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花の戦記  作者: 花和郁
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  (第一章) 三

   三


「えい! やあっ!」

「それっ! これでどうだ!」

 かけ声と共に勢いよく振り下ろされた木刀同士が、からん、と音を立ててぶつかり合った。すぐに離れた二本の刀は、一瞬の後、再び激しく切り結んで、周囲に乾いた音を響かせた。

 百合月(ゆりづき)中旬の快晴の(もと)望天城(ぼうてんじょう)本郭(ほんくるわ)の奥向きを、まだ幼い二人の少年が、白い木綿(もめん)胴着(どうぎ)を汗に湿らせて走り回っていた。男子禁制の中庭の小さな池のほとりでは、そろそろ中天にさしかかろうという真夏の厳しい日差しを浴びて、鉢植えの赤い朝顔が数輪、くたびれて(こうべ)を垂れていた。

「そこじゃ、直利(なおとし)殿! 一気に倒してしまうのじゃ!」

 剣の稽古をする息子に板廊下に座って見ている母親から声援が飛ぶ。十二歳の武守(たけもり)直利(なおとし)とその(おい)で八歳の武守(たけもり)千代王丸(ちよおうまる)は、返事もせずに真剣な表情で打ち合いを続けていた。いかにも腕白そうな直利が休む間もなく攻め立て、大人しい千代王丸(ちよおうまる)は防戦一方だった。

「年下の千代王丸殿に負けてはならぬぞ! 力の差を見せ付けてやるのじゃ!」

 大声で息子を(はげ)まして対抗意識も露わな視線を向けてくる広芽(ひろめ)(かた)に苦笑しながら、もう一方の母親である田美(たみ)(かた)(よし)姫は黙って息子を見守っていた。そばに控える侍女達は呑気(のんき)な顔で扇子(せんす)を動かし、茶を飲みながら見物している。

 吼狼国の皇城(おうじょう)玉都(ぎょくと)にそびえる武守家の巨城の上空では、数切れの明るい雲と七層の白い天守の間を、北の山から飛んできたらしい一羽の(とび)が、ぴいひょろひょろと鳴きながら円を描いて飛んでいた。梅枝姉妹の長姉(ちょうし)芳子(よしこ)は、(あか)(おうぎ)を頭上にかざして照り付ける日差しに目を細めながら、必死で木剣(ぼっけん)を振るう息子に夫の姿を重ねて、直信(なおのぶ)様に嫁いできてからもう九年になるのだわと考えていた。

 二十九年前の降臨歴(こうりんれき)三八四〇年、天下統一を成し遂げた武守直祥(なおよし)は、吼狼国の王である宗皇(そうおう)によって治天最上大臣(ちてんさいじょうだいじん)安鎮(あんちん)総武(そうぶ)大狼将(だいろうしょう)に任命されて文武双方で人臣の最高位に立つと、統国(とうこく)大元帥(だいげんすい)という官の創設を進言して自らその職に就いた。

 この職名は宗皇(そうおう)の代理として国を()べる最上位の武官という意味で、全ての武家の棟梁(とうりょう)となって封主達の上に君臨するという宣言だった。また、その職にある者のみが名乗れる元狼公(げんろうこう)という称号は、初代宗皇夫妻と共に天から降りてきた狼達を先祖に持つとされる吼狼国の民の(かしら)を表し、皇家(おうけ)を除けばこの国で最高の地位にいることを示した。

 こうして国内の施政権を正式に委託され、武守の姓と武公(ぶこう)尊号(そんごう)(たまわ)った直祥(なおよし)は、統治機構として統国府(とうこくふ)を設置し、玉都の外れに壮麗な望天城(ぼうてんじょう)を築いて、平和になった吼狼国を治め始めた。

 できたばかりの統国府は外様(とざま)封主家を警戒した。(いくさ)がなくなったとはいえ百七十年も続いた戦狼(せんろう)の世の気風はいまだ色濃く残っていたため反乱を恐れたのだ。武公自身は至って大らかな人柄で諸侯に敬愛されていたが、統国府の宿老(しゅくろう)執武(しつぶ)執印官(しついんかん)達は天下統一の直前に武守家に従った封主達を監視して、力を削る機会を常にうかがっていた。

 梅枝家は八十七万貫という天下第三位の大領主であり、武公と激しく争った末に敗北して傘下(さんか)に加わったという経緯(けいい)があったので、最も危険視された封主家の一つだった。時繁は武守家に忠実に仕えて天下統一に貢献し、二つ年上の武公に弟のように可愛がられていたので表向き関係は良好だったが、いくつかの外様封主家が施政の失敗をとがめられて取り(つぶ)されたのを見て用心を怠らなかった。

 そこへ、十年前、田美国で銀山が発見された。所有権を主張する時繁に対し、統国府はただでさえ領内開発の成功で豊かな梅枝家をこれ以上富ませてはならないと、無理矢理にでも取り上げようとして、両家の緊張が高まった。

 この危機に当たり、対立を解消するために時繁が考えた方法が、長女の芳姫を武公の次男で世子(せいし)直信(なおのぶ)に嫁がせることだった。服従の(あかし)として人質を差し出したのだ。そのかわり、時繁は毎年二十万両の銀を武守家へ献上するという約束の(もと)で鉱山の経営権を認めさせることに成功し、元狼公(げんろうこう)縁者(えんじゃ)となった梅枝家は譜代(ふだい)封主家にしか認められていない恵国との貿易を特別に許されて、銀の輸出で莫大な富を得たのだった。

 そんな事情にもかかわらず、この結婚は上手く行った。芳姫は()()たる美人であり、性質が穏やかで家政(かせい)にもすぐれていたので、直信はすっかり惚れ込んで、他に側室は置かなかった。芳姫も夫に尽くし、二人は仲睦(なかむつ)まじかった。翌年男児が生まれ、世継ぎの母となって地位を盤石(ばんじゃく)なものとした芳姫は、二年前に武公が死去すると、第二代の元狼公に就任した直信の御台所(みだいどころ)田美の方として、武家の女性の頂点に立つことになった。

 広芽(ひろめ)(かた)も事情は似ている。戦狼時代の終わりに武守家に服属した鷲松(わしまつ)勝征(かつゆき)は、武公に人質として幼い娘を差し出した。望天城で育てられた勝子(かつこ)姫は女として成熟すると、そのまま武公の側室になって直利を生んだ。ずっと早くからこの城に住んでいた広芽の方からすると、後から入ってきた芳姫が自分より上の地位に就いたことが気に入らず、ことあるごとに対抗心を燃やして息子を()き付けているのだった。

「ほれ、一気に追い詰めるのじゃ! 敵は弱っておるぞ!」

 広芽の方はむきになって応援している。英雄武公の(ちょう)を受けたことと、武守家に次ぐ天下第二位の大封主家の娘であることを誇りにしてきた広芽の方は、第三位の家の出身で二代目の元狼公の妻の芳姫には負けたくないという思いがあるのだろう。

