(第六章) 四
四
冒進敗れるの知らせは、二日後の夜に千芽種城の禎傑の元に届いた。
「なにっ! 先鋒隊が敗北しただと!」
机に向かって執務中だった禎傑は、驚いて思わず筆を取り落とした。使者の到着を知って勝利の報告を聞こうと集まっていた将軍達も、意外な結果にざわめいた。
「は、はい。先鋒軍二万七千は影岡城の軍勢を城外におびき出すことに成功し、野原で合戦に持ち込みましたが大敗を喫しました。生き延びた兵士達は散り散りになり、後明国を目指して戻ってきております。幸い、敵は亡くなられた両将軍の軍勢をそれぞれ包囲して打ち破ったものの、自軍より多数の相手と二連戦したこともあって追撃はほどほどにして引き上げたため、多くの者が逃げ切れました。ですが、それでも恐らく三千人は失い、六千人以上が負傷したと思われるとのことです」
後明国から船と馬で急行してきた使者の下級武官は、叱るように尋ねられて青ざめ、声が震えていた。
「何ということだ!」
禎傑は思わず怒声を発したが、衝撃が去るとすぐに冷静さを取り戻した。若い武官が疲れ切っていることに気が付いて、禎傑は手元の茶碗に陶器の急須から冷めかけた恵国茶を注いで近くにいた将軍に渡し、恐縮する武官にその場で乾させると、「ご苦労だった。食事をしてゆっくりと休め」とねぎらいの声をかけて下がらせた。
「しかし、堂々と合戦して完敗、冒進も陸梁も討ち死にとは。三分の一の敵にどうして負けたのだ」
と禎傑が右に目を向けると、そばに控えていた涼霊は、少し青ざめていたものの、いつもの無表情で答えた。
「戦闘の経過を聞きますと、敵にすぐれた軍略家がいたようです」
「つまり、敵の作戦勝ちということか」
涼霊は「はい」と頷き、頭を下げて謝罪した。
「私が申し上げた兵数では勝てませんでした。誠に申し訳ございません」
「いや、お前のせいではあるまい」
禎傑は腕組みをして言った。
「潔く認めようではないか。相手はなかなかの強敵だったのだ」
衝撃が去ると、禎傑は腹を立てるどころかむしろ面白がるように不敵な笑みを浮かべた。
「ここまでが順調過ぎたのだ。武家の国にしてはあまりに歯ごたえがなかったからな。たまにはこういうことがなくては面白くない。だが、喜んではいられんな。藍生原の占拠は急がねばならん。俺はまだこの国を離れられんから、また誰かを派遣するか」
禎傑の視線を受けて、涼霊は進言した。
「それがよろしいと思われます。今度はもう少し多い、三万五千を向かわせましょう」
「それで攻め落とせるか」
「いえ、難しいでしょう」
幕僚長の言葉に、諸将は驚いた顔をした。
「影岡城の構造や、敵の採った防衛方法からしますと、攻略には相当の大軍が必要と思われます」
「だが、まさか、放置はできまい」
「はい。残しておくとやっかいな相手のようですので、少々損害は出ますが、いずれは攻め落とすべきと存じます。ですが、今は玉都攻略の拠点造りが優先です。影岡城へは抑えの兵を置いて、主力を進軍させましょう。城兵は九千程度のようですので、抑えに一万、拠点作りに予定通り二万五千、合わせて三万五千で足りると思われます」
「待って。影岡城は先に落とすべきよ」
それまで禎傑の左で静かに聞いていた華姫が口を挟んだ。
「光子達の実力はよく分かったでしょう。放っておいては危険よ。大軍を派遣して一気に攻略し、後顧の憂いを除くべきだわ」
前回と同じ主張に諸将はまたかという顔をしたが、華姫の予測通り冒進達は勝てなかったので、皆黙っていた。
「華子はこう言っているがどう思う」
禎傑が尋ねると、涼霊は感情の感じられない平板な口調で答えた。
「私はやはり藍生原への進出を優先すべきと考えます。既に手の国制圧から二十日が過ぎ、予定が大幅に遅れております。玉都の鷲松巍山の動きも気になります。幸い、影岡城の兵は少なく、残しておいても大したことはできないでしょう。今は小城にこだわっている場合ではないと思われます」
「それは違うわ」
華姫は反論した。
「光子は強いわ。明るさと前向きな行動力と武芸の腕から武者達に慕われるすぐれた将になると思っていたけれど、案の上、冒進達を討ち取った。しかも、あの子の武勇と人気を上手く活かせる助言者がいるようね。きっと、光子は私達の目的の邪魔になる。今の内に倒すべきよ」
「それほど妹君を恐れるのは何か具体的な根拠があるのか」
涼霊が尋ねると、華姫は首を振った。
「いいえ。でも、私はあの子をよく知っている。理由はそれだけで十分よ。光子を見くびると痛い目に遭うわよ。現に、私達は常勝の名声に傷を付けられてしまった。この上、あの子にはかなわないから勝負を避けたなどと噂されたら、吼狼国の武家を勢い付かせてしまうわ。私達はこれ以上負けるわけにはいかないの。何としてもあの子を討ち取って、恵国軍の方が強いことを証明し、抵抗する者の末路を吼狼国中に示すべきよ。それが、この先私達がこの国を征服していくために必要なことなのよ。それには、五万以上の大軍を派遣して圧倒し、影岡城を一息にひねりつぶす必要がある。私は、涼霊、あなたか頑烈将軍を派遣するのがよいと思うわ」
