのあの長い発言を実行させれば、巍山殿などに権力を奪われることはなかったはずよ。

 第一次討伐軍の大将が道久であれば決して負けなかっただろうと、芳姫は今や確信していた。

 なぜもっと道久殿を信じなかったのかしら。

 これほど当たり前のことに気付かなかった自分に芳姫は怒りさえ覚えていた。

「母上、どうしたのですか。やはり何かあったのですか」

 胸を押さえて黙り込んだ母を心配して直孝が尋ねた。芳姫ははっとして息子に目を戻し、微笑みかけたが、自分が握っている紅い扇を見てふと思った。

 でも、なぜ直信様でなく、道久殿のことがこれほど恋しいのかしら。

 夫が生きていれば巍山の復権はあり得なかった。杏葉直照が武者総監になることもなかったし、直信なら討伐軍の総大将に道久を任命しだろう。芳姫がこんな状況に置かれることもなかったはずだ。

 だが、恋しいのは道久なのだ。直信は懐かしいが、不思議なことに会いたいという気持ちはあまりない。

 その事実に気が付いた途端、理由のよく分からない罪悪感が湧き上がってきた。慌てた芳姫は、急いで息子に言った。

「またお船を池に浮かべましょうか。他に何かしたいことはありますか」

 自分の気持ちを無理に誤魔化し、重大な問題から目を逸らした自覚があったが、芳姫は笑顔を作ることに集中して忘れようとした。

 すると、直孝は尋ねた。

「お絹はどこにいるのですか。姿が見えないのです」

 直孝は不安そうだった。

「お絹までいなくなったら、僕……」

 うつむく息子に芳姫は本心から微笑んだ。

「大丈夫ですよ。お絹は私の使いで出ているのです。その内戻ってきますよ」

 実は芳姫は巍山が都にいない隙に望天城を脱出することを考え、その手配をさせるためにお絹を町へ行かせたのだ。

 お絹が使者を買って出たのは一ヶ月ほど前だった。侍女達に聞かれぬよう、二人で声を潜めて今後のことを相談していた時、このままでは私も直孝様も命が危ないかも知れないと芳姫が不安を打ち明けると、お絹は深刻な顔で頷いたのだ。

「そのご懸念(けねん)は的を射ているとわたくしも思います。今はまだ閉じ込められているだけでございますが、巍山公が恵国軍に勝って戻ってきたら直孝様はご譲位を、芳姫様は国母の称号の返上を求められるに違いございません。いえ、それだけで済めばまだようございます。はっきり申し上げて、お二人が殺される可能性は(たこ)うございましょう」

 そして、鷲松家の侍女達が話しているのをたまたま耳にしましたと言って、城内の噂を教えてくれた。

「雲居国では両軍がにらみ合ったまま膠着(こうちゃく)状態にあるそうでございます。持久戦になれば補給に強い守国軍が有利、敵が退却し始めたら追撃すればよく、勝利は疑いないそうです。このままでは巍山公と直彰様が英雄になるのは確実で、直孝様と姫様が地位を失うのはそう遠くないだろうということでした」

 やはりと芳姫は衝撃を受け、どうすればよいかと尋ねると、お絹は胸を叩いた。

「わたくしを町へ行かせて下さいまし。ここを脱出する手はずを整えて参ります」

 お絹は援助を求める相手として桜舘家を勧めた。武守家の連枝なので巍山に滅ぼされることを恐れているはずだから、大義名分となる国母と元狼公を(かくま)ってくれるだろうというのだ。実家の梅枝家の方が貫高は大きいのだが、二人の妹が敵味方に分かれている状況では当てにできなかった。

 それ以来、お絹は三回町に行って話を進めていた。帰ってくるたびに珍しい菓子や茶や玩具を買ってくるので直孝は喜んでいたが、芳姫も交渉が順調だと聞かされて安堵していた。いよいよ相談がまとまり、脱出が三日後に迫ったので、今日は最後の確認に出かけたのだ。