 今日も平和だわ。

 毎度のことなので、広芽の方の挑発を聞き流しながら、芳姫はいつの間にか随分と大きくなった息子を眺めて目を細めた。

 これが幸福というものなのかしら。

 田美国で妹達の母代わりだった芳姫は、玉都に来てからは夫と一人息子の世話に全てを注いできた。格別直信に惚れていたわけではないが、生真面目(きまじめ)でやさしいこの若者は夫としては文句の付けようがなかったし、十七歳でいきなり遠い都へ連れて来られた芳姫には知人もなく、他にすがれるものがなかったのだ。芳姫は父の助言に従って敢えて政事(せいじ)からは遠ざかり、毎日忙しい直信のために妻として家庭を維持することに専念した。芳姫自身、元狼公の御台所(みだいどころ)など自分には重過ぎる役目だと思い、夫と息子との暮らしを守るだけで精一杯だったが、子供が成長してあまり手がかからなくなったせいか、最近ようやく肩の力が抜けてきたように感じていた。

 四つ年上の夫は結婚から九年経った今でも変わらぬ愛情を注いでくれる。千代王丸は男の子にしては大人しく恥ずかしがり屋だが、利発で時折母を気遣うそぶりを見せるようになった。いつも温かい夫と一緒にこのやや気のやさし過ぎる息子を立派な武人に育て上げ、大人になった彼が夫の輔佐役や次の元狼公として活躍する姿を見守ることが、自分に約束された未来のような気が芳姫にはし始めていた。

 幸せにもいろいろあるのだわ。きっとこれが私の幸せなのよ。

 商人の夫と共に海に消えた上の妹のことを芳姫は思い出した。華姫が身分違いの相手との結婚を選び、猛反対する父に正面から立ち向かったと聞いて、随分考えさせられた。どちらも自分には到底できないことだが、華子には深い思いがあったのだろう。幸福の形は人それぞれなのだ。

 光子とももう随分長いこと会っていないわ。

 芳姫は結婚して後を継ぐことになったという下の妹が急に懐かしくなった。芳姫が嫁ぐために田美国を離れた時、光姫は千代王丸と同じ年齢だったのだ。出航間際まですがり付いて離れなかった泣き虫の妹のことを、芳姫はしばしば思い出して心配したものだ。

 田美国にいた頃は妹達の笑顔が私の喜びだった。今は直信様とこの息子が私の幸福の源なのだわ。では、光子の幸せは一体どんな形なのかしら。

 ぼんやりとそんなことを考えていた芳姫は、何気なく二人の若君の剣術指南役へ目をやった。先程から少年達に声をかけて励ましている桑宮(くわみや)道久(みちひさ)は武守家の直参(じきさん)衆である御廻組(おまわりぐみ)組頭(くみがしら)で、元狼公(げんろうこう)とその家族の警護責任者、かつ唯一奥向きへ入れる男性家臣として二人の若君の文武の師でもある。道久(みちひさ)は直信の側近中の側近で、十歳から同い年の主君に仕え、個人的にも親友として扱われていた。

 芳姫が目を向けた時、道久はこちらを見ていた。道久がわずかに目を大きくして見つめ返してきたので芳姫はどきりとしたが、からみ合った視線はすぐに彼の方から外された。自分も目を逸らした芳姫は、そういえばこの人と知り合ったのも九年前だったわと考え、再び物思いに沈んでいった。

 それは直信との婚礼の日のことだった。夫となる人物に引き合わされ、相手が至って誠実そうな青年であることにほっとしていた白い衣装の芳姫は、ふと直信の後ろを見て、護衛として控えていた道久の視線と出会った。驚愕に立ちすくむ若い武官の大きく見開かれ震えるように揺れる黒い瞳を見返した瞬間、芳姫は彼が自分に一目惚れしたことを悟ったのだった。

 途端に芳姫は硬直した。男性の賞賛のまなざしに慣れているはずの芳姫が、なぜかこの武官の焼け付くような視線には動揺したのだ。他の男性とは決定的に違う何か激しくたぎるようなものが感じられ、その若い武官の情熱が体に流れ込んでくるような気がして猛烈な恐怖に襲われた。胸が早鐘(はやがね)を打ち始め、急に頭に血が上って混乱した芳姫に、彼はほとんどにらむような視線を注いでいた。

 芳姫の美しさに目を見張っていた直信が、背後を振り向いて護衛官を呼んだ。武官はその声で我に返り、慌てて表情を取りつくろうと近寄ってきた。直信が友だと紹介する間、彼は黙ったまま表情のない顔で芳姫を見下ろしていた。芳姫にはたくましい彼の体躯(たいく)が震えているように感じられ、その目を見つめていると自分の体まで震え出すように思われた。

 直信の言葉が終わると、武官は芳姫に向かってお辞儀をした。彼が言葉を発すると察した芳姫は、一体何が語られるのかと期待と恐怖で息が詰まり、ただ立ちつくしていた。

桑宮(くわみや)道久と申します。直信様の近習(きんじゅう)(がしら)を拝命しております。本日の警備を担当致しますので、よろしくお願い致します」

 平坦な口調でありふれた挨拶をして深々と頭を下げた武官が再び上げた顔を見て、芳姫は彼が自分の感情を押し殺す決意をしたことを知った。それはなぜか芳姫にとって大きな衝撃だったので、上手く返事ができず、無言で頷くのが精一杯だった。

 直信に向き直った時には、道久は既に気持ちを切り換えていた。結婚相手に見とれている主君を笑顔で祝福したのだ。芳姫は呆然とそれを聞いていたが、はっとして自分の夫となる若者を見た。が、花嫁の美しさを(たた)える友の言葉にうれしそうに笑み崩れる直信は何も気付いていない様子だったので、芳姫はほっと安堵(あんど)の息を吐いた。

 ようやく自分を取り戻した芳姫は、道久の態度に安心する一方で、深い寂しさに襲われた。何か大切なものをなくしたような気持ちになったのだ。芳姫は巨大な喪失感に耐えながら、まだ大きく打ち続けている心臓を隠すように胸に手を当てて、若い男性同士らしい親密そうな会話を続ける夫とその親友に、ぎこちない笑みで応えたのだった。

 婚礼の間中、芳姫は道久を目で追っていた。身が震えるほど彼が恐ろしいのに、なぜか気になって仕方がなかったのだ。警護役の道久は常にそばにいたので、それをよいことに、芳姫は退屈な儀式に耐えながら、長い間その横顔を眺めていた。

 道久は礼装がよく似合う凛々しい若者だったが、芳姫がとりわけ()かれたのはその目だった。彼の瞳を見ると出会いの瞬間が思い出され、胸が高鳴って頬が火照(ほて)る思いがした。あの黒い瞳の奥には他に代えられぬ貴重で希有(けう)な宝物が隠されているという不思議な確信が芳姫にはあり、怖い物見たさに似た(あらが)(がた)い興味に突き動かされて、芳姫はしばしば彼の目をじっと見つめた。

