(第六章) 六
六
本陣に到着した禎傑は、門の前で頑烈達の出迎えを受けると、母屋に案内されて椅子に腰を落ち着けるなり尋ねた。
「雲居国の攻略、ご苦労だった。で、いつ城に入れる」
ところが、その返事が予想外だった。
「なに? 城は落ちていないだと?」
禎傑は意外そうな声を上げた。
「お前達も影岡軍に勝てなかったというのか」
禎傑は信じられないという表情で確認した。
「はい。勝てませんでした」
涼霊は無表情で答え、頑烈が謝った。
「その通り。我等は負け、ご命令を達成できておりませぬ。誠に申し訳ございませぬ」
豪農の屋敷の大広間はしんと静まり返った。本部付きの庸徳将軍が慌てて口を挟んだ。
「毎日頂いていた報告では、頑烈殿と涼霊殿は決して無策だったわけではありません。城を猛攻してもう少しで切り込めるところまで迫ったことや、城内へ撤退する敵を追撃して追い詰め、包囲殲滅する寸前まで行ったこともあったそうです。昨日の夜の戦いでは敵部隊の一つに大打撃を与えて多くの武者を倒し、大将の少年をあと一歩で討ち取れそうだったと聞いております」
「庸徳殿、かばってくれるのはありがたいが、言い訳はよい。もう少しとか寸前とかあと一歩などと言われると、かえって恥ずかしくなる」
「も、申し訳ありません」
平凡さと真面目さが取り柄の庸徳は、自分ではこの雰囲気をどうにもできないと悟り、黙って壁際に下がった。
禎傑は少し考えたが、すぐに顔を上げた。
「結果は理解した。だが、その理由が分からん。詳しく話してもらおうか。長くなりそうだから食事をしながら聞こう。皆も同席せよ」
禎傑は大広間に大きな四角い机をいくつも並べさせ、夕食を運ばせた。その周りをぐるりと囲んだ将軍達は二人の報告を食べながら聞いていたが、次第に箸を動かす手が止まり、やがて皆深刻な顔で考え込んだ。
長い沈黙の後、禎傑は言った。
「つまり、まとめると、こういうことか。お前達は知恵を絞って全力で攻めたが、敵の軍師にことごとく阻まれ、城を落とすことはできなかった。そうなのだな?」
「お言葉の通りです」
涼霊が頷いた。頑烈も認めた。
「悔しいですが、それが事実ですな」
敦朴が説明した。
「敵軍師はこちらの作戦を全て予想しているかのように、必ず対策を用意しているのです。我等は先手を取って攻めていたはずなのに、いつの間にか後手に回り、敵の策に対応を迫られる状況に陥ってしまいます」
鍾霆と馬策も言った。
「光姫は確かに強い。弓や馬術は相当なものだ。戦いの流れや機を見る目も鋭い。連れている狼も恐ろしい。他の武者達も勇者ぞろいだ。だが、それが理由ではない」
「そうだ。我々とて武術や勇気で負けてはいない。敵にはそれを活かす見事な筋書きが用意されているのだ」
高卓と匡輔が続いた。
「涼霊殿の作戦はどれも見事でした。恵国での戦いに比べて質が低かったとは言えません。それは狐ヶ原で証明されたはずです。敵をなめていたわけでもありません。立てた策は決して敵に劣っていなかったのです。ですが、勝てませんでした。敵軍師にことごとく見破られ、防がれてしまいました」
「互いに大勝も大敗もしませんでしたので、何度も激しく戦った割には敵も味方もそんなに損害を出しておりません。我が軍は死者と重傷者が合わせて三千、ほとんどは硫黄や投石や矢によるものです。負傷者は五千ほどですが、多くは火傷や三角菱を踏んで足に怪我をした者ですぐに回復するでしょう。敵の死者と重傷者は合わせて一千前後と思われます」
最後に頑烈がまとめた。
「ゆえに引き分けと言いたいところですが、目的を達成できなかったのですから、我等の負けですな」
禎傑は衝撃を受けた様子だった。
「敵の軍師は涼霊に匹敵する才の持ち主だと言うのか」
この言葉を、頑烈は肯定した。
「そう考えるほかありますまい」
禎傑は涼霊に視線を向けた。
「お前もそう思うか」
涼霊はいつも通り平板な口調で答えた。
「兵数などが互いに同じ条件ならば、全力で戦っても勝てる自信がありません。影岡軍は精兵ぞろいです。野戦に持ち込んでも負けるかも知れません」
「ふうむ……」
禎傑は考え込んだ。
「まさかそれほどの強敵とは。もしかすると、吼狼国一の軍師を相手にしているのかも知れんな。では、あの城を落とすのは無理か」
将軍達も驚き、困った様子で顔を見合わせた。そこへ、華姫が口を挟んだ。
「あの城は落とさなくては駄目よ」
将軍達は忘れていたかったものを無理矢理思い出させられたという表情で、禎傑のもう一人の知恵袋へ目を向けた。
「恵国軍は勝てなかった。我が国の武者の方が強い。そう人々が思えば、吼狼国を屈服させることは不可能になるわ。統国府や封主達も降伏せず、占領した地域の民は反乱を起こすでしょう。恵国軍は最強でなければならないのよ」
「だが、涼霊が勝てる自信がないと言っているのだぞ」
「それでも勝たなくてはいけないのよ」
きっぱりと言われて禎傑は苦笑したが、頷いた。
「その通りだ。我々は負けるわけにはいかない。勝てずに国に引き返したら俺達はいい笑い物だ」
実際は笑われるどころではない。禎傑は兄弟の皇子達の手を逃れて新天地を目指してきたのだから。吼狼国を征服できなければ捕まって殺されるだろう。敗戦は立派に処刑の理由になるし、抵抗しようにも、すごすごと逃げ帰ってきた禎傑に味方する兵も民もいないと思われた。
「だが、これほどの強敵をどう攻める」
禎傑は尋ねた。
「俺が連れてきた者達を合わせると兵力は八万を超えるが、硫黄があるのでは力攻めはできん。城を落とせても、その後の鷲松巍山との戦いや都攻めに使う戦力が残っていなければ意味がない。かといって、投石機をまた作って幕を破るのでは時間がかかり過ぎる。新たな橋を架けねばならんし、幕は修繕されていたのだろう?」
今日涼霊が偵察したところ、石綿の幕はかなり露出していた白いところがなくなり、再び一面焦げ茶色になっていた。新しい牛の皮を貼って補強したのだ。
しかも、その幕の後ろに門を辛うじて覆う程度の大きさの新しい幕が二枚増えていた。盾をかざして空堀の近くまで接近して確かめた兵士達によると、鉄のすれるような音がしていたというので、恐らくあれは石綿ではなく、小さな鉄の板を鉄の輪でつなぎ合わせたものに違いない。石綿のように風をはらむことはなく、石弾を受け止める弾力には欠けるが、その分丈夫だ。遠距離攻撃で壊すとなると、やはり相当な手間がかかるだろう。
「華子。城を落とす上手い方法を思い付かないか」
禎傑に期待するまなざしを向けられて、華姫は一瞬ためらったが、「あるにはあるわ」と答えた。
光姫を倒すのはできれば他の将軍に任せたかった。だが、自分は既に父を殺しているし、妹の抵抗を排除する覚悟はしていたはずだった。
「ほう、聞かせてみろ」
禎傑は華姫の短い躊躇に気付いた様子だったが身を乗り出して先を促し、将軍達は驚いた顔になった。
「別に目新しい作戦ではないわ。恐らく涼霊将軍も気付いていると思うのだけれど」
と幕僚長を見て、華姫は敦朴に尋ねた。
「昨夜の戦いでは、光子隊はいつの間にか城外にいたのよね」
「そうです。突然本陣を襲ってきました。どうやって城を出たのか分かりません」
敦朴は丁寧な口調で答えた。この吼狼国人の妾をあまり好きではないようだが、五十をいくつか超えている敦朴は露骨に反発するようなことはしなかった。もっとも、それを分かっていて自分に尋ねたらしいのが気に障ってはいるらしい。
そんな内心を察しつつ、華姫は「ありがとう」と礼を述べて、禎傑に言った。
「つまり、あの城には大手門以外に出入りできる抜け穴があるのよ。穂雲城にもあったもの、意外ではないわ。そこから兵士を突入させて、門を開けさせればいい。正面から攻めて駄目なら搦め手から崩す。それが城攻めの基本ではないかしら」
涼霊へ視線を向けると、幕僚長は頷いた。
「抜け穴があるならそこから攻めるのは定石だ。最悪の場合出撃を封じて兵糧攻めにすることも考えているので、その穴の位置は知りたい。しかし、探すのは難しい」
頑烈が苛立った口調で言った。
「その程度のことは我等も考えた。だが、どうやってその穴を見付けるのだ。この山の周囲は広大な森に覆われておるし、麓には無数の洞窟があるのだぞ。そのどれかだろうが、一々入って調べていたらどれだけかかるか分からぬ」
「そんなに洞窟があるのか」
禎傑の問いに、涼霊が答えた。
「百ヵ所以上はあるでしょう。大昔に噴火した時に溶岩が作ったものだと聞いたことがあります。吼狼国の歴史書を見ても神雲山はたびたび噴火しておりますので、そのたびに新しいものがいくつもできたようです」
「百以上か。かなりの手間だな」
禎傑は唸った。
「はい。たいまつと食料と迷わぬように縄を持たせて探索させることになりますが、奥が深く長いものが多く、相当の時間がかかりそうです。中には危険な動物が住み着いているものや、毒の空気が充満しているものもあり、知らぬ者が近付くのは命懸けです」
「光子の部隊は騎馬だったのでしょう? 馬が通れそうなところは限られるのではないかしら」
「それでも、結局、深い森の中を歩き回って洞窟を全て見付け出し、抜け穴の可能性がないか一つずつ調べていかねばならぬことは同じだ」
頑烈が言った。
「そんなことをしていては確実に都へ向かうのが遅れる。雲居国と玉都のある祉原国の境付近は狭い道が続く。そこを大軍で押さえられたら我等はこの国に足止めされてしまう。既に予定が一月以上遅れておるのだ。急がねばならぬ」
「そうね。ゆっくり調べている時間はないわ。知っている人を探し出して聞いた方が早そうね」
華姫は少し考えて言った。
「分かったわ。それは私の方でやってみる。地元の人に当たってみるわ」
「売国奴に協力する民がおるものか」
頑烈が不愉快そうに言ったが、華姫は微笑みを返した。
「尋ねる相手の選び方を間違えなければきっと上手くいくわ」
禎傑は二人を見比べると決断した。
「自分で言うのだ、華子に任せよう。こういうことは同じ国の人間の方がやりやすいだろう」
次に、禎傑は涼霊に尋ねた。
「お前には何か策はないのか」
幕僚長は一瞬頑烈と目を見交わすと答えた。
「崖の上のあの城へ近付く方法を考えております。死傷者が多く出ると思われますのでそれだけでは使用できませんが、華子殿の策と併用すれば効果があるかも知れません。また、新しい大砲を持ってきて頂いたと聞いておりますので、城攻めに生かせるでしょう。それから、殿下と華子殿のご許可を頂ければ、月下城付近にいる田美衆の水軍の小型船を数隻、雲居国へ移動させたいと思います。双島の水軍の警戒の目をすり抜けなければならないので困難が伴いますが、思い付いたことがあります」
「何に使うのだ」
涼霊の返事を聞いて、禎傑は笑った。
「なるほど。いいだろう。許す」
「面白い考えね。家臣に命じてこちらへ船を回させましょう。私も他に攻める方法がないか考えてみるわ」
禎傑は机を取り囲む将軍達を見回して言った。
「では、涼霊と華子の策の見通しが立つまで数日待つことにする。その間に、お前達は麾下の兵を休養させ、怪我人の回復に努めよ。また、一度あの城を見に行き、何か思い付いたことがあれば俺に言え。俺自身も明日城の近くまで行ってみる。涼霊と頑烈を撃退した堅城と勇者達をじっくりと観察してやるつもりだ」
禎傑が不敵に笑うと、将軍達は皆表情をゆるめた。禎傑とその軍団は恵国では無敗で知られている。小さな負け戦や一時的な撤退はあったが決定的な大敗はしたことがなく、最後には必ず敵を打ち破ってきた。古参の将軍達はそれをよく分かっていたし、この遠征から配下に加わった者達もその評判を知っていたので、司令官殿下が自信と余裕を失っていないことに安堵したのだ。
「吼狼国最高の軍師とて、我等恵国最強軍団の敵ではないことを、天下に示してやろう」
禎傑が立ち上がって言うと、将軍達は一斉に起立して、常勝将軍の威風に頭を垂れた。
その頃、影岡城の大広間では、旅立つ者の道中の無事と目的の達成を願う儀式が行われていた。
城を出発するのは楢間惟鎮と餅分具総だった。二人の使命は都へ上って巍山に援軍の早期派遣を要請することだ。
入浴して身を清め、直垂で正装した実鏡は、低く頭を下げて神雲山を三度拝むと、梨の花の家紋の入った伝家の長刀を惟鎮に渡した。光姫も梅花の家紋の入った印籠を具総に預けた。更に二人は人を仰雲大社へ走らせてもらってきた道中安全と大願成就の二つのお守りをそれぞれに授け、巍山と芳姫への手紙を渡して彼等の手を順番に握った。
「あなた達にこの城にいる者達が生き延びられるかどうかがかかっています。どうかよろしくお願いします」
「惟鎮殿、お願いしますぞ」
主君に続いて豊梨家筆頭家老の奥鹿貞備が言うと、梅枝家からは光姫が声をかけた。
「爺や、頼んだわよ」
最後は、織藤家の当主で非正規の武者や山賊達のまとめ役でもある恒誠だった。
「分かっていると思うが、我々の置かれた状況は非常に厳しい。巍山は俺達を見捨てるつもりかも知れん。君達の役目は、この城で敵と戦うこと以上に重要だ」
惟鎮と具総は承知していますと深く頷いた。
巍山に出陣を命じられた全ての封主家の武者が都にそろってから既に半月以上になる。いくらなんでも出発が遅過ぎた。影岡城の武将達は、自分達は勝ち過ぎたのではないかと危惧していた。
頑烈軍の到着前はまだ、巍山は芳姫が兵糧を送るのを認めた。楠島運昌が浪人達を連れてくるのも邪魔しなかった。もしかしたら、影岡城が危機に陥ったところで救援して、巍山軍の来援がなければ危なかったと印象付けることで、手柄をかっさらおうと考えていたのかも知れない。