幕僚長は無表情で否定した。
「いや、それは駄目だ。五万を派遣するとなると現在殻相国にいる兵では足りず、田美国方面から一部を回すしかないが、それでは後方が手薄になる。今回の敗戦で我が軍の占領に不満を持つ武家や民が暴れ出さぬよう、にらみをきかせるためにも動かさぬ方がよい。かといって、まだこの年苗国の兵を戻すこともできない。冒進軍の兵達が逃げ帰ってくるのを待てば大軍の編成も可能だが、負傷者を手当てし装備をそろえて再出撃の準備を整えるにはかなりの時間がかかり、現実的ではない」
涼霊は禎潔に向き直った。
「よって、やはり、すぐに出撃可能な三万五千を派遣するのが妥当と思われます。主力には藍生原で砦造りを進めさせる一方、影岡城のそばにも防衛陣地を築いて敵を封じ込め、守将には挑発に決して乗るなと言い含めます」
「なるほど。どうやらそれしかないようだな」
禎傑は少し考えて納得した顔をし、まだ反対しようとする華姫を手で制した。
「華子、確かにお前の意見は正しい。影岡城もお前の妹もそのままにはしておけん。だが、城攻めには相当の準備が必要で、時間もかかる。我等がその城の攻略に躍起になっている間に、巍山が都から出てきてしまうかも知れん。藍生原の砦作りを遅らせるわけにはいかないのだ。ここは我慢しろ」
禎傑は将軍達を見回した
「問題は誰に任せるかだな。もう失敗は許されん」
諸将が息を呑んで指名を待つ中、涼霊が進言した。
「大将には班如殿を推薦致します」
なるほど、という声があちらこちらから聞こえた。五十代後半のこの武将は派手さはないが常に冷静沈着で、特に守備の戦いではねばり強さに定評があった。砦を築いてそこを守る役には適任と言えた。
「副将はどうする」
「何喬殿がよろしいでしょう」
自分の名を聞いてうれしげに胸を張ったのはまだ二十代半ばの将軍だった。武芸に秀で、防御は不得手だが積極的な攻撃を得意としている。やや勇んで突っ走りがちと評される何喬と慎重な班如を組み合わせることで、攻守のつり合いを取ろうというのだ。何喬が突出し過ぎないよう、大将の班如が手綱を引き締めてくれるだろう。
「影岡城への抑えは、孔蒙殿にお願いしましょう」
こちらは四十がらみの武将だった。取り立てて勇将でも知将でもないが堅実な用兵をし、その責任感の強さから禎傑の信頼が厚かった。
「三人、前へ」
進み出た三名の将軍に、禎傑は命じた。
「班如、何喬、孔蒙、お前達に藍生原への進出及び影岡城の抑えを命じる。俺が到着するまで築いた陣地をそれぞれ守り抜け。よいな」
「大任を預かりましたこと、光栄に存じます」
「敵が攻めてきましたら返り討ちにして後悔させてやります」
「敵城の抑えはお任せ下さい。必ずやご期待にお応え致します」
老将は落ち着いた渋みのある声で、若者は武功を上げてやろうという意気込みにあふれた口調で、四十代の将は頼もしげな口ぶりで返事をした。
華姫はそれを聞きながら、武名を上げた妹を思い、また失敗しなければよいけれどと、嫌な予感に溜め息を吐いた。
百合月二十日 三人の将軍は三万五千の軍勢を率いて月下城を出発した。恵国軍は西国街道を順調に進軍し、後明国を通過して、六日後の二十五日、雲居国へ入った。
国境を越えると、待ち構えていたように、影岡軍の騎馬の偵察隊が現れた。五十騎ほどの集団がいくつも周辺に出没し、あからさまに恵国軍の陣容や進路を調べていた。
捕まえようと兵を差し向けると、さっと逃げていなくなる。だが、しばらくすると再び現れて、距離を取りながら前や横をうろうろし始めるのだった。何喬などは随分腹を立てていたが、班如は味方は大軍、あのような小勢を相手にすることはない、もし襲撃されても対応できるように警戒を厳重にせよと命じて、やや速度を落として行軍を続けさせた。
やがて、西の空が赤くなり出した頃、恵国軍は霞野と呼ばれる野原へ到達した。全軍に停止と休憩を命じると、班如は後明国から道案内として連れてきた元冒進軍の兵士にこの先の地形を尋ねた。その説明では、少し進んだところに霞野川というやや大きな川があり、橋を渡って森の間の曲がりくねった細い道を抜ければ影岡の町はもう遠くないが、このままでは到着する前に確実に日が暮れるという。予定ではもう着いているはずの刻限なのに、敵の偵察隊を警戒しながら行軍したため大幅に遅れてしまったのだ。
班如はしばらく考えた末、今日は橋を渡らず、川の手前で宿陣すると決めた。森の中の細い蛇行した道で待ち伏せされるのを恐れたのだ。前回の戦いで敵は伏兵を使っているし、川向こうは影岡軍にとって庭も同然だから、夜陰に紛れて襲撃されれば苦戦は必至だ。敵は執拗な偵察の結果、こちらの陣容を詳しく知っている。その上、影岡城には高い櫓があるそうなので、たいまつを持って行軍すれば敵から丸見えだ。若い何喬は、「用心が過ぎますぞ。急いで藍生原へ進出するのが我等の使命、のんびりしてはいられませぬ。影岡の町まで一気に行ってしまうべきです」と文句を言ったが、慎重な班如はその意見を退け、川から少し離れた西国街道上の前泊村という大きな村を野営地に選んだ。