 だが、芳姫を見返す道久のまなざしは冷たかった。(から)んだ視線はすぐに()らされ、表情には何の変化も起きなかった。そのたびに芳姫はがっかりし、彼が自分に恋をしていると思ったのは勘違いだったのではないかと底知れぬ不安に襲われた。芳姫は彼の瞳の奥に鄭重な拒絶以外のものを見付けたいと願ったが、目をのぞき込もうとすると、道久は心を隠すように顔を伏せてしまう。だが、それが一層彼が見せまいとしているものを確かめたいという思いを高め、芳姫はますます頻繁に彼に視線を向けるのだった。

 次々に前にやってきて挨拶する貴人達に機械的にお辞儀を返しながら、道久をちらちらと見ていた芳姫は、ふと誰かの視線を感じて横を向き、武公のまなざしに出会った。自分を真っ直ぐ見つめる鋭い視線に射抜かれた瞬間、芳姫は全てを見られていたことを知った。何も気付かぬ様子で客の祝賀を受けている直信をちらりと見やった武公は、道久へ目を向け、顔を戻した。武公が何を思ったかを悟った芳姫は誤解だと叫びたくなったが、心の奥で納得している自分に気が付いて愕然(がくぜん)とした。芳姫は真っ青になってうつむき、やがて気分が悪いと言って寝所に下がった。

 翌日、芳姫が初夜の床から朝食に起きて来ると、直信と武公が言い争っていた。

「なぜ、道久を大門国(おおとのくに)などにやるのです。墨浦港の警備(がしら)など他にいくらでも人がいるではありませんか」

「あれはいずれお前の右腕になる男だ。都を動けぬお前にかわって国中を回らせ、様々な経験を積ませておくのがよかろう。恵国貿易の玄関口の墨浦ならば、我が国のことも海の向こうの国々のこともよく見えるはずだ」

「ですが、何もこれほど急でなくてもよいではありませんか」

 食い下がる息子に、武公は首を振った。

「もう決めたことだ。すぐに都を()たせろ」

 直信はなおも言い返そうとしたが、父の意志が固いことを知って肩を落とした。

「あの男は今は都にいない方がよい」

 武公はそう言うと、蒼白になって立ちつくしている芳姫に一瞥(いちべつ)を残して去っていった。

 その日の内に道久は出発した。夕方それを直信から知らされた芳姫は、その夜、横で眠る夫を起こさぬように声を殺して、一人で朝まで泣き通したのだった。

 だが、悲しみは長くは続かなかった。芳姫はすぐに妊娠したからだ。産前は安産祈願と(もろ)(もろ)の準備に追われ、千代王丸が誕生すると祝賀行事の数々が押し寄せてきた。妹二人を育て上げた芳姫は息子の世話を乳母に任せず何もかも自分でやったので、失恋の寂しさは子供を中心とした新しい生活の忙しさに()み込まれ、いつの間にか道久のことを思い出さなくなっていった。

 道久が都へ帰ってきたのは二年前だった。武公の死去後すぐに、元狼公に就任した直信が側近として呼び戻したのだ。一千貫から一万貫へ加増されて封主の格式を与えられ、御廻組頭(おまわりぐみがしら)に取り立てられた道久が、芳姫と千代王丸の元に警護役就任の挨拶に来た時、再会した昔の想い人の顔を見て、芳姫は彼が七年間、自分を恋し続けていたことを知った。

 二十八になった道久は、若々しい中にも貫禄(かんろく)が付き、以前より男ぶりが上がっていて芳姫を喜ばせた。かつて心を奪われた相手が立派な男性だったことに満足したのだ。

 とはいえ、芳姫にはもう彼の好意に応えるつもりはなかった。直信は妻に惚れ込んでいたし、芳姫も彼をよい夫だと認めていた。子供ができてからは、子煩悩(こぼんのう)な父親と温かい家庭作りに腕を振るう母親として自他共に認める幸福な家族だったので、もともと冒険心の薄い芳姫には浮気など考えられなかった。それに、道久には妻と千代王丸の一つ下の男児がいることを芳姫は知っていた。

 道久の鋭いまなざしは変わっておらず、出会いの日を思い出して胸がざわめいたが、芳姫はそれを抑えると、平伏する護衛官に、旧知の者に対する親しみと礼儀を失わない程度の距離感をほのめかす微笑みを向けた。道久は目を見張って一瞬動きを止め、一層(あで)やかさを増した芳姫の美貌に見入ったが、やがて深々とお辞儀をした。芳姫は主君らしく頷きながら、彼への情熱を懐かしく思い返したのだった。

 その後も道久は(ぶん)を守った。主君夫妻に忠実に仕え、結婚生活を応援したのだ。道久は第一の側近兼友人として直信の家庭の幸福を祝い、千代王丸の成長を誰よりも喜んでみせ、妻のことでのろける主君をからかいさえした。芳姫には常に鄭重な態度を崩さず、恋情は欠片(かけら)も見せなかった。家臣の枠を越えて迫るようなことは決してせず、直信がいない時はそばに寄らず、奥向きでは唯一の男性家臣として慎重に振る舞った。

 その徹底した忠勤(ちゅうきん)ぶりからは、主君の妻に懸想(けそう)しているとはとても思えなかったが、芳姫は時々不意に感じる視線によって、道久が自分を恋し続けていることを知っていた。だが、芳姫は彼の(おも)いを夫に告げなかった。

 道久は警護役や直信の補佐役として非常に有能で、将来統国府の(かなめ)となる俊英と期待されていた。また、武人らしく鍛えられた体付きに引き締まった容貌という魅力的な男性であり、文武にすぐれ、諸国を巡った経験もあって博識で話題が豊富なので、友人としても充分合格点だった。それに何より、夫が信頼して心を許している以上、芳姫としては良好な関係を望んだ。だから、芳姫は道久を親しい友人の一人として扱い、彼の方もそれを望んでいるように見えたので、道久の密かな想いは表に出ることがないまま、九年の歳月が過ぎていたのだった。

「相手は動きが止まっておる! 一気に決めてしまうのじゃ!」

 芳姫が我に返った時、元狼公の息子と弟の打ち合いは、次第に下がった千代王丸が土に書かれた円の(はし)に追い詰められ、にらみ合っての(つば)()り合いになっていた。外へ押し出そうとする直利と、押し戻そうとする千代王丸は、どちらも顔が真っ赤だった。

「うおおっ!」

 母の言葉に頷いた直利は、叫びながら体を前のめりにして体重をかけ、木刀を握る手を思い切り前に突き出した。相手も必死でそれに耐えようとしたが、直利は十二歳にしては大柄で、八歳の千代王丸が力でかなうはずもなかった。思わず上体が下がったところへ直利が腰を入れてのしかかると、千代王丸はのけ()るような体勢になり、それでも足を踏ん張って支えようとしたが、とうとう押し切られて仰向けにひっくり返ってしまった。