だが、その後の戦いでも影岡軍は勝ち続けた。とりわけ、狐ヶ原や森浜村の合戦の作戦を立てた軍師として有名な涼霊と互角以上に戦ったことで、恒誠と光姫に対する評価は急上昇した。
何せ、光姫は国母様の妹だし、見合いの件や総馬揃えに出たことで都では広く知られていた。父の敵討ちという大義名分もあり、姉の華姫との対決も話題になった。しかも、大変な美女でまだ十八歳だ。
城主の実鏡も十四歳なのに、進んで戦場に立っている。軍師の恒誠は取り潰された封主家の跡取りが都で遊んでいたというまるで貴種流離譚の主人公のような逸話の持ち主で、猛将と名高い豊梨実護に軍略の才を認められたというのも興味をかき立てる。そんな美少女や少年や若者がけなげに戦い、敵の数分の一の武者で戦狼時代の名将顔負けの活躍をしているのだから、人々が熱狂するのは当たり前だった。
一方で、巍山は芳姫と直孝を監禁していることが噂で広まって人気に陰りが出ていた。巷間の評価などそんなもので、勝手に上がったり下がったりするものだが、武守家に取って代わりたい巍山としては無視できなかった。民に推される形で元狼公になりたかったのだ。それなのに、光姫達がいれば都が危なくなることはないから、もはや老人の巍山は必要ないという声さえ、聞こえ始めていた。
芳姫の妹の光姫や名門譜代家の実鏡は権力奪取の邪魔になりそうだから、救援するより滅んでもらった方がよい。落城後、激闘で疲れ傷付いた恵国軍を叩いて、敵を討ったと言って人気を得よう。巍山はそう考えるようになったのではないか。
恒誠と安漣はその可能性に恐怖した。それが事実であれば、影岡城の者達にとっては死の宣告に等しい。いくら彼等が強くても、恵国の大軍に本気で城を攻められたら勝ち目はないし、以前恒誠自身が言ったように、籠城とは援軍を当てにしてするものなのだ。
芳姫の援助を受けた時は見捨てられていないと安心したが、さすがに巍山の動きが鈍過ぎると、恒誠は疑念を強めていた。そこへ、後明国から恵国軍三万八千余りが追加で到着したという知らせが届いたため、都へ人を派遣し、援軍を催促させることに決めたのだ。
急遽恒誠に評定の間に集められた光姫達は、この場で巍山への使者を選んでくれと迫られた。貞備や惟延など豊梨家の家老達は都へ人を送り込む必要性には納得したものの、主君のそばを離れるわけにはいかないと言った。皆が困っていると、惟鎮が名乗り出た。自分は怪我人で戦えないから、こういうことで役に立ちたいと。従寿を助けた時の右肩の怪我がまだ癒えていなかったのだ。傷は塞がっているが、槍を振るうのは無理だった。
家老達は喜び、父の惟延も同意したが、まだ二十三と若く童顔なので、年配の者を同行させた方がよいという話になって、具総が選ばれた。影岡軍の中で最大の五千を占める梅枝家の代表だ。具総は姫様と共に戦いたいと渋ったが、師隆は殻相衆をまとめなければならないので、他に適任者はいなかった。光姫に、見合いの時に多くの若様や他家の家老に会って顔が広いはずよと言われて具総は覚悟を決め、主命を受けた。
こういうわけで、影岡城の大広間に集まった人達は、送る方も送られる方も皆真剣に儀式に臨んでいた。使者二人はそれぞれの主君から杯を受け、旅支度を整えると、夜陰に紛れて馬で城を離れた。橋がないので森へ入ってどこかで川を渡り、西国街道を東へ向かう。もしかしたらこれが今生の別れになるかも知れない。誰もがそう思っていた。
都まで馬を飛ばせば丸一日だが、軍勢の足では三日かかる。つまり、どんなに援軍が早くてもあと四日は来ないことになる。実際には交渉や出陣の準備などでさらに数日かかるだろう。それまで恵国軍が待ってくれるのか、微妙なところだった。
二頭の影はあっという間に闇に溶けて見えなくなった。大手門の櫓で見送った光姫は彼等の無事を狼神と霊峰に祈ると、影岡の方へ視線を移した。
今日華姫が敵の本陣に到着したと聞いた。姉との直接対決が迫っていることに不安と悲しみが膨らむのを感じて、光姫は銀炎丸を抱き寄せた。
お姉様はきっと強い。私一人では多分勝てない。でも、私には仲間がいる。実鏡さんや、恒誠さんや、宗明さんや憲之さん、師隆さんや具総さんや輝隆さん、そして、お牧や従寿さんや銀炎丸がいる。だから、決して負けはしない、私は必ずこの城の人達と吼狼国を守り、お姉様の進撃を阻んで、敵中から救い出してみせる。その誓いを果たすまで、私は戦い続けるわ。
硬く温かい毛並に頬をうずめながら、光姫はもう一度覚悟を確認し、気を引き締めたのだった。
翌日、光姫は日が上るとすぐに起きて、お牧や従寿や福子と武芸の稽古をした。これは光姫の日課で、籠城を始めてから遠乗りはできなくなったが、戦のなさそうな日はこうして毎朝体を動かしている。薙刀の型をさらって弓を引いた後は、銅疾風を運動不足にさせぬため、大手門を出て城の前の広場をぐるぐると走った。この光景は城の名物で、暇な武者達がいつも眺めているし、直属の騎馬武者の中には門を出てきて、後に付いて馬を走らせる者もいる。
光姫は昨夜の誓いもあって普段より気合が入っていたので、汗だくになって城へ戻った。城の防御の強化など今日するべきことは昨晩の内に打ち合わせが済んでいて朝の評定はないので、光姫は銅疾風の世話をして飼い葉を与えると、福子と侍女と一緒に風呂へ行った。
ざっと汗を流してゆっくりと湯につかり、体を拭いて新しい着物を身に着けた。長い髪にお牧が櫛を入れてくれた。
風呂場を出ると、男湯へ行っていた従寿が待っていて、四人で朝食をとりに隣接する厨房へ行った。顔なじみの女衆が待っていて、近くの山で摘んできた山菜やきのこを干し肉や城外の畑でとれた野菜と一緒に煮込んだものと、漬物と玄米飯をよそってくれた。料理はいつも同じだが、空腹なのでおいしく、光姫はおかわりして食べた。なお、出陣前や戦の起きそうな日は別で、実鏡以下武将達から武者達まで特別に豪華な料理が振る舞われるし、敵を打ち破った後も城内の者全てが参加する祝宴が行われる。
木の皿は自分のが決まっていて名前が書いてあり、各自で洗うことになっている。姫様にそんなことはさせられませんというお牧のいつもの抗議を聞き流して洗い終えると、裏手の水場で着物を洗濯する侍女を待った。木皿はともかく、着物は姫様や従寿さんに洗わせると傷むのが早くなりますと言って、手伝わせてくれないのだ。
光姫達は時間が余るため、よく女衆の手伝いをするのだが、この日は煮物の味付けに使う味噌や塩がなくなりそうなので、新しい樽を持ってきて欲しいと頼まれた。置いてあるのはこの中郭でも反対側の東の端の倉だという。厨房のそばにも倉はあるのだが、そこは米や乾物や採ってきた野菜でいっぱいで、すぐに使わない予備のものは遠くの倉にあるらしい。重いですがと申し訳なさそうだったが光姫達は快く引き受け、案内役の女房一人と一緒にいくつか門をくぐりながら東へ向かった。皆仕事で出払っているらしく、奥へ行くほど人気がなくて静かだった。
「この倉ね」
指示された場所へ行って、「これをお願いします」と持たされた塩の大きな袋を抱えて戻ろうとすると、どこかで若い男女の言い争う声がした。従寿達と顔を見合わせたが、女が悲鳴を上げたので気になって行ってみると、蔵の一つの扉が少しだけ開いていて、中で若い男が十五、六の少女にのしかかっていた。
すぐさま従寿が飛び込んで二人を引き離し、福子が走って城内警備役の武者を呼びに行った。やがて騒ぎを聞き付けて人が集まってきて、男は数十人の輪の中に引っ張り出された。
「どういうことか、事情を説明してくれますか」
光姫が尋ねると、縫い物の担当だという少女はややためらっていたが、ぽつりぽつりと話し始めた。
少女の話を要約するとこうだった。少女の父は腕のよい大工だが酒好きで、以前から一杯やらないと夜眠れなかったが、城に入ってから酒を飲めなくなり、目が冴えて困ると不満を漏らしていた。そんな時、この男が近付いてきて酒をやろうと言った。娘は男の下心に気付いたものの、酒がもらえるので毎日ここで会って受け取っていた。が、父が初めて飲む珍しい酒だが美味いと喜んでいるので、出所が気になって尋ねたところ、酒倉から盗んでいると聞かされた。びっくりしてもういりませんと言ったら、これまでの酒の代金だと言って押し倒されたということだった。
光姫が男のことを周囲に尋ねると、倉の管理役の豊梨家の家臣が進み出て、申し訳なさそうに私の甥で跡継ぎですと言った。叔父の話によると、十九歳の岸馬斉末は影岡の遊興施設に入りびたっていた札付きの遊び人で、小荷駄隊として城に入ったが、怠け者で真面目に働かないので雑用係にされ、城の暮らしに馴染めないでいた。そんな時、娘を見かけて惚れこみ、ものにしようと叔父の管理している鍵を使って酒を盗んだらしい。
戦の最中なのにと皆呆れた。が、娘は盗品と知らなかったようだし、呼ばれて慌てて駆け付けてきた父親が泣いて謝ってもう酒は飲まないと誓ったので、親子はおとがめなしということになった。
問題は斉末の処分だった。
「斬首だな」
恒誠は実鏡と共に現れて彼等の話を聞いていたが、周囲の視線を受けるとそう言い放った。
「処刑するのですか!」
恒誠の容赦のない裁決に光姫は驚き、年の近い少女への狼藉に感じていた激しい怒りが急に冷えていくのを感じた。自分達はこの男の生死の決定権を握っていて今まさに行使しようとしているという現実を、いきなり突き付けられた気分だった。光姫は三女だったしまだ若いので、仕置きや裁きの現場に立ったことがなかったのだ。
「処刑ですか。他にしようがないのですか」
実鏡も驚いて青くなったが、家老達はやむなしという顔だった。その理由を恒誠は端的に述べた。
「透景酒は負傷者の治療用に買い求めて大切に使っていたものだ。戦の前に二十樽購入したが、恵国からの輸入物でかなり高価だ。とても庶民が飲めるものではない。調べてみたら、樽一つがほとんど空になっていた。そのような貴重なものが盗まれたのだ。しかも戦闘中の城内でだ。斬首がふさわしい」
斉末の叔父も処刑を受け入れ、主君に謝罪した。
「この子は昔から素行が悪くて兄も亡くなるまでずっと心配していました。半年ほど前、また影岡の町で問題を起こしましたので、私は彼を叱り、武術や勉学に励み行いを改めなければ跡取りから外すと申し渡しました。であるのに、こんな少女に非道なまねをするとは。しかも籠城中にです。さすがに堪忍袋の緒が切れました。処刑して頂いて結構です。私自身が手を下しても構いません。私も武者です。仲間の命に関わる品を盗んだ者を許せません。亡くなった兄夫婦には申し訳ないですが、このような不届き者は、もはや当家の跡取りでもなんでもありません」
「でも、お酒を盗んだだけで死刑なんて……」
光姫がためらうと、恒誠は冷然と言った。
「この酒は籠城に必要な物資だ。今後、この酒が足りないことで助けられない者が出るかも知れない。これは命を懸けて戦っている武者達の背後を脅かす行為だ。断じて許すことはできない」
「ですが、殺さなくてもよいのではありませんか。高価なお酒とはいえ、一樽五両程度、死刑にするほどの罪とは思いません!」
光姫は言い張った。恒誠の問答無用という態度が気に障ったのだ。論理的ではないかも知れないが、処刑はとても受け入れられなかった。相手が誰であれ、それだけは命じたくなかった。戦場で敵をたくさん殺しているのにおかしな話だが、それとはまるで別なことのように感じられたのだ。
「今は戦時だ。平時とは基準が違う」
恒誠は突き放すように言った。
「それに、生かしておいてどうする。閉じ込めておくのか。役に立たない者を養う余裕はこの城にはない。そんなことに割く人員や食料はないのだ。八万の大軍が数日の内にも攻めてくるのだぞ」
「だから殺すのですか!」
「では、どうしろと言うのだ」
光姫はうっと詰まったが、すぐに思い付いて言った。
「この城から追放してはどうかしら」
「駄目だ。籠城中の城から人を放つなどあり得ない」
恒誠は言下に否定した。
「この城の内情を外でぺらぺらしゃべられたら困る。敵に知られたらまずいし、捕まって情報を聞き出されるかも知れない」
「こっそり逃がせばいいでしょう!」
光姫は言い張った。
「私も穂雲城から密かに逃げ出してきたわ。そういうことも可能なはずよ。……そうだわ。あの抜け穴を使えばいいわ。敵に気付かれないように森の奥で放すのよ」
光姫は恒誠の返事を聞かず、男に言った。
「この城のことを誰にも話さないと誓える? それなら逃がしてあげるわ。ただし、この国からすぐに離れてどこか遠くに行ってもらうことになるけれど」
「もちろん誓う。絶対に言わない」
斉末は何度も首を縦に振った。
「大神様と神雲山に誓える?」
「百回だって誓うぜ」
「信用できんな」
恒誠は斉末を冷たい目で見下ろした。
「この城の者達を危険にさらすことはできないのだ。殺すしかない」
「万一の可能性だけで人を殺すの? それが正しい裁きなの?」
「俺達が生き延びるのに必要だと言っている。殺してしまえば不安材料はなくなる」
「そういう考え方なのね。呆れたわ」
恒誠の言うことは分かるが、納得はできなかった。だが、家老達は恒誠に賛成のようだった。
「光姫様はおやさしいのですね。ですが、ここは恒誠様の言う通りだと思いますよ」
撫倉安漣が諭すように言った。光姫は周囲の圧力を感じてかえって意地になり、最後の手に出た。
「でも、裁きの決定権は豊梨家の当主にあるはずよ! 決めるのは恒誠さんではないわ。実鏡さん、どうするの?」
「僕が決めるのですか!」
実鏡はびっくりした顔になったが、真剣な表情で考え込んだ。光姫は言った後で責任を年下の少年に押し付けたことに気が付き、しまったと思ったものの、今更取り消せなかった。家老達が止めてくれるかと期待したが、大勢の家臣や領民が見ている前で主君の裁きに口を挟むことはできない。光姫は焦り、唯一意見しても許されそうな恒誠に視線を向けたが、彼が口を開く前に、少年封主は結論を出していた。