村を占領した恵国軍が夜露をしのぐための天幕と夕食の準備を始めたのを確かめると、影岡軍の偵察部隊は去っていった。だが、班如は警戒を解かず、兵を急かして暗くなる前に食事を終えさせ、まさかこれだけの大軍を攻撃してくる愚か者はおるまいと思いつつも、念のために兵士に五千人ずつ交代で警備するよう命じて、早々と眠りに就いた。
ところが、翌二十六日の早朝、地名の通り辺り一面を濃い霧が覆うと、それに隠れて影岡軍が奇襲をかけてきた。
三軒先が見えないほどの霧の中から突如現れた二千の騎兵は、慌てふためく恵国軍を嘲笑うかのように数手に分かれて村を駆け回り、まだ眠気の取れぬ顔で状況も分からぬまま逃げ惑う兵士達を次々に槍や弓の餌食にした。また、徒歩の兵四千や、鎧がばらばらで山賊のような風体の者達三百も槍や刀を手に陣内を我が物顔で走り抜け、各所に火を放ち、馬を繋いだ綱を切るなど暴れ回った。地形を知り尽くした影岡軍に比べ、三万五千の恵国軍は霧で互いに連携がとれず、組織的な抵抗ができぬままただ蹂躙されるばかりだった。
何喬は宿の農家に慌てて駆け込んできた部下に起こされ、報告を聞いて激怒した。少数の敵に思いのままに翻弄されている味方の不甲斐なさが不愉快だったのだ。さっさと兵を呼び集めて迎撃せよと命じると、何喬は鎧を手早く身に着けて外へ飛び出し、既に甲冑姿で馬にまたがっていた班如や孔蒙と協力して兵士達に点呼をとらせ、隊列を組ませようと走り回った。
やがて、槍兵や鉄砲兵が集まって密集隊形を作り始めると、影岡軍も集結し、これ以上の長居は無用とばかり、騎乗した赤と白の鎧の若い女を大将に引き上げにかかった。
それを知った何喬は、班如に追撃の許可を願った。やりたい放題されてみすみす逃がすのが癪に障ったのもあるが、若い何喬は他の将軍達から一段下に見られていたので、大きな手柄を立てて実力を認めさせたかったのだ。それに、何喬は武官の名門に生まれながら、新皇帝に殺された皇子の配下にいたため出世の道を絶たれていた。だから、禎傑の下に配属された時、この大遠征で活躍して、栄誉と富貴を手に入れてやろうとむしろ喜んだ。だが、後続軍に回されて狐ヶ原には参加できなかったし、今回の任務は砦の建設と守備が役目で派手な武功は望めなかったから、目の前にいる格好の獲物を逃す手はなかった。
「敵が城を出てきている今が好機ですぞ。ここでやつらを叩いておけば後が楽になります。それに、あの女は冒進殿や陸梁殿を討った光子姫に違いありませぬ。討ち取って敵を取りましょうぞ」
何喬が意気込んで訴えると、班如は困った顔でしばらく考えたが、どの道これから影岡に向かうのだし、やられっ放しで反撃せずに敵をそのまま帰しては士気に関わると思い、結局渋々ながら追撃を許可した。
「ただし、敵の伏兵には気を付けろ。冒進殿もそれにやられたのだからな。わしもすぐに後を追うが、くれぐれも功を焦って突出し過ぎるなよ。深追いはせず、ほどほどのところで戻ってこい」
班如は息子のような年の副将に忠告した。
「もちろんです。今回の我々の任務は砦を築いて守り切ることです。無駄な犠牲は出さぬよう、適当なところで引き上げますよ」
何喬は約束したが、内心では絶対に光姫を討ってやろうと決意していた。
すぐに、襲撃してきた敵の倍に当たる一万二千の兵を率いて、何喬は村を後にした。追撃部隊としては多いが、影岡城の敵兵は九千ほどなので、伏兵がいても確実に勝つためにはそれぐらいの兵力は必要だった。
前方を進む敵の姿は霧のためにおぼろげにしか見えないが、百人ほどで殿軍を務める光姫の紅白の鎧と薄桃色の鉢巻きはよく目立った。影岡軍は騎馬や徒歩の隊がきちんと列を作って、悠々と道を東へ戻っていく。山賊のような者達はどこかで別れたのか、いなくなっていた。
「急げ、急げ! 逃がしてはならん!」
何喬は幾度も兵士達を叱咤した。砦の守備が任務の部隊だから、槍兵や鉄砲兵ばかりなのだ。どちらも重い武器を抱えて足が遅い。このままでは城に逃げ込まれてしまうかも知れなかった。
やがて霞野川に差しかかった。影岡軍は橋を渡り、対岸の広場のような草地を通り抜けて、森の間の細い道へ入っていく。何喬も急いで川を越えた。
霞野川にはこの橋の他に二つの橋がある。だが、少し上流の岩場のつり橋は、昨日の物見の報告では踏板がなく、現在は使われていないようだし、下流の橋は川が海に注ぐ辺りにあって随分と遠い。ということは、この橋を封鎖すれば途中で列を離れたらしい敵の山賊達は影岡に戻れない。何喬は千人を守備に残し、山賊の相手は班如に任せることにして、草地を抜けてまっすぐに森の間の道へ入っていった。
街道は細く、両側に葉を茂らせた木々が迫っている。霧はますます深くなり、道が蛇行していることもあって視界はひどく悪かった。うっかりするとどこが道なのかさえ分からなくなるほどで、霧の間に見え隠れする光姫の紅白の鎧もしばしば見失いそうになった。何喬は班如が伏兵を警戒していたことを思い出して全体の速度をやや落とし、兵士達を百人ごとに固まらせて互いを見失わぬようにさせながら、それでも可能な限り急いで敵を追っていった。