 毎年萩月(はぎづき)の十五日に、元狼公は都郊外の田地(でんち)へ稲穂の育ち具合を検分しに行き、夜は真澄池で月見をする。戦の最中で月見どころではないという意見もあったが、むしろこういう時こそ恒例行事を行い、国母が巍山の戦勝を祈るところを民に見せるべきだという意見が多かったため実行されることになった。その帰路に、芳姫は気分が悪くなったと言って(から)になっている梅枝家の屋敷に入り、そのまま脱走する予定だった。

 桜舘家のご老公とその妻は武公の天下統一を助けた天下(てんか)六翼(りくよく)の内の二人で、それぞれ毅勇公(きゆうこう)慈翊院(じよくいん)と尊称される実力者だ。どちらも既に七十近い高齢だが封主の中でも別格の扱いを受けていて、民や諸侯の尊崇を集めている。慈翊院(じよくいん)は六翼筆頭の貞亮公(ていりょうこう)から隠密(おんみつ)部隊を預けられていたため、現在でも隠密衆を監督する伝馬(てんま)奉行から毎年挨拶を受けていると言われていて、その力を使って芳姫の脱走を手助けしてくれることになっていた。

「なんだ、また母上のお使いなんですね。ほっとしました」

 そんな事情を知らない直孝は、芳姫の笑みが上辺だけのものでないことを見て取って安心した様子になった。

「直利殿、道久先生に続いてお絹までいなくなったのかと思いました」

 親しい者達が次々に去っていく恐怖をこの子も感じているのだと思い、芳姫は息子が可哀想になった。この三ヶ月、直孝は学問や武術の修練に師範や仲間がいなかった。芳姫はできるだけ相手をしてやったが、やはり寂しかったらしい。

「大丈夫。もうすぐ自由になれるわ。そうしたら、あなたにもっと広い世界を見せてあげられるわね」

 芳姫は息子を抱き寄せてつぶやいた。芳姫も世間が狭いが、それではいけないことを国母としての日々から悟っていたので、息子には様々な経験を積ませたかった。もう直孝が元狼公として(まつりごと)を行うのは無理かも知れないが、それ以外にも充実した生き方はたくさんあるはずだ。芳姫はそれを見守り手助けしたかった。

「この牢獄にいるのもあと数日よ」

 芳姫は耳元にささやくと、「何と言ったのですか」と首を傾げる息子に微笑み、新作の船を取ってこさせた。今回は平たい船で、雲居国で光姫達が使ったという炎の狼の櫓が、甲板の上に細い木の棒と赤く染めた藁で組んである。