 倒れた拍子に打ったらしい右肩を押さえて千代王丸が顔をしかめながら上体を起こすと、その鼻先に直利がぐいっと木刀を突き出した。千代王丸は四つ年上の叔父をきっと見上げたが、すぐに顔を伏せた。

「降参します」

 千代王丸が小声で言うと、「そこまでです!」と道久が片手を高く上げた。

「ふん、どうだ。参ったか。やはりお前は俺の敵ではないな」

 木刀を肩に担いだ直利は、勝ち誇った顔でそう言って、甥に手を伸ばした。千代王丸は一瞬ためらってからうれしそうな顔で頷いてその手をつかんだ。千代王丸を引き起こした直利は、相手をじろりと眺めて胸を()らした。

「お前も大分強くなったが、まだまだだな。精進しろよ」

「うん」

「ま、俺には一生かないっこないがな」

 威張って言った直利は、自分を見つめている千代王丸の手を離して母親を振り向いた。

「母上、勝ちましたぞ」

「おお、さすがは直利どのじゃ。よくやったのう」

 広芽の方がほめると直利は得意そうな顔になった。

「直利様。まだ礼が終わっておりませんぞ」

 千代王丸の肩を念のために調べていた道久に言われて、円の外へ歩き出しかけていた直利は自分の位置へ戻った。

「ありがとうございました!」

 腰に差すように脇で木刀を持って向かい合い、相手へ頭を下げた少年達は、続いて道久にも礼をした。

「お二人とも、お疲れ様でございました。本日の稽古はここまでと致します」

 道久がお辞儀を返すと、直利は木刀を放り出し、背を向けて母の方へ歩いていった。

「お主は(ほん)に強いのう。武公様も我が父巍山(ぎざん)殿も武勇にすぐれておられたから当然じゃな。よいか、千代王丸殿などに負けてはならぬぞ。あの者はお主の甥で、しかも年下なのじゃからな」

 息子の頭を撫でながら勝ち誇った顔であからさまに嘲笑うような視線を向けてくる広芽の方を黙って見ていた千代王丸は、体を見回して泥をはたくと、遠慮がちに芳姫に近寄ってきた。

「母上。負けてしまいました」

 母親同士の対立を気にして申し訳なさそうな息子に、芳姫は首を振ってやさしく微笑んだ。

「直利様相手に頑張りましたね。痛いところはありませんか」

「ありがとうございます。体は大丈夫です」

 心配そうな芳姫に千代王丸は元気に答えると、小さく付け加えた。

「次は負けません」

 茶碗の水を飲んでいる直利の方を珍しく悔しげな様子で見やったので、芳姫は慰めた。

「もう少し大きくなればきっと勝てるようになりますよ。あなたはよく戦いました」

「そうですぞ。千代王丸様はご立派でした」

 直利が投げ出した木刀を拾って布でぬぐっていた道久が近寄ってきた。

「直信様がご覧になれば大層お喜びになるでしょう。本日は近くの村へ稲の育ち具合を検分にいらっしゃっておいでですが、後で私からも千代王丸様のご成長ぶりを申し上げておきます」

 言いながら、道久は芳姫が握っている閉じた(あか)い扇をちらりと見た。これは直信の贈り物だ。骨は黒檀(こくたん)、張ってあるのは紅花(べにばな)で染めた丈夫な絹の布で、毎年張り替えている。

 視線に気付いた芳姫は、扇を開いて汗だくの息子に風を送ってやった。

「でも、本当に上達しましたね。これも道久殿のおかげです」

「もったいないお言葉でございます」

 道久は真面目な顔で頭を下げた。

「道久殿には何かお礼をしなくてはなりませんね」

「とんでもございません」

 道久は首を振った。

「これが私の職務でございますから。それに、直信様にはとてもお返しし切れないほど大きなご恩がございます。御台様(みだいさま)と直孝様にも大変よくして頂いておりますし、お礼を申し上げなくてはならないのは私の方でございます」

 恐縮する道久に、直孝が言った。

「今度僕が何か作ってあげるよ」

 直孝は手先が器用で工作が得意なのだ。

「それはよい考えですね。是非、そうなさい。でも、私からも何か差し上げましょう。直信様に相談してみますね。道久殿には私達を守って頂いているのですから」

「ありがとうございます。これからも、全力でお二人と直信様をお守り申し上げることをお約束致します」

「頼りにしていますよ」

 芳姫が微笑むと、道久は一瞬その笑みを食い入るように見つめてから、さりげなく目を逸らして一礼した。

「さあ、次は学問の修練の時間です。こちらは千代王丸様に()がありますぞ」

 後半を小声でいたずらっぽくささやいた道久は、千代王丸から木刀を受け取った。

「では、参りましょう。ですが、その前に着替えて汗をぬぐわねばなりませんな」

 芳姫が扇を閉じ、道久が直利に声をかけようとした時、ばたばたとせわしい足音が廊下の奥から聞こえて、一人の女官が走ってきた。

 女達が一斉に振り返り、道久が代表して注意した。

「こらこら、ここは殿中ですぞ。そんな風に走ってはなりませんよ」

「そ、それどころではございません!」

 転がるように膝を付いて慌ただしく平伏した女官は、焦りも露わに叫んだ。

「大変でございます! 元狼公様が落馬されて大怪我を負われました。外からお戻りになってお城の門をくぐろうとなさった時、(あぶ)に刺されたお馬が突然暴れ出したのでございます。すぐに城内に運ばれましたが、お命に関わる重傷とのことでございます!」

「なんじゃと!」

 広芽の方が驚愕の叫びを上げ、侍女達が総立(そうだ)ちになった。

「そんな……」

 芳姫は真っ青になって言葉を失った。手から閉じた扇がぱたりと落ちた。

「直信様!」

 道久が木刀を投げ捨てて板縁に跳び上がり、廊下を全力で駆けていった。

御台様(みだいさま)御方様(おかたさま)もお急ぎ下さい。もう、もう間に合わぬやも知れませぬ」

 泣き伏す女官に、呆然としていた芳姫は慌てて扇を拾って腰を上げた。

「直信様はどこにおられるのじゃ! さっさと案内(あない)せい!」

 直信とは実の姉弟(きょうだい)のように育った広芽の方が女官を叱り付けた。

「申し訳ございませぬ。こちらでございます」

 急いで涙をぬぐった女官が立ち上がって先導する。

「若君様お二方もご一緒に」

 驚いて顔を見合わせていた少年達も促されて廊下に上がり、駆け足で付いていった。

 人々が慌ただしく去った後には、土の上に放り出された二本の木刀と脱ぎ散らされた数足の草履(ぞうり)だけが残された。中庭の隅の大きな桜の葉陰(はかげ)では、羽の()けた(せみ)が一匹、みいんみいんと間延びした呑気(のんき)な声で鳴き始めていた。


 二ヶ月後。

葦江国(あしえのくに)国主(こくしゅ)桜舘(さくらだて)直房(なおふさ)様、文武応諮(ぶんぶおうし)にして広芽国(ひろめのくに)の国主鷲松(わしまつ)勝征(かつゆき)様、おなりでございます」

