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花の戦記  作者: 花和郁
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  (第六章) 五 い

   五


「なにっ、班如達三名が討ち死に、三万五千は壊滅だと?」

 後明国から駆け付けてきた使者の報告を聞いた禎傑は、豪華な椅子から勢いよく立ち上がった。その衝撃で急造の広い書き物机がずれ動き、端に置かれた陶製の大きな花瓶が揺れて、華姫が生けた三本の白い山百合の花が強い香りと黄色い花粉を机の周辺に振りまいた。

「誤報の可能性はないのか? 間違いなく事実なのだな?」

「ま、まことのことでございます。生き延び逃げ帰ってきた者達は口々に同じことを申しておりました。将を失った兵士達は散り散りになり、三々五々後明国へ戻ってきておりますが、恐らく死者と重症者は合わせて四千以上、回復は見込めますが当面戦闘が不可能な者は七千を超えるだろうとのことです」

「一万一千も兵を失ったのか!」

「め、面目次第もございません……」

 使者の下級武官は総司令官の怒声に怯えて縮こまるように頭を下げたが、禎傑は見ていなかった。

「まさか、またも敗北するとは。信じられん」

 唸るように言った禎傑は、信頼する幕僚長に鋭い視線を向けた。

「影岡城の兵力は一万程度だったはずだな。三分の一の敵に負けたというのか」

「残念ながらそのようです。このたびの戦いも敵の兵数は前回と同じ約九千でした。恐らく、城に残っていた兵と合わせても一万は超えないものと思われます」

 涼霊はいつにも増して青白い顔をしていたが、口調は冷静だった。

「敵は我が軍の再度の襲来を予想して迎撃計画を立てていました。班如殿はそれにまんまとひっかかってしまったのです。たった九千で三万五千を分断して各個撃破した手腕は、敵ながら見事と言わざるを得ません。あの城の軍師はかなり優秀なようです」

「お前がそれほど敵をほめるのは、鉱山で華子を捕らえた時と合わせて、これで二度目だな」

 そう言って、禎傑は左脇に立つもう一人の知恵者を見た。

「今回も華子の予想が当たったわけだ」

 華姫は首を振った。苦戦する可能性は考えていたが、これほどの大敗を喫するとは思っていなかったのだ。

「正直驚いたわ。班如将軍は常に冷静沈着な老練の将で、兵数は三倍以上だった。それを破るなんて、涼霊将軍の言う通り、敵の軍師は相当な切れ者のようね。巷間(こうかん)の噂では織藤家の長男らしいわ。実護公にかなりの軍学好きだと聞いたことがあるから、恐らく彼が実鏡さんや光子に策を授けているのだと思うわ」

 華姫が恒誠について自分が知っている限りの情報を話すと、まだ二十四の若者だと聞いて、将軍達は皆驚いていた。

「同じ相手に二連敗はまずかったわね。光子と織藤恒誠の勇名は既に吼狼国中に轟いているわ」

 では、これからどうなさるのかと問う周囲の視線を受けて、禎傑は精悍(せいかん)な顔にいつもの不敵な笑みを浮かべた。

「どうやら我等は藍生原進出を急ぐあまり、敵を軽く見て対処の仕方を間違えていたようだ。だが、雲居国の連中がこれほどの強敵だと分かった以上、こちらの出方は一つだ。そうだな、涼霊」

「はい」

 幕僚長が頷くと、禎傑は腰の長剣を引き抜き、高々と掲げて宣言した。

「影岡城を我が軍の総力を挙げて攻略する!」

 おおう、と将軍達がどよめいた。

「華子に言われるまでもなく、これ以上の敗北は我が軍の恥である。大軍を派遣し、名将と名軍師を投入して、吼狼国の者どもに我等の強さを見せ付けてやろう!」

 禎傑は頭上の剣を両手で握り、背中の赤い垂れ布を翻しながら一気に振り下して卓上の花瓶を斜めに両断すると、水のしたたる剣先を諸将へ向けた。

「田美国の頑烈に五万の兵を与えて大将に任じる。副将として、我が軍師涼霊を付ける。二人は可能な限り早く出発し、雲居国を攻略せよ!」

 禎傑は影岡軍の強さに腹を立てるどころか、むしろ心を躍らせていた。自分が引き立て育ててきた諸将や精鋭達が全力をもって当たらねばならないほどの強敵の存在を、武人として喜んでいるのだ。

「本当は俺が自分で行きたいところだが、三日後にこの地域平定の総仕上げとして、西高稲三国の主立った町と村の(おさ)を招いた宴が予定されている。俺と華子はその場に必要だ。恐らく今回の敗報は遠からずこの国へ届く。彼等の動揺を抑え、この地の安定を確かなものにするためにも、その宴は成功させねばならん。残念だが、強敵との対決は頑烈と涼霊に譲ろう」

 笑みを浮かべつつ本気で残念そうに言った禎傑は、幕僚長へ顔を向けた。

「涼霊、雲居国攻略の作戦はお前に任せる。影岡城を速やかに陥落させて、玉都への道を切り開け。俺も宴が終わり次第、この国の兵を率いて雲居国へ向かう。その時は影岡城の門前で出迎えてくれ。敵将との知恵比べの話を酒の(さかな)に聞くのを楽しみにしている」

「お任せ下さい。必ずや影岡城を落としてご覧に入れましょう」

 涼霊は右腕を心臓に当てて深々と頭を下げた。禎傑が大きく頷くと、将軍達が歓声を上げた。

 その光景を禎傑の左側で眺めながら、華姫は両手を重ねて胸を押さえた。さすがに涼霊指揮する五倍の大軍に包囲されては光姫もお終いだと思ったからだ。いつも明るかった妹の笑顔が目に浮かび、普段はこらえている悲しみと虚しさが心を締め付けた。

「あの子の強運もここまでのようね」

 つぶやいた華姫は、床に落ちて砕けた花瓶の上半分の破片の中から白い山百合の花を三つ拾うと、我も我もと頑烈軍への従軍を願い出る将軍達へ背を向けて、全開にされた窓の外に浮かぶ黄金の細い月を見上げた。


「光姫様」

 一年で最も暑い蓮月(はすづき)に入って六日目の午後、光姫が新たに影岡軍に加わった武者達の陣形の訓練を見守っているところへ、水軍頭の楠島(くすじま)運昌(かずまさ)が近付いてきた。

 お牧と従寿と共にお辞儀をして迎えると、運昌(かずまさ)は三十歳にしては若々しい顔に好意的な笑みを浮かべて尋ねた。

「この連中は役に立ちそうですか」

 光姫も笑顔で答えた。

「はい。武芸の心得がある人ばかりなので、動きが機敏で飲み込みも早いです。それに、皆とてもやる気があります。もう少し訓練すれば実戦に出ても大丈夫だと思います」

「それはよかった。私も連れてきたかいがありますよ」

 新戦力の半分を都から船で運んできた運昌は心からうれしそうに言った。

 影岡軍の二度の勝利は、その日の内に雲居国の隣国の玉都へ噂となって伝わり、早馬や船や旅人によって瞬く間に吼狼国中に広まった。光姫の武勇と恒誠の武略は人々を熱狂させ、連戦連勝の恵国軍に怯え意気(いき)消沈(しょうちん)していた多くの武家や民を勇気付け、奮い立たせた。おかげで、義のために立ち上がった浪人や、具足持参で主家を飛び出してきた武家、力自慢の農家の三男坊や武芸好きの町人などが、共に戦いたいと連日影岡城へ押しかけてきた。

 二度敗北した恵国軍が次は全力で向かって来ると分かっていたので、恒誠達は彼等を歓迎した。前回を上回る大軍相手となると、さすがに戦力が不足していたからだ。

 梅枝家の最後の一国である九万貫の天糸国(あまいとのくに)からも、一千人の武者が餅分(もちわけ)具総(ともふさ)に率いられて雲居国へやってきた。天糸衆は華姫の田美国上陸以来どちらの姫につくかで意見が割れていたのだが、連勝を聞いて、光姫を支援して恵国軍を打ち破った方が梅枝家のためになるという意見が大勢(たいせい)()めたのだ。