と、大きく右に湾曲した場所を抜けたところで、前を進む兵士達が立ち止った。
「どうした」
苛立った何喬が先頭へ駆けていって尋ねると、兵士達は不安と不思議の入り混じった表情で答えた。
「敵がいなくなりました」
「なんだと?」
何喬は慌てて前方へ目を凝らしたが、霧で何も見えなかった。
「連中は土地勘がある。さては速度を上げて、この霧の中で我々を引き離すつもりだな」
何喬は唸った。
「だが、まだそれほど遠くには行っていないはずだ。急げば追い付けるに違いない。手柄の種を逃してなるものか」
何喬は忌々しげにつぶやくと、兵士達に更に警戒を厳重にして足を速めよと命じたが、濃霧の中、敵の奇襲に備えながらの行軍はゆっくりとしたものにならざるを得ず、森を抜けるまで随分と時間を要したのだった。
一方、班如は急いで兵士達に朝食をとらせると、光姫達の襲撃による怪我人や工作隊など三千人を村に残し、建設用の工具や食料などを持って後から来るように言い置いて、孔蒙と共に残り二万を率いて村を出た。何喬からの伝令で敵の一部がどこかに隠れている可能性があると聞いたので、用心しながら霧の中を進み、霞野川までやってきた。
橋の守備兵から何喬はもうずいぶん前に渡ったきり戻ってこないと聞いて班如は苦笑いし、朝食もまだの兵を率いて手柄を焦って失敗せねばよいがと案じながら、自分も川を越えることにした。先に行った何喬が心配なので、対岸で待つことにしたのだ。何喬が戻ってきたら、彼に先導させて影岡へ向かえばよい。
渡る前に念のために橋を調べさせると、欄干が妙にぬるぬるするが、恐らく湿気よけの油で、踏み板には塗られておらず渡るのに問題はないと報告があった。ならば安心と、まずは孔蒙の部隊一万を先に対岸へ向かわせ、自分の隊はその後に続くように命じた。
やがて、孔蒙隊が渡り終えた。続いて自隊の兵士達に前進を指示し、少しずつ橋を越えていくのを待ちながら、霧にかすむ川向こうに目を凝らしていると、突然、耳を覆いたくなるような轟音が起こり、兵士達の悲鳴が辺りの森に響き渡った。
「何事だ!」
班如は慌てて振り向いて目の前の光景に目をむき、対岸の鬨の声に愕然として、影岡軍が準備万端整えて待ち構えていたことを悟ったのだった。
「敵を上手く撒きましたね」
右を警戒しつつ従寿がささやいた。
「あのまま前進してくれるでしょうか」
左を守るお牧は不安そうだった。
「大丈夫だと思うわ。だって、この霧だもの」
森の中の獣道を進みながら、光姫は答えた。
「まさか、途中で横道へ逸れて川の方へ戻っているなんて分かりっこないわ」
「ええ、その通りです」
楢間惟鎮がすぐ後ろで答えた。奇襲部隊六千の内、前の方を歩いていた徒歩武者達は霧に紛れて少しずつ左右の森に消えていき、今頃は実鏡達のところへ戻って持ち場に付いているはずだ。森の中にはあらかじめ恒誠の指示で片方の端を焦がした木の枝を数歩おきに置いて道と方向を示してあるので、武者達はそのどれかを見付けて指示の通りに進んでいけば、霧の中でも迷うことはない。光姫が今率いているのは最後に残った騎馬武者二千だけだった。道が大きく曲がっているところで一気に加速して恵国軍と距離を取り、予定の場所で赤い大きな布を広げていた義勇民達の合図に従って森の奥深くへ駈け込んだのだ。
「この森は通い慣れた商人や地元の者でさえ、霧が出ると迷うのです。土地勘のない者には、自分が今どの辺りにいるかも分かりませんよ」
自信たっぷりの惟鎮を見て、福子が笑みを浮かべた。
「実は兄も何度も迷っているんですよ。朝早くこの街道に入り込んで道を失い、霧が晴れてからやっと帰ってきたこともあります」
「それを言うなって」
惟鎮は頭を掻いた。
「しかし、またも恒誠様の予想が的中しましたね。『前回敵将を討った光姫様が攻めれば必ず追ってくる。しかも全軍でなく、一部に違いない。恐らく三分の一の一万二千程度だろう』とおっしゃいましたが、まさにその言葉通りになりました」
従寿が頷いた。
「確かに、六千に確実に勝つには一万くらいは必要です。こちらが全軍でないことで伏兵を警戒すれば一万二千は妥当な数とはいえ、やはりどれだけの敵兵が追ってくるか心配でした。でも、この通り見事に三分の一を引っ張り出すことができました。しかも、ねらった通り朝食をとらせずにです。これで我々の勝利は確実ですね」
惟鎮はしみじみと言った。
「本当に読みがよく当たります。恒誠様の下では負ける気がしません」
「同感です」
従寿も心底感心しているようだった。
「光姫様もそう思いませんか」
「そうね。恒誠さんがいる限り、私達に負けはないわね」
光姫は周囲の武者達の士気を考えて元気に答えたが、内心は複雑だった。恒誠を素直に称讃する気にはなれなかったのだ。
刈茅池の合戦の後、勝利に沸く光姫達に、恒誠は「喜ぶのは結構だが、戦いはまだ終わっていない。すぐに敵の新手が襲来するはずだ」と言った。
「我等を全力で攻め滅ぼしに来るか、抑えの兵を置いて都への道の確保を優先するか、それはまだ分からないが、いずれにしても、今回以上の大軍になることは間違いない。対策を急ぐべきだ」