額にしわを寄せて明るい彼らしくない表情で悩んでいた実鏡は、家老達、恒誠、光姫の顔を見回して、かすれた声で言った。
「追放しましょう」
「本当によいのか?」
恒誠に穏やかな声で確認されて、実鏡は頷いた。
「確かにこの人のしたことは許されません。でも、この人もこの城の仲間の一人で、豊梨家の家臣です。僕は仲間を殺したくありません」
実鏡も頭では恒誠の言葉の方が正しいと思ったようだが、十四歳の少年に人一人を処刑する決断を迫るのは酷だった。しかもそこへ、信頼し尊敬する従姉が魅力的な別案を出している。その誘惑は強烈だったのだ。
「分かった。そう言うならそうしよう」
家老達は顔を見合わせて頷いた。福子はさすがに黙っていられなくなって主君に考え直すように言おうとしたが、惟延が小さく首を振ると諦めた。
恒誠が斉末に言った。
「このお二人が殺すなと言うから逃がしてやる。深く感謝するのだな。お前が捕まったらこの城の数万人が死ぬことになるかも知れない。それを肝に銘じて、決して見付からないようにしろ。城から出たら、東へ歩け。都へ行けば、その後の身の振り方も決められるだろう」
「ありがとうございます」
斉末は命が助かったと知ってへたり込んだが慌てて平伏した。
「逃がすのは夜になってからだ。それまで牢に閉じ込めておけ。本来なら着の身着のままで放り出すところだが、この周辺でうろうろされては困る。路銀として十両を与えよう。実鏡殿、よいな」
少年封主が承認すると、家老の命令で若者は連行されていった。
光姫は処刑を避けられたことを喜ぶべきだと思ったが、とてもそんな気分ではなかった。実鏡に謝ろうとすると、恒誠が「よせ」と言った。
「それはしてはいけない」
実鏡はやや硬い顔で微笑んだ。
「そんなに気にしないで下さい。これでよかったのだと思います。これは僕の仕事ですから、恒誠殿に判断を任せるわけにはいきません」
光姫は返す言葉がなく、うつむいた。
やがて、人が散っていき、実鏡も恒誠や家老達と去っていった。光姫も従寿とお牧に促されて、厨房へ戻った。
女房達に塩の袋と味噌の樽を渡すと三人は福子と別れ、光姫軍が任された投石用の石集めの様子を見に河原へ行った。光姫は早速自分も手頃な石を拾ったり、落ちている矢尻や鉄砲の玉を探したりし始めたが、先程の裁きが思い出されて集中できなかった。なぜだか分からないが、自分は非常に間違ったことをしてしまったのではないかという後悔に似た焦りに襲われて、冷汗が吹き出そうだったのだ。
結局、その日が暮れるまで、光姫の心を覆う不安は晴れることがなかった。
影岡に到着した翌日の十九日の朝、華姫は禎傑と一緒に影岡城を見に行った。
「あの崖を登らなくてはいけないのね。しかも硫黄をまかれるのでは、城壁を超えて突入させるのは無理ね」
「頑烈達が苦戦したのも分かるな」
禎傑も聞きしにまさる攻めにくい城であると確認し、涼霊が力攻めを諦めたことに納得したらしかった。
「あの城を落とすには、何らかの方法で崖を登らずに城内へ兵士を送り込む必要があるわね」
暴波路兵を率いて警護していたサタルが言った。
「下から穴を掘ってはどうでしょうか。鉱山を脱出する時も掘りました。そういう作業なら皆得意です」
「悪くない考えね。けれど、今から掘っていては時間がかかり過ぎるから、既にある穴を利用した方がいいわ」
「となると、やはり抜け穴を探す必要があるな」
「そうね。城の詳しい構造が知りたいわ。どこか高いところから城内の様子を眺められないかしら」
華姫は本陣へ戻ると、田美衆一千を連れて影岡の町へ行き、布告を出した。影岡城のまだ知られていない情報を持ってきた者には、金百両を与える。そう書いた紙を、町のあちらこちらに貼らせ、村々にも掲示させた。そして、地元の有力者や長老達を集め、抜け穴の出口を知っているか、全ての洞窟の場所を記した地図はないかと尋ねたが、彼等は顔を見合わせると、そろって首を振った。それは予想通りだったので、華姫は諦めず、田美衆からの知らせを待った。
その結果、その日の深夜に町で怪しい若い男が捕らえられた。遊女の館で騒ぎを起こした男を取り調べたところ、抜け穴のことを知っている、全て話すから放免して欲しいと言ったらしい。華姫は報告を受けるとその男を本陣に連れてこさせ、自ら尋問した。
両手を前で縛られた岸馬斉末は暴波路兵に囲まれて不安そうにしていたが、華姫が現れると美貌に目を見張り、急に好色そうな顔つきになった。華姫は内心軽蔑を感じたが顔には出さず、やさしい口調で話しかけた。
「あなたは影岡城の抜け穴を知っていると言ったそうだけど、その場所を教えてくれないかしら」
斉末は華姫の顔や体を無遠慮にじろじろ眺めていたが、急に警戒する表情になった。
「教えてもいいが、本当に百両くれるんだろうな」
華姫の視線を受けて景隣が懐から小判の束を取り出し、そばの机に置いた。斉末は欲丸出しの顔でそれを眺め、華姫に説明した。
「俺は日が暮れてすぐにあの城を出てきた。目隠しされて連れ出されたから詳しくは分からないが、出口は城の南東だったぜ。真っ直ぐ日の上る方へ歩いたら海岸に出たんだ。それで、逆の方へ来ちまったと思って、北へ向かって御涙川を渡り、町へ行った」
「なぜ影岡に行ったの?」
「あそこに馴染みの女がいるんだよ。半年前に無理矢理別れさせられたんだ。久しぶりに会いに行ってやったってのに、城を抜け出してきたって言ったら塩なんかまきやがって。腹が立ったから数発殴ってやったぜ。二度と行くもんかよ」
「どうして城を出てきたの」
「それは、まあ、その、ちょっとごたごたがあって……。いや、俺は悪くねえんだよ。あの女、うれしそうに酒を受け取ってたくせに、ちょっと手を出そうとしたら大声上げやがって。そしたら、あの城の連中は俺を死刑にしろって言いやがるんだ。光姫様と実鏡様だけが俺がだまされたことを分かってくれて、逃がしてくれたんだよ」
「この男、評判の放蕩者のようです。懐には十両の金がありました」
景隣が耳元でささやいた。華姫は大体の事情を察して一層斉末を軽蔑した。この男を利用したら妹は困るだろう。だが、もたらした情報には大きな価値があった。
「あなたが放たれた場所へ案内できる?」
華姫の問いに斉末は頷いた。
「まっすぐ行ったら遠吠ヶ浜へ出たんだ。冬になると多くの狼が日向ぼっこに集まる岩だらけの砂浜があるんだが、そこまですぐの場所だったぜ。連れてきたやつらは反対の方向へ戻っていったよ。穴を出てからかなり歩かされたが、ずっと下りだった。頭を下げなくても出られたから穴は結構大きいはずだ。中はあんまり音が響かなくて、足元はそんなに悪くなかったぜ」
「ありがとう。貴重な情報だわ。お礼の百両はもちろん渡すわ。その浜辺まで案内してくれれば、もう百両あげましょう」
「本当か!」
斉末は目を輝かせた。
「それだけありゃあ、玉都の店で一月は遊べるな。よし、いいぜ。その役目、引き受けた」
「では、これからそこまで一緒に行きましょう」
「これから?」
斉末は驚いたが、華姫は頷いた。
「今夜の内に網を張るのよ。道々、お城のことをいろいろ聞かせてくれないかしら。例えば、城内では水はどうやって得ているの。井戸があるのかしら」
「温泉が湧いてんだよ」
「まあ。では、水は豊富なのね。でも、それだとどんどんあふれてくるのではないかしら。どうやって捨てているの?」
「汚れた水や余りは城の裏手の水路から川に流してるぜ。城壁に小さな穴があるんだ」
「ということは西側ね」
「そうだ。西の城壁の行き止まりのとこだよ」
「兵糧庫はどこにあるの?」
「倉はあちこちに分散してるが、主に中郭にあるな。食料の入ってるやつで大きいのは西の端の厨房のそばと東の奥だ」
「お城の地図を書けるかしら。抜け穴の入口がどこにあるか知りたいの。それから、城内の正確な武者の数と小荷駄隊や職人や女衆の人数、あなたの知る限りの豊梨家の家臣と他家の人達の名前や地位を教えて頂戴」
こういった会話を交わしながら、華姫はその浜辺まで斉末と一緒に行き、暴波路兵を周辺の森に散らばらせて身をひそませた。
翌二十日の朝、華姫は政資達と共に再び斉末を連れて遠吠ヶ浜へ行き、彼の案内で森に入った。
暴波路兵の報告によると、昨夜灯りを持った数人の男が森の奥から現れて、北へ去っていったそうだ。もっと南の方に隠れていた者達は見ていないというので、確かにこの近くに出口があるのだ。華姫が禎傑に頼んで御涙川の岸に兵を出して城と川を見張らせ、秘密の使者が大手門から出入りしにくくさせた効果があったようだった。
ゆるやかな坂を上っていくと、どんどん森が濃くなっていく。どこかで狼達の吼える声がしていた。彼等はこの森の番人で近付く者を警戒しているが、完全武装した政資や景隣達家臣八人と槍や弓を持った百名の暴波路兵の前には、さすがに姿を見せなかった。
斉末が放たれた場所まで行き、家臣達に周囲を探させると、さほど遠くない場所に大きな洞窟が五つ見付かった。だが、どれが抜け穴の出口かは分からないという。周囲に足跡など人が出入りした痕跡はなかったらしい。
華姫は景隣達に護衛されながら洞窟の一つに近付いてみた。この辺りは仰雲大社の禁域に近く、ほとんど人が来ないらしい。大きな木が鬱蒼と茂って空を隠し、どこからか小川の流れる音や、木の葉から滴の垂れる音、木々をそよがせる風の音が聞こえてくる。
華姫は考えた。
「きっと、目印があると思うの。その五つの洞窟の内一つだけ、どこかが違うはずなのよ」
「目印ですか。どこにも案内板のようなものはありません。道もわざと作っていないようです」
足元はあまり草がないが、足跡や踏み固められた場所は見当たらない。
「でも、夜に出入りしているということは、恐らく暗くても分かる何かがあるんだわ」
「また『ともしびだけ』でしょうか。二つの洞窟には『ひかりごけ』が生えていたそうですが」
「それだと誰でも見付けられるし、中に入らないと分からないわ。近くまできて、ここだと分かる何かがあるのよ」
景隣は考えようとしたが、すぐにやめた。
「私には分かりかねます」
「そうかしら。耳を澄ませてみて」
景隣は目をつむり、首を振った。
「やはり分かりません」
「よく聞いて。同じ音が繰り返されているでしょう」
「音と言っても、小川のせせらぎや滴の垂れる音、風の音しかしませんが」
「多分、その音よ」
華姫は様山和尹達家臣四人を暴波路兵一人と組ませて、他の穴へ向かわせた。
やがて戻ってきた彼等の報告は全て同じだった。
「どの洞窟でも華姫様のおっしゃった音は聞こえませんでした。この近くでだけ、水の音が致します」
「やっぱりそうね」
華姫は頷いた。
「この穴だけ、中を川が流れているんだわ。あなた、川の中を歩かなかった?」
斉末はそう言えばという顔をした。
「確かに少しだけ水の中を歩いたぜ。そんなに深くはなかったはずだ」
華姫は景隣達を連れて洞窟へ近付いた。中から小川が流れ出ていた。奥へ入るには水の中を進むしかない。出口のすぐ手前に段差があって、ごく小さな滝があった。
「城兵は小川の中を歩いて出入りしているのよ。だから、足跡が見付からないんだわ」
華姫は家臣の一人に水の中を歩いて流れの先を見に行かせた。家臣はすぐに戻ってきて、さほど遠くないところに階段のようになった岩場があり、その先にかすかに馬蹄の跡と踏み固められた地面が残っていたと報告した。
「四千人と馬二千匹が出ていったのだもの。痕跡は必ず残るわ。でも、川の底なら普通は分からないわね」
華姫はこの洞窟だと確信すると、すぐにその場を離れた。
「私達が気付いたことを知られてはいけないわ。遠くから見張らせるだけにして、他の人は引き揚げさせましょう」
暴波路兵を五名だけ残し、一行は森を離れた。それを追うように再び狼の声がした。華姫は森の奥を幾度も振り返ってその声に耳を傾け、何かを考えていた。
御涙川までくると、華姫は景隣達に次は城の裏手へ行きたいと頼んだ。
「お城をもう一度眺めたいの。それに、少し思い付いたことがあるわ。光子は銀炎丸を戦いで使ったのよね。ならば、私は鴉を使えないかと思うのよ」
「鴉ですか……?」
景隣は首を傾げたが、華姫を信じている様子で言った。
「分かりました。では、ここでお別れ致しましょう。私はこの男を追放してきます。お城には早頭様とおいで下さい」
景隣は珍しく華姫のそばをしばらく離れる許可を求めた。
「この男にいつまでもこの国でうろうろされては、我々の作戦に気付かれるかも知れません。河口の港へ一緒に行き、どこへ向かうのかを確かめます」
「都へ行くに決まってんだろ」
斉末は言ったが、景隣は信用できないらしい。華姫は景隣の顔をじっと見た。
「私はお金を与えて逃がすと約束したのよ。忘れないでね」
「承知しております。都行きの船に乗せたら二百両を渡して戻って参ります」
「分かったわ。本陣で会いましょう」
華姫は他の家臣や暴波路兵を連れて去っていった。
景隣は斉末と一緒に反対の方向へ歩き出したが、しばらく進むと、急に男の腕をつかんだ。
「こっちへ来い」
「どこへ行くんだ。おい、そっちは森だぞ」
景隣は川沿いの森の奥へ斉末を引っ張り込み、突き飛ばして転ばすと、刀を抜いた。
「お前は生かしておけない。ここで死ね」
「な、何でだ! 俺はちゃんと話したろうが!」
斉末は慌てて逃げ出そうとしたが、景隣は這うようにする横腹へ蹴りを入れ、苦しがる頭上に刀を突き付けた。
「お前は同じ城にいた者達を裏切った。裏切り者は殺す」