 更に、織藤家の旧臣達も、お家再興の望みが高まったとあって、新たに五百人が恒誠の元に駆け付けてきた。山賊達も仲間が増えて倍の一千人になった。

 こうして集まった新たな武者達は、すぐに光姫や恒誠の指導の(もと)、武芸の修練と陣形の訓練を始めたが、問題は兵糧(ひょうろう)だった。もともと不十分だったところへ、人数が一気に膨れ上がったからだ。

 困った実鏡達は相談して、玉都の国母様を頼ることにした。巍山の台頭で芳姫は実権を失っているが、いまだに名目上は元狼公の代理にして御前衆の(おさ)なのだ。

 光姫の使者を迎えた芳姫は、妹の無事と活躍を喜び、巍山に援助の許可を求めた。巍山は光姫達の勝利をあまり面白く思っていなかったが、考えた末、食料を送ることを認めた。軍勢の集結と支度にはまだ少し時間がかかりそうだったからだ。

 杏葉直照の敗北は早さを重視して十分な準備をしなかったことが原因なので、巍山は武者達の武装や訓練、小荷駄隊に運ばせる食料や物資など、長期の遠征の用意をしっかりと整えてから出発するつもりでいた。その前に彼等が負けて都へ恵国軍が来てしまっては困る。それに、人気のある光姫達を見捨てるのは得策でないと、巍山は判断したのだった。

 芳姫が早速その話を御前評定で持ち出すと、楠島運昌が輸送役を買って出た。運昌も国を守るために何かしたかったが、水軍衆は戦では活躍の場がなく、玉都港の防衛のために都を離れられないことを残念がっていたので、こういうことで働こうと思ったらしい。玉都と雲居国は雲見(くもみ)湾を挟んだ対岸で、船なら一日で往復できる距離なのだ。運昌は噂の光姫と恒誠に興味があったそうで自ら船で渡ってきて、二人をすっかり気に入って影岡城に何日も泊まっていた。

 兵糧を運ぶ船に都に集まっていた浪人達を乗せてきたのは運昌の考えだった。運昌の連れてきた者は一千人を超え、戦いの前からいた白林宗明達五百人を合わせると、義勇の武者は二千に達した。影岡城の兵力は総勢一万三千となり、芳姫から援助された武具で装備も整った。

「実は、お別れの挨拶に参りました。これから都へ帰ります」

 運昌は本当に名残惜しそうに言った。運昌は影岡城の武者達に合戦の様子を根掘り葉掘り聞いて回ってしきりに感心し、光姫の武勇と美貌を大声でほめ(たた)え、年下の恒誠を先生と呼んで鬱陶(うっとう)しがられていた。

「本当は私もここに残ってあなた方と共に戦いたいのですが、そうできないのが残念です」

 と言って、運昌は心持ち小声になった。

「私がこちらに滞在していることを聞いて都の巍山殿の機嫌が悪くなったそうでして、家臣に帰ってこいと言われました」

 運昌ははっきりとは口にしないが、巍山を嫌っていた。

「巍山殿からすると、国母様の身内である光姫様や譜代の豊梨家にあまり活躍されると、統国府を乗っ取る時にその人気が邪魔になると思うのでしょうね。あなた方に近いと見られると私も望天城でやりにくくなるので、帰るしかありません。本当は巍山殿など無視して国のために戦いたいのですが、家臣達を路頭に迷わすわけにもいきません」

 悔しそうに言った運昌は、訓練を優先して欲しいと見送りを断り、お辞儀をして離れていった。

 そこへ、入れ違いに追堀親子と餅分(もちわけ)具総(ともふさ)がやってきた。その後ろを実鏡と恒誠と貞備(さだはる)も歩いてくる。彼等の厳しい表情を見て、光姫はいよいよ来たのねと気を引き締めた。

「恵国軍が再び動き始めました」

 数歩前で立ち止った輝隆がかしこまって言うと、実鏡と貞備が頷いた。

「今朝独岩(ひとりいわ)城を出発したそうです。後明国(あとあけのくに)(もぐ)り込ませている皆馴(みならし)憲之(のりゆき)殿の仲間が知らせてきました。総勢五万の大軍です。大将は恵国遠征軍副司令官の頑烈で、軍師の涼霊も同行しています」

「五万……。予想はしていたけれど、多いわね」

「はい。我々の約四倍です」

 行軍が順調なら明後日には影岡にやってくる。輝隆もさすがに恐怖と興奮を無理に押し殺した口調だったし、師隆と具総も硬い顔をしていた。

「やはり、敵は本気を出してきましたな」

「こたびはわしも戦いますぞ」

 天糸衆一千を率いて帰ってきた具総は、再び田美衆一千も預けられ、殻相衆二千を率いる師隆と共に光姫の両翼になる。

「爺やは久しぶりの実戦ね。二人とも頼りにしているわ」

「天糸国でも鍛錬は欠かしておりませんでした。歴戦の師隆殿に(おく)れを取らぬよう努めまする」

「具総殿のご帰還は心強いですな。私も負けませんぞ」

 両家老の答えは息が合っていた。二人は家老としてのもともとの任国が違うが、殻相国で共に戦った経験もあっていつの間にか親しくなっている。それを見て輝隆が顔をほころばせた。

「姫様は我々がお守りします」

 輝隆は従寿達一千の馬廻りをまとめる役目だ。狼を連れて先頭に立つ主君の周囲を固めて、共に戦場を駆け回ることになる。

「敵は大軍だけど、私達ならきっと勝てるわ」

 光姫が微笑むと、輝隆や両家老、実鏡達の視線は、自然と若い軍師に集まった。黒い軍配で自分を(あお)いでいた恒誠は、表情を変えずに当たり前のことのように言った。

「いよいよ正念場だ。ここで負けては全てが無駄になる。必ず勝つぞ」

「はい! 頼りにしていますよ、恒誠さん!」

 百合月の二連勝があったので、光姫は内心のもやもやは横に押しやってこの六つ年上のはとこを信じようと決めていた。明るい声と元気な返事に恒誠は驚いたらしく、光姫の笑顔を思わずじっと見つめたが、はっとした顔になって急に横を向き、「おう、大丈夫だ。任せておけ」とつぶやいた。それを見て、実鏡がびっくりした顔をしていた。

「恒誠さんも緊張しているのね」

 光姫は安漣や家臣達と顔を見合わせて笑うと、何事かとこちらに注目している武者達にこの情報を知らせるため、訓練の一時中断と集合を命じに歩いていった。


 百合月二十八日の夕刻、班如軍破れるの報に接し、影岡城攻略の命令を受けた涼霊は、その夜遅くまでかけて計画を練った。翌朝、禎傑に作戦案を説明して許可を得ると、数通の書簡をしたためて至急届けよと兵士に託し、自分は船で年苗国(としなえのくに)を出発して同日中に後明国の独岩城へ入った。

 三日後の蓮月(はすづき)二日、頑烈と殻相国の軍勢の大部分が北上してきて合流した。涼霊はその兵士達に冒進軍と班如軍に属していて生き延びた者達を加えて部隊を再編成し、新しい武器を与えて訓練を施した。先の二回の戦いで多くの兵士が槍や鉄砲や防具を失っていたが、恵国から連れてきた職人達の指導の(もと)で田美国や椎柴国の工房に生産させていたものを運ばせたのだ。

 玉都侵攻の根拠地を殻相国から後明国へ移した涼霊は、準備が整うと、守備部隊とまだ怪我の()えぬ者達を独岩城に残し、残りの五万を率いて雲居国へ入った。

 涼霊は慎重で、前もって五千人を霞野川まで先行させ、周囲の偵察と橋の修復をさせていた。彼等には臆病な耳振(みみふり)純宣(すみのぶ)(あるじ)だった州鳥(すどり)城を拠点に兵糧等の輸送と国境(くにざかい)の守備を任せ、本隊五万は伏兵や進軍を妨害する罠を厳重に警戒しながら前進した。