 呼び出し役の甲高(かんだか)い声が響き、望天城(ぼうてんじょう)本郭(ほんくるわ)御殿の会同の間の入口が開いた。千畳敷きの大広間を埋め尽くす諸封主は一斉に背後を振り向き、見事な松の墨絵が描かれた(ふすま)の奥に立つ二つの人影に、好奇に満ちた視線を注いだ。

 譲り合った末、先に中へ入ってきたのは桜舘(さくらだて)直房(なおふさ)という四十六歳の大封主だった。武公の従弟(いとこ)に当たる彼は、武守家の御連枝(ごれんし)として、また長斜峰(なはすね)半島で二ヶ国計七十六万貫を領する天下第四位の大領主として、広く世に知られた存在であった。

 直房は居並ぶ諸侯の中央に開いた通路を落ち着いた足取りでゆっくりと歩いて最前列へ出た。一段高くなった畳の前で立ち止まると、直房は元狼公の座る豪華な錦織の赤い座布団へ一礼し、その手前に設けられた論者の座所へ、諸封主に横顔を見せる形であぐらをかいた。

 続いて、太った大きな体を揺すりながら歩いてきたもう一人の人物は、鷲松(わしまつ)勝征(かつゆき)という来年六十になる大封主だった。先年剃髪(ていはつ)して巍山(ぎざん)と号したこの老人もまた、意味は違うが知らぬ者のない有名人で、彼が足を止めて広間を見回すと、探るような視線を向けていた多くの封主達は慌てて目を伏せた。それを無視して出席者の顔ぶれを眺めた巍山(ぎざん)は、ほとんどの有力諸侯がいることを確認して口元でにやりと笑った。この大評定(だいひょうじょう)諸所(しょしょ)に運動してようやく実現したものだったから、できるだけ政治的に有効活用したかったのだ。

 すぐに再び歩き出した巍山は、まだ萩月(はぎづき)の初めだというのに全ての襖が閉め切られた広間の暑さにしわだらけの顔を不機嫌そうに歪めながら、諸侯の前方へ向かった。そして、赤い座布団へお辞儀をしてから、きれいに剃り上げている頭を太い首にめり込ませるようにして、大儀そうに直房に向かい合う形で腰を下ろした。

 双方の介添え役を迎えた大広間には、いよいよ始まるという期待感がみなぎった。これからここで武守家の家督相続を巡って二名の候補者による論戦が行われるのだ。見届け役として玉都に集められた全封主百四十数家の当主もしくはその代理達は、この国の最高権力者の座を賭けた大勝負の行方に興味を抑え切れない様子だった。

 この大評定に至る一連の騒動の発端(ほったん)は、夏の暑さが本格化する頃に起こった一件の事故だ。二年前に武公の後を継いだばかりの第二代元狼公の直信が、突然暴れ出した馬から落ちて亡くなったのだ。

 直信は聡明な若者で、安定した善政を()いていた。彼の穏和で公平無私な人柄は統国副元帥だった頃から諸侯に評判がよかったし、直信は父の方針を踏襲(とうしゅう)して大きな変化は避け、譜代諸家の意見をよく聞いた。多くの封主家はいまだに武公の遺徳(いとく)を慕っていて、十八ヶ国五百四十八万貫と、天下の総貫高の四分の一を占める武守家に反抗しようなどと考える無謀な者はいなかった。だから、統国府や諸侯の慢性的な財政赤字など、頭の痛い問題はいくつかあったものの、このまま平和な時代が続いていくと誰もが思っていた。

 だが、その直信がわずか三十歳で後継者を定めぬまま亡くなってしまったのだ。まだ若い権力者の急死に一時は国中が騒然としたが、統国府の宿老(しゅくろう)達は諸侯の動揺を鎮めると、直信の一人息子である千代王丸の地位継承を発表した。

 八歳の元狼公が誕生することになったわけだが、この知らせを世の人々は比較的冷静に受け止めた。というのも、武公の直孫(じきそん)である千代王丸の相続は筋が通っていたし、(まつりごと)は直信を助けた三柱老(ちゅうろう)や四裁事(さいじ)衛職(えいしき)八奉行がいた。何より、戦乱は老人達の思い出話の中だけになっており、直信の治世(ちせい)が順調だったことでもはや武守家の権威を疑う者はいなかったので、全封主家の盟主が幼い子供でも仕方がないと納得したのだ。譜代の諸家も承認し、あとは宗皇(そうおう)の御前で正式な叙任(じょにん)式を行うだけと思われたのだが、そこへこの継承に異論を唱える勢力が現れた。巍山(ぎざん)だった。

 反対派の中心人物である鷲松巍山は戦狼の世生き残りの封主の一人で、紅日岬(くびみさき)半島に六ヶ国計一百六十四万貫の大封(たいほう)を持つ、天下第二位の大領主だ。

 戦狼時代の終わり、十六歳で家督(かとく)を継いだ巍山は十三年で領地を四倍に広げ、天下統一を目前にした武公に対して反抗の意志を明らかにした。始め武公は巍山を威服(いふく)させようとしたが、拒絶されると自ら二十万の大軍を率いて(くび)(くに)へ遠征した。巍山は十二万の軍勢を率いて迎え撃ったが、武公の武略と圧倒的に優勢な兵力の前に敗退を続け、勝利は難しいと判断すると、本拠地の鹿戸(かど)城に()もって持久戦に持ち込み、百家商連(ひゃっかしょうれん)に和平の仲介を依頼した。

 この吼狼国最大の商人の組合は、国内の交易の過半と大陸貿易の全てを取り仕切っている。首の国への遠征に必要な物資の調達や輸送用の船舶の手配などに彼等の協力を得ることは不可欠なので、覇者の武公とてその意見を無視できない。平和と治安の安定と交易の自由を重視する商人達は、戦いの長期化を望まないだろうと巍山は考えたのだ。

 結局、七万人が籠もる堅固(けんご)な巨城を前に、予想される甚大(じんだい)な損害を嫌った武公はその仲裁を受け入れ、領土の六割を削ることを条件に鷲松家の存続を認めた。巍山は武守家の傘下(さんか)に加わった最後にして最大の封主家となったのだ。

 武公は巍山を下したもののその武略と野望を恐れ、文武応諮(ぶんぶおうし)という役職に任じて玉都に住まわせた。文武応諮(ぶんぶおうし)は元狼公の政治軍事の顧問で、権威は高いが実権はない。つまり、危険人物の巍山を名目を付けて都に留め、監視することにしたのだ。巍山の方も、上辺では武公に従順に仕えていたが複雑な気持ちだったことは確かで、武守家の最大の仮想敵として、扱いは鄭重だが警戒される生活を三十年続けてきたのだった。