「お前達だって、国を裏切ったじゃねえか!」
「お前のようなやつと一緒にするな! 華姫様がどんなお気持ちで恵国軍へお味方なさる決意をされたと思っている!」
叫んで景隣は刀を振り上げた。
「お前にはどうせ分かるまい。だから、仲間を売るようなまねができたのだろう。吼狼国人として、お前だけは許すわけにはいかない!」
きらりと一瞬の光の筋を残して刀は振り下ろされ、男が思わずかばった顔ではなく、腹を斜めに切り裂いた。斉末が苦痛のうめきを上げて両手で傷口を押さえると、景隣は返した刃でその首筋を切ってとどめを刺し、刀をぬぐって鞘に納めた。
「こいつの情報は確かに役に立った。だが、光姫様がお逃がしになった者を利用なさったことに、華姫様は苦しまれるだろう。あの城には梅枝家の者が大勢いる。俺は彼等と戦わねばならないが、光姫様のおやさしさが分からないこんなやつのせいであの城が落ちるのかと思うと、とても腹が立つ」
そうつぶやくと、景隣は道を戻っていった。
夕刻、本陣へ帰ってきた華姫は、建物の入口で出迎えた景隣に廊下を歩きながら尋ねた。
「上手く船に乗せられた?」
「はい。間違いなくあちらへ送り出してやりました」
華姫は立ち止まって振り向いたが、小さく溜め息を吐き、何も言わずに部屋に向かった。景隣はその背に深々と頭を下げると、すぐに後を追った。
次の日、恵国軍三万が影岡城の前に現れた。半数は対岸に陣を張り、残りが東へ移動して乱杭のない場所で川を渡った。城内の者達は緊張したが、黒い鎧の群れは森を通って城を迂回し、裏手へ向かった。
恵国軍一万五千が停止したのは神雲山の裾野の端で、周囲より高くなった低い尾根の上だった。尾根は真っ直ぐ北へ伸び、先端が急に盛り上がって影岡城のある丘になっている。つまり、城の真裏、正門の反対側に出たのだ。恵国兵はそこに堅固な陣を布くと、影岡軍の出撃を警戒しながら付近の木を伐り始めた。尾根の上に長方形に木のない場所を作っているようだった。
光姫達は始め大砲を設置しようとしているのかと思ったが、そうではないらしいと分かった。砲架を組んでいる様子がなかったからだ。何をしているのか不安だったが、城を出て様子を見に行ったり襲撃したりするのは難しかった。敵は城兵の総数より多いし、出撃すれば城の守りが手薄になる。結局、光姫達は物見櫓から見張らせて警戒することしかできなかった。恒誠は夕刻武将級の者達を集めて、明日敵が攻めてくる可能性があると告げ、よく休んで戦闘に備えるよう武者達に通達した。
楢間惟鎮と餅分具総を都へ派遣して明日で四日目、巍山軍はまだ来ないだろう。義勇民を十人ほど城外に出して合図ののろしを用意させているので、援軍が接近すればすぐに分かるはずだ。斉末を逃がした夜を最後に連絡役の出入りを禁じていて、外部の情報が入ってこないのがもどかしかった。恵国軍が御涙川の周辺を警戒している上、華姫の出した布告からすると抜け穴を探している可能性があるからだが、孤立したままひたすら待ち続けるのはつらかった。
敵の攻撃が再開されそうな様子に皆の不安は高まったが、騒いでも意味がない。光姫達は何度も城内を回って武者達に声をかけ、武器の整備と製作や数と置き場所の確認、城壁に組んだ足場やその上に並べた盾の補強などを割り当てて、手を動かすことで彼等の気持ちを紛らわせようとしていた。
そうして、翌蓮月二十二日、とうとう恵国軍は攻撃を開始した。
日が上った直後、川の向こう側に多数の恵国兵が現れた。これまでの戦いの数倍はいる。総勢八万と聞く大軍が全力を挙げて城を攻めにきたのだ。
川岸に整然と並んだ恵国兵達は、隊列の間に不思議なものを置いていた。丸太を長四角に並べて釘で止めた小さな筏のようなもので、片方の端に太い丸太の脚を直角に三本付けて横木を渡し、それぞれの脚の上部を倒れぬように支柱で三角形に補強してある。まるで、長い机を真っ二つに切ったような形だが、水に浮かして渡河するには小さい。
光姫達はどう使うのかと首を傾げたが、答えはすぐに分かった。本陣と思われる場所で激しく銅鑼が鳴ったのだ。黒い兵士達はその音に合わせて大声で鬨の声を三回上げ、その大きさで城兵を震え上がらせると、半分の机を二十人ずつで担ぎ上げて、橋の川上側の河原へ下りてきた。
水際まで行くと、彼等はそれを立て、脚を下にして川の中へ倒した。脚のない方が岸辺に残り、ある方が水に落ちて短い桟橋ができた。その隣りに次々に別な半机が投げ込まれ、光姫が燃やした橋の五倍の幅になった。
第一陣が下がると、第二陣が前に出た。今度はその桟橋の先端に行って、半机を投げ込んだ。脚のある側は水中へ沈め、ない側は桟橋に乗せる。それを繰り返して、あっという間に川に橋を架けてしまった。動く壁や八本足の盾と似ているので、考案したのは涼霊だろう。
橋ができると、兵士達は部隊ごとに川を渡ってきた。一度に大勢が乗ると危ないので少しずつ橋に入ってくる。数のあまりの多さに、対岸を埋め尽くす黒い影はなかなか減らないのにこちらの岸にはどんどん隊列ができて、続々と広場へと進んできた。多くの兵士がはしごを持っているので崖を登るつもりらしい。城内各所に硫黄を用意してあるが、またあの惨劇を繰り返すことになるのかという恐ろしさと、これほどの数の敵を追い払えるのかという疑念とで、武者達は既に顔が青かった。
その中で、唯一冷静そうに見えた恒誠は、物見櫓の上で川岸の敵兵を見てつぶやいた。
「あれは何をしているのだ」
指差した方を光姫が見ると、橋の川下側で、恵国兵が両岸に多数の木の杭を打ち込んでいる。
「何かをつなぐ気らしい。だが、橋は渡したはずだ。何が目的なのか」
思案するように寄せられた眉は、ほどなくして驚きと共に開かれた。川下から紫の梅紋の旗を掲げた小型の軍船が四隻曳かれてきたのだ。底の平らな船にたくさんの綱をつなぎ、両岸の多数の兵士が引っ張っている。
「やられた」
恒誠が唸った理由は船の上にあった。全ての軍船の甲板には、大砲二門が設置されていたのだ。橋のすぐそばまで曳かれてきた船は、綱を両岸に打った杭に結んで固定された。すると、河原にいた恵国兵が川に入って船にはしごをかけ、次々に土を入れた麻袋を運び込んでいく。着底させて安定させるつもりなのだ。
「材料を運びこんで作るのではなく、作ったものを運んできたのか。川があるのだから当然の作戦だ。予想しておくべきだった」
「予想できても対策はなかったと思います」
光姫は慰め、実鏡も頷いたが、恒誠の顔は晴れなかった。
「水中の乱杭を増やせばよかったのだ。それだけで船を曳いてきたり沈めたりしにくくなったろう。敵が作ったあの橋も、川底を浚っておけば難しかったはずだ」
その広い橋の上を、敵の攻城機の部品が運ばれてくる。広場の端へ運んで組み立てているのだ。車輪の付いた塔のようなもので、はしごの一番上には狭い籠があって、前と横を囲う板に開いた狭間から四人が鉄砲を撃つらしい。
攻城塔は全部で二十あった。左右のこぶに十ずつだ。例の動く壁と八本足の盾も多数向かってくる。正面を攻めてくる敵だけで三万はいそうだった。西側と東側にも一万ほどが回っている。裏手の南側には陣地を作っていた一万五千がいる。この三方への攻撃は硫黄があるため城兵を引き付けるのが目的だろうが、もし武者を減らして手薄にしたら、はしごをかけて突入してくるに違いない。
「どうやら敵は本気のようだ。だが、この城は難攻不落だ。追い払って、どんな大軍でも落とせないことを天下に示してやろう」
恒誠がわざと自信たっぷりの様子で言うと、光姫は何とか顔に笑みを浮かべて返事をした。
「はい。絶対に負けません。追い返してやります」
輝隆が言った。
「今日も勝ちましょう!」
師隆と貞備が続いた。
「そうです。今日も、これからもです」
「我々の勇気と結束を見せてやりましょう」
憲之と宗明も笑った。
「俺達は戦うためにここに来たんだ」
「相手にとって不足なしですね」
緊張した様子の実鏡が皆を見回して、戦闘開始を宣言した。
「では、今日の戦いを始めましょう。皆の武運と無事を祈ります」
「はっ!」
総大将にそろって頭を下げると彼等は櫓を下りて行き、光姫も具総と輝隆を連れて右のこぶへ向かった。
やがて、恵国軍の総攻撃が開始された。
最初に城に襲いかかったのは砲撃の嵐だった。川底に固定された四隻の軍船から、それぞれ二門ずつの大砲が鉛の砲弾を次々に放り込んでくる。左右のこぶは大手門より前に突き出ているため、川の上からでも中まで弾が届くのだ。
しかも、川に架けられた仮設の橋を越えて小型の人力式投石機が運び込まれていた。これは大型のものほど飛距離が出ないが、軽量で車輪付のため、城へ向かって前進させることができる。前回の戦いで燃えた逆茂木の残骸を兵士の群が取り除いて道ができると、そこを通って近付いてきた十台が配置に付き、砲撃は一層激しくなった。この機械は構造が単純なので連射しやすいのだ。
今回の砲撃の目的は防御幕の破壊ではないので細かなねらいは必要ない。とにかくどんどん投げ込んで城内をかき乱し、城へ接近する仲間を助けようとしている。中には煙を発生する爆鉄弾もあり、こぶを白煙で覆って視界や命令の伝達を悪くさせた。城内の五台も反撃するが、飛んでいく玉の数には四倍近い差があり、明らかに押されていた。
その上、涼霊は新しい武器を用意していた。火箭と言って、先端のとがった円い竹筒に小さな羽を四つ付け、中に火薬を詰めて長い棒を後ろに伸ばしたもので、火を付けると炎を噴き出しながら高速で飛んでいき、落下地点で爆発する。ねらった場所に飛ばすのは無理で、せいぜい前方のどこか程度の制御しかできないが、広場のやや離れたところからでも城内へ射ち込むことができる。また、発射手順が簡単で、城に向けて斜めに竹筒に差して火を付けるだけなので、誰でも扱えて連射できる。この武器がひゅるひゅると音を立てて城壁を越えてくると、武者達は持ち場を離れて逃げ回らなければならなかった。
このように、敵の砲弾に怯えながら各所で発生する火災に対処していると、攻城塔が近付いてきた。左右のこぶの武者達に対して、城壁より高いところから銃撃が浴びせられ始めた。崖下の空堀には動く壁や八本足の盾が数十も押し寄せてくる。これだけ敵が多いとその攻撃に圧倒されて城内からの反撃がしにくく、影岡軍はかつてない苦戦を強いられた。
もちろん、東の森と西の河原と南の尾根にも敵は現れて、盾を並べて鉄砲を射かけ、隙あらば接近してはしごを立てかけようとねらっている。影岡軍は崖に硫黄を振りまいて黄色くし、登ろうとしたら火を付けると脅して接近させないようにするなど各方面で必死に防戦したが、敵に切り込む機会を与えないだけで精一杯の状況だった。
そうして激戦が始まって二刻ほど、そろそろ朝が終わろうという頃、華姫の策が発動した。
「あれは何だ?」
右のこぶで戦闘の指揮をとっている光姫のそばで、武者の一人が上を指差した。白く輝く大きなものが城の上空に浮かんでいる。
「鴉?」
光姫の言葉に、従寿が口をぽかんと開けたまま頷いた。
「そのようですね」
輝隆が訂正した。
「正確には、白い鴉の形をした大きな凧ですね」
「なぜ、あんなものが空に?」
光姫が尋ねると、その答えが城内に轟き渡った。上郭の辺りで大きな爆発が起こったのだ。
「まさか、あそこから爆鉄弾を投げ落としたの?」
光姫は凧を見上げてびっくりし、すぐに軍師が上郭にいることを思い出した。
「恒誠さんは大丈夫かしら」
この言葉に周囲の武者達がぎょっとした顔をしたので、輝隆が急いで言った。
「無事だと思います。今落ちたのは上郭でも東の端の方です。物見櫓ではありません」
「そうね。そうだったわ。恒誠さんに影響はないわね」
光姫もすぐに輝隆に調子を合わせた。恒誠は影岡城の人々の心の支えだ。彼を失ったら戦意は急激に低下するだろう。
「でも、あんなところから一点をねらえるものなのかしら」
凧はかなり上空にある。その下に四角い箱が付いていて人の姿が見える。左右の翼の後ろに白く細長い紙をたなびかせた凧は、神雲山からの風を受けて悠々と飛んでいた。
と、また何かが投下された。晴天の日光を反射してきらりと光りながら高速で落下してきた黒い物体は、今度は中郭に落ちた。この前光姫が斉末を捕まえた辺りだろう。爆発音が響き、多数の男女の悲鳴が聞こえた。「早く火を消せ!」と叫んでいるので、小さな火災が起こったらしい。更に、同じ付近で三度目、四度目の爆発が起きた。
「ねらいは東側の兵糧庫のようですが、これはぞっとしますね。武者達も不安そうです」
輝隆がささやいた。光姫も同感だった。爆鉄弾がいつ頭上に落ちてくるか分からないのでは目の前の敵に集中できない。投石機や大砲も恐ろしいが、前方から飛んでくるだけまだましだ。どの辺に当たるか見当が付くし、爆発や衝撃に対する備えや気持ちの用意ができる。だが、後方でいきなりこんな轟音や悲鳴が起こっては、心臓が跳ね上がる。
戦は恐ろしい。死ぬのは嫌だ。武者達は逃げ出したいのを必死でこらえて戦っている。だが、不意に驚かされると覚悟が間に合わず、我慢が切れそうになる。
恐らく、凧による攻撃の実害は小さいだろう。万一兵糧庫に直撃しても、各倉の屋根は鉄板を貼った木の厚い板を瓦の上に敷いてあるため、突き抜けて中に落ちる心配はあまりない。小荷駄隊や男衆がいるので、多少炎が上がっても倉全体に回る前に消せるはずだ。だが、この恐怖感だけはどうにも対処が難しかった。光姫でさえ怖いと思う。これまで何度も敵の背後や側面を奇襲してきたが、今更ながら敵の気持ちがよく理解できた。
「これはきっとお姉様が考えた攻撃法だわ」