武者達の気を引き締めた恒誠は、この作戦を説明し、準備の指揮をとった。
果たして八日後、恵国軍の第二陣が月下城を出発したとの報が入った。恒誠は敵が雲居国に入ると少数の偵察部隊を送り、敵に警戒させることで進軍速度を調整して橋の手前で野営するように仕向け、光姫達に奇襲をかけさせたのだ。
今回も全てが恒誠の計画通りに進んでいた。そして、それが武者達に力を与えている。全員が恒誠を信じ始めたことで、様々な所属の者の寄せ集めである影岡軍に絆と連帯感が生まれ、士気を高揚させているのだ。
光姫は感嘆していた。味方に勝利を確信させ、それを実現してしまう恒誠は、まさに名将ではないかと思うのだ。だが、どうしてもどこかひっかかった。囮にされたことはもう怒っていないのに、彼を肯定すると何かに負けてしまうような気がするのだ。光姫はなぜそう感じるのか不思議で、心がすっきりしないのだった。
お牧の向こうにいる宗明へ目を向けると、視線に気付いた浪人衆の将は苦笑した。彼もあまり喜べないのだろう。
「これなら、我々だけで恵国軍を吼狼国から追い払うこともできるかも知れません」
光姫の気持ちに気付かない従寿が興奮気味に言った時、前にいた輝隆が振り返った。
「そろそろ橋に出ます。どうやら、もう始まっているようです」
前方から鬨の声や剣戟の音が聞こえてくる。
「そうみたいね」
頷いた光姫は、後方へ大声で叫んだ。
「みんな、戦闘開始よ。急ぎましょう!」
大きな返事があった。光姫は、弓を背中から取って矢を握ると、命令した。
「敵を包囲している味方に加勢します。全員、速度を上げて!」
言うなり、腹を蹴って銅疾風を走らせた。光姫隊二千は森を抜けて街道に戻ると、曲がりくねった細い道を一匹の大蛇のようにうねりながら全速力で走り抜け、橋のたもとの合戦場へ駆け込んでいった。
その少し前、鎧姿の実鏡は、霞野川の橋のすぐ上流で、影岡側の丘の森に隠れて、橋を渡ってくる恵国軍を見下ろしていた。
辺り一面を白く覆う濃い霧の下、黒い鎧の人影が眼下のやや広い草地に次第に増えていく。実鏡は大木の横からのぞかせていた首をひっこめ、隣で腕組みをして木の又の間から同じ光景を眺めている恒誠を見上げてささやいた。
「まだですか」
「もう少しだ」
相変わらず小袖の上に胴当てをして手に黒い軍配を持っただけという軽装の恒誠は、先程からこちらの岸に渡ってきた敵兵を数えていた。橋を見下ろす位置にあるこの小高い丘からは、おぼろげにだが恵国軍を眺めることができる。一人一人の兵士を見分けるのは不可能だが、今回襲来した恵国軍の一隊の人数は一千人くらいと偵察で判明しているので、整列して後続を待っている部隊の黒い塊を数えることで、概数をつかもうとしているのだ。
「先程光姫殿を追っていった者達が一万二千。本隊は全軍が来たとして二万三千。半数は渡らせたい」
言いながら、恒誠は影岡の方を気にしていた。霞野川の朝霧はさほど長くは続かない。霧が晴れれば光姫隊が道の先にいないことはすぐに分かり、追撃していった敵部隊が戻ってきてしまう。あまり時間に余裕はなかった。
「もういいのではないですか」
安漣が言った。両岸の黒い影は同じくらいの数になっていた。それを確認して、恒誠は頷いた。
「後から来たのが二万、その内一万ほどが渡ったか。よし、よかろう」
実鏡は後ろを振り向いて楢間惟延に言った。
「三百数えたら合図して下さい」
「かしこまりました」
主君が護衛の武者達と森を下りていくと、次席家老は目を閉じて指を折り始めた。ぶつぶつと数をつぶやいていた惟延は、突然かっと目を見開くと、そばにいた武者に鋭く命じた。
「綱を引け!」
「はっ!」
その武者は部下四人と一緒に、木に結び付けられていた二本の綱の内、赤い方へ飛び付いて思い切り引っ張った。この綱は何度も滑車を経ながら丘を下って、川岸にいる仲間のそばの鈴へつながっている。
やがて、返事に綱が引き返されると、下方で大きなものが動き出した。釣り舟を八艘くっ付けた上に高い櫓を組んだものだ。十人ほどが乗り込んで、川の上を滑らせていく。
と、急に櫓が燃え上がった。櫓には油をたっぷり含ませた藁の束がたくさん巻き付けてある。信心深い豊梨家の家臣達の主張で吼える狼の形に作られたそれへ、数人が同時に火を付けたのだ。たちまち巨大な火の柱となった櫓は流れに乗って川を下り、橋に向かって勢いよく進んでいった。乗っていた者達は川に飛び込み、すぐに岸へ泳ぎ着いた。
突然現れた巨大な炎の狼に、橋の上の恵国兵達は口々に驚愕と恐怖の叫び声を上げていたが、接近してくると慌てて逃げ散った。
そこへ、燃え盛る櫓が突っ込んだ。狼の咆哮のような山を震わせる大音響が轟いて、橋は炎に包まれ、見る間に崩れ落ちた。あらかじめ欄干や踏み板の裏面に油を塗り、要所の釘を抜いてあったのだ。櫓は川に沈んだが、橋は中央で分断され、ほとんどの踏み板が川に落下して流されてしまい、もはや渡ることは誰の目にも不可能だった。
それを見た瞬間、実鏡が立ち上がった。先程恒誠と別れて大急ぎで丘を下り、橋の川上側の森にひそむ武者達と合流して、草地に接近していたのだ。