 影岡に到着すると、涼霊は町を素通りし、影岡城と町の中間にある豪農の屋敷に本陣を置いた。頑烈は冒進のように町を占領して一番大きな温泉宿を接収すればよいと言ったが、涼霊は町の者が影岡軍に情報を流すかも知れないし、民の格好をした間者が潜入しても宿の使用人と区別が付かず秘密が守れないと言って、その家にいた全員を金を与えて追い払い、吼狼国人は誰だろうと中に入れるなと衛兵に厳命した。そして、兵士達の気をゆるませないためにと、温泉があって遊興施設の多い影岡の町へ行くことを禁じた。頑烈や他の将軍達は贅沢や酒色(しゅしょく)に興味の薄い涼霊らしいと笑ったが、自分達もそれに従うことを誓った。

 本陣が決まると、涼霊は五万人の宿陣地の設営や全体を囲む高い木の柵と空堀を造る作業は他の者に任せ、五千人を護衛に連れて影岡城を見に行った。

 西国街道を南に逸れ、御涙川(みなみだがわ)の橋を渡って正面の北側から城に近付いた涼霊は、専門知識のある技師に道具を使って周囲の崖とその上の城壁の高さや大手門までの距離を測らせ、盾兵に守られながら空堀のそばまで行って、深さを自分の目で見た。次に城の東と西と南を覆う森に入り、裏手へ回って神雲山に少し登り、広い空堀がそちらの面にも巡らせてあって、城を見下ろせる場所からは鉄砲を撃っても届かないことを確かめた。涼霊はしばらく高所で足を止めて、夕日の下、霊峰の麓の深い森の端に孤島のように突き出た影岡城の構造をじっくりと眺めてから、弓を構えてにらむ城兵達に気付かなかったような顔で、悠々と本陣へ帰っていった。


 翌々日の蓮月十日の朝、恵国軍は五万のほとんどを動かして影岡城を包囲した。恵国兵達は御涙川を渡って正面の広場に陣を構え、森へ入って東と裏手にも広がり、西側も空堀のすぐ前を流れる御涙川の向こう側の河原に黒い鎧の列を作った。

「完全に囲まれたわね」

 物見櫓の上で光姫が実鏡に言うと、まだ十四歳の城主は強張った表情で頷いた。冒進軍にも城を攻められたが、今回の敵はあの時の倍だ。すっかり取り囲まれたのも初めてだった。三方が森なので見えている敵兵はあまり多くないが、その後方に多数が隠れているのは確実だった。

「どう出てくると思いますか」 

 やはり緊張した顔の安漣が尋ねると、恒誠は大きな窓から左手の河原の敵兵を平然とした顔で観察しながら、「四方から猛攻を加えてくるだろうな」と言った。

「そんなことをしても無駄ではありませんか。前回得た教訓を活かせていないのでしょうか」

 追掘輝隆が尋ねると、「いや、違う」と答えが返ってきた。

「敵のねらいは城兵の分散だ」

「なるほど。どこか一ヶ所を突破するつもりなのでございますな」

 餅分具総が言い、よく分かっていない顔の光姫と実鏡に解説した。

「今回、敵は全体を包囲して全ての壁や門を一斉に激しく攻め立て、武者達をそれぞれの担当場所の防御で必死にさせるつもりなのでございましょう。他のところへ応援に行けぬようにしておいて、手薄な場所に大兵力をまとめて投入して圧倒し、城内に切り込むつもりなのでございます。数の優位を活かした正統的な攻め方ですな」

 奥鹿貞備が指を折りながら言った。

「敵は五万、東西南北を五千ずつで攻めても合計二万で、三万が余ります。それを、どこかに一気に叩き付けてくるのでしょう。こちらの一万三千は、大手門・左右のこぶ・東側面と西側面・裏手の六ヶ所に二千ずつを配して残り一千が遊軍ですが、その遊軍を全部差し向けても三千と、圧倒的に多数の敵と戦うことになります」

「よく分かったわ。戦狼時代を知っている人達はさすがね」

 光姫と実鏡は感心した。具総は五十八歳、貞備は五十五歳なので若い頃に何度も戦に出ているのだ。もっとも梅枝家も武守家もその地域で一番強くて城を攻められることはあまりなかったので、攻めた時の経験をもとに語っているのだろう。

 確認するように恒誠を見ると、若い兵法家も頷いた。

「恐らく、敵のねらいは右手、東側の壁だ。大手門の守りが固いことは敵も分かっている。狐ヶ原の作戦を立案した軍師がそんな場所を正面からまともに攻める愚を犯すはずがない。一方、裏手は神雲山につながる尾根で他の場所より地面が盛り上がっているが、下郭がなく、中郭から始まる。この城は上の郭に行くほど高くなっているから、登る崖の高さは他の方面と大して変わらない。それに、いきなり城の真ん中に入り込んでも城の構造上大手門は遠く、こちらの迎撃が早ければ孤立して逃げ場を失うことになる。そして、左手の西側は、すぐ脇を御涙川が流れている。この崖を登れるような長いはしごを抱えて肩下まである水を越えてくるのは大変だし、身を隠す物のない河原をのろのろ移動していては矢の的だ。また、南西から流れてくる御涙川はこの城にぶつかって北へ進み、正面へ出て再び東進を始める。つまり、西側の崖は川に削られて一番急なのだ。となれば、まともな大将なら、崖が比較的ゆるやかで、そばまで森が迫っていて木に身を隠しながら接近できる右手の東側から攻撃するだろう。東側は堀がより広く塀がより高くなっているし、実佐(さねすけ)公の指示で空堀の前の木を切って畑にし、(いも)などを育てていたが、それでも最も攻めやすいことは変わらない。恐らく、数日に渡って全方位から攻撃をかけ、こちらの疲労が溜まった頃に、それまで隠れていた無傷の新手が、百本以上のはしごをかけて一斉に登ってくるのだろうな」

 恒誠の口ぶりは淡々としていたが、抑え切れない興奮がわずかに感じられた。兵法好きとしては、敵の名軍師との戦いは血が騒ぐのだろう。

「では、どう守りますか」

 一方、実鏡は包囲する大軍の圧迫に恐怖を感じつつも、あくまではとこを信じる顔だった。

「もちろん勝てますよね?」

 光姫も不安だったが、周囲の武者達が聞いているので敢えてこう尋ねた。

「当然だ。これを予想して既に手は打ってある」

 恒誠は心配そうな二人にいかにも余裕たっぷりという様子で答えたが、それは武者達に聞かせるためというより、まだ少年の実鏡を安心させ勇気付けようとしたように光姫には見えた。

「敵はこの崖を登ることはできない。追い払うとっておきの手段を東側にもう運ばせておいた。光姫殿も見ただろう」

「ええ……」

 実物も確認したし、使い方も理解したのだが、あれがそれほどの効果を発揮するものなのか、今一つ確信が持てなかったのだ。

 と、我慢できなくなったらしく、光姫の護衛として後ろに控えていた従寿が口を挟んだ。

「失礼ながら、俺にはあれがそれほど防御に効果的とは思えません」

 お牧が「越権行為よ」と言いたげに横目でにらんだが、従寿はそれを無視して重ねて尋ねた。

「あれはそんなにすごいものなんですか。どの家にもあって、俺も毎日のように使いますが、それほど恐ろしいものだとは知りませんでした」

「別段すごくも恐ろしくもないさ。普段の使い方と変わらない。少々規模を大きくするだけだ」

 昨日の評定でそれを提案した若い兵法家に得意がる風はなかった。恒誠は、この城に来てすぐの頃から考えていたから在庫は調べてあると言って皆を驚かせ、使用法を説明して承諾を得たが、白林宗明などは、これまで読んだどの兵法書にも載っていなかったと最後まで効果に疑問を持っていた。

「俺は聞いたことがないが、恐らくこれまでも戦で使われたことがあるに違いない。似たような防御方法は一般的だからな。ただ、類似のものより強烈な印象を与えるし、敵はこれを予想していないはずだ。だから、効果がある。それに盾では防げないしな」