「さあ、池へ行きましょう」

 手をつないで廊下へ出ようとした時、開けようとした襖が触れる前に突然開いた。

 目の前に、鷲松家から派遣された若い侍女が控えていた。

「失礼致します」

 扉を開けてから言うのは順番が逆だと芳姫は思ったが、それはとがめずに尋ねた。

「何か私に用ですか」

 侍女は問いには答えず、冷たいまなざしで芳姫見上げると、手に持っていたものを差し出した。

「雉田公からこれをお届けしろと言われております」

 それを見下ろして芳姫は心臓が凍り付いた。お絹がいつも身に着けていた(かんざし)だったのだ。田美国にいた頃に芳姫が贈った品だ。

「ご伝言がございます。『勝手なことをなさらぬように。こたびは大目に見ますが、次はありませぬぞ』だそうです」

 そう言って(かんざし)を押し付けると、侍女は襖を閉めた。

 芳姫は動けなかった。

「母上、どうなさったのですか」

 直孝が心配そうに尋ねた。

 いけない、この子を不安にさせては。

「何でもありませんよ」

 芳姫は笑顔を作ろうとしたが、かえって直孝は怯えた顔になった。

「お絹は失敗したのですね」

 えっ、と驚く芳姫に、幼い元狼公は言った。

「母上達が相談するのが聞こえました」

 賢い子だ。芳姫は思ったが、同時に、自分の愚かさに打ちのめされた。隣室にいた幼い息子が知っていたのだ。扉の向こうで聞き耳を立てている侍女達が察しても不思議はない。

「私のせいね。私のせいでお絹は……」

 とうとう耐え切れなくなり、芳姫は泣き崩れた。畳に両手を付き、ぼろぼろと涙をこぼした。

「母上……」

 驚く直孝を抱き締めて、芳姫は激しく泣いた。もはや悲しみと焦りを息子から隠しておくことさえできなかった。孤独と不安が芳姫の心を覆い尽くしていた。

 芳姫は子供に返ったように泣きじゃくり、それを慰めようとしていた直孝もやがて泣き出して、長いこと一緒に涙を流し続けたのだった。


「私達は本当に二人きりになってしまったのね」

 その夜遅く、芳姫は自室で布団に横になって、ぼんやりする頭で考えていた。

 午後、これまでの不安が爆発したように泣き続けた芳姫は、夕食が(ろく)にのどを通らなかった。そのせいで今頃お腹が空いている。だが、今後の不安でそれどころではなかった。

 同じ布団の中では、幼い元狼公がすやすやと寝息を立てていた。芳姫と一緒に泣いたので疲れたらしく、隣に自分の布団があるのに横に入り込んできて、すぐに眠り込んでしまった。

「この子だけは助けたいわ。逃がす方法はないかしら」

 方策を考えたが何も思い付かなかった。もともと芳姫はそういう思考に向いていないのだ。

 どんなことを考え何を発想するかは本人の性格と普段の生活が大きく影響する。芳姫は良くも悪くも上流武家の箱入り娘で、周囲の人間関係も父と妹達と侍女達、結婚後は夫と息子、広芽の方と直利と武公くらいしか親しく接することがなかった。国母になってからは政事向きのことも考えるようになったが、知識も経験も決定的に不足している。野心が薄い芳姫は、権力欲や支配欲、利権や地位名声への執着、憎しみや嫉妬(しっと)羨望(せんぼう)、利害で流動する派閥、敵対と妥協と馴れ合いといったものが物事を動かすことを知識として知ってはいても、感覚としてはよく分かっていなかった。

 そういう芳姫が急に、人の目を盗んで城を脱出する方法や、侍女達を籠絡(ろうらく)して味方に引き込む手段、巍山や新三柱老と正面から戦って生き残る手立てを考えようとしても無理な話だった。実際、直孝でも思い付ける程度の案しか浮かばない。それは自分でも分かっているのだが、諦めるわけにもいかず、結局考えがまとまるどころか方針さえ決まらぬまま、布団の中で途方に暮れていた。

「お方様、起きていらっしゃいますか」

 そこへ突然、隣室から襖越しに若い侍女の声がかかった。ごく小さな声だったので空耳(そらみみ)かと思ったが、もう一度同じ言葉が聞こえた。

 おりますよ、と答えようとして、芳姫は隣で寝ている息子を思い出した。大きな声を出したら起こしてしまう。芳姫はそっと布団を抜け出して隣室へ向かった。

 でも、こちらは直孝の勉強部屋よね。なぜ表側の廊下の方ではなく、横の部屋から侍女が来るのかしら。勝手に部屋に入るなんておかしいわ。

 奥向きは火事の際の延焼を防ぐため独立した建物をいくつも渡り廊下でつなげた構造になっている。芳姫の部屋がある建物は南側にだけ隣の棟につながる廊下があり、西は縁側、東と北は壁だ。だから人が来るなら廊下側のはずだが、西側の部屋から人が来たのだ。