 武公が亡くなると、巍山の動向に注目が集まった。重しを失って再び戦乱の時代が来るという不安が世間に広がり、統国府も警戒したが、意外にも巍山は進んで直信に従った。まだ若いが賢明な二代目の人気が揺るがないことを知っていて、無謀な賭けには出なかったのだ。直信の方も巍山の経験と知識を認めて重用し、実質のなかった文武応諮(ぶんぶおうし)を相談役として御前(ごぜん)評定に招き、政策の決定に関与させた。

 御前衆(ごぜんしゅう)の一員となってからも巍山は慎重で、自分の考えはほとんど述べず、封主達の要望を拾い上げて伝えることに徹した。諸侯、とりわけ統国府の施政に口を出せない外様封主家の陳情(ちんじょう)を仲介することで、人気を得ようと考えたのだ。巍山のこの姿勢は多くの諸侯の支持を得て、玉都屋敷は大層にぎわった。また、直信も進んで巍山の言葉に耳を傾けた。天下統一を成し遂げた実力で諸侯を従えていた父とは違って、直信は自分の政策の決定には統国府の高官達の考えだけでなく、多くの封主家の意見を取り入れているという形を作りたかったのだ。この両者に利のある協力関係によって、巍山と統国府の関係は良好だった。

 だが、直信が死ぬと巍山は態度を変えた。天下の権を握る機会が遂にやって来たと考えたのだ。巍山は婚姻でつながったり陳情を仲介して恩を売ったりしていた諸侯を集めて千代王丸の元狼公就任に反対し、かわりに広芽の方の子で自分の孫に当たる直利(なおとし)を後継者に()した。

 これに譜代の諸家が反発した。八歳の千代王丸よりはましにしても、まだ十二歳に過ぎない直利が政務をとれるはずがない。となれば後見役が付くが、それが巍山になることは明白だった。その批判に対して、巍山は孫の優秀さを強調し、諸侯の見ている前で二人に論戦をさせてどちらが元狼公にふさわしいかをはっきりさせようと持ちかけ、大評定が行われることになったのだ。

 論戦では双方に助言役の母親と介添え役が付き添うことになっているが、直房と巍山には基本的に発言権がないので、事実上は母親同士の一騎打ちだった。だが、直信の正室芳子は望天城の奥で表の政事に関わりを持たずに静かに暮らしていた穏和な婦人で、政策論争などとてもできそうにはなく、千代王丸は控えめで口数の少ない子供だったから、娘と孫が猛練習の成果を発揮すれば勝利は間違いないと巍山は踏んでいた。勝ち気な広芽の方は初めからこの勝負に大いに乗り気だったし、直利はやや単純だが物覚えは悪くないので、これくらいの論戦なら乗り切れるのだ。諸侯が大人しい千代王丸に元狼公の役目は荷が重いと認識すれば、継承争いにも決着が付く。そうなれば、巍山は三十年間望んでいた権力をようやく手中にできるのだった。

「武守直孝(なおたか)様、田美の御方(おかた)様、武守直利様、広芽の御方様、おなりでございます」

 呼び出し役が高らかに告げると、諸侯は巍山と直房から正面段上へ目を移した。すぐに、左右両端(りょうはし)の襖がすっと開いて、それぞれから男児の手を引いた若い女性が姿を現した。

 三十二歳の広芽の方は左手の襖から一歩踏み出し、強気に豪華な晴れ着の胸を張っている。正装した直利は母の横から首を伸ばして、大広間をきょろきょろと見回していた。直利に対抗するため最近元服して直孝(なおたか)と名を改めた千代王丸は、右手の襖の内側で母の手を握って後ろに隠れるようにしながら、父の葬儀以来二ヶ月の間会う機会のなかった叔父をじっと見つめていた。二十六歳の芳姫は、白い内着の上に服喪用の黒い打掛をまとって同色の帯を締め、長い黒髪を腰の辺りで束ねていた。着物に似合わぬ(あか)い扇は畳んで手に持っている。色白の芳姫の(つつ)ましやかでどこか(はかな)げな立ち姿にはえも言われぬ色気が漂っていて、幾人かの封主はあからさまに賛嘆のまなざしを注いでいた。

 芳姫は襖が開くと正面へ視線を向けたが、広芽の方が敵意をむき出しにしてにらみ付けると、すぐに目を伏せた。広芽の方はうつむいた芳姫を見下すようにふんと鼻を鳴らすと、息子を促して歩き出した。直利が肩を怒らせて段を下り、巍山の前の論者の座所に立つと、広芽の方は息子と一緒に封主達と二人の介添え役にお辞儀をしてから並んで腰を下ろし、さあ早くいらっしゃいとばかりに芳姫に挑戦的なまなざしを向けた。

 黙ってそれを見守っていた芳姫は、覚悟を決めた顔で直孝に頷くと、息子の手を引いて大広間に入った。長い髪を揺らしながらかすかな衣擦れの音と共に段上を真っ直ぐに進んだ芳姫は、中央に置かれた大きな赤い錦織の座布団の前で立ち止まって一礼すると、その(はし)へ腰を下ろし、隣に直孝を座らせた。この若い母親は、諸侯の視線を浴びて一瞬たじろいだが、一枚の座布団を窮屈そうに分け合って不安そうに袖をつかんでいる息子と一緒にお辞儀をし、やや青ざめた表情で広間を見渡した。

「これは一体どういうことじゃ!」

 広芽の方が芳姫を非難した。直利の母は心底驚いたというように大げさにのけぞって座布団を指差した。

「そこは元狼公様がお座りになるところじゃ。後継候補に過ぎぬ直孝殿を座らせるとは、なんと恐れ多いことをするのじゃ!」

 四人の登場を待ち構えていた諸侯も芳姫の行動に驚いた様子だった。呆気(あっけ)にとられていた武者(むしゃ)総監(そうかん)秋芝(あきしば)鉄堅(かねかた)が慌てて芳姫にささやいた。

「元狼公様のお席は空け、その手前に双方向かい合って座るとご説明申し上げましたこと、お忘れでございますか」

 穏和さと好人物ぶりで統国府の潤滑油(じゅんかつゆ)となってきたこの六十四歳の譜代封主は、諸侯の統御(とうぎょ)の最高責任者かつ統国府の筆頭官として、討論の司会を務めるために段前にいたのだ。統国府と鷲松家の対立の激化を恐れ、渋る高官達を説得して大評定のお膳立てを整えた鉄堅(かねかた)としては、何とか穏やかな雰囲気で進めたかったのだが、広芽の方はここぞとばかりに声を大きくした。

「どうやら夫亡き後はおのれが最高位じゃと慢心(まんしん)したと見える。じゃが、直孝殿も、先代の御台所(みだいどころ)とはいえ田美の方も、その場所へ座ることは許されぬ。無礼者め! 今すぐそこをどきゃれ!」

「広芽の御方様のおっしゃる通りですな」

 巍山が重々しく頷いて娘に賛同した。

「その座布団は、諸侯から国内全ての武家の棟梁(とうりょう)たる統国大元帥にふさわしいと認められたお方だけが座れる権威の象徴ですぞ。御台様(みだいさま)はもちろんのこと、たとえ先代の元狼公様のお子でいらっしゃろうと、まだ官職も持たぬただの子供が座ってよいものではありませぬ」