「確かにそうですね」

 安漣が言うと、城攻めの経験がある師隆と具総と貞備がそろって頷いた。

「敵にしてみれば実に恐ろしいでしょうな」

「考えるだにぞっとしますぞ」

「敵兵は慌てて逃げ出すに違いござらん」

 光姫はその光景が想像できなかったが、家老達が効果を確信している様子なのでこう言った。

「分かりました。恒誠さんを信じます。これまで四回もあなたの作戦で勝っているんですもの、今回も大丈夫だと思って頑張ります!」

「もちろん、僕も信じています!」

 実鏡も言い、その場の全員が頷いた。まだ疑問を持っている従寿でさえ、恒誠の指揮で戦うことに不満はない。城内の全ての者がこの若い軍師を信じていた。

「頼りにしていますよ!」

 光姫が恒誠に笑いかけると、恒誠はその表情をまじまじと眺め、ついと目を逸らして頷いた。

「任せておけ」

 その声がわざと素っ気なく言ったように聞こえたので、光姫は意外に思った。

「もしかして、照れているんですか」

 数日前にも同じような表情をしたことがあったのを思い出して光姫は尋ねたが、恒誠は答えなかった。が、頬が少し赤いように見えたので、光姫は恒誠を初めて可愛く感じた。すごく頭が良くていつも何でも分かっている風なのに珍しい。

 そう思ったのが顔に出たのか、安漣が笑みを浮かべて言った。

「頭脳の明晰(めいせき)さのせいで変人扱いされることが多かったので、人に真っ直ぐにほめられることに慣れていないのですよ。でも、こういう純情なところがあるから、この人は人々に恐れられたり敬遠されたりしないで済んでいるのです」

「なるほど、そうですね」

 今まで何となく近付き(がた)く感じていた恒誠が急に自分と同じ人間に思えてきてもう一度笑いかけると、恒誠は軍配で顔を隠して背を向けてしまった。周囲を見ると皆笑顔なので、今後は場が沈んだらこの人をからかおうかしらとにやにやしていると、恒誠がわざとらしく咳払いして言った。

「そろそろ皆配置に付いてくれ。なお、今日は前回と担当場所が違う。光姫殿は左手の西側を、実鏡殿は中郭で背後の防衛をしてもらう。間違えぬようにな」

「なぜ、今回私は右のこぶではないのですか」

 今までは合戦でも城の防衛でも最も重要な場所の担当だったので、光姫は疑問を口にした。実鏡も同じ気持ちだったらしい。

「僕も戦えます。敵の主力が来る東側は豊梨家が担当するのに、なぜ僕だけ背後なんですか」

 恒誠は答えなかった。家老達も黙っている。そういえば、今朝の軍議で誰もこの配置に異論を唱えなかった。

「理由を教えて下さい」

「納得できません!」

 光姫と実鏡は更に言ったが、恒誠は無視した。

「では、皆、持ち場に向かってくれ。敵はすぐ来るぞ」

 家老達は一斉に頭を下げ、階段を下りて物見櫓を出て行った。実鏡も不満そうな顔だったが付いていった。

「姫様、参りましょう。西側も重要な場所ですよ。川を渡ってくる敵を上からねらい撃ちすることになりますから、弓の得意な姫様が適任だと説明があったでしょう」

「そうですな。お牧殿もなかなかの名手でございますし、我等が担当するにふさわしい場所ですぞ」

 輝隆と具総が言ったので光姫はしぶしぶ階段へ向かったが、二人の言葉にあやすような響きを感じて不愉快だった。

 左のこぶを殻相衆二千で担当する師隆と分かれた光姫達は、馬廻り一千と天糸衆一千の合計二千のところへ戻った。全員を集めて指示の最終確認をしてそれぞれが配置に就くと、それを待っていたかのように、敵が城に迫ってきた。

 恒誠達の言った通り、敵は四方から城に殺到して一気に取り付き、はしごをかけて崖を登ろうとした。正面からも鉄砲兵と槍兵が盾兵に守られながら大手門へ続く坂を進んでくる。冒進軍の時と似た布陣だが、坂の周辺に敵兵が集まっていた前回と違い、今回は全ての方向に敵がいるため、城から前方へ突き出ている二つのこぶは三方を囲まれて集中攻撃を受けることになった。しかも、敵は慎重で無謀な突出はせず、大きな盾に隠れて発砲を繰り返しながら少しずつ前進してくるので、矢では大きな被害を与えられなかった。

 光姫の担当する西側でも、大きな鬨の声が聞こえ、森の前に整列していた一千ほどが、城に向かって前進を始めた。森の中からの援護射撃の下を、五人で長いはしごを運び、その周囲を二十人ほどが盾や槍や鉄砲で守る組が数十、河原をそろそろと近付いてきて川に入ってくる。

 水底には乱杭(らんぐい)を打ち込んで縄を張り巡らせ、向こうとこちらの河原には上を尖らせた逆茂木(さかもぎ)が並んでいる。恵国兵はそれを数ヶ所壊して道を作り、大きな鎌を持った者と盾を持った者が川に入って、水中の縄を切り始めた。

 だが、光姫は具総や輝隆と相談して、敵が近付くまで攻撃しないと決めていた。木の柵の向こうにいる者や胸まで水につかっている者に矢を当てるのは難しいし、籠城戦は長くなるかも知れないので、矢を無駄にはできないからだ。始め用心していた敵は、矢が飛んでこないと知ると、一気に崖に取り付こうと、森の外れに立っている将軍の意味不明な叫び声を合図に、一斉に鬨の声を上げながら走り始めた。

 敵はどんどん川を越え、逆茂木に隙間を作って通りぬけ、眼下の空堀に入ってくる。だが、光姫はなおも家臣達を抑えて矢を射させなかった。遂に敵の半数が川を渡り、二十本余りのはしごが壁に立てかけられて敵兵がよじ登り始めた時、光姫は大声で叫んだ。

「攻撃開始!」

 指示を待ちかねていた武者達が一斉に矢を放ち、石を投げた。

 途端に敵の多くが動きを止めた。敵だけでなく光姫隊も五人ずつの組を作っている。狭間から矢を射る者、壁に沿って組まれた足場に上がって並べられた盾の間から石を投じる者、それぞれに矢や石を渡す者が互いに助け合い、疲れたら役目を交代しながら連携をとって防御に当たるのだ。光姫は闇雲に矢や石を浴びせるのではなく、敵の組の長を見付けてねらいなさいと指示していた。集中攻撃を受けた敵の組頭達は傷付いたり多数の矢が刺さった盾が重くなったりして前進が困難になり、守ろうと周囲に集まった仲間の兵士達と共に、矢の雨の中で身動きが取れなくなった。

 動かない敵はねらいやすい。しかも真下にいて距離が近い。光姫隊は周囲の五人組同士で相談して的を決めて、組頭を中心に固まっている敵を一人ずつ倒していった。恵国兵は盾で防ごうとするが、槍や鉄砲やはしごを持った者の盾は小さいし、盾兵は一組に五人ほどしかいないため全員を覆い切れず、次々に悲鳴を上げて倒れていく。

 やがて森の中から敵の将軍の叫び声が聞こえて恵国兵はばらばらと後退を始めた。が、盾を後ろにかざしながら必死で川を渡って逃げる敵兵は、また逆茂木と乱杭の間を通り抜けねばならず、狭い隙間に大勢が集まって足が止まってしまう。そこへ、光姫達は存分に矢をお見舞いし、更に多数を殺すか傷付けた。

 敵の第一波が去ると、武者達はほっとした様子で額の汗をぬぐった。思ったより敵は多くなかったし、溶岩を積み上げて火山灰混じりの土で固めた黒い壁は頑丈で、細長い狭間や盾の陰から攻撃しているから敵の弾が当たることは滅多にない。これなら勝てそうだと、皆少し気持ちに余裕が出てきたらしかった。

 光姫は狭間から離れ、武者達を見回して言った。

「最初の敵は撃退したわ。みんな、一休みしていいわよ。でも、安心しては駄目。これはまだ小手調べよ。東側の壁に敵の主力が取り付いたら、こちらにも本格的に襲いかかってくるでしょう。長い戦いになるから、後ろの箱から矢や石を補充したら、今の内に少しでも体を休めておきなさい」