「全軍、突撃!」
実鏡が真っ先に飛び出すと、貞備が破れ鐘のような大声で「若殿に続け!」と絶叫して後を追った。陣太鼓が激しく打ち鳴らされ、三千五百の伏兵が橋に気を取られている恵国軍へ槍をそろえて殺到した。
同時に、広場の川下側の森に隠れていた三千も一斉に森を飛び出した。たちまち激しい戦いが始まったが、たった今炎の狼と崩れ落ちる橋に度肝を抜かれたところへ不意を打たれ、しかも対岸の味方と引き離されて退路を断たれた恵国軍の方が、圧倒的に劣勢に立たされたのは当然だった。
「お待たせしました!」
そこへ、光姫率いる騎馬隊二千が現れた。護衛の武者に囲まれた実鏡が貞備と共に指揮をとりながら手を振ると、光姫は大きく頷き、銀炎丸や従寿やお牧を従えて敵陣へ躍り込んだ。
孔蒙は影岡側の草地で渡ってきた部隊を整列させていたところへ、突然橋が炎上し伏兵に襲われて、驚愕のあまり立ち尽くしていた。が、部下に対応を問われてようやく我に返ると、慌てて迎撃体勢をとるように指示した。
「ひるむな! 対岸の味方がじきに助けに来てくれる。それまで耐え切れば我々の勝ちだ。各自必死で持ち場を守れ!」
だが、時既に遅かった。濃霧の中、敵の数も味方の位置も分からぬ状況で三方から包囲された孔蒙隊の兵士達は混乱の極みにあり、敵の鬨の声と味方の悲鳴に怯えながら、それぞれが生き延びるために必死で槍を振るうだけになっていた。
「これはどういうことだ」
燃え盛る橋のたもとで班如は呆気にとられていた。
橋炎上と同時に対岸で鬨の声が上がり、霧でよく見えないが、味方が川岸の草地で激しい攻撃にさらされているらしい。向こう岸には孔蒙隊一万と何喬が残した橋の警備兵一千、それに自隊の先頭の一千ほどがいるから数では敵より確実に多いはずだが、川越しに聞こえてくる兵士達の声には恐怖と動揺が感じられた。濃霧と奇襲に混乱しているのだ。
このままでは対岸の一万二千が壊滅してしまう。常に冷静沈着な班如もこれには焦ったが、すぐに味方を救う方法を思い付いた。敵のねらいは明白で、橋を落として味方を二つに分け、各個撃破するつもりなのだ。ならば、急いで川を渡って孔蒙軍と合流すればよい。陣形を守った味方が駆け付けてくれば兵士達は安心するだろうし、数では敵の倍以上になる。それに、川霧は通常長くは続かない。霧が晴れれば数にまさる味方の勝利は疑いない。
対策は決まったが、問題は橋が使えないことだった。水に入って渡るしかないと思い、部下に川の様子を見に行かせると、水は胸当たりまで来るが流れは穏やかで、どうにか渡れるだろうと報告が来た。
班如はほっと胸を撫で下ろし、全兵士に渡河を命じた。
「まずは槍兵を先に渡し、鉄砲隊はその後に続け。焦るな。慌てるな。孔蒙隊はそれほど弱くない。我々が駆け付けるまで持ちこたえるはずだ。流れに負けぬよう、隊列を崩さずゆっくりと進め!」
兵士達は部隊ごとに固まって川に入り、慎重に進んでいく。班如は苛立つ心を抑えてそれを見守った。
霞野川は河原は広いがさほど大きな川ではないので、すぐに先頭の部隊が向こう岸に上がった。それを見て、班如は言った。
「では、わしも行くとしよう。恐らく孔蒙殿は自分の隊のことで手一杯だろう。わしの隊はわし自身で指揮をとらねばならぬ。皆も急いで追ってこい」
守りの戦に定評のある自分が行けば孔蒙隊の兵士達は心強く思うだろう。いずれは何喬隊も戻ってくるはずだ。そうなれば影岡軍は背後を襲われることになり、包囲されるのはあちらの方だ。
そう考えて心を落ち着かせつつ、本陣の守備兵に付いてこいと命じて班如が河原に降りた時、突然川上で数千の爆鉄弾が一斉に弾けるような轟音が聞こえ、地響きがした。何事かと目を向けた班如は、川をものすごい勢いで駆け下ってくる大量の水を見て蒼白になった。
「恒誠さんが二本目の綱を引いたのね」
山が崩れたかと思うほどのすさまじい音と共に押し寄せてきた激流を眺めて、光姫はつぶやいた。
予想はしていたが、恐ろしい光景だった。川に倒れていた櫓を一瞬で破壊して流し去ったほどの猛り狂う水の大蛇に、渡河中だった千を超える恵国兵が飲み込まれたのだ。恐らくそのほとんどは生きていないだろう。
ごうごうと音を立てて流れる川に、向こう岸の敵兵は茫然自失している。溺れた仲間を救うことはもちろん、対岸で窮地に陥っている味方を助けることもできなくなったからだ。川上に作ってあった堰を壊したので、水かさは大きく増している。霞野川は暴払山脈の雪解け水のおかげで本当は水量が豊富だ。特に夏は大人の頭を優に越える深さがあって、川幅も広いのだ。その水を冒進軍が来る前から堰き止めて貯めていたのだから、流れの勢いは激しく、当分収まりそうになかった。
味方の来援が不可能になり、孤立が決定的になったことで、こちらの岸の恵国軍は急速に戦意を低下させた。多くの兵士が戦列を離れ、森の中へ逃げ込んでいく。
敵の指揮官は無能だったのね。
光姫は恒誠の言葉を思い出した。