 直孝を「ただの子供」と表現したことに諸侯の間からざわめきが漏れた。「なんと失礼な」と非難する声や、「やはり元帥位に野心があるのでは」というささやきが聞こえてきた。

「誤解されては困りますな」

 巍山はそうした人々を一にらみで黙らせて、おもむろに言葉を続けた。

「わしはただ、武守家の忠実な臣下として、そこにはそのお席にふさわしいお方に座って頂きたいと考えておるだけなのですよ。直利様をご推挙申し上げるのも、それゆえのこと。平和な時代となって久しいとはいえ、いまだ諸侯の中には戦狼の時代を生き抜いた猛者(もさ)が幾人もおられる。そういった御仁(ごじん)の中には(とう)にもならぬ幼い主を頂くことに不満をお持ちになるお方もおられるのではないかと思いましてな。例えば、御台様のお父上がそうでしたな」

 巍山が顔を向けると、芳姫は盛り上がった肉の海の中にぎらりと光る黒い目をのぞき込んで、射すくめられたように身を固くした。芳姫は助けを求めるように大広間を見回したが、父の時繁は娘の立場を考えて出席を遠慮したことを思い出し、顔を伏せた。代理として都家老がこの場にいるが、巍山や広芽の方が相手では助けになるはずもない。

 巍山は圧迫するような口調で芳姫に更に言った。

「国を()べるという統国大元帥のお役目は誠に重く尊いもの。世の道理も物事の理非(りひ)もわきまえぬ幼子(おさなご)に務まるような職ではありませぬ。例えば、春先の総馬揃(そううまぞろ)えはどうなさる。八歳の子供では危なくて軍馬には乗せられませぬぞ。まさか、輿(こし)の上で母君の袖にすがりながら諸侯の隊列をお迎えなさるおつもりではありますまいな。武勇に秀で、その威厳で多くの武家を従えておられた武公様がそんな光景をご覧になれば、さぞやお嘆きになるでしょうな」

 巍山の低く渋い声は千畳敷きの大広間の隅々まで響き渡った。

「さあ、その座布団から降りなされ。そこにお座りになるお方は、これから問答によって決めることになっておるはずですぞ」

 八歳と十二歳の論戦が公平であるはずはなかったが、巍山は気にしなかった。権力を得てしまえば後のことはどうにでもなるからだ。力こそが正義であることは、戦狼の時代を知る巍山には疑問さえ浮かばぬ真実だった。

「その通りじゃ。さっさと段を降りてそこに座るのじゃ!」

 広芽の方が苛立(いらだ)った声を上げると、直利も直孝をぐっとにらんで自分の向かいを指差した。見物の諸侯も戸惑ったように顔を見合わせたが、もう一方の介添え役の桜舘直房は黙って事態を見守っていた。

「御台様、どうかご自分のお席へお移り下され」

 秋芝(あきしば)鉄堅(かねかた)が芳姫に懇願(こんがん)した時、祈るようにするその背中に太い声がかかった。

「席をお移り頂く必要はない」

 立ち上がって発言したのは、最前列中央に座っていた杏葉(あんば)直照(なおてる)という四十歳の大封主だった。武公の長男で、直信と直利の兄に当たる人物だ。母の身分が低かったために庶子として扱われ、杏葉(あんば)の姓と宝瀬国(たからせのくに)など二ヶ国五十三万貫を与えられて臣下に下っているが、武守家の一族として諸侯から一目置かれる存在だった。

「直孝様と田美の御方様はそこにお座りになると決まっておる」

「その通り。お二人のお席はそこで間違いない」

 直照(なおてる)の言葉を仕置総監(しおきそうかん)粟津(あわづ)広範(ひろのり)が肯定した。政務方の総責任者で統国府の次席にあるこの人物は、戦狼時代から武公に側近として仕えて認められ、三十万貫の封主にまでなったという経歴の持ち主だ。武公に末期(まつご)枕頭(ちんとう)で鉄堅と共に後事(こうじ)(たく)されたことを誇りに思っており、武守家への忠誠は比類(ひるい)がなかった。

「おかしなことを申すでない! なぜのその二人がそこに座るのじゃ! 鉄堅、さっさとその女をそこから引きずり下ろすのじゃ!」

 思わぬ加勢の登場に声を荒らげる広芽の方を、巍山がなだめた。

「まあまあ、落ち着きなされ。……しかし、わしもおかしいと思いますな。その座布団に座るということは、元狼公として諸侯の上に立つということ。まだ正式に元帥位にお就きではない直孝様がお座りになれるはずがございますまい」

 いい加減な発言は許さないとばかりに巍山がどすをきかせると、かつて十万の軍勢を叱咤(しった)した猛将の凄みに、広間のあちらこちらで息を()む気配がした。じろりとにらまれた芳姫は青くなり、目を逸らしてかすかに震え出した。

「少しもおかしなことはない」 

 直照は巍山の恫喝(どうかつ)を物ともせずに言い返した。この壮年の大封主は、贅沢三昧(ぜいたくざんまい)の暮らしぶりと好色で世に知られる一方、剣豪としても名が高かった。

「なぜならば、直孝様はそこにお座りになるお資格をお持ちだからだ」

「何ですと?」

 巍山は首をひねり、急速に理解した顔になった。

「まさか……」

 巍山が思わずこぼしたつぶやきににやりとした直照は、(たもと)から一本の巻物を取り出し、大きく広げて諸侯へ披露した。

「これがその証拠だ。宗皇陛下の御聖印(ごせいいん)御花押(ごかおう)の入った統国大元帥任命の勅書(ちょくしょ)だ。とくと見るがよい!」

「しまった!」

 巍山が舌打ちした。広範(ひろのり)が続いて言った。

「それだけではない。葦江国(あしえのくに)にいらっしゃる武公様の御母上淑真院(しゅくしんいん)様にもご承認頂き、ご自身が宗皇様から頂いた国母(こくぼ)の称号を田美の御方様に譲るゆえ、元狼公をお助けせよとのお言葉を頂いておる」

 仕置総監は手に持っていた巻物を開き、しゃがれた声で読み上げた。広範の口調はまるで裁きの判決を罪人に申し渡すようで、六十二歳の現在までの長い官歴を思わせた。

「どうだ。これで文句はあるまい」

 直照は広範が署名が見えるように巻物を掲げるとその隣に並び、勝ち誇った顔でざわめく諸侯を見渡した。鉄堅はあまりのことに口をあんぐりと開けて立ちつくしていたが、広範は無視した。統国府の方針を全国へ行き渡らせて諸侯が違反せぬよう厳しく監視するべきと考える広範は、事を荒立てたがらず外様家の支持を集める巍山に何かと譲歩しがちな同僚に、以前から批判的だった。