 武者達は大きな声で「はいっ!」と返事をしたが、特に半数を占める天糸衆の声が大きかった。天糸国は田美国から遠く、武者達は光姫の武勇と美貌を噂でしか知らなかったので、次々に敵兵を射抜いていく腕前を自分の目で見て、こちらの姫を選んでよかったと心底思ったらしい。実戦経験のなかった彼等も敵を撃退できたことで自信を得たらしく、緊張を解いて、やれやれと言いながら伸びをしたり肩を回したり、腰の瓢箪(ひょうたん)から水を飲んだりし始めた。

「さすがは姫様です。あっという間に天糸衆を掌握してしまいましたね」

 従寿の声が聞こえて振り向くと、お牧が頷き、輝隆と具総が微笑んでいた。彼等は戦に慣れているので、まだまだ余裕十分の様子だった。光姫も笑い返し、瓢箪の栓を開けて水を口に含んだ時、見張りの武者が叫んだ。

「次が来ます!」

 急いで狭間から目を()らすと、森の木の陰に多数の敵兵の黒い姿が見えた。第二波の襲来だった。

「みんな、持ち場に戻って。さっきの要領で敵の組頭をねらうのよ!」

 はいっ、という声がそろって響き、光姫軍は再び弓と投石紐(とうせきひも)を構えた。


「そろそろ食事と休憩が必要ね」

 その後も敵は三度に渡って攻め寄せてきた。光姫達はそれをことごとく撃退したが、敵は間断なく新手を繰り出してくる。光姫は武者達の表情に疲労の色が濃くなってきたのを見て、具総と輝隆を呼んで昼食の相談をした。

 武者達には疲労回復用に甘い餅を二個ずつ配ってあるが、それだけではどうしても腹が減るし、そろそろ太陽も中天に近い。具総と輝隆も同意見だったので、五百人ごとに食事休憩を取らせることにし、光姫達三人は一人ずつ休むことになった。

 具総と輝隆が姫様からお先にどうぞと言うので、天糸衆の半数に声をかけて少し塀から離れ、女衆から昼食を受け取って地面に座り込んだ。彼女達は豊梨家や梅枝家の武者達の妻や娘などで、後衛女人(にょにん)隊と命名されて、城内で炊事や洗濯に働いている。一方、男性の家族は領民の職人達からなる男衆と共に、矢と武具の作成や修理や配布、崩れた壁の補修などを担当している。

 吼狼国武家は伝統的に当主だけが戦う。封主の家族や家老級は違うが、中級以下の家臣の子弟は小荷駄隊を(にな)い、籠城時は武器の所持を禁じられて、当主の手伝いや身の回りの世話をする。もし当主が死傷して戦えなくなった場合、彼等が主君の承認を得て甲冑や武器を継承し、家は守られる。だから、武者達は安心して戦うことができるのだ。非戦闘員の殺傷は非常に不名誉な行為とされ、(まれ)に例外はあったものの、戦狼の時代でさえそれは守られた。

 豊梨家が武者を増やすのに子弟の徴用ではなく義勇の民を募ったのはこうした事情による。武家の仲間入りができる滅多にない機会とあって応募者は多かった。当主に男の家族がいなくても万一の時に養子にする者を用意しておくことが一般的なので、欠員はまず出ないのだ。

 吼狼国では鉄砲が普及せず、習熟が必要な弓や隊列の訓練が必須(ひっす)の槍が主な武器であり続けたので、武家は古くから専門職で民と分かれていて、収入も悪くなかった。武公の兵力削減令は、封主達の力を()いで平和を維持する目的もあったが、戦狼の時代に増え過ぎた武家人口を減らして武者達の待遇を改善し、他の産業へ人を振り向けるためでもあったのだ。影岡城の若者達が光姫を仰ぎ見るのは、まだ十八歳の美しい少女が、熟練者ばかりの武者達に負けない武芸の腕と勇気を持っているからだった。

 武者達の昼食は、塩のきいた大きな握り飯三つと大根の漬物五切れと大粒の梅干一つで、光姫も同量をもらった。普段は男達より小食だがここは戦場だ。激しく体力と気力を消耗するし、次にいつ食べられるか分からない。空腹では戦えないので、無理をしてでも腹に入れておく必要があった。

 家臣達に慌てずよく噛むように言いながら、梅干しをかじって握り飯を少しずつ水で流し込んでいると、戦っている間は気付かなかった周囲の音が自然と耳に入ってくる。気になるのは他の場所の戦闘の様子だ。どうやらどこも敵の猛攻にさらされているらしく、敵味方の鬨の声や悲鳴、無数の発砲音、弓や矢の唸りが重なり合って音の荒波となり、うねりながら四方から轟いてくる。

「みんな苦戦しているようね」

 恵国軍の勢いは衰えていないようだった。既に相当の損害を与えているはずだが、敵は数が多い。午後も夕暮れまでこの調子だろうし、これから何日も続くかも知れない。しかも、敵がいつ温存している主力を投入してくるか分からないのだ。

「これは、今日より明日の方が、明日より明後日の方が厳しい戦いになるわね。やはり冒進という将軍の時とは疲れ方が違うわ」

 光姫は武者達の疲労が心配だった。敵兵は全員が常に戦っているわけではなく、光姫の担当する東側では恒誠や家老達の予想通り四千人ほどが千人ずつ入れ替わりながら攻めてきているようだったが、城内の武者達はほとんど戦い通しだった。もちろん交代で休息を取らせているが、敵兵が城壁にはしごを立てかけてきたら休んでいるわけにはいかなくなる。夜も一部の武者は起きていて警戒しなくてはならないし、敵の包囲下では安心して熟眠できない。ほとんどが初陣の天糸衆はなおさら興奮と恐怖で眠れないだろう。

 戦いが長引けば、疲労と不眠が積み重なって武者達の体調は悪化していく。皆が疲れ切ったところへ総攻撃をされたら持ちこたえられないかも知れない。

「午後は無理をしてでもみんなに長い休憩を取らせなくてはいけないわね」

 従寿に言った、その時だった。

 突然、戦場の音が数倍に膨れ上がった。まるで両耳に大きな法螺貝(ほらがい)を当てたかのように、音量がいきなり増大したのだ。山鳴りのような激しい鬨の声と数千の銃声に光姫は思わず身震いし、音の方向を探すと、従寿が立ち上がって辺りを見回しながら言った。

「これは後ろの方角、つまり東側からですね」

「敵の総攻撃でしょう」

 お牧の表情は硬かったが、予想されていたことなので声は落ち着いていた。

「いよいよ始まったのね。思ったよりも早かったわね」

 光姫は最後の握り飯を手に持ったまま、状況をつかもうとその音に耳を澄ませた。周囲の武者達も不安そうに後方を見ている。

 ところが、そこへ前方で大きな鬨の声が起こった。

 塀際の武者が叫んだ。

「姫様、敵です! こちらにも敵が攻めてきます! これは多い! なんという数だ! 今までの五倍、いや、十倍はいます!」

「ええっ、どういうこと? 敵の主力は今、東側を攻めているはずよ?」

 光姫達は慌てて塀際へ走って狭間から外をのぞいた。一万人を軽く超える大軍が千本近いはしごを持って盾や槍や鉄砲を構え、一斉に川へ飛び込んでくる。

「やられました。敵もさるものです」

 輝隆と具総が駆け寄ってきた。

「恒誠様は、敵は我々が疲れた頃に一ヶ所に総攻撃をかけてくるだろうとおっしゃいました。ですが、敵はこちらがそれに備えていると読んで、二方面から攻めてきたのです。恐らく、三万を二分したのでしょう。確かに、この小振りな城の一ヶ所にぶつけるには三万五千は多過ぎますからね。となると、敵の本陣や大将を守る兵士を除いても、我々の前にいるのは、今まで戦っていた四千と合わせて一万八千から九千ということになります。しかも、恒誠様は先程味方の遊軍一千全てを東側へ送ったはずです。となると、我々は二千だけで十倍近い敵に対処しなくてはなりません」