 庭を横切ったのかしらと疑問に思いながら襖を開いた芳姫は、目の前の人物を見て叫びそうになった。小さな灯火を横において畳に正座していたのは桑宮道久だった。

「ど、どうして……?」

 慌てて悲鳴を呑み込んだが、この言葉だけは言わずにはいられなかった。道久はそれには答えず、一礼すると中に入ってきた。

 侍女のお(さと)が告げた。

「お早くお済ませ下さい。遠ざけた者が戻って参ります」

 どうやら西側の庭が見える部屋にいる女官をどこかへ行かせてその隙に道久を連れてきたらしい。つまり廊下に唯一つながる侍女達の控えの間を通っていないのだ。

 華姫に似た美貌の若い侍女は、芳姫をちらりと見上げると襖を閉じた。隣室で人が来ないか見張るらしい。芳姫の部屋は直信と暮らしていた時と同じなので、寝間は襖で田の字に仕切られた広い六つの部屋の一番奥にある。不寝番の侍女がいる控えの間はそのさらに外側にくっついているので間に二つの部屋を挟んでいるが、万が一声や気配に気付かれた場合、お里が知らせてくれるようだった。

「直孝様はお休みでいらっしゃいますか」

 道久が尋ねた。芳姫はすぐにも尋ねたいことがたくさんあったが、それを我慢して頷いた。

「お顔を拝見してもよろしいですか」

 芳姫は布団のそばへ道久を連れて行った。道久は幼い元狼公を穏やかな顔で見つめ、元気そうだと確認して微笑むと、芳姫に手で部屋の隅へ行くように合図した。

 十畳の部屋の一番奥の壁際で、芳姫は道久と向かい合って正座した。

「ご心配をおかけしました」

 まず、道久は芳姫に平伏して謝った。芳姫は夏用の薄く白い寝間着姿なのが恥ずかしかったが、それどころではなかった。

「どうやってここへ来たのですか。額星島(ぬかぼしじま)へ流されたと聞いていましたが」

 道久はにやりとした。

陰同心(かげどうしん)に助けさせました。背の国の国原国(くにはらのくに)の宿で、私を護送中の鷲松家の者達に毒を盛ったのです。彼等の着物を当家の家臣達が奪って入れ替わり、私の偽物を運んで首の国へ向かいました。その者達も虎落国(もがりのくに)を過ぎた辺りで商人の格好に着替えて船で引き返し、既に帰って来ております」

 この作戦の計画を立てたのは桑宮家の筆頭家老で、襲撃の指揮をとったのは田美国から帰還した霞之介(かすみのすけ)だった。

「私は五日前に都に戻ってきました。芳姫様の置かれている状況をお聞きし、お助けしようとこうして忍んで参ったのです。私をここへ入れてくれたのは先程のお里です。以前、私が芳姫様のお手を握った時それに気付いた様子でしたので、本人と家族の出世を条件に味方に引き込みました。彼女の手引きで大きな荷物に紛れて城に入り込み、この時間まで身をひそめていたのです」

 あの時は手を握ったどころか私を抱き締めたではないのと思ったが、思い出した途端恥ずかしくなったので、芳姫は何も言えなかった。二人は手が届きそうな近さで向かい合っている。しかも、芳姫は寝間着姿だ。暗い部屋に相手の息遣いだけが聞こえ、どきどきと強まっている自分の鼓動が音になって響きそうだった。

「では、本題です」

 道久は表情を引き締めた。それを見て、やはり男前だわと芳姫は思い、そんな自分を意識して真っ赤になった。

 暗さのせいでそれに気付いていない道久は、低い声で言った。

「芳姫様と直孝様をお助けに参りました」

 芳姫は相手の真面目な表情を見て気持ちを切り替え、真剣に頷いた。

「待っていました。あなたが助けに来てくれるのをずっと首を長くして待っていましたよ」

 この言葉を口にした瞬間、芳姫は本当にそうだったのだと悟った。もう会えないと諦めたつもりでいたが、真の望みから目を逸らしていただけだった。道久以外に信じられる相手はいない。待っていたのが他の誰かだなんてあり得ない。桜舘家の助力さえ、ありがたいと思いつつ、心の底では乗り気でなかったことに芳姫は気が付いた。