「何ということじゃ!」

 広芽の方が顔を真っ赤にして立ち上がった。直利は状況が理解を超えているのか目を白黒させて母と総監達を見比べている。直孝はそんな叔父をじっと見つめていた。

「わらわは認めぬぞ! お主ら、二人してその女の味方をしおって! ええい、そんな紙切れなど無効じゃ!」

 わめき立てる広芽の方にびくりとした芳姫に向かって、頷き合った直照と広範が膝を突き、手を畳に付けて(こうべ)を垂れた。

国母(こくぼ)様、ご命令を」

 全諸侯の注目を受けた芳姫はひるんだが、直孝を促して立ち上がった。うつむいた芳姫は唇を固く結び、息子の手を握ってそばに引き寄せると、きっと顔を上げ、閉じた(あか)い扇の先を目の前の三人に向けて精一杯の大声を張り上げた。

「元狼公の名において命じます。統国府の決定に従わぬ反逆者、武守直利と広芽の方、鷲松勝征(かつゆき)の三人を、今すぐ逮捕なさい!」

 その瞬間、大広間の三方の襖が一斉に開き、武装した百名余りの武者が姿を現した。

「お下知(げち)が下った。謀反人(むほんにん)を逮捕せよ!」

 御廻組頭(おまわりぐみがしら)桑宮(くわみや)道久(みちひさ)が大声で命じると、武者の群れは大広間に雪崩込(なだれこ)んだ。同時にその背後にいた望天城衛門所(えもんじょ)勇留夫(ユルップ)衆が周囲を取り巻いて、逃げ出そうとする諸侯を制止した。

「おのれ、(はか)りおったな!」

 広芽の方は芳姫に向かって絶叫し、段上に飛び上がってつかみかかろうとしたが、立ち(ふさ)がった直照に(はば)まれ、十数人の武者に取り囲まれて床に押し倒された。

「信じられぬ! 義弟と義父の妻をだまし討ちにするような者が国を治めると言うのかえ! この卑怯者め! わらわはお主を絶対に許さぬぞ! 覚えておれ!」

 身動きを封じられた広芽の方はそれでもなお大声でわめき続けていた。

「母上を離せ!」

 ようやく事態を悟った直利が慌てて立ち上がって母を救おうとしたが、必死の抵抗も虚しく突き飛ばされて尻餅をついたところをあっさりと捕らえられた。

「道久、お前、俺を裏切ったのか!」

 武者達を指揮する文武の師に向かって、直利がつかまれた両腕を取り戻そうともがきながら叫んだ。

「これも役目でございますゆえ」

 道久はにやりとして答え、「さっさと拘束しろ」と部下に指示した。

 巍山は自分の失敗に愕然として座り込んでいたが、全ては計画されていたと悟り、さすがに悪あがきはしなかった。

「連れて行け!」

 道久が命じると、三人は武者に囲まれて連行されていった。直利は信じられないという顔つきで直孝を何度も振り返り、広芽の方は最後まで罵詈雑言(ばりぞうごん)をまき散らしていた。

「静まれい!」

 直照が一喝すると、ざわめいていた諸侯は口を閉ざし、自分の席へ戻った。黙って騒ぎを見守っていた桜舘直房は、いつの間にか最前列中央の定位置へ移動していた。あまりのことに腰を抜かした鉄堅は数人がかりで総監の席へ運ばれたが、悄然(しょうぜん)とうなだれた彼がその地位にあるのは今日までだということは、誰の目にも明らかだった。全ての襖が開け放たれた大広間には外の風が入り込み、不愉快な暑さを少しだけ和らげていた。

 全員の着座を確認すると、広範が口を開いた。

「お騒がせ申し上げた。だが、仕方がなかったのだ。全ては武守家の御為(おんため)にしたこと。どうかご理解頂きたい」

 直照が大きく頷き、言葉を引き継いだ。

「この件に関する逮捕者はあの三名のみである。直利様を支持した他の諸侯の罪は問わぬ」

 この宣言に大広間のあちらこちらで安堵の溜め息が漏れた。鷲松家の縁戚や巍山に大きな借りがある封主達だった。巍山は子沢山で、十数家に娘を嫁がせて一大勢力を作っていた。

「これは国母様のご意志だ。感謝なさるがよい」

 そう言われて、諸侯は今気が付いたように、まだ立ちつくしている芳姫へそろって目を向けた。芳姫は広芽の方に襲われそうになった恐怖を青ざめた美貌に刻んだまま、息子の両肩をつかんで呆然としていた。

「国母様。……田美の御方様!」

 直照に名を呼ばれてようやく我に返った芳姫は、くずおれるように座に付いた。直孝は先程の捕り物に顔を強張(こわば)らせ、直利が連れて行かれた方をずっと見つめていたが、芳姫はその手を引いて横に座らせると、まるで寒い者が行火(あんか)を抱え込むように息子を胸に抱き寄せた。直孝は驚いて母を見上げたが、何かを感じたのか大人しくされるままになっていた。

「統国大元帥武守直孝様。国母田美の御方様。我等一同、心より忠誠をお尽くし申し上げます」

 直照と広範が平伏すると、満座の封主達も一斉にそれにならった。諸侯の拝礼を芳姫は硬い顔で黙って受け、ただ一度、息子と共に深く頭を下げ返した。

 直照と広範は立ち上がり、諸侯に向き直って説明を始めた。

「これより、統国府は国母たる田美の御方様を(かしら)に頂いて、新しく武者総監となられる杏葉(あんば)公と仕置総監の粟津(あわづ)広範及び内宰(ないさい)雉田(きじた)元潔(もときよ)殿の三柱老(ちゅうろう)に、四裁事(さいじ)衛職(えいしき)八奉行を加えた合議で運営して参る。各封主家もそれをご理解の上、ご協力を賜りたい……」

 この光景を広間の外から見守っている者がいた。謀反人(むほんにん)の逮捕を指揮した御廻組頭の桑宮道久だ。

「息子を守るために立ち上がった母親か……」

 諸侯が二人の語る施政方針に聞き入る中、板廊下に座して控えた道久の視線はただひたすら、すがりつくように息子を抱き締めている芳姫に向けられていた。

「国母などおやさしい芳姫様には不似合いな役回りだ。これからご苦労が多かろう。助けて差し上げねばなるまい。そこに付け入る隙はきっとある」

 道久の目は狂おしいほどに芳姫を求めていた。妻の実家の公家(くげ)夏雲(なつくも)家を使って元狼公と国母を任ずる勅書を用意し、論戦を主張する巍山一派への対処に頭を悩ませていた広範と直照に売り込んだのは道久だった。

「あの方を落とせば全てが手に入る。地位も、権力も、最愛の女人(にょにん)も。これまでずっと我慢してきたのだ。直信様が亡くなった今、何を遠慮することがあろう。俺は必ず、芳姫様を俺のものにしてみせる」

 段上の麗人(れいじん)に食い入るような視線を注ぐ道久を、やや離れたところから、勇留夫(ユルップ)族望天城衛門所(えもんじょ)の指揮官で、三つ年下の友人である羽至空(パシク)が、心配そうに見つめていた。


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