「敵の指揮官がすぐれていれば、橋が落ちて退路を断たれた時点で、川向こうの味方とは別行動をとるしかないと腹を決め、包囲に穴を空けて街道に逃げ込み、前進しようとするだろう。細い道に入ってしまえば我々の挟撃は意味をなさないし、先に行った味方と合流すれば、窮地に立たされるのはこちらの方だ。合計二万以上に膨れ上がった敵と、川と、対岸の敵部隊に挟まれ、影岡城への退路を失うことになるのだからな。我々を森の出口で待ち構えてもよいし、武者が出払った空の城へ一気に迫って攻略することも可能だ。守りを固めて、河口にある橋を渡ってくる味方の到着を待ってもよい。だが、恐らくそうはなるまい。見えるところにいる味方にすがろうとするだろう。対岸の仲間達が助けに来るまで頑張れば勝てるはずだと思うことで、気力を奮い立たせようとするに違いない。そして、援軍は来ないと知った時、敵は絶望して崩壊するはずだ」
またしてもあの人の読み通りになったわ。
光姫はもはや感心を通り越して感動の域にあったが、やはり素直に恒誠を認めることができない自分を感じていた。
だが、彼の武略は味方として心強かったし、これからの戦いに必要だ。自分も彼を信じたい。銅疾風を走らせながら光姫は恒誠を探したが、影岡軍の実質上の総指揮官の姿は見付けられなかった。
「光姫様」
輝隆が馬を寄せてきた。仲間達も集まってくる。
「そろそろ決着を付けましょう。時間が気になります」
「分かったわ」
光姫は頷いた。余計なことを考えている時ではなかった。先程森の中の道で撒いてきた敵部隊が戻ってくる前に、目の前の敵を打ち破る必要があるのだ。
「みんな、行くわよ。ねらいは敵の大将よ!」
振り返って叫ぶと、光姫は二千を率いて敵陣の中心を目指した。指揮官さえ倒してしまえば、残りは烏合の衆に過ぎない。あっと言う間に蹴散らせるだろう。
「敵の槍兵や鉄砲兵は任せるわ!」
弓や槍を持った武者達に叫ぶと、光姫は従寿とお牧を従えて前進した。光姫は騎馬兵が立ち塞がるたびに銀炎丸を吠えさせて相手の馬を驚かせ、足の止まった敵を駆け抜けざまに射落とすことを繰り返しながら、敵将を捜して走り回った。
やがて、燃え落ち激流に押し流された橋のたもとで、負けを悟った兵士達に見捨てられて途方に暮れていた孔蒙は、光姫達に包囲され、一斉に矢を浴びせられて馬から転げ落ちた。指揮官の死を知ると敵は総崩れになり、河口の橋から後明国へ戻ろうと、下流の方へ逃げて行った。
その頃、何喬隊は霧の中で光姫達を探していた。
何喬は焦っていた。折角手柄を立てる好機なのに、敵がいなくなってしまったのだ。自ら追撃を願い出ておいて敵を見失いましたなどと報告すれば、年長の将軍達に笑われるに違いない。絶対に逃すわけにはいかなかった。
何喬は兵を急がせて細い道をどんどん先へ進んだが、いつまでたっても敵に追い付けなかった。どういうことかと首を傾げながら馬を走らせていると、不意に森が途切れて霧が晴れ、視界が開けた。
夏の朝の快晴の空の下、雲居国中心部の田園地帯とその中央にある影岡の町を眺めて、何喬はぽかんとした。追ってきたはずの敵がどこにもいなかったのだ。今通ってきた街道は分岐のない一本道だから前方に姿がないとおかしいが、それらしい人馬の群は見えず、かといって、六千の軍勢を隠せそうな場所も見当たらなかった。
こういう気分を吼狼国では狐につままれたようと表現するのだと、狐ヶ原の会戦の後に仲間の将軍の一人に教わったことを何喬は思い出した。敵が姿を消した方法は分からないが、手柄を立て損なったことは間違いない。
班如と孔蒙の呆れ顔を想像して何喬は不機嫌になった。悔しいので、このまま影岡城まで進出し、どこかにひそんでいる敵が慌てて戻ってくるところを迎え撃とうかとも考えたが、空腹のまま長い距離を歩かされてへとへとの兵士達を見てやむなく断念した。
とにかく、彼等に食事と休息を与えなければならない。兵士達は数日分の食料を自分で持っているが、煮炊きするには安全で薪や水が手に入る場所が必要だ。ひとまずあの河原に戻って班如の本隊と合流しようと、何喬は馬首を返し、それでもいつ敵と出くわしてもよいように警戒させながら、そろそろ霧が薄れてきた森の中の道をゆっくりと戻り始めた。
ところが、いくらも行かない内に、前方から一人の兵士が息も絶え絶えに駆けてきて、川のそばで味方が伏兵に襲われていると告げた。驚愕した何喬は、すぐに敵が途中で引き返したと悟って激怒し、「小癪なまねを!」と叫ぶと、疲れきった様子の兵士達を急かして道を戻っていった。
そうして、曲がりくねった細い道を再び延々と歩いてようやく川岸の草地に着いてみると、戦闘の痕跡が残っているだけで誰もいなかった。取り敢えず一万一千の全軍を落ちた橋のたもとに集結させ、対岸の味方と連絡を取ろうと何喬が川岸に寄ると、向こうでは大声で叫んで何かを伝えようとしている。よく聞こえないので、部下に「何と言っているか分かるか」と尋ねたが全員が首を振ったので、どうにか川向こうと連絡を取る方法はないかと相談していると、突然背後で大きな鬨の声が上がった。