「姫様、これはちとまずうございますぞ」

 五十八歳の家老も顔が青かった。光姫は少し考えたが、すぐに顔を上げた。

「みんな、敵を近付けないことに集中して! 川から上がらせては駄目よ! こっちへ来ても空堀に下りさせないで!」

 武者達が、おう、と叫んで城壁に張り付き、敵に矢や石を浴びせ始めると、光姫は家老達の方を向いた。

「敵の接近を遅らせている間にあれをもらいに行かせましょう」

 従寿が尋ねた。

「あれって、もしかしてあのあれですか。俺達も使うのですか」

「ええ、あれしかないわ。輝隆さんは食事をしていた人達の半分を連れてすぐに倉庫へ行って。まだたくさんあるはずよ。お牧は女衆を指揮して、みんなに食べ物を配らせて。防御の合間に食べるように言うの。従寿さんは、恒誠さんにあれを使う許可をもらってきて。駄目だと言っても説得するのよ」

「その必要はない」

 横から割り込んだ声に振り返ると、恒誠が立っていた。

「こちらでもあれを使うよう、言いに来たのだ。すでに男衆に運ばせているが、手が足りない。輝隆殿、行ってくれるか」

「はい、すぐに」

 光姫に一礼すると、輝隆は食事の手を止めてこちらに注目していた武者達の半数に付いてくるように言った。残りは壁の持ち場に戻らせる。慌てて握り飯を口に押し込んだ武者達が跳ねるように立ち上がり、輝隆を追って走って行く。

「さあ、みんな、少しでも崖に取り付く敵兵を減らすのよ!」

 そう叫んで弓を取った光姫は、恒誠に尋ねた。

「これでいいかしら。他に何かもっといい手がありますか」

「いや、あれを使う以外にこの大軍を撃退する方法はない。あなたの出した指示が最善だろう」

 そう言うと、恒誠は頭を下げた。

「すまない。敵の策を読み違えた。勝戦(かちいくさ)が続いたことで慢心(まんしん)していたようだ」

 朝、敵軍師との対決を面白がっていた自分を反省したらしい。だが、光姫は首を振った。

「謝る必要はありません。私はあなたを信じ、頼りにしています。あなたがいなければこれまでの戦いに勝てませんでした。これからの戦いも同じです。恒誠さんは私達の希望なんです。それに、今はそんなことを言っている場合ではありません。とにかくここを守り切りましょう。反省はその後です」

 恒誠は顔を上げて光姫の顔をまじまじと見つめると、大きく頷いた。

「あなたの言う通りだ。あれが来たら使い方の指示は俺がしよう。少しだけ時間を稼いでくれ」

「任せて下さい!」

 光姫は大きな声で答えると、戦っている家臣達の後ろを走り回って声をかけていった。

「慌てずに落ち着いてねらいを付けなさい! 敵の組頭やはしごを持っている人に矢を集中して足を止めて! はしごを使おうと立ち止った時は当てやすいわ! 敵兵は決してこの崖を登れないから大丈夫よ! あれが到着すれば敵はすぐに逃げていくわ! それまで敵兵を近付けないで!」

 光姫が元気よく励ましていると輝隆が戻ってきた。

「姫様、持って参りました!」

 輝隆に続いて大きな革の袋を抱えた武者が百人ほど急ぎ足で歩いてくる。その後ろには(たきぎ)の束を持った者が五十人いて、最後の百人は寿司を作るような大きなたらいと陶器の火鉢を運んでいた。

「敵兵が崖に取り付き始めました! 既に三十本近いはしごが立てかけられています!」

 従寿が叫んだ。光姫は思わず恒誠を振り返ったが、若い兵法家は落ち着いていた。

「大丈夫だ! 十分間に合うから慌てるな! すぐにたらいと火鉢を並べろ!」

 恒誠の指示で地面にたらいが並べられ、皮袋の中身が次々に空けられていく。たちまち五十のたらいは黄色い粉で一杯になり、塊になっているものはひしゃくで細かく崩される。その横では五十の火鉢に火が起こされて、多数の薪に炎が移された。

「よし。ひしゃくと火ばさみを持って塀際へ行け!」

 たらいと火鉢は塀に沿って組まれた足場の上に運ばれて、戦う武者達の間に点々と置かれ、そのそばでひしゃくを持った武者と火ばさみを持った武者が五十人ずつ配置に付いた。

「ばらまけ!」

 恒誠が軍配を振るって大声で命じると、ひしゃくを持った五十人が粉をすくい、壁の上から崖の下へ何度も振りまいた。黄色い粉は風に巻き上げられて広がって、黒い溶岩の崖や空堀の底を黄金色に染めていく。

 恵国兵達は驚き、盾をかざしてその粉をよけようとした。だが、何も起こらないので不思議そうな顔になり、怖々とその粉に触れて害がないと分かると、ざっと体から払い落して、再びはしごを登り始めた。変な粉よりも敵の目の前で立ち止まる方がよほど危ない。空堀の外で様子を見ていた者達も続々と底へ下り、崖にはしごを立てかけていく。

(たきぎ)を用意!」

 敵兵のその動きを狭間から眺めながら、恒誠が慌てずに命じた。今度は火ばさみを持った五十人が火鉢の中から火の付いた木の棒を取り出し、塀の外へ突き出した。

「着火!」

 光姫と恒誠が頷き合い、声をそろえて叫んだ瞬間、五十本の燃えている薪が崖の下へ落とされた。

 途端に崖の周辺にいた敵兵が一斉に驚愕と恐怖の叫び声を上げた。黄色い粉に火が付き、崖全体が一気に紫がかった青い炎に覆われたのだ。火は恵国兵の体に付いた粉にも移り、黒い革製の防具や鉄の兜、そしてそれらからはみ出た髪や手足や顔の肌の上で燃え盛った。全身を火に包まれた多くの兵士が、理性を失った(けだもの)のような絶叫を上げながら次々にはしごから転げ落ちていく。空堀の底では周囲を火に取り巻かれた者達が、靴や足の防具をなめる高温の炎から逃れようと、堀の急な斜面を必死でよじ登ろうとしている。

 同時に、下から肉と革の焦げる匂いと、つんと鼻を突く卵の腐ったような異臭が黒煙と共に立ち上ってきた。猛烈な悪臭に光姫は思わず呼吸を止めたが、匂いは容赦なく鼻を刺激した。

「こんな匂いがするなんて……」

 光姫がうめくように漏らすと、お牧が口元を手拭き布で覆いながら心底不快そうに眉をひそめて頷いた。

 従寿が顔をしかめて鼻をつまみながら言った。

硫黄(いおう)が燃えやすいことは知っていましたが……」

 従寿は狭間から下をのぞき見て、ぞっとしたように体を震わせた。硫黄の青い炎に包まれた敵兵の姿は幻想的ですらあったが、その苦しみはひどく胸のむかつくその匂いで十分過ぎるほど伝わってきた。

 何せ、崖周辺にいた千人余りが生きながら燃やされているのだ。硫黄の高温の炎に取り付かれた敵兵達は、肌が焼かれ、ただれていく苦しみに絶叫し、必死で火を消そうと粉を払い、慌てて防具を脱ぎ捨てているが、硫黄は全身にかかっている上、細かいからどんな隙間にも入り込む。かろうじて空堀をよじ登ることに成功した者達は、大声でわめきながら次々に川へ飛び込んでいく。恵国軍はもちろん、光姫隊の武者達もその恐ろしい光景に度肝を抜かれ、中には口を押さえて吐き気をこらえたり、耐え切れずに目を背けたりしている者達もいる。

「薄々想像はしていましたけれど、これほど(むご)い光景とは。……あっ、申し訳ありません」

 輝隆がつい非難がましい声を漏らし、恒誠に慌てて謝った。平素落ち着いている彼には珍しいことだった。すると、従寿が額の油汗をぬぐいながら言った。

「でも、確かに効果は絶大ですね。さすがは恒誠様です。俺も火打ち石で火を起こす時は、おがくずに落ちた小さな火種を硫黄を付けた薄い木の板に移してかまどへ運びますが、こういう使い方は思い付きませんでした。言われてみれば、雲居国は活火山神雲山の麓で硫黄の大産地、倉庫には恵国へ輸出するためのものがたくさんありますもんね」