証拠はないが、光姫は確信していた。初代宗皇夫妻を助けた伝説の白い鴉に吼狼国人が抱く畏怖を、恵国人が理解できるとは思えない。華姫達が到着する前日の夜の合戦でも敵軍師涼霊が大砲で武者達を驚かしたが、華姫は矢の届かないところに鴉を悠々と飛ばして見せ付けることで、更に効果的に城内の者達の心を攻めようとしているのだ。きっと、狼を連れた妹への挑戦状だろうと、光姫は改めて姉の恐ろしさを思い知らされた気持ちがした。
「姫様、鴉が増えていきます」
空を見上げると、白い鴉が三羽になっている。ぶつかったり綱が絡んだりせぬように距離を置いて飛ばしているが、まだ二つ三つは上げられそうなので、もっと多くなるかも知れない。鴉に姉が乗り移って自分を空から見下ろしているような錯覚を覚えながら、光姫は自分と武者達を大声で励まして、前方の敵に集中させた。
こうして、影岡城では激戦が続いたが、それでも恵国軍は城内に切り込む隙を見付けられなかった。禎傑は川を渡って広場の北の端まで前進し、時々城内から飛んでくる大焙烙玉にも顔色を変えずに戦況を見守っていたが、影岡軍に対する称讃の言葉を口にした。
「敵もなかなかやるな。さすがに我が軍の攻撃を何度も跳ね返してきただけのことはある」
味方の苦戦を禎傑は楽しんでいた。歯応えのある敵に出会えてうれしいらしい。実は自分で兵士を率いて門を攻めたいと言ったのだが、将軍全員に反対されたのだ。
「このままではこの城は落ちんな。敵の軍師はよくやっている。もう目新しい策はないようだが、あの幕と硫黄は我が軍を十分に防いでいる」
防御幕があるから門を砲撃できない。硫黄のせいで崖に近付けない。そのために、いまだにこの城を落とせないでいるのだ。
今の攻め方を続けても切り込むことはかなり難しい。無理に突入すれば恵国軍は大きな損害を出すだろう。城の内外の誰もがそう思ったし、禎傑も同意見だった。が、彼は余裕の笑みを浮かべていた。敵の軍師は一人だ。一方、禎傑には軍師が二人いたのだ。
「そろそろいいか」
司令官は城へ目を向けたまま尋ねた。
「頃合いかと存じます」
涼霊は右やや後方の定位置で、禎傑の背を覆う赤い垂れ布に向かって答えた。その左にいた華姫も頷いた。
「影岡軍はもう担当場所の守備で手一杯になっているはず。この状況なら、いくら織藤恒誠がすぐれた軍師でも、新たな攻撃を防ぎ切れないでしょう」
禎傑は華姫に信頼の笑みを向けると、腰の剣を抜き、敵城に向けた。
「よし。華子の第二の策を発動せよ。第三の策はその半刻後だ」
「かしこまりました」
幕僚長兼軍師は後ろを振り返って命じた。
「合図を」
「はっ!」
隊長の指示で二十個の銅鑼が一斉に鳴り始めた。その耳をふさぎたくなるほど大きな音が戦場に響き渡ると、城の周囲の鬨の声と銃声が急に激しくなった。それらの音は交じり合い、大きなうねりとなって戦場全体を覆った。
が、それは突如轟いた巨大な爆発音によって吹き飛ばされた。大爆鉄弾を二十個も同時に破裂させたようなその大音響は、城の後方、南西の隅から聞こえてきた。恵国軍の攻撃が第二段階に入ったのだった。
その頃、恒誠は物見櫓の上で戦況を眺めながら首を傾げていた。
「おかしい」
軍師はつぶやいて、友人に尋ねた。
「安漣、何か敵の変化に気付かないか」
「変化とはどういうものですか」
若い家老は問い返した。
「私には敵は休みなく猛攻を仕掛けてきているようにしか見えませんが」
「その通りだ。だからおかしいのだ」
恒誠は安漣に説明した。
「攻撃は確かに激しい。だが、こういう攻め方を続けていてもこの城は落ちない。それは敵も分かっているはずだ」
「そういうことですか」
安漣は理解した顔をした。
「つまり、敵は何か策を用意しているのではないか、ということですね」
恒誠は上空の鴉に目を向けて頷いた。
「そうだ。砲撃は間断なく続き、こぶや周囲の城壁へ激しい銃撃が続けられている。だが、崖を登り、壁を越えて切り込んでは来ない。敵は何かを待っているのではないか。猛攻の陰で何かを準備しているような気がしてならない。どうも嫌な予感がする」
「私にはそうは思えません。敵は本気で攻めてきていると思いますよ。見せかけだけの攻撃とか、注意を引き付けるという感じではありません」
安漣が答えると、恒誠は考え込んだ。
「注意を引き付ける、か。それはあり得るな。防戦で忙しくさせて他のことを考えられなくさせるわけか。だとしたら、どこから目を逸らしたいのだ。敵の動きに不自然さはないか」
そうつぶやいて恒誠は周囲を見回し、西側の河原へ目を向けて止まった。
「そう言えば、西の城壁への攻撃が北に片寄っているな。こぶに近い方を主に攻めている。裏手の南側は敵兵が東寄りに集中している。こちらの武者もその辺りに集まって戦っている。その反対側、南西にあるものは……排水口か!」
恒誠が目を見開いた瞬間、巨大な爆発音が轟いた。
「何事だ?」
安漣が辺りを見回して、城の南西の隅で視線を止めた。下郭の西側の端、中郭との境の壁にぶつかる行き止まりの場所で、黒煙がもうもうと上がっていた。
「しまった!」
恒誠が顔色を変えた。
「城壁に開いた穴を見付けられたか。あそこを爆破されたら、敵が中に侵入してくるぞ!」
「以前あなたが修復しろと指摘していた場所ですか!」
安漣も青くなっている。恒誠は舌打ちした。
「だからあそこは塞げと言ったのだ! 敵兵は森に隠れて密かに近付いていたようだな」
恵国語の大きな鬨の声が爆発のあった辺りから聞こえ、鉄砲の音や武者達の慌てふためいた叫び声が響いている。
恒誠は安漣に命じた。
「予備隊の織藤勢他一千の全てを率いて中門へ向かえ。あそこを押さえられたら下郭と中郭の連絡が絶たれる。決して門に近付かせるな!」
恒誠は早口に指示を伝えた。
「盾を並べて壁を作り、守りを固めて敵の前進を阻め。追い出すのは慌てなくてよい。敵の占領場所が狭ければ、多くの兵は入れない。いずれ撤退せざるを得なくなる」
「分かりました!」
櫓から駆け下りていく友人から目を戻した恒誠は、西側の状況を確認していたが、ほっとした顔になった。
「よし。何とか食い止めているな。中門や大手門の方へ進むのは阻止できている。敵の突入が全体の守備に影響を及ぼすのは避けられた。だが、これが敵の奥の手なのか。確かにあそこから中に入られると困るが、それだけでこの城を制圧できたり、大手門を開けたりはできない。それは敵も分かるはずだ」
腕組みして考えながら恒誠は空を見上げた。
「あの鴉がどうにも引っかかる。排水口に接近する敵に気付かなかったのは、あれに注意を引き付けられていたからだ。目の前に敵、上に鴉では、他に目がいかなくなるのは当然だ。だが、あの鴉はまだ上がっている。しかも、先程は東側の兵糧庫を攻撃していたのに、今は突入部隊を支援するように、西側に集まって中門の辺りに爆鉄弾を投げている。もしこれもまた注意を引くための行動だとすれば、敵の策は他にもあり、単純に考えれば東側ということになるが。……まさか」
恒誠がはっとした時、先程とは逆の方角、つまり下郭の東側の行き止まり、秘密の抜け穴の出口になっている倉庫の辺りで大きな鬨の声が上がった。排水口付近のそれに数倍する爆発的な黒い兵士達の雄叫びで敵の策を悟った恒誠は、今度こそ蒼白になったのだった。
下郭の東西の端から城内に進入されたことで、影岡軍は窮地に追い込まれた。
華姫の第二の策、つまり排水口から侵入する部隊の三千を率いていたのは馬策だった。裏の尾根に上った一万五千の内、凧上げ担当と中郭へつながる南側の城壁の攻撃役は合わせて一万二千で、残りは森の中に隠れて禎傑の合図を待っていたのだ。小柄な者を集めて編成されたこの三千は、銅鑼が鳴らされて城を取り囲む恵国軍の攻撃が激しくなると、城兵の意識がそちらへ引き付けられている間に城の南西の端へ密かに接近し、城壁を爆破して穴を開けたのだ。
城内で使われて汚れた温泉の水は、排水路を通って御涙川へ流されている。そのために下郭の西側の端の城壁に四角い穴があり、崖には細い水路が刻まれていた。穴は築城時はごく小さかったが、平和な時代に中郭の厨房のごみを外へ出すために使われるようになり、木の桶を吊り下げたり中を掃除したりできるように小柄な大人なら入れるほどの大きさになっていた。馬策隊は森に隠れて接近し、はしごを登って穴に入ると、爆薬を仕掛けたのだ。
また、恒誠が推測したように、華姫が凧を上げさせたのは第二第三の策に気付かせぬためだった。
「攻撃されれば誰でも敵の方へ目を向けざるを得ないわ。まして、初めて見る戦法を相手が取れば、たとえ大して効果のないものに思われても、必ずそれに気を取られる。戦場では予想外のことが起こるのが一番怖いもの。無視してもよいと納得できるまで、気持ちはそちらに向くわ。その間に私達は敵に近付くのよ」
排水口の入口にはめてあった鉄の格子は爆発で吹き飛んで折れ曲がり、小柄な兵士なら鎧を着ていても無理をすれば通れるほどに穴は広がっていた。馬策は比較的細身なのでこの役目を任されたのだが、敵城一番乗りの名誉に張り切っていた。
「光姫はどこだ! 俺達を散々虚仮にした報いをくれてやる。おい、お前達、行くぞ! 前進!」
馬策隊は次々に城内へ入り込むと、穴をくぐれるように三分割した槍を組み立て、鉄砲や小さな盾を構えて、中郭と下郭を結ぶ中門へ向かって進んだ。西側の城壁を守っていた部隊が慌てて応戦したが、不意を突かれて対処が後手に回り、恵国軍に中門のすぐそばまで迫られた。そこへ安漣の一千が応援に駆け付け、銃弾と矢、投石と爆鉄弾の激しい応酬が始まった。
「さあ、その門を確保して敵を分断したら、一気に大手門へ向かって味方を引き込むぞ!」
半ば以上敵に聞かせるつもりで叫んだ馬策は、この作戦を考えた華姫の知謀に舌を巻きつつ、城内の全ての敵を動揺させるべく、銃声や鬨の声を盛んにさせた。
光姫は右のこぶで激しい砲撃と銃撃にひるむ味方を励ましていたが、敵兵に城内に入り込まれたと聞いてびっくりした。上の郭との連絡用に城壁を越えて垂らしてある籠に手紙を入れて縄を引き、援軍に向かおうかと申し出たが、恒誠は不要と断ってきた。既に安漣を向かわせたので、持ち場の堅守を頼むという返事に光姫は頷き、他の場所からは決して入れないわと目の前の敵に矢を浴びせつつ、西の方の戦いの音を気にしていた。
そこへ、城の裏手で大きな恵国語の鬨の声が起こった。それが右のこぶの真後ろ、つまり南東の方角だったので光姫は驚愕した。先程は西側で、今度は東側だ。しかも、その辺りには思い当る侵入口があった。まさか、と思って確認に人を向かわせると、すぐに戻ってきて報告した。
「敵は秘密の抜け穴の入口がある倉から現れました。すごい数です。五千はいます。味方はどんどん押されてこちらへ逃げてきています!」
つまり、恵国軍はあの出口の洞窟を見付けたのだ。どうやって、と疑問が湧いたが、それどころではなかった。
城の周囲をぐるりと包囲されている上、遊軍の一千は中門の守備に派遣されたため、手の空いている武者がいない。つまり、援軍は期待できず、今下郭にいる武者だけで新たな侵入者に対処しなければならないのだ。だが、敵が東側の部分を制圧すればこの右のこぶが、続いて大手門が危なくなる。看過できなかった。
光姫はすぐに指揮下の武者の半数を割いて反撃部隊を作ろうとしたが、城壁のそばの武者達は皆首を振って持ち場を離れるのは無理だと答えた。輝隆が駆けてきて言った。
「左のこぶを攻めていた攻城塔の内の五台がこちらへ向かってきます。崖下の敵も堀のぎりぎりまで接近してきました。砲撃もこの右のこぶへ集中し始めています。今、武者を引き抜かれたら持ちこたえられません!」
光姫は迷ったが、ここを落とされては意味がない。やむなく洞窟へ向かうのは諦め、東側の城壁を守っていた皆馴憲之の侠兵会と義勇民合わせて二千を撤退させてこぶに入れ、境の門を閉じた。
これでこぶにいる武者は光姫指揮下の二千と合わせて四千になったが、城壁を守り、次々に飛んでくる爆鉄弾が起こす火災に対処し、今まさに境の門を壊そうとしている城内の敵を防ぐのに十分な数とは言えなかった。
と、木が割れるめりめりという大きな音がして、境の門の扉が柱から外れて倒れ、多数の黒い兵士が姿を現した。光姫は武者達に盾を並べて弓で迎え撃たせつつ、ここを守り切るのは難しいのではないかと嫌な予感に襲われていた。
結局、その日、影岡軍は下郭を失った。
抜け穴からは一万人が侵入してきて、数で光姫隊を押し切ったのだ。倍以上の敵に接近されて多数の鉄砲で狙われては、ありったけの盾を並べても、武者達は次々に被弾して傷付き、倒れていった。光姫は自身も矢が尽きるまで必死で戦ったが、半刻もせぬ内にこぶを放棄せねばならなかった。光姫はあくまでねばろうとしたのだが、中郭から叫ぶ声がしたのだ。
「光姫様、大手門までお下がり下さい。もうそこは守り切れません。恒誠様のご命令です!」
これを聞いて武者達が助かったという顔をしたのを見て、光姫は撤退命令を出した。そして、こぶとの間の門を閉めて時間を稼ぎ、防御陣を布き直して激闘を展開したが、そこも守り切ることはできなかった。こぶの片方が制圧されたことで大手門へ向かって敵兵が次々に坂を上ってきて鉄砲を浴びせたので、門の周辺も危険になったのだ。
この時点で恒誠は下郭の放棄を決断した。右のこぶとの境の門周辺と大手門の内側に薪を積み上げ、地面にも硫黄と油をまいて火を付け、炎の道にして突入を阻むと、その間にまだ善戦していた師隆の左のこぶの部隊も含めて全員を中郭に収容した。風は後方から吹いているので敵は近付けず中郭へ引火することもなかったが、二つの門は燃えてしまった。光姫は大手門前の厩舎から馬を移動するのを手伝い、銅疾風にまたがって指揮をとった。