驚いて振り向くと、川上側と川下側の森と、今通ってきたばかりの道の上に無数の敵兵が現れて、一斉に迫ってくる。何喬はぎょっとしたが、すぐにこれが味方を襲った敵だと察し、仰天している兵士達に急いで迎撃体勢を取らせた。
だが、戦況は何喬隊に不利だった。兵士達は空腹で長い行軍をさせられて疲れ切っていたし、不意を突かれて包囲され、退路の橋がないのを見て孤立に怯えていた。一方、影岡軍は孔蒙隊を打ち破って残党を追い散らすと、傷の手当てをして休息をとり、恒誠が配らせた握り飯を食べて体力を回復させ、森の中に隠れて何喬隊を待ち構えていた。影岡軍八千五百は先程の勝利の勢いに乗って何喬隊一万一千を圧倒し、川に追い落とさんばかりに攻め立てて包囲の輪を縮めていった。
何喬は盛んに銅鑼を鳴らさせて味方を鼓舞し、馬で走り回って指揮をとったが、兵士達の戦意は低かった。死にたくないから辛うじて戦っているが、何かのきっかけがあればたちまち崩れて逃げ始めるに違いない。だが、何喬は自ら先頭に立った果敢な突撃で敵陣を切り裂くのは得意だが、弱っている兵士を奮い立たせて守りを固めるのは苦手だった。兵士達を怒鳴り付けて励ましながら、このままではまずいと、何喬は必死でこの厳しい状況を好転させる方法を考えていた。
すると、敵軍の間から白い狼を連れた紅白の鎧の若い女が前に出てきた。追っていた敵の大将だった。弓を手に、ニ十騎ほどを率いて辺りを駆け回り、防戦する恵国兵の隊列に横から接近しては弓を射て攪乱し、さっと引き上げていく。何喬は今頃になって光姫が姿を現したことを忌々(いまいま)しく思ったが、あいつを倒せば敵の勢いはなくなるだろうと思い付き、護衛兵達に声をかけて向かっていった。
相手もこちらに気付いたらしく近付いてくる。何喬はしめたと思い、百騎ほどで包囲しようとした。敵の女武将は馬を止め、仲間と共に一斉に矢を射かけてきた。女の矢は鋭く何喬はひやりとしたが、辛うじてかわすと、数の差が大きくかなわないと思ったのか光姫は馬を返し、狼や武者達と一緒に逃げ出した。
何喬は逃がしてなるものかと後を追った。敵将を倒せば味方は奮い立ち、勝利は自分のものだ。しかも、冒進達の仇を討つ大手柄を立てられる。
あの女は俺の手で仕留める!
何喬は全力で馬を飛ばした。速度に付いてこられずに次第に従う兵士が減ったが構わず、何喬は薄桃色の鉢巻きと長い黒髪をひらひらさせて走っていく女武将をひたすら追いかけていった。
と、光姫の速度がやや落ちた。さては馬が疲れてきたなと、勢い付いて距離を詰める。振り向いて何喬の接近に気が付いた光姫は、慌てた様子で後方を指差し、口にくわえた笛を三回鳴らした。すると、狼が了解したというように一つ吠えて主人のそばを離れ、やや遅れて何喬達の真横を走り始めた。それを確認すると、光姫は先程何喬隊が戻ってきたばかりの細い道に逃げ込もうと左へ曲がり、森の陰へ入って見えなくなった。
「狼の動きが怪しいな」
何喬は冒進が死んだのは狼が馬を驚かせたからだと聞いていたので用心した。
「横や背後から俺達を襲う気か。だが、あの女さえ殺してしまえばすむことだ」
何喬はすぐ足元を付いてきて幾度も大声で吼える白い狼を横目に見ながら、引き離そうと更に馬を煽り、曲がり角へものすごい速さで駆け込んだ。
と、その瞬間、馬が派手に転倒した。続く十騎あまりも次々に倒れていく。道に縄が張られていたのだ。横にいる狼を気にして前方をよく見ていなかったので、何喬は馬から勢いよく放り出され、地面に叩き付けられた。
「罠か!」
痛む体を無理に起こし、縄に気が付いてはっとした瞬間、周囲の森から飛び出してきた百名余りの武者に取り囲まれ、従寿ら五名の槍がその体を貫いた。
「む、無念……!」
十歩ほど先に、見事な銅色の馬を止めて息を弾ませている光姫と、縄を上手に飛び越えて主人のそばへ駆け付けた狼がいた。何喬は憎悪に満ちた形相で赤と白の主従をにらみ付け、手につかもうとするように腕を伸ばしたが、そのままばたりと倒れて息絶えた。
大将を討たれた何喬軍はたちまち崩壊し、呼び戻そうとする隊長達の努力も虚しく、兵士達はてんでんばらばらに逃げ始めた。それを蹴散らした影岡軍は、敗残兵による領民への狼藉を防ぐために一千五百を影岡の方へ返し、残り七千は森の中の道を通って上流のつり橋に出た。数日前に外して隠しておいた踏み板は、早朝の村襲撃後光姫達と別れて対岸にひそんでいた皆馴憲之など三百人と、影岡側の岸にいて火の櫓と川の堰の破壊を担当した伍助率いる義勇民二百人の協力によって既にはめ込まれていた。
影岡軍は彼等を軍勢に加えて対岸に渡り、橋を越えなかった無傷の恵国軍八千の後を追って、背後から急襲した。武将三名と兵士の四分の三を失い、悄然として村へ引き返しつつあった恵国軍は、影岡軍七千五百に不意を突かれると呆気なく崩れ、兵士達はたちまち逃げ散った。
それを追撃しながら影岡軍が前泊村に迫ると、村に残っていた三千の兵士は本隊の敗北を知って二倍の敵に怯え、工具も食料も全て捨てて後明国へ逃げ去った。光姫達は村の前で大きな勝ち鬨を上げると、恵国軍の残した物資を持って、悠々と城へ帰っていった。