 具総がやや強張った顔つきながらも、さすがに感情の乱れを感じさせない声でこれに続いた。

「煮えたぎった湯や油のかわりに硫黄を使ったのですな。なるほど、湯や油より扱いやすく、冷めることもなく、保管や運搬も容易で、すぐに使用できます。上から振りまかれれば風に乗って広がり防ぎにくく、しかも高温で燃えて火がなかなか消えませぬ。わしのような臆病者はあの青い炎を見ただけで肝が冷えます。敵は大いに慌てておりますぞ」

「そうよ。これは戦だもの、恒誠さんを責めるのは違うわ」

 若い兵法家をかばった従寿と具総の言葉にすかさず光姫も頷いたが、正直なところ、これを思い付いた恒誠に鼻白(はなじろ)む思いをしたのも事実だった。敵兵を恐怖させ戦意を喪失させるという意味では間違いなく効果があるが、人が人に対してしてよいことの限界を超えているような気がする。刀を抜いて殺し合っている時は相手も人なのだなどと考えている余裕はないが、こうして安全な城の中から彼等の苦しみを眺めていると、あれを命じた恒誠や実行した自分達が、いや人間というもの自体が醜くおぞましい生き物に思えてくるのだ

「何をしている。今だ。一斉に矢を放て!」

 恒誠の声が恐ろしい光景を前に動けないでいた光姫達を急に現実に引き戻した。

「こ、この上、矢を射るのですか……」

 光姫は黒い軍配が指し示す先を眺めて思わず問い返した。

 確かに好機だった。崖の下の敵兵は炎の中で右往左往しているし、まだ川の周辺にいた者達も仲間が苦しみもだえる姿を見て立ちすくみ、戦意に冷や水を浴びせられたような顔をしていた。その上、空堀の中にいた敵兵は多くがのどを抑え、咳き込んだりあえいだりし、地面に倒れて起き上がれない者もいる。

 だが、光姫は敵に追い討ちをかけよと命じることをためらった。これ以上はやり過ぎではないかと思ったのだ。すると、主君の表情からそれを読み取ったのか、具総が尋ねた。

「恒誠様、燃やされていない敵兵が倒れているのはなぜでございますか」

「あれは焼けた空気だ。空気が濁っているのだ」

 ただ一人、少なくとも見かけ上は平然としていた恒誠は、素っ気なく感じるほど淡々とした口調で答えた。

「硫黄を燃やすと妙な空気ができる。それを吸っていると体に力が入らなくなり、やがて死ぬ」

「毒なのですか」

 光姫が思わず口を押さえると、恒誠は首を振った。

「いや、吸ってもすぐには体に変化はない。だが、長くその空気の中にいると息ができなくなる。その空気はくぼんだところに溜まりやすく、上には登ってこないから、城内の武者には影響がないはずだ」

「それで敵兵は動きが鈍いのですね」

「そうだ。ねらいやすいはずだ。敵に打撃を与える好機だ」

 これを聞いて、必死で自分の中の恐怖や不快感と戦っていた輝隆が、覚悟を決めた顔で言った。

「分かりました。姫様もおっしゃいましたが、ここは戦場です。皆の命がかかっています。敵に余計な情けをかけるべきではありません」

 まだそれに素直に頷けない光姫を元気付けるように、輝隆は言った。

「それに、今下にいる敵を追い払えば、今日はもう攻めて来ないでしょう。東の方が静かになっていますし」

 そう言われて振り返ると、あれほど激しかった後方からの戦いの声や音が聞こえなくなっている。やはり硫黄をまかれたそちらの敵は、攻撃の継続を断念したようだった。

「分かったわ」

 光姫は具総や従寿や青い顔のお牧を見回すと、武者達の方を向き、からからに乾いたのどから無理をして大きな声を絞り出した。

「みんな、硫黄のおかげで東側の敵は引き上げたわ。私達も敵を追い払い、この壁は決して越えられないことを思い知らせてやりましょう。そうすれば、もう二度と硫黄をまかなくて済むわ!」

 光姫は城壁の外を指差して叫んだ。

「全員、敵に矢と石を浴びせなさい!」

 その言葉で武者達は自分の役目を思い出して狭間に跳び付き、流れ込んでくる悪臭に顔をしかめながら、次々に矢や石を放ち始めた。

 光姫隊の攻撃が降り注ぐと、敵兵は見事に大混乱に陥った。慌てて逃げ出そうとする者、倒れた仲間を助けようとする者、組頭や仲間を探して辺りを走り回る者、指示を求めるように後方の将軍を振り返る者、いずれにしても、敵にはもはや統制も軍律も命令系統もなかった。

 それを見て、眼下の凄惨(せいさん)な光景に滅びの神黒角龍王(くろづのたつおう)の支配する世界を垣間見(かいまみ)た思いがしていた武者達は、これで今日の戦は終わるだろうと実感し、元気を取り戻した。こんな闇獄(あんごく)絵図を繰り返さないためにも、敵に今回のような攻撃方法では駄目だと理解させる必要がある。武者達は二度と来るなという思いを込めてねらいは付けずに矢を乱射し、敵兵を川の向こうへ追い払った。

 河原に敵がいなくなると光姫達は景気付けに鬨の声を上げ、なおしばらく警戒したが、敵の再襲撃はなかった。どうやら東側の戦況が伝わって引き上げていったらしい。やがて、正面や後方を攻めていた敵も撤退していき、城の方々で勝利の鬨の声が湧き起こって、影岡城は歓声に包まれた。

「とにかく撃退しましたな」

 具総がほっとしたように言うと、従寿が頷いた。

「初日は俺達の大勝利ですね。でも、かなり危なかったなあ。恒誠様のおかげで命拾いしましたよ。あの方がいる限りこの城は難攻不落ですね」

 すると、お牧が眉をつり上げた。

「従寿さん、そういう言い方は感心しません。今日勝てたのはみんなが協力して頑張ったからです。もちろん硫黄の効果は大きかったですが、戦った全員をほめるべきです。組頭をねらわせたのも上手くいきましたし、姫様は十九人に矢を当てました。あなただって随分奮戦していたではありませんか」

 輝隆が「その通りです。みんなの力で得た勝利ですね」と言った。

「しかし、硫黄が敵の撤退の決め手になったのは間違いありません。敵はこれでもう同じ攻め方はしてこないでしょう。本当に驚くべき武略です」

 光姫は輝隆の視線の先を見て、彼がそう言った理由を理解した。これまで光姫と共に戦ってきた馬廻り衆はもちろんのこと、初陣の天糸衆の武者達まで、恒誠を畏怖と尊敬のまなざしで仰いでいる。傷付いた武者達を運んだり、新しい矢や硫黄の袋を持ってきたりで行き交う男衆や女衆も、改めてこの若い兵法家の実力を思い知らされた顔をしている。()の当たりにした光景の(むご)たらしさが、かえって恒誠への信頼と期待、勝利への希望を確かなものにしたらしかった。

 光姫は恒誠に目を向け、白旗を掲げた敵兵が空堀から負傷者を救出する様子を眺めるその横顔にかすかな憐憫(れんびん)悔悟(かいご)を発見して、はっとした。何かに耐えるように唇は固く結ばれ、軍配を握る手が震えている。

 恒誠は硫黄を使えばどうなるかを一番分かっていたはずだ。それでも迷いなく使用を命じたし、その効果を最も信じていた。使わせたことを後悔してはいないだろう。だが、あの無数の焼け焦げた死体と、辺りに立ち込める今日の夕食がまずくなりそうな悪臭という結果を前に、何も感じなかったはずはない。彼の気持ちは、多くの武者達を戦場に送り込み、戦わせ、傷付け死なせている光姫達武将級の者達こそが、最も理解し、分かち合うべきものだった。