恵国軍は下郭を制圧すると、中郭へつながる唯一の道である中門へ攻撃を集中したが、急坂の上のこの門を影岡軍も固く守って破らせなかった。また、下郭は中郭を取り巻く形になっているので、武者達は壁に張り付き、崖や塀を登ってくる敵兵を必死で追い払った。激しい戦いが続いたが、日が赤くなり始めた頃、恵国軍は攻撃を止めて引き上げていった。
敵は城から出ていったが、大手門は焼け落ち、防御幕は竹の柱を切られて空堀に落とされていた。抜け穴の入り口を覆っていた厚い鉄製の扉も外されてしまった。どれも明日までに修復するのは不可能だった。
それでも光姫は戦う気持ちを失っていなかったが、軍議で恒誠の言葉を聞いて、勝利の望みが薄いことを悟らざるを得なかった。
「明日敵はどう出てくると思いますか」
実鏡の問いに、恒誠はこう答えたのだ。
「大軍で押し寄せてくるだろう。数で圧倒し、銃弾と砲弾の雨を降らせて中門や城壁を壊せば、あとはただの殺戮だ。死にたくなければ降伏する以外にないだろうな」
既に恵国軍から降伏勧告が届いていた。これまでの勇戦に敬意を表し、城を退去するなら追わないというのだ。
使者には様山和尹が同行していて、光姫に華姫の手紙を持ってきた。
「あなた達は罪人ではなく、故国や領地を守って戦った勇者よ。これ以上の抵抗をしなければ殺しはしないわ。この約束は必ず恵国軍に守らせるから、大人しく城を退去して頂戴。父に続いて妹まで殺したくないの」
光姫はこれは姉の本心だろうと思ったが首を振った。
「私は決して降伏しないわ。何を言っても無駄よ」
「華姫様はお悲しみになるでしょう。姉君のため、梅枝家のためにお願い致します」
和尹は懇願した。
「恵国軍を都へは行かせない。絶対に華姉様を止めてみせる。そのために私は戦っているのよ」
和尹は何とか光姫を翻意させようとしたが、不可能と悟って肩を落とした。
実鏡や恒誠や家老達ももちろん同意見だったので、使者二人は説得を断念し、最後にこう言った。
「城の囲みは解いてあります。お逃げになる方はご自由にどうぞ。これまでの勇戦に敬意を表して、追いかけたり捕縛したりは致しません。これは禎傑様のお慈悲です。ただし、落城後に助命を願っても認められるかは保証致しかねます」
そして、二人は城内の者達の憎しみのまなざしの中を帰っていった。
恒誠が降伏と言ったのはこのことだが、武将達の顔色は冴えなかった。楢間惟延が溜め息交じりに言った。
「逃げてよいという言葉には驚いたが、今更そんなことはできない。逃げるなら最初からそうしている。だが、これ以上抵抗したら殺されるだろう。武者達は生かされるかも知れんが、我々は許されまい。恵国軍には随分憎まれているはずだからな」
安漣が頷いた。
「私達は勝ち過ぎました。既に勇名は全国に轟き、恵国と果敢に戦った英雄とみなされています。きっと禎傑は、そういう者達すら許すことで寛大さを世に示し、都人の抵抗心を弱める効果をねらったのでしょうが、拒否されました。となれば、我々を殺して、影岡軍でさえ勝てなかった、抵抗する者にはこういう運命が待っている、と宣伝するでしょうね」
「だが、若殿には生き延びて頂きたい」
貞備が言った。
「豊梨家を絶やしては実護公に申し訳が立たちませぬ。今夜の内に城を落ちて頂けませぬか」
恵国軍は通告通り本陣に引き上げたので、脱出しようと思えばできた。城の武者が減ることを期待しているのだろう。光姫達も勝ち目のない戦にこれ以上巻き込めないと、城内の者を全員集めて今までの礼を述べ、軍資金を分け与えた後、好きに去るように告げた。特に小荷駄隊や女衆や職人衆は非戦闘員なので、すぐに逃げるように勧めた。だが、武将級の者達は逃げるわけにはいかなかった。
「若殿はまだお若うございます。落ち延びて新しい道を探しても誰もとがめますまい」
豊梨家の家老達は皆同意見らしかったが、実鏡は首を振った。
「僕は逃げません」
少年封主の決意は固いようだった。なぜか非常に思い詰めた様子だった。
「ここまで一緒に戦ってきた武者達を置いてどこかへなど行けません」
家老達は一斉に溜め息を吐いた。恒誠さえ、実鏡に逃げるべきだと言った。その中で、光姫一人が違う意見だった。
「私も逃げないわ」
今度は追堀親子と具総がもの言いたげな顔をした。光姫も千年以上の伝統を誇る梅枝家の跡取りなのだ。死なせるわけにはいかないと思うのだろう。武将ではない従寿とお牧もその場にいたが、二人は反対しなかった。どこまでも光姫に従うつもりらしい。
「私はお姉様と最後まで戦うわ。決して逃げ出したりしないと決めたもの」
「都へ行って国母様をお助けする道もございますぞ。脱出すれば、華姫様は見逃してくれましょう」
具総が言ったが、光姫は頷かなかった。
「お姉様の慈悲は受けないわ。私は梅枝家の当主なのよ。田美衆・殻相衆・天糸衆を率いてきた責任があるわ。それに、ここで逃げ出すような者に武者達は付いてこないでしょう。彼等を失望させたくないの」
恵国軍が引いていったのも降伏勧告も、姉の計らいだろうと光姫は思っていた。華姫は妹が天糸国へ逃げることを望んでいたので、その機会を与えてくれたのだ。涙もろい光姫はそれを思うだけ目が潤むが、決心は揺るがなかった。
お姉様は前に立ち塞がろうとした私を憎まず、あくまで生かそうとしてくれる。それは涙が出るほどうれしいわ。でも、だからこそ、私はお姉様のそのやさしさに甘えずに、正面から立ち向かわなければならないのだわ。
追掘親子や具総は光姫の覚悟を悟ると説得を諦め、すぐに顔を上げて主君に誓った。
「姫様が戦うとおっしゃるのでしたら、我等もお供致しましょう」
光姫は本当は彼等には逃げて欲しかったが、微笑んでその言葉を受け入れた。
「ありがとう。とても心強いわ」
家老達も笑みを返した。
こうして、明日は最後まで全力で戦おうと互いの覚悟を確認し合ったところで軍議は終わった。
その後、武将達はそれぞれ家臣や仲間を集め、別れを惜しんだ。光姫も梅枝家の者達の宿所の長屋を尋ねて負傷者を見舞い、家臣一人一人の手を握ってこれまでの奮闘に礼を述べ、それぞれ城を出て国に帰るように申し渡した。
殻相国から苦労を共にしてきた彼等は明日はもういない。そう思うと光姫はとても寂しく心細かったが、目に涙を浮かべつつも頑張って微笑み、深々と頭を下げて別れを告げた。
そうして、お牧や従寿を連れて部屋に戻ると、二人と一緒に夕食をとった。家老達にも家族がいるので、それぞれの時間を邪魔せぬよう呼ばなかったのだ。食事の後は身辺の整理をして部屋を掃除した。普段からお牧がきちんと片付けているが、死んだ後に笑われたくはなかったので隅々まできれいにした。
二人分の布団を敷き終えると、一緒に風呂に行こうとお牧を誘ったが、意外にも断られた。他にも別れを告げておきたい人がたくさんいるのだそうだ。侍女は申し訳なさそうだったが、自分一人で入れるから大丈夫よと、快く行かせてやった。
風呂場は空いていた。まだ多くの者が別れの儀式の最中なのかも知れない。光姫は念入りに体を清めると、銀炎丸を洗ってやった。大きな湯船で狼と遊んで十分に温まり、体を拭いて新しい着物に身を包むと、狼を連れて中門へ向かった。
中郭のあちらこちらに重傷の武者達が寝かされている。今日一日の死傷者は、昨日までの一月余りの総計をはるかに上回っていた。傷の痛みか、発熱のせいか、それとも昼間の戦いの恐怖を思い出すからか、ござに横たわった彼等の中には、苦しげなうめき声を上げている者も少なくなかった。
下郭の長屋から移ってきた多数の小荷駄隊や男衆や女衆も壁際にうずくまっている。彼等は戦闘には参加していないが、飛んでくる爆鉄弾や砲弾や火箭に怯えながら消火活動をし、矢や硫黄の運搬や焙烙玉へ火種を入れて封をする作業に働き、食事の準備や配布に走り回っていたので、皆疲れ切った顔をしていた。
光姫は彼等の休息を邪魔せぬように足音を忍ばせて通り過ぎ、中門から下郭へ下りた。まだ城内は戦闘の跡が生々しく、壊れた武器や盾が散乱して硫黄の匂いが漂っていた。その中を光姫は狼と共に歩き、扉が空堀の底で黒焦げになっている大手門から城の外に出た。二十二日の夜空にはほぼ半分の月が浮かんでいた。その黄金の光の下、光姫は広場を東へ向かい、森へ入った。
灯りを持ってこなかったが、次第に闇に目が慣れてきたし、連れの狼がいる。光姫はどんどん進んで境の柵と空堀も越え、そろそろ城が見えなくなるところまで行って足を止めた。
「この辺りでよさそうね」
光姫は小声でつぶやき、膝を突いて狼の首を抱き締めた。硬い毛並に頬を押し付け、何度も頭や背中を愛おしげに撫でると、ぴんと立った耳にささやいた。
「銀炎丸。ここでお別れよ」
狼は意味が分からないらしく、不思議そうに首を傾げた。
「私は明日死ぬの。だから、あなたをここで放すわ。あなたはもう自由よ。さあ、どこへでもお行きなさい。さようなら!」
狼が動かないので、森の奥を指差して尻を軽く叩いたが、銀炎丸はじっとしていた。
「早く向こうへ行きなさい! あなたは今日からこの森で生きていくのよ!」
光姫はとうとう叱ったが、狼はきょとんとしている。その内、脇腹を後ろ足で掻き出した。
光姫は困り、背中を森の方へ押してみたり、その辺りに落ちている小枝を放ってみたりしたが、拾うとすぐに戻ってくる。あれこれ試した末、光姫は諦めた。
「これは駄目だわ。どこかに閉じ込めるしかないわね」
仰雲大社に連れていって祭官に預ければよかったと思ったが、もう夜だし、大社に行くには恵国軍の本陣のそばを通らないといけない。それに、正直なところ、光姫は銀炎丸と別れるのがとても寂しかった。
「あなたはいつも私の一番の友達だったものね。きっと自分だけ除け者にされたくないんだわ」
これまでの全ての戦いをこの狼は共に戦ってきた。最後まで主人のそばを駆けたいのかも知れない。光姫が死んだらどこかへ去っていくだろう。
恐らく明日の戦いはこれまでと比べ物にならないほど危険だ。銀炎丸を付き合わせるのは悪い気がしたが、またこの狼と一緒に走れることが光姫はとてもうれしかった。
「ありがとう。あなたは最高の仲間だわ」
光姫は狼の体をもう一度強く抱き締め、顔をなめてくる頭をやさしく撫でると立ち上がった。
「真夏とはいえ、少し冷えてきたわね。戻りましょう」
風呂上りの熱はとうに体から消えていた。狼の温かい体に時々手で触れながら、光姫は城の方へ戻っていった。
森を抜けると、夜空の月の位置が動いていた。そんなに遠くへ行ったつもりはなかったが、いつの間にか随分時間が経っていたらしい。城の前の広場は人気がなく、静まり返っていた。
空堀の縁を歩き、大手門へつながる細い道へ向かった。坂を上り始めると、光姫は段々緊張してきた。この夜の間に済ませたいことの片方は失敗したが、もう一つ重要なことが残っていた。これから白林宗明に会いに行くのだ。
光姫は恋する乙女だ。だから、最後に愛する人に会いたかった。もちろん、こんな時間に男のところへ行く意味は分かっている。それでもよいと思っていた。いや、むしろ、一夜だけでも夫婦になりたかった。そのために、体は念入りに磨いてある。
ただ、こういうことは戦場で敵の中に突っ込むのとは別種の勇気がいる。既に恥ずかしさで頬が熱かった。きっと耳まで真っ赤だろう。光姫は深呼吸して心を落ち着かせようとしながら、坂をゆっくりと上がっていった。
「まず、宗明さんを呼び出して、どこかの倉へ行くの。扉を閉めて、真っ暗な中に二人きりになったら、思い切って抱き付いて言うのよ。『覚悟はできています。わ、私を!』、……続きは何がいいかしら」
大切な一言だ。自分からする愛の告白なので、どんな言葉がふさわしいか、光姫は真剣に検討した。
「『抱いて下さい』はそのまま過ぎてはしたないし、『全てを差し上げます』は恩着せがましいわ。『存分になさってよろしいですわ』は好き者っぽくて恥ずかし過ぎる!」
光姫は歩きながら身震いし、緊張で歯が鳴りそうなほど寒気を覚えた。坂がいつもより長く感じられた。上から吹いてくる風は押し戻そうとするかのように強いが、火照った頬を冷ますには到底足らない。怪訝そうに見ている銀炎丸が人間でないのがありがたかった。
「ううん、そうねえ。やっぱり『あなたの妻にして下さい』かしら。これなら直接的ではないけれど意味は通じるし、私の願いそのままだわ。よし、これで行くわよ。いいわね、光子!」
自分を勇気付けるためにわざと口に出して確認し、拳を握って気合を入れた光姫は、目の前に人影を見付けて焦った。
「……はっ! 人がいたの? だ、誰? 今の聞かれたかしら!」
光姫が更に真っ赤になって動けないでいると、近付いてきた相手が息を呑んで足を止めた。
「光姫様……!」
その声に嫌というほど聞き覚えがあったので、光姫は驚き、一層慌てた。
「宗明様! ど、どうしてこんなところに?」
これから会いに行くつもりだったのに、いざとなると恥ずかしくて顔を上げられない。それに、こんな広いところで会うことは想定していなかった。先程の言葉は、もっと狭いところで二人きりでないととても口にできない。
だが、光姫の慌てぶりに対して相手が無言なので、そっと視線を上げて顔を盗み見ると、月光に照らされた宗明は実にばつが悪そうだった。
なぜ、この方はこんな、たちの悪いいたずらでも見付かったような表情をしているのかしら。
不思議に思って相手をよく見た光姫は、宗明が平服であることに気が付いた。背中には鎧入れらしい大きな箱を背負い、左手には丸く膨らんだ風呂敷包みを二つ持っている。宗明の後ろには大勢が続いていた。十人以上いるだろう。全員宗明と一緒にこの城へやってきた者達だった。
どうしてそんな格好を?
そう思った光姫は、次の瞬間理由を悟って急速に頬が冷えていくのを感じた。今夜この城から旅支度で出ていく。それもこんな時間に人目を忍んで、と来れば決まっている。だが、光姫は信じたくなかった。否定して欲しいと心から願って、震える声で確認した。
「まさか、お城を出ていかれるのですか」
宗明は答えなかったが、逸らされた瞳とその表情が肯定の印だった。
「本当に……? そんな! なぜ、なぜですか!」
光姫の問いに、宗明は苛立たしげに返事をした。
「今更そんなことを聞くのですか。自由に城を去れと言ったのはあなた達でしょう」
そう答えながら、宗明は視線を合わせなかった。
「でも、でも、なぜあなたが……」
更に尋ねながら、光姫は自分をずるいと思った。城を離れるように皆に言ったのに、宗明は出て行かないと信じていたのだ。いや、この人にだけは逃げて欲しくなかったのだ。
光姫の表情から自分が信じられていたことを読み取ったらしく、宗明はますます不愉快そうな様子になったが、こう答えた。
「俺は浪人です。手柄を立てて名を上げ、良い条件で仕官するためにこの城に来ました。主君でない豊梨公には、命を捧げるほどの義理はありません。むしろ、これまでの働きを考えれば感謝してもらいたいくらいです。あれっぽっちの金では到底元が取れませんね」
「で、でも、この城にはまだ多くの人が残って戦おうとしているのですよ。その人達を置いて出ていくのですか。将として率いてきた仲間を見捨てて生き延びて、それであなたはよいのですか!」
「私だって彼等のことは心配です。可能なら最後まで一緒に戦いたかったですよ。ですが、もう我々に勝ち目はありません。ここにいれば確実に死にます。俺はまだ死ねません。死にたくないのです。仕官して正式な武家になって、出世したいのですよ。そのために今まで学問や武芸に励み、この城で戦ってきたのです。仕官につながる可能性のない戦いに懸ける命はありません。俺はあなたのように酔狂で戦っていたわけではないのです」
光姫は「酔狂」という言葉に衝撃を受けたが、宗明はそれを横目で見ながらわざと冷たく言い切ると、急にやさしげな口調になった。
「あなたはこの城をお出にならないのですか。天糸国がまだおありのはずです。そこへ行けば生き延びられましょう。もし、お逃げになるのでしたら、私が護衛して差し上げて構いません」
そう言いながら、宗明は仲間に先に行けと合図した。やはりとどまるつもりはないらしい。
それでも光姫は信じたくなかった。これを言えば、先程から頭に浮かんでいる恐ろしい疑惑が決定的な事実になってしまうと分かりつつ、更に問いかけた。
「宗明様は私を愛していると信じていました。それなのに、私を置いて逃げるのですか。なぜ何も言わずに去っていってしまうのですか!」
私があなたを置いて出ていけるはずがありません。今の言葉は冗談ですよ。そう言って欲しかった。その可能性は全くないと知っていたが、それでも光姫は期待した。だが、無理な注文だった。
宗明は、ふっ、と笑ったのだ。その笑みで、光姫は全てを分かってしまった。この男は自分を愛してなどいなかったのだと、総毛立った全身の肌で理解した。
「あなたは素晴らしい大将です。勇気、武芸、魅力や人気、どれもすぐれています。今この国で最高の武将の一人かも知れません。ですが、一人の娘としてのあなたは平凡です。確かにとてもお美しくていらっしゃるが、命を投げ出してまでそばにいたいと思うほどではありません。正直に申し上げましょう。八十七万貫を持たないあなたは、私にとって何の価値もありません。そう思っていない者もいるようですがね」
最後の言葉は、もしかしたら宗明なりのやさしさだったのかも知れない。はっきり言ってくれたことも、無駄な期待を持たせないためだったのかも知れない。それでも、光姫はどん底に突き落とされた。心を切り裂かれた。胸に大きな傷口が開き、そこから大量の血があふれ出していくような恐ろしさと苦しさに体が重くなった。
しかし、その一方で、これがこの男の本音なのだと光姫は理解していた。唯一の真実で、言い訳や誤魔化しはきかないのだと。
「ひどい、ひどいです……!」
光姫は目に涙を浮かべて叫んだ。この相手を罵ってやりたかった。大声で糾弾し、非難してやりたかった。でも、それ以上何も言えなかった。光姫はやっぱり宗明が好きだったのだ。それを嫌というほど実感していた。人を好きなことがこれほどつらく感じられることがあることを、光姫は初めて知った。
そんな光姫に同情と軽侮の交じり合った突き放すような視線を向けると、宗明は歩き出した。
「ご武運をお祈りしてします。これは私の本心です」
そう言い捨てて、宗明はうつむいている光姫の横を通り過ぎ、坂を下りて行った。
光姫は振り返り、その背中へ手を伸ばした。無駄だと分かっていた。未練がましいと自分でも思った。それでも、戻ってきて今言ったことは嘘だと言って欲しかった。もしそう言われたとしても、もう信じられないと分かっていたのに。
だが、宗明は振り返らなかった。二十人の浪人達は坂を下りると右へ曲がり、東の森へ入っていった。どこかで川を渡り、都へ向かうのだろう。そこには巍山軍がいて、浪人を募集している封主家もあるだろうから。
彼等の背中を光姫はずっと目で追っていた。完全に見えなくなってからも、しばらくそのまま立ち尽くしていた。全身から力が抜けたようで頭がぼんやりしていたが、その中で胸の痛みだけがひどく現実的で、逃れられない苦しみとして体を苛んでいた。
どれほどそうしていたろう。光姫はようやく向きを変え、坂を上っていった。うつむいたまま門をくぐり、中門へ向かおうとしたところで、狼が突然吼えた。光姫は横を見て、逃げ出し損ねたという顔で壁際に隠れている恒誠を見付けた。
全部見ていたんだわ……!
相手が目を逸らしたのを見て、光姫は悟った。あまりの恥ずかしさに全身を震えが駆け登り、顔を両手で覆って走って逃げ出そうとしたが、ぐいと右手首をつかまれた。振り向くと、恒誠は思わず手を伸ばしてしまったという様子で次の振る舞いに困っていたが、小さく「大丈夫か」と尋ねた。その遠慮がちだが心配そうな声を聞いた途端、光姫の胸の奥底で渦巻く激情を押しとどめていた堰が決壊し、急に悲しみが盛り上がって、あっという間に心を埋め尽くした。
光姫は感情の洪水に耐え切れなくなり、目に涙を浮かべてよろよろと相手に歩み寄った。恒誠は驚いたようだったが、光姫が彼の着物の胸元を手で握り、倒れ込むようにして頭を相手の首元に押し付けると、ためらいがちに両肩をつかんだ。
男の両腕に捕らえられた途端、光姫の体から力が抜けた。崩れ落ちる光姫を支えながら恒誠はゆっくりと腰を下げ、地面に尻を付けた。その胸にしがみついて光姫は泣いた。
悲しかった。胸が涙でいっぱいで、流さずにはいられなかった。
だが、不思議なことに、胸を焼いてただれさせるような濁った悲しさではなかった。それは多分、光姫が自分を無理矢理肯定しようとしなかったからに違いない。全てを相手のせいにして憎んだり恨んだりせず、純粋で巨大な悲しみにそのまま身を任せたから、涙がきれいだったのだ。
そのせいか、しばらく声を出して泣き続けると、涙は自然と収まってきた。胸の傷口は開いたままだったが、心にたまっていた悲しみの幾分かは流し去ることができた。
光姫は目をぬぐって顔を上げ、恒誠にしがみついていたことを思い出して、慌てて離れた。とても恥ずかしかったが、なぜかこの人にはこういう自分を見せても構わない気がした。それが共に戦った仲間だからなのか、なんでも見抜いてしまいそうで隠しても無駄に思われるからなのか、理由は自分でもよく分からなかったが、無理に笑顔を作って取り繕わなくて済むのは気持ちが楽だった。銀炎丸は先程まで主人を心配そうに見守っていたが、いつの間にか二人の足元で円くなっていた。
恒誠が座ったまま黙っているので、自分から何か言わなくてはいけない気がして言葉を探したが、上手い言葉が見付からず、結局答えは分かっている問いに戻ることにした。
「全部見ていたんですか」
恒誠は肯定も否定もしなかったが、どちらなのかは顔を見れば分かった。
「どうしてここにいたんですか」
これには返事があった。
「あなたが出ていくのが見えたので、ここで帰りを待っていた」
「なぜ待っていたのですか」
恒誠はためらったが、答えた。
「あなたが落ち込んでいるのではないかと思っていたのだ。そうしたら下郭へ下りていくのを見かけて、何となく付いてきてしまった」
何となくでそのまま数刻ここに留まっていたのはよく考えると変だが、光姫は追及しなかった。恒誠の言葉の別な部分に気を引かれたのだ。
「抜け穴の出口を知られたのは、私が逃がした人のせいだと思いますか」
勇気を出して尋ねると、恒誠は迷ったようだったが頷いた。
「そうだろうな。他に考えられない。あの男が教えたのか、連れ出すところを見られたのか、どちらにしても、無関係とは思えない。この周囲の森は深い。洞窟も無数にある。何らかの方法で出口がどの辺りにあるか見当を付けなければ、このわずかな日数の間に発見するのは不可能だ」
「実鏡さんもそう思ったのね」
先程の軍議で少年が思い詰めた顔で城に残ると言ったのは、その責任を感じたからに違いない。
「でも違うわ。これは私のせいよ。処刑を命じるのが嫌だからって、重い判断を実鏡さんに押し付けてしまったんだもの」
真面目な実鏡はきっと苦しんだに違いないと、光姫は申し訳なさでいっぱいだったが、恒誠は首を振った。
「いや、俺が甘かったのだと思う」
恒誠はひどく悔やんでいる口ぶりだった。
「この可能性を俺は危惧していた。あの男は信用ならないと思っていた。それでも、結局実鏡殿の裁定に異を唱えなかった。家老達も承認した。だから、これはあの場にいた家老以上の者全員の責任だ。実鏡殿や光姫殿だけを責めることはできない」
それでも自分の責任が一番重いと光姫は思った。それを恒誠は察した様子だったが、何も言わなかったので、無理に光姫の考えを変えようとしないことに好感を覚えた。
結局、こういうことはそれぞれがどう思うかなのだろう。誰のせいかということよりも、それを自分がどう受け止め、どう振る舞うかが大切なのだ。責任を負うべき人を明確にすることが必要な時もあるが、皆がその現実への対処で力を合わせることの方がよほど大事な場合も多いのだ。
多分、明日、実鏡も恒誠も家老達も皆必死で戦うだろう。もう取り返しがつかない以上、それで充分だし、それ以外にどうしようもないのだった。
だから、光姫は話題を変えた。
「恒誠さんは逃げないのですか」
尋ねてから、斉末の件に責任を感じているのなら当然ねと思ったが、返答は予想と違っていた。
「本当は逃げたいのだが、逃げられないのだ」
「逃げたいのですか」
そういう弱音を吐く人だと思っていなかったので意外に感じて尋ねると、青年は真顔で言った。
「俺はまだ死にたくない。読みたい本がたくさんあるし、やってみたいことも多い。軍学の研究も続けたい。この戦いや吼狼国の行く末も気になる。だが、逃げはしない」
「なぜですか。なぜ逃げないのですか」
興味を引かれて更に問いを重ねると、恒誠は光姫を見つめて言った。
「あなたが残るからだ。あなたを置いては逃げられない。あなたを見捨てたら、俺は一生自分を許せないだろうからな」
「えっ……?」
光姫は驚いたが、恒誠は続けて深い瞳で言った。
「本当は黙ったまま死ぬつもりだったが気が変わった。白林殿に逃げられたばかりの時に言うのはずるいのかも知れないが、もう機会がないから伝えておく。俺は光子殿が好きだ。愛している。初めて月下で会った時に一目惚れした。それ以来、他のおなごは目に入らない」
光姫は口をぱくぱくさせた。恒誠の表情はいつものままだった。が、常に冷静な彼らしくなく声がかすかに上ずっていたことに光姫は気が付き、それを意識した途端、全身が震え出しそうなくらいの緊張と、叫びたくなるほどの恥ずかしさに襲われた。
急に高熱が出たのかと思うほど顔中が熱くなり、胸が激しく鼓動し始めた。いくつもの感情の大波に立て続けに揺さぶられ、宗明に振られて大泣きした直後で心がひどく疲れているのもあって、頭が上手く回らない。自分がうれしいのか呆気にとられたのか、喜ぶべきか彼に同情するべきかさえ判断が付かず、ただ相手の顔をじっと見上げることしかできなかった。
その目を恒誠がやや強張った表情で見下ろしてくる。彼に瞳の中をのぞき込まれた瞬間、光姫は急に何か重大なことを知られてしまいそうな激しい焦りを覚えて、思わず顔を背けてしまった。
いけない。ここで目を逸らしたら恒誠さんが傷付くわ。
頭ではそう思ったが、とても相手の顔を正視できなかった。より恥ずかしく緊張しているのは恒誠の方のはずなのに、光姫は自分が恋を告げたような錯覚さえ覚えた。
結局、光姫は何も答えられなかった。身もだえしたいのを必死で我慢しているような心持ちだというのに、恒誠の横でうつむいたまま全く動けなかった。光姫は実に情けなく、自分に呆れていた。
告白されたのは生まれて初めてなのに! こういう状況を物語で読んだり侍女達に話で聞いたりして、自分がそうなったらどうしようと幾度も想像していたのに!
何も言えずに固まっている光姫を恒誠はしばらく黙って見つめていたが、視線を空の月に移して言った。
「そういう反応だろうと分かっていた。答えは求めていない。ただ、伝えたいと思っただけだ」
恒誠は苦笑に頬を歪めた。
「自分では冷めた方だと思っていたが、まこと思い通りにならぬのが恋というものだな。明日死ぬかも知れぬ戦の最中なのに、そんなことがどこか遠い世界の出来事に感じられるくらい、心が強い感情に支配されてしまっている。だが、人にはこういう心の震えがあることを知らなければ、すぐれた作戦は立てられず、人々の幸福を守る政もできないのかも知れないなとも思う。ただの情欲でないこの気持ちを感じられただけでも、あなたと出会えてよかった。だから、俺はあなたをどこまでも全力で守り助ける。それが俺の役目だ」
その言葉を聞いた途端、光姫は急に胸が苦しくなり、目に涙があふれてきた。なぜ泣いているのか自分でも分からなかったが、不思議な切なさで胸がいっぱいになり、泣けて泣けて仕方なかった。ただ一つ感じていたことは、この涙は先程の心臓が絞られるような苦しいものではなく、どこか温かいということだった。
そうして光姫はしゃくりあげながらずっと泣き続け、やがて泣き疲れて男の腕の中で眠ってしまった。
翌朝目覚めると、光姫は自分の部屋にいた。
「姫様、おはようございます」
既に起きて身支度を始めていたお牧が気付いて振り返り、声をかけてきた。
「どうしてこの部屋に……?」
光姫が尋ねると「恒誠様が連れてきて下さったのです」という返事だった。
「連れてきた? ……まさか」
「寝てしまったのを抱き上げて運んで下さったのですよ。意外と力持ちでいらっしゃいますね」
「えええっ……!」
光姫はその光景を想像して真っ赤になった。あそこは下郭、ここは上郭だ。途中で何人に見られただろう。考えるだけで恥ずかしかった。
頭を抱えている主人に姉のような目を向けて、お牧が告げた。
「朝、最後の評定を開くそうです」
「最後の……、分かったわ」
その言葉で光姫は現実に戻り、気を引き締めた。
今日は最終決戦の日よ。恐らく私にとって生涯最後の日になるわ。命尽きる時まで自分らしく精一杯戦い抜いて、二人のお姉様に私の覚悟をしっかり伝えるのよ。
両頬をばしんと叩いて浮付いた気分を追い出すと、光姫は素早く戦装束を身に着けた。
「姫様、起きていらっしゃいますか」
声がかかったので襖を開くと、追堀親子と餅分具総、それに天糸衆を率いる家老など光姫軍の主だった者達が武装して廊下にそろっていた。
「よろしければ、朝食をご一緒致したいと思いまして」
主君と最後の食膳を囲もうとやってきたと知って光姫は喜び、すぐに部屋に入れた。四畳半なので少し狭かったが肩を寄せ合って全員入り、お牧と女衆が運んできた朝食の膳を前に座った。
家臣達と向かい合う形で一人だけ前に正座した光姫は、丁寧に頭を下げ、これまで自分に付いてきてくれた礼を言い、逃げなかったことに感謝を述べた。そして、田美国と殻相国と天糸国の方へ順番に全員で拝礼し、梅枝家の先祖と大神様に祈った後、食事を頂いた。
籠城中にしてはきちんとした武家料理だったので、お牧によく用意できたわねと言うと、今朝はこういう儀式があちらこちらであり、昨夜の内に厨房に注文が届いていたので、料理担当でない女衆も協力して、この料理を全ての武者に配ったのだという。光姫は彼女達の心遣いに感謝して残さず美味しく食べると、食器の片付けは女衆に任せて、皆を連れて大広間へ向かった。
既にほとんどの者がそろっていて、評定は間もなく始まった。今日は特別なので場所が大広間に変更されたが、それでも入り切れないほどの武者が集まっていた。
武将級の者達の顔ぶれを見回すと、欠けた者はほとんどいなかった。評定の開始に当たり、貞備が各部隊の人数を確認したが、減ったのはわずか二十人だけだった。皆馴憲之の侠兵会も、伍助を組頭とする義勇民達も、誰一人逃げなかったのだ。唯一浪人衆の代表だけが、白林宗明から神酒田長能に変わっていたが、誰もそれを指摘しなかった。
つまり、負傷者や死者を除く一万人ほどの兵力がまるまる残ったのだ。これは彼等の結束の固さと誇り高さを表していたが、同時に、将である実鏡と光姫、軍師である恒誠の人気の高さと信頼の深さを示していた。宗明と一緒にこの城に来た三十人の内十人が残留し、他の浪人達が誰も逃げなかったことがその証拠だった。
実鏡が立ち上がった。
「皆さん、残って下さってありがとうございます。これほど大勢が今ここにいることに、僕は感激しています」
少年封主は気丈にも涙を見せなかった。
「これまでの戦いで見せて下さった勇気を、僕は絶対に忘れません。きっと、吼狼国の歴史に残り、多くの人々に語り継がれるでしょう。今日の戦いもみんなで全力を尽くしましょう」
何人かが頷いた。
「ですが、僕はまだ生き延びることを諦めていません。もし死ぬことになったとしても、敵を都へは進ませません」
武者達はこの発言に驚いたようだったが、そろって軍師を見た。
「本日の作戦を説明する」
恒誠が実鏡の視線を受けて口を開いた。
「我々は城を出て戦う。この城に籠っても勝ち目はないからだ」
実鏡の近習二人が立ち上がって大きな地図を見せた。恒誠が棒を持ってそれを叩いた。
「敵の目的はこの城を使用不能にすることだ。よって、中郭と上郭を制圧するべく、また正面から攻めてくるだろう。大手門は開いているからな。恐らく敵は大砲を城内に持ち込んで中門や城壁を破壊しようとするに違いない。また、可動式の投石機や昨日使われた新しい武器火箭を使って火災を起こさせ、混乱に乗じて下郭の各所や裏手の崖からはしごをかけて中郭へ突入しようとするはずだ。
そこで、我々は三千を中郭に残し、防戦して敵を食い止める。硫黄は中郭に運び込んであるから、それを敵の頭上に大盤振る舞いし、下郭に火を放って多くの敵兵を焼き殺す。敵は一旦引くだろうが、諦めるとは思えない。火が消えて負傷者を救出したら、数を増やして攻撃を再開するはずだ。
この時、敵の半分近くが城の中やすぐそばに集まる。一方、敵の大将は対岸か、広場の北端辺りの安全な場所にいるはずだ。そこで、敵が城内に援軍を送って大将周辺の兵士が減ったところで、密かに外に出した部隊でこれを奇襲し、禎傑を討ち取る」
おおう、と大広間がどよめきで覆われた。
「出撃する七千は三千五百ずつの二隊に分ける。一方は敵が接近する前に抜け穴を通って城を離れ、川を渡って対岸に伏せる。もう一方は東の森の奥にひそみ、気付かれぬように接近する。合図があったら飛び出して、敵を挟み撃ちにするのだ」
「その部隊、私に任せて下さい!」
光姫が手を挙げると、恒誠は頷いた。
「もちろんそのつもりだ。あなたならそう言うと思っていた」
恒誠はかすかに微笑んだ。
「対岸へ渡る部隊の大将は光姫殿。馬が残っている者を全て集め、騎馬武者を中心に編成する。西国街道を走ってきて敵本陣の背後を襲うのだ」
下郭を失ったことで大手門前の厩舎が敵の手に落ち、多数の軍馬を奪われてしまった。だが、銅疾風など中郭に移動することができた馬もいる。恒誠はそれを全て出すというのだ。
「そして、もう半分の三千五百の大将は、実鏡殿が務める」
これは意外だったらしく、武者達はそろって総大将の少年に目を向けた。
「これは実鏡殿ご自身が希望されたことだ。補佐には奥鹿貞備殿が付かれ、近習も全員出撃する。城の守りは楢間惟延殿と俺だ」
少年封主の覚悟を聞いて、武者達は皆表情を引き締めた。
「この作戦の実行に先立って、敵に軍使を送り、小荷駄隊、男衆女衆を外へ出す。敵は昨晩この城を封鎖しなかった。恐らく彼等の命を奪おうとはしないだろう」
暗に出陣前に別れを済ませておけと言っているのだが、多くの者は既に身辺を整理し、後事を家族や仲間に託していた。
「では、出陣の支度をしましょう」
再び実鏡が口を開いた。
「皆さん。これは恐らく我々の最後の戦いになります。ですが、先程も言いましたが、僕は諦めていません。必ず敵の大将を討ち取り、雲居国から追い払うつもりです。僕達なら不可能ではないと信じています!」
この言葉に武将達は皆頷き、次々に立ち上がった。まず、皆馴憲之が言った。
「俺もお殿様と同じ気持ちだ。俺達は恵国軍と戦うためにこの国に来たんだ。絶対勝利して、援軍を送らなかった巍山を笑ってやろうぜ」
次に発言したのは撫倉安漣だった。
「そうですね。巍山は怖くて都を出てこられなかった臆病者だと言い触らしてやりましょう」
「戦狼時代の名将も耄碌したみたいですな」
いつも真面目な貞備が珍しく軽口を叩き、追堀師隆がそれに調子を合わせた。
「野心だけはまだ老いていないようですが、足腰が立たなくて都の屋敷を出られないのではないですかな」
「実際にこの国を守って戦ったのは我々です。巍山は杏葉公にすら及びません。真の勇者、本物の吼狼国武者が誰なのか天下に示しましょう!」
輝隆が大声で言うと、広間中からそうだそうだと同意の声が上がった。
「では、行きましょうか」
実鏡が光姫と恒誠に笑いかけた。
「そうね。行きましょう」
そして、お姉様をこの手で討つ!
光姫は心の中で叫んだ。
もはやお姉様を止めるにはそれしかないわ。そして、それは妹の私がやらなくてはいけないことだわ。死ぬ覚悟でお姉様にぶつかって、決着を付けるわ。
「やりましょう」
従寿が言ったので、振り向くと、お牧も家老達も皆光姫の気持ちは分かっているという顔だった。
「ありがとう。あなた達と一緒に戦えて本当に良かったわ」
光姫が笑うと、彼等はほっとした様子で微笑み返してきた。それを見て、光姫は自分が心配されていたことを悟った。白林宗明が逃亡したことで落ち込んでいるのではないかと案じていたらしい。
「私は大丈夫。梅枝の名に恥じない働きをしてみせるわ」
「我々も共に参りますぞ」
家老達が威勢よく返事をすると、狼が雰囲気を感じたのか体を起こして大声で遠吠えした。
「あなたもそばにいてくれるのね」
光姫は微笑み、大広間の全員が立って鬨の声を上げようと拳を握った時、一人の家臣が転がるように大広間に駆け込んできた。
「あ、上がりました! 上がりました!」
「何がかしら」
光姫は首を傾げたが、恒誠ははっとしてその家臣に駆け寄った。
「のろしが上がったのか」
「は、はい!」
その家臣は喘ぐように叫んだ。
「巍山軍来るののろしが上がっています! 物見台からも軍勢の影がおぼろげに望めました。対岸に集まりつつあった恵国軍は、本陣の方に引き上げ始めております!」
「つまり、援軍が間に合ったのだな」
確認する恒誠の声はかすれていた。
「はい! 援軍はもうじきこの辺りまでやってきます。敵は攻撃を諦めて、巍山軍に対して備える動きを見せております」
家臣はそれだけ言うと大声でうれし泣きし始めた。
「助かった……」
その軍師のつぶやきが武者達の心に染み渡るのに、数瞬の間があった。
「やった! やったぞ!」
従寿が拳を振り上げて叫んだ。
「俺達は勝ったんだ! 生き残り、城を守り切ったんだ!」
「助かった……のですね」
実鏡がつぶやいて気が抜けたようにへたり込んだ。
「僕達は勝ったんだ。……はは、ははは。よかったあ」
その言葉に全員が顔を見合わせ、次の瞬間、大広間は歓喜の雄叫びであふれた。皆躍り上がって喜び、抱き合って涙を流している者もいる。武将達も握手をし、肩を叩き合っている。光姫も誰かと抱き合いたかったが、輝隆と家老達は近付くとさすがに遠慮する顔をしたのでお牧を振り向いたら、従寿に抱き付いて泣きじゃくり、満面の笑みの彼に慰められていた。福子は兄や豊梨家の仲間達と手を取り合ってはしゃいでいた。
そこで、光姫は床にへたり込んでべそをかいている実鏡のところへ行った。斉末を逃がしたせいで大勢を殺してしまうと苦しんでいた少年は、光姫を見て心からうれしそうに笑みを浮かべたが、手を引っ張って立たせようとすると、「とても無理です」と首を振った。本当に腰が抜けたらしい。
光姫はやむなく諦めて、では誰かと考えて恒誠を思い付いたが、昨晩のことがあるのでためらった。若い軍師は部屋の中央で立ち尽くし、上を向いてくっくっくと小さく笑っていたが、視線に気が付いて近付いてきた。両腕をこちらへ伸ばしたので抱き付かれるのかと緊張すると、恒誠は両肩をつかんで、これまで何度か見た晴れやかで曇りのない笑みを浮かべて光姫に礼を言った。
「ありがとう。本当にありがとう。あなたのおかげで生き残ることができた。あなたのおかげで戦い続けることができた。あなたがいなければ、俺はこの城を守るためにこれほど必死で知恵を絞ったかどうか分からない」
頭を下げる軍師を見下ろして、そんなことはないのではないかと思ったが、それが愛の告白にも解釈できることに気が付いて、光姫は顔を真っ赤にした。
頭を上げた恒誠はうれしそうに笑っている。光姫はその邪気のない笑みがまぶしく、どう答えようかと迷ったが、結局他に思い付かず、こう言った。
「これまでありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしく頼む。俺はまだあなたと一緒に戦いたい」
「はい、私もです」
この言葉には光姫も素直に応じられて笑みを返した。そうして、二人は微笑んだまましばらく見つめ合っていたが、その光景を多くの武将達が温かい目で見守っていたことを、光姫は知らなかった。