「あなたが来てくれると信じていました」

 芳姫が言うと、道久はうれしそうな顔になった。本当に喜んでいるらしい。それを見て、芳姫の胸にもうれしさがあふれてきた。

「あなたを待っていました。他の誰でもない、あなただけを待っていました」

 道久は満足そうに頷き、頭を下げた。

「そのお言葉だけで、ここまで来たかいがあります」

 そう言うと、道久はまた真面目な顔に戻った。

「実は、この事態を大きく転換させる策略の準備をしております。その実行のご許可を頂きに参りました」

「今から逃げるのではないのですか」

 意外に思って尋ねると、道久は「それはよい方法ではありません」と答えた。

「芳姫様がお城を脱出すれば、巍山の権力が確定してしまいます。そうなっては、お二人は一生追っ手から隠れて暮さなければならなくなります」

「確かにそうですね」

 芳姫はなるほどと思った。国母と元狼公が都を逃げ出したのなら、巍山がかわりに権力を握って行使しても民は納得するだろう。恵国との戦いの最中に職務を放棄した二人を支持する者はいない。罪人として追われることになれば、命は助かっても自由には生きられない。桜舘家の庇護(ひご)を受けられたとしても、巍山が恵国軍を打ち破れば都に戻れなくなる可能性は高かった。毅勇公(きゆうこう)慈翊院(じよくいん)はその対策も考えていたのだろうが、桜舘家は巍山ににらまれて監視されているはずで、もはや動くのは難しいと思われた。

「お二人が本当に救われるには巍山を倒す必要があります。国母としての権力を取り戻すしかないのです。ご許可を頂ければ、私はその策を実行し、巍山を失脚させます。その後でこの城へ戻ってきてお二人をお救い致します」

「私が復権した時には道久殿がまた私をそばで助けてくれるのですね」

「お望みであれば、そう致します」

「もちろん、私はそれを望みます」

 芳姫は即答した。

「ありがたいお言葉です」

 道久は深々と頭を下げたが、すぐに付け加えた。

「ただし、この策の実行には条件がございます」

「条件ですか?」

 芳姫が首を傾げると、道久は唇の端で笑った。

「簡単なことです。成功したら、私にご褒美を頂きたいのです。具体的には、一つだけ私の望みをかなえて頂きたいと思います。かなり危険な橋を渡ることになりますので、私としても相応の対価がなければ実行をためらいます。どうか、望みの報酬を与えるとお約束下さい」

 芳姫はどきりとした。

 まさか私自身を望むつもりかしら。

 以前迫られたことを思い出して体がぞくぞくし胸の鼓動が激しくなったが、さすがにそんなことは確認できなかった。それに、道久が出世したがっていることを知っていたので、芳姫は心の中で否定した。

 違うわ。きっと権力が欲しいのよ。殿方とはそういうものだもの。きっと高い地位を望むつもりなんだわ。

 そう思ったが我慢できず、ためらった末に尋ねた。

「武者総監になりたいのですか」

 道久は曖昧な笑みで答えなかった。

 やっぱり権力なのね。

 芳姫はひどくがっかりした。そして、それを自覚して動揺し、慌てて自分に言い聞かせようとした。

 当たり前のことよ。そう答えるに決まっているわ。男性には一人の女より権力の方がよほど魅力的らしいもの。私ならこの国で一番の権力を与えてあげられるのよ。誰でもそれを望むわ。

 芳姫は必死で自分を説得しながら、全身から力が抜けていくのを止められなかった。激しい絶望が体中に広がり、少しでも気をゆるめたらこの男性の胸に倒れ込みそうだった。

 私はこの人に求めて欲しいのだわ。女として愛されたいのよ。

 芳姫はそのことを初めて自覚した。そうして、今まで気付かなかった自分に呆れた。始めからはっきりしていたではないか。道久は芳姫にとって特別だった。女にとって特別な男と言う時その意味は一つだ。十年前、武公は正しかったのだ。

 芳姫は濡れた目で道久を見上げた。

 私が欲しいのはあなた自身です。権力などではありません。心から愛しています。

 その言葉が道久の口から聞けたなら、自分も答えられるだろう。私もあなたを愛しています、と。

 だが、芳姫は今まで自分の気持ちを押し殺し、道久に迫られても拒絶してきた。だから、自分からはそれを口にできない。ここで急に態度を変えたら助かりたいために体を差し出したように見え、道久は失望するだろう。国母としても、武家の女としての誇りからも、そんなことはできなかった。