 恒誠は光姫の視線に気が付き、感情を顔に出してしまったことを恥じるように、横を向いて表情を隠した。光姫はその背中に慰める言葉をかけようとして思い直し、いつの間にか同じようなやさしい顔をしている輝隆や具総や従寿やお牧の視線の後押しを受けて、六つ年上のはとこに歩み寄り、隣に並んだ。

 恒誠がちらりと自分を見たことを感じながら、光姫は視線を崖の下へ注いだまま言った。

「今日はあなたのおかげで勝てました。ありがとうございました」

 恒誠が何かを言おうと口を開きかけたが、それが言葉になる前に、光姫は先を続けた。

「ところで、敵は明日、どう出てくると思いますか」

 一瞬驚いて言葉に詰まった気配がしたが、苦笑するような小さな溜め息が聞こえ、若い兵法家は空堀の底へ答えを返した。

「明日は攻めてこないだろう」

「どうしてそう思うのですか」

 光姫は敵兵の黒い鉄の兜を眺めながら更に尋ねた。

「予定が狂ったからだ。恐らく、敵は数日間今日の攻め方を繰り返すつもりだったに違いない。あわよくば城を落とし、それがかなわなくとも、相応の損害と恐怖をこちらに与えて士気を下げようというところだろう。だから苦戦は覚悟していたと思うが、ああいう反撃は予想していなかったはずだ。だが、まんまとこちらの策にはまり、逆に恵国軍の兵士達に硫黄に対する恐怖が広まってしまった。それでは城攻めなどできはしない。涼霊という敵の軍師がまともな頭脳の持ち主なら、怯えて腰の引けている兵士達を翌日も同じ目に遭わせてこの城への恐れと士気の低下を決定的にするような馬鹿なまねはせず、この攻め方は諦めて次の手を考えるだろう。だが、数日は続けるつもりだった作戦がたった一日で終わってしまったのだから、次の策の準備は整っていないはずだ。恐らく、兵士達を休めて体勢を立て直し、作戦を練り直して用意を整えるのに一日か二日はかかるに違いない。その間にこちらも矢を作り、壁を直し、空堀を掃除しなければな」

「では、次はどう攻めてくるか分かりますか」

 光姫が問うと、恒誠は頷いて、手にした軍配で上を示した。

「きっと、この後はあれが役に立つだろう」

「あれですか……」

 光姫は中郭の正面側の最も前にある巨大な投石機を見上げた。

「ああ、恐らく、敵は次は正面から来る。崖は登れないことが分かったからな」

「では、今度は私を正面に配置して下さい」

 光姫は恒誠の方へ体を向けた。

「あなたが私や実鏡さんにあの光景を見せまいと、反対側の守備に回してくれた配慮はありがたく思います。でも、私は一手の大将ですし、自分で望んでこの城に来たのです。絶対にお姉様を止めるという覚悟もあります。ですから、遠慮なく激戦になる場所に使って下さい。この戦に勝利して雲居国の民を守る責任を恒誠さん一人に背負わせはしません。私も将なのですから、その重荷を引き受けます。もし、私が頼りなくて重要な場所の守備は任せられないというのなら仕方がありませんが」

 恒誠は驚いた顔をしたが、頷いた。

「分かった。そうしよう。あなたは強いからな」

 恒誠は真剣な口調で言った。

「光姫殿は勇者だ。武芸も素晴らしいが、心が実に強い。これまでも俺の予想を上回る活躍をしている。だから、俺はあなたを頼りにし、信頼している」

 光姫は恒誠の本気を感じ、自分も正面から受け止めようと、じっと目を見つめ返した。

「先程あなたは俺を希望だと言ったが、俺は光姫殿こそがこの城にいる者達の希望だと思う。俺もあなたには随分と勇気付けられている」

 恒誠は頭を下げた。

「今回は余計な気を回してしまったようだ。すまなかった。光姫殿の覚悟は分かっていたはずなのにな。これからもよろしく頼む。もちろん、最も重要な場所をお願いするつもりだ」

「それは僕にもですよ」

 背中にかかった声に振り返ると、実鏡が貞備達を連れて立っていた。武者達の慰労と激励に城内を回っているらしい。

「僕はこの城の大将です。敵の矢弾(やたま)に身をさらす覚悟はできています。これまでもそうしてきたつもりです」

 刈茅池の合戦の時、諸将は留守番を勧めたが、実鏡は自分も戦場に行くと言い張り、敵の鉄砲の弾が次々に飛んできても後方に下がろうとはしなかった。十四歳の少年の決意と勇気は、影岡軍本隊七千の武者達を大いに奮い立たせた。家老の貞備達や豊梨家の家臣達は皆「ご立派になられて大殿もお喜びだろう」と喜び、合戦後一緒に祖父実護と父実脩(さねなが)の墓に(もう)でたのだ。

「恒誠さん。あなたは作戦を考える役目、実行するのは私達の役目です。どうか遠慮せずに命令してください。どんな難しいことでもやり遂げてみせます」

 光姫が実鏡と頷き合って言うと、恒誠は「分かった。君達を信じよう」と笑った。素直にうれしそうな笑顔だった。

「この団結力があれば、どんな敵にも負けませんね」

 いつの間にかそばにいた輝隆が言い、具総や貞備、主君達の様子を見に来たらしい師隆が大きく頷いた。

 と、そこへ、後ろから声がかかった。

「光姫様はご無事でいらっしゃいますか」

 白林宗明だった。こちらの様子を見に来たらしい。

「宗明様!」

 思い人がわざわざ来てくれたと知って光姫はうれしくなり、恒誠に深く一礼すると、そちらへ駆けていった。

 宗明はまだ濃く漂っている悪臭に顔をしかめていたが、光姫に気付くと例の爽やかな笑みを浮かべた。

「お元気そうですね。安心しました。こちらでも硫黄を使ったと聞きましたが、あのひどい匂いと惨たらしい光景を前に、光姫様が衝撃を受けておいでではないかと案じていたのです。あなたのご武勇はよく存じておりますが、純真な乙女にはあまり見せたくない光景でしたから」

「心配して下さったのですね」

「ええ、当然です」

 宗明はにっこりした。

「私はいつでもあなたのことを考えていますよ」

「まあ……」

 光姫は真っ赤になった。

「そんなことを言われると、恥ずかしいです……」

「あなたのような美しい方を気にかけずにいられる男はいません。すぐにでもこちらに駆け付けたかったのですが、正面から攻めてきた敵は随分しつこくて手が離せませんでした。もちろん、こっぴどく痛め付けて追い払いましたがね」

 宗明は余裕らしく笑うと、光姫の頬を見て言った。

「おや、ほっぺたに(すす)が付いていますよ」

「えっ? いやだわ。火鉢を運んだ時かしら?」

 光姫が慌てて手で頬をこすると、宗明は肩の手拭いを外して腕を伸ばし、「失礼します」と言って頬をぬぐってくれた。手拭いから男の汗の匂いがして、吸い込んだ光姫はくらくらした。

「あ、ありがとうございますっ!」

 びっくりするくらい浮付いた声が出て、戦場にあるまじきことだと自分で呆れた。薄汚れたみっともない顔に腑抜けた表情を浮かべているだろうと思ってつい身を引こうとすると、宗明は「もう少しですよ。まだ付いています」と近付いてきた。

 光姫はますます恥ずかしくなって耐えられなくなり、「も、もう結構です!」と叫んで跳び下がり、お牧のところへ走っていって後ろに隠れた。

 お牧は苦笑し、困った顔をしている宗明に頭を下げると、自分の手拭いを腰の竹筒の水で濡らして頬を拭いてくれた。火照った肌にひんやりした湿り気を心地よく感じながら、光姫は宗明をちらちらと見て目が合うと慌ててうつむき、どきどきする胸を押さえて、熱い耳も拭いて冷ましてくれないかしらと思った。

 その光景を、恒誠は無表情でじっと眺めていた。が、急にくるりと背を向け、上廓の方へ向かって歩き出した。実鏡はその背中を気の毒そうに見つめていたが、走ってはとこに追い付き、並んで歩き始めた。家老達は微妙な表情で顔を見合わせると、戦の後片付けの指示を出しに、それぞれの主君の後を追って、配下の武者達のところへ戻っていった。


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