(第六章) 五 ろ
「今日はいい天気ね」
蓮月十三日の朝、上郭の物見櫓の上で、光姫は強い風に吹かれながら空を見上げていた。
三日前、硫黄で恵国軍を撃退した日は夜になって雨が降り出し、翌日の昼前まで続いた。昨日も曇りがちだったが、今朝はほとんど雲がない。もちろん、霊峰の神雲はいつも通り山の首元にかかっている。
「暑くなりそうね」
「そうですね。夏らしい日になるでしょう」
光姫のつぶやきに、隣で輝隆が返事をした。一年で最も暑い時期だから普通のやり取りだが、どちらの言葉にもそれほどうんざりした響きはなかった。
雲居国の夏は比較的過ごしやすい。南寄りの風が神雲山を駆け登り、神雲を作って水分を落としてから平野へ吹き降ろすので、湿気が少ないのだ。夏の影岡では、霊峰から吹く風や氷菓子で体を冷やしながら露天風呂に繰り返し入るのが観光客に人気だ。山の麓に多数の洞窟があって、冬にできた氷を保存してあるのだ。光姫も先日、冒進軍に勝った祝いに町の人が届けてくれたかき氷を食べて、冷たさと甘さに感激した。
光姫は南風に長い黒髪をなびかせて霊峰を見つめていたが、振り返って北の方角へ目を向けた。すると、具総が言った。
「恒誠様のおっしゃった通り、敵は正面から来ましたな」
家老の言葉に光姫は頷いた。
影岡城の大手門の前は砂地の広場になっていて、すぐ先を御涙川が西から東へ流れている。その川の対岸に、黒い鎧が多数見える。二万五千ほどいるだろう。一方、影岡軍は橋のこちら側、城の前の広場の中央付近に盾を横一列に並べ、その後ろに弓隊や投石隊が隠れている。武者の半分以上が城外に出て、橋を渡ってくる敵を迎え撃つのだ。
「こちらが待ち構えているのに、敵は橋を渡ってくるでしょうか」
光姫が尋ねると、周囲の視線を浴びた恒誠が黒い軍配の先を対岸へ向けた。
「そのはずだ。重く大きな部品をたくさん運ばなければならないのだからな」
敵兵の群れの中央に、角材や木の板を組み合わせたものが十数個置かれているのが見える。
「あれをこちらの岸まで持ってきて組み立てるつもりなのね」
光姫が言うと、実鏡が眼下を見下ろした。
「あんな大きなものを敵前で作るのですか」
物見櫓のすぐ下には巨大な投石機がある。この城に来てすぐ、恒誠が設計して作らせたものだ。影岡の大工達は随分苦労していたが、何とか恵国軍の進軍開始前に完成した。他に、中郭の先端にもう少し小さな投石機が二台、下郭の左右のこぶの指揮所の前にも可動式の小型のものが一つずつある。
そして、敵陣の木製の物体も、恐らく投石機の部品だった。昨日、敵の本陣を偵察させた者達が試射しているところを見ているので間違いない。
「敵はそうせざるを得ないのですよ。無茶を承知でこちらの岸に投石機を設置しようとするはずです」
若い主君の問いに、楢間惟延が答えた。
「硫黄がある限り、はしごをかけて崖をよじ登るのは困難です。門を攻めるしかありませんが、この城に門は一つしかないのです」
息子の楢葉惟鎮も同意見だった。
「その通りです。この坂を盾で身を守りながら歩いて上るのが無理なことは敵も既に知っています。まして、大手門まで破城槌を運ぶなど到底不可能です。となれば、遠くから何かをぶつけて壊すしかありません」
餅分具総が続けて解説する。
「ですが、対岸からでは大手門に弾が届きませぬ。大手門は左右のこぶの間に引っ込んでいる上、坂の上にありますからな。ゆえに、こちらの岸に設置する必要があるわけです」
「そして、投石機の部品を運ぶには、橋を使うのが一番楽なのです」
最後のまとめは追堀輝隆がした。
「敵は一度作った投石機を分解して持ってくるつもりでしょうが、すぐに組み立てられるようにすれば一つ一つの部品はどうしても大きく重くなり、運ぶのは数人がかりになります。しかも、川は胸までつかる深さで、底に乱杭、河原に逆茂木があり、そんなものを持って移動するのはかなり大変です。もしうっかり壊したり流されたりすれば作り直しですから、橋を渡るのが結局は一番早くて確実な方法なのです」
「つまり、敵は必ず橋を確保しようとするので、あそこへ出て橋を渡ってくるのを邪魔するのですね」
福子がまとめると、実鏡は納得した顔をして、恒誠へ尊敬のまなざしを向けた。
「そうだ。そのために敢えて橋を壊さなかったのだ。どこから渡河してくるか分からないと守りにくいからな」
驚くべきことに、恒誠はこれを三日前の時点で予想していた。恵国軍が硫黄に驚いて撤退していくと、恒誠はその夜に光姫達を呼び集めて、攻撃は早くて三日後だろうと言ったのだ。
恵国軍は兵士を休息させて体勢を立て直し、投石機を作るはずだ。しかも雨が降った。増水した川は渡りにくいので、もう一日試射や調整に使うだろう。だから、あと二日は攻撃がない、と。
そう説明されて武者達は安心し、疲れを取るために昼間から交代で睡眠をとった。起きている者は武具や鎧の手入れをし、空堀や城の周囲の敵の遺体を片付けて、落ちている武器や矢や投げた石を拾った。矢は使えそうなものはそのまま再利用し、折れたり曲がったりしているものは矢羽を外して木の部分は薪にする。特に矢尻は貴重だから、歪んでいるものも持ち帰って鍛え直すのだ。
