(第六章) 五 は
橋を巡る攻防戦の終了後、影岡軍と恵国軍の双方が白旗を掲げた者を派遣して、取り残された負傷者と遺体の収容を行った。
光姫隊の騎馬武者が二十一人、馬を射られたり負傷したりして広場に取り残されて捕まっていたが、恵国軍は小荷駄隊の者達が城から出てくるとすぐに解放した。吼狼国では武者が死ぬと一族の誰かが後を継ぐため、殺したところで影岡城の兵力が減るわけではないと恵国軍も知っているのだ。
むしろ、殺すと元気な若者に交代してしまうので、怪我人は逃がした方が戦力を低下させられる。今後の戦のためにも、捕まっても殺されないと思わせた方がよい。逃げ切れないと分かったら抵抗せずに降伏してくれた方が、兵士の死傷が少なくて済む。
武者達の鎧や武具は取り上げられていたが、実鏡と光姫は帰ってきた彼等を城門で迎えてねぎらい、傷の手当てをさせた後、戦える者には貞備が新しい武具を渡した。戦えない者は後継者が受け取った。
やがて、戦場の片付けが終わると、恵国軍は広場の北端、川岸ぎりぎりのところまで下がり、橋を中心に半円形に囲むように防御陣を布いた。対岸から材木や板を多数運んできて、周囲を囲む柵を作っている。そして、その中心に投石機の部品を運び込み始めた。光姫達はそれを大手門の櫓から眺めていたが、数えてみると、長い角材や厚い板といった木製のもの以外に太い綱や大きな石などもあって、優に三十を超えていた。
「随分たくさんの部分からできているんですね」
「運ぶのも組み立てるのも随分な手間ね。橋が必要なわけだわ」
実鏡と光姫が話していると、恒誠が言った。
「吼狼国の投石機と基本的な造りは変わらないはずだから、恐らく細かいものまで入れると部品は五十以上あるだろう。この城の投石機を作る時も材料を集めるのに苦労した。敵はうっかり壊したりなくしたりしないように慎重に運んでいるようだな」
「もし、川に一つでも落としたら大変ですもんね」
「作り直すのに一日かかるわね。中心の回転させる長い丸太なんて、すぐに替えがきくのかしら。長さや太さが手頃な木をまた探すのは大変そうだわ」
「では、それを確かめてみるか」
若い軍師がにやりとしたので、光姫と実鏡も笑った。
「やりましょう」
「きっと慌てるわね」
「既に準備はほとんど済ませてある。だが、部品がばらばらでは持って逃げられてしまう。組み上がってからにしよう。それまで、光姫殿は十分に体を休めておいてくれ」
「先程遅いお昼を食べましたから、もう回復しています。でも、武者達にはよく休むようにもう一度言っておきましょう」
「今度は僕も出ます。光姫様ばかり働かせません」
光姫は従弟に微笑むと、振り向いて従寿に言った。
「重要な役目ね。頑張って」
「お任せ下さい。お牧殿、姫様を頼みます」
侍女は、分かっています、安心して戦ってらっしゃい、という顔で頷いた。楢間惟鎮が言った。
「私も実鏡様のおそばをしばらく離れます。警護の者達にはしっかりとお守りするよう命じてありますが、無茶をなさらないで下さい」
「惟鎮こそ、無事に戻ってきて下さい」
「はい。必ずやり遂げてみせます」
「では、君達はそろそろ出発してくれ。作戦開始は夕刻だ」
「はっ」
二人の若者は恒誠に頭を下げて、大手門の櫓を出ていった。それに続いて、光姫と実鏡も階段を降りて、それぞれの武者達のところへ向かった。
夏の午後の日差しの下、恵国軍は三方を固める三万の兵士の中央で、運び込んだ部品を組み立て始めた。
敵城の目の前にもかかわらず、涼霊が作らせたのは設置式で移動できない大型の投石機だった。車輪の付いた小型のものも存在するが、そうした機械は人力や弓やばねの力で物を飛ばすため、飛距離も短く、ねらいの調節が難しい。影岡城の大手門は川岸からかなり遠いし、射出地点より高い場所にあるため、大型のものでも射程ぎりぎりなのだ。
投石機の作り方はこうだ。まず、太い木材を釘で打ち付けて頑丈な土台を作り、地面に固定する。次に、その上に大人の背丈の四倍ほどの塔を設け、長い丸太を一本回転するように取り付ける。丸太は前側を短くして重りを入れる大きな箱を取り付け、後ろ側はずっと長くして先端に網を付ける。それを地面に下ろした状態で止める仕掛けを外すと、重りの箱が落ちる勢いで丸太が引っ張られて長い方が高く持ち上がり、先端の網が開いて投擲物が勢いよく飛んでいくのだ。
飛距離は重りの数で決まる。飛び過ぎたら減らし、手前で落ちたら増やす。次弾を放つには大勢で綱を引っ張って真上を向いている長い方の先端を地面に下ろして固定し、再び投擲物を網に入れる。
この投石機は涼霊の指示で重りに鉄砲の弾に使う鉛を利用することになっている。暴払山脈の奥から大木を探してきて頑丈な塔を建て、回転する丸太も非常に長くする。ねらうのが木製の門扉なので、石弾はやや小さめだ。この工夫で飛距離はぐんと伸び、橋のそばからでも何とか大手門まで届くはずだった。
鉄砲なら火薬の量で飛距離の調節ができるが、今回は遠過ぎるし、大型のものでも丈夫な城門を壊すことは不可能だろう。
恵国には大砲と呼ばれる石や鉛の大きな玉を火薬で飛ばす武器も存在し、主に攻城戦などで使われている。涼霊は鉄砲や爆鉄弾など火薬を使う武器を利用した戦い方が得意なので、大砲も吼狼国に持ってきていて、穂雲の職人に技師の指導の下で作らせ、砲弾も注文していた。
だが、大砲はねらいがかなり甘く、大手門の正面に設置しても、門扉に一発直撃させるまでに数十発を撃たなければならない。城壁や兵士の陣列のような範囲への攻撃には有効でも、一点をねらうのには向いていないのだ。一発撃つのに投石機以上の時間がかかるから、下手をすると一日撃っても一発も当たらないかも知れなかった。
影岡城は崖の上にあるため城壁ではなく門を破壊しなくてはならない。それに、大砲も頑丈な砲架に固定する必要があるので、木の台を設置する手間は同じだ。こう考えると、大型の投石機の方がまだましなのだ。
黒い鎧と兜の恵国兵は、橋の上を蟻の群れのようにぞろぞろと歩き回り、汗だくになって木の部品や長い丸太、重りにする鉛の塊などを運んだ。絶え間なく木槌で釘を討つ音が聞こえ、恵国語の怒声が飛び交う中、周囲の守備兵達に見守られて、作業は少しずつ進んでいった。
そうして、傾いた太陽が西の森の上に差しかかった頃、投石機の長い柄がぐるりと回転するのが見えて恵国軍陣内で歓声が湧き起こった。ようやく完成したのだ。
赤みを帯び始めた空の下、恵国軍はさっそく投石機の試射をしようとしたが、そこへ轟いた激しい太鼓の音に緊張に包まれた。影岡軍が城門から出てきたのだ。
現れた軍勢は約一万。盾武者が先頭で、その後ろに弓や槍を持った武者が多数続いていた。これら八千が空堀のすぐ前に横一列に盾を並べて防御陣を布き、最後に紅白の鎧の少女に率いられた二千の騎馬武者隊がその後方に陣取った。
投石機の建造と運用担当の匡輔将軍と周囲を守っていた敦朴・鍾霆・馬策の三人の将軍は影岡軍の襲撃を警戒し、大将である頑烈のところに集まって対応を協議した。匡輔と五十に近く経験豊富な敦朴は影岡軍の意図が分からないので守備を固めて相手の出方を待とうと言ったが、好戦的な鍾霆と若い馬策は敵を少数と見て、むしろこちらからしかけるべきだと主張した。
恵国軍は中軍一万六千、右翼と左翼が五千、頑烈直属の四千の合計三万と、投石機部隊が二千で敵の三倍強だ。先程と違い、渡河のような地形的不利もない。城内からの攻撃で多少の損害は出るが、右翼と左翼が城壁に攻撃をかけて中の敵を牽制しつつ、残り二万で城外の敵を包囲すれば必ず勝てる。ここで敵兵を減らしておけば城に突入する時が楽になり、結局は死傷者が少なくて済む。
次第に激しくなる将軍達の言い合いを頑烈は黙って聞いていたが、喧嘩になりかかったのを止めるとこう言った。
「昼間散々かき回された恨みがあるから、勝てるならわしも攻撃したい。兵士達も同じはずだ。だが、これまでの戦いで相手が手強いことはよく分かっておる。恐らく今回も何かたくらんでおるに違いない。ゆえに、単純に攻めかかるのは危険だ。涼霊殿の意見を聞いてみるとしよう」
なるほど、と四将が頷いたところへ、対岸から伝令が来た。
「敵のねらいは間違いなく投石機の破壊だから、それを阻止することが最も重要だ。挑発に乗って攻撃に出れば投石機の周囲が手薄になって、敵の思う壺だ。作りかけだが周囲を囲う柵があるのでそれを活かして守備に徹し、こちらから手を出すべきではない。敵は少数に見えてもどんな手を使ってくるか分からないので油断しないように。昼間の戦いで兵士達は疲れているが、半数はそこに残って夜通し投石機を守ることになる。それに備えて体力を残しておかねばならない。敵も疲れているはずだから、暗くなれば引き上げていくだろう」
頑烈は残念だったが軍師の指示を了承した。もうすぐ日が暮れる。戦闘は難しくなるし、地形を知り尽くした敵に有利になる。敦朴と馬策はこれから敵城の目の前で一夜を明かすのだから、無理をする状況ではなかった。五人は連絡を緊密にすることを確認し合って、それぞれの持ち場へ別れていった。
中軍の一万六千を預かる敦朴が自分の部隊へ戻ってくると、部下が待ちかねたように駆け寄ってきて報告した。
「敵が何かを盾の列の前に投げています!」
敦朴が急いで様子を見に行くと、確かに、敵部隊が敵味方の中間へ次々に米俵くらいの大きさのものを放り込んでくる。
「あれは何だ?」
尋ねると、部下の武官も首を傾げた。
「どうやら、太い薪を芯にして草をたくさん縛り付けたもののようですが……」
「つまり、草の束か。そんなもので何をしようというのだ?」
敦朴が首を傾げた時、部下が叫んだ。
「あの束が燃えています。すごい煙です!」
その物体は両端に縄が付いていて、振り回した勢いで飛ばしてくるのだが、白い尾を引いて落ちてくると皆激しく燃え上がり、煙をもくもくと吐き出し始めた。
「草に油をかけてあったのか。こんなに白煙が上がるということは、乾燥させていない若い草なのだな」
草に水分が多いと煙は白いのだ。
「煙がこちらに来ます!」
「ちいっ、南風か! これでは何も見えんぞ」
山から吹き降ろす風に乗って、大量の煙が恵国軍の陣内に流れ込んできた。辺りは煙で覆われて視界が悪くなり、目が痛くなって涙が出てくる。周囲では煙を吸い込んで咳き込む者が続出していた。
そこへ、敵軍で大きな鬨の声が上がり、矢が空を切る嫌な音が無数に起こった。
「敵が矢を放ち始めました!」
「こちらも鉄砲を撃て!」
「敵が見えません!」
「ねらいは適当でいい! とにかく発砲しろ! こんなところへ突撃されたら大混乱になるぞ! 敵を近付けるな!」
煙の向こうから影岡軍は激しい矢の雨を浴びせてくる。恵国軍も鉄砲で応戦するが、敵が見えないので効果はあまり期待できない。もっともそれは影岡軍も同じなので、とにかく自分や味方の盾で上や前を守りながら、兵士達は必死で鉄砲を撃っていた。
ところが、その盾が次々に燃え始めた。影岡軍の新兵器だった。
「何だこの音は? 茶碗が割れているのか?」
恵国軍の陣内に降り注いだ丸い塊は、手でつかめる程度の大きさで、茶色い鈴のような形をしていた。
「中に硫黄が入っているようです! 方々で火災が起きています!」
焙烙玉という素焼きの土器のようなその武器は、中に仕切りがあり、片方に硫黄や油を入れて紙と糊で蓋をしてある。もう一方には短く切った太い木綿の紐が差し込んであり、投げる直前に先端に火を付けて中に押し込む。それが地面や盾や恵国兵の鎧にぶつかって壊れると、火が硫黄に移り、炎が広がるのだ。火種の入っていない仕切りのない玉も多数あり、硫黄や油を周囲に飛び散らせて、影岡軍の火矢で一際大きな炎を上げていた。
これを影岡軍は千個以上も投げ込んだので、恵国軍の陣内の至る所で地面が青く燃え上がり、辺りには卵の腐ったような匂いが充満していた。
「火と煙のせいでもはや隊列は滅茶苦茶です。少し下がって整えますか」
「後退はできん。下がれば敵の火矢が投石機に届いてしまう。この場所で踏ん張るしかない。柵の内側に敵を決して入れてはならん。少々隊列を崩しても構わんから、無事な盾を前へ回して、先頭の壁だけは何としても維持しろ。……ところで、他の部隊はどうなっている?」
敦朴は別な部下に尋ねた。
「先程の連絡では、鍾霆将軍の左翼、馬策将軍の右翼は攻撃を受けていません。煙で周囲が見えないので、兵士同士で声をかけ合って警戒を続けているそうです」
そう答えた武官は、急に口を閉じ、耳を澄ませた。
「敵の騎馬隊が動き回っています! この煙に紛れて接近し、突撃してくるつもりでしょうか!」
盾の壁の背後にいるはずの影岡軍の騎馬武者達が、音を立てて走り回っている。
「やはりそれがねらいか! 我々を突破して投石機に向かうつもりだな! 右から来るか! いや、左からか!」
騎馬武者隊の馬蹄の音は、近付いてきたかと思うと遠ざかっていく。盾の壁の背後で左右に駆けながら、突撃の機会をねらっているらしい。狼の吼える声も移動しているので、光姫が先頭に立って馬を走らせているようだった。
「皆、組頭のそばに集まり、助け合って守りを固めよ! 槍兵は武器を前方に向けて石突を地面に付けろ! 鉄砲隊は各自反撃しつつ、いつでも腰の剣を抜けるようにしておけ!」
一斉に発砲したら弾込めする前に必ず突撃してくるだろう。鉄砲は威嚇にぱらぱらと撃たせる方がいい。混戦になったら鉄砲は使えないので、短い剣で戦わせるしかなかった。
「さあ、来るなら来い。敵味方が入り乱れれば矢も新兵器も使えなくなる。あとは数の勝負だ。損害は多くなるだろうが、絶対に突破はさせぬ」
敦朴は今来るか、まだなのか、と待ち構えていたが、大勢の叫び声は前方の敵軍からではなく後方の味方から起こり、彼を驚愕させたのだった。
その頃、頑烈は投石機の前を塞ぐ形で四千の兵士を並べて守備につきながら、前方の味方の混乱ぶりに腹を立てていた。
「敦朴殿ほどの歴戦の将が簡単に陣を乱すとは」
煙で見えなくとも、前方の中軍の苦戦ぶりは声や物音だけで十分に伝わってきた。
「守りを固めようという我等の考えを逆手に取られたのだな。こちらが積極的に攻めていかないのをよいことに、安全な距離から好き放題にかき回されておるようだ」
苦々しげに言ったものの、頑烈も敵軍師の慧眼を認めぬわけにはいかなかった。
「涼霊殿の策は確かに理に適っておる。昼に激しい戦いがあったゆえ、日暮れまで投石機を守れば、今日は敵味方とも引いて自然と休戦だとな。確かにその通りだ。だが、それゆえに、敵に読まれてしまう。相手が柵の中から出てこないと分かっておれば、少数で攻撃しても危険は少ないわけだ」
頑烈は涼霊を深く信頼しているが、最近の数戦は精彩を欠いていると感じていた。敵が硫黄を使う以上、門を攻めるしかないし、投石機という判断は妥当だと思う。冒進のようにただ前進させるよりはよほどましだ。だが、だからこそ、敵はそれを想定していたに違いないのだった。
「涼霊殿を責めても意味がない。間違ったことはしておらぬのだからな。むしろ、反省すべきは彼に頼り切りだったわしらの方だ。ここらで大きな働きをして、軍師殿を助けてやらねばなるまい」
そうつぶやいた時、敵城で太鼓が激しく鳴り出した。すると、煙を突き破って空から何かが降ってきた。焙烙玉だった。城外の敵が投石紐を使い、中軍を超えて頑烈の部隊にまで投げ込んできたのだ。周囲で土器の割れる音が次々に起こり、油や硫黄が飛び散った。続いて無数の弓音が響き、大量の火矢が飛んできた。
たちまち、あちらこちらで大きな炎が上がった。頑烈は中軍の状況を聞いてこうなる可能性を考えていたので、慌てずに兵士達に消火の指示を出した。
「砂で火を消せ! ここまで敵は来ないから慌てる必要はない。上にだけ気を付けていればよいのだ! 盾を頭上に構えて身を守れ!」
大将の冷静な命令に、周囲の兵士達はすぐさま言われた通りに動き始めたが、頑烈は後方の騒ぎが気になった。匡輔隊の兵士達が驚いて叫んでいるのだ。先程、投石機のある辺りで桶の割れるような音が二十回余り聞こえたことを思い出し、そばの兵士に尋ねた。
「あれは昼に敵が使った硫黄の桶か?」
「油の詰まったものもあったようです」
「油と硫黄か。……では次は火か!」
そう叫んだ瞬間、大きな花瓶が割れるような音が数十も重なり合って辺りに響き渡った。西瓜ほどもある巨大な焙烙玉が降ってきたのだ。各部隊に送ってある物見役の兵士がもたらした報告によると、あちらこちらで硫黄が燃え上がり、後方の匡輔隊二千は大混乱に陥っているという。
「城内から橋のそばまであれが届くとは。我等が門をねらえるのだから当然ではあるが、油断したな。しかし、この攻撃は何が目的なのだ。辺りは煙に覆われている上、距離も遠い。投石機に当てるのはまず不可能だ。そもそも、中からねらえるのなら、部隊を出撃させる必要はないはずだが……」
頑烈が首を傾げた時、鍾霆の左翼から、続いて馬策の右翼から悲鳴が上がった。
「何事だ?」
左右に尋ねた時、物見兵が走ってきて報告した。
「鍾霆将軍の左翼は、昼の戦いで彼等自身が出てきた森の中からいきなり多数の矢を浴びて混乱しております。いつの間にか、敵の別働隊が一千五百ほど森を移動して接近していたようです。敵は矢を射かけただけで姿を見せませんが、将軍は急いで体勢を立て直しつつ、攻撃に備えてしばらく警戒するとのことです」
「馬策将軍の右翼も、煙の向こうから突然矢を射かけられ、間近で大きな鬨の声を聞かされて動揺しております。どうやら敵の騎馬武者の内、走り回っていたのは半数以下だったらしく、残りはその足音が近付くたびに煙に紛れて少しずつ前進してきていたようです。馬蹄の音と狼の声が遠ざかって気を抜いたところを攻撃されて兵士達の驚きは大きかったですが、幸い敵はすぐに引き上げていきましたので、じきに混乱は収まるものと思われます」
「では、馬策殿もしばらく動けぬのか」
「はい。敵騎馬隊の再度の接近に備えて守りを固めるそうです」
「つまり、匡輔殿の二千もわしの四千も左右両翼も、飛び道具で攻撃されただけということか。そういえば、敦朴殿の中軍も同じだな」
頑烈は眉を寄せて考え込んだ。
「敵のねらいは何だ? 我等は確かに混乱した。だが、皆すぐに部隊を立て直すだろう。その短い時間に何をしたいのだ?」
敵に思い通りに踊らされているような言い知れぬ不安を感じ、自分に、しっかりしろ、対応は間違っておらぬはずだ、と言い聞かせた時、後方で予想もしなかった声が起こった。
「投石機が燃えているぞ!」
「早く火を消せ!」
「駄目だ。もう全体に回っている! 手が付けられない!」
頑烈は慌てて振り返ったが煙で何も見えなかった。すぐにそばの伝令兵数人に投石機の様子を見に行かせ、動揺する周囲の兵士達を叱り付けて前方の敵に集中させながら、頑烈は内心で仰天していた。
「まさか先程の攻撃が当たったのか。いや、そんなことはあり得ない。第一、投石機は丈夫な材木や厚い板でできている。一つ二つまぐれで当たっても、すぐに消せるはずだ」
どうにも不可解だと思いつつも、背後から聞こえてくる大騒ぎからすれば投石機は燃やされてしまったのだろうと、頑烈はほぼ確信していた。
「また部品を運んであれを一から作り直すのか。……朝からの長い戦いが無駄になったな」
つぶやいた頑烈は、今日失った兵士の数を思い出して、激しい怒りと脱力するようなやり切れなさに大きな体を震わせた。
少し前、深松従寿は隊長の楢間惟鎮や武者達と総勢三十人で、東側の森の河原近くにひそんでいた。
彼等は昼の間に縄梯子で城の裏手から城外へ下りて森の奥に隠れていたが、城に赤い旗が掲げられたのを見て、森の中を川縁まで移動してきたのだ。見付からぬように息を殺し、身を低くして待つ内に、日が傾き、辺りが薄暗くなってきた。すると、城内で太鼓が激しく鳴り、八千の味方が城を出てきた。
盾の壁の前に投げられた草が燃えて煙が広場を覆うと、夕闇も手伝って視界がかなり悪くなった。少し離れると互いの顔が見えない。そこへ、焙烙玉と火矢の攻撃が行われ、恵国軍の各部隊が体勢の立て直しと奇襲への備えで手一杯になる。
と、だんだんだん、だんだんだん、と城の太鼓が三連打で響き始めた。合図だった。惟鎮が手で立ち上がれと指示し、三十人は森を出て河原を移動していった。それぞれ左手には草をたっぷり入れた木の箱を持ち、右手にはこれまでの戦いで鹵獲した鉄砲を持っている。体は黒い鎧で包み、顔を隠す兜も黒いものだ。つまり、恵国兵に化けているのだ。
彼等が動き出すとすぐに、敵の中央で悲鳴が起こった。城内の投石機が投げ込む硫黄の桶や大焙烙玉が効果を上げているようだ。煙の向こうからの攻撃で落下地点を予測できないため、橋の辺りの恵国兵達は怯えているが、周辺の部隊から救援の兵士が向かってくる様子はなかった。
「そろそろだ。油断するな」
足をゆるめて様子を見ていた先頭の惟鎮が低い声で言うと、再び速度を上げた。三十人は三列になって河原から広場へ上がると、いかにも命令で箱を運んでいるようなふりをしながら、投石機の方へ向かった。
城内からの攻撃が収まったので、周囲の恵国兵達は大声で叫びながら走り回って、砂や川で汲んできた水を燃え盛る炎にかけているが、なかなか消えないようだ。その間を、従寿達は顔を見られないようにうつむき、固まって歩いていった。
やがて、煙の中に巨大な投石機がおぼろげに見えてきた。だが、まだ少し遠い。用意している武器で確実に燃やすには、もっと接近する必要があった。
ところが、先頭の惟鎮が急に立ち止まった。向こうから投石機の守備隊らしい恵国兵が十人ほど近付いてくる。
しまった。もう少しだというのに。
従寿は周りが敵だらけのこんなところで見付かったら一巻の終わりだと恐怖に襲われたが、奥歯を噛み締めて震えに耐えていた。
警備隊の組頭らしい恵国兵は何かを話しかけながら近付いてくる。後ろの九人は皆鉄砲を持っている。
これはもう隠し通せない。少し遠いがここで投げて逃げるか、と仲間と目を見交わしていると、城内から四連打の太鼓が聞こえてきた。同時に、左手と右手から敵の大きな悲鳴が上がった。左右両翼への弓攻撃だった。
急に湧き起った騒ぎに敵の組頭は立ち止まり、振り返った。警備隊の兵士達も状況が分からず、不安そうにきょろきょろしている。
今だ!
惟鎮がくるりと振り向き、手を大きく振り上げて、煙の奥を指差した。
「行け!」
その叫び声を合図に、三十人は一斉に走り出した。従寿も箱を持って走った。
警備隊の恵国兵達は驚いて見送ったが、事態を理解した隊長が意味不明な叫び声を上げると、慌てて追いかけてきた。
火と煙と混乱で、他の兵士達はまだ気付いていない。従寿は慣れない恵国の鎧姿で必死に駆けた。
「もうすぐだ!」
仲間の叫び声に、煙で痛む目を凝らすと、巨大な投石機が間近にあった。
警備兵達の大声に、ようやく前方の兵士達が振り返り、数人が槍を構えて道を塞ごうとした。
「邪魔だ! どけ!」
従寿は走りながら右手の鉄砲を持ち上げて、思い切り投げ付けた。どうせ弾は入っていないし、重くて邪魔だったのだ。敵兵は驚いて槍で防ごうとしたが、鉄の塊を胸に食らって尻餅をついた。同時にその隣の恵国兵達もひっくり返った。見ると、仲間の武者達は全員、鉄砲を前方や横へ放り投げていた。
「たどりついたぞ!」
もう投石機は目の前だった。大きな塔の真ん中で長い丸太が真上を向いて立ち、天辺は煙の中で見えなかった。
「全員、投擲せよ!」
惟鎮が叫んだ。従寿は右手を箱の中に突っ込んで炮烙玉を握ると、既に火を付けて糊で弱く止めてあった木綿の紐を親指で中へ押し込み、箱を捨てて腕を振り上げた。
投石機のそばの恵国兵が騒ぎに気付いて何かを叫んでいる。従寿は構わず、右手の炮烙玉を全力で放り投げた。
「これでもくらえ!」
自分の口から飛び出したはずの言葉が、他の仲間達からも聞こえてきた。三十個の丸い素焼きの玉は、回転しながら投石機に向かって飛んでいき、半数近くが命中した。がちゃん、という土器の割れる音が次々に響き、巨大な機械のあちらこちらで炎が上がった。
「成功だ!」
思わず叫んだ従寿の耳に、大きな笛の音が響いてきた。他の味方へ作戦の成功を知らせたのだ。惟鎮が大声で命じた。
「全員、散開! 必ず生きて戻れ!」
「はい!」
三十人は一斉に叫ぶと、別々の方向へ逃げ散った。その背中へ恵国語の怒声が浴びせられた。意味は分かっている。殺せ、と言っているのだ。
従寿は出せる限りの速さで逃げたが、多くの足音が追いかけてきた。しかも、その数はどんどん増えていく。
さすがにまずいか。このままでは捕まる。
そう思った時、背後で山が揺れるような大きな鬨の声が起こった。森の中や盾の壁の味方だった。
恵国兵達が驚いて振り返った。影岡軍の突撃かと思ったのだ。
この戦いの前、恒誠は従寿達に頭を下げて言った。こんな博打のような作戦に志願してくれた君達には心から感謝している。しかし、大変申し訳ないが、助けには行けない。燃やすことに成功したら、我々は一斉に鬨の声を上げ、ありったけの矢や焙烙玉を放つ。敵が驚いて状況を確認している間に逃げて欲しい。俺達にはそれくらいしかしてやれない。囲まれたら降参してくれ、と。だが、隊長の惟鎮は「それで充分です」と言い、三十人全員が頷いた。皆、死の覚悟を決めていた。従寿も同じ思いだった。
とはいえ、やすやすと殺されるつもりはなかった。生き延びて城に戻り、敵の無様さを笑ってやる方がよほど痛快だ。味方の作ってくれたわずかな時間に行方をくらまそうと必死で走った。
仲間達は敵の隊列の中へもぐり込んだり、川へ飛び込んで対岸へ渡ったりとそれぞれ逃げる方法を事前に考えていたが、従寿は先程まで隠れていた森へ駆け込むつもりだった。上手くいけば敵の左翼に矢を射た味方に合流できるし、かなわなくても森の中を城の裏手へ回ることができる。幸い、敵の多くが追うのをやめて戻っていったので、とにかく一旦河原に下りて東へ向かおうと、喘ぐような荒い息で駆けていると、背後から大声が聞こえた。
「従寿殿、危ない!」
振り返ると、右やや後方を惟鎮が走っていた。その更に後ろで、一人の恵国兵が片膝を突いて鉄砲を構えている。ねらいは従寿で、もう引き金を引こうとしていた。
撃たれる! よけなくては!
そう思って右足を踏ん張り、左方向へ跳ぼうとした瞬間、足が滑った。小さな石を踏んだのだ。勢いのまま体が右へ流れる。このままでは転んでしまう。
「くっ!」
とっさに足を踏ん張り、手足をばたばたさせて辛うじて倒れるのは避けられたが、よろめいた体を元に戻すのは骨が折れた。そのわずかな時間、従寿は一ヵ所で止まってしまったのだ。
すぐに動かなくては。
そう思ったが、体が反応する前に後方で銃声がした。弾がこちらへ一直線に飛んでくる。背後のことだし、弾丸は高速だから見えるはずがないのだが、なぜかはっきりと分かった。
当たる! もうよけられない! 俺はここで死ぬんだ!
そう思った途端、目の前にこの数ヶ月の出来事が次々に浮かんできた。時繁との別れ。光姫と共に駆けた多くの戦場。穂雲にいる家族や友人達。
御屋形様に殉死を止められて生きよと命じられた。それから光姫様に出会って、今度こそこの方のために死のうと決意した。だから、覚悟はあった。後悔はない。思い残すこともない。ただ、一つだけ、あの人に思いを伝えられなかったことだけが残念だ……。
従寿が目をつぶった時、全身を激しい衝撃が襲った。思い切り体当たりされたのだ。惟鎮だった。全力で跳んだ勢いのまま、二人は絡み合って倒れた。
従寿は一瞬混乱したが、すぐに事態を理解すると身を起こして立ち上がろうとした。すると、体に覆いかぶさっていた惟鎮がうめき声を上げた。はっとして相手の体を見回すと、鎧の右肩が赤く染まっていた。
「撃たれたのですか! 俺を助けたせいで……」
従寿は感謝と感動と怒りで顔を歪めた。諦めかけていた自分が憎らしいほど恥ずかしかった。この場で土下座したい衝動にかられたくらい惟鎮に申し訳なかった。
「失礼します!」
従寿は早口に言うと、仰向けになって苦しそうにあえいでいる惟鎮の左腕をつかみ、脇に肩を入れて引っ張り起こした。
「歩けますか」
「何とか」
惟鎮は口を利くのも苦しいようだった。
「俺が必ず城までお連れします! あなたは俺を助けてくれた。今度は俺の番です!」
決め付けるように叫ぶと、従寿は可能な限りの速さで歩き出した。惟鎮は傷が痛んで体に力が入らないらしいが、どうにか転ばぬように足を動かしている。振り返ると、恵国兵は鉄砲の弾込めに忙しそうだった。
従寿は惟鎮を引きずるようにして広場の端までいくと、河原へ下りて橋の下に隠れた。
もうすぐ日が暮れる。そうなれば、この黒い鎧と兜は自分達を闇に溶かしてくれるはずだった。
どうかそれまで俺達をお守り下さい。
従寿は惟鎮の鎧を脱がせて血止めを素早く済ませ、一番奥に横たわらせると、木の柱に身を寄せてできる限り縮こまりながら、生まれて初めて心の底から大神様に祈った。
「まだ帰ってきませんか?」
大手門の櫓の上で、光姫は眠い目をこすって、もう十回目以上になる言葉をまた繰り返した。
「はい。広場には全く人影がありません」
見張りの武者の返事はまた同じだった。
「そう……、遅いわね」
「申し訳ありません。一生懸命探しているのですが……」
ついがっかりした声を出したら武者が謝ったので、光姫は首を振った。
「あなたのせいではないわ。気にしないで」
そうして、今度は聞こえないように小さく溜め息を吐いた。
出撃していた全軍が城へ引き上げて随分経つ。広場には既に敵も味方も一人もいなかった。深夜はとうに過ぎ、そろそろ夜が明けようとしていた。
投石機へ向かった決死隊から成功を告げる笛の音が聞こえると、影岡軍は一斉に出せる限りの鬨の声を上げ、残りの矢や焙烙玉を全て敵陣へ浴びせた。そして、その攻撃と投石機を燃やされた衝撃で敵が混乱している間に、城内からの援護を受けつつ光姫の騎馬武者隊、急いで森から引き揚げてきた追堀師隆率いる弓隊一千五百、最後に盾の壁の部隊八千が無傷で城に引き上げた。
恵国軍は日が暮れてからもしばらく広場に留まって消火活動をし、隊列を組み直していたが、明らかに動揺しており、元気がないように見えた。やがて対岸から指示があったらしく、恵国軍三万二千は少しずつ橋を渡って去っていき、川向こうの部隊も豪農の家に置いた本陣へ帰っていった。
どうやら敵は今日のところは負けを認めたらしいと分かると、城内は大歓声に包まれた。これで涼霊という敵の軍師に三連勝したのだ。しかも、今回は離れたところから矢や炮烙玉を放っただけなので、軽傷者が若干出ただけで済んだ。もちろんそれはたまたまで、弾に当たる時は当たるものだが、それでも死者や重傷者なしという結果に皆が深く安堵したのは確かだった。
後はこの勝利の最大の功労者である投石機攻撃隊の帰還を待つだけだったが、十人は他の部隊に合流して戻ってきたし、十二人はすぐに門にたどり着いた。残りの六人も城の前の空堀や西側の河原で声を上げて縄ばしごで登ってきたが、楢間惟鎮と深松従寿の二人だけは行方が知れなかった。しかも、最後に戻ってきた武者が二人が撃たれるところを見たと言ったため、城内の人々の表情は一転して暗くなった。だが、確かめるために小荷駄隊を出そうにも、もう深夜なので、夜が明けるまで待つしかない。
明日も敵が来るかも知れない。体を休めておくべきだ。恒誠にそう言われて皆寝に行き、惟鎮を待っていた実鏡も説得されて渋々部屋に下がったが、光姫は起きていた。従寿が心配で寝てなどいられなかったのだ。
「こうして待っているのは、やっぱり依怙贔屓なのかしら」
光姫は昨夜師隆に言われたことを思い出してつぶやいた。
「姫様が従寿殿を心配なさるのはよく分かりますし、私も気持ちは同じです。ですが、姫様は将です。一人の武者だけを気にかけるのはあまりほめられたことではありません」
具総も同意見だったが、光姫が「私は起きているわ」と言うと、二人の家老は顔を見合わせ、仕方がないという風に「では、我々は休ませて頂きます。姫様もお早目にお休み下さい」と言って寝所に下がっていった。
「師隆さんの言うことは分かるわ。正論だとも思うの。でも、心配なものは心配なのよ」
光姫がつぶやくと、輝隆は複雑な顔をした。起きている主君に付き合っているのだが、父達の意見とどちらに賛成したものか困っているのだ。
「私は姫様が正しいと思います」
湯呑と急須と握り飯ののった盆を持って、お牧が櫓の階段を上がってきた。光姫の夜更かしをとがめなかったのは彼女だけだった。
「身近な人の無事を願うのも、起きて待っていたいと思うのも、人として自然なことです。私もあの人が生きているか気になります。……本当に、みんなに心配ばかりかけるんだから。姫様に徹夜させるなんて」
後半は少し怒ったような口調だった。お牧は昨日光姫と一緒に二回も出撃したので疲れているのだろう。早く布団に入りたいのかも知れない。
「私はいつまでも兄を待ちます」
福子は最初から起きているつもりだったらしく、落ちてくるまぶたと戦いながら眠気覚ましの熱い茶をすすっている。
「恒誠さんはどう思いますか」
光姫は黙って座って大社酒を時々口に運んでいる若い軍師に尋ねた。光姫達は小さなござに集まって腰を下ろしている。立っているのは疲れるからとお牧が持ってきたのだ。
「俺はどちらも正しいと思う」
恒誠は実鏡を寝させたし、投石機攻撃隊の帰還が困難であることを一番よく分かっていてなお命じた立場なので、将としての振る舞いを優先するべきだと言うだろうと思っていたが、違っていた。
「どういうことですか」
意外だったので尋ねると、恒誠は木の椀を握ったまま何かを考えている様子でしばらく無言だった。返事をするつもりがないのかしらと思ったが、それでも彼の考えが気になり、再度問いを繰り返そうとした時、若い軍師はつぶやくように言った。
「将だからと言ってなんでも割り切れるわけではない」
「えっ……」
光姫が思わず驚きを声に出すと、恒誠は急いで言い直した。
「将だからといって、なんでも割り切ればよいというものではない、ということだ」
似ているようで違う言葉に首を傾げると、遠くが少しずつ白み始めた空を眺めながら説明してくれた。
「大将は命令に従う全ての配下の死に責任がある。だから、一部の家臣だけを心配し、その死だけを強く悼むのは不公平だ。とはいえ、人は近い者に深い情を抱き、遠い者には浅い情しか持たないものだ。親しい者とほとんど話したことのない者の死を同じように悲しめと言っても無理な話だ」
そう語る恒誠の言葉は、光姫に語り掛けているというよりも、これまでの戦いで死んでいった者達へ詫びているように聞こえた。
「だが、公平でないからと言って、親しい者を失った時に平然としていることが本当に立派なことなのか。俺はそうは思わない。彼等の死を自分が心から悲しむからこそ、親しくなかった者達の近親者の悲しみを察することができる。死者に対する礼や報い方は平等であるべきだが、個人として悲しみ心配することはまた別で、少しもおかしなことではないと思う」
恒誠はどうやらこれまでの戦を思い出しているらしかった。織藤家の武者も少なからず亡くなっているし、まだ生きている者達の中に死なせたくない誰かがいるのかも知れない。
「それに、あなたは昼の戦いで、包囲された武者達を危険を顧みず助けに行った。あなたが武者達全員を大切にし、見捨てないことを皆が知っている。多くの将は矢弾に身をさらさずに後方から命令を下し、必要なら部下を見殺しにするが、あなたはそうではないことを自ら証明した。光姫殿は武者達にとって共に戦う仲間の一人なのだ。だから、あなたが同じ仲間である従寿殿を心配しても、依怙贔屓だとは思わないだろう」
「恒誠様……」
輝隆が驚いたようにつぶやいた。お牧と福子も目を見張っている。
「光姫殿の魅力は真っ直ぐで自分の気持ちに素直なところだ。親しい家臣を本気で案じ、彼等の死に涙を流すのが自然に感じられる。無理に悲しみを押し殺してしかめっ面を作るところを俺は見たくない。恐らく、この城の者達は皆そう言うだろう。逆に俺の場合は、女々しい態度を見せたり不公平な扱いをしたりしたら支持を失う。人それぞれということだ」
恒誠は一瞬光姫に目を向け、すぐに空へ戻した。
「あなたにはあなたらしくあって欲しいと思う。それがあなたの強さを根底で支えているものだからな」
そんなことを言われるとは思っていなかったので、光姫はびっくりした。
「でも、姉様達にはよく、あなたは泣き虫ね、もっとしっかりなさいと言われましたよ……?」
どう反応してよいか分からず首を傾げながらこう言ったが、思い返してみると二人の姉の言葉に責める響きはなかったことに気が付き、あれは励ましてくれていたのかしらと考えていると、別なござに座っていた若い武者が突然立ち上がって叫んだ。
「わ、私も恒誠様に賛成です! 光姫様は我々を心から案じて、こうして待っていて下さいます。だからこそ、我々はあなたのもとで戦うのが誇らしいのです!」
そばにいた他の二十七人が頷いた。投石機攻撃隊の生還者達だった。大きな怪我をした者もいたが、皆寝ること拒んで仲間の帰りを待っていたのだ。叫んだ武者は槍の兄弟子の惟鎮に付いていくと志願したまだ二十一歳の若者だった。
「それから、恒誠様が我々武者の命を大切にして下さっていることもよく分かっております!」
次に、若い武者は恒誠に体を向けて頭を下げた。
「失礼ながら私とさほどお年が違わないのに、本当にお見事な作戦だといつも仲間と噂しております! 特に、このたびの、成功の笛の合図の直後の鬨の声は、涙が出るほどうれしかったです! あれがなければ生きては帰れませんでした! あなたは我々の命の恩人です! 全く女々しくなどございません!」
武者は言うなり泣き出した。
「ですから、ですから、惟鎮様と従寿殿にも、是非生きて帰ってきて欲しいのであります! お二人に迎えて頂きたいのであります!」
帰還者達は皆涙を浮かべて「その通りです!」と口々に言った。恒誠は呆気にとられていたが、光姫の微笑みに気が付くと、この武者に何かを言ってやらねばならないと思ったらしく、困った顔で口を開こうとした。だが、上手く言葉が出てこないらしい。
そんな恒誠を光姫がおかしく思っていると、階段を駆け上がってくる慌ただしい足音が聞こえた。
「恒誠様、光姫様、帰ってきました!」
織藤家の顔見知りの壮年の武者は、満面に笑みを浮かべていた。
「惟鎮様と従寿殿が東側の草地に現れました。惟鎮様がお怪我を負われているようですが、ご自分で手を振っておられます!」
大きな歓声が上がった。
「無事だったのね! よかった!」
「生きて戻ってきたのですか。うれしい知らせですね。ほっとしました」
光姫と輝隆は思わず腰を浮かせた。
「今、縄梯子を下ろしています。もうじき上がってこられるでしょう」
「分かったわ。ありがとう。実鏡さんにも伝えてあげて。すぐに起きられるように寝間着には着替えないと言っていたから、声をかけても大丈夫よ」
「ただちに参ります!」
武者はうれしそうに頭を下げて、階段を駆け下りていった。続いて、神雲山に感謝の祈りを捧げていた二十八人が、光姫達に「お先に失礼致します」と一礼して、飛び下りるような勢いで階段を下っていった。
「さあ、私達も行きましょう」
光姫が声をかけると、夢を見ているような顔だった福子がはっと気が付き、「早くお父様に知らせないと!」と急に立ち上がろうとしてよろけた。それを光姫と輝隆が支えた時、背後で激しい泣き声が起こった。お牧だった。立ったまま口を両手で押さえて涙をぼろぼろこぼしている。
「お牧、そんなに心配していたのね」
光姫が歩み寄ってやさしく言うと、侍女は激しく頭を振った。
「もう、知りません、あんな人。こんなに心配させて」
言いながら、お牧は手拭き布で目をぬぐい、光姫が伸ばした手を握った。
「恒誠さんは行かないのですか」
櫓を出て行こうとしていたので、背中に声をかけると、恒誠は首を振った。
「怪我の原因になった命令を出したのは俺だからな。よく戻ってきた、なんて偉そうに言う資格はないさ」
「それは違います」
光姫はお牧の手を握ったまま恒誠に言った。
「将と武者という違いはあっても、私達は同じ城で共に戦っている仲間です。仲間の無事の帰還を迎えるのに遠慮はいりません。むしろ、手柄を立てた二人を思い切りほめてあげるべきです。先程あなたは素直なことはいいことだと言ったはずです」
恒誠は虚を突かれた顔をして少し迷っていたが、「そうだな。俺も行こうか」と言って照れたように笑い、先に階段を下りていった。
「さあ、二人を迎えに行きましょう」
同じように涙ぐんでいた輝隆も加えて、光姫達はそろって東の城壁へ向かった。