 道久殿は家臣なのよ。そして、私は主君よ。国母だから与えることができるものをこの人は望むだろうし、それでよいのだわ。私がなんの力もないただの一人の女だったら、道久殿はこんな苦労をしてここまで来てくれなかったはずよ。

 道久がはっきり答えていないという事実にすがろうとする浅ましい自分を気力を振り絞って抑え込むと、芳姫は言った。

「分かりました。お約束しましょう。成功の(あかつき)にはあなたを武者総監に任命します。もちろん、(まつりごと)も恵国との戦もあなたに(ゆだ)ねます」

「では、この件は私に全て任せて頂けますか」

「はい。あなたに期待します。私の力を取り戻してください」

 芳姫は権力には執着がなかったが、復権すれば道久がまたそばにいてくれるのだ。それは素直にうれしいことだった。それに、自分の恋しい男にせめて権力くらいは与えてやりたかった。

「かしこまりました。それでは、策略が成功し、巍山を倒す目途が付きましたら、またここへ参ります。それまでしばらくお待ち頂くことになりましょう。この策が上手くいけば、また執務をお手伝いできるはずです」

「私もまたあなたに助けてもらいたいと望んでいます」

 それがまぎれもなく芳姫の本心だと見て取って、道久はまたもやうれしそうな顔になった。もう三十一なのに少年のような笑顔だった。

「ありがたいお言葉です」

 道久が頭を下げたので、芳姫は以前同じようなことがあったのを思い出し、道久の両手を握った。

「あなたを信じます。私はあなたを最も頼みにし、必要としています。あなたの策が成功することを毎日大神様にお祈りしましょう。そして、あなたがまた私に会いに来てくれる日を楽しみにしています」

「はっ!」

 道久は平伏すると、直孝の方へ目を向けた。道久が帰ってしまうと知って芳姫は引き留めたい衝動にかられたが、ぐっと我慢した。

「それでは、失礼致します。必ずやよい報告を持って参ります」

 芳姫が固まっている間に道久は立ち上がって隣室の方へ歩き出した。襖を小さく叩くと、すっと音もなく開いてお里の顔が見えた。

「では、お休みなさいませ」

 言われて、芳姫が主君らしく頷くと、道久は平伏し、襖が閉じられた。

 去っていくかすかな物音が聞こえなくなっても、芳姫はしばらくそこで耳を澄ましていた。が、やがて静かに布団に戻った。

 幼い息子はすやすやと寝息を立てていた。起こさないように芳姫は同じ布団にそっと横たわり、枕元にあった紅い扇を手に取ると、薄い掛け布団を息子と自分の腹にかけて目をつむった。

 道久殿が生きていた。

 大きな喜びと大きな悲しみが心を満たしていた。

 道久殿は私を忘れていなかった。私を見捨てなかった。直孝も私もきっと助かる。そしてまた、あの日々が戻ってくるのだわ。

 道久がまたそばにいてくれる。その日は遠くない。そう考えるとうれしさが湧いてきて、恋しい気持ちやそれがかなわない寂しさ、今後の不安が取り除かれた解放感が混じり合い、体がぞくぞくしたが、息子を起こさぬよう、布団の中で震えをこらえてじっとしていた。

 道久の策が失敗する可能性を芳姫は全く考えなかった。彼なら絶対に成功すると信じていた。ましてや、その策がどんなもので、自分達をどのような運命に導くものなのかについて、深く考えることはなかった。

 道久殿なら大丈夫。絶対に大丈夫よ。

 自分の運命を他人の手にすっかり委ねてしまったことにむしろほっとし、道久にまた会えた喜びに興奮して、芳姫は紅い扇で自分と息子に風を送りながら、その夜はなかなか寝付かれなかった。


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