こうして十分に体力と気力を回復させた武者達は、既に持ち場に付いている。裏手と東西は五百人に手分けして警戒させ、大手門と左右のこぶに合わせて二千五百、二千が騎馬武者隊、八千が外の広場にいる。
今後数日の敵の動きの予測とこちらの防御計画も既に聞いているが、城内にそれを疑う者はおらず、先の先のことまで準備が進められている。この人の頭の中は一体どうなっているのだろうと光姫は思うが、理解を超える相手を気味悪がって遠ざけるようなことはしなかった。頭脳で他人に劣ることを光姫が素直に認め、反発したり悔しがったりしないのは、華姫や泰太郎の存在もあったにせよ、生来の素直さとすぐれたものを認められる柔軟さ、暗い感情を正当化しない誇り高さゆえだろう。他の者達も、何しろこれまで十分な実績があるので、恒誠の判断や提案を信じている。
とにかく、この若い武将のおかげで、大軍に攻められている最中だというのに武者達に敗北への恐怖があまり見られない。この人に従っていれば勝てると武者達に思わせる人物を名将と呼ぶのであれば、恒誠は間違いなく名将だった。
見た目はあまり立派な武将らしくないけれど。
そう思いながら相変わらず不精髭の伸びた横顔を眺めていると、恒誠がこちらへ目を向けた。考えを見抜かれたようで光姫は恥ずかしくなり、慌てて分かっていることを尋ねた。
「武者達が橋のそばでなく、広場の中程にいるのはなぜですか」
光姫の動揺には気付かなかった顔で、恒誠は説明してくれた。
「御涙川は河原が広いが、対岸からでも広場の北の部分が鉄砲の有効射程範囲に入る。だから、こちらはやや下がったところから橋や川を渡ってくる敵を攻撃する。あそこなら敵が河原に下りて水際まで出てきても、恐らく弾は兜や鎧を貫通しないだろう」
「それでもこちらの矢は届きますものね」
「そうだ。鉄砲は矢より射程が長いが、神雲山から吹き降ろす風が味方には有利に、敵には不利に働く。その上、河原はゆるやかな坂で、水面から広場までは大人の背丈ほども高さが違うから、こちらは上からねらうことができる。実佐公はよいところに城を造ったな」
先祖をほめられて実鏡はうれしそうに顔をほころばせた。
「曽祖父は長年の戦で得た教訓をこの城に活かしたと聞いています。これなら勝てそうですね」
実鏡は城外に出ている武者達が心配だったのかほっとした様子だったが、恒誠は首を振った。
「勝てはしない。渡河はされてしまうだろう。少しでも時間が稼げればよいのだ。できれば一日、せめて半日は持ちこたえたい」
「そういえば、勝つ必要はないのでした」
恒誠の言葉で、実鏡はこの戦の目的を思い出したらしい。
「そうだ。俺達の役目は敵を雲居国へ留めることだ。望天城で政変が起こって既に二ヶ月、そろそろ鷲松巍山が都を出発してもよい頃だからな」
影岡城に来た当初から、恒誠は恵国軍を打ち破る必要はないと考えていた。敵は大軍で勝利は困難だ。よって、敵の撃破は巍山に任せる。恒誠はそう言い切った。
確かに、豊梨家の貫高と武者数を考えれば、敵を都へ行かせないだけで十分な働きと言える。貞備などは、巍山が手柄を立てれば統国府の乗っ取りを阻むことは困難になると悔しそうだったが、実現可能な目標を立てるべきだ、守り切るだけでも相当な難事だと言われて諦めた。
水軍頭の楠島運昌のもたらした情報では、巍山軍十万四千は既にほとんどが集まっているらしい。となれば、都から影岡までは三日の距離なので、最大であと十日も持ちこたえればよいはずだと恒誠や家老達は考えていた。
一方、恵国軍も全軍を雲居国へ集めようとするだろう。そうなっては勝つのは難しくなる。敵が勢ぞろいする前に打ち破るように巍山に進言することを、運昌は約束してくれた。
「僕達は敵にとって目障りな存在になり、この城を落とさなければ先に進めないと思わせればよいのですね」
「そうよ。全力で守りを固めて敵を引き付け、援軍を待つのよ」
実鏡と光姫が視線を向けると、恒誠は言った。
「月下の陣所でも言ったが、籠城は援軍を前提にした戦い方だ。単独で敵を倒せるなら城に籠る必要はない。俺達は守りを固めて敵の攻撃を撃退し、戦いを長引かせて巍山軍を待つ。それが役目だし、武者達を守ることにもなる。だから、無理な決戦はしない」
光姫達全員が頷いた。
冒進軍や班如軍は合戦で勝てる相手だったので、打ち破って恵国軍の注意をこちらに向けさせた。追い返せば次が来るまでしばらくかかるから、やはりそれが一番なのだ。だが、目の前の敵はそうはいかない。五万の大軍で、名軍師が指揮をとっている。
三日前の戦いは勝ったとは言えない、むしろ負けだ、と恒誠は言った。本当は、総攻撃を三日ほど耐えてから硫黄を使う予定だった。つまり、四日は稼ぐつもりだったのだ。なのに、こちらに有効な防御手段があるのか探ろうとした敵軍師に少し本気で突かれただけで危機に陥り、あっさり奥の手をさらしてしまった。結果、敵はたった一日で無駄な攻撃を切り上げることができた。当然、兵士の死傷も少なくて済んだ。しかも、すぐに次の作戦を用意してくる。やはりこの敵は恐ろしい。そう恒誠は涼霊をほめていた。
とはいえ、まだ戦いは始まったばかりだ。硫黄使用の次の作戦は、敵が投石機を作るのを邪魔して完成を遅らせることだと皆で確認してある。今回城を出て橋を守るのもそれが目的だ。稼げるのがわずかな時間でも、できることは何でもやる。嫌がらせのような作戦を積み重ねて、敵に苦戦を強いるのだ。
光姫達が互いの表情に表れた決意を確認し合っていると、対岸から銅鑼を激しく叩く音が聞こえてきた。
「そろそろ始まるようだな」
恒誠が実鏡に言った。
「俺はここで全体を見ている。門と二つのこぶの武者の指揮は任せる」
「はい」
補佐に付く楢間親子も頷いた。
「光姫殿も準備をしてくれ」
「分かりました」
光姫は騎馬隊と待機し、城外の部隊が危なくなったら駆け付けることになっている。馬廻りである輝隆も一緒だ。餅分具総は既に城外の盾の列の陰にいる奥鹿貞備や追堀師隆に合流する。
「さて、敵のお手並みを拝見するとしようか」
恒誠の言葉を合図に、光姫達は櫓を降りて持ち場へ散っていった。
『花の戦記』 影岡城合戦図 その一
「先鋒隊、前進せよ」
光姫が二千の仲間のところへ到着した頃、川の対岸では頑烈が命令を下していた。合図の銅鑼が鳴ると、整列していた盾兵が畳の長い方の縁二枚分ほどの幅の欄干のない橋を進み始めた。その後ろに鉄砲兵と槍兵が続く。
同時に、橋の左右で、多数の盾兵と槍兵が河原に下りて、川へ接近していった。それを援護するため、背後の岸辺から鉄砲隊が間断なく発砲音を響かせて、影岡軍を牽制する。
恒誠の言った通り、対岸からの射撃では遠過ぎるらしく、影岡軍に降り注ぐ弾丸は両面に鉄板を張り付けた厚い樫の盾や鉄製の兜に当たると貫通せずに跳ね返っていく。それでも、防護のないところに当たったら危険だから、武者達は皆盾の内側に隠れて、降り注ぐ敵の弾に耐えていた。
鉄砲隊は相手側の反撃がないと知ると、盾兵に守られつつ水際まで下りてきた。距離が近付いたので、弾丸の威力と命中率が少し高くなる。それでもねらって当てられる距離よりは遠かった。
もともと恵国の鉄砲は多数を同時に使用して弾丸の雨を降らせることを想定した設計で、遠距離の狙撃には向いていない。実護を撃った恵国兵も、まさか胸に命中するとは思わなかったに違いない。直照をねらった霞之介などは、命中率重視の改造を施した自分専用の鉄砲を工房に作らせている。
「障害物を破壊せよ!」
全軍が河原に下りると、橋のたもとにいる頑烈が再び銅鑼が鳴らさせた。恵国軍から十人ずつの組が数十、盾で身を守りながら川へ入っていく。兵士達は胸元まで水につかりながら、大きな鎌で乱杭に幾重にも張られた綱を切っていく。乱杭は三列打ち込んであるので、一列切っては前進し、また切っては進むのを繰り返して少しずつ近付いてくる。やがて、三列全てに道を作ると、南の河原へ上がって、四列ある逆茂木を壊しにかかった。
ここでようやく影岡軍は攻撃を始めた。それも全員ではなく、弓の上手い者達が五人組五つごとに担当する敵を決めて、ねらい撃ちしていく。矢の数はさほど多くないが、さすがに集中攻撃されると防ぎ切れず、敵兵はばたばたと倒れていく。すると、新しい組が川を渡ってやってくる。次々に交代しながら、恵国兵は四列の逆茂木に確実に通り道を空けていった。
「全軍、渡河せよ!」
それが橋の左右各数十ヶ所に増えた時、銅鑼ががんがんと鳴り響き、頑烈の太い叫び声と共に河原の恵国兵が一斉に川へ入り始めた。鉄砲兵も自分の武器と弾薬を濡らさぬように上に持ち上げて、次々に水に飛び込んでいく。橋の左右に八千ずつ、合わせて一万六千の兵士が恐怖を追い払うように大声で叫びながら川を渡る様子は、まるで黒い闇がうごめきながら押し寄せてくるようだった。
それを見て、師隆と具総が叫んだ。
「全員、攻撃開始!」
「慌てず、ねらいは慎重に付けるのだぞ!」
武者達は皆盾の上にわずかに体を出して、矢や石を敵に浴びせ始めた。
弓武者は敵を逆茂木のこちら側に出さないことが役目だ。狭い隙間を通る時、敵は一人ずつになって歩みが遅くなるので、そこをねらうのだ。投石紐を使う武者達は、逆茂木の向こうにいる敵に鉄砲を撃たせないように邪魔をする。
この分担は成功し、恵国兵は逆茂木の陰に隠れたまま前進できなくなった。狭い通り道に入った途端集中攻撃を浴びるからだ。影岡軍は左右数十ずつの通り道をそれぞれ三千五百で守ればよい。三十五ヶ所穴があれば一つを百人で担当する計算だ。
恵国軍は先に盾兵を通そうとするが、大きな盾を前に構えていても次々に飛んでくる矢や石を完全に防ぐことは難しい。上手く抜けられても少数では前進できないので、後の兵士が出てくるまで逆茂木のそばで待たなくてはならず、その間も矢や石は容赦なく降り注ぐ。苦労して通り抜けたものの、その先で射抜かれて倒れていく者は多数に上り、恵国軍は黒い死体の山を築いていった。
一方、橋の上では、中程まで進んだ恵国兵が、貞備率いる中央部の千人の攻撃にさらされて動けずにいた。こちらの恵国兵も苦しかったが、河原の仲間達よりはましだった。影岡軍は盾の陰に隠れていて接近して来ないし、途中に障害物はないから、正面と上と横に盾を構えて並んで前進すれば渡り切れる。
だが、この狭く長い橋は一度に通れる人数が少ないため、一気に走って影岡軍の盾の壁に突撃するには兵士の数が足りない。川を渡っている左右の仲間達と息を合わせた攻撃でないと撃退されてしまうだろう。橋の上の恵国兵達は矢や石の雨に耐えて時折鉄砲を撃ち返しながら、逆茂木のそばで倒れていく仲間達を横目に見てじりじりしていた。
影岡軍の守りの堅さに、恵国軍は攻め切れず、かといって今更撤退もできずという状況に陥っていた。このままではとても広場に進出できない。影岡軍の方は倍の敵を予想以上に上手く抑えていることに自信を持ち、これなら守り切れるかも知れないと思った。
「敵もなかなかやるではないか」
だが、対岸で橋のそばに立って督戦していた頑烈の顔には余裕の笑みがあった。
「そろそろだな」
つぶやくというには大きな声で漏らして後ろを見ると、予備兵三千と投石機の設置部隊二千からなる涼霊の本陣で、黒地に白い虎の大将旗が大きく左右に揺れ、銅鑼が激しく叩かれる騒々しい音が鳴り響いた。
すると、広場の東の森から五千ほどの恵国軍が現れた。涼霊は影岡軍が城を出て渡河を邪魔してきたら苦戦するだろうと予想して、一部の兵士に別な地点で渡河させていたのだ。影岡軍は橋の前に固まっているのだから当然の作戦だった。川全体に乱杭や逆茂木を設置することは不可能なので、それらがない部分を渡らせればよい。森の中にも柵や空堀はあるが、守備の武者がいないので簡単に越えられたのだ。新手の軍勢は槍と鉄砲と盾を構えて、やや速足で影岡軍の右側面へ迫っていく。
しかも、それと息を合わせるように西の森からも恵国軍が現れ、御涙川を渡り始めた。城の西を北上してきた川が東へ曲がる手前だ。もちろん乱杭と逆茂木があるが、大勢で一斉に川へ入り、次々に壊しながら渡ってくる。
いきなり横手に敵部隊が現れ、三方から囲まれる危機に陥ったことに影岡軍の武者達は驚いて、将である貞備と師隆と具総を振り返った。だが、さすがに三人は慌てず、視線を交わして頷き合うと、中央の一千と、隣接する一千ずつ合わせて三千は貞備の指揮でそのまま橋の上と前方の敵に攻撃を続け、左右両翼の各二千五百は師隆と具総の命令でやや下がって、東と西の新手の方へ隊列を向けた。そうして、三方に矢や石を放って敵の広場への進出をできるだけ遅らせながら、盾の壁を少しずつ下げて、全体で城門の方へゆっくりと後退を始めた。
「よし、敵は逃げ始めたな。正面の隊は全員この機に渡河し、隊ごとに集合が終わり次第、前方の敵に突撃せよ。打撃を与えて追い払った後、城の前の広場を占領するぞ。わしも向こう岸へ渡る」
頑烈は周囲の兵士を従えて橋に向かって歩きながら、作戦の成功を確信した。今まで少なくない被害が出ても後退せずに影岡軍の攻撃に耐えていたのは、敵の目を引き付けて東と西の味方に気付かせないためと、影岡軍の矢や石が残り少なくなったところで一気に攻勢に出るためだったのだ。この作戦の目的は敵の殲滅ではないが、せっかく城を出てきてくれたのだから、無理をしない範囲で叩いておくことは無駄ではない。
河原の恵国軍が一斉に前進を始めたのを見て、東の森から現れた五千を率いていた鍾霆将軍はにやりとした。
「涼霊殿の予測通りになってるな」
影岡軍は慌てて城内へ撤退しようとしているが、大手門の前の坂道は細く、全員が登り切るには時間がかかる。防衛に有利なこの構造は、急いで逃げ込みたい時には不利になるのだ。
鍾霆は猛将だ。武芸の腕でも突撃のすさまじさでも禎傑軍一だと自他共に認めている。狐ヶ原では華姫の指示で討伐軍の本陣を急襲し、杏葉直照を自分の手で討ち取った。
今、目の前の影岡軍を包囲殲滅すれば城兵を半分にできる。涼霊が東側の五千を自分に任せたのは突進力を期待してことだと鍾霆は理解していた。
「先頭の兵は盾を構えて前進。次に鉄砲兵一千だ。槍兵四千はその後ろに続け。敵に接近し、鉄砲の一斉射撃の後、突撃を敢行する。それを見れば正面と西側の味方も同調するだろう」
正面の部隊と橋の上の兵士達は広場へ少しずつ入ってきて、各組が隊長の元に集合して隊列を整え始めていた。西側の五千も半数近くが渡河を終えている。広場には三万の恵国軍が集結しつつあり、影岡軍八千が四倍近い敵に押しつぶされるのは時間の問題と思われた。それを救おうと城内から矢や石が飛び始めたが、まだ少し距離があるためねらいは甘い。
「先頭以外は全員、盾を城の方へ向けろ。そろそろ敵に追い付くぞ。鉄砲隊は斉射用意。発砲と同時に槍隊は一気に走り、盾の陰に引っ込んだ敵が攻撃を再開する前に盾を蹴り倒して中に躍り込むぞ!」
鍾霆は戦いの高揚感に身を震わせながら唇をなめた。
「あまり城壁に近付き過ぎるなよ。涼霊殿に城からの攻撃に気を付けろと言われてる。何か策を用意しているかも知れないってな。だから、敵に突っ込んで、一気に混戦に持ち込んじまうぞ。そうすれば、上から矢を射かけるわけにはいかねえだろうからな!」
影岡軍の右翼は鉄砲隊に気が付いて盾の隙間を詰め、必死で石や矢を浴びせて射撃を阻止しようとしている。だが、この近距離では盾から顔を出していては兜を射ぬかれる。多数の銃口を向けられると、武者達は皆頭を下げて弾丸の嵐をやり過ごそうとした。
「よし、盾を開け。鉄砲隊、放て!」
虎が吼えるような鍾霆の大声が響き渡ると、戦場に一千の銃声が響き渡った。白い煙が一瞬辺りを覆い、すぐに神雲山から吹き降ろす風に流されていく。
「突撃だ! 槍兵全員全力で走れ!」
鍾霆が更に大声を張り上げて兵士に命じ、自分も腰の巨大な愛刀を抜いて駆け出そうとした時、後方で大きな悲鳴が上がった。横手から奇襲を受けたのだ。
「なにっ、敵の新手だと? どこから出てきやがった!」
鍾霆が叫んで振り返ったところへ、今度は城内から大量の石や矢が降り注いだ。鍾霆は慌てて兵士達に防御態勢をとらせようとしたが、五千の部隊は既に大混乱に陥っていた。
実は、鍾霆は知らなかったが、広場の東西から恵国軍の別部隊が現れた時、この展開を予想していた者が影岡軍にもいた。恒誠だ。涼霊が城兵は広場に出てきて渡河を邪魔するだろうと読んでいたように、恒誠はそれに対して敵が打ってくる手を考えて、対策を用意していたのだ。森の中の空堀と柵を少数の義勇民に見張らせておいたので、鍾霆隊の接近を恒誠はとうに知っていた。
「時間稼ぎもここまでか」
物見櫓にいた若い軍師は、東の森から恵国軍五千が出てきて前進を始めたのを見ると、目をそちらへ向けたまま、そばに控えている武者に向かって黒い軍配を突き出した。
「光姫殿に合図を」
「はっ!」
武者は櫓の反対側の窓へ向かい、眼下の仲間に「旗を揚げろ!」と叫んだ。すると、下にいた武者が「了解!」と叫び、次々に命令が伝わって、中郭の城壁に沿った足場の南東の隅で、大きな赤い旗が振られた。城の東の森の中に隠れている光姫隊への合図だった。
光姫は中郭から縄ばしごで密かに城外へ出て待機していた。輝隆や白林宗明や皆馴憲之と頷き合うと、光姫は近くの木の上にいる武者に返事の赤い旗を振らせ、愛馬にまたがって二千の騎馬隊へ命令した。
「さあ、危機にある味方を救いに行くわよ。勝った気でいる恵国軍に、一泡吹かせてやりましょう!」
おう、と全員が答えた。光姫は「出発!」と叫ぶと、銅疾風の腹を蹴り、森の木々の間をゆっくり進んで空堀と森の間の草地へ出た。敵に接近されないように木を切って、芋を作ったり牛を放牧したりしていた場所だ。
光姫に続いて騎馬武者達が次々に草地へ現れた。最後尾が出てきたところで、四列の細長い隊列を作らせ、その先頭に立って馬を走らせた。
すぐ後ろには輝隆、従寿、お牧と、宗明や憲之がいる。もちろん銀炎丸もいる。全員が付いてきていることを確かめると、光姫は速度を上げ、一気に細長い草地を駆け抜けた。
広場の砂地へ出ると、前方で敵部隊の鉄砲兵が射撃体勢に入っているのが見えた。光姫は東側の森に沿って馬を飛ばし、敵の後方に回り込みながら、訓練通り少し速度を落として四列を八列に変えた。
敵が発砲した。一千の轟音が一つになって山々へ響き渡った。それを見届けると、光姫は「斉射!」と大声で命じた。二千の矢が唸りを上げて五千の敵へ飛んでいき、百人余りを転倒させた。
「銀炎丸、吼って!」
馬を走らせながら光姫が右手を振り上げて叫ぶと、灰色の狼が戦場中に響くような大きな声で遠吠えした。
「突撃!」
狼の咆哮を合図に、光姫隊は敵部隊の左後方へ突っ込んだ。鍾霆隊は前方の盾の壁や崖の上の城からの矢に気を取られていて光姫隊に気付くのが遅れ、呆気ないほど簡単に突入を許した。
「しまった。こんな伏兵がいたとは!」
鍾霆が叫んだ時には、五千の陣列は八筋の鋭い刃によって切り裂かれていた。通り抜けざまに槍で薙ぎ払ったり矢を射こんだりしたため、奇襲に狼狽した恵国兵は、突撃で陣形が崩れかかっていたこともあって、既に統制を失っている。そこへ、それを待っていたかのように、城内から矢や石が大量に降り注いだ。
更に、正面で鬨の声が起こった。向かいにいた具総率いる二千五百が盾を開いて突撃してきたのだ。鍾霆隊の先頭にいた一千の鉄砲兵は発砲の直後で弾が入っていない。慌てた彼等は、槍兵に場所を空けようと動きかけた勢いのまま、持ち場を離れて逃げ始めた。
更に、光姫隊二千の半数が宗明と憲之に率いられて戻ってきた。二方向から攻撃されて、鍾霆隊の混乱は決定的になった。
「畜生め! やってくれるわ!」
鍾霆は叫んだが、禎傑に二十代半ばで将軍に抜擢されてから既に十年近く、共に激戦や苦戦をいくつも乗り越えてきたこの男は、さすがに判断を誤らなかった。
「ええい、後退、後退だ! 全員、森の中まで一旦戻れ!」
そう叫ぶと、「こっちだ! 続け! 続け!」とわめきながら、森に向かって走り出した。
この分かりやすい命令と将軍が自ら手本を示したことで、兵士達は何をすればよいのかを一瞬で理解した。
「全員、将軍閣下を追いかけろ!」
隊長級の者達が周囲の兵士に声をかけて駆け出すと、狼狽していた者達も釣られて一緒に走り始め、五千人はそろって戦場から離れていった。
一方、騎馬武者の半数を率いた光姫は、鍾霆隊を通過すると、そのまま速度を上げて、正面の敵主力二万の横っ腹へ突っ込んでいった。
こちらの恵国軍はようやく半数の一万ほどが広場に上がったところだったが、逃げられる前に貞備隊を捕まえようと、各隊長のところへ集まった兵士達を、隊列を組むのもそこそこに前進させようとしていた。そこを、光姫隊が襲ったのだ。
「吼って! 吼って! もっと吼って!」
光姫は何度も腕を振り上げて、狼を吼えさせながら馬を走らせた。従う武者達は矢を周囲へ乱射し、そばにいる兵士を槍で突き刺していく。攻撃できない主君を守るのは従寿とお牧だ。ぴったりと左右に付いて敵兵を近付けない。
輝隆はわずか一千の味方がばらばらにならぬよう、大きな梅紋の旗指物を背に差し、辺りを見回し後ろを振り返っては、武者達に声をかけていた。戦場は騒がしく混沌としている上、敵のただ中だが、敵味方の話す言葉が違うので指示の誤解は起きにくく、武者達にきちんと届いた。聞こえなくても、狼の声を追っていけばよい。彼等は光姫を先頭に隊列を維持したまま野山を高速で走り回る訓練を繰り返してきたのだ。銅色の大きな馬に乗った紅白の鎧の少女とそれに従う騎馬の鎧武者達は、悠々と、しかし素早く、広場の北側を埋め尽くす黒い鎧の群れを、四本の太い矢のように真一文字に切り裂いていった。
光姫隊一千に突然中央を横切られて、恵国軍は驚いた。敵は少数とはいえ、横からの攻撃だ。その上、周囲は味方だらけなので発砲すれば同士討ちになりかねない。光姫隊の矢や槍で倒れる者の実数は少なかったが、武者達にはできるだけ敵の隊長らしい人物をねらうように指示が出ていたことや、慌てた将軍や組頭達の命令が錯綜したことで、恵国軍は二十分の一の相手にいいように攪乱された。
光姫達は大した抵抗を受けずに正面の敵を通り抜けると、今度は西側の恵国軍部隊に迫った。こちらでは既に三千ほどが川を渡り終えて盾を並べ、少しずつ前進を始めていた。そこへ、騎馬武者隊が横から襲いかかった。しかも、狼の声を頼りに主君の動きを追っていた師隆が、息を合わせて配下の二千五百に盾を開いての突撃を命じたのだ。
三千の恵国軍は大混乱に陥った。味方がいるはずの方角から攻撃されたのだ。その上、挟み撃ちだ。慌てた兵士達は持ち場を離れて川の方へ駆け戻り、渡ってきたばかりの仲間達と入り乱れて逃げ惑った。
それを見た光姫は馬首を返した。
「みんな、もう一働きするわよ!」
言うなり北へ進路を変え、武者達が付いてきていることを確認すると、正面の敵部隊へ再度突っ込んだ。反対側からは、鍾霆隊の後退で目標を変えた宗明と憲之達一千が突入している。二千の騎馬武者隊は二万の軍勢の中をぐるぐると走り回ってかき乱し、敵に立ち直る余裕を与えなかった。
その光景を対岸で見ていた涼霊は独り言ちた。
「我々は投石機の試射を敵に見られたと思い、彼等が城を出て渡河を邪魔してくると読んで東西の別働隊を作った。一方、敵の軍師は、我々がそう対応し、三方から包囲されることまで予想して、対策を考えていたわけだ」
涼霊は唇の端をゆがめたが、それは悔しげであると同時に愉快そうにも見えた。
「あの騎馬隊がかき乱す間に撤退する作戦か。まともに戦えば数の差で勝てないのだから当然だな。だが、こちらもやられっ放しというわけにはいかない」
涼霊は伝令の兵士を呼び、橋向こうの頑烈と森に戻っている鍾霆隊への指示を預けて急いで向かわせた。
『花の戦記』 影岡城合戦図 その二
「姫様。合図です」
光姫が正面の恵国軍の中を駆け回って四周目になる頃、城内から大きな太鼓の音が聞こえてきた。だんだんだん、だんだんだんと三連打している。
輝隆を振り返って、光姫は頷いた。
「潮時ね。そろそろ撤退しましょう」
既に、東の敵の後退を見て具総隊が、西の敵の混乱に合わせて師隆隊が走って城内へ戻っており、貞備隊も坂道を登り始めていた。光姫の指示で、一千は敵陣を横切りつつ城門へ向かった。打ち合わせでは、宗明隊が先に帰ることになっている。
一方、周囲の恵国軍も、橋向こうから老齢の大柄な将軍が渡ってくると、彼を中心に集結して鉄砲を構え、守りを固めつつあった。戦場に残っている影岡軍が少なくなったことで、恵国軍も混乱から回復し始めているのだ。
敵中に長居しては危険だ。城の太鼓の音が三連打から五連打に変わったので、宗明隊は無事に坂の下まで到達したと知って、光姫は敵中を抜け出し、一直線に城を目指した。
だが、その前に新たな敵五千が立ち塞がった。最初に突破した東の部隊で、体勢を立て直し、せめて一矢報いようと森を出てきたらしい。
「突破するしかないわね」
幸い、城内からの攻撃を背後に受ける形になっているので、敵の動きは鈍い。
「全速でお城へ逃げ込みましょう。飛ばすわよ!」
後方へ叫ぶなり、光姫は馬腹を思い切り蹴った。銅疾風も今日最後だと分かったのか、本気を出して疾走し始めた。ぐんぐん速度が上がっていく。光姫隊は進路を塞ごうとする敵軍を迂回して城門へ向かった。
だが、坂を上り始めようとした時、輝隆が緊迫した声で叫んだ。
「姫様、最後尾が捕まっています!」
後ろを振り返ると、最後の三百人ほどの前に敵部隊が割り込んで道を塞いでいた。背後には敵の正面部隊が迫っている。このままでは彼等は包囲されて全滅するだろう。
「どうしますか」
輝隆が尋ねた。
「助けに行きましょう。放っておけないわ」
光姫は即答した。
「分かりました」
その答えを予期していたのか、輝隆の躊躇は一瞬だった。止めても無駄だと思ったのだろう。
光姫は自分に注目している武者達に言った。
「みんな疲れているでしょうけど、いいかしら?」
「大丈夫ですよ。行きましょう。仲間を見捨てるなんてできません」
従寿が言い、お牧を始め、全員が頷いた。
「ありがとう。では、行くわよ!」
光姫は七百人を二隊に分け、六列になって五千の敵の背後に迫った。
それを見て、敵将らしい大男が勝ち誇ったように何かを叫んだ。その男が巨大な刀を高く掲げて大きく振ると、後部の盾の列の間から鉄砲兵が現れた。盾兵に守られながら、しゃがみこんでこちらにねらいを付けている。
「しまった! これがねらいだったのね」
光姫は唇を噛んだ。鉄砲兵は見たところ五百ほどだが、斉射されたら多数の武者が死傷するだろう。
光姫はやむを得ず進路を左に向けて迂回し、敵の横手に出ようとしたが、弾をよけ切るのは難しいと思われた。輝隆を先頭にした三百は反対の右側に回っているが、銃口はこちらへ集中している。ねらいは光姫なのだ。だが、今更引き返せない。敵に背を向ければ背後から撃たれる。従う武者達も撤退することを望んでいないだろう。仲間を助けに戻った時点で、大きな危険を冒しているのだ。
それに、光姫は信じていた。
殻相国でも同じようなことがあったわね。二ヶ月と少ししかたっていないのに、随分昔のことのように感じるわ。
光姫の初陣で、祖父を亡くした戦いだった。
あの時は実鏡さんや恒誠さんが助けてくれた。今回も、この状況を見れば、恒誠さんはきっと何か手を打って救ってくれる。あの人が私や武者達を見捨てるはずがない。
理由は自分でも分からないが、光姫はそう確信していた。
もし、助けてくれなければ、私もこの人達もこれまでね。でも、私は信じるわ!
光姫達が速度を落とさないことに恵国兵は驚いた様子だったが、光姫と銀炎丸を追って銃口を動かし、引き金に指をかけている。
「お願い!」
光姫が首を返して物見櫓を見上げると、窓から上半身が見える恒誠が、こちらに向かって黒い軍配を振ったような気がした。
と、その時、太鼓が、どどどど、どどどど、と激しく鳴り出した。同時に、下郭の左右のこぶから何かが降ってきた。
からん、という音がいくつも続いて辺りに響き渡った。風呂場で聞くような、桶が固い地面にぶつかる音だ。同時に、右のこぶの壁の上から、数百の火矢が敵部隊に降り注いだ。
途端に恵国兵達が悲鳴を上げた。桶は紙で軽く蓋をし、たががゆるめてあった。地面にぶつかると破れて壊れ、中の硫黄が飛び散るようになっていたのだ。そこへ火が付けられた。紫がかった青い炎に、三日前の惨劇を思い出した恵国兵達が怖気付いたのだ。
鉄砲兵達は火矢と槍兵達の騒ぐ声に驚き、つい後ろを振り向いた。彼等は火薬を携帯しているし、火の粉が飛んできたら鉄砲が暴発しかねない。それに、卵の腐ったような悪臭には、いやというほど覚えがあったのだ。
恒誠が作ってくれた時間はわずかだった。だが、それで十分だった。動揺し、背後の騒ぎに鉄砲兵が気を取られた瞬間、光姫は絶叫していた。
「全員突撃! 敵に突っ込みなさい!」
七百人は一斉に向きを変え、雄叫びを上げて、止まることなど考えない速度で敵軍に躍り込んだ。こうなるともう鉄砲は撃てない。恵国軍は入り込んできた敵にどう対処すればよいのか分からず動けなくなった。取り残されていた三百騎もこの機を逃さず、敵中へ突入した。
しかもそこへ、大きな鬨の声が聞こえてきた。宗明達一千が城門を出て助けに来てくれたのだ。騎馬武者隊二千と鍾霆隊五千はたちまち入り乱れて大混戦になったが、生き延びよう、味方を救おうと必死の者達には、無言の内に連携があった。敵が仲間を攻撃するのを邪魔して助け合ったのだ。
一方、一瞬とはいえ、硫黄の恐怖を思い出して背筋を寒くした者達は気持ちに余裕がなかった。先程同じような攻撃でかき乱されて後退を余儀なくされたばかりだったのだ。それを思い出した恵国兵は次々に森の方へ逃げ出し始めた。
鍾霆は兵士達を叱り付け、必死に立て直そうとしたが、指示が行き渡らない。それを見て、光姫は武者達に「撤収!」と口々に叫ばせながら坂へ向けて走らせ、全員が脱出したのを確認すると、自分も宗明達と一緒に城内へ逃げ込んだ。鍾霆は悔しがって後を追おうとしたが、城内から矢や石を浴びて断念し、部隊を後退させた。
すぐに大手門の厚い門扉が閉じ、城内は大歓声に包まれた。与えた損害は大したことはないが、三倍の敵を散々に翻弄して、ほとんど無傷で全部隊が無事に帰還したのだ。
城内にいた武者達も、城を出ていた者達も、皆健闘を讃え合った。中でも、称讃の言葉を浴びたのは光姫隊だった。宗明達も活躍したが、一千で三つの敵軍全てを混乱させた光姫には、武者達も、男衆や女衆も、皆称讃のまなざしを向けた。吼狼国中に轟いている勇名が事実であることを、光姫はまたも証明したのだ。特に、取り残されていた三百騎は救いに来てくれたことに感激し、涙を流して感謝の言葉を繰り返した。
銅疾風を降りた光姫が、抱き付いて泣く福子から受け取った水を飲んでいると、宗明が近付いてきた。光姫は慌てて竹の水筒をお牧に押し付け、深々とお辞儀をして迎えた。
「ありがとうございました。宗明様は命の恩人です」
光姫の言葉に、光姫隊の武者達が頷き、一斉に頭を下げた。
「いえ、当然のことをしたまでです。それに、もし見捨てるなんて言ったら、私は殺されましたよ」
宗明は笑いながら言ったが、結構本気でそう思っているらしかった。光姫の存在はそれほどこの城内で大きくなっていた。
「私を助けに来てくれたのは二度目ですね。本当に感謝します」
「あなたは大切なお方ですから。吼狼国にとっても、もちろん私にとってもです」
「うれしいです……」
こういう言葉が様になるのが宗明の得なところだ。そばで従寿が「この城のみんなにとってと言えよ」と小声で不満を漏らしたが、さすがに助けてくれたことには感謝しているらしく、宗明が振り向くと、深く頭を下げた。
「ところで、恒誠さんはどこに?」
宗明にたっぷりと礼を述べた後、光姫が周囲に尋ねると、「右のこぶの投石機のところです」という返事だった。
馬を男衆に預け、従寿とお牧を連れて行ってみると、恒誠は投石機を担当する義勇民と話し合っていた。先程桶を飛ばしたのはこの機械なのだ。
邪魔しないようにそばで待っていると、義勇民が気付いて恒誠に声をかけ、数歩下がった。
「先程はありがとうございました」
近付いて礼を述べると、恒誠は光姫をちらりと見て、「あなたを失うと影響が大きいからな」と素っ気なく言った。
「光姫殿は今や影岡城の武勇の象徴だ。武者達の士気を支えていると言っていい。それに、あなたがいなくなれば、梅枝家の武者達はこの城にいる理由を失う。全員とは思わないが、少なくない者がここを去るだろう。それは困る。だから、助けたのだ」
従寿が何か言いたそうに口を開きかけて、すぐに閉じた。光姫もそういう返事はないだろうと思ったが、自分の気持ちは伝えようと思った。
「鉄砲でねらわれた時、殻相国での戦いを思い出しました。あなたはきっと今回も助けてくれるだろうと私は信じました。そして、その通りになりました。感謝します」
恒誠は意表を突かれたらしく、頬を少し赤くして一瞬口籠もったが、口調は変えなかった。
「信頼してくれるのはありがたいが、俺は不可能だと思ったら助けない。あなたを助ける意味と、失う兵力を天秤にかけて、重い方を取る。今回はたまたま用意していたものが使えただけだ」
「……そうですか」
素直に感謝を受け入れるつもりはないらしい。子供っぽい変な意地の張り方で、可愛くなかった。
「疲れているだろうが、次の作戦があるので、少し休んだら準備に入ってもらいたい。予定通りとはいえ、敵に橋を押さえられてしまったからな」
光姫は溜め息を吐きたくなったが、これ以上言っても無駄だと思ったので、「分かりました。とにかく、ありがとうございました」と頭を下げて引き下がった。
「姫様、恒誠様は照れていらっしゃるのですよ」
見かねたらしく、お牧がかばうようなことを言ったので、歩きながら光姫は頷いた。
「分かっているわ。あの人は本当に素直でないものね。でも今回のことで分かったわ。私はやっぱり恒誠さんを信じているのよ。あの人は仲間が困った時、危機に陥った時に見捨てたりしない、きっと何か手を打ってくれるはず、そう自然に思ったわ。考えてみれば、これまでいつもそうだったものね。武者達が恒誠さんを仰ぎ見る気持ちが分かったような気がする。あの人には、単に頭が良いだけでなく、人を信じさせる何かがあると思うの。もっと愛されてもいいと思うわ」
「十分愛されていると思いますよ。ある人からを除けばですが」
従寿がつぶやくとお牧がたしなめる顔をし、光姫に言った。
「姫様と恒誠様はこの城の武勇と武略の要と並称されておいでですが、それはお互いがいてこそ得られた名声です。これからも助け合い、支え合っていく必要があります」
光姫は微笑んで答えた。
「分かっているわ。大丈夫、私は恒誠さんを軍師として高く評価しているし、信じてもいる。協力するし、指示には従うわ」
「そういうことではないのですが」
お牧は困った様子だったが、諦めたらしく話題を切り替えた。
「さあ、昼食をとりに参りましょう。疲れをとっておかなくてはなりません」
「その前に銅疾風の汗を拭いてあげないといけないわね」
三人は連れだって、大手門前の厩舎へ向かった